2009年9月18日金曜日

父の口づけ

私 達が天に行く時、大いなる祝福が私達のものとなります。この祝福とは何でしょう。これは受け入れられる特権です。「これは、その愛する御子によって賜わっ た栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである」。(エペソ1:6)ここで賜ったと訳されていますが、原語のギリシャ語では好意をもたれるとの意 味です。パウロがこの言葉を使い言いたかった事は「神が私達を善しと思い受け入れられる。私達はキリストにある者達なので私達は特別な存在である」事で す。

神 がキリストの犠牲を受けられたので神には信仰によってキリストに繋がっている人達をキリスト一人としてみています。私達の肉は神の目には死んだものです。 何故でしょうか。イエス様は十字架の上で私達の古い性質を捨てられました。ですから、神が私達を見るとき、キリストしか見えないのです。その代わり、私達 も神が私達をどのように見られるかを学ばなければなりません。このことは私達が自分の罪や弱さばかりに注意を傾けないで、キリストが私達のために十字架の 上でなされた勝利を見るべきだと言う意味です。

放 蕩息子の喩えはキリストにあって私達が天でどのような位置づけであるかを力強く示しています。よくご存知の話です。ある若者が父の遺産を貰い、放蕩三昧を して全て費やしました。そして、何もかもなくしたとき、情緒的にも、道徳的にも、物理的にも全て無くした時、彼は父の事を思い出しました。彼は父の愛を全 て無くしたと思いました。彼は父は怒り心頭で、自分を憎んでいると思いました。

聖書はこの若者は自分の罪に嘆き、叫んだと記しています。「私は何の役に立たない者だ。私は天に罪を犯した者だ」。この叫びは神からの後悔によって悔い改めを象徴しています。

放 蕩息子は自分に言いました。「立って、父のところへ帰る」(ルカ15:18)ここで彼は受け入れられる祝福を自分の者としているのです。解りますか。放蕩 息子は罪に背を向けて、この世を捨てました。そして、彼の父が約束した「開かれた戸」に与ったのです。彼は悔い改めつつ歩き、自分の祝福に与りつつあった のです。

次 に、放蕩息子にはどんなことがおきたのでしょうか。彼が未だ遠くにいる時、父は彼を見て、哀れみ走って駆け寄り、首を取り、口づけしました。(ルカ 15:20)なんと美しい光景でしょうか。罪を犯した息子は許され、何の罰や制限なしで受け入れられ、父に愛されました。彼が父の口づけを受けた時、彼は 自分が受け入れられた事を知りました。