2009年9月14日月曜日

互いを忍び合う

「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい」。(コロサイ3:13)

忍びあい、許すことは違うことです。忍び合うとはやり返す考えや行動をまったく止めることを意味します。言い換えれば、自分でやり返すことをせずに、傷つけられることを耐え、そのことを委ねきることです。

忍 び合うのは新約聖書だけにある考えではありません。箴言にも記されています。「『彼がわたしにしたように、わたしも彼にしよう、わたしは人がしたところに したがって、その人に報いよう』と言ってはならない。」。(箴言24:29) 私達はダビデの人生でそんなことに如何に対処するかのよき例を与えられてい ます。彼は邪まなナバルという人に憤慨していました。ナバルがダビデが助けて欲しい時、助けを拒んだからでした。ダビデは復讐を誓いましたが、神の導きに 従いました。「自分で復讐してはなりません。あなたの戦いを主が戦われます」。状況は時にあたって変わり、ダビデは神が介入されたことを賛美しまし た。(第一サムエル25章の話を参照)

ダビデは彼を追いかけるサウルにやり返す機会を、ダビデが隠れている洞窟でサウルがて いる時に与えられました。ダビデの僕たちが言いました。「これこそ神の導きである。神がサウルをあなたの手に渡された。今殺して、自分で復讐しなさい」。 ダビデは耐えました。殺す代わりに服の端を切って、彼がサウルを殺す事が出来たことの証明としました。そんな賢い行動が私達の敵を辱める神の方法であり、 当にダビデがサウルに服の端を見せた時、そのことが行われたのです。サウルは答えてこう言いました。「あなたはわたしよりも正しい。わたしがあなたに悪を 報いたのに、あなたはわたしに善を報いる」。(Iサムエル24:17)

私達が人を許すことについては主が言われた二つの命令を含めています。1.敵を愛し 2.彼らのために祈りなさい。「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」。(マタイ5:44)

ある牧師先生が賢いことをいいました。「もし、あなたが敵のために祈るなら、あなたは何でも出来ます」。私自身の歩みでもこの真理がいえます。

イ エス様は許すことが易しいとは言ってはいません。主が「敵を愛しなさい」と言ったことを記したギリシャ語は「愛」と言っても好意とかの意味してるのではな く、「道徳的理解」を意味しています。簡単に言うと許すとは「人の感情に促され」するのではなく、私達の心から自分の憎しみを取り除く道徳的な選択をする ことなのです。