2009年12月31日木曜日

神様の喜び

神様は民を愛しておられるだけではなく、私たち一人ひとりに喜びを見出して下さいます。神様は私たちに、大きな喜びを感じて下さいます。事実、神様は私たちを守り、救いだすことで幸せになるのです。

私はこの様な親の愛を、孫からの電話に出る時の私の妻、グエンに見ます。孫と電話で話す時のグエンの顔は、クリスマスツリーの様にパッと輝きます。そんな時の彼女を、電話から引き離すことは不可能です。たとえ「大統領が玄関にいらっしゃった」と言ったとしても、おそらく彼女は私を追い払って、会話を続けるでしょう。

どうやって、天の父が私に喜びを感じて下さるよりも、私の方が自分の子どもたちに喜びを感じていると、神様を責めることが出来るでしょうか。時に私の子どもたちは、私の教えと正反対のことをして私を落胆させました。しかし、たった一度でさえ、私は子どもたちを愛することを止めたり、子どもたちに喜びを感じなくなったりすることはありませんでした。ですから、もし完璧ではない父親である私が、この様な永続的な愛を持つことが出来るなら、いかに天のお父様は、彼の子どもである私たちに、さらに大きな愛を持って下さるでしょう。

ヨシュアとカレブは、イスラエルの民の最中に立ち、こう叫びました。「もし、主が私たちに喜びを見出してくださるなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。」(民数記14:8)何と単純でありながら、力強い宣言でしょうか。彼らは、「私たちの主は、私たちを愛し、喜びを見出して下さる。そして神様は、私たちのために、すべての巨人を打ち倒される。だから、私たちは障害物に目を向けてはなりません。私たちは、ただ主の愛に目を向けるべきなのです。」と言い切ったのです。

聖書のあらゆる所で、神様がいかに私たちに喜びを見出して下さるかが記されています。「(主は)完全な道を歩む人を喜ばれる。」(箴言11:20)「主は・・・正しい人の祈りを喜び迎えられる。」(箴言15:8)「敵は力があり、私を憎む者は勝ち誇っているが、(中略)主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる。」 (詩編18:17~19)

神様が私たちを愛しておられ、私たちに喜びを見出して下さると信じることは、絶対に必要なことです。そうすることで、たとえどんな状況におかれようと、それは私たちを愛される主の御心なのだと、最終的に納得し、受け入れることが出来ようになるでしょう。また荒れ野での学びから抜け出し、イエス様の愛に満ちた御腕の中に入ることが出来ます。そして主は私たちの悲しみを、喜びへと変えて下さいます。

聖書のあらゆる所で、神様がいかに私たちに喜びを見出して下さるかが記されています。「(主は)完全な道を歩む人を喜ばれる。」(箴言11:20)「主は・・・正しい人の祈りを喜び迎えられる。」(箴言15:8)「敵は力があり、私を憎む者は勝ち誇っているが、(中略)主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる。」 (詩編18:17~19)

神様が私たちを愛しておられ、私たちに喜びを見出して下さると信じることは、絶対に必要なことです。そうすることで、たとえどんな状況におかれようと、それは私たちを愛される主の御心なのだと、最終的に納得し、受け入れることが出来ようになるでしょう。また荒れ野での学びから抜け出し、イエス様の愛に満ちた御腕の中に入ることが出来ます。そして主は私たちの悲しみを、喜びへと変えて下さいます。

2009年12月30日水曜日

暗闇に打ち勝つ

闇に打ち勝ち、闇を追い払うことが出来るのは、ただ一つ。それは光です。イザヤはこう宣言しました。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住 む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ書9:1)同様に、ヨハネもこう述べています。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネに よる福音書1:5)

光は理解を表します。私たちが「光が射した」と言う時、「やっと理解出来た」と言っているのと同じことです。聖書が 語っていることが、分かりますか。主は、勝ち誇る悪を見るためではなく、新たな啓示を得るために、私たちの目を開こうとされているのです。神様は、地獄の すべての力に勝る力を持つ聖霊を、私たちに遣わして下さいました。「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」(第一ヨハネの手紙 4:4)

黙示録には、地獄が偉大な力を持つイナゴやサソリを送り出す様が記されています。また竜、獣、角を持った生き物、そして反キリス トのことも記されています。しかし、私たちはこの様な生き物が何を意味するのか、理解出来ません。それは、理解する必要がないからです。私たちは、反キリ ストのことや、獣の印のことなど、心配する必要がないのです。

私たちの内には、全能なる神様の霊と、キリスト御自身が生きておられます。パウロは、聖霊の力が私たちの内に働いていると宣言しています。要するに、聖霊は今この瞬間、私たちの内に生きておられるということです。

で は困難に直面する時、一体どの様に聖霊は私たちの内に働いて下さるのでしょう。聖霊の力は、私たちが聖霊を“重荷を取り去って下さる方”として受け入れる 時にのみ、働かれるのです。 私たちの心配や不安を取り去るという役目のためにこそ、聖霊は私たちに与えられているのです。ですから、もし私たちが心配を聖霊に明け渡さないなら、なぜ 聖霊を受け入れたと言えるでしょうか。

聖霊は栄光の中に留まられず、この場所で、私たちの最中におられます。そして聖霊は、私たちの苦悩 を含めた人生のすべてにおいて、不安を取り去ろうと待っておられるのです。ですから、もし私たちが絶望、疑い、不安、恐れを持ち続けるなら、私たちは聖霊 を慰め主、助け主、指導者、力の源として受け入れていないということです。

すべての重荷を聖霊に明け渡したクリスチャンこそ、世に対する 証し者となります。テサロニケの人々の様に、信仰者は困難に囲まれても、主の喜びを楽しむことが出来ます。その人は神様の霊がその人を慰め、困難から導き 出して下さると信じています。その人は暗闇にあっても喜びを表すことが出来るので、その人はさまよう世に対して、力強い証しをすることが出来ます。その人 の人生は、世に対して、「この人は光を見た」と証しします。

2009年12月29日火曜日

隠れた場所

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイによる福音書6:6)

今 まで私は、生活環境を考えて、車内、バスの車中、仕事の休憩時など、どこでもこの“隠れた場所”を持つことが出来ると説いてきました。ある意味これは事実 です。しかし、そこにはさらに深い意味が込められているのです。ここで使われている“部屋”という言葉は、ギリシャ語で「個人的な場所、秘密の場所」とい う意味があります。これはイエス様の話を聞いていた会衆には周知のことでした。なぜなら、当時の文化では、家の内部に物置として使われていた部屋があった からです。イエス様の教えは、この隠された物置に一人で行き、扉を閉めなさいということだったのです。教会においてや、祈りのパートナーと共にいては出来 ない、特別な祈りをその場所で行うことが出来ます

イエス様は、御自身が隠れた場所に行って祈ることで、そのお手本を示されました。聖書は 何度も何度も、イエス様が祈りの時間を持つために、隠れた場所に退かれたと記しています。イエス様は他の誰よりも忙しい毎日を送り、常に周囲の人々からの 必要に迫られ、独りで過ごす時間はほとんどありませんでした。それにも関わらず、聖書はこう記しています。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里 離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコによる福音書1:35)「群集を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。」(マタイに よる福音書14:23)

私たちはそれぞれ、なぜ隠れた特別な所で独り祈らないかということに対する言い訳を持っています。そんな隠れた場 所はないと、またそんな時間はないと言います。トーマス・マントンという、清教徒の作者はこう語っています。「私たちは隠れて祈る時間がないと言います。 食べる時間、飲む時間、子どもと過ごす時間など、他のことをする時間はあっても、すべてを支えるために必要な時間はないのです。私たちは隠れた場所がない と言います。しかしイエス様は山に行かれ、ペテロは屋根の上に行き、預言者たちは荒野に行きました。もしあなたが誰かを愛するなら、その人と二人きりにな る場所を探し出すでしょう。」

隠れた場所で、心を備えて祈ることの大切さに気付きましたか。それは形式主義でも重荷でもなく、愛に関わる ことなのです。私たちに対する神様の優しさがそこにあります。神様はこれから何が起こるか、また私たちがたくさんの資源を必要とし、日々それらを補充する ことが必要であることを御存知なのです。それらすべては、神様と二人きりで隠れた場所にいることで見つかります。

2009年12月28日月曜日

イエス様と共に座する

パウロによると、イエス様を信じる私たちは、霊による死から復活し、天上で彼と共に王座に着いています。「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共 に生かし(中略)、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(エペソ人への手紙2:5~6)

私 たちがイエス様と共に着く、この天の王座とはどこにあるのでしょう。それは神様御自身の玉座の間、すなわち恵みの御座、全能者の住まいのことに他なりませ ん。この2節後、私たちがどの様に、この素晴らしい場所に導かれたかが記されています。「あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。このこと は、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(2:8)

この玉座の間には、すべての力と権力が宿ります。それは神様が、もろもろの支配と権威を統べ治められ、人の出来事すべてを統治される場所です。この玉座の間にて、神様はサタンの一挙手一投足を監視され、人の思いのすべてを調べておられるのです。

そ してキリストは、御父の右に座しておられます。聖書は「万物は言(キリスト)によって成った。」(ヨハネによる福音書1:3)と記しています。そして「キ リストの内には、満ち溢れる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っている」のです。(コロサイ人への手紙2:9)イエス様の内に、すべての知恵と 平安、すべての力と強さ、勝利に満ちた豊かな人生を歩むのに必要なもののすべてが備わっています。そして私たちには、キリストの内にある、これらのすべて の富に対するアクセスが与えられているのです。

パウロは私たちにこう語っています。「キリストが死から復活されたのと同様に、私たちも神 様によって、彼と共に復活させられたのです。そしてイエス様が栄光の御座に引き上げられたのと同様に、私たちも彼と共に、その栄光の場に引き上げられたの です。私たちがキリストの内にあるので、キリストと同じ所にいることが出来るのです。これはすべての信仰者に与えられた特権です。それはキリストが住まう 天上に、私たちも住まうことを意味しています。」

パウロはすべての霊的な祝福は、玉座の間に備えられていると記しています。キリストにあ るすべての富―揺るぎなさ、力、憩い、平安―は、その場で私たちに開放されます。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますよ うに。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」(エペソ人への手紙1:3)

2009年12月18日金曜日

御国へのたった一つの道

泣き落とすことで天国には入れません。勉強によっても、行いによっても、意志の力によっても入ることは出来ません。御座への唯一の道は、生けるいけにえと なることです。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ人への手紙 12:1)

パウロは自分の経験から語っているのです。彼は拒絶され、試みに遭い、迫害を受け、打たれ、投獄され、難船し、投石されまし た。またパウロは教会に対する心配を、一身に背負っていました。それでも彼は、「私はどんな状況にあっても、満足することが出来ます。」と証言したので す。

彼は私たちにこう語っています。「私がどうやって御国への道に関する知識を得たか知りたいですか?どうやってどんな境遇に遭っても満 足することを、またキリストにある真の憩いを見つけたかを知りたいですか?これがその方法、天国に自分の場所を確保する秘訣です。自分の体を主に、生ける いけにえとして献げること。自分の思いを献げ尽くすことによってのみ、満足することが出来るのです。」

ここで使われている“生ける”とい う言葉は、ギリシア語の語源では「一生の」という意味があります。パウロは、献身することの契約、一生に一度のいけにえのことを語っているのです。しかし 誤解しないで下さい。このいけにえは、罪をなだめるためのいけにえとは異なります。十字架の上でのキリストのいけにえだけが、唯一なだめに値するいけにえ なのです。「実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」(ヘブル人への手紙9:26) 

パウロは異なる種類のいけにえについて語っているのです。間違えないで下さい。神様は旧約聖書に記されている、人間の手によるいけにえを お喜びにはなりません。ヘブル人への手紙にこう書かれています。「あなたは、焼き尽くす献げ物や、罪を贖うためのいけにえを好まれませんでし た。」(10:6)なぜこれらのいけにえは、主に喜ばれるものでなかったのでしょう。簡単に言うなら、それらは別段、心を要求するものではなかったからで す。

パウロが語るいけにえとは、心を必要とするからこそ、神様が大いに喜ばれるものなのです。そのいけにえとは何でしょう。それは、自分の思いに死に、自分の力に頼ることを止め、野望を捨てることです。

パ ウロが「あなたの体を献げなさい」と強く勧めるのは、「主に近づきなさい」と言っていることなのです。しかしそれは一体何を意味しているのでしょう。それ は、私たちのすべてを献げるために、神様に近づくということを意味しています。自分の力や能力で近づくのではなく、復活させていただいた子どもとして、キ リストの義の内に清められた者として、キリストとの関係により、御父に受け入れられた者として、神様に近づくのです。自分の主権を譲り渡す瞬間、そのいけ にえは献げられます。あなたが自分の力で神様を喜ばせようとするのを諦める時、それは起こります。この信仰による行いこそ、パウロが“なすべき礼拝”と呼 んでいるものです。それは、私たちの思いを完全に神様に委ね、神様が私たちに必要なすべての祝福を備えて下さると信じきることです。

2009年12月17日木曜日

主にあって喜びなさい

私たちの平安と満足感は、どんな状況にあったとしても、常に神様の御手にすべてを委ねることにかかっています。詩編の作者はこう記しています。「主に自らをゆだねよ、主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩編37:4)

も しあなたが神様の御手にあなた自身を完全に委ねるなら、すべてのいかなる困難をも耐え忍ぶことが出来ます。あなたのお父様は、あなたがすべてを神様の御手 に委ね、日常生活を恐れや不安なしに送ることを望んでおられます。そしてあなたの神様に対する信頼は、あなたの人生において、目に見える効果をもたらしま す。神様にすべてを委ねれば委ねるほど、あなたはあなたを取り巻く環境が気にならなくなるでしょう。

もしあなたが神様に委ねているなら、 いつも次の行動を計画しようと躍起になることはありません。あなたの近くで起こっている恐ろしいニュースを聞いても、不安に駆られることはないでしょう。 あなたの人生も家族も将来も、そのすべてが主の愛と安心に満ちた御手にあることを信じるなら、将来の日々に押し潰されることもありません。

羊 飼いの後をついて行く羊たちが、どれ程心配と不安に満ちていると思いますか。ゼロです。羊飼いの導きに完全に委ねきっているからです。同様に、キリストは 私たちの素晴らしい羊飼いで、私たちはその羊です。だとすれば、なぜ私たちは人生や将来のことを恐れたり、それに心を乱したり、心配したりする必要がある でしょうか。私たちの羊飼いは、愛によって導いて下さるので、どうやって私たちを守り、その群れを保護すればよいか、完全に御存知なのです。

私 は人生を通して、問題が起こる度に、どうやって神様を信頼すればよいかを学ばされました。考えてみて下さい。もし私がある一つのことを神様に委ねられてい ないなら、どうして神様にすべてを委ねていると言うことが出来るでしょうか。ただ「私は主に完全なる信頼をおいている」という言葉を発するだけでは、十分 ではありません。私は何度も何度も、私の人生におけるたくさんの分野で、また日常茶飯事において、これを確かなものにしなければいけませんでした。

多 くの人々は、他に抜け道が全くなくなってしまった時になって初めて、「私は任せている、委ねている、信じている」と言います。しかし本当の委ね、神様が喜 ばれる委ねとは、どうしようもなくなるその前に、自ら喜んで委ねることです。私たちは、アブラハムが神様に人生のすべてを委ね、神様がそのすべてを満たさ れるままに進んだ様に、主の御心に適うことを行うべきです。

2009年12月16日水曜日

荒廃した時代の祈り

今日のような危険な時代、教会は無力で何も出来ないでいるのでしょうか。私たちはただ大人しく、キリストの再臨を待つべきなのでしょうか。それとも、私た ちは何か思い切った行動を起こすべきでしょうか。私たちを取り囲む世界が震えおののき、人々の心が恐れに負けてしまう時、私たちは霊の武器を手に取り、敵 と戦うために召されているのでしょうか。

預言者ヨエルは、イスラエルに同じ様な時代が迫っているのを見ました。それは“濃い暗闇と陰鬱” と表現された時代の一つです。ヨエルによると、イスラエルに迫る暗闇の日は、歴史上でかつてなかった程のものだったそうです。「ああ、恐るべき日よ、主の 日が近づく。全能者による破滅の日が来る。」(ヨエル1:15)

この様な暗い時代に、ヨエルがイスラエルに語った助言とは何だったでしょ うか。彼はこの様な言葉を伝えました。「主は言われる。『今こそ、心からわたしに立ち帰れ。断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引 き裂け。』あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ。あるいは、主が思い直 され、その後に祝福を残し、あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を、残してくださるかもしれない。」(ヨエル2:12~14)

こ の聖句を読むと、私はある言葉に心打たれます。それは“今でもなお”という言葉です。ひどい闇がイスラエルを覆う中、神様は民にこう訴えかけられました、 「今でもなお、わたしの報復の時でさえ―あなたたちの社会からわたしを追い出し、憐れみなど存在しないと思える時、人類がわたしの警告をあざ笑う時、恐れ と闇が地を覆う時―そんな今でもなお、あなたがたがわたしに立ち帰るよう訴えかけよう。わたしは怒るのに遅く、ヨシヤにした如く、裁きを遅らせることで知 られているからだ。わたしの民はわたしに向かって祈り、憐れみを請うことが出来る。しかしあなたがたが『憐れみなどない』と言うならば、世界は決して悔い 改めないだろう。」

ここに込められた、私たちへの神様のメッセージを読み取ることが出来ますか。神の民として、私たちは祈りよって神様に 嘆願することが出来ます。そしてそれを神様は聞き届けて下さいます。私たちは神様に向かって要請を立てることが出来、神様は聖徒の心からの有益な祈りに、 必ず答えて下さることを知っています。

2009年12月15日火曜日

恐れと畏れ

預言者たちは、神様が国々を揺れ動かし、危険が私たちに降りかかるのを見る時、私たちの人間的な部分は非常に恐れるでしょう。エゼキエルは、こう尋ねてい ます。「わたしが裁きを行う日に、お前の心は耐えられようか。お前の手の力はうせないだろうか。主であるわたしが、これを語りこれを行う。」(エゼキエル 22:14)

神様がノアに来るべき裁きを通告し、箱舟を建てるよう言われた時、ノアは「恐れかしこみました。」(ヘブル人への手紙 11:7)大胆で勇ましいダビデでさえ、「あなたを恐れてわたしの身はすくみます。あなたの裁きを畏れ敬います。」と言いました。(詩編119:120) 預言者ハバククが悲惨な未来を見た時、彼はこう叫びました。「それを聞いて、わたしの内臓は震え、その響きに、唇はわなないた。腐敗はわたしの骨に及び、 わたしの立っているところは揺れ動いた。わたしは静かに待つ、我々に攻めかかる民に、苦しみの日が臨むのを。」(ハバクク3:16)

これ らの聖句を読む時、どうか注意して下さい。これらの神の人々に押し寄せた恐れは、肉の恐れではなく、主への尊敬の念を表す畏れだったのです。彼らは、その 魂の敵を恐れていたのではなく、神様の義なる裁きを畏れていました。そしてそれは、彼らが待ち受ける惨事の裏に、神様の素晴らしい力があることを知ってい たからなのです。彼らは嵐が引き起こす惨事を恐れていたのではなく、神様の聖さを畏れていたのです。

同様に、私たちもそれぞれ破壊や災難 が訪れる時に、どうしようもない程の恐れを体験するでしょう。しかし、私たちの恐れは主の聖さに対する畏れから来るべきで、私たちの運命に対する肉的な不 安からくるべきではありません。神様は、私たちの内にある、所有物や、財産や、基本的な生活を失うことに対する恐れを罪とされ、それを嫌っておられます。

世 界中で、国々の経済が悪化するのを見て、人々はこの種の恐れに満ちています。彼らは一生をかけて築き上げたものが、経済の波にすべてさらわれていってしま うのを恐れているのです。それは、希望が何もない、未信者の叫びです。神にある人の叫びであってはなりません。事実、もしあなたが神の子であるならば、天 のお父様はあなたの内にある、その様な不信仰をお許しになられません。イザヤは「なぜ、あなたは恐れるのか、死ぬべき人、草にも等しい人の子を。なぜ、あ なたは自分の造り主を忘れ、(中略)苦痛を与える者の怒りを、常に恐れてやまないのか。」と警告しました。(イザヤ51:12~13)「万軍の主をのみ、 聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。」(イザヤ8:13)

神様があなたの畏れでありますように。その様な畏れは死ではなく、命に導きます!

2009年12月14日月曜日

必要を覚える時

御言葉の中でも、最も力強い約束の一つである、次の聖句を考えてみてください。

「神はわたしの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、 必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさ まに山々が震えるとも。大河とその流れは、神の都に喜びを与える、いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けととも に、神は助けをお与えになる。すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわ たしたちの砦の塔・・・地の果てまで、戦いを断たれる。」(詩編46:1~7、 9)

なんと素晴らしい言葉でしょうか。私はこの箇所を、 何度も何度も読んでいますが、未だに圧倒させられます。私たちに対するここでの神様の御言葉は、非常に力強く、揺るぎなく、神様は私たちに、「もう二度と 恐れることはない。たとえ全世界が混乱にあったとしても関係ない。地は振るえ、海は荒れ、山々は海に砕け入るかも知れない。すべてのものは完全に混沌と し、大混乱があなたの四方を囲むかも知れない。」

「しかしわたしの御言葉ゆえ、あなたは川の流れの様な平安を受けるであろう。国々が荒れ狂う中、力強い喜びの流れが、わたしの民の中を流れる。それはあなたがたの心を、喜びで満たすであろう。」

たっ た今、全世界は恐ろしい時にあります。国々はテロに怯え、その脅威から免れる地域はありません。人間関係の問題や苦しみは山と積まれていくばかりです。し かし、そのただ中で、詩編46篇は世界中の神の民に響きます、「わたしはあなたがたのただ中にいる。わたしはこのすべての中で、あなたがたと共にいる。わ たしの民は滅びたり、揺れ動いたりしない。わたしは教会に対して、常に必ずある助けとなろう。」

神様は、私たちがそれぞれ重大な必要に直 面することを御存知です。私たちは皆、混乱、誘惑、困惑し魂が揺れるのを覚える時を経験します。詩編46篇での神様のメッセージは、その様な時にこそある のです。神様は、もし私たちが恐れに屈してしまい、意気消沈し絶望に満ちてしまうなら、私たちは私たちの人生における神様の現実とは全く正反対の生き方を していることになるのだ、と言っておられます。

神様が私たちにこの詩編を通して語っておられることを理解することは、非常に大切なことで す。私たちの神様は、昼でも夜でも、いつだって側にいて下さいます。神様は、私たちに語りかけ、また私たちを導かれようと、常に私たちの右側にいて下さい ます。そしてこれを可能にするため、神様は私たちに聖霊を授け、私たちの内に留まるようにして下さいました。聖書は、キリスト御自身が私たちの内におら れ、また私たちがキリストの内にある、と語っています。

2009年12月11日金曜日

キリストの体

使徒パウロは、私たちにこう教えています、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(第一コリント12:27)さらに具体的 に、彼はこう記しています、「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様であ る。」(12:12)

パウロが言っているのは、「自分の体を見てごらんなさい。手があり、足があり、目があり、耳があるでしょう。あなた は脳だけが、その他の器官から独立して存在するものではありません。キリストの場合もそれと同じなのです。彼はただの頭ではありません。彼には体があり、 その体はすべての部分によって成り立っているのです。」

そして使徒はこう指摘します、「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つ の体を形作っており、各自は互いに部分なのです。」(ローマ人への手紙12:5)言い換えると、私たちは単に頭であるキリストにつながっているのではあり ません。私たちは、お互いにもつながっているのです。事実、私たちはキリストにある兄弟・姉妹にもつながっていなければ、キリストとつながることは出来ま せん。

パウロは同じ点をさらに強調してこう語っています、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではない か。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べ るからです。」(第一コリント10:16~17)簡単に言うなれば、私たちは同じ食物を与えられているということです。それは天からのマンナ、キリストで す。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(ヨハネ6:33)

イエス様はよく、弟子達にたとえを用いて語られ、 それらのたとえにはそれぞれ、神様の真実が隠されていました。これらの神秘は、創造の前より、御父、御子、聖霊の間で分かち合われてきたことです。「わた しは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」(マタイ13:35)これらの隠された真実は、それを探し求めている者のみに 明らかにされる、とイエス様は証言されました。

イエス様はこう宣言されています。「わたしが命のパンである。わたしは、天から降って来た 生きたパンである。わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ6:35、51、57)ここで記されているパンのイメージは重要です。私達の主は 「もしあなたがわたしの所に来るならば、あなたは養われます。あなたはわたしの体の一部としてわたしにつながります。だからあなたはわたしの内にある命の 泉から力を受けるのです。」実際、キリストの体の部分はすべて、一つの源から力を得ます。それは頭である、キリストです。私たちが勝利者としての人生を歩 む上で必要なものはすべて、彼から流れてくるのです。

このパンこそ、私たちが彼の体の一部であるということを識別するものです。私たちは同じ一つのパン―イエス・キリスト―を分かち合っているので、他の人々から聖別されています。「皆が一つのパンを分けて食べるからです。」(第一コリント10:17)

2009年12月10日木曜日

約束の地

私は詩編46編が、新約聖書での“約束の地”を表現していると信じます。実際、詩編46編はヘブル人への手紙で語られている神様の憩いを表しています。 「それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。」(ヘブル人への手紙4:9)この詩編はここに記されている休みを、神の民に説明しているのです。 それは神様の常にある強さ、困難な時にある助け、混乱する時にある平安について語っています。神様の臨在は私たちといつも共にあり、神様の助けはいつも時 宜に適っています。

イスラエルはこの憩いを拒否しました。「彼らは愛すべき地を拒み、御言葉を信じなかった。」(詩編106:24)残念 ながら、今日の教会もイスラエルと同じようなものです。神様の素晴らしい約束―神様の平安、助け、完全なる備えの約束―があるにも関わらず、神様を完全に 信頼し切っていません。その代わりに、私たちは不満を述べます。「私が苦しんでいる時に、神様はどこにおられるのか。私と共にいて下さるのか、それともい らっしゃらないのか。神様の臨在の証拠は一体どこにあるのか。なぜ神様は、私の上にこの様な苦難が積み重なるのをお許しになっておられるのか。」と。

今 日私は、主が教会にこう尋ねておられるのを聞きます。「わたしが今もわたしの民に話しかけているのを信じますか。わたしがあなたがたに、わたしの助けと導 きを授けることを望んでいると信じますか。わたしが毎日、毎時間、一瞬毎にあなたがたに語り掛けたいと望んでいると、本当に信じますか。」私たちの応答 は、ダビデの応答と同じ様なものであるべきです。この神の人が主に関する次の声明を述べた時、彼は地獄を揺れ動かしました。「主が仰せになると、そのよう に成り、主が命じられると、そのように立つ。」(詩編33:9)

ここに、神様が私たちに語りかけることを望んでおられるという御言葉を信 じる、すべての時代の人々に対する神様の約束があります。「主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。」(詩編33:11)全宇宙を創造され た主は、その御心の一つひとつを、私たちと分かち合いたいと望んでおられるのです!

聖書はこれを明確化してくれます。私たちの神様は、過 去において神の民に語られ、現在の神の民にも語りかけておられ、そして終わりの日まで、私たちに語り続けて下さるのです。さらに言うなれば、神様はあなた に、今日、あなたの抱える問題について、お語りになりたいと望んでおられるのです。神様は御言葉を通して、信仰の厚い友人を通して、または小さく静かな声 で「これがあなたの行くべき道です。この道を歩みなさい。」とささやかれる御霊の声を通して、語られるかもしれません。

神様がどの様な方法を用いられるとしても、あなたは神様の御声に気付くでしょう。羊は羊飼いの声を知っているからです。そして神様は必ず「慈しみに生きる人の魂を主は守り、神に逆らう者の手から助け出してくださる」のです。(詩編97:10)

2009年12月9日水曜日

主イエス様、早く急いで来てください!

黙示録にてイエス様は、「見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は幸いである。」と宣言しておられます。(黙示録22:7)その5節 後、キリストは「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。」と言っておられます。(22:12)

そ してこれが、イエス様の再臨を待ち望む人々の叫びです。「“霊“と花嫁とが言う、『来てください。』」(22:17)これはキリストの花嫁、キリストを君 主とする世界中の信者のことを表しています。これらの人々は皆、新しく生まれ変わり、血潮によって清められた信者たちです。

あなたは「確 かに、これが信者の心からの叫びだということは分かる。でもなぜ“霊”もイエス様に向かって『来てください』と叫ぶのだろう。」と不思議に思われるかもし れません。それはこれが、地上での働きが間も無く完了すると知っている、聖霊の最後の祈りだからです。神様によって、地上での時間に終わりが迫っているこ とを知らされたパウロやペテロ同様、聖霊もまた「来てください、主なるイエス様。」と叫ぶのです。

ではこの聖霊の叫びを、今日の私たちはどこで聞くでしょうか。それは天においてキリストと共に座する人達―聖霊の内に生き、歩み、その体が聖霊の宮となっている人達―を通してです。霊は彼らの内に、また彼らを通して「主よ、早く来てください。」と叫んでいるのです。

あ なたが最後に「主なるイエス様、早く来て下さい。急いで来て下さい。」と祈ったのはいつのことですか。個人的に、私はこの様な祈りをしたことを覚えてさえ いません。私は聖霊が自分を通してこの祈りを祈ることにより、キリストの再臨を早めることが出来るとは全く知りませんでした。しかしペテロはこの素晴らし い真実の証拠を語っています。「神の日の来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょ う。」(第二ペテロ3:12)ギリシャ語で、「その日が来るのを早めるように」という箇所は、「速度を上げる、駆り立てる」という意味があります。ペテロ は私たちが待ち望む祈りは、父なる神様に御子を再び送られることを駆り立て、それを早めさせることが出来ると言っているのです。

主の憐れ みに満ちた忍耐が、再臨のタイミングを取り仕切っています。だからと言って私たちがそのタイミングに関して祈らなくても良いのでしょうか。全くそうではあ りません。キリスト御自身が、こう私たちに語っておられます。「それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦 難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自身のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮め てくださったのである。」(マルコ13:19~20)世界中でキリストの花嫁が目覚め、霊によって「イエス様、来てください」と祈ったら何が起こるか、想 像してみてください。

2009年12月8日火曜日

生ける御言葉によって

主は力と主権とをもって、すべての被造物を統べ治めておられます。神様の掟が宇宙のすべてを支配しているのです、自然界も、国々も、人々のすべての行ない でさえ。また神様は海を、植物を、天体とそのすべての行動を治めておられます。聖書は「神はとこしえに力強く支配し、御目は国々を見渡す。」(詩編 66:7)「主こそ王。威厳を衣とし、力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。御座はいにしえより固く据えられ、あな たはとこしえの昔からいます。あなたの定めは確かです、日の続く限り。」(93:1~2、 5)と語っています。

こ れらの詩編はダビデによって書かれました。彼が証ししていることの真髄は、「主よ、あなたを証しするもの―あなたの掟、法令、御言葉―は、取り消すことが 出来ません。それらは完全に確かです。」ということです。ヘブル人への手紙の著者も、神様の生ける御言葉は永遠で変わることがないと繰り返しています。 「きのうも今日も、また永遠に変わることがない。」(ヘブル人への手紙13:8)

考えてみて下さい。これらは全宇宙を、その働きのすべて を一つの例外なしに支配する掟なのです。太陽を、月を、星を、そして地球を治めている法則を思ってみて下さい。これらの天体はすべて、神様が御言葉を発せ られた時に配置され、その時からずっとその御言葉によって、統べ治められているのです。

私たちは新約聖書を通して、この素晴らしい神様が 私たちの父であり、このお父様はその子どもに憐れみを抱いて下さる方である、と教えられています。ヘブル書は、主が私たちの弱さに心を痛められ、私たちの 叫びの一つひとつを聞き届け、涙の一粒一粒を溜めて下さっていると語っています。しかし、同時に私たちは神様が正義に満ちた王であり、彼の掟によって裁か れる方であるとも教えられています。そして神様の御言葉は、すべての法令を含む憲法のようなものであり、それによって公正な裁きをもたらします。すべての 存在するものは、神様の不変の御言葉によって裁かれるのです。

簡単に言うならば、私たちが聖書を手にし、これらのことを知ることが出来る ということです。「この本は神様が誰か教えてくれます。神様の性質、本質、約束、そして裁きを記しています。これこそ神様の口から出た法則で、これを持っ て神様は統べ治め、君臨されます。またこれらの御言葉は、神様御自身が守ると誓われた言葉です。」

地上のすべての裁判官は、定められた法律によって、神様の御前に判決を下す役目を負っています。神様は、永遠の法律、すなわち神様御自身の御言葉によって、すべてを治め裁かれるのです。
神様が判決を下される時、神様は御自身が誓約された生ける御言葉によってお語りになるのです。

2009年12月7日月曜日

大胆さ

「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブル人への手紙 4:16)「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」(エピソ人への手紙 3:12)これらの御言葉は、執拗な必要をもって私たちが神様に大胆に近づくことを語っており、それが神様を喜ばせることである、と記しています。

神様が、私たちに大胆かつ確信をもって御座に近づくようにと言われることは、単なる提案ではありません。それは神様が望まれることであり、私たちが心に留めるべきことなのです。では私たちが祈る上で、どこからこの大胆さや確信を持って近づくことを得られるでしょうか。

「正 しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」(ヤコブの手紙5:16)ここで使われている“効果をもたらす”という言葉は、元々ギリシャ語の “固定した位置”という意味を持つ語源から来ています。それは、動じず、揺るぎない心情を示しています。同様に、“大きな力”は確固たる証拠に基づき、あ なたの言い分を完全に証明する大胆さのことを語っています。
これら二つの言葉―効果をもたらす、大きな力―は、訴訟を起こす準備が完全に出来た状態で神様の法廷に赴くことを表しています。それは感情や、派手で見せ掛けだけの熱意を超えたものです。

こ の様な祈りは神様の御言葉を探り、主がそれを与えて下さるという完全なる確信がある僕からのみ聞かれることが出来ます。実際私たちの中で誰も、御言葉を携 えずに神様の臨在に進み出でることがないようにすることは大切です。主は私たちとの約束を成就させ、私たちが主にその約束を思い出させ、約束を守ってもら うように訴え出て、その約束に固く立つことを望んでおられます。

このことは使徒行伝10章で、ペテロがビジョンを与えられたことによって 実証されています。神様は使徒にこう言われました。「何人かの人があなたを尋ねてやって来て、彼らと共に行くようにお願いするでしょう。わたしが彼らを遣 わしたのです。だからペテロ、何も疑わずに彼らと共に行きなさい。」

この箇所は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。それは、神 様があることを真実であると宣言される時、私たちは現実と引き合わせることなく、それを信じ、ただそこに固く立つべきなのです。私たちの現状や価値を吟味 することで、神様の御言葉がどれだけ信頼出来るかを計ることは出来ないのです。もしそうするなら、自分たちの価値のなさを思い知るだけです。そして御言葉 に訴えかけることも、それを自分のものとすることも断念してしまうでしょう。

さらに、私たちには神様の恵みの御座に近づくための助けが与 えられています。聖書は、私たちが御座においての原告であり、キリストが私たちの調停者または擁護人であると語っています。また、御父の法廷に立つ時、聖 霊が私たちと共にいて下さいます。聖霊は私たちの“パラクリート”、すなわち、私たちの相談役を担って下さる方なのです。聖霊は私たちの側に立ち、御言葉 を構成する永遠の政令と神の憲法を思い出させて下さいます。

私たちにはこの様な、素晴らしい約束―私たちの側に立っていて下さる調停人と相談役の存在―が神様の御座に近づく上で大胆さと確信を持つために与えられています。

2009年12月4日金曜日

必ずある救い

神様は私たちにこう約束されました。「あなたが苦難を覚える時、しつこくてひっきりなしに襲う悪に直面する時、わたしは必ずそこにいて、あなたの避けどころとなろう。」(詩編46:1)

こ の“必ずそこにいて”という言い回しは、“いつでもある、常に利用出来る、制限なくアクセス出来る”という意味があります。すなわち、永遠の神様の臨在は 常に私たちの内にある、ということです。そして神様が私たちの内に臨在されるなら、神様は私たちと常に対話し続けたいと望んでいらっしゃいます。私たちが どこにいても、職場でも、家族といても、友達といても、未信者といても、神様は私たちと会話することを望んでいらっしゃいます。

私は今 日、サタンが神の民の多くを突き刺している、「主は民に話しかけるのを止められた。」という偽りを拒みます。敵が私たちに信じて欲しいこと、それは、神様 がサタンに力と影響力を与え、私たちにはそれに勝る権力を授けて下さらなかったということです。断じてそうではありません!聖書はこう言っています。「敵 が洪水のようにやってくるとき、主の霊は彼に向かって軍旗を立てられる。」(イザヤ書59:19)悪魔が私たちに何をしようかなど、関係ありません。神の 民に与えられた神様の力は、サタンの攻撃より、常に勝っているのです。

このイザヤ書の聖句は、実はイスラエル軍の先頭を行く旗手のことを 指しています。主はいつもその力強い軍旗を持って、神の民を戦闘へと導きました。同じ様に、今日でも神様は、主の軍旗の下に進む栄光に満ちた天の万軍を、 私たちの代わりに戦いに遣わそうといつでもご準備しておられます。

あなたは、「ではどうやって神様は私たちの苦難の時に助けを送って下さ るのか。」と思っているかも知れません。神様の助けは、私たちの内に住まわれ、お父様の御心を私たちの人生において成就させようと働かれている、聖霊とい う神様からの贈り物としてやって来ます。パウロは何度も何度も、私たちの体が聖霊の宮であるということを教えています。私たちは、地上においての神様の住 処なのです。

もちろん、私たちは賛美や証しの中で、この事実をよく繰り返します。しかし私たちの多くは、まだこの事実を本気で受け止めて いません。実際、私たちはこの事実に込められた力を理解し切れていないのです。もし私たちが本当にそれを理解し、そこに信頼をおくならば、私たちはもう二 度と恐れたりうろたえたりすることがないでしょう。

私もまだ完全にこの教えを摑み切れてはいません。長年に亘りミニストリーに携わってい ても、未だに神様の御声を聞くためには、感情を高めなくてはいけないと思ってしまうことがあります。そうではなく、主はこう言っておられるのです。「私が 来るのを何時間も待つ必要などないのですよ。わたしはあなたの内にいます。昼も夜も、あなたのためにいます。」

ダビデの証し聞いてみて下 さい。「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいま し、わたしは揺らぐことがありません。」(詩編16:7~8)ダビデは「神様はいつも私の前にいてくださる。だから常に神様のことを心に留めようと決心し たのです。神様は昼も夜も、変わらず私を導いて下さる。私は決して混乱する必要がないのです。」と宣言しているのです。

2009年12月3日木曜日

主の憐れみは決して欠けることがない

神様はえこひいきをされることがない、と聖書は語っています。そして神様はえこひいきをされず、その約束はいつの時代であっても決して変わることがないの で、私たちは歴史上で神様が民に示されたのと同じ憐れみを、私たちにも見せて下さいとお願いすることが出来るのです。マナセ王は、歴史上でも最も悪いとさ れた王でしたが、彼は悔い改め、完全に整えられました。(列王記21:1~18参照)

主の憐れみは決して欠けることがなく、過去に示され た憐れみの例の数々は、私たちがそれぞれ主に願い出る上で、力強い確信を与えてくれるはずです。ですから、主にある聖徒の皆さん、あなたが主の憐れみに逆 らって罪を犯し過ぎたと感じる時、主の憐れみから逸脱してしまったと思う時、神様が自分を見捨てられたと思うような時、勇気を失う時、失敗やキリストらし かぬ言動によって落ち込む時、過去に犯した罪のせいで、神様から放置されたり愛を止めておかれたりしているのではと思うような時、もしあなたが完全に悔い 改めた心を持っているなら、この真実を受け止めて下さい。神様は決して変わることがありません。

神様が御自身の言葉を守られる様、主張す るのです。神様がこの数年間であなたにして下さったことすべてを書き出してみて下さい。そして御言葉と照らし合わし、“憐れみの先例”として神の民が体験 した例を見つけ出してみて下さい。これらのリストを神様の御前に差し出し、神様が御自分の言われたことを思い出してもらう様、訴えて下さい。「神様、あな たは御自身の言葉を否定されることが出来ません。あなたは昨日も、今日も、そしてとこしえまでも変わらないお方です。」

この行為を軽視し ないようにして下さい。私たちはよく、自分たちの要望を神様の御前に激しく、熱心に迫ります。しかし祈りの時になると元気を無くします。神様の御座に準備 もなしに近づくからです。神様の御前に行く時、私たちは確固たる姿勢で臨むべきです。真の大胆さは、感情から来るものではありません。それは私たちが完全 なる確信を持つときに現れます。そして事前に事例を立証させるのです。それは神様に訴え出るためだけではなく、自分たちの信仰を強めるためでもあります。

今 日私たちには、旧約聖書の聖徒らが夢にさえ見ることが出来なかったものが、与えられています。それは神様の御子が裁き主なる父の右に座しておられるという ことです。私たちは御子を知っています。それは養子縁組によって彼が血と契約にある兄弟であるからです。そして裁き主の前に立つ時、私たちは御子との血縁 を主張し、神様御自身が言われたことを守られる様、主張することが出来ます。「お父様、私にはあなたの御言葉以外、何も訴え出るものはありません。あなた は、私がキリストによって完全にされると、つまづくことから守られると、またイエス様が私の執り成し手となられると、約束されました。あなたは私の嘆願に 耳を傾け、すべての必要を満たして下さると約束されました。ああ主よ、どうか私を憐れんで、今恵みの御手をもって触れて下さい、私があなたを必要とするこ の時に。アーメン。」

私たちがこの様な大胆さを持って神様の御座に近づき、御言葉に訴えかける時、神様はとても喜んで下さると、私は固く信じています。それはまるで神様が、「ようやく分かったようだね。あなたはわたしの喜びです。」と言っておられるかの様です。

2009年12月2日水曜日

キリストの日が近づいている

パウロは「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。霊や言葉によっ て、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌 てふためいたりしないでほしい。」(第二テサロニケへの手紙2:1-2)

あざける者たちは、「ほら、初代教会の誰かがキリストがすぐに来るというニュースを持って、信者たちを動揺させた。そしてパウロは『いや、心配しなくても良い。このことによって心配したり悩んだりしないように』と言ったではないか。」と指摘します。

し かし、それはギリシア語の原文が語っていることではありません。原形は「(動揺してはなりません)主の日が既に来てしまったかのように」です。すなわち、 テサロニケの人々が動揺していたのは、キリストが既に来てしまって、彼らはそれを見逃したと思ってしまっていたからです。パウロは次の節で、彼らを安心さ せるためにこう語っています。「だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法な者、つまり、 滅びの子が出現しなければならないからです。」(2:3)パウロが「心配しなくても良い、まず二つの事が起こらなければいけないのだから」と言ったのは、 彼らの不安を案じていたからです。

では、パウロの再臨に対する基本的な神学とは、一体どの様なものだったでしょうか。それは二箇所で見る ことが出来ます。「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更 け、日は近づいた。」(ローマ人への手紙13:11-12)「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられま す。」(フィリピ人への手紙4:5)パウロはこう叫んでいます、「目を覚ましなさい!すでに深夜を回っています。主が来られる時が近づいています。だから 起きなさい。怠惰になっていてはいけません。イエス様は、彼を待つ人達の元に来られるのです。」

疑い深い人達は、「でもパウロが言った言 葉はどうなのか。彼はキリストが戻るまでに、まず二つのことが起こらなければならないと言っていた。一つ目は大きな背信が起こるということ。そして二つ目 は反キリストが来て、自分こそが神だと宣言すること。反キリストが神殿に座り、人々に彼を礼拝するよう強制するのを見てからでないと、キリストは来ないは ずだ。」

まず、世界中の人々の心を捕らえている背信に気付かないとは、故意に目をふさいでいるとしか思えません。国々で不信仰が広がり、いたる所で信者が信仰からこぼれ落ちてしまっています。パウロが語っている背信は、確実に始まっています。

あ る人は「パウロは、反キリストが権力に就くまでキリストは来ないと言った」と言うかも知れません。聖書がこう語っているのを考えてみて下さい。「偽り者と は、イエスがメシアであることを否定する者ではなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。」(第一ヨハネ2:22) ヨハネによると、御父と御子を否定するものは誰でも反キリストなのです。さらに彼はその様な者が増えているのが、私たちが終わりの日に生きているという証 拠である、と言っています。もはや、キリストの再臨を留めているものは、何もないのです!

2009年12月1日火曜日

御国へのたった一つの道

泣き落とすことで天国には入れません。勉強によっても、行いによっても、意志の力によっても入ることは出来ません。御座への唯一の道は、生けるいけにえと なることです。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ人への手紙 12:1)

パウロは自分の経験から語っているのです。彼は拒絶され、試みに遭い、迫害を受け、打たれ、投獄され、難船し、投石されまし た。またパウロは教会に対する心配を、一身に背負っていました。それでも彼は、「私はどんな状況にあっても、満足することが出来ます。」と証言したので す。

彼は私たちにこう語っています。「私がどうやって御国への道に関する知識を得たか知りたいですか?どうやってどんな境遇に遭っても満 足することを、またキリストにある真の憩いを見つけたかを知りたいですか?これがその方法、天国に自分の場所を確保する秘訣です。自分の体を主に、生ける いけにえとして献げること。自分の思いを献げ尽くすことによってのみ、満足することが出来るのです。」

ここで使われている“生ける”とい う言葉は、ギリシア語の語源では「一生の」という意味があります。パウロは、献身することの契約、一生に一度のいけにえのことを語っているのです。しかし 誤解しないで下さい。このいけにえは、罪をなだめるためのいけにえとは異なります。十字架の上でのキリストのいけにえだけが、唯一なだめに値するいけにえ なのです。「実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」(ヘブル人への手紙9:26) 

パウロは異なる種類のいけにえについて語っているのです。間違えないで下さい。神様は旧約聖書に記されている、人間の手によるいけにえを お喜びにはなりません。ヘブル人への手紙にこう書かれています。「あなたは、焼き尽くす献げ物や、罪を贖うためのいけにえを好まれませんでし た。」(10:6)なぜこれらのいけにえは、主に喜ばれるものでなかったのでしょう。簡単に言うなら、それらは別段、心を要求するものではなかったからで す。

パウロが語るいけにえとは、心を必要とするからこそ、神様が大いに喜ばれるものなのです。そのいけにえとは何でしょう。それは、自分の思いに死に、自分の力に頼ることを止め、野望を捨てることです。

パ ウロが「あなたの体を献げなさい」と強く勧めるのは、「主に近づきなさい」と言っていることなのです。しかしそれは一体何を意味しているのでしょう。それ は、私たちのすべてを献げるために、神様に近づくということを意味しています。自分の力や能力で近づくのではなく、復活させていただいた子どもとして、キ リストの義の内に清められた者として、キリストとの関係により、御父に受け入れられた者として、神様に近づくのです。自分の主権を譲り渡す瞬間、そのいけ にえは献げられます。あなたが自分の力で神様を喜ばせようとするのを諦める時、それは起こります。この信仰による行いこそ、パウロが“なすべき礼拝”と呼 んでいるものです。それは、私たちの思いを完全に神様に委ね、神様が私たちに必要なすべての祝福を備えて下さると信じきることです。

神様は人々を用いられる

神様は人を用いて他の人を回復させます。神様はその様なミニストリーを非常に愛しておられ、預言者マラキを通して、これが終わりの日に最も必要とされてい る働きなのだと語られました。マラキは、当時の神の民が、いかにお互いを励まし合っていたかを説明しました。「主を畏れ敬う者たちが互いに語り合っ た。」(マラキ書3:16)

これは正確にはいつ頃起きたのでしょうか。マラキの言葉は、不信心がはびこっていた時代、むさぼる者が地の実 りを滅ぼしてしまった時代に語られました。神の民は疲れきり、神様の道を歩むことに価値はあるのかと疑い始めました。彼らは「神に仕え、神の御言葉に従 い、神のくびきを負うことには報いがあると教えられてきた。しかし私たちの周りにいるおごり高ぶった者や妥協している者たちを見ると、彼らの方が幸せに見 える。彼らは成功を追い求め、ぞんざいに生き、人生を満喫している。」と思っていました。

その様な時、聖霊がイスラエルにおいて働き始め られ、間もなく神様の畏れが、神様を飢え乾いて求めていた人達のもとに訪れたのです。突然、若い人も年老いた人も、イスラエルにいるすべての人々が一対一 の宣教者となりました。御霊の促しにより、人々は互いに心を開き合い、お互いを励まし、助け合い、周囲の人々を慰めるようになったのです。

私 はこのミニストリーを表すマラキの言葉が、現代に与えられた鏡像のような物だと確信しています。彼は私たちに、終わりの日、神の民がゴシップや不平を言う のをやめ、代わりにお互いを励まし合うようになる時、聖霊が豊かに注がれる様を映し出してくれたのです。それは電話や手紙やメール、また面と向かって始め られています。そして神様は、それを見て非常に喜んでおられ、それらすべてを書き留めておられるそうです。優しさに満ちた言葉、すべての通話、すべての手 紙、心沈んだ人を慰めようとする、それらのすべての努力は、“記憶の書”に記されます。そして聖書は、その書に行動が記された者たちは、神様にとって愛し いものだと語っています。「わたしが備えているその日に、彼らはわたしにとって宝となると、万軍の主は言われる。」(マラキ書3:17)

霊 的に沈んでいる人に、テトスのようになりなさい。傷ついた人達を探し出し、癒しを与えたオネシモのような霊が与えられる様に祈りなさい。あなたには、痛み を覚えている信者、神様があなたに特別に示された慰めを必要としている人に励ましを与えるため、天のすべての力が与えられているのです。そう、あなたを必 要としている人達がいるのです。そして主はあなたの過去の慰めを持って、彼らを励ますよう意図しておられるのです。今日、誰かに電話をし、「兄弟(姉 妹)、あなたを励まし、あなたのために祈りたいのです。あなたにお分かちしたい言葉があります。」と伝えて下さい。