2009年6月30日火曜日

徳と親切さの祝福

聖霊様は恐れ‐落ちる事の、神様から離れてしまう、聖霊の臨在を失う‐を神の喜びで置き換え出します。ダビデがしたように喜びます。何故なら神が私達の勝利を確約しているからです。

それにも拘らず、余りにも少ないクリスチャンがその溢れる喜びをもっています。沢山の人たちは魂の安らぎ、キリストの臨在の平安を知らないでいます。彼等は彼等が神の御加護にあると考えられず、神の怒りの手の下にあると考え、悲しんでいます。彼等は厳しい監督、彼らに鞭を振り下ろす神と見ています。彼等は生きているより死んでいるように、希望がなく、落ち込んで生きています。

しかし、神の目には私達の問題は罪ではなく、信頼です。イエス様は私達の問題をカルバリにおいて罪の問題をすべて解決しました。神は私達にしつこく言うのでしょうか。「今度は、あなたは限界を超えました」と。そんな事は決してありません。神は私達になさるのは全く逆です。神の霊は私達に語り、父の愛が失敗の中でも私達とともに折られる事を気付かせます。

私達が罪に目を留め、神様が望んでおられる事を見失ってしまいます。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」。(ヘブル11:6) この成句は、私達の神が酬いる方であり、神はその慈しみを与えんとして、時より先に祝福する方です。

これが天なる父が私達に持って欲しい御自身のイメージです。御父は私達が自分の過ちと罪を悔改めるかをも知っています。神は私達がいつ悔恨するかを知っています。しかし、神は時が来るまで待っておられません。ですから、神は先に介入して仰せられるのです。「我が子は決して裁かれない。なぜならわたしは我が御子の血潮によって許したからである。」

2009年6月29日月曜日

主の愛があなたを迎える

「あなたは大いなる恵みをもって彼を迎え、そのかしらに純金の冠をいただかせられる」。(詩篇21:3)  この「迎える」と訳されたダビデの言葉には一瞬戸惑いを感じます。英語の聖書(KJV)では「迎える」が「preventest」と記されていますが、本来「prevent」は「妨害」と関連付けられ「祝福」とは関わりがありません。そのまま言葉通りに現代語で翻訳するなら「主はおおいなる恵みをもっておいなる恵みをもってダビデを妨げた」とも訳されるでしょう。

しかし「prevent」と訳されている聖書の言葉は、全く違う意味を持っています。それは「予期する、先んずる、先見する、先に充足する、借金を期日以前に返す」などの意味です。その上に、それは愉快、楽しみと関連しています。 

預言者イザヤの言葉にこの喜びについて垣間見ることが出来ます。それは神が必要を先に考え、それを先に満たしている状況です。「彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く」。(イザヤ65:24)

この聖句は主の愛がどんな素晴らしいものかを描いています。御覧の通り、主は私達を祝福せんと、私達の命への慈しみを満たさんと、神は私達が自分達の必要を語る事を待っていられません。ですから、主は私達に愛と恵みと慈しみの行為をしてしまいます。それはまた主にとっても比べ難い喜びでもあるのです。

これがダビデの詩篇21で言っていることです。言い換えれば、「主よ、あなたは私が求めない先に祝福と慈しみを注がれます。あなたは私が考える事以上のものを与えられます。」

ここでダビデは神が霊の世界で彼に行った素晴らしい業について語っています。それは勝つ力、言いようのない喜び、祈りの答え、彼の敵に対するダビデの勝利を与えた何かです。神はダビデが祈る事さえしなかった時に、心に在るものを吐露するまえに、願いを示す前に神はそれをしたのです。ダビデが自分の心を遂に注いだ時には、神が彼の敵を負かす手立てを既にされた事を気付きます。ダビデの勝利は戦場に行く前に決まっていました。

ダビデはその約束を信じます。先ず彼は責め来る敵から目を離します。最早、彼は災いが何故来るかを悩まないし、問題があると泣く事もしません。その代り、彼は神の慈しみの啓示を求めます。「わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました。」。(詩篇18:19)

私達の仇が洪水のように私達に押し寄せるときに、神が神の子全てに成さんとしている事がこれです。主は御自身の愛をもって「まって」居られます。言い換えれば、「あなたは傷つけられているかも知れない。しかし、もう関係ない。私があなたを勝利者とした。」と神が仰っておられるのです。

2009年6月26日金曜日

勝利する教会

信仰の大いなる試みの中から勝利する教会が立ち上がります。

終わりの日の教会は試みの長き日と焚きあがる火炎から立ち上がります。

今おきているのは聖霊が人々を全く砕いて、彼等が自分の肉の弱さに気付かせ、ご自身を現さんとしている事です。人々が「御旨がなりますように」と考えるまで、神は限界まで人を導いています。神が愛する者達を奇跡しか彼等を救い得ない激しい試みに導いているのを目撃します。そして、彼等は主に全てを委ねるようになります。

あなたはこのような状況ですか。もしかして、あなたはイエス様と何年間歩みましたが、あなたは今直面しているような試みは体験しなかったかもしれません。あまりの事で、圧倒され神様しか方法がないのですか。そして神があなたを導き出し得ると気付いていますか。

今、イスラムの人達はアラーの神の為に最終聖戦を備えています。モスレムの訓練キャンプは斬首に象徴される憎しみのメッセージをもって広められています。

しかし主もこの世の怒りに対抗する為に人々を訓練させています。どのようにそんな事をされているのでしょうか。主は御自身の慈しみと平安に訓練され、備えておられています。私達の神は愛の神で、主は爆弾、銃や、自爆攻撃を使いません。しかし、慈しみの主にあって恐れを克服した人です。

世界中で、神の人達は彼等が嘗て体験してない苦しみ、試み、災難を体験しています。それはこれらの霊的、物理的な戦いにて永遠の、神聖な目的があってのことで、キリストの真の人達に迫っているのです。「主はすべてのものに恵みがあり、そのあわれみはすべてのみわざの上にあります」。(詩篇145:9)

2009年6月25日木曜日

あなたは慈しみ深い人ですか。

「主よ、あなたのあわれみは大きい」。(詩篇119:156) 「主は恵みふかく、あわれみに満ち、怒ることおそく、いつくしみ豊かです。主はすべてのものに恵みがあり、そのあわれみはすべてのみわざの上にあります」。(145:8-9 斜体に註)

自分にも訊いている問いをあなたにもしましょう。あなたは慈しみ深い人ですか。あなたは答えるでしょう。「わたしは慈しみ深い人だと思う。出来る限り、苦しんでいる人を助けます。キリストにあって試みにあっている兄弟姉妹の苦しみを分かち、助けようとします。必要な隣人を助けます。人が傷つけても許し、根に持たないようにします。」

全ての真のクリスチャンは迷った、傷つけられた人達に憐れむ心を持っています。その事は勿論感謝しますが、悲しい事にその慈しみは限られ、偏見に満ちたものです。神の身言葉がそれを明らかにしています。

神を畏敬すべきとする大抵の宗教はその教理の中で「神の慈しみ、愛は全ての人達に及ぶ」と謳っています。キリストに従う者として、私達も神の世界への慈しみについて語ります。しかし、事実はこうです。 

クリスチャンの多くは神の慈しみを受ける相手を限らせています。置屋で働く娼婦、アフリカや他の場所で,AIDSで死んでいく人達、心と精神に終わる事のない傷を耐えている同性愛者、自分の痛みを忘れるために酒を飲んでしまう人はどうでしょう。

聖書を読んだ限りでは、私は私達の救い主が絶望している売春婦、同性愛者、薬中毒、アルコール中毒の切実な叫びに耳をそむけるとは考えられません。 神の慈しみは限りなく、人に偏り見ません。ですから、神の教会として、キリストを地上で現す肢体として、私達は慈しみと解放を叫ぶ人達を蔑ろには出来ません。

私達は、突然彼等が目の前にいて、そんな状況に出会うまで、私達の心にある真実、偏見があることさえ気付きません。これに心を留めてください。もう一度訊きます。「あなたは慈しみ深い人ですか」。これを読んでいる多くの読者達が「そうです」。と答えるでしょう。しかし、自分の周りの人達にもう一度訊いて下さい。あなたの家族、仕事仲間、友人、近所の人、別の人種の友人に。そして、彼らの反応をあなたは考えて下さい。

2009年6月24日水曜日

十字架の善き業

イエス様は譬えを、御教えを語るときによく用います。譬えの中て、私達が利益を得るだけではなく、神様にとっても喜ばしい事を見えます。放蕩息子の譬えを例とって見ても迷った者の許しがあるのは確かですが、その上、その譬えには、その迷った者を迎え走る父の喜びがあります。

あなたもよくその話を知っているでしょう。その若者が父の遺産の取り分をとって、身勝手な生活で蕩尽します。彼は絶望し、病み、遂に父のもとに帰ろうと決めます。聖書に「そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した」。(ルカ15:20)と記されています。

父がこの若者の許すことを妨げるのは何もありませんでした。彼が罪を告白するなど、するべきことは何もありませんでした。何故なら父は既に和解しようと決めておられたからです。真に、全てが父が主導権をとっています。父は子が道すがら上るのを見るや否や走って行き、彼を抱き締めました。子を愛する父にとって許しは何の問題でもありません。同じように天の父なる神が、その悔改める子を見るときにも何の問題もありません。

ですから、許しはこの譬えで扱っている主題ではありません。イエス様はその放蕩息子がただ許されるのだけでは十分ではないと示されています。父はその子をただ許しただけでしょうか。いいえ、父はその子を抱き締め、ただの原状回復以上に彼を扱いました。父はその子が共にいて、交わる事を望んだのです。

その放蕩息子は許されましたが、まだ家に入ったわけではありません。家に入った時に初めて、父は満足し、その喜びは子がその前に一緒にいる時に満ちるのです。それがこの譬えの主題です。 

父の目には、以前の子は死んだ存在です。その以前の子は忘却された存在です。父の目には、返ってきた子は新しい人であって、その過去は振り返されることはありません。父はこう考えたに違いありません。「わたしにとっては古いあなたは死んでいる。あなたは新しい男として私と歩みなさい。そのようにわたしはあなたを扱う。自分を責める必要はもはやない。罪を犯したとか、相応しくないとかは言ってはならない。罪の問題は解決しました。我の臨在に大胆に入り、我の恵みと慈しみを分かち合いなさい。わたしはあなたを喜んでいる」。

2009年6月23日火曜日

神は私達が御自身と一緒に歩む事を喜んでおられる。

主は十字架によって私達と交わりを拓かれた事を大いに喜ばれました。真に有史以来の最も栄光に満ちた時はキリストが死なれたその日、宮の遮りが二つに裂かれた時です。その瞬間、地は揺らぎ、 岩は裂き、墓は開かれました。

その瞬間に神が善きとされる事が堰を切って流れました。その時に宮の遮り-神の聖なる臨在と人を分け隔てていたその幕が不思議に二つと裂かれました。そしてその時から人が主の臨在に入るだけではなく、神も人に自ら会うようになりました。

 嘗て「濃い雲の中」に住まわれた方はご自身の前に進む事を許されるだけではなく、御自身で私達に来られました。神が先にそうされたのです。キリストの血は全ての障害を取除きました。主がされた一方的な業です。神様が「よい。われが平和をもたらす。我が隔たりの壁を壊す。我が先にそうしよう」と言っているようです。

十字架の前には神は民に会う術はありませんでした。ただ大祭司が至聖所に入るだけでした。しかし、イエス様の十字架は父の臨在に入る道を私達に与えました。その恵みのみにより神は御自身の臨在から私達を隔てていた壁を壊しました。今や神は、あらゆる迷い者や罪人を受け入れるべく人と接しておられます。 

ここにわたしの文の鍵があります。「神が、あなたが自由にされ、あなたと交わる事に喜びを見出すのを気付き、あなたが十字架の上で全ての壁が崩され、あなたの過去のあらゆる間違いが消し去られた事を知る迄、主にどのように使えるかを知り得ない。- あなたは喜びと平安に入り得ない」。神は 言っておられます。「わたしは我が臨在にて待っている豊かさに入って欲し」。

沢山の人達が今十字架の素晴らしい業を喜んでいます。その人達がエジプトから出て、紅海の試みにて勝利しました。彼等は自由を満喫して、彼等を迫害した者が海底に消えたことを感謝しました。しかし、この人達の多くは同時にもっと大きな神の御旨と良き物を見過ごしています。彼等は何故主が彼等を連れ出したかを見過ごしているからです。神の目的は神に導く事を覚えて下さい。

2009年6月22日月曜日

主の臨在に大胆に入る勇気

「兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、…心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか」。(ヘブル10:19-20,22)

カルバリのキリストの業には二つの面があります。一つは人のためになる面とまた他は神にとって善きことです。言い換えれば両面の一方は罪人に益になり、他方は御父に善き事となるのです。

私達は人にとってどんな意味を持つかにはよく耳にします。キリストの十字架は私達の罪の許しを私達に与えました。私達に罪の全ての呪縛と支配に対する勝利の力を与えられました。私達に恵みと慈しみが与えられました。そして、永遠の命の約束も与えられました。十字架は罪と悪魔の恐怖から逃れられる方法を私達に齎しました。

私は神に人類にこの様に善き事をしてくださって、またそのような慰めを与えてくださって感謝します。全世界の教会で日曜毎に語られる事を喜んでいます。 

しかし、十字架には、私達が余りよく知っていないもう一つの善き事があります。これは御父にとって善き事です。十字架によって得た御父の喜びはよく分かっていないのです。その喜びは、御自身の家に放蕩息子を迎え入れる度に得る喜びです。

もし、私達が十字架の赦しだけに争点をあてるならば-もし、それだけを語るならば-それでは私達は神が十字架でなさんとした重要な真実を見過ごす事になります。その業を真に理解するには神の喜びに考えざるを得ないでしょう。この真理は神の民にただ安らぎ以上のものを齎します。自由、安堵、平和、喜びが与えられます。 

私は神の御前に許しを、祈りの答えを、必要を得んか為に大胆に進み出る事は大体のクリスチャンは学んでいると思います。しかし、信仰のこの観点-主との歩みで決定的なこの面が欠けているのです。

2009年6月19日金曜日

恵みと平安があなたに増しますように

このメッセージを備えている時に、聖霊様は詩篇37編を通して次の励ましを送るようにはっきり語りました。

1. 悪いことをする者やあなたを利用する人達の為に心騒がせてはいけません。彼らのときが来ます。

·        詩篇37:1,2,7,8-15,32-34

2. 主を信頼し‐主にあって喜びなさい。主に全てを委ね、あなたの心と霊を休ませなさい。

·        詩篇373-6.

もしあなたがこの言に従うなら、あなたは満たされ、願いは叶えられるでしょう。神はその約束されたことを実行されます。あなたは神の義があなたにあって現されます。

3. 神は全ての道を先以って知っておられます。神はあなたの人生、あなたの家族、あなたの必要に関わる全てを備えておられます。ですから神を全てに於いて信頼して下さい。

·        詩篇37:2329

4. 神にある親達よ、あなた方の子供達に主がその子達に怒らないように、怒り続けてはなりません。神は試みの時、あなたの平安、あなたの力、あなたの助けになることを願っています。

·        詩篇37:34,37-40.

主は詩篇37、その民にこれらの全ての良きことを約束しています。何故なら「彼らは主に寄り頼むからである」。(37:40) 

2009年6月18日木曜日

私達の聖なる主から平安と愛をあなたに

祈っている時に聖霊は詩篇20:1-2を私に示されました。 

主が悩みの日にあなたに答え、ヤコブの神のみ名があなたを守られるように。主が聖所から助けをあなたにおくり、シオンからあなたをささえ(斜体に注意)

この言葉はあなたの為にものです。あなたの問題はどのようなものですか。あなたの家族が病に臥していますが、試みにあっていますか。お金の問題ですか。それかあなた自身の問題‐罪や心ですか。

どのような問題でも、どんな深刻な問題でも、主はその子らの叫びを「災いの日」に聞かれます。

助ける人は誰も居ませんか。「ヤコブの神のみ名があなたを守ります」。主はあなたの敵ではなく、あなたの友、あなたの守護者です。その御名とその力があなたを救うことを信じて下さい。

この一つの約束でもそれだけでも十分です。「主が聖所から助けをあなたにおくり」と書かれています。この二つの句で、主はあなたに耳を傾け、守り、助け、力付けることを約束しています。なんと素晴らしいことでしょう。信じて下さい。

2009年6月17日水曜日

命の川は溢れます。

たとえ死が周りを囲むとしても、霊の命の川は益々溢れます。そしてそれが触れるものは全て癒しを受けるでしょう。

沢山の教団、教会に霊的死の津波が押し寄せてきます。人々は神の真の御言葉が欠けているので霊的に死んで行っています。

なんと皮肉なことでしょう。ロシア、中国、もと東欧共産圏の人々は霊的飢え、乾きによって主に帰依する代わりに、ここアメリカでは堕胎する者、性的倒錯者、瀕死の教団が死を広め、聖なる物を嘲けています。

神に感謝すべきかな。神の御旨は微塵たりとも揺らぐことはありません。今この瞬間も神の霊はこの世を動かされています。死んだと思われている、このアメリカでも色んな所でリバイバルや大いなる霊的飢え・渇きを見ます。

あなたは益々主やその御言葉に対する飢えを覚えますか。それは、残された聖徒を建て上げる聖霊の業です。このニューヨークでも神に飢えている人達の波が朝早くから夜遅くまで押し寄せてきます。色んな人達-富んでいる人、貧しい人、ホームレス、色んな国の人達がキリストの姿に似るものとなってきています。人々が世界中から訪れてきて、「泳げるほどの水」を体験しています。

川の水は増し、その水は触れる全てに霊的命を齎します。あなたが居る所でその水に触れますように

2009年6月16日火曜日

主は全ての道であなたを祝福し、保ちます。

最近私は、信仰にあって1830年代2000人の孤児を受け入れ養った、ジョージミュラーの物語をもう一度読みました。ミュラーは祈りに答えを得る人と知られていました。彼が死ぬ前に、彼は彼の日記に祈りに如何に答えられたが50,000の答を記しました。

ある物事に神の御旨をどのように分かるかと聞かれると、ミュラーは次のことが必要だとし並べました。 

1.      私の心の状態が自分の意図がその物事に全くないこと。

2.      印象や感情に結果を委ねない。印象や感情は幻想を齎すことがあります。

3.      御言葉によって、また御言葉にあって神の御旨を求める。御言葉なしで御霊の指示を求めるのなら、あなたは幻に惑わされます。

4.      神が与えた(神の治め給う)情況に注意します。

5.      神に祈りの中で御旨を示すように求めます。

6.      神と人の前で良心に呵責がない事。

7.      神に聞かないで、人に聞くならそれは大きな間違いです。

8.      神にあって待ち望み、祈り尽くし、平安を持つならば、行動する。

信仰に歩み、完全な神の御旨を求める者達はしばしば試みられ、ためされます。私の歩みの中でも、益々熱心な祈りと御言葉を読む事が重要に成ってきています。悲しい事にこの頃は神の民に祈る人が多くいません。代わりにテレビを見てしまい、神を待つことがあまりありません。

私が祈りに私を委ねるなら、私の信仰が建てあげられます。神の言葉に養われたら、私を導く、助ける、神の力に対する私の信頼が増します。主は私の銀行、助言者、私の弁護士となるのです。

あなたにも同じようになさる神を見出せますように。

2009年6月15日月曜日

イエスの尊い御名で挨拶します。

神の御霊は私に主の愛と祝福に感謝することの重要性を思い出させるように示されました。主に試みの時であっても感謝することは重要なことです。

神はイスラエルが御自身の与えた祝福と備えに感謝しないことを不満に思っていました。神はその民の必要を全て満たしたいと思っておられます。ダビデは神が更に感謝して欲しいと思っておられる事も知っていました。ダビデは書いています。「感謝しつつ、その門に入り」(100:4)「感謝のいけにえを神にささげよ」。(50:14)「われらは感謝をもって、み前に行き、主にむかい、さんびの歌をもって、喜ばしい声をあげよう」。(95:2)

最近、試の時に私は感謝をもって主の御前に行く喜びと安堵を見出すことが出来ました。私は主が今まで私になさったことを感謝し、また感激していると言います。毎日こうすることによって私の魂は喧騒の上に引き上げられ、私の喜びは戻り、私は安らぎます。

あなたに聞きます。最近主に感謝したことがありますか。あなたに感謝すべきことが多くあるのではないでしょうか。あなたの救い、健康、試みの時の聖霊の助けと慰め、あなたの解放など。

パウロは私達が神に教えられたことについて感謝すべきだといっています。彼は難しい時に悪魔に対抗できるように強い根を与えたいのです。「また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。」(コロサイ2:7)

主は御自身の業を神の民が感謝することを呼びかけておられます。

2009年6月12日金曜日

主が恵みと愛にあってあなたに輝きますように

私はこの言葉の為に祈る時に、神の霊が神の忠実さについて語るように促されました。

「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。」(哀歌3:22-23)

私は主を失望させたと思っておられる方達に話します。もしか、あなたは失敗したかもしれません。もしかして、祈りと聖書を読むことが惰性なっているかもしれません。もしかして、あなたは神の法を破り、罪を犯したかもしれません。また、あなたは罪の悪癖を持っているかも知れません。あなたは恐れと、自責と不信に苛まれているかもれません。あなたは神が罪を裁かれると仰いましたから、その言葉が気にかかって恐れているかも知れません。

しかし神は慈しみ深い方です。詩篇の89編で、励ましの最も強い言葉が書かれています。神は言いました。

「わたしはわがしもべダビデを得て…わが腕はまた彼を強くする。…わたしは彼の前にもろもろのあだを打ち滅ぼし、彼を憎む者どもを打ち倒す。…わがまことと、わがいつくしみは彼と共にあり、…わたしはまた彼をわがういごとし、地の王たちのうちの最も高い者とする。」(89:20-27)

この詩篇はキリストについてです。そしてここに御父は御子と契約を結んでいます。

「わたしはとこしえに、わがいつくしみを彼のために保ち、わが契約は彼のために堅く立つ。」(89:28)

愛する皆さん、神がキリストと結んだ同じ契約は神の子の全てと、即ち私達と結んだのと同じなのです。

「わたしは彼の家系をとこしえに堅く定め、…もしその子孫がわがおきてを捨て、わがさばきに従って歩まないならば、…わたしはつえをもって彼らのとがを罰し、むちをもって彼らの不義を罰する。しかし、わたしはわがいつくしみを/彼から取り去ることなく、わがまことにそむくことはない。わたしはわが契約を破ることなく、わがくちびるから出た言葉を変えることはない。」(89:29-34)

こう考えて下さい。神は決してその慈しみをキリストにある者達から取り去らない契約をしています。神は愛の鞭で私達を戒める事もあるでしょうが、それは愛に、慈しみに、労わりにあっての事です。愛しているからそうするのです。主はあなたの戦いの中で忠実であられ御霊によってあなたを力づけます。

「いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。あしたに、あなたのいつくしみをあらわし、夜な夜な、あなたのまことをあらわすために、」(詩篇92:1-2)信仰によってこの癒しの言葉を受けて下さい。

2009年6月11日木曜日

主がその恵みと愛があなたにあって輝きますように

この文で何を分かち合おうかと祈る時に、神の霊が神の忠実さについてあなたに話すように私に強く示されました。 

「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。(哀歌3:22-23) 

主に悲しませた人達に語りたいと思います。もしかして、あなたは間違いを犯したかもしれません。もしかして、あなたは祈りや聖書を読むことが惰性になっているかも知れません。それでなければ神の戒めを破り、主に罪を犯したかもしれません。あなたは罪に影響され悩まされたかもしれません。あなたの状況が、恐れ、自責、不信で押し潰されようとしているかもしれません。あなたは神が罪を全て裁かれるのを知っており、知っているから恐れています。何故ならあなたは主が御自身の言葉を守られるのを知っているからです。

しかし、神は慈しみ深く忠実な方です。詩篇89編にはこのような癒し、励ましの言葉が書かれています。

わたしはわがしもべダビデを得て…わが手は常に彼と共にあり、わが腕はまた彼を強くする。…わたしは彼の前にもろもろのあだを打ち滅ぼし、彼を憎む者どもを打ち倒す。…わたしはまた彼をわがういごとし、地の王たちのうちの最も高い者とする。(89:20-27)

この詩篇はイエス様のことを言っています。そしてここで御父は御子と契約を結んでいます。

わたしはとこしえに、わがいつくしみを彼のために保ち、わが契約は彼のために堅く立つ。(89:28)

愛する皆さん、神が御子と結んでいる契約は全ての神の子と結んだものです。

「わたしは彼の家系をとこしえに堅く定め、その位を天の日数のようにながらえさせる。もしその子孫がわがおきてを捨て、わがさばきに従って歩まないならば、 もし彼らがわが定めを犯し、わが戒めを守らないならば、わたしはつえをもって彼らのとがを罰し、むちをもって彼らの不義を罰する。しかし、わたしはわがいつくしみを/彼から取り去ることなく、わがまことにそむくことはない。わたしはわが契約を破ることなく、わがくちびるから出た言葉を変えることはない。」(89:29-34)

こう考えて下さい。神様はキリストにある者達すべてからその慈しみと愛を取り去らないと契約をしました。神は勿論愛の鞭を用いる時もありますが、神は私達を愛してら慈しみをもってそうします。-主は愛する者を戒めます。主はその御霊の力を与え、あなたの試みにおいて忠実であられます。キリストはあなたを諦めず、あなたを保つ栄光の約束を結んでいます。「彼の家系はとこしえに続く」と言っています。

主に朝毎の慈しみに感謝し、夜毎その忠実さを感謝して下さい。信仰によってこの癒しを受けて下さい。

2009年6月10日水曜日

神を賛美せよ。

ある私の友人は苦難の中で疲れ果て、絶望し、神に見捨てられたのではないかと悩んでいました。彼はある朝本当に切迫して、神に叫びました。「あなたが誰かを遣わし希望の言葉を与えて下さらないなら、私は最早生きて行けません。一日も生きて行けません」。

数時間後、自殺の直前に、彼は郵便受けにで、友達か送った説教メッセージを見つけました。それは1992年に説教した私のメッセージ「神の人になる」でした。そのメッセージは彼の病んだ魂に希望と回復を与えました。彼は聖霊の時に感服しました。神様は最も必要な時に彼に希望の言葉を与えました。

今日、神の御霊に導かれ、希望の言葉が必要な人に与えられ、彼等が励まされますように。自分に示されるべき言葉が何か考えて下さい。

1.      神があなたを諦めた感じるほどの魂の暗い夜を経ている誰かに:声はあなたを混乱させています。クリスチャンの友人もあなたを見捨てました。あなたは落ち込んで祈ることさえ出来ません。あなたは裏切られ、見捨てられたと感じています。あなたは切捨てられた感覚は否めません。心の奥底に深い悲しみがあります。心に神に逆らったと言う感じがいつも漂います。あなたは神に愛されているのだろうかと問い掛けます。しかし、神はあなたにこう言っています。

「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない」。(イザヤ49:15) 

2.      夫婦関係がうまく行っていない誰かに: あなたは深く傷付いています。あなたは二人の結婚が癒され、元に戻りたいと思いますが、なす術がありません。あなたは祈ります。あなたは主に逆らいたいとは望んでいませんが、夫婦関係の修復は出来そうもありません。そんなあなたに言います:状況がどれだけ悪くても、二人の間を諦めないで下さい。

「わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年を/わたしはあなたがたに償う」。(ヨエル2:25)

「わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、また彼を導き、慰めをもって彼に報い、悲しめる者のために、くちびるの実を造ろう」。(イザヤ57:18) 

3.      悲しんでいる誰かに:何か起きてあなたは悲しみ、嘆き、鬱積した気持ちを拭えません。あなたは主を愛していますが、ひもすがら深い悲しみがあります。あなたは起きる時から、日中、夜までその気持ちが抜けられません。しかし、主はどんな試みをあなたが受けているか知っています。

「主よ、わたしはあなたのさばきの正しく、また、あなたが真実をもって/わたしを苦しめられたことを知っています。あなたがしもべに告げられた約束にしたがって、あなたのいつくしみをわが慰めとしてください。あなたのあわれみをわたしに臨ませ、わたしを生かしてください。あなたのおきてはわが喜びだからです」。(詩篇11975-77)

2009年6月9日火曜日

神にあって喜びなさい。

最近、末期癌を病んでいる親しい姉妹の為に祈っていました。彼女は彼女を知る全ての人達に素晴らしい証となってきました。彼女には呟き、悲しみはなく、主の偉大さと忠実さを疑いません。彼女は自分が益々イエス様に惹かれていくと語り、今や「キリストと共にいて、この世にはいない」と言いました。

私はある素晴らしい牧会者がこう語るのを聞いたことがあります。「私は私の業をはやく終わらせ、この世を去りたい」。それを聞いて、ある人達は彼が生を与えられたことを感謝していないと言いました。しかし、使徒パウロも同じ事を宣言しています。パウロの長らくの願いは主と共にいることでした。私も彼と同じです。毎日私はイエス様に言います。「私は家族を愛していますし、あなたにこの家族を感謝します。しかし、ここのものは、家族、家、土地や富などは、私を満たしません。この世の何も私の必要を充たすものはありません。この世は幻です。私は真の世で、主と共にいることを願います。」

私が私の人生で他の何物よりも物欲の罪を恐れていることを告白しましょう。なんと忌々しい罪でしょう。この世の物に対する愛、もっと沢山、もっといいものを持とうとする情欲は。

物欲は多くクリスチャンを捕らえられています。満足することなく、彼らの借金は増えていきます。彼等は私達の国がいつまでも繁栄し続けると考えます。アメリカは所有欲で狂っています。私達の買い物三昧には専門家でさえ閉口させています。

イエス様はこの世のものを軽んじるように警告しています。私達はイエス様の祝福に感謝し、貧しい人達の必要に豊かに与えなければなりません。しかし、私達はこの世の何物をも私達の心を囚われさせてはなりません。私達は全てを失うか否かに関わらずイエス様の忠実さを喜ぶべきです。

神は私達がその祝福について自責を感じて欲しくありません。その祝福が私達や家族が囚われないで、自分で治められなければなりません。あなたの心の思いがこの世のものではなく、イエス様の臨在が-究極の現実にあるものであるように。

2009年6月8日月曜日

神はあなたを大いに祝福します。

この文を書こうとした時、聖霊様はこの文を読む方達を啓発し、力付けるように促されました。次の言葉が真に主からのもので、私はあなたの信仰がそれによって建て上げられることを祈ります。

  1. 最初に付き纏う罪、情欲、癖に囚われている人達への言葉です。あなたは敗北し、卑しく、助けがないように感じます。サタンはあなたが悪い者であって、神があなたを蔑むと言います。

    イスラエルの人々は罪の結果としてバビロンに捕囚されました。その時、神様が彼らに言った言葉を思い起こして下さい。イスラエルは罪のために戒められていましたが、神はそれでも彼等を「よき実」と呼び、約束しました。「わたしは彼らに目をかけてこれを恵み、…彼らを建てて倒さず、植えて抜かない。わたしは彼らにわたしが主であることを知る心を与えよう。…わたしは彼らの神となる。彼らは一心にわたしのもとに帰ってくる」。(エレミア24:4-7)

  2.  また道を失っていると感じている人への言葉です。あなたは自分の人生の幾つかの事で混乱しています。あなたには助ける者もなく、物事が収拾できないように見えます。あなたは心の奥底でこれは神の懲らしめ、裁きではないかと疑っています。

    聖霊様からこの言葉を受けて下さい。「主よ、わたしは知っています、人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを/自分で決めることのできないことを。 主よ、わたしを懲らしてください。正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう。」(エレミア10:23-24)

    主はあなたが切望し、希望を失い倒れることを決して許しません。神はあなたを混乱させ、誤解させることもお許しません。神はあなたにとって最も良き事を与えます。決して怒りにはたよりません。神はあなたをお怒りにはなりません。若しあなたが一抹の信仰さえ持っているならば、神はあなたを導きます。神の愛を信じて下さい。
この言葉が聖霊様によって示されたものです。これによって力付けられ、あなたが助けられますように。

2009年6月5日金曜日

神の平和があなたと共にいますように。

皆さんに語るべく主に祈りました。黙想の時に、聖霊様は私が詩篇33編と34編をもう一度注意深く読むように促されました。この二つの詩篇を読んだ後、私は主が何を望まれたが直ちに分かりました。

私は次の四つのことをこの文を読む者毎に主から特別な、そして直接な言葉を示されるだろうと信じます。神はこの時その民に送る忠実な方です。神の御霊は時にあたって、次の中であなたに必要なものを示すでしょう。

1.      「見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある。これは主が彼らの魂を死から救い、ききんの時にも生きながらえさせるためである。われらの魂は主を待ち望む。主はわれらの助け、われらの盾である」。(詩篇33:18-20)

2.      「主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである。 主はもろもろの国のはかりごとをむなしくし、もろもろの民の企てをくじかれる。主のはかりごとはとこしえに立ち、そのみこころの思いは世々に立つ」。(詩篇33:9-11)

3.       「わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された」。(詩篇34:4-6)

4.       「主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される」。(詩篇34:15,17,19)

神はあなたの心へ御自身の尊い言葉で祝福します。神はその言葉で癒しを送り給います。

2009年6月4日木曜日

主はその愛にあって、あなたを祝福し、保たれます。

最近、あるクリスチャンの方から結婚、金銭、仕事のことで相談を受けました。彼は彼の問題を解決すべく、私の超自然的な助言、祈りを期待しているのを気付き、驚きました。彼は自分では祈っていないことを認めていました。テレビを何時間も見ていましたが、祈ったり、御言葉を読んだりしませんでした。私は考えました。「どれだけのクリスチャンがこんなに複雑、山ほどの問題に直面しながら、個人の祈りで神に求めているのだろうか」。

私はあなたに訊きます。あなたは心と力を尽くし、あなたの問題や必要を主に熱心に求めていますか。神様に特別な時間を割いて、主を待ち望む独りの祈りを捧げていますか。毎日、御言葉を思う時間を持っていますか。もし、あなたがいいえと答えたなら、他の人のあなたのための祈ったとしても、聞かれるとは限りません。神は私達の祈りが一致することを期待しているのです。

 御言葉は約束しています。「しかし、その所からあなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして、主を求めるならば、あなたは主に会うであろう」。(申命記4:29)

神の民がその個人的な祈りで自分の必要と問題を神に述べ、その臨在にあってその魂が安まるまで、その生には混乱と絶望が続きます。私が神様と真心の、落ち着いて、時を持って、私は力付けられ、勇気付けられ、自信を持たされます。

私のこの文があなたを熱心に信仰によって祈るようにするなら、いつかあなたは私に感謝する日が来るでしょう。神があなたを祝福し、恵まれるのを見るからです。主は御自身の御顔を日毎求める者を深く愛されるからです。主が御自身を蔑ろにした私達を赦されますように。

あなたに勧めます。今日から主と時間を過ごして下さい。神に行って、あなたの魂を御臨在にあって注いで下さい。

2009年6月3日水曜日

父なるあなたの神から恵みと安らぎをあなたへ

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」。(ピリピー4:6)

私は信仰による祈りが全てに対する答だと信じます。ここでパウロが「事ごとに」と言っていますが、それは「全てについて祈り、あなたの願いが聞かれ、答えられる事に感謝しなさい」との意味です。私達はそれを第一に、他の事を空しく全てやってみた後ではなく、祈るように言われています。「まず、神の国を求めなさい」。(マタイ6:33)

今、沢山のクリスチャンはサタンに虐げられています。彼らの家庭は揺らぎ、恐れと罪悪感に苛まれ、生活全体に試みられています。私達の働きに寄せられる手紙にもそんな問題が沢山書いています。

しかし、正直言って、試みにあっている人達のうち、余りにも少ない人達が熱心な祈りもって主に向かっています。決められた時間に神に祈る人達は少ないのです。屡、人々が密かな場所に、主に重荷を委ねるべく、悲しみを叫ぶべく、行かないので、絶望が彼等を覆います。主に行かない代わりに人々は彼らの問題を友人、牧師、カウンセラーなどに頼り、いつも待っておられる主を蔑ろにします。神様は一番最後です。

神はイスラエルのようこの世代に悲しまれておられるでしょうか。神は仰いました。「わたしの民の、わたしを忘れた日は数えがたい。」(エレミア2:32)

私達が神様に先ず願うことを神様は喜ばれます。私達が神様と独りで特別な時間をもって、私達の心の底からの思いを注いで、御前に私達の願いを並べて欲しいのです。もし、私達が決めて時間をとって神と交わらないならば、私達がどうして神を愛すると言えるでしょう。神はあなたの祈りを聞いておられ、答えられます。しかし、神があなたと静かに語るべく、神はあなただけと特別な時間が必要です。

毎日、主の聖き臨在に入る時、私のいつもの願いは聖霊が私に神の御言葉を啓示し、私が真に神の託宣者となることです。私の言葉がキリストの肢体にあって、信じる者達を力付け、義を示し、奮い立てることと神に信じます。

神と皆さんが神をあなたの願いにおいて信じる特別な交わりの時間が持てますように。

2009年6月2日火曜日

愛する兄弟姉妹

祈りの時に、聖霊様は人の歩みで神の民が信頼すべき四つのポイントを示されました。そのポイントは主が私達として下さった絶対の約束に基づいています。私達の神はその約束を守られる方です。

1.       熱心に主を求めて、報いられることを期待して下さい。「ご自分を求める者に報いて下さる」。(ヘブル11:6)

主からの少しの信仰のかけらを頂き、あなたの信仰を力付けることも可能でしょう。神はどんな時が一番いいのか、そして、試みの時にあなたが一筋の希望の光が必要なのを知っておられます。神が御自身の約束を守って、助けが必要な時、酬いる事を期待して下さい。神は偽りがありません。神は御自身を熱心に求める者を酬いると言っておられます。ですから神を日々求めましょう。そして今、あなたが大いなる霊の祝福を受ける時であると信じましょう。

2.      あなたの現在進行形の奇跡の証明を期待してください。「神はなんでもできるからである」。(マルコ10:27)

私は前に瞬間的奇跡と進行形の奇跡について書きました。進行形の奇跡の始まりははっきりしませんし、静かに進行しますが、少しずつ、小さな慈しみが一つずつ行われます。あなたはそんな奇跡の中にいます。神が不思議な形で、人の目には見えないように働かれるのを期待して下さい。それで、いつかあなたはこう言うでしょう。「私はこれがどう成就するかは分からない。そして今は何も起きていない。しかし、私は始めて祈った時から、その祈りに応えて働かれるのを信じる。」

3.      神が約束した平安の場所に入ることを期待しましょう。「安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。…この安息にはいるように努力しようではないか。」(ヘブル4:9,11)

最近何年間は多くの信じる者に最も難しい時でした。災難、危機、試みの時でした。今、主がその約束した安息に導くと信頼して下さい。神は決して神の子等が恐れと失望に終えることを望んでいません。私達は揺るぎない、恐れと試みの前にも神に信頼する信仰が必要です。そして、今が全てイエス様に委ねる時なのです。

4.      聖霊が『御自身の宮』に常に居られることを期待して下さい。「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって」(Iコリント6:19)

聖霊は全ての信じる者の心に住まわれています。聖霊はこの世と宇宙にあらゆるところにいます方です。私は聖霊様がその宮にいまし、私に啓示しキリストの栄光を表すべく私を安らがせ、導き、力づかせ,油注がれます。御霊は御臨在を益々あなたに顕わす事をあなたが期待することを望んでおられます。

この約束を信じ、上の四つを期待し続けるならば、あなたはあなたの人生のこの時に素晴らしいことを体験するでしょう。

2009年6月1日月曜日

主は御自身を信頼する者等に慈しみ深く、良き方であられる、

私がこの文について祈っている時に、聖霊様は私に告げました。「この文を読む誰は励ます必要がある。その人は精神的にも肉体的にも開放され、この文を読み特別な言葉が示される必要な人です。」

その人はあなたですか。その人は四面楚歌の困窮にあり、恐れ、度惑い、戦いに疲れ果てています。その人には話を聞いてくれる、苦しみの中で信じてくれる誰もいません。

神様は私の愚筆を用いて忍耐と我慢の限界にいる人達へ希望と蘇生の言葉を与えようとしています。「聖霊の油注ぎによって書かれた主の言葉としてこの言葉を聞いて下さい。あなたの叫びは神に聞かれ、神は愛をもって、次の言葉に示されました」。

サタンはあなたが弱って、試みにあっている時、あなたの心に偽りを植えつけようとしています。神があなたと共にいないとの嘘です。それを信じるならサタンの罠から逃れられません。

あなたは主の御前で黙して、密かに主に呼ばわるならば、聖霊様は神があなたと共にいると示します。神はあなたを見捨てていません。神はあなたを見ておられ、あなたの苦しみを知っておられます。イエス様は言いました。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイ28:20)

あなたは愛され、あなたは必要不可欠な存在です。サタンは偽りつきであなたが自分は一人ぼっちで、失望に落込み、全て諦めることを望んでいます。決して、あなたは決して一人ではありません。神様あなたが必要な時に祈る誰かをもさえ備えておられます。

あなたは戦いにきっと勝利します。しかし、あなたは主により頼み神があなたの叫びを聞いておられることを信じ続けて下さい。もし、神がどれだけあなたに良きことが待ち受けていると見せることが出来るならば、あなたは喜び踊るでしょう。

最後に神の混じりけのない言葉によって神の心を聞いて下さい。

主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。 あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、(エレミヤ29:11-13)