2010年12月31日金曜日

礼拝者になること

出エジプト14章はイスラエルの歴史の劇的な場面を現しています。イスラエルは神の導きに従って出エジプトしました。で、その時、彼らはパラオの軍 に追われていました。イスラエルは両側に切り立つ山に挟まれた渓谷で立ち、前には海が憚っていました。彼らはまだ知らないでいますが、彼らは魂の暗闇、嵐 が吹き荒れる夜を体験する事になります。彼らは限界まで試す四面楚歌の苦悩と失望の夜を体験します。

この出来事は神が如何にその民を礼拝者と変えるかをあらわしています。聖書の何処にもこのような苦悩と失望をあらわしている章はありません。皆さ ん、真の礼拝者はリバイバルや、晴れの日に形作られません。私達が嵐にどのように応えるかによって私達がどんな礼拝者になるかが定められます。

ヘブル書の11章は老いたヤコブを表しています。「信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。」(ヘブル11:21) 何故、死に際のヤコブのことがここに書かれているのでしょうか。

ヤコブは自分の命が終わることを知っていました。ですから、ヤコブは自分の孫達に祝福をしました。ヤコブは自分の人生を振り返って、何をしましたか。彼は神を礼拝しました。誰もそうしろと言いません。彼は杖に寄りかかり、神が与える人生に感動し、そして「礼拝」しました。

ヤコブがその時神に礼拝したのは、彼の魂が休む時に差し掛かったからです。彼は神が疑う事無く忠実であることを知っていました。そして、族長はこう 語り彼の一生を締めくくりました。「どんな戦いでも神は私に忠実であった。神はいつも忠実であった。主よ、偉大な神よ。私はあなたを礼拝します。」

2010年12月30日木曜日

少しの苦しみにくよくよしない

キリストの復活の前にひと時の苦しみがありました。同じく私たちには死や苦しみ、痛み、悲しみがあります。

私たちは傷ついたり苦しんだりすることを望みません。私たちは苦しみのない救いを、神の介入を願います。「神様、あなたは私の弱さを知っています。私は弱すぎます。あなたが介入して、この状況を変えて下さい。私は何もすることができません。」

私たちは色々な問題を悪魔のせいにします。私たちは神の人を見つけ、彼が悪魔を追い払って、苦しみや痛みなく現状復帰したいと思っています。「解決 済み。勝利の歩みた。心地がいい。」 誰かが私に手を置いて祈り、乾きが全て除かれることを期待します。しかし、勝利は必ずしも苦しみや痛みなしで得られ る訳ではありません。罪を直視しましょう。キリストがしたように苦しみ抜いて下さい。キリストの苦しみに与って、夜を耐え、朝には喜びが待っています。

神の愛は選択を要求しています。もし、神が私たちの戦いに痛みや苦しみ無しで介入するなら、試みや問題自体が無くなるでしょう。その意味は私たちに は最早自由選択が存在しないし、火によって試されないことになります。それは神の御旨を問答無用にあてはめることです。しかし、神は旱魃の中で私達に会 い、御自身が如何に信仰の新生の道になるか見せて下さいます。

私達の苦しみや痛みは神の御旨の場合がしばしばあります。「だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。」(1ペテロ4:19)

神に、勝利を得られる前の苦しみは長くないことを感謝すべきかな。「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」(1ペテロ5:10)

2010年12月29日水曜日

祈りの時を保つこと

霊の枯渇を克服するためには祈りの時を保たなければなりません。私達は祈らなければならないのですが、そのようにはしていません。私達が神様との交わりがあるときには私達の重荷は取り去られることを知っています。聖霊は私達に呼びかけます。「来なさい。」と。

魂の渇きを満たす水に来なさい。その子らを哀れむ父に来なさい。全て罪を許し給う命の主に来なさい。あなたを呪う事も、捨てる事も、隠れる事も否む唯一の方に来なさい。

私達は罪悪感や自責で神から隠れようとしますが、紙は決して私達からお隠れになりません。罪を犯したり、路に逸れたりしても、神の恵みの御座に大胆 に進み出よう。神の恵みに戻ろうと努力したり、自責と反省の時間を何時間、何日間持ったりする必要はありません。御父に進み出て、膝を屈め、心を開き、あ なたの苦悩、苦痛を訴えてください。神にあなたの孤独、拒絶、躓きを話してください。

私達はいろんなことを試みますが、祈りません。解決する術を、方法を見つけようと本を読みます。慰めや助言を得ようと友人、牧師、カウンセラーなどいろんな人に行きます。私達は私達の声を探しますが、全てに答を持っておられる声を忘れます。

神様だけと交わるときに勝る、渇きや虚しさを退けるものはありません。隠れた場所で御父に祈ることに代わるものはありません。全ての渇きが解決します。

わたしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ、わが霊をあなたの子らにそそぎ、わが恵みをあなたの子孫に与えるからである(イザヤ44:3)

2010年12月28日火曜日

乾いた時を経る

私が沢山の人達にメッセージをしますが、時には神の優しい臨在から離れ、とても乾いていると感じるときがあります。私は乾き、御言葉を読む気力も、 祈りたい気もおきません。私の信仰が変わったわけでもなく、イエス様に対する愛が冷めたわけでもないし、この世につかろうとの望んでいるのでもありませ ん。

他のクリスチャンが、あなたが置いてきぼりになっているのに、恵みを受けていますが。彼らの祈りに神が答えられて、喜び溢れていると彼らは証しています。イエスを愛するあなたは歩留まりしていて、あなたの周りはだらけているのに彼らは幸せの絶頂にいます。

全ての信仰者は彼らのクリスチャンの歩みで幾度か乾いた時を経験します。イエス様でさえ孤独を感じ、叫びました。「父よ、何故あなたは私をお捨てになるのですか。」

神に近づく以外、平安はありません。枯渇はみ神の栄光の露のみによって解決します。神の応えの確かさによって落胆が退けられます。聖霊の火が心と体と魂を燃やすことが出来るのです。

私はしばしば罪人が感じる自分に虚しいと感じることがありますが、神は決して私を離れておらない事を知っています。小さな、はっきりした声を私は聞 きます。「来なさい、わが子よ。あなたが今通っていることを知っている。わたしの愛は変わっていないまた私はあなたを孤児にはしない。わたしがあなたの父 であり、あなたはわたしの子であるから、共にこのときを通り抜けよう。」私のうちに決して消すことの出来ない聖霊の炎があって、私に語りかけます。神はど んな乾いた時からもわたしを救い出してくださることを知っています。

「主の分はその民であって、/ヤコブはその定められた嗣業である。主はこれを荒野の地で見いだし、/獣のほえる荒れ地で会い、/これを巡り囲んでいたわり、/目のひとみのように守られた。」(申命記32:9~10)

「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。野の獣は わたしをあがめ、山犬および、だちょうもわたしをあがめる。わたしが荒野に水をいだし、さばくに川を流れさせて、わたしの選んだ民に飲ませるから だ。」(イザヤ43:19~20)

2010年12月27日月曜日

あなたは諦めようとしていますか

たくさんの神の僕らが私に教区の信徒が辞めたいと言っていると書いて来ます。「正直な信徒罪悪感や自己嫌悪に苛まれ、失望しでいます。自分の期待が失望に終わる時、彼らは罪に陥り、自暴自棄と成ります。」

益々多くのクリスチャンが自暴自棄と成ろうとしています。一部はイエスへの愛までも止めることさえ考え、落ち込んで自暴自棄となっています。

ある牧師は肯定的なメッセージを続いて語ります。それは、全てのクリスチャンは奇跡を受けたり、皆祈りの答を頂いたりして、幸せな生活を営みます。 勿論、私も神の民が健康で幸せに生きることを望んでいますから、そのようなメッセージを語りたいと思います。しかし、真の正直な、真剣なクリスチャンの多 くはそのようではありません。

たくさんの若者達が諦めようとすることも無理もありません。宗教によって作られた仮面、自立していて、豊かで、成功した、いつも肯定的に考える仮面 に見合うように生きていけません。彼らの世界は描いたほど理想的でもなく、苦しみや身近な人の問題や色々な災難の中に生きています。
パウロも問題について述べています。「...会った患難を、...知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、」(2コリント1:8)

肯定的考えは問題を消えさせたりしません。また、その問題が存在しないと自分に言い聞かしても何も変わりません。何をしたらいいのでしょうか。二つだけ確かなことがあります。それが私に大きな慰めと助けになりました。

• 神は私を愛してくださっています。私達の弱きを知り、助けたいと欲されています。
• 私達の信仰が神を喜ばします。神は私が神を信頼することを願っています。

2010年12月24日金曜日

あなたは生き残ります

幸福とは痛みや傷がなく生きる事ではありません。かえって、真の幸福とは悲しみや苦痛に関わらず、その日を如何に生きるかを学ぶことです。過ぎた時に何が起きたかに拘らず主にあって喜ぶ事を学ぶことです。

あなたは拒まれ、見捨てられていると感じるかも知れません。あなたの信仰が弱いと思ったり、試されると思っているかも知れません。悲しみ、涙、苦痛、虚しさがあなたを時には呑み込むかも知れませんが、神が御座に居られ、神であられます。

あなたは自分か生き残ると言い聞かせ下さい。あなたが生きるも死ぬも、あなたは主に属しています。人生の歩みは続いていきますし、神の助けがあるなら自分がどれだけ耐えられるかに驚くでしょう。

あなたは自らを助けたり、苦痛を止めたりすることは出来ませんが、私達の主があなたにはあるのです。種はその愛しみの御手をあなたに置き、天にあなたを立てます。主は死の恐怖からあなたを救い、あなたへの絶えることのない愛を示すでしょう。

天を見上げ、主にあって自分を力づけて下さい。霧があなたを囲み、あなたは問題を解決する方法が見つからない時、只イエスの御手に委ね、イエスを信 じて下さい。イエス様が全てを成して下さいます。イエス様はあなたが主を信じ、信頼して欲しいのです。彼はあなたが声を出して「イエス様が私を愛して、私 と共に居り、私は失望に終わることはない。今もイエス様は働いて居り、私は打ち捨てられない。私は敗れサタンの餌食にはならない。私は方向を失わない。神 が私と共におり、私は神を愛しているし、神も私を愛している。」

根本は信仰です。そして信仰はこの言葉を絶対的なものとするでしょう。「すべてあなたを攻めるために造られる武器は、その目的を達しない。」(イザヤ54:17)

2010年10月22日金曜日

遅く来た祈りの答え

私たちはしばしばダビデのように祈ります。「わたしの悩みの日にみ顔を隠すことなく、あなたの耳をわたしに傾け、わが呼ばわる日に、すみやかにお答 えください。」(詩篇102:2)「あなたの顔をしもべに隠さないでください。わたしは悩んでいるのです。すみやかにわたしにお答えください。」(詩篇 69:17)ここでヘブライ語の「すみやか」という単語が使われていますが、「今、急いで、これを呼んだら直にする」の意味ですから、ダビデは「主よ、私 はあなたを信じますが、急いで下さい。」と言っています。

 神は急ぐ事はありません。神は私たちが要求したから何かをされません。現に、あなたはしばしば神が答えるか、否がをも疑うことがしばしばです。あ なたは泣き、叫び、断食しそして望みますが、日、週、月が経ち年も暮れます。しかし、あなたは神があなたに耳を傾かれた兆しは何もありません。先ず、あな たは「何かが私の祈りを妨げている」と考えます。やがてあなたは混乱し、こう考えるようになります。「主よ、祈りが答えられるには何が必要ですか? あな たは御言葉で信仰にたって答えると言ったのではありませんかと、何年これを続けなければなりませんか。」

 神様は何故真心の祈りに答えないのでしょうか。神がそうされる能力が欠けているからではありません。また、神は私たちが答えを受けさせたいと思っ ています。この御言葉に答えがあります。「また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。」(ルカ18:1)

 ここで使われている「失望」というギリシャ語は「緩やかになる、信仰が弱々しくなって、疲れて、努力しない。成就されることを待たない」を意味し ます。しかし、聖書は「わたしたちは、善を行うことに疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」(ガラテア6:9)と言って います。主は疲れたり、弛んだりしないで祈る人々をも求めています。この人たちは主を待ち望み、御業が完成するまで諦めたりしないでしょう。そして、神が 答えをもたらす時を見出すでしょう

2010年10月21日木曜日

愛の鞭

神はあなたを愛しているので、あなたの人生を立ち直らせて下さいます。悔い改め神に立ち返る人には愛の鞭が与えられます。あなたの過去や現在の罪の 為に、神の矢が魂に刺さる痛みを感じるかもしれません。しかし、もしあなたが悔い改めの心を持ち、間違いから直りたいと思うなら、それは愛の鞭と言えるの ではないでしょうか。間違いは正されますが、神の愛と慈しみによる正され方があるのです。あなたは信じないもののように怒りの鉄拳を感じるのではなく、神 の慈しみ深い御手による薫陶を受けるのです。

 もしかしたら、あなたは過去の間違いによって苦しんでいるかもしれません。沢山の女性たちが、神様がその人ではないと戒めたにもかかわらず結婚し て苦しんでいます。若者たちは道を誤り、親の心を痛めています。こんなことが繰り返し行われるのは、罪や妥協の根があったからです。

 そしてあなたがどん底に落ちたと知る時、砕かれ、悔い、信仰によって主を求める時、そして聖霊の力の新たな注ぎを受ける時です。それはあなたの内から霊的力が溢れ、リフレッシュされる時です。

 あなたが神を叫ぶ時、神はあなたに力を注ぎます。「私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私の魂に力を与えて強くされました。。。。。たといわ たしが悩みの中を歩いても、あなたはわたしを生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。主は 私にかかわるすべてのことを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。」(詩篇 138:3 7-8)

 クリスチャンにとって最も受け入れ難いことは正しい人が苦しむ事です。キリストがこの世に来られるまで、ユダヤ人は信仰深い事と健康や成功を関連 付けていました。彼らはあなたが裕福であり、健康である事は、神があなたのよい行いに満足しているから祝福されると信じていました。ですから、イエス様が 弟子達に「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい。」といった時、弟子たちは「では、だれが救われることができ るのだろう?」(マタイ19:24-25) と反応をしたのです。

 同じように、今、世間で苦しみを受けない契約を神と結んでいて、必要な時に神を呼べば、全てが解決すると言っている間違った神学があります。しか しこれは福音とは言えません。ヘブル11章の信仰の偉人たちは神と共に歩みましたが、彼らは石打され、罵られ、拷問され、殺されました。(ヘブル 11:36-38)パウロ自身も神と共に歩みましたが、難破し、石打され、鞭打たれ、捨てられ、監獄に入れられ、迫害されました。彼は全てをなくす苦しみ を受けました。何故でしょうか。これらは全て、神の栄光に対する信仰が試され、清められる為に必要なものだったからです。

 神様は試みを通して私達の心に何かを植えつけようとされています。神は私たちがこう告白するのを望んでいます。「主イエス様、あなたは私を守り、 全てを司る事を信じます。何かが私に起きるのはあなたが許されていて、その御旨を信じます。あなたが私に知らしめ、受けさせようとする教えを解るように助 けて下さい。もし、私が義に立ち、心に神の喜びがあり、私の生きるも死ぬも神に栄光を帰すでしょう。あなたは、私の有限な心では理解できない神の御旨と備 えられている栄光があると信じます。私は、私が生きるも死ぬも、私はあなたのものと告白します。」

2010年10月20日水曜日

神様が思いがけないことを私におっしゃいました。

ある晩、祈りの会で神様は私に私達の教会について思いがけない事を言われました。主は私に「教会は今ショック療法が必要です。多くの人は現状に満足 して安住しています。今世で流行っている偽りの神学の波や風から閉ざされ、安全だと思っています。しかし、あなた方はやがて来るものについて備えられてい ません。」と言われました。

愛する皆さん、あなたに内に働く御霊の証しは、あなたが取捨選択するのもではありません。あなたの命がかかっているのです。終りの日に聖霊の証を内に持たないのなら、生き残れません。あなたはアンチクライストの霊に屈服するでしょう。

あなたは聖霊の証が、職場でも、働く時でも、学校でも常に必要です。指導者や政治家を正しく見極めてください。敵キリストの制度に気がついたら組み込まれないためにです。
 
これはイエス様が「灯火の油を持たなかった愚かな乙女」の例えで言いたかったことです。彼らは聖霊を持っていましたが、時が来たときにはその証はなくなっていました。

油が足りなくなっているなら愚かな乙女たちのように、教会やあなたの牧師があなたの魂を保ってくれると思うようにならないで下さい。そして現状を悔 い改め、自分を謙り、心を探ってください。自分の魂に潜む全ての怒りや苦き根を神様が取り除く事を願い、自分の罪を告白し、その罪から離れて下さい。神に 今一度全てを頼るのです。

 神の平安を得て、聖霊の証を内に持ってください。御父にもっと大きな御霊の祝福を願い、あなたの証となり、全ての導きとなるように招いてくださ い。私たちがイエス様の道に全く従うには、値を支払わなければなりませんが、同時に酬いもあるのです。キリストと共に立つ事は、祝福以外ほかにありませ ん。それに益して他の酬い(マタイ19:29)もありますが、この共に立つと言う祝福以外に何が私たちに必要でしょうか。
 
使徒パウロが エルサレムで獄に繋がれた時、時の権力を持っている宗教指導者は彼を殺そうとしました。彼らは使徒パウロが聖所を汚し、偽りを伝播すると訴えました。彼の 命は危うく、ローマの兵士でさえ「パウロが彼らに引き裂かれる」と思ったほどです。だから、彼らはパウロを引きずり出し、城に監禁しました。翌晩、主はパ ウロにこんな事を仰いました。「喜びなさい。もっと問題が沢山おきる」

イエス様に従う値は神の人の人生において明らかにされています。-私たちが主のようになりたいと思っているのであれば、その値も受け入れるべきで す。その値を耐えることはやがて喜びとなります。イエス様がどのような時も私たちと共に居られる事を知ることができるからです。その値を超えるイエスキリ ストの尊い臨在があなたの報いとして与えられることを皆さんは知るべきです。

2010年9月14日火曜日

巧妙な戦士

何か私達に敵対することが起きると、神様の憐れみが私達の内に流れ込みます。一本の木が、強い嵐に吹き付けられるとどうなるか、想 像してみて下さい。猛風によって、根こそぎ飛んで行ってしまいそうになります。枝は折れ、葉は散ってしまいます。根は引きちぎられ、芽はもぎ取られます。 そして嵐が去った後その木は、絶望的な姿になってしまいます。

しかし、近づいてよく見てみましょう。同じ嵐によって、周りの地面が掘り起こされて、根が張りやすくなりました。その木は、水と栄養を確保するため の、新たな道を発見したのです。そして古く死んでいた枝は、捨て去られました。芽はもぎ取られてしまったかも知れませんが、すぐに新芽が元気に顔を出すで しょう。その木は嵐によって強くされ、目に見えない形で成長を遂げたのです。収穫の時になれば、その木は多くの実を結ぶでしょう。

あなたは今、嵐の中にいらっしゃるかも知れません。猛風が吹き付け、あなたを激しく揺さぶるので、「もう倒れてしまうかも知れない」と思っておられ るかも知れません。愛する皆さん、慌てないで下さい。その様な嵐の中にあって、あなたは霊的な根をしっかり張ろうとしているのだと、気付いて下さい。あな たを砕き、罪に対する嘆き悲しみを増し、神様の義に対する飢えを強めようと、神様があなたを成長させておられるのです。

神様はあなたを、戦いを恐れていながらも、巧妙で勇敢な十字架の戦士として整えておられるのです。あなたは時に、自分に失望してしまうことがあるか も知れませんが、主はあなたに対して、決して失望されません。事実、神様は望まれるならば、あなたを困難の中から簡単に抜き出すことがお出来になります。 しかし神様はそうなされません。なぜなら困難によって、あなたの内に、神様に対する飢え渇きが強められていると御存知だからです。

ローマ人への手紙5章3節は、こう語っています、「苦難は忍耐を生み出します。」ここで使われている「生み出す」という言葉は、“完成する”という意味があります。

第二コリント人への手紙4章17節に、「わたしたちの一時の軽い困難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」と記されています。ここで使われている「もたらす」という言葉は、ローマ人への手紙5章3節で使われているのと同じ言葉です。

2010年9月13日月曜日

霊的成長について、すべてのクリスチャンが知るべきこと

「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。」(第二テサロニケ人への手紙1:3)

パウロによる何と素晴らしい、テサロニケのクリスチャン達に対する賞賛でしょうか。ここでパウロが言っていることを、要約してみましょう。それは、 「キリストにある信仰と、お互いに対する愛、その両方において、あなたがたがどれだけ成長したかを見ることは、本当に素晴らしい。どこにいっても、私はあ なたがたの霊的成長を自慢しているのです。あなたがたのことを、ただ神様に感謝します」ということです。

この短い聖句の中で、パウロは私達に、愛と一致とにおいて成長しているキリストの体について、驚くべきイメージを与えてくれています。パウロが用い ている「大いなる成長」という言葉は、ギリシア語で「他を超えて、さらに成長する」という意味があります。個人的にも集団的にも、テサロニケの信者の信仰 と愛は、他の教会のそれを、はるかに超えていたのです。

もちろんテサロニケのクリスチャン達は、イエス様が再び来られるまで、ただ自分達の信仰にしがみついているだけではありませんでした。彼らは学び、 動き、成長していたのです。そして彼らの人生が、その事実を証明しています。パウロによると、彼らの噂は、アジアの教会中に広まっていたということです。

察するに、彼らが聞いていたメッセージは、さらに深くキリストと歩みたいという思いを、彼らの内に起こさせていたのでしょう。それは彼らの肉の野望 を溶かし、キリストらしくない習慣に気付かせました。そして彼らの内におられる聖霊が、民族や人種の壁を打ち壊してくださいました。彼らは、金持ちも貧し い人も、教育を受けた人もそうでない人も、どんな人でも受け入れる術を発見しました。そして愛の内に、お互いのことを思いやり合ったのです。

もしあなたが神様の御言葉によって養われるなら、人生において必ず継続して、霊的に成長していくはずです。そしてそれは自動的に起こるものなのです。

私の教会に集われる方が全員、テサロニケの教会についてパウロが語った様な「大いなる成長」をしているか、明言出来ません。しかし、それは多くの方 について当てはまることだ、と言うことが出来ます。なぜなら、油注がれた真の神様の御言葉がメッセージとして語られるなら、それは必ず成長を促すからで す。また使徒パウロは、真の御言葉の乳を望む者は、必ず成長すると言っています。

パウロは私達の霊の成長が、聖霊の働きであると説明しています。聖霊は常に働いておられ、私達を栄光から栄光へと変えておられる、とパウロは言いま す。御霊は絶えず私達の思いを新たにし、肉を正し、私達の内なる人に純粋さをもたらそうとしておられます。また私達の心の内で、怒り、苦い思い、恨み等、 すべての悪しき思いを消し去るべく、働いておられます。そして御霊は、私達の内に親切、柔和、お互いを許す心を実らせてくださいます。聖霊は、私達をキリ ストの内に、成長させてくださるのです。私達が主の御名にふさわしい言動を行うよう、教えてくださっているのです。

さらにパウロは、こう私達に勧めています。「だれでも、自分をよく確かめなさい。」(第一コリント人への手紙11:28)ここで使われている“確か める”という言葉は、ギリシア語で「綿密に検査する、試みる」という意味があります。パウロは「自分が神様の御言葉通り歩めているか、試してみなさい」と 言っているのです。私達は常に「変わっているだろうか。もっと愛と柔和とに満ちることが出来ているだろうか。家族や友人を、尊敬をもって接することが出来 ているだろうか。私の会話が、もっと正しいものとなっているだろうか」と自問する必要があるのです。

2010年9月10日金曜日

目に見えない成長

クリスチャンの中には、自分の霊的成長を語ることの出来る人達がいます。そしてあなた自身も、彼らの人生にはっきりとした変化を見ることが出来ます。その人達は、いかに聖霊が彼らの敵を打ち倒されたかを証しし、あなたも彼らの勝利を共に祝って喜びます。

しかしこの様なクリスチャンは、特例です。ほとんどのクリスチャンは、自分達の人生に霊的な成長を見ることが出来ません。彼らは祈り、聖書を読み、心から主を求めます。霊的な成長を妨げるものは、何もないのです。

しかし彼らは、自分達でその成長を見ることが出来ないのです。私がこのタイプのクリスチャンの一例です。私は、キリストの義の内に歩んでいるという 自覚がありますが、成長していると感じたことがありません。事実、時折私はクリスチャンらしかぬ言動をしてしまっては、自分を責めてしまいます。その様な 時、「私はクリスチャンになって何年も経つのに、どうして学ぶことが出来ないのだろう」と思ってしまいます。

おそらくテサロニケのクリスチャン達は、パウロが彼らを賞賛した時、非常に驚いたことと思います。(第二テサロニケ人への手紙1:3参照)彼らはきっと「私が大いに成長しているって?パウロは寝ぼけているに違いない」と思ったことでしょう。

しかしパウロは、霊の成長が隠され、秘めた所で行われるもとだと知っていました。聖書はそれを、観察することの出来ない、花や木の成長と同じ様なも のだ、と言っています。「露のようにわたしはイスラエルに臨み、彼はゆりのように花咲き、レバノンの杉のように根を張る。その若枝は広がり、オリーブのよ うに美しく、レバノンの杉のように香る。」(ホセア書14:6〜7)

神様は私達に、こう語っておられます。「ゆりを見てごらんなさい。その成長を目で見てみなさい。その日の終わりが来ても、肉眼では何の変化も見られ ないはずだ。しかし、わたしが露によって、毎朝そのゆりに水をやっている。だからそれは必ず成長するのだ」と。これと同じことが、霊の成長にも言えます。 それは肉眼で、見ることは出来ません。

人々の中には、救われてから、過去の罪にまったく左右されない方がいます。その人達は、「イエス様を受け入れた瞬間から、主が誘惑を取り去ってくだ さいました。その時から完全に私は、その罪から解放されています」と、証しします。私は、多くの元薬物依存症の人達が、この様な経験をしているのを知って います。

しかし大半のクリスチャンにとって、これは彼らの証しとは異なります。イエス様を受け入れてから何年経っても、昔の悪習慣が戻ってきます。それは、 彼ら自身も忌み嫌い、二度と欲しくも見たくもないと思っていることです。しかしどれ程苦しんでも、最後の思いは消え去りません。時が経つにつれ、彼らは失 望してしまいます。彼らの魂は、「主よ、いつまで苦しめばなりませんか。いつになったら、この鎖は解き放たれますか」と叫びます。さらに悪魔がいつしか やってきて、「そのことから解放されることは不可能だ。こんな状況下にいて、お前が霊的に成長することなど出来ない」と語ります。

皆さん、勇気を出して下さい。良い知らせがあります。あなたはこれらの苦しみにあっても、その最中で成長しておられるのです。実際、あなたはその苦しみ故に、成長しておられるのかも知れません。

安心して下さい。もしあなたの内に、神様に対する畏れがあるなら、あなたは嵐の中から、より力強くなって、出て来ることが出来るでしょう。あなたは 敵と戦う時に、神様の力と憐れみの全てを呼び求める訓練をしているのです。そして弱さを覚えていたとしても、その力と憐れみが、あなたを強めてくださいま す。第一に、あなたは切羽詰まって祈ることを覚えます。第二に、あなたのプライドは、完全にはがされてしまいます。ですから実は嵐によって、あなたの人生 のすべての面に、霊的な防御壁が立てられるのです。

2010年9月9日木曜日

神様の愛を知り、信じ、信頼し続けなさい

霊にあって陶酔し、困難にも試練にも遭わずにいるのなら、誰でも喜び続けることが出来ます。しかし神様は、どんな時でも、特に試みにある時にこそ、私達が神様の愛の内に留まる様、望んでおられるのです。

使徒ヨハネは、どの様に神様の愛に留まればよいのかを、とても明白に語ってくれています。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信 じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(第一ヨハネによる手紙4:16)一言で言え ば、もし私達が神様の愛に留まるなら、私達は神様の内に留まることが出来るということです。

ここで使われている“留まる”という言葉は、「待ち望む状態にいる」という意味があります。言い換えれば、神様は私達に、神様の愛が日々新たにされ るということを、待ち望んで欲しいということです。私達は毎日、神様が私達を愛し、そして愛し続けてくださるのだ、ということを知りながら生きる必要があ ります。

現実的には、私達のほとんどが、自分の感情が上下するのに合わせて、神様の愛に近づいたり遠ざかったりしてしまいます。何か良いことをした時だけ、 神様の愛の内にいて良いのだと感じてしまいます。しかし私達が試練や困難にある時、また神様の御心に反したことをしてしまった時は、神様の愛を疑ってしま います。しかしその様な時こそ、神様の愛に頼るべき時なのです。これらの聖句を通して、神様は私達にこう語られています。「あなたがどの様な試練に直面し ようと、あなたに対するわたしの愛を、決して疑ってはなりません。もし進んでわたしの愛に信頼を置くなら、わたしがあなたに望む、その通りの生き方をして いることになるのです」と。

エレミヤ書31章は、素晴らしい神様の愛を記しています。イスラエルは背信の時代にありました。人々は肥え太り、富に溢れ、ありとあらゆる悪に手を染めていました。

すると突然、彼らの欲が苦みに変わりました。彼らは、五感を満足させることに対する喜びを失ってしまったのです。彼らは叫びました、「主よ、私達は 道を失ってしまいました。方向転換をするために、あなたが必要です」と。神様は、彼らのこの悔い改めの叫びを聞かれ、愛に溢れた神様の心が、彼らの元へと 飛んで行きました。神様は民を、杖と教えとによって懲らしめられました。そしてイスラエルは「あなたはわたしを懲らしめられました。どうかわたしを立ち帰 らせてください。わたしは立ち帰ります。わたしは背きましたが、後悔し、思い知らされ、悔い改めました」と叫びました。(エレミヤ書31:18〜19より 抜粋)

ここでの神様の御言葉に、耳を傾けて下さい。「彼を退けるたびに、わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられない。」(20節)「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。」(3節)

これこそ、神様の愛について、あなたが知るべきことです。神様はその民に、「わたしはあなたを懲らしめ、厳しい真実の言葉を語らねばならなかった。 しかしそれでもあなたは、わたしが注いだ恵みと慈しみにも関わらず、わたしに対して罪を犯した。わたしの愛に背き、わたしを拒絶した。それでもなお、わた しの憐れみに満ちた心は、あなたに対して動き、苦しみにあるあなたを顧みる。そしてあなたに憐れみを注ぐ。わたしはあなたを赦し、完全に癒す」と言われる のです。

2010年9月8日水曜日

栄光のうちに歩む

困難の時を受け入れ難くさせている理由の一つは、神様の栄光に関する理解にあります。あなたは「その様なことは非常に崇高で、神学 者に任せた方が良い題材だ」と思われるかも知れません。しかし神様の栄光は、すべての信者にとって、非常にリアルで実践的な価値を持っていると、私は確信 しています。それを理解することによって、人生に打ち勝つ扉の鍵を開け放つことが出来ます。

神様の栄光は、主の存在と神性を現すものです。旧約聖書でモーセが神様の栄光を垣間見たことを、覚えておられるかも知れません。それまで、主は「わ たしはある」という言葉の他、御自身について何も語られずにモーセを遣わされました。しかしモーセは、神様についてもっと知りたいと願いました。ですから 彼は、「主よ、あなたの栄光を見させて下さい」と主に請うたのです。

神様はモーセを岩の隙間に隠すことで、この要求に応えました。そして聖書は、神様がモーセに御自身の栄光のすべてを現された、と記しています。(出 エジプト記34:6〜7参照)神様は私達に、御自身の人類に対する偉大なその愛を通して、その栄光を知って欲しいと望んでおられます。そしてそれこそ、神 様がモーセに現された方法です。

この箇所は、主がどの様な方であるか、私達が理解する上での要となる箇所だと思います。神様の栄光について考える時、私達はよく、神様の尊厳や威 光、力や権力など、神様が民に対して現されているものを思い浮かべます。これらのすべては、神様の栄光を見た結果と言えるでしょう。しかし、それらは神様 が私達に知っていて欲しいと望まれる、神様の栄光の姿ではないのです。主は、私達にその愛を示し、私達を赦し、憐れみを注ぎ、御自身と和解させることを、 永遠に待ち望んでおられるのです。

神様の栄光の現れは、それを受ける者や、その理解を祈り求める者に対して、非常に強い影響をもたらします。その時までモーセは、主を「律法と怒りの 神」としてしか見ていませんでした。彼は主の臨在にあって畏れに身を震わせ、イスラエルのために主に泣き叫び、請い求めました。これが彼にとっての、主と の関係の土台となっていました。

しかし神様の栄光を垣間見た今、モーセの主に対する恐れは消え去りました。その代わり、主を礼拝する様に、心動かされたのです。「モーセは急いで地 にひざまずき、ひれ伏した。」(出エジプト記34:8)彼は神様が、ただ彼を震え上がらせる恐ろしい雷や稲妻の様な方ではないと知ったのです。実際はその 反対で、神様は愛であり、その神性は憐れみと優しさに満ちたものだったと気付いたのです。

ここで聖書が示している、素晴らしい真理を理解することが出来ますか。真の礼拝は、何の見返りも顧みない、神様の私達への愛によって揺り動かされた 心から、湧き上がってくるものなのです。それは神様が御自身を、その良さを、憐れみを、赦しを、私達に与えてくださるのだ、という悟りに基づいています。 ですからもし私達が神様を、霊と真とによって礼拝するのなら、私達の礼拝は、この素晴らしい真実に基づくものでなければなりません。

神様の栄光を受け取ったなら、私達の礼拝は絶対に変わります。何故でしょうか。それは神様の栄光を見ることで、私達の生き方が変わるからです。それ は私達の態度や行動に影響をもたらし、私達を「栄光から栄光」へと造り変えて、さらに主に似る者としてくださいます。神様の愛と憐れみが現されるその度 に、それは私達に、超自然的な変化をもたらすのです。

2010年9月7日火曜日

キリストを通して与えられる神の愛

ヨハネによると、神様の愛のすべてがイエス様の内に宿っているということです。ヨハネはこう記しています。「わたしたちは皆、この 方の満ち溢れる豊かさの中から受けた。」(ヨハネによる福音書1:16)ではどの様にして、私達は御父の愛を受けたのでしょう。それは、キリストの内にい ることによってです。

あなたは、キリストを通して神様の愛が与えられると知ることが、なぜそんなに大切なのだろう、と思われるかも知れません。それが私達の日常生活と、どう関わりがあるのだろうか、と。

どうやって神様の愛が、私達の日々の生活に影響をもたらすのでしょうか。その答えは、キリストの内に見つけなければなりません。なぜならイエス様は すでに、御父が御子を愛された様に、私達をも愛してくださる、と語ってくださいました。ですから、御父の愛がどの様に、イエス様の生活に影響をもたらして いたか、を見れば良いということです。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(第一ヨハネによる手紙3:16) ここにイエス様の内にある、神様の愛の実が見られます。イエス様は御自身を、他の者のためのいけにえとして献げられたのです。この聖句の後半部分は、私達 の人生における神様の愛の目的を記しています。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」神様の愛は、私達も自分の体を生けるいけにえと して献げる様、導いておられるのです。

兄弟・姉妹のために、本当に命を捨てるということがどういうことか、考えたことがありますか。ヨハネは、異国の地において殉教者になることを、話し ているのではありません。臓器提供者となることを、話している訳でもありません。また死刑囚の代わりに、刑を受けることを話している訳でもありません。キ リストだけが、その様ないけにえを献げられるのです。そうではなく、兄弟・姉妹に命と希望を与えられるクリスチャンとは、死んでいる者だけです。それはこ の世に、すなわち、プライドや野望等、自分に完全に死んだ僕ということです。

この“死んだ”クリスチャンは、聖霊がその人の魂の在庫確認をすることを許している人です。その人は自分の心に残っている、汚いもの、神様のもので ないものを見ます。そして神様の御元に行き、「主よ、私を焼き尽くして下さい。すべて取り去って下さい」と、叫ぶのです。その人はキリストの血潮によって 聖められなければ、他の兄弟・姉妹のために命を捨てることが出来ないと知っているのです。

2010年9月6日月曜日

神様の愛

最近になって私は、聖霊により揺り動かされ、この聖句へと導かれました。「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよ りどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れ みを待ち望みなさい。」(ユダによる手紙20〜21)この箇所を読みながら、私は御霊がこう囁かれるのを聞きました。「ディビッド、あなたはわたしの完全 なる喜びと愛を、まだ経験していない。神学的にはよく理解しているが、その快感とわたしの愛のうちに留まることの平安を体験していない。今まであなたが経 験してきたものは、足首までのもの。しかし実際は、あなたの目の前に、自由に泳ぐことの出来る、わたしの愛の大海原が広がっているのだ」と。

聖書は、神様の愛についての真実で満ちています。しかし時折私は、神様がなぜ自分の様な者を愛されるだろうか、と思ってしまいます。決して神様の愛 を疑っている訳ではありません。それは逆に私自身の問題で、神様の私に対する愛を完全に知り尽くし、信じ尽くしていないのです。

私達が神様を信じる時、神様の愛の一部が明らかにされます。もしクリスチャンに、神様の愛について何を知っているか尋ねるなら、その多くは「私のた めに御子を遣わし、死んでくださったことで、神様の愛が分かります」と答えるでしょう。ヨハネによる福音書の3章16節を引用するでしょう。「神は、その 独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

この真実を噛み締める瞬間とは、本当に素晴らしいものです。あなたは突然、「神様は、私が迷子で他人としてさまよっていた時から、私を愛していてく ださったのだ。そして私のために、御自身の独り子をいけにえとされたことで、私への愛を示してくださったのだ」とことを悟ります。

しかし、一握りのクリスチャンだけが、神様の愛に留まることを学びます。主に対する愛について、少しは知っていますが、神様の私達への愛を追求する ことをあまりしません。事実、もしクリスチャン達に「神様の愛が書かれている、聖書の箇所を教えて下さい」と尋ねても、おそらく数カ所しか思い浮かべるこ とが出来ないでしょう。しかし、神様の愛を知ることこそ、人生に打ち勝つ秘訣なのです。多くの人は、神様の愛を知らないために、霊的に冷めきり怠惰になっ てしまいます。彼らは、サタンに対する最大の武器が、聖霊の解き明かしにより、神様の愛を完全に知ることだと知らないのです。

イエス様は地上での最後の祈りの中で、こう言われました。「父よ、あなたは天地創造の前からわたしを愛してくださいました。」(ヨハネによる福音書 17:24)これは何と素晴らしいことでしょう。キリストは創造の前より、父によってひたすらに愛されていたのです。 そしてイエス様は、次の偉大な祈りを捧げました。「父よ、あなたが私を愛しておられたように、彼らをも愛しておられます。」(21、23節)またこの様に も祈られました。「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるように。」(26節)キリストは「父よ、あなたがわたしを愛された ように、わたしの体の内に集める者達を、あなたが愛してくださると知っています」と言っておられるのです。

ここに秘められたメッセージは、御父は永遠の昔よりイエス様を愛しておられ、私達をも同じ様に愛されたということです。事実、御父の永遠の思いの中 に、考えとして人間のことが浮かんでいた頃から、主はすでに私達の詳細を知り、救いの計画を立てておられたのです。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛 して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エペソ人への手紙1:4)

神様はどれ程長い間、あなたを愛してこられたのでしょうか。神様が存在されてからずっとです。なぜなら、神は愛だからです。愛することこそ、神様の 性質なのです。神様は、あなたを罪人として愛されました。神様は、あなたが胎にいる時から愛されました。神様は、世界が生まれる前からあなたを愛されまし た。あなたに対する神様の愛は、始まりがありません。そしてそれには終わりもないのです。

神様はいつ、あなたを愛することを止められるでしょうか。それは神様が、御子を愛されるのを止められる時です。そしてそんなことは、絶対にあり得ま せん。キリストはこう語っておられます。「イエスは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネによる福音書13:1)

2010年9月3日金曜日

神様の愛に留まりなさい

数年前、神様は私の心の内に、ロングアイランドで、少年の家を始めなさいという思いを植えられました。この働きに関して私は、強い 主の導きを感じました。しかし、そのたった18ヶ月後に、州が少年の家運営に関する厳しい制令を下し、私達はその家を閉鎖するしかありませんでした。

その短い運営期間中、私達は4人の少年をお世話しました。少年の家が閉鎖されてから、彼らとは音信不通になっていました。私はよく、この少年の家事 業のことを思い出しては、それが最大の失敗であったと思っていました。30年以上もの間、なぜ神様が私にその事業を進めることを許されたのか、分からない でいました。

しかし最近になって、私はクリフォードという名前の男性から、一通の手紙を受け取りました。その手紙の中で、彼は次の様なことを語ってくれました。

「ディビッド兄弟、私はロングアイランドの少年の家に送られた、4人の少年の一人です。そこでの寮母・父さん達は、とても親切で優しい方々でした。 私達に聖書を教え、教会へ連れて行って下さいました。ある日、彼らは私達を、リバイバル集会が行われている教会へ連れ行って下さいました。その時の私は、 非常に苦々しい思いで一杯でした。しかしその教会で、聖霊様が私の心に触れ始められたのです。私はメッセンジャーが『イエス様はあなたを愛しています』と 言うのを耳にしました。長年の痛み、迷い、絶望感が露にされました。私はひざまずき、祈りました。それは35年前のことです。今、神様は私を説教者して召 され、フルタイムの奉仕者となるよう、導いてくださっています。この感謝の気持ちは、この間ずっと、私の中で温められていました。私の面倒を見て下さっ て、本当にありがとうございました。神様の愛とは何か、知ることが出来ました。」

この手紙は、私達がキリストのために行うことは全て、決して無駄になることはないのだと証明してくれます。あの少年の家は、失敗ではなかったのです。なぜなら一人の失われた、さまようユダヤ人の少年が、神様の愛の意味を見つけることが出来たからです。

2010年9月2日木曜日

サタンの巧みな業

「アッシリアの王は、ラブ・シャケを大軍と共にヒゼキヤ王のいるエルサレムに遣わした。」(列王記下18:17)アッシリアは、今 日の「繁栄への手引き」を象徴しています。悪魔はあなたの城壁の周りを、力強い者、美しい者、またすべてにおいて成功を収めているように見える者を率い て、練り歩きます。その者たちを目にする時、あなたは囚人であるかのように意気消沈してしまします。

罪にある者からの最初の罠とは、信者の完全なる主への信頼を疑うことです。王の遣いであったラブ・シャケという名前は、「酔いつぶれた遣い」という 意味があります。彼は主を信じる人々を嘲りました。(列王記下18:19〜20参照)彼の言い分は、「神はお前たちをこの混乱から救い出さない。お前たち はただ、滅びるだけだ。大変な危機にあっても、お前達の信仰など、何の役にも立ちやしない」ということでした。

サタンは、さらにこれに一ひねり加えました。サタンはあなたに、神様がこれらすべての困難の背後にいるのだと囁きます。アッシリアの使者は、こう叫 びました。「わたしは今、主とかかわりなくこの所を滅ぼしに来たのだろうか。主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになった のだ」と。(列王記下18:25)サタンは、神様があなたに仕返しをし、あなたに怒りを覚えていらっしゃると信じ込ませたいのです。これこそ、サタンの狡 猾な偽りです。サタンは神様があなたを見捨て、困難と悲しみの中に突き落とされたのだと、あなたに信じ込ませようとしているのです。すべての問題は、あな たの過去の罪に対する神様からの懲らしめなのだと、信じ込ませたいのです。それを信じてはなりません。それはあなたを滅ぼそうとする、サタンの企みです。

私達の主は、救い主であり、守り主です。イザヤはこう語っています、救い主が来られるのは、「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶ らせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ばれる」と。(イ ザヤ書61:3)

愛する聖徒の皆さん、あなたは滅びに向かってなどいません。あなたの心が本当に主に向けられているからこそ、あなたは攻撃を受け、敵の偽りに惑わされているだけなのです。サタンは神様へのあなたの信仰を、打ち砕こうとしているのです。

2010年9月1日水曜日

戦いへの招き

「また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍してくる敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、 まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち 物を一切捨てなければ、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカによる福音書14:31〜33)

エノクはこう、預言しました。「見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。」(ユダの手紙14)聖書は、私達が主のための王や祭司で あり、サタンとの戦いへ行く何十万もの人々を率いるのだと記しています。サタンが私達に敵対するのは、私達をひたすらに憎んでいるからです。(黙示録 12:17参照)

これから来ることについて、私達は準備を整えねばなりません。霊の戦いが起こり、神様の民に対して、悪の洪水が押し寄せることを覚悟しなければなり ません。もし私達が、キリストを知る決意を固めるなら、キリストにあって、私達は絶対に打ち負かされることがないのだと、知る必要があります。聖書はこの 様に記しています。「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」(第一ヨハネの手紙4:4)神様は私達が、敵のどの様な力にも必ず 勝利すると、保証してくださっています。すべての天の大軍が、私達のために戦ってくださっているからです。

神様がさらに聖霊を私達に与え、全地と地獄の群れに対して、私達一人ひとりがこう叫ぶことの出来るように祈ります。「だれが、キリストの愛からわた したちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。しかし、これらのすべてのことにおいて、わたしたちは、わ たしたちを愛してくださる方によって、輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものの、現在のものも、未来の ものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わた したちを引き離すことはできないのです。」(ローマ人への手紙8:35、37〜39)

これこそ、イエス様を飢え求める者の上げる、ときの声なのです。

神様にあるすべての男女は、キリストに対しての生けるいけにえとなろうと決心した時から、地獄の悪しき企みの標的となります。信仰による聖い歩みをしようと心に決めている者に対して、地獄の群れが放たれます。

あなたが、サタンの偽りに満ちた計画を危ぶませるものとなったため、サタンはあなたを攻撃し、その道に障害物を置くでしょう。あなたは不戦敗し、諦め、いい加減で、実を結ばずにさまよう者となる道を選択することが出来ます。

でも私は、悪魔の計画に反旗を翻し、信仰によって立ち上がり、戦うことを選びます。サタンは完全に主に信頼をおく者を、押さえつけておくことが出来ないのです。

2010年8月31日火曜日

完成させること

「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしない と、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することは出来なかった』と言うだろう。」(ルカによる福 音書14:28〜30)

キリストは、彼に従う者の多くが、完成するに必要なものを持っていないことを知っていました。彼らが背を向け、レースを完走することがないと知って いました。キリストを知り、成熟した弟子となり、もっとキリストに似る者とされようという、完全なる志をもって始めながら、途中で離れて行ってしまうこと ほど、信者にとって悲劇的なことはありません。その様な人は、最初に費用を計算しなかったので、土台を築きながらも完成出来なかった人です。

実際にレースを完走した人達と会うことは、何と素晴らしいことでしょうか。これらの信者は、キリストの知恵と知識に満ちています。彼らは日々、瞬間 毎に、変えられています。パウロは彼らに、励ましの言葉を述べています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄 光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(第二コリント人への手紙3:18)彼らが望むのは天国では なく、栄光に満ちたキリストの御姿なのです。

このディボーションを読まれておられる方の中には、信仰の歩みにおいて一時休止していたり、後戻りしたりしておられる方がおられるかも知れません。 それは小さなステップの様に見えるかも知れませんが、神様の愛から大きく離れる原因になってしまいます。もしこれがあなたに当てはまることでしたら、聖霊 があなたを引き戻そうとされておられることに、気づいてください。悔い改め、自分に死に、完全に委ねることへと。そしてこの瞬間、時というものが重要な役 割を果たします。もしキリストを知りたいと思われるなら、今、そうして下さい。そして、完成させて下さい。

2010年8月30日月曜日

愛と憎しみ

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(ルカによる福音書14:26)

ギリシア語で「憎む」とは、“比較的に言って、少しの愛を注ぐ”という意味があります。イエス様は、この世のものいかなるものが、主への愛とは比較出来なくなるほど、 私達にイエス様だけを絶対的に強く愛するよう、呼びかけておられるのです。

考えてみて下さい。主の麗しい臨在に入り、何も求めなくてよいことが、どういうことか、私達に想像出来るでしょうか。ただ感謝の意から主に手を差し伸べ、主から完全に愛されるということが、想像出来るでしょうか。

私達は祈りにおいて、自己中心的かつ自分勝手になってしまいました。「これを下さい、来て下さい、祝福して下さい、用いて下さい、守って下さい」等 々と。これらの祈りはすべて、聖書に基づくものかも知れませんが、それでもその焦点は、私達に当てられています。主に対する働きでさえ、自分勝手なものに なっています。主への働きが祝福され、自分の信仰が本物であると証明される様、望んでいるからです。主は、私達がどれほど主のために働くかより、主にあっ てどの様な者にされていくかに興味を抱かれています。

これを読んでいる方の中で、ミニストリーの扉が閉ざされ、心を痛めておられる方がいらっしゃるかも知れません。自分は物置にしまわれてしまった、と 感じておられるかも知れません。またある方は、必要を覚えている宣教地で働くことで、さらに神様の役に立てると思っておられるかも知れません。しかし、隠 れた場所で祈ることで神様に愛を示すこと程、神様の役に立つことはないと、私は思います。私達が主を求める時、また神様を知るために御言葉を探り続ける 時、私達は一番役に立っているのです。どんな働きをするよりも、ただ神様と二人っきりで交わることが、神様を祝福し喜ばせます。神様が私達に働きを委ねよ うとされる時は、それが近くであっても遠くであっても、神様との交わりから自然に生まれます。神様にとって、私達が世界を勝ち得るよりも、私達自身の心が 完全に神様に向けられていることの方が、もっと大切なのです。

魂を得る働きを見下している訳ではなく、すべての霊的に祝福された宣教は、神様との交わりから生まれると、言いたいのです。常に祈りにあって主と共にいる証し者は、知恵と、絶好の機会と、神様の御心を行うための力が与えられています。

2010年8月27日金曜日

主の食卓

ある古いゴスペルソングが、私にとって、非常に奥深い意味を持っています。その歌詞は「イエス様は食卓を備えられている。それは神様の聖徒らが食する所。選ばれた神の人々が来て楽しむ。」

何て素晴らしい考えでしょう。主は従う者達に、天国で食卓を備えてくださっているのです。イエス様は、弟子達にこう言われました。「わたしの父がわ たしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、私の国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座 に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(ルカによる福音書22:29〜30)主への飢えを覚えるとは、信仰によって、私達もこの食事の座に 着くということです。

使徒パウロが「過越祭を祝い続けようではありませんか」(第一コリント人への手紙 5:8)と命じるのは、私達のために、天国においてキリストと共に、王の食事の席が備えられているということを、私達が明確に理解するためです。パウロは こう言っています、「必ず出席しなさい。あなたの席が空席になっているとは、言わせてはなりません」と。

しかし残念なのは、イエス・キリストの教会が、この「祭りを祝い続ける」ということの意味を理解していないということです。私達は、キリストによっ て引き上げられた後、御国で彼と共に座することの名誉と素晴らしさを、理解することが出来ません。私達は、食卓に着くことで、精一杯になっています。正餐 よりも、仕えることで霊的な喜びを得るよう、私達は勘違いを犯してしまっています。私達は、もっともっと主のために働く一方で、もっともっと、主御自身を 知らなくなっています。主のために、私達の心も体も酷使しながら、ほとんど祭りをお祝いしません。

天国において主が、その僕や、牧師や、羊飼い達から、他のことよりもただ一つ求められることとは、主の食卓に共に座することです。この食卓は、霊的 な交わりを持つためのもので、毎日備えられています。「祭りをお祝いする」とは、食べ物と、力と、知恵と、交わりを求めて、主の元に継続的にやって来ると いうことです。

十字架の後、すべての霊的な偉人達には、一つの共通点がありました。彼らは主の食卓の座を畏れたのです。彼らはキリストの偉大さに、我を失っていました。彼らは皆、亡くなる時に、自分達がいかに、まだキリストとその生涯のことをよく知らないでいるかを嘆きました。

私達が今日描いている、キリストのビジョンは、あまりに小さく制限されています。この堕落した時代の、複雑で増加するばかりの問題に打ち勝つために は、偉大さを語る福音が必要です。神様は、ただこの世の問題を解決されるだけではありません。神様の偉大さの内にあって、それらの問題は一飲みにされてし まいます。キリストの偉大さをはっきり持つ人は、どんな問題も、悪魔も、この世の力も、恐れる必要がありません。その人は、いかにキリストが、そのどれよ りも偉大であるかを知っているからです。もし私達がこの様に、キリストの偉大さについての理解を抱くなら、すなわち、それがいかに制限なく、豊かで、莫大 であるかを知るならば、私達はもう二度と、人生の問題に心を失うことがないでしょう。

パウロは、私達の良き見本です。彼はキリストの啓示を、ただただ深めようと決意していました。事実、彼がキリストについて知っていたことはすべて、 啓示から来ました。それらは彼が、主の食卓に座する時に与えられ、聖霊によって明らかにされたのです。思い出して下さい、彼がエルサレムにいる弟子達を訪 ねていったのは、改心した3年後のことでした。そして彼は、弟子達とたった15日間一緒にいただけで、すぐに宣教の旅に出て行きました。後にパウロはこう 語っています、「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。」(エペソ人への手紙3:3)聖霊は、神様の深く隠された秘密を御存知です。パウ ロは恵みの賜物によって、「キリストの計り知れない富」(エペソ人への手紙3:8)について理解し、その福音を語り告げることが出来る様、常に祈り求めて いました。

真実の言葉を見つけるために、様々な矛盾する声をかき分けるだけでは満足出来なくなった信者を、主は探しておられます。深く、個人的な交わりから来る主の啓示を、私達が求めるよう、主は願っておられます。

2010年8月26日木曜日

信仰の戦場から

パウロがエルサレムに行くと決めたのは、そこでリバイバルが起きていたからではありません。彼は失望した宣教師が、神様からの啓示を求めてやって来 る状況とは違います。彼はエルサレムに行く理由を、こう明言しています。「わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。エルサレムに上ったの は、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、話すためでした。」(ガラテヤ人への手紙2:1〜2より抜粋 )パウロは、神様が御自分の民に示したいと願っていた奥義を証しするために、エルサレムに向かったのです。

この信仰の人は、個人的に栄光に輝くキリストの啓示を体験しました。彼が宣べ伝えていた教義は、独り部屋に閉じこもって、本や解説書を読むことで学 んだものではありません。彼は独り神学的な真実を瞑想することにふけり「いつか私の研究の成果が、未来の世代の人々に読まれるのだ」と夢見る哲学者ではあ りませんでした。

どうやって、またどこからパウロが彼の手紙を執筆していたか、お伝えしましょう。彼は暗い、湿った監獄から手紙を書いていたのです。背中に鞭打たれ、血を流した後にこれらの手紙を書いたのです。また船が難破し、海から這い上がって来た後に、これらの手紙を書いたのです。

パウロは、彼が人々に教えていたことはすべて、信仰の戦場から来たのだという自覚がありました。そして直面していた苦しみのすべては、福音のためな のだと考え、それらを喜んだのです。彼はこう言いました。「これでようやく、難破した経験のある船員に対して、また希望もなく監獄されている収容者に対し て、死の危機に瀕したことのある人に対して、権威をもって宣教出来る。聞く耳のある者が主の真実を聞くことの出来るよう、神様の御霊が、私を経験豊富なベ テラン兵士としてくださったのです」と。

神様はあなたをサタンの手に引き渡されたのではありません。それどころか、神様は御霊を通して、あなたの内で目に見えない働きをするために、あなたが試練を経験することを、許されているのです。キリストの栄光が、あなたの内で永遠に形成されているのです。

誰か他の人や、他のものによって、自分の真の霊性を磨くことは出来ません。神様の栄光を経験するには、あなたが今いるその場所で、それが良くても悪くても、その環境のままで、栄光を経験する必要があるのです。

パウロの霊の強さに関する一番の秘密とは、彼がいかにどんな状況をも不満をもらすことなく受け入れたか、ということです。彼はこう記しています。「わたしは自分のおかれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」(フィリピ人への手紙4:11)

ここで使われている「満足する」とは、ギリシア語で“攻撃をかわす”という意味があります。パウロは「私は自分をひどい環境から救い出そうとは思い ません。神様に、『私を救い出してください』ともお願いしません。反対に、私はどんな境遇をも受け入れます。経験から言って、それらはすべて、主が永遠の ものを私の内で実らせておられるからだと知っているからです」と言っているのです。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。」(第一コリント人への手紙10:13)パウロがここで使って いる「耐える」という言葉は、私達の境遇が変わることのないことを示唆しています。ここでのポイントは、与えられた環境下で、いかに私達が耐えるか、とい うことです。それは何故でしょうか。神様がもし環境を変えられれば、私達が最終的に滅びてしまうと御存知だからです。神様は私達を愛しておられるからこ そ、私達が苦しむのを許されるのです。

困難にある時の私達の役目とは、苦しみの中にあっても、満足を覚えるに必要な力と資源のすべてを、神様が備えて下さっていると信頼することです。誤 解しないで下さい。困難にあって満足することは、困難を楽しむこととは異なります。それはただ、困難から自分自身を救い出そうとすることを、止めることを 意味します。私達は、神様が許される環境に満足し、それを耐えねばなりません。それは私達の主が必ず、御子にあって私達の憩いをもたらしてくださると信じ ているからです。

2010年8月25日水曜日

この時代の忍耐

「忍耐する」とは、“困難の中でも続行する、諦めずに耐え忍ぶ”という意味があります。簡単に言うならば、続行する、忍耐するということです。しか し今の時代、この言葉はあまり意味を持ちません。今日のクリスチャンの多くは、配偶者に、家族に、また神様に、諦めを抱いています。

ペテロはこのことについて、こう述べています。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みなのだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは 御心に適うことなのです。」(第一ペテロ2:19)さらに彼はこう続けています。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょ う。しかし善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリスト もあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続く様にと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』の のしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたち の罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやさ れました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(第一ペテロ2:20〜 25)

使徒パウロは私達に、こう命じています。「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。」(第二テモテへの手紙2:3) また主御自身が、次の約束を与えてくださっています。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイによる福音書24:13)

あなたにお尋ねします。あなたが直面している困難とは、一体何ですか。結婚生活が波乱状態にありますか。仕事の危機に瀕しておられますか。親戚や、大家さんや、友人との間に問題を抱えていたり、彼らに裏切られたりしましたか。

私達は希望を抱くべきです。パウロは苦しみましたが、決して諦めず、彼の深い信仰、揺るぎない平安、成熟さ、理解も決して止まることがありませんで した。彼はこう語っています。「もし私が霊的な人となるなら、もし私が本当に主を喜ばせたいなら、環境に逆らうことは出来ません。私は決して諦めず、耐え 忍びます。この世の何ものも、神様の御霊が試練に立ち向かうために、私に与えてくださっているものを、与えることは出来ません。神様は私を、霊的な者へと 育ててくださっているのです。」

パウロの人生は、キリストの霊による息吹が吹き入れられていました。そして真の霊的な人は、皆そうあるべきなのです。聖霊は神様の天の息吹を、すべ ての僕の内なる人に注ぎます。その人は落胆しません。自分のおかれた環境に対して、不平不満をもらしたりしません。人生における大変な試練にあったとして も、その人は微笑むことが出来ます。それはその人が、神様が内に働いて、永遠の栄光を示して下さることを知っているからです。

2010年8月24日火曜日

あなたに与えられたキリストの啓示

もしあなたが牧師、宣教師、または教師であるなら、考えてみて下さい。あなたは一体何を教えているのでしょう。それは人から教わったことですか。あ る素晴らしい先生が受けた啓示を、そのまま伝えておられますか。それとも、自分自身でイエス・キリストについての啓示を経験されましたか。もし経験された ことがあるなら、それは成長し続けていますか。御国があなたに開かれていますか。

パウロは言いました。「我らは神の中に生き、動き、存在する。」(使徒行伝17:28)本当に神様にある人は、この小さいながらも莫大な円の内に生 きます。その一挙手一投足、その存在のすべては、キリストの思いの内に包まれています。何年か前、私は聖霊がキリストのみを語る様、導いておられるのを感 じました。私の内に、ただキリストだけを述べ伝えたい、という強い思いがありました。しかし私の心は定まっておらず、この円だけでは小さ過ぎると思ってし まいました。結果として、私がいただいた啓示は消え去っていきました。

キリストを述べ伝えるために、私達は聖霊から、常にキリストの啓示を受ける必要があります。そうでなければ、私達の伝えることは、活気のないものと なってしまうでしょう。もし聖霊が神様の御心を知り、隠された神様の奥義を探すなら、そして私達の内に聖霊が豊かな水の流れとして満ちてくださるなら、私 達はその流れで満たされる準備をする必要があります。決して終わることのない、キリストの啓示で満たされ続けなければなりません。この様な啓示は、主に従 おうという態度を示し、 聖霊が主の御心を明らかにしてくださることを信じている主の僕すべてに備えられています。

パウロは、キリストが彼に示されているだけではなく、彼の内に示されていると言いました。(ガラテヤ人への手紙1:16参照)説教者の生活やミニス トリーで力を持たない御言葉なら、たとえそれが説教として分かち合われたとしても、神様の目にそれは、無駄なものとして写ります。浅はかなクリスチャン達 には、キリストを論争として取り扱うことが良いことの様に写るかもしれません。しかし、真の神の人には、そうではありません。私達は、永遠に深まり続ける キリストの啓示を伝えなければなりません。そしてただ伝えるだけではなく、その啓示が自分の人生にもたらした変化をも伝える必要があるのです。

パウロも個人的な悩みを打ち明けました。「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者 になってしまわないためです。」(第一コリント人への手紙9:27)パウロはキリストにおける救いを疑っていた訳ではありません。ここで使われている「失 格者」という言葉は、ギリシア語で“認められていないもの”又は“価値のないもの”という意味があります。パウロは、キリストの裁きの座に着く時、よく知 りもしないキリストについて教えたり、自分が行動に移さなかった福音を宣教したりしたことについて裁かれることを、非常に恐れていました。パウロがよく用 いている「キリストを生きる」もしくは「我が内に生きるキリスト」とは、このことを表しています。

私達は次の質問に個人的、また正直に答えるまで、自分自身を神の僕と呼ぶことは出来ません。「私は心からキリストだけを求めているだろうか。キリストだけが、我がすべてであり、唯一の生きる目的だろうか。」

あなたはこの質問に「はい」と答えられますか。もし心から「はい」と答えることが出来るなら、パウロが語っている、自分の人生の汚点を指摘すること が出来ます。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピ人への手紙3:8)キリス トの啓示の素晴らしさ故、すべてのものを損失と見なしていますか。あなたが本当にキリストだけを求めるなら、あなたのミニストリーは単なる職業ではなくな り、祈りとなります。催促されてキリストを求めるのではなく、キリストと交わることを望む心から、頻繁に自ら隠れた場所に行くようになるでしょう。主を礼 拝し、急がされることなく主との交わりの時を持ち、主を愛し、手を上げて主を賛美し、主を求め、主の知恵に対して感謝を捧げることでしょう。

2010年8月23日月曜日

依り頼む心

詩編の著者は、こう記しています。「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。」(詩編22:4〜5)

「依り頼む」というヘブル語の語源は“絶壁から自分自身を放り投げる”ということを示唆します。それはまるで、子どもが垂木に登ってはみたものの、 降りられなくなった光景のようです。その子は父親が「飛び降りなさい」と言う声を聞き、言われるままに、父の腕の中に飛び込みます。あなたは今、この様な 状況におられますか。絶壁に立ち、ぐらつき、イエス様の御腕に飛び込むしか選択はない、という状態ですか。ただ諦めてしまうことは、依り頼むことと違いま す。それは単なる運命論でしかありません。依り頼むことと、受け身で観念することとは、大きく異なります。依り頼むとは、能動的に信じることです。

私達がイエス様を強く求めれば求める程、私達はしっかりとイエス様に依り頼むことが出来ます。人生において、イエス様が全体的な構図を捉えておられ ず、自分が主権を握っていた方が良いと思えてしまい、イエス様に依り頼むことが出来ないことがあるかも知れません。しかしイエス様に近づき、もっと彼を知 ることで、その考えは変わるでしょう。命綱の端っこにしがみつき、どうしても助けが必要な時だけイエス様に近づくのではなく、常にイエス様と共に歩むこと で、待ち受ける試練を警告してくださる御声が聞こえるようになります。

依り頼む心は、常に「私の歩みのすべては、主によって定められています。主こそ私の愛する父であり、私が苦しみや試練を通るのを許されます。しかし それは、決して私が耐えられないものではありません。神様がいつも逃げ道を備えてくださるからです。主は私に、永遠の御計画と使命を持っていてくださいま す。私の髪の毛の数を御存知で、私を母の胎にて形作ってくださいました。神様は私が座るのも、立つのも、横になるのも御存知です。私を目に入れても痛くな い者として見てくださるからです。主こそ神であられます。私の神であるだけではなく、私に訪れる、すべてのことやものの神様でもあられます」と言います。

また完全な心とは、砕かれた心です。

詩編の著者であるダビデは、こう語っています。「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。」(詩編34:18)

砕かれた心とは、単に嘆き悲しんだり、押しつぶされたり、謙遜したりする心ではありません。真に砕かれた心は、神様が人間に与えてくださっている、 最も素晴らしい力を解き放つことが出来ます。それは死人を甦らせることよりも、病人を癒すことよりも、さらに素晴らしい力です。私達が神様の御前で本当に 心砕かれるなら、廃虚を建て直し、神様に特別な栄光と誉れをもたらすことの出来る力が与えられます。

砕かれることは、壊されたり、登ったりと、壁と関わりがあります。ダビデはエルサレムの壁を登ることと、神様の民が砕かれることとを関連づけまし た。「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。御旨のままにシオンを恵み、エルサレムの城壁を築いてください。そのときには、正しいいけにえも焼き 尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれるでしょう。」(詩編51:17〜19より抜粋)

ネヘミヤは心砕かれた者で、彼の物語は、エルサレムの壊れた城壁に関することでした。(ネヘミヤ書2:12〜15参照)夜の闇の中、ネヘミヤは砕か れた城壁を見ました。ここで使われている「砕かれた」という言葉は、ヘブル語の「シャバー」です。そしてそれは、詩編51章17節にある「砕かれた心」で 使われている言葉と同じものです。ヘブル語での意味を踏まえて言うなら、ネヘミヤの心は2つの方法で砕かれていました。一つ目は廃虚を嘆く心、そして二つ 目は再建の希望によって、心がはち切れそうになっていたことです。

真の砕かれた心とは、こういうことです。それはまず、教会や家庭の崩壊を見て嘆き、主の苦悩を感じること。この様な心は、主の御名が非難されること に、痛みを覚えます。そしてまたこの様な心は、ダビデ同様、自分自身を見つめ、恥と失敗を見つけ出します。しかし砕かれた心に関する二つ目の重要点は、希 望です。真に砕かれた心を持つ人は、神様からの「わたしは癒し、再建し、回復する。廃虚を片付け、基礎を建て始めなさい」という御声を耳にしているので す。

2010年8月20日金曜日

神様と共に歩む

「エノクは神と共に歩んだ。」(創世記5:24)原文のヘブル語で「歩む」とは、エノクが上ったり下ったり、出たり入ったり、進んだり下がったり、 神様と手を取り合い、語り合い、神様に近づき続けていた様を表しています。エノクは365年、もしくは1年365日ですから、年を年分生きたと言えるで しょう。彼の内に、私達は新しいタイプの信者を見ます。成人してからの365年間の毎日、彼は主と手を取り合って歩みました。主こそ彼の人生そのものでし た。だからこそ、彼は人生の最後で、死を見ることがなかったのです。(ヘブル人への手紙11:5参照)

神様が取られたエノクと同じ様に、神様と親しく共に歩む者は、サタンの手から取られます。サタンの闇の王国から取り去られ、キリストの光の王国へと 導き入れられるのです。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」(コロサイ人への手紙1:13)

エノクは堕落した社会にあって、神様を喜ばせる歩みをすることを学びました。彼はまったく普通の人で、私達が直面しているのと同じ問題や重荷を背負 い、初代教会時代に見られた一部の信者の様に、荒れ野にある洞穴で隠れた生活を送ったりしませんでした。彼には妻子があり、責任と義務がありました。エノ クは一人隠れて、聖い人生を送っていた訳ではありませんでした。

「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記5:24)ヘブル人への手紙の中で、私達はこれがエノクの移動、すなわち彼が死 を体験しなかったことを表しているのだと知ることが出来ます。しかしここに、さらに深い真理があります。創世記5章で使われている「いなくなった」という 言葉は、「この世の者ではない」という意味をも持つのです。エノクは霊的また本質的に、この堕落した世界の者ではありませんでした。日毎彼は主と共に歩 み、少しずつこの世のものから離れていきました。パウロの如く、エノクは日々この地上での生活に死に、霊によって天国の領域へと引き上げられていたので す。

しかし地上での歩みを続けていた間、エノクはすべての責任を果たしました。家族を養い、働き、仕えました。しかし彼は、この世のものに捕らえられていませんでした。日常生活の何ものをも、彼を神様との歩みから引き離すことは出来なかったのです。

ヘブル人への手紙11章5節は、こう明確に記しています。「(エノクが)移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。」エノクの したことの一体何が、神様をそこまで喜ばせたのでしょうか。それは彼の神様との歩みが、神様の愛される信仰を生み出したからです。次の二つの箇所は切り離 すことが出来ません。「移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル人への 手紙11:5〜6)私達はこの聖句をよく耳にしますが、その前の節と共に読まれることは、ほとんどありません。しかし聖書全体を通して、神様と親しく歩ん だ者は皆、深い信仰を持った人達でした。もし教会が、日毎神様と共に歩み、神様と絶え間なく交わりを持つなら、結果として神様を喜ばせる信仰に溢れた人達 を生み出すでしょう。

エノクの周りで、人類は堕落していくばかりでした。しかし人々が切望、頑なさ、好色に溢れて野獣と化しいく中で、エノクは共に歩む方にだんだん似る者となっていきました。

「信仰によってエノクは移された。」これは私達の理解を超えてしまう様な、驚くべき真理です。エノクの信仰のすべては、たった一つの望みに焦点が置 かれていました。それは主と共にいるということです。そしてその信仰に対する応えとして、神様はエノクを移されたのです。エノクは、もはや覆いの後ろに隠 れていることができませんでした彼はただ、主を仰ぎ見たかったのです。

私達の兄弟であるエノクには、聖書も賛美歌集も、信仰の仲間も先生も、内に宿る聖霊も、至聖所へのアクセスをもたらす裂け目もありませんでした。ただ彼は神様を知っていたのです。

「神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからで す。」(ヘブル人への手紙11:6)どうやって私達は、エノクが神様を報われる方であると信じていたと知ることが出来るでしょうか。彼が神様を喜ばせる信 仰を持っていたことによってです。神様は報いと報酬を与えられる方、すなわち信仰の深さに応えられる方です。では、熱心に求める達に、主はどのように報わ れるでしょうか。

信仰により神様を信じ、神様と共に歩む者に与えられる、3つの重要な報酬があります。

1.一つ目は、神様が私達の人生を統べ治めてくださること。主をないがしろにする人は、悪魔が働いて占領するに従い、人生のコントロールを失いま す。その人がただイエス様と恋に落ち、彼と歩むなら、神様はすぐに、サタンがいかに彼の人生の主権を握ることが出来ないかを示し、キリストが彼の人生を統 べ治められるようにしてくださいます。

2.二つ目の報酬は「真の光」を持つ信仰から来ます。私達が主と共に歩む時、私達は光、導き、分別、啓示の報酬を受けます。それらは神様が与えてくださる、神様をさらに知るためのものです。

3. 信仰の歩みから来る三つ目の報酬は、すべての敵からの擁護です。「どのような武器があなたに対して作られても、何一つ役に立つことはない。」(イザヤ書 54:17)原文のヘブル語では、この箇所は「どんな計画も、どんな破壊の道具も、悪魔のどんな大砲も、あなたを押したり、打ち負かしたりすることはな く、必ずなくなってしまう」と訳されます。

2010年8月19日木曜日

戦利品に託された神様の御計画

ダビデと彼の軍が不在であった時、アマレク人がツィクラグという村を奇襲しました。略奪者達は村を焼き払い、女性と子どもを全員捕虜として連れ去り ました。ダビデが戻った時、「兵士は皆、息子、娘のことで悩み、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したので、ダビデは苦しんだ。だが、ダビデはその神、主に よって力を奮い起こした。」(サムエル記上30:6)

これこそ霊的戦いです。これはただ、ダビデ一人に向けられた攻撃ではありません。これは神様の永遠の計画に対しての、徹底した急襲でした。

霊的戦いの焦点とは、いかに敵が常にキリストの種を摘み取ろうとしているかにあります。そしてこの事実は、十字架から2,000年経った今でも変わ りありません。悪魔は今も神様の種を滅ぼし、キリストの種である私達に攻撃を仕掛けることで、その目的を果たそうとします。ダビデは、彼の兵士達のぼやき を聞いて、恐れました。しかし彼は、自分と神様との関係が正しいことを確信していました。そして聖書は、彼がいかに神様によって励まされたかを記していま す。すぐにこの信仰の人は、アマレク人の追跡に転じました。そしてすぐさま彼らに追いつき、奪い取られたすべての人々と財産を奪い返しました。(サムエル 記上30:19〜20参照)ダビデはツィクラグから取り去られたものだけではなく、アマレク人が奪い取ったすべての戦利品を取り戻しました。

ダビデはこれらの戦利品をどうしたでしょうか。彼は神様のご計画を続行するために、それらを用いました。さらに、彼はユダの長老たち、また以前彼と その僕をかくまってくれていた町に対して、戦利品を贈り物として送り届けました。(サムエル記上30:26と31参照)これは、霊の戦いを通して神様が抱 いているご計画のもう一つの例です。私達は戦利品を、自分達のためだけに勝ち取るのではなく、キリストの体のために勝ち取るのです。私達が得た資源は、他 の人々に祝福をもたらすために与えられているのです。

サマリアが飢饉にあった時、アラム軍が町を占領しました。アラム軍は町の外に陣営を張り、サマリア人が飢え死にするのを待っていました。城壁の内側 の状態は非常に悪化し、ロバの頭が銀80枚で売られるようになりました。あまりの飢えから、女性達は自分達の子どもを、食料として煮てしまおうとしていた 程です。異常な事態だったしか言えません。(列王記下6章参照)

その頃、城壁の外で生活していた、4人の重い皮膚病を患っていた人達がこう相談しました。「どうしてわたしたちは死ぬまでここに座っていられよう か。町に入ろうと言ってみたところで、町は飢饉に見舞われていて、わたしたちはそこで死ぬだけだし、ここに座っていても死ぬだけだ。そうならアラムの陣営 に投降しよう。もし彼らが生かしてくれるなら、わたしたちは生き延びることができる。もしわたしたちを殺すなら、死ぬまでのことだ。」(列王記下7:3〜 4)こうして彼らはアラムの陣営に向かいました。

彼らが陣営に到着した時、すべては静まり返っていました。誰一人として見かけることが出来なかったので、彼らは天幕の一つひとつを探りましたが、誰 も見つけることが出来ませんでした。聖書はこう説明しています。「主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたため、彼らは、『見 よ、イスラエルの王が我々を攻めるためにヘト人の諸王やエジプトの諸王を買収したのだ』と言い合い、夕暮れに立って逃げ去った。彼らは天幕も馬もろばも捨 て、陣営をそのままにして、命を惜しんで逃げ去った。」(7:6〜7)

重い皮膚病を患っている者達がこのことに気付いた時、彼らは天幕を渡り歩き、食べたり飲んだりした後、町に帰ってこう言いました、「私達と共に来て みて下さい。信じられないでしょうが、アラム軍は陣営を逃げ去りました」と。(7:10参照)主は事態を完全にひっくり返されました。主は戦利品を用い て、神の民を再建し力を与え、地上での御計画を続行されたのです。

話の筋が掴めましたか。あなたに襲いかかっている、現在の戦いの理由が見え始めてきましたか。主に信頼をおく者は、敵のどんな力にも輝かしい勝利を 収めると約束されています。神様はあなたにこう知らせたいのです。「あなたは必ず勝利を収めます。しかしただ打ち勝つだけではなく、わたしの王国のため に、あなたの内にさらに素晴らしい計画を立てているのです。あなたはこの戦いから、どうしたら良いか分からない程の戦利品を持って歩み出るでしょう」と。

2010年8月18日水曜日

霊の戦いにおける戦利品

「彼らは主の神殿を修理するために戦利品の一部を聖別した。」(歴代誌上26:27)この聖句は、非常に意味深く、人生を転換させる様な、驚くべき 真実を示しています。それは戦いにおいてしか、勝ち得ることの出来ない戦利品について語っているのです。そしてその戦利品を勝ち取ってから、彼らは神様の 宮を建て上げるためにそれらを聖別しました。

この聖句に隠された、力強い真理を完全に理解するなら、なぜ主が私達の人生に厳しい霊的戦いを許されるのかが理解出来ます。多くのクリスチャン達 は、神様を受け入れたなら困難はもう訪れることがなく、残りの人生はなだらかな船路が続くと思っています。これ程真実からかけ離れたものはありません。神 様は戦いを許されるばかりか、私達の人生において、それらの戦いに素晴らしい意図をもっておられます。

戦いにおける戦利品とは、何でしょうか。戦利品とは、略奪したもの、勝者によって戦いで勝ち得たものを意味します。聖書では創世記の14章で、他国 の王達が連合してソドムとゴモラを侵略した時に、初めて戦利品についての記載があります。これらの侵略者達は、ソドムとゴモラの地の住民を捕虜とし、その 所有物を略奪しました。「ソドムとゴモラの財産や食糧はすべて奪い去られ、ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。」(創世記 14:11〜12)

甥のロトが捕虜とされたと聞いたアブラムは、318人の僕を集めて、敵の王達を追跡しました。聖書は、彼が侵略者に襲いかかり、「すべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女達やそのほかの人々も取り返した」と記しています。(14:15〜16)

この場面で、勝利に満ちたアブラムを思い描いてみて下さい。彼は喜びに満ちた人々と、山と積まれた様々な物を乗せた台車の列を先導していました。途 中彼はサレムの王であるメルキゼデクに出会います。聖書は、彼がこの王に戦利品の什一を献げる様に導かれた、と記しています。(14:20参照)「この人 がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。」(ヘブル人への手紙7:4)

ここに、神様が私達に理解を促す原理があります。私達の主は、私達が勝利を収めるか否かより、もっと大きなことに関心を寄せておられるということで す。主は私達に、戦利品や、様々な物、霊的な富を与えたいと願っていらっしゃいます。私達は、様々な資源で山積みの台車を持って、戦いから歩み出るべきな のです。これこそ、次の箇所でパウロが語っていることです。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって 輝かしい勝利を収めています。」(ローマ人への手紙8:37)
ダビデは、戦いで勝ち得た戦利品に対して、敬虔な態度を示しました。彼が人生の終盤 で立てた制令に、それを見ることが出来ます。ダビデは彼の息子、ソロモンをイスラエルの王として任命しました。そして国のリーダー達を呼び集め、神殿の維 持に関して、神聖なる命令を立てようとしました。この聖なる働きに際して使われた資源は何だったでしょうか。「彼らは主の神殿を修理するために戦利品の一 部を聖別した。」(歴代誌上26:27)

この前後の状況を説明しましょう。すべての戦いに勝利する度に、ダビデは戦利品を勝ち取り、金、銀、真ちゅう、材木、金銭など、数えきれない程のものを蓄えました。ダビデにはたった一つの意図がありました。それはこれらの戦利品を、神殿建築に用いるということでした。

聖書が神殿維持について語る時、原文のヘブル語では「家を直す、建てられたものを強化する」という意味があります。これらの資源は、神殿の最初の荘厳さを維持する為に、用いられるべきものだったのです。

今日、神様の宮はどこにあるのでしょう。それは神様の人々、すなわちあなたと、私と、世界中にある主の教会からなります。パウロによると、私達の体 は聖霊の宮とされています。そして古代イスラエル同様、私達の主は、今も戦利品を用いて御自身の神殿を維持されているのです。ですから、私達の霊的戦い は、単なる生存の糧以上のものがあるのです。戦いの一つひとつを通して、神様は豊かな富と資源を、私達に備えてくださいます。神様は私達の戦いによって、 豊かに資源の貯蓄をなさいます。そしてこれらの戦利品は、イエス・キリストの教会を建て上げ、また維持するために聖別されているのです。 

考えてみてください。ソロモンが神殿を建築した後何年も、貯蓄してあった戦利品によってその維持がなされました。神様の宮は活気に満ちていたのは、 神様の民が、ただすべての困難に勝利するだけではなく、多くの戦利品をもってその戦いから歩み出たからです。この「戦いによる供給」という原理は、聖書の いたるところで見ることが出来ます。

2010年8月17日火曜日

複製の出来ない霊性

ここニューヨーク市では、ロレックスの腕時計が15ドルで購入出来ます。ニューヨーク市民なら誰でも知っている様に、これらの腕時計は本物のロレックスではありません。それらはコピー商品、すなわち非常に安価な偽物なのです。

今日、すべてのものに対して、コピー商品が出回っている様に見受けられます。しかしたった一つ、絶対に複製出来ないものがあります。それは真の霊性 です。真の霊によるものは、何一つ複製することが出来ないのです。主は御自身の作品を御存知で、人の手によって複製された神の業の偽物を、決して受け入れ られません。何故でしょうか。それは真の霊性を、人の手によって複製することは不可能だからです。それは聖霊の御業によってのみ、可能なことなのです。聖 霊は神の民の内で、絶え間なく新たな働きを続けています。そしてその働きを、人間の手で複製することは絶対に不可能なのです。

ここに、今日の宗教の大きな誤りがあります。ただ聖書の知識や原則を人々に授けさえすれば、その人達は霊的になると思ってしまっています。しかし真実は、誰も、どんな団体も、人々の内に霊性を生み出す力を持っていないのです。ただ聖霊だけに、その力が与えられています。

私達の内に働かれている、神様の霊の御業のほとんどは、目で見ることが出来ません。ですから真に霊的な人達は、目に見える証拠を探したりしません。 パウロはこう語っています。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する からです。」(第二コリント人への手紙4:18)

この前後の箇所でパウロは、苦しみと困難について語っています。彼は、「聖霊以外は誰も、私達に何が起こっているのか、完全に知り得ません。そして厳しい試練の最中にある時にこそ、真の霊性が問われるのです」と言っています。

神様の霊の導きに委ねている人達、すなわち困難にあっても、それは主がその人の内で何かを生み出そうとしているのだと確信している人達は、試練のる つぼから揺るぎない信仰をもって出てきます。そして彼らは、すべてがうまくいっていた時よりも、困難にある時の方が、聖霊によって多くを学んだと、証しす るのです。

私の長年に亘る主との歩みの中で、人生がうまくいっている時には、霊的な成長を見ることがあまりありませんでした。むしろ、その様な霊的成長は、聖霊が許された困難、苦痛、試練を乗り越えた時に見られました。

彼自身の信仰生活の中で、パウロはこう言いました。「聖霊ははっきりと、苦難が私を待ち受けていると告げられました。」(使徒業伝20:22〜23参照)事実、パウロの人生は、常に困難で満ちていました。困難は絶えることなく、彼の上に降り掛かったのです。
「わ たしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(第二コリント人への手紙4:17)パウロによると、 困難や苦難は私達の内に永遠の価値を生み出してくれます。彼は「地上での困難は、おそらく命がある限り続くでしょう。しかしそれも永遠と比べれば、ほんの 一瞬の様なものです。そして今、困難を耐える私達の内に、神様が永遠に続く神様の栄光を明らかにしてくださっているのです」と語っています。

2010年8月16日月曜日

キリストを勝ち得る

「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはす べてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められたからです。」(フィリピ人への手紙3:8)

パウロは完全に、主に魅了されていました。ではなぜ、キリストを“得る”必要があったのでしょう。キリストは、使徒だけにではなく、彼の人生におい て、既にはっきりと御自身を表されました。しかしそれでも、パウロはキリストの心と愛を勝ち取らねばならない、と強く感じたのです。

パウロの存在すべて、すなわち彼のミニストリー、人生、そして人生におけるすべての目的は、彼の主である神様を喜ばせることだけに焦点が当てられていました。その他のものはすべて、例え良いものであっても、塵あくたにしか過ぎませんでした。

この箇所で「イエス様の心を勝ち取るとは、どういうことだろう」と思われるかも知れません。神様の愛は、すでに私達に注がれているのではないので しょうか。事実、神様の情け深い愛は、人類すべてに注がれています。しかし、ほんの一握りのクリスチャンしか経験したことのない、もう一つの愛があるので す。それは妻と夫との間に見られる様な、キリストとの親密で深い愛です。

この愛は、雅歌に表現されています。雅歌はキリストの愛を示すものとされ、ある箇所では、主が花嫁を次の様に語っています。

「あなたはわたしの心をときめかす。あなたのひと目も、首飾りのひとつの玉も、それだけでわたしの心をときめかす・・・花嫁よ、あなたの愛は美しく、ぶどう酒よりもあなたの愛は快い。」(雅歌4:9〜10)

キリストの花嫁は、主を喜ばせたいと願い、他の何ものからも離れ、従順に生きている、聖い人々のことです。そしてキリストの心は、彼らに対してとき めきます。ここで使われている「ときめく」という言葉は、“心を失う”または“心を奪われる”という意味があります。キング・ジェームス訳の聖書では、キ リストの心はたった一目でときめいた、と記されています。この「一目」とはキリストだけに注がれた、誠意のことだと思います。

2010年8月13日金曜日

金よりも尊い

エステル妃のお話は、聖書の中でも、最も厳しい霊的戦いを記したものの一つです。悪魔はハマンを用いて、地上での神様のご計画を阻止しようと企みま した。この裕福で影響力を持った男は、ペルシアの王を説得し、インドからエチオピアをまたぐその王国内のユダヤ人を、一人残らず抹消する様、命令を下した のです。

ハマンが最初に見たユダヤ人は、義なる人であったエステルの叔父、モルデカイでした。ハマンはモルデカイのために、特別な絞首台を用意していました が、その計画はエステルによって阻止されました。それは彼女が、神の民に祈りを要請し、ハマンの命令を撤回させるために、自分自身の命を投げ出したからで す。神様は、ハマンが企んでいた悪しき計画を明るみに出されたので、ハマンは自分が立てた絞首台に吊るされました。王はただ死の命令を撤回しただけでな く、今日で言えば何十億ドルもするハマンの家を、エステルに譲り渡しました。

しかしこのお話での戦利品は、ハマンの家だけではありませんでした。聖書は「それはユダヤ人にとって輝かしく、祝うべきこと、喜ばしく、誉れあることであった」と記しています。(エステル記8:16)これらは、敵との戦いにおいて勝ち取った、真の戦利品です。

私達の試練は、霊的な富を与えてくれるだけではなく、私達に強さや純粋さを与え、継続的に維持してくれます。私達が主に信頼を置くなら、主は私達の 試練が、金よりも価値のある信仰を生み出す様にしてくださいます。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほ かない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、賞賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」(第一ペテロの手紙1:7)

「そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ人への手紙2:15)

イエス様はカルバリによって悪魔に打ち勝ち、そのすべての支配と権威を奪い取られました。キリストが勝利の内に墓から復活された時、主は数え切れない捕虜を、サタンの手から解放しました。そして主の血潮によって購われた行列は、今も行進を続けているのです。

驚くべきことに、カルバリでのキリストの勝利は、死に打ち勝つことよりもさらに素晴らしいものを与えて下さいました。それはこの人生においての戦利 品、すなわち、恵み、憐れみ、平和、赦し、力、信仰、等勝利にある人生を歩むために必要なものすべてです。主は御自身の宮を維持するため、必要のすべてを 備えてくださっています。「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の 家なのです。」(ヘブル人への手紙3:6)
聖霊はここで、驚くべき真実を解き明かしてくださっています。それは、イエス様が御霊の内に、私達のす べての必要を与えてくださっている、ということです。しかし主の宮の維持するために、その宝庫を訪れるのは、私達の役目であり、主の宮を維持するために必 要なものはすべて、直接私達の戦利品からくるべきなのです。

維持のために必要なものは、キリストがすべて与えてくださっています。主は私達を神様の住まいに導き入れてくださいました。主がその家の礎となり、 その家全体を完全に清められたのです。最後に、主は私達に至聖所へのアクセスを与えてくださいました。すなわち信仰によって、私達は完全に整えられ、宮と して完成させられるのです。イエス様は、未完成の家を建てられたのではありません。主の宮は完成しているのです。

この宮は、きちんと維持されていなければなりません。常に修理が行き届いていなければなりません。もちろん、必要なものはすべて、キリスト御自身の 御霊の内に与えられています。キリストこそ、すべての戦利品の出納官なのです。これらの戦利品は、私達がその必要を感じ、神様と恊働する時に解放されま す。

神様との恊働は、私達が試練のただ中にいる時に始まります。試練の真っただ中で、私達が勝ち得るのは、キリストらしさです。敵との戦いから、教訓、 信仰、練達を戦利品として勝ち取ります。戦いには価値があります。ですから、これらの戦いから良きものが生まれると、確信出来るのです。

2010年8月5日木曜日

砕かれて、聖霊によって満たされなさい

旧約・新約両聖書において、聖霊は非常に珍しい方法で、人々の上に降りました。建物を震わせ、人々は異言によって神様を讃える様になりました。そこには聖霊による、完全な支配がありました。

ペンテコステの日には、聖霊が力強く、激しい風として降りました。聖霊が注がれた時、すべてのものが揺り動かされました。(使徒行伝2:4及び 4:11 参照)

バプテスマのヨハネはこう教えました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(ルカによる福音書3:16)

愛する皆さん、聖書は明確に語っています。イエス様があなたの元に来られる時、彼はあなたが聖霊と火による洗礼を受けることを望んでおられるので す。聖霊は火をもたらします。その火とは、真っ赤で熱い、イエス様の愛のために燃える炎です。では、何故多くのクリスチャン達が、熱くなったり、冷めてし まったりして、なかなか自分を捧げきることが出来ないのでいるのでしょうか。それは彼らが、イエス様による聖霊の洗礼を受けることを、拒絶しているからで はないでしょうか。

「その方(聖霊)が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(ヨハネによる福音書16:8)これらのクリ スチャンが確信に至ることが出来ないのは、彼らの内の玉座に着く様に、聖霊を招き入れていないからではないでしょうか。聖霊は神様の測量機です。キリスト に対して不適切なものはすべて、聖霊がそれを明らかにし、私達が御言葉に従う様、力を与えてくださいます。この様な時にこそ、聖霊は私達の慰め主となられ ます。なぜなら聖霊は、私達の罪を明らかにし、それを捨て去る様、力付けてくださるからです。これこそ真の慰めです。

聖霊は決して、あなたに馬鹿げたことをさせたりなさいません。しかし時に聖霊が降りると、罪人達からして見れば、まるで私達が酔っぱらっているかの 様に振る舞うことがあります。多くの教会で、聖霊はあまり受け入れられていません。それは聖霊が、騒がしく、気分を害し、予測不可能なものであると思われ ているからです。

2010年8月4日水曜日

御霊の働き

聖霊は、無秩序でいい加減な方法で、私達の内に働かれる訳ではありません。私達がうまく人生をこなし、危機や寂しさに沈む夜を乗り越えるのを助ける為だけに存在している訳でもありません。私達を競技場に戻す前に、少し力を与えようと待っておられる訳でもありません。

聖霊が成される御業のすべては、聖霊が来られた理由に関わっています。それは私達を花嫁として、御国に連れて行くということです。御霊は、その使命 を果たすためだけに働かれます。そう、聖霊は私達の案内人であり、慰め主であり、弱い時の力です。しかし、私達を救い出すためのこれらの御業のすべて、す なわち、私達の内で御自身を表される御業の一つひとつは、私達を花嫁として整えることを目的としているのです。

また、御霊はただ世に賜物を与えるためだけに存在している訳ではありません。そうではなく、御霊の与える賜物の一つには、それぞれ目的があるので す。聖霊が掲げるメッセージはたった一つ。すべての教えは、ある中核的な真実に向かっています。私達の内で、聖霊は宝石の様に輝いておられるかも知れませ んが、その輝きの一つひとつは、私達に唯一の真実をもたらすためにあるのです。そしてその真実とは、次の通りです。

「あなたは自分のものではありません。代価をもって購われたものです。キリストの花嫁として選ばれた者なのです。そして、あなたを他のどんな切望か らも解き放つために、神様の霊が遣わされているのです。真実こそ、罪の束縛をすべて解き、不信仰を取り扱ってくれます。あなたはこの世に属する者ではあり ません。あなたには、素晴らしい花婿との対面と、婚礼の宴が待ち受けているのです。すべての準備は整っているので、わたしがあなたの準備を手伝っているの です。神様への激しい愛を内に秘めた、非の打ち所のない者として、あなたを紹介したいのです。」

これこそが聖霊の御業です。キリストを教会に表すことで、私達がキリストと恋に落ちるためです。そしてこの愛こそ、私達を支えるのです。

2010年8月3日火曜日

信仰によって聖霊を受ける

「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたから ですか。」(ガラテヤ人への手紙3:2)聖徒の皆さん、この聖句はあなたの信仰を燃やし、信仰によって神様の約束を信じるよう促すべきです。「いささかも 疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。」(ヤ コブの手紙1:6〜7)

この賜物が与えられる様、神様に求められましたか。聖霊を求めておられますか。扉を叩き続けておられますか。「このように、あなたがたは悪い者であ りながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカによる福音書11:13)

ただ求めれば、受け取ることが出来るのです。聖霊の洗礼を受けることを天のお父様に求めれば、神様は必ず与えてくださいます。

私達はこの世にはびこる悪に直面します。悪魔はその力を振りかざし、悪しき霊の大軍は、御国との最後の戦いに備えています。しかしサタンは、聖霊に 満ち、信仰と従順の内に歩む、義なる神様の子どもに立ち向かうことは出来ません。真に聖霊に満ちたクリスチャンは、地獄の大軍を追い払う者です。

神様、どうか聖霊を遣わしてください。聖霊を注いでください。聖霊によって、力強く洗礼を授けてください。そして揺るぎない信仰と共に、サタンが強く働く所へと、私達を遣わしてください。

使徒パウロは言いました、「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ人への手紙 5:16)また、こうも語っています。「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(5:25)

クリスチャンとして、私達は「聖霊の導きに従って歩む」という言葉を幾度も耳にしてきました。多くのクリスチャン達は、聖霊の導きに従って歩んでい ると言うものの、それが本当にどういう意味なのか、しらないでいます。お尋ねしましょう。あなたは聖霊の導きに従って歩み、聖霊の内に生きていらっしゃい ますか。そしてそれはあなたにとって、どういう意味がありますか。

私にとって「聖霊の導きに従って歩む」とは、次の一文に集約されます。それは“聖霊の導きに従って歩むことは、ただ私達の内で、神様が聖霊を遣わされた業の成就をゆるすこと”です。

何故神様が聖霊を遣わされたかを理解するまで、あなたの内で聖霊が働かれるのをゆるすことは出来ません。

聖霊は、神様からたった一つの永遠の目的を果たす為に、私達の元へ遣わされました。そして私達が、この聖霊の使命と私達の内での働きを理解しないな らば、次の2つの内、どちらかの間違いを犯すことになります。一つ目は、ほんの少しの霊的な賜物を受け取る等、限られた聖霊の御業で満足し、私達の人生に おいて聖霊が成そうとされている、素晴らしい永遠の目的を見逃してしまうことです。二つ目は、聖霊を求めながら、私達の内で完全に聖霊を無視してしまうこ とです。それは聖霊が神秘的であり、その存在は信仰によって受け取るもので、私達には決して理解することが出来ないものである、という考えからきます。

聖霊は、あなたの内で、また私の内で、確信を与え、聖め、力を与え、備えるために、私達の元に来てくださいました。聖霊は、私達をキリストと結ばれる花嫁として整えるために、この世に遣わされているのです。

旧約聖書時代の信者と聖霊の関係を示したものが、創世記24章に記載されています。アブラハムは、彼の最も年老いた僕、エリエゼルを遣わし、息子で あるイサクに花嫁を探し出す様、命じました。エリエゼルという名前は、「力強い、神の助け手」という意味があり、言ってみれば聖霊の様なものです。そして この力強い助け手が、リベカをイサクの花嫁として連れ帰って来た様に、聖霊もまた、私達の主、イエス・キリストの元に、必ず花嫁を連れ帰られます。

神様はリベカをイサクの花嫁として選ばれました。そして神様は、エリエゼルを彼女の元へ、真っ直ぐに導かれました。この僕の任務と目的のすべては、 たった一つ。それはリベカをイサクの元の連れ帰ることでした。彼はリベカに、彼女の持っていたものすべてを捨て、イサク自身に、またイサクと結婚すること に夢中になるよう、働きかけねばなりませんでした。リベカの両親は、エリエゼルに告げました。「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申 することはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。」(創世記 24:50〜51)

そしてこれと同じことが、皆さんと私にも起こっているのです。神様は私達を、神様の花嫁として選んでくださいました。私達の救い、すなわちキリスト のものとして選ばれることは、主の御意志によるものです。神様は私達をイエス様の元へと導くために、聖霊を遣わされました。もし私達が彼を信じるなら、聖 霊は私達を、キリストの永遠の花嫁として無事に連れ帰ってくださいます。

2010年8月2日月曜日

「アバ父よ」

聖霊は、私達とイエス様、及び私達と父なる神様との関係を、 簡素化してくださいます。 私達に「アバ父よ」と神様に呼びかける様、促してくださるのは、聖霊です。

この表現は、聖書時代に東洋で用いられていた、養子縁組にまつわる習慣から来ています。養子縁組の書類がすべて整い、養父によって承認されるまで、 養子とされた子どもは、養父をただの父としてしか呼ぶことが出来ません。「アバ」とは“私の父”という意味なので、養父を「アバ父よ」と呼ぶ権利がないの です。

しかし、書類が整い、登録が済み、承認を受けるや否や、養子とされた子どもの世話役は、彼を養父の元へと連れて行きます。そしてその時初めて、彼は 「アバ父よ!」と呼ぶことが出来るのです。養父の腕に抱かれ、その子は、「私のお父さん、あなたはただの父ではなく、私のお父さんです」と叫ぶのです。

これこそが、聖霊の働きとミニストリーです。御霊はキリストについてのあなたの世話役であり、あなたを父なる神様の元へと導きます。そしてこう、私 達に告げるのです。「書類はすべて承認を受けました。あなたはもう、孤児ではありません。法的に、神様の子とされたのです。あなたには、ひたすらに愛と富 と力に満ちた父がいます。彼に抱きつきなさい。『わが父よ』と呼んでごらんなさい。あなたに神様がどれ程あなたを愛しておられるかを示すため、わたしは来 たのです。神様はあなたを愛しておられ、あなたを求めておられます」と。

私達の叫びは、これ以上とない喜びと感謝からくるものであるはずです。私達の内におられる御霊は、「あなたは神様の相続人です。イエス様が勝ち取ら れたものすべてを相続する者です」と叫んでおられます。この様な素晴らしい財産を相続することが出来るのは、あなたのお父様が宇宙一裕福な方だからです。 神様に近づくことをためらう必要はありません。お父様はあなたに対して怒りを燃やしておられる訳ではありません。貧しさに打ちひしがれ、喜びと霊的勝利を 失った孤児の様に振る舞うのは止めましょう。あなたは見捨てられてはいないのです。お父様の存在を、存分に楽しめば良いのです。

私達は見捨てられていないばかりか、迷いや苦しみの時にも、聖霊が私達と共にいてくださいます。

聖霊の任務とは、キリストの花嫁をその花婿がいない間、慰めることです。「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくだ さる。」(ヨハネによる福音書14:16)「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、 わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(26節)

“慰め主”とは「痛みや悲しみの時になだめる者」という意味です。それは痛みと悲しみを和らげ、安堵をもたらし、慰め、励ます者のことです。しかし 私は次のギリシア語の定義が気に入っています。「あなたを温かで、安全な寝床に横たえてくださるお方。」あなたの魂が冷たく暗い闇に沈む時、御霊は、その 心地よく、慰めに満ちた御手によって、あなたをやわらかな布団に寝かしつけてくださいます。

御霊を慰め主と呼ぶことで、イエス様は実に確実な予測を立てられました。イエス様は、彼に従う者達が苦しみの目に遭うこと、終わりの日に大きな痛みと苦しみがあり、いかに慰めが必要となるかを予測されたのです。

聖霊は、御自身が神様の力のすべてをもって、あなたの内に住まわれているかを思い起こさせることで、あなたに慰めをもたらします。ですからあなた は、こう叫ぶことが出来るのです。「世界中のすべての力より、悪魔のすべての力より、私の内におられる方の力は勝っている」と。神様は私達を悪魔の手から 守られるために、聖霊を遣わされ、その力を与えられたのです。それは、私達の霊を引き上げ、打ちひしがれた思いを追い出して、神様の愛によってあなたの心 を満ち溢れさせるためです。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。そして希 望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ人への手紙 5:3、5)

2010年7月30日金曜日

御国の前触れ

前触れとは、前もって体験すること、または認識することです。聖書はこれを保証金と呼んでいます。(例:「わたしたちが御国を受け継ぐための保証」 エペソ人への手紙1:14より)それは全体を経験する前に、一部のみを体験するという意味です。私達が受け継ぐもの、それはキリスト御自身です。そして私 達がキリストの花嫁となり、永遠の交わりを楽しむことの前触れとして、聖霊は私達を主の臨在に導き入れてくださいます。

パウロは神様の内にある人々を「聖霊で証印を押された者」と表現しています。(エペソ人への手紙1:13)これは御霊の働きによって、特別に印をつ けられた人々のことを表しているのです。聖霊は彼らの内に、特徴的な印を押し、また素晴らしい内なる働きを起こしたのです。それは彼らを、永遠に変えられ た者とする超自然的なものです。

彼らはもはや、ただの信者ではありません。 この世のものではなく、天のものに情熱を寄せているので、彼らはもはや、この世に属する者ではありません。彼らはこの世の出来事に押し流されません。むし ろ、彼らは 揺り動かされない者となったのです。また彼らは、生温かったり、中途半端だったりすることはありません。それどころか、彼らの心は昼も夜も、「主なるイエ ス様、早く来て下さい」と叫ぶのです。

一体彼らに何が起こったのでしょうか。聖霊が彼らの内で、何を行ったのでしょうか。何が彼らに、主に属する者だという証印を押したのでしょうか。そ れは簡単に言うと、こういうことです。聖霊が彼らに、素晴らしい主の臨在を、前触れとして体験させてくださったからです。御霊は彼らに近づき、御国を垣間 見せました。それによって彼らは、神様の偉大なる素晴らしさを、超自然的な明示によって体験したのです。御霊は私達に、御国を待ち望む様、“御国の一片” を与えてくださったのです。

黙示録に書かれている終わりの日に、御霊はどんな花嫁をイエス様に備えられるのでしょうか。生温い人でしょうか。中途半端な愛、または冷めきった愛を持った人でしょうか。イエス様を熱愛していない人でしょうか。キリストとの親密な交わりを望まない人がいるでしょうか。

もしあなたが本当にイエス様を愛しておられるなら、常に彼のことが頭から離れないでしょう。あなたの歩みの一歩一歩に、主は臨在しておられます。ク リスチャンの中には、「それは死んでからの話だ。天国に行けば、すべては変わる。その時に主の特別な花嫁とされるのだ」と思っている人がいます。いいえ、 死が人を聖めるのではありません。御霊は今、ここにおられます。御霊は今生きておられ、あなたの内に働いておられます。あなたが死のこちら側にあるうち に、キリストに対する熱愛を生むために。

ローマ人への手紙8章26節に、御霊が信者の内にいかに強く働かれているかが記されています。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」

ここで使われている「うめき」という言葉は、ギリシア語で“熱望”すなわち、もっとキリストを切望すること、という意味があります。あまりにキリス トを切望し、その臨在にたたずんでいるので、深いうめきの他、言葉が何も出て来ないかも知れません。それは「イエス様、あなただけがこの世界での唯一の幸 せです。わたしはあなたの良さを体験しました。あなたのすべてを経験させてください」と願うことです。

これこそが、御霊の内に歩む者の印です。その人は、イエス様に対する強い欲求をもっています。パウロ同様、その人はこの世を去り、主とまみえる日を心待ちにしています。

2010年7月29日木曜日

深夜零時1分前

サムエル記上13章で、サウルはすべての信者がいつかは経験しなくてはならない、決定的な瞬間に直面しました。それは、信仰によって神様を待ち望むか、我慢出来ずに自分の手でなんとかしようとするか、という決断を迫られる時です。

サウルにとっての分岐点は、戦争を暗示する不吉な暗雲が、イスラエルの上に広がっていた時に訪れました。ペリシテ人は騎手、鉄製の戦車、最新兵器を 振り回す歩兵からなる、大軍を従えていました。一方のイスラエルは、全軍を通して、たった2本の剣しか持っていませんでした。その1本はサウルのもの、そ してもう1本は彼の息子であるヨナタンのものでした。残りの兵は全員、木製の槍や、農道具等、持ち合わせの兵器を使用せねばなりませんでした。

この場面の1週間前、サムエルはサウルに、戦闘に行く前にギリガルにて彼を待つように命じました。預言者は7日後に来て、主に適切ないけにえを捧げると言ったのです。

約束の7日が過ぎてもサムエルの姿は見られず、サウルの兵士達はまとまりを失い始めていました。それどころか、王は戦いに対して、主からの託宣を受けていませんでした。

サウルはどうしたでしょうか。固く立ち、「例えサムエルが8日かかろうが、私は神様からの御言葉に固く立つ。生きるとしても死ぬとしても、私は主の 命令に従う」と宣言したでしょうか。いいえ。サウルは狼狽しました。周りの状況に飲み込まれてしまったのです。結局彼は、神様の御言葉を自分に良い様に解 釈し、自分のやり方を通しました。サウルはその場にいた祭司に、サムエル抜きでいけにえを捧げる様に命じました。このことによって、彼は主に対して重大な 罪を犯してしまったのです。(サムエル記上13:11〜12)

神様が約束に遅れるということは、絶対にありません。主はサムエルがギリガルに向かっている道中の、その一歩一歩を知っておられました。主は預言者 を、天のナビゲーションシステムに従わせ、主が定められたその瞬間にギリガルに到着する様、完全に計画しておられたのです。本来ならサムエルは、7日目に はそこに着くことが出来ました。例えそれが、7日目の深夜1分前だったとしても。

神様は歴史を通して、決して変わることがありません。そして今日も、主の民がこの掟に従うかに関心を持っていらっしゃいます。「主の御声に聞き従い なさい、そして主の御命令に背いてはなりません。」(サムエル記上12:15より要約)例え私達の人生が手に負えない状況であっても、それは問題ではあり ません。私達は、主にある完全な信頼の内に歩むべきなのです。例え絶望的な状況にあったとしても、恐れの内に行動を起こすべきではありません。むしろ、御 言葉が約束されている通り、神様が私達を救い出されるのを、我慢強く待つべきなのです。

実際神様は、ペリシテ人の大軍に迫られていたサウルの、すぐ側に立っておられたのです。主はサウルが直面していた危機を御存知で、主の御目は、その詳細のすべてに注がれていました。

私達の神様は、あなたが直面している危機の詳細を、すべて見ることがお出来になります。主はあなたに押し迫る、人生の問題の一つひとつを見ておられ ます。そして日々、その状況が深刻化していることを御存知です。祈り、揺るぎない信仰と共に神様を待ち望む者は、大変な危険に遭遇することがありません。 そればかりか、神様はあなたの「これ程の借金をどうやって返済すれば良いというのか・・・結婚生活に全く望みが持てない・・・どうやったら仕事をクビにな らずに済むだろうか・・・」等という、恐れに満ちた思いを、すべて御存知です。しかし神様の御命令は真実です。「恐れず、わたしより先に進んではいけな い。あなたはただ、祈れば良い。そしてわたしに信頼しなさい。わたしに信頼を置く者を、わたしは祝福する」と。

神様が教会に対して語られた、次の御言葉を見てみましょう。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル人への手紙11:6)「民 よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(詩編62:9)「主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は 盾。」(詩編115:11)「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなた道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐに してくださる。」(箴言3:5〜6)

不信仰は致命的で、そのもたらす結果は悲劇的です。もし私達が、主に頼るのではなく、自分の手で試みから逃げ出そうとするなら、恐ろしい結果に直面することになります。

2010年7月28日水曜日

霊的な良薬

「敵をも愛しなさい」という神様の掟は、苦くてまずい薬のようです。しかし、私が小さい頃に飲まされたビーバー香油同様、それは癒しをもたらす薬です。正に「良薬口に苦し」ということです。

イエス様ははっきり、こう語られています。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしはあなたに言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイによる福音書5:43〜44)

イエス様は、律法に反することを語られていたのでしょうか。そうではありません。イエス様は、律法に侵入していた肉の霊を翻そうとされたのです。当 時のユダヤ人は、ユダヤ人のみを愛していました。彼らは、異邦人の手を握ることや、さらには異邦人の衣が自分の衣に触れることすら許していませんでした。 しかしこれは、神様の律法の本質とは食い違っていたのです。律法は聖く、こう教えています。「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているな ら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」(箴言25:21〜22)

私達は政権にある者達の、みだらな行いを憎むことが出来ます。同性愛者や中絶者など、キリストを忌む者達の罪を憎むことが出来ます。しかし主は、彼 らを人間として、イエス様が彼らのために死なれた人々として、私達も彼らを愛する様、命じておられるのです。そして彼らのために祈る様、命じておられま す。もし私が、ある人の掲げている主義ではなく、その人自身を軽蔑するなら、私はキリストを代表出来ていません。

私はここ、ニューヨーク市の五番街で、同性愛者のパレードを見ました。25万人もの人達が、多くは半裸で、「神様は同性愛者である」と記したサイン を掲げて歩いていたのです。また私は、彼らが行列から離れ、「神様はあなたの罪を憎んでおられますが、あなたを愛しておられます」というサインを掲げたク リスチャン達に、食って掛かっている姿を見ました。

私は怒りで顔が真っ赤になりました。ソドムの様に、彼らの上に硫黄の火が降る様に求めたい気分でした。しかし私は反省し、心の中でこう自分に言いました。「私はまるで、イエス様を拒絶した人々の上に、火を降らせて滅ぼしをもたらすよう、弟子達が求めたのと同じである」と。

同性愛は罪です。不貞も罪です。また許さないことや、 無慈悲も罪なのです。

あなたの敵を愛しなさい。好戦的でうっとうしく思う様な罪人達を愛しなさい。彼らのために祈りなさい。迫害する者達を祝福しなさい。

これこそ、イエス様が命じられたことです。

ですから、これを実行しましょう。

2010年7月27日火曜日

ダニエル―異なるタイプの人

ダニエルは自分が砕かれた者であることを語る、異なるタイプの人でした。「わたしは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をか ぶって祈りをささげ、嘆願した。わたしは主なる神に祈り、罪を告白してこう言った。」(ダニエル書9:3〜4)一方でダニエルは神様の御心を知っていたの で、時を読むことが出来ました.「わたしダニエルは文書を読んでいて、エルサレムの荒廃の時が終わるまでには、主が預言者エレミヤに告げられたように、 70年という年数のあることを悟った。」(ダニエル書9:2)

どうやってダニエルはこの様に砕かれ、知識と識別を持つ人となったのでしょう。それは神様の御言葉を学ぶことから始まりました。ダニエルは、御言葉 が彼を支配するに委ねました。そして心に御言葉を蓄えていたので、聖句をよく引用しました。「モーセの律法に記されている通り・・・」(ダニエル書 9:13)

ダニエル書10章では、この信仰深い預言者が、キリストに関するビジョンを受けたことが記されています。「目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻 の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声 のようであった。」(10:5〜6)

あなたの力のすべて、思いのすべてをもって、神様を追い求めると、今日心に誓って下さい。そしてかつてない程の愛と渇望をもって、御言葉に触れて下 さい。断食によって砕かれる様、また神様の重荷を背負うことが出来る様祈るのです。そして最後に、聖霊が天の恵みをあなたに与えることを妨げるものすべて を告白し、それらから離れて下さい。異なるタイプの人となる方法は、誰にでも与えられています。あなたはこの方法を用いられますか。

この様な方法によって、神様に触れられることが出来ます。ダニエルは、こう証ししています。「突然、一つの手がわたしに触れて引き起こしたので、わ たしは手と膝をついた。」(ダニエル書10:10)ここで使われている「触れる」という言葉は、“激しく掴む”という意味があります。ダニエルは「神様が 御手を私の上に置かれた時、私は顔を伏せました。それは私の内なるすべてのものが、主を求める様切迫した渇望を与えてくれました。」

神様が誰かの人生に触れられる時、これと同じことが起こります。その人はひざまずき、祈りの勇士となり、激しく主を求める様になります。

神様は、何故特定の人にだけ触れてこの様な緊迫感を与えられるのだろうと、私はよく思います。何故一部の神様の僕が主を飢え渇いて求める時、他の信 仰深い人々は自分の道を歩み続けるのでしょうか。神様に触れられた僕達は、主と親密な関係を持っています。彼らは天から啓示を受けます。そして他の人はあ まり楽しまない、キリストとの歩みを楽しみます。

何故神様はダニエルの上に手を置き、彼に触れられたのでしょう。何故彼は他の誰も見ることが出来なかったことを見、聞くことの出来ないことを聞くこ とが出来たのでしょう。ダニエルはこう語っています。「この幻を見たのはわたしダニエルひとりであって、共にいた人々は何も見なかった。」(ダニエル書 10:7)

神様は、神様のメッセージを語る声が必要だったのです。神様は祈る僕、神様の召しに対して信仰をもって応える者が必要だったのです。ダニエルこそ、 その人でした。彼は一日に3度、熱心に祈りを捧げていました.そして彼が川岸を歩んでいる時、キリストは彼に啓示を与えたのです。(ダニエル書10:7〜 9参照)

神様がダニエルを神託として用いた理由は次の通りです。1.ダニエルは祈りを止めなかったため(ダニエル書10:2〜3参照)2.ダニエルは社会と 教会の霊的堕落に関して、心を痛めていたため(ダニエル書9章参照)3.ダニエルは罪を隠したり罪から逃れたりしようとしなかったため (ダニエル書 9:4〜5)

2010年7月26日月曜日

聖霊が必要です

ある人は救われてからもう何年も経っているでしょう。ある人は一年前に救われたかも知れません。またある人は数ヶ月前、もしくは数週間前に救われた ばかりかも知れません。罪から救われるということは、素晴らしいことです。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくされるのです。あなたが救われているという ことを、心から嬉しく思います。

しかし、私達の主、イエス・キリストの良き勇士となるためには、ただ救われているだけでは十分ではありません。あなたには、もっと大きなものが与えられているのです。あなたは聖霊によるバプテスマを受けなければなりません。

パウロの時代、聖霊の存在を知らない人々がいました。「彼らに、『信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか』と言うと、彼らは、『いいえ、聖霊がある かどうか、聞いたこともありません』と言った。」(使徒行伝19:2)彼らは救われていましたが、彼らが聖霊によって満たされたり、聖霊のバプテスマを受 けたりしていなかったことがはっきり分かります。

私達は、聖霊の力と御業によって救われると信じてます。しかし聖書はそれに加えて、聖霊による洗礼、満たしがあると語っています。

イエス様御自身も、弟子達と信者が聖霊によるバプテスマを受けるまで、彼らを世界に遣わされませんでした。もちろん弟子達は純粋な心を持っていたこ とでしょう。病む者を癒し、悪霊を追い出す信仰を持っていました。御言葉を信じ、すでにキリストについて伝道し、改宗者が生まれていました。彼らはイエス 様の甦りを目撃しました。これ以上に何が必要だというのでしょうか。彼らはイエス様のために、死ぬ覚悟が出来ていました。彼らのイエス様に対する愛が、国 々に出て行き神様の御業をするには十分でなかったのでしょうか。

愛する皆さん、そのどれも十分ではなかったのです。彼らにはさらに必要なものがあったのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受 ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒行伝1:8)

本当に聖霊が欲しいですか。聖霊があなたの上に降り、火によってあなたにバプテスマを授けられるのを求めておられますか。聖霊はあなたのために与え られているのだ、と完全に確信していなければなりません。自分では何者でもなく、何も持たず、聖霊による導きと力なしでは何も出来ないのだ、と確信するに 至る必要があります。

聖霊が今もバプテスマを授け、信者の上に降り、その体を所有しているのだと、知るべきです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名に よって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいる すべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒行伝2:38〜39)

毎日、毎時、世界中で多くの人々が聖霊によるバプテスマを受けています。彼らは聖書に記された約束を目にしたか、それにまつわるメッセージを耳にしたのでしょう。それで彼らは約束の成就を主張し、洗礼を受けることが出来たのです。

聖霊によるバプテスマは、特に終わりの日に生きている人々に与えられています。「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。そのときには、わた しの霊を注ぐ。」(使徒行伝2:17〜18より抜粋)聖霊は求める者に与えられます。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカによる福 音書11:13)

神様はあなたが霊の内に生き、歩むことを望んでおられます。何か必要がある時、誰か他の人にその必要を満たしてもらう様、頼むべきではありません。 私達は、聖霊が働かれるままに神様の御言葉を語り、 病む人の上に手を置き、悪霊を追い出す様に召されているのです。私達は聖霊と力に満たされた証し者として召されているのです。

2010年7月23日金曜日

御言葉による支配

もしキリストが王国の支配者であり、私達がその支配下にあるなら、私達の人生はキリストによって支配されなければなりません。ではイエス様によって 支配されるとは、実際どういうことを意味するのでしょうか。
辞書によると、「支配する」とは、“導くこと、指導すること、すべての行動やその権力 下にある者の態度を管理すること”とあります。要するに、一つひとつの考えや言動を含む、私達の行動や態度のすべてを、イエス様が管理されるのを許すとい うことです。

また、イエス様は世界のすべての国々を統べ治めておられます。聖書はこう語っています。「神はとこしえに力強く支配し、御目は国々を見渡す。背く者 は驕ることを許されない。」(詩編66:7)「主は天に御座を固く据え、主権をもってすべてを統治される。」(詩編103:19)

騙されてはなりません。アメリカ合衆国は、共和党や、民主党、もしくはどんな人間の権威によって支配されているのではないのです。経済界や、大企業 によって支配されているのでもありません。どんな力―この世の力も超自然の力も―合衆国やその他のどんな国をも支配することは出来ません。それが出来るの は、神様だけです。神様は王の王、主の主として、天の御座からすべての被造物を管理し、統べ治めておられます。

全米を通して、モラルの低下、オカルト団体の増加、逸脱した性の問題、無神論者のはっきりした主張などが見られます。クリスチャンの中には、地獄か らの大群が、サタンの闇の王国を建て上げるために、米国をじわじわと占領していっている、と不安を抱く人達がいます。

しかし私達は恐れる心配などありません。イザヤはこう語っています。「主は、逆らう者の杖と支配者の鞭を折られた。ああ、お前は天から落ちた明けの 明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた。もろもろの国を倒した者よ。しかし、お前は陰府に落とされた、墓穴の底に。お前を見る者は、まじまじと見つ め、お前であることを知って、言う。『これがかつて地を騒がせ、国々を揺るがせた者か。』」(イザヤ書14:5、12、15〜16)

愛する皆さん、私達の神様は、サタンのことをほんの少しも心配しておられないのです。悪魔がこの国を襲っていると、私達が目にするものに対して、神 様は全くやきもきしておられません。たった一言の御言葉によって、サタンは永遠に消え去り、永遠の苦しみを味わうのです。ですから、私達はどんな悪をも恐 れる必要がないのです。

神様の王国、すなわち神様の民の心の内に建て上げられた王国の他には、どんな国家も完全かつ力強い神様の支配を見ることが出来ません。

イエス様は言われました。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書17:21)そして私達の心の中にある、この王国におい て、キリストは私達を導き、癒し、私達の言動と態度を管理されるのです。

「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。」(イザヤ書9:6)この聖句は、永遠に続くイエス様の権威について語っているの です。しかしここにはもう一つの、重要な意味があります。それは、私達が常に私達の支配に対する服従を増すべきだということです。

正直に、自分は日々イエス様の支配に対する服従を増している、と言うことが出来ますか。あなたの言動を少しずつ、イエス様の権威の下に委ねています か。
もしイエス様が天国におられ、御父の右の座からすべてを治めておられるなら、どうやって地上での王国を統べ治められているのだろう、と思われ るかも知れません。この答えは、ヘブル人への手紙に見つけることが出来ます。この手紙の著者は、旧約聖書の時代には、神様が預言者を通して語られたと記し ています。しかし今日、主は御子を通して語られるのです。(ヘブル人への手紙参照1:1〜2)

イエス様は私達に与えられた、肉となった聖なる御言葉、明示的な神様のメッセージです。代わりに御父は聖霊を私達に与え、イエス様が地上にて語られ た御言葉を思い出させてくれます。ですから、イエス様は文字として綴られた、明白な神様の御言葉によって、私達を統べ治めておられるのです。聖書は私達の 王の笏であり、それを通して神様の御言葉を私達に示してくださいます。

もし書面として与えられている神様の御言葉によって支配されるに任せた人の証しを読みたいと思われるなら、詩編119:11にそれを見ることが出来 ます。「わたしは仰せを心に納めています。あなたに対して過ちを犯すことのないように。」(119:105, 123, 133, 162をも参照のこと。)

2010年7月22日木曜日

恵みの成長を妨げるもの

エペソ人への手紙4章31節において、パウロはキリストの恵みにおける成長を促すために、私達が生活から取り除かなければならないものを列挙してい ます。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」

私達はパウロが並べたこれらの問題を、軽視するべきではありません。私達が恵みにおいて成長するなら、これらのことに直面しなければならないと、パ ウロは語っているのです。もしここでパウロの挙げている問題を無視するなら、あなたは聖霊を悲しませることになります。あなたの成長は妨げられ、あなたは 霊的なゾンビとなってしまうでしょう。

パウロが挙げた最初の3つ、無慈悲、憤り、怒りは、理解し易いと思います。無慈悲とは、過去の傷を手放そうとしなかったり、過去の過ちを許さなかっ たりすることです。憤りとは、激しい怒りと共に、復讐を望むことです。怒りとは激高、すなわち瞬間的な憤激や、誰かに向かってじわじわと憤りを燃やすこと です。悪意とは、破壊的な言葉を発すること、すなわち誰かを立て上げる言葉を発することと正反対のことです。悪意を持って語る言葉とは、敵意に満ち、誰か を傷つける言葉のことです。

わめきとは何にも無いことに対して、突然爆発すること、すなわち必要のない大騒ぎをし、無意味に大きな雑音を立てることです。些細なことを取り上げ て大きな問題としたり、癒しや平和をもたらす代わりに修羅場を作り出したりすることで、私達はわめきます。

パウロのリストの最後はそしりです。そしりとは、誰かが苦しむことを望むことです。多くのクリスチャンにとって、そしりとは、自分を苦しめた人を神 様が懲らしめられるのを望むことです。それは非道な霊であり、大抵心の奥底にしまい込まれています。

パウロが「これらを一切の悪意と一緒に捨てなさい」と言ったのは、即席の解決について語っているのではありません。彼は長い時を要する、成長過程に ついて説明しているのです。時に私達は、これらの悪意をコントロールすることに失敗するかも知れません。しかし私達がすぐに悔い改め、その人との関係の修 復に徹するなら、これらの問題は時が経つにつれて消え去っていきます。

2010年7月21日水曜日

爆発的な成長

私達が私達を苦しめる人達の成長を促す時、私達は恵みにおいて、爆発的に成長します。

「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神 の聖霊を悲しませてはいけません。」(エペソ人への手紙 4:29〜30)ここでパウロが用いている“造り上げる”という言葉の語源には「家を建てる者」という意味があります。またその語源は「立て上げる」とい う語源から来ています。要するに、造り上げる者は皆、神様の家、すなわち教会を建て上げる者なのです。

パウロはここで、私達が語る言葉について3つの重要な点を挙げています。

1.私達の言葉は、神様の民を立て上げるために使うべきだということ
2.私達の言葉は、人々に恵みを与えるために使うべきだということ
3. 私達の発する言葉によって、聖霊を悲しませることがあるということ

過去の偉大なる信仰に満ちた人々の伝記を読むと、私は深く反省させられます。彼らは御国中心の考え方をしていました。御言葉に熱心で、よく祈り、恵 みにおける成長を願っていました。彼らの人生で最も私の心を打つのは、彼らのキリストに対する献身的な姿勢や、祈りの激しさだけではありません。もちろ ん、これらは彼らの内に生まれた、素晴らしい霊の実です。しかしそれよりも、私が彼らの共通点として見るのは、いかに彼らが恵みにおける成長を望み、聖い 言葉が流れ出す、純粋な心が与えられる様願っていたか、ということです。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」(マタイによる福音 書12:34)

私が自分の為ではなく、他の人々の為に生きようとする時、恵みにおいて成長することが出来ます。この恵みにおける成長は、家庭において、伴侶や子ど も達にキリストらしさを証しすることから始まらなければなりません。自分の家庭こそ、「自分がいつも正しい」という思いを捨て去ることによって、すべての 問題や誤解に打ち勝つ場所とされるべきなのです。

いつも自分が正しくなければいけない、と思わなくなることで、かつて無い程に神様の恵みを楽しむことが出来るようになりました。私達がつまらない論 争に勝とうとするのを止め、お互いを立て上げることを求めるなら、すべての口論や権利の主張はなくなります。

皆さん、恵みにおいて成長しようではありませんか。

2010年7月20日火曜日

異なるタイプの僕達

旧約聖書に記されている信仰に満ちた人の偉業を読む時、私の心は燃やされます。この神の僕達は、神様の御名に対して重荷を持ち、今日のクリスチャン の多くが驚きを覚える様な、力ある業の数々を成し遂げました。

旧約時代に生きたこの聖徒らは、神様の御言葉なしに進むことを岩の様に固く拒絶しました。そして彼らは神様の宮の堕落に対し、幾日にも亘って涙を流 し嘆きました。彼らは食べることも、飲むことも、体を洗うことも拒否しました。頭から髪の毛の束を、またヒゲを引き抜きました。予言者エレミアは、365 日もの間、神様の来るべき裁きを警告し続け、エルサレムの街角で身を横たえました。

この聖徒達は、一体どこからその霊的な権力とスタミナを得ていたのでしょうか。彼らは全く異なる種類の人達、今日の教会で見られる僕達とは全く異な るタイプの僕達だったのです。私は自分を彼らと、又彼らの歩み方と比較することは出来ません。私は完全に彼らの様な者には、なれていません。実際、彼らの 様な人は、誰一人として知りません。

このことは、私の心を乱します。聖書はこれらの旧約時代の僕達が行った偉業は、私達の教訓として記されている、と語っています。「これらのことは前 例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」(第一コリント人への手紙 10:11)彼らの話は前例として、いかに神様の心を動かすか、またいかに堕落した人々を悔い改めに導くかを示すために記されているのです。

では、この聖徒達は特別な人種だったのでしょうか。彼らは、はっきり心に決めた宿命を抱き、私達の時代では見られない超自然的な力を受けた、スー パーマンの様な人達だったのでしょうか。全くそうではありません。聖書は、彼らがいかに私や皆さんと全く同じ様に、肉による熱情に悩まされていたかを記し ています。(ヤコブによる手紙5:17参照)事実、彼らの前例は、私達が従うべき模範となってくれています。彼らには、神様の働きを促す様な性質がありま した。だからこそ神様は、彼らを用いて御業を成そうとされたのです。そして神様は今日私達にも、彼らと同じ性質を求める様、促しておられます。

エズラは国家全体を目覚めさせた、信仰に満ちた神の人でした。聖書は、神様がエズラの上に御手を置かれたと語っています。エズラはこう証ししていま す。「わたしは、わが神なる主の御手の加護によって勇気を得た。」(エズラ記7:28)言い換えるならば、神様は御手を伸ばされ、エズラを抱き、彼を異な る者へと変えられたということです。

神様は何故、エズラに対してこうなされたのでしょうか。当時のイスラエルには、何百人という書記官がいました。彼らは全員、神様の御言葉を学び、人 々にそれを説明するという、同じ召しを受けていました。何がエズラを、他の書記官とは異なる者にしていたのでしょうか。何が主に、この僕の上に御手を置く 様、そしてエルサレム再建の為に、彼を5万人の頂点に立たせる様、導かれたのでしょうか。

聖書はその答えを記しています。「エズラは主の律法を研究して実行し、イスラエルに掟と法を教えることに専念した。」(エズラ記7:10)答えは簡 単です。エズラは自分で決断したのです。彼は何事よりも、ただ神様の御言葉を求め、それに従おうと決心しました。そしてその決断からそれることがありませ んでした。彼は自分自身にこう言い聞かせたのです、「私は御言葉の弟子となる。読むものすべてを実行に移すのだ」と。

神様がエズラの上に御手を置かれる前から、彼は御言葉を求めることに熱心でした。彼は御言葉が自分を探り、洗い出し、すべての肉と霊の汚れから清め るままに委ねました。エズラは飢え渇いて御言葉を求め、そこに喜びを見いだしました。彼は御言葉が、神様の選ばれたどんな召しにも答えられる様、彼の心を 整えられるままに委ねました。だからこそ、神様は彼の上に御手を置かれ、彼に油を注がれたのです。

2010年7月19日月曜日

神様の特別部隊

米国軍隊の特別部隊について耳にされたことがあるでしょうか。彼らは特別な訓練を受けた、軍隊の中の軍隊であり、非常に熱心なエリート集団です。特 別部隊は、上官によって招集された、完全なるボランティアによって構成されています。

アフガニスタンでの戦争が始まる前、ウサマ・ビンラディンはアメリカ軍が弱く、臆病で、山岳での戦いに対して訓練がなされていない軍隊である、と発 言しました。彼はタリバン軍が、アメリカ部隊を侮辱と共に帰還に追い込むと予測していました。しかし彼は特別部隊のことを考慮していなかったのです。この 恐れを知らない部隊は、たった2,000人でアフガニスタンに侵入しました。数日の間に、敵の本拠地を完全に把握することが出来たのです。

霊的な領域において、神様はこれと同じ様なことをなされている、と私は信じています。祈っている間に、私は聖霊によって感銘を受けました。神様は天 において、極秘作戦にあたっておられているのです。神様は、通常部隊の中から、ボランティアによるエリート軍を、軍隊の中の軍隊として起こそうとしておら れます。この特別部隊は、神様が敵との戦いにおいて、直接触れ、動かすことが出来る勇士達から構成されています。この状況は、サウルの特別部隊について記 した箇所で、目にすることが出来ます。聖書はこう記しています、「神に心を動かされた勇士たちは、サウルに従った。」(サムエル記上10:26)

今日の神様の特別部隊は、若者も、中年者も、年配者をも含みます。彼らは皆、隠れた部屋においての祈りによって、ずっと訓練されてきました。イエス 様と親密な時間を持つことで、彼らはどの様に戦えば良いかを学んできたのです。ですから、彼らは例えそれが山岳戦であっても、盆地での戦いであっても、ど の様な霊的領域においても戦う術を知っています。

神様の軍隊の中の軍隊は、すべての国々に置かれています。その戦略はまだ極秘となっているかも知れませんが、そのうちにキリストの御名と力によって 行われる戦術が、明らかにされることでしょう。神様の御言葉が成り、飢饉は終着に向かっています。主は勝利を取られます。その御言葉は、すべてに打ち勝ち ます。

「自分の神を知る民は確固として行動する。」(ダニエル書11:32)

「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40:31)

2010年7月16日金曜日

神の家族

キリストの御名による力を主張することは、難しく、隠された神学的な真実ではありません。私の書斎には、イエス様の御名についての み書かれた本がたくさんあります。これらの著者達は、キリストの御名に秘められた奥義を、信者達がさらに深く理解出来る様にと、執筆したのです。しかしこ れらの本の多くは、あまりに深くまで探求しているため、読者の理解力を遥かに超えてしまっています。

イエス様の御名について私達が知るべきことは、幼子でも理解出来るような、非常に簡単なものである、と私は信じています。それは基本的にこういうこ とです。「イエス様の御名によって求める時、それはイエス様御自身が御父にお願いしているのと同じことなのだ、と私達が完全に確信するべきである」という ことです。「これは本当だろうか」とあなたは思われるかも知れません。その理由をご説明しましょう。

私達は、神様がいかに御子を愛しておられるかを知っています。神様はイエス様と共に語り合い、イエス様が地上におられた間、彼を教え続けられまし た。そして神様は、イエス様の祈りをすべて聞かれただけでなく、そのすべてに対してお答えになられました。イエス様はこのことについて、証ししておられま す。「神様はいつでも、わたしに耳を傾けておられる」と。言い換えれば、御父は御子の願いを、一度も退けたことがないということです。

今日、イエス様を信じる者は皆、彼の御子としての権利を衣としてまとっているのです。そして天のお父様は、心から私達を御自身の子どもとして受け入 れてくださいます。何故でしょうか。それは私達が、キリストと霊的に結ばれているからです。十字架と復活を通して、イエス様は私達とお父様を結びつけてく ださいました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。わたしが彼らの内におり、あなた がわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(ヨハネによる福音書17:21〜23より抜粋)

簡単に言うなら、私達は今や神の家族である、ということです。御父と一つであり、また御子とも一つなのです。私達は養子縁組をしていただき、すべて の子どもが受け取る相続権を完全に与えていただきました。すなわち、天におけるすべての力と富は、キリストによって、すべて私達に与えられているというこ とです。

“イエス様のお名前を通して”祈ることは、単なる方程式ではありません。このフレーズを口に出すことによって、力が生まれる訳ではないのです。その 力は、イエス様が私達の主張を取り上げ、御自身の持つ特権によって私達を御父の元に導いてくださる、と信じることから来ます。イエス様は私達の代弁者、す なわち私達の代わりにお願いしてくださる方なのです。その力は、御父が御子の願いを退けたことがなく、私達が御父の御子に対する誠実さの恩恵を被る者であ ると、完全に信じることから来ます。

2010年7月14日水曜日

地獄を揺り動かす祈り

ダニエル書が書かれた時、イスラエルはバビロンにて捕囚とされていました。そして長年のミニストリーを経て、6章でダニエルは80歳になっていまし た。

ダニエルは常に祈りにある人でした。そして年老いた今も、ゆったりした生活を送ろうという気はありませんでした。ダニエルが落胆したり、燃え尽きた りしたとは、聖書のどこにも記されていません。その反対で、ダニエルは始動しかけたところでした。聖書は、80歳になっても、彼の祈りが地獄を揺り動か し、悪魔を怒らせたと記しています。

ダレイオス王はダニエルを王国において、最も高い位に昇進させました。彼は3人いた大臣の一人で、他の2人と共に、王子と120地方からの総督を統 べ治めていました。ダレイオス王は、他の2人よりもダニエルを気に入っており、彼に政務と、裁判官や知識人達を教える担当の長としました。(ダニエル書 6:3)

もちろんダニエルは、非常に忙しい預言者でした。多忙なスケジュールに、長時間の会議の数々と、彼に圧し掛かっていた圧力は想像するに、た易いもの でしょう。しかしダニエルから祈りを取り上げるものは、何もありませんでした。どんなに忙しくても、彼は決して祈ることを止めなかったのです。祈りは、彼 にとって最も大切な任務であり、他のいかなることよりも優先されるべきものであり続けました。一日に3度、彼は大臣としての責任や要求や義務から抜け出 し、主との時間を持ちました。彼はただ、周りのすべてから撤退し、祈ったのです。そして神様は、彼に答えられました。ダニエルは彼の知識、導き、お告げ、 預言のすべてを、ひざまずいて祈る時に与えられたのです。(ダニエル書6:10参照)

地獄を揺り動かす祈りとは一体どんな祈りだろう、とあなたは思われるかも知れません。それは国や教会が堕落してしまっているのを目にする、従順で信 仰に満ちた主の僕から来ます。この人はひざまずき、主に向かって叫びます、「主よ、私はこの環境に馴染んでしまいたくありません。この堕落した時代にあっ て、あなたが力を握っていることを証しする、生きた例として下さい。他の人が祈っているかどうかは、関係ありません。私はあなたに向かってお祈りしま す。」と。

忙し過ぎてお祈り出来ないのですか。「祈りによって受け取ります」と言っているのですか。「神様は私の心を御存知だ。私がどれだけ忙しいかも知って おられる。日中を通して、頭の中でお祈りしている」と自分に言い聞かせておられるかも知れません。

神様は、私達と二人きりで、ゆとりをもった時を持ちたいと願っておられます。そうならば、祈りはただリクエストを伝えるだけの時間ではなく、愛と献 身の行いとなります。

2010年7月13日火曜日

キリストにある力を主張する

イエス様が地上での最後の数時間を、弟子達と共に過ごしている時、イエス様は彼らに言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名に よって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」(ヨハネによる福音書16:23)そしてこう命じられました、「今までは、あなたがたはわたしの名に よっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(16:24)

何と素晴らしい御言葉でしょうか。この場面において、キリストは弟子達に、御自身が彼らを放れ去ること、そしてしばらくの間、彼らを見ることが出来 ないことを、伝えられました。しかし同時に、イエス様は彼らに、天におけるすべての祝福へのアクセスを保障されたのです。彼らはただ、イエス様の御名に よって願えば良いということです。

弟子達は、扉を叩き、探し、神様のものを求めることを、イエス様から個人的に教わりました。彼らはキリストの内にある、御父の恵みについて―その恵 み、権威、力のすべてについて―を直接教わったのです。そして彼らは、イエス様が人々にこう語るのを聞きました。「はっきり言っておく。わたしを信じる者 は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあ げよう。」(ヨハネによる福音書14:12~14)

弟子達に対するキリストの言葉は、私をチャレンジします。「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。」(ヨハネによる福音書 16:24)この箇所を読むと、主が私にささやかれる声が聞こえてきます。「ディビッド、あなたはわたしが与えた力を主張していない。あなたはただ、わた しの名によって願えば良いだけなのに」と。

すべての肉においての罪よりも、神様の心を悲しませるもの、それは、私達がいかに神様の約束を信じていないかです。また神様が、私達の祈りに答えら れないのでは、という疑いを深めていることです。そして人々が、キリストの内にある力を、だんだん主張しなくなっていることです。

あなたがどれ程、キリストに似る者とされる様願ったとしても、神様の宝庫には、それをはるかに超える、霊的な知識の源が備えられています。大きな願 いを持ちましょう。知恵を、導きを、啓示を求めましょう。しかしこれらは、疑いではなく信仰によって、求めなければいけません。

2010年7月12日月曜日

あなたのキリストの偉大さ

ヨハネによる福音書14章は、2つの素晴らしい約束を記しています。一つ目に、イエス様はこう宣言されています。「はっきり言っておく。わたしを信 じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかな えてあげよう。」(ヨハネによる福音書14:12~14)最後の節で、イエス様は単純かつ明確に、こう言われています、「わたしの名によって願うなら、そ れを叶えてあげよう」と。

その2節後、イエス様はこう約束されています。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてく ださる。この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。 この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに 戻って来る。」(ヨハネによる福音書14:16~18)ここでイエス様は、「わたしはあなたがたに真理の霊を授ける。そしてこの霊の力が、あなたがたの内 に留まるでしょう」と言われています。

この2つの素晴らしい約束は、イエス様がなされたものです。しかし、これら2つの間に挟まれた節を見てみて下さい。「あなたがたは、わたしを愛して いるならば、わたしの掟を守る。」(ヨハネによる福音書14:15)何故この言葉が、この場所に記されているのでしょう。キリストは私達にこう、語ってお られるのです、「従順さの問題が、これらの約束に関係しています」と。要するに、この2つの約束は、神様の御言葉を守り、それに従うことに関わっていると いうことです。私達がキリストにある力を主張するにあたって、一切障害となるものがない様、御言葉が与えられているのです。

私は、イエス様の御名によって、何も願わなかったり、小さいことしか願わなかったりすることは、イエス様に対しての侮辱にあたると確信しています。 毎年、多くのクリスチャン達が妥協してしまっています。彼らは最終的に、「救いさえあれば良い」というところに行き着いています。いつか御国にたどり着く こと以外は、何の期待も持っていないのです。

あなたに尋ねます。「あなたはキリストに対する期待の、最終段階にありますか。キリストの恵みと力によって救われること以外に、何の期待も抱いてい ないのですか。あなたのキリストは、この日を生きるのに必要な力を与えるだけでお終いですか。キリストは、サタンからの攻撃が大半の人生において、時々平 安と喜びの場所となっているだけでお終いですか。」

これらの箇所は、私にこう教えてくれています、「私のイエス様の大きさは、私の願いの大きさに比例しているのだ」と。しかし残念ながら、多くのクリ スチャンは不信仰によって、キリストを力無いものにしてしまっています。愛する皆さん、私は私のキリストを制限してしまいたくありません。そうではなく、 地獄中の悪魔達に、私の神様がいかに大きいかを、私の願いの大きさによって示してやりたいのです。私はキリストに、さらに多くを期待しています。私の人生 において、かつて無いほど、大きなキリストとなって欲しいのです。

2010年7月9日金曜日

御手に記されたあなたの名前

私達には祈りによって、素晴らしい権威が与えられています。では実際、一体どの様にして、この権威を用いるべきなのでしょうか。それは、キリストの 御名を通してです。私達がイエス様の内に信仰を持った時、イエス様は私達に、御自身の御名を与えてくださいました。イエス様のいけにえによって、「私はキ リストのものです。私は彼の内にいます。彼と一つとされています」と言う事が出来る様になりました。すると素晴らしいことに、イエス様が私達の名前を手に してくださったのです。大祭司として、イエス様は私達の名前を、その御手に記されました。ですから私達の名前は、イエス様の御名の下で、天に登録されてい るのです。

「キリストの御名によって」という言葉が、単に重要な方程式ではないということが、分かっていただけるでしょう。そうではなく、文字通りそれが私達 の立場を示しているのです。そしてその立場は、天のお父様によって承認されています。イエス様はこう言われています。「その日には、あなたがたはわたしの 名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがた が、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」(ヨハネによる福音書16:26~27)

ここに、何故イエス様が私達に、彼の御名によって祈る様、命じられたかが記されています。「あなたがわたしの名によって願うなら、その願いは、わた しが父にお願いするのと同じ力と影響が与えられる。」言い換えるならば、私達の祈りが、御父の御座の前でイエス様の口から発せられたものと見なされる、と いうことです。同様に、私達が病む者の上に手を置いて祈るのならば、神様はそれを、イエス様が癒しをもたらすために、その人に手を置いているのだと見なさ れるということです。

これはまた、何故私達が恵みの御座に、大胆に近づくべきかを示しています。それは、受け取るためです。私達は確信を持って、「天のお父様、私は出て 行き実を結ぶよう、キリストの内に選ばれた者として、御前に立っています。今、私の喜びが満ち溢れるよう、大胆に願いを申し上げます」と祈るべきなので す。

私は多くのクリスチャン達が「イエス様の御名によってお祈りしたのに、聞かれなかった」と言うのを耳にします。この人達は、「イエス様の御名による 力を宣言しようとしたのに、うまくいかなかった」と語っています。私達の祈りが聞かれない理由は、たくさんあります。私達が罪を犯すことで、キリストとの 交わりが汚されてしまいます。それは、神様からの祝福をせき止めてしまう、障害となります。そして私達がそれらの罪を取り除くまで、神様は私達の祈りに答 えられません。

または、神様に対する私達の生温さや、中途半端な態度が障害となっているかも知れません。疑いによって、キリストの力が私達の内に流れ込むのを止め ているかも知れません。ヤコブはこう警告しています。「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。」(ヤコブの手紙1:6~7)

ヤコブは明確に語っています、「揺れ動くものは、神様から何も受け取ることが出来ない」と。ここでヤコブが使っている、「揺れ動く」という言葉は、 “決断していない”という意味があります。事実、この様な人達が神様にお願いをする時、彼らは神様を試しているのです。心の中で彼らは、「主よ、もし答え てくださるなら、あなたに従います。この祈りに答えてくださるなら、あなたにすべてを捧げます。でももし答えてくださらないなら、自分のやり方で生きてい きます」と。

しかし神様は、下心のある取り引きをなされません。神様は私達の心を御存知で、御子に対しての決心がついているか否か、お見通しなのです。神様は、 キリストにすべてを委ねた者のために、キリストの内にある力を取っておかれます。

2010年7月8日木曜日

主はすべてを求めておられます

「なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて、必ず恵みを与えられる。あな たの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け』と。あなたたちは祭りを祝う夜のように歌い、笛に合わせ て進む者のように心楽しむ。」(イザヤ書18~19、 21、29より抜粋)イザヤは「もしあなたが、ただ主を待ち望むなら―再び主を呼び求め、主に信頼するようになるなら―主は私が言ったことすべて、またそ れ以上のことを成してくださいます」と言っているのです。

神様がただ一言発せられるだけで、敵は私達の前に打ちのめされます。「アッシリアは主の声のゆえにおののく。」(イザヤ書30:31)愛する皆さ ん、神様に解決出来ない問題はありません。私達のために勝利出来ない戦いはありません。神様はそれを、口から出る御言葉だけで成されるのです。イザヤはこ う言っています、「主の息が焼き尽くす硫黄の流れのように、そこに臨む。」(イザヤ書30:33) 

しかし、すべてのことにおいて、神様に信頼することは、簡単なことではありません。最近のことですが、私はニューヨーク市にある私の教会の建物につ いて、主の御心を求めました。私は主にこう言いました、「天のお父様、このことについて、あなたに一切をお委ねします。私はあなたの御心を求めましたか ら、平安の内に待ち望みます」と。神様はこの様に返答されました。「ディビッド、あなたが自分の所有地や、財産など、物質的なものに関して、わたしに信頼 を置いてくれていることは素晴らしいことだ。しかし、あなたはまだ、自分の健康について、わたしを信頼していない。」

私は自分の年齢を、よくわきまえているつもりです。そして自分がいなくなった後、家族がどうなるのか、非常に心配しています。主からの御言葉は、稲 妻の様に私に突き刺さりました。私は物質上の心配はすべて主の御手に委ねているのに、永遠についての心配は委ねられていなかったのです。それに気付き、私 は「主よ、あなたは私がすべてを委ねることを、求めていらっしゃるのですね」と祈りました。

そうです、聖徒なる皆さん、神様はすべてを求めておられるのです―あなたの健康も、家族も、将来も。神様はあなたに、すべての問題について神様に委 ねて欲しいと願っておられます。そしてあなたに、平安と、確信と、憩いの中で生活して欲しいと願っておられるのです。ですから、隠れた場所に行き、主と二 人っきりの時間を持って下さい。すべてを携えて、御前に行くのです。神様は、「あなたはわたしが背後から、『こっちに進みなさい、この道を歩みなさい』と 語る言葉を聞く」と約束してくださっています。

信仰を証明するものは、安らぎです。信頼し切った信仰は、心に平安をもたらします。そして真の信仰は、すべてを主の御手に委ねます。

2010年7月7日水曜日

霊的な強さと信頼

私達がすべての必要を神様の御手に委ね、神様の御力に信頼を置く時、聖霊は私達に力を与えてくださいます。

ルツはその良い例です。彼女は夫に先立たれてから、義理の母であるナオミと一緒に生活していました。ナオミはルツの将来と生活を心配していました。 ですから、彼女はルツに裕福であるボアズの元に行って身を横たえ、家系を絶やさない責任を果たすようお願いしなさい、と助言しました。

その夜、もみ殻を吹き分ける仕事が終わった後、ボアズは「山と積まれた麦束の端に身を横たえ」(ルツ記3:7)、毛布を被りました。翌朝目が覚めた 時、彼は自分の足元に女性が寝ているのを見て驚きました。(ルツがそこにいたことは、ふしだらなことではありませんでした。この様なことは、当時慣習的 に、よく行われていたことでした。)

ルツは彼に言いました、「どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」(ルツ記 3:9)基本的に彼女が言いたかったのは、「同族の者としての責任を果たしてくれますか。私を養ってくれますか。」ということです。実際、彼女は「私と結 婚してくれますか」とお願いしたのです。

これは決してずる賢い策略ではありません。ルツとナオミは、すべて神様の掟に従って行ったのです。キリストがルツの血統から来たことで、これが正し かったのだと分かります。ルツが帰宅した時、ナオミは彼女にこう尋ねました、「娘よ、どうでしたか。」(3:16)言い換えると、彼女は「婚約したルツと 呼ぶべきなの?それともまだ“やもめルツ”なの?」と聞いていたのです。

ルツはナオミに、一部始終を伝えました。ナオミの知恵に満ちた助言を聞いて下さい。「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさ い。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう。」(ルツ記3:18)ナオミはこのことについて祈り、神様の導きを求めていたので、神 様は彼女に助言を与えていました。神様は彼女に、家を絶やさぬ責任に関する律法のことを知らせました。(この概念はキリストの典型、また予兆となりまし た。)ですからナオミは、彼女とルツが、自分達の責任は果たしたという確信を持つことが出来たのです。次はじっと待ち、神様が約束を成就してくださるのを 信じる番です。彼女は、「ルツ、すべては主の御手にあります。落ち着いて、平静にしていましょう」と言いました。

平安と平和が、ナオミの家を覆いました。取り乱し、爪を噛み、「神様は本当に働かれるのかしら。いつ起こるのかしら」と心配する者は、誰もいません でした。この二人の信心深い女性は、落ち着いて、神様に賛美を捧げることが出来ました。

お祈りしていますか?信じていますか?主の救いをじっと待つ準備が出来ていますか?主はすべてを統べ治めていらっしゃいます。

2010年7月6日火曜日

祈りの民となること

エレミヤ書5章において、神様は「エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行 い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。」と言われました。(エレミヤ書5:1)主が言わんとされていること、それは「もしわたしを 求める者が一人でもいるなら、わたしは憐れみを持とう」ということです。

バビロンでの奴隷生活にあった時、神様はダニエルをその様な人として見つけられました。そして今日、歴史上でかつてなかった程に、主はその様に、神 様を敬う人達を探しておられるのです。主は生垣を建て直し、隔たりに立つ、従順な僕達を探しておられるのです。

ダニエルの様に、その様な人は、神様の御言葉を手にしている時に見つけ出されます。聖霊がダニエルに降った時、彼はエレミヤ書を読んでいました。そ の瞬間に御霊が、イスラエルに神様の救いの時が訪れたのだと、明らかにされたのです。この啓示が与えられると、ダニエルは祈るように導かれました。「わた しは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した。わたしは主なる神に祈り、罪を告白した。」(ダニエル書9:3~4)

ダニエルは、主の民が元通りに回復される準備が出来ていないと知っていました。しかし彼は、仲間の罪を非難したでしょうか。いいえ。ダニエルは、自 分を道徳的に堕落していた周囲の人々と同じ様に見なしました。「わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。 主よ、恥を被るのはわたしたちです。あなたに対して罪を犯したのですから。」(ダニエル書9:5、8)

神様は御自身の民を祝福されることを、強く望んでおられます。しかし、もし私達の心が、この世の霊によって汚染されているなら、私達は神様の祝福を 受け取る準備が出来ていません。ダニエルは、次の様な厳しい言葉を述べました。「モーセの律法に記されているこの恐ろしい災難は、紛れもなくわたしたちを 襲いました。それでもなお、わたしたちは罪を離れて主なる神の怒りをなだめることをせず、またあなたのまことに目覚めることもできませんでした。主はその 悪を見張っておられ、それをわたしたちの上に下されました。」(ダニエル書9:13~14)

神様との歩みを見直し、私達が妥協している部分を聖霊に見せていただくようにしましょう。堕落した国家のために祈るだけではなく、「主よ、私の心を ご覧ください。私の内にはびこる、この世の霊をさらし出してください」と神様に叫び求めましょう。そうすることで、私達もダニエルの様に、家族や国家の救 いのために祈ることが出来る様になります。