2010年3月30日火曜日

キリストを試すこと

「彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。」(第一コリント人への手紙10:9)

パウロがここで言う 「キリストを試みること」とは、一体何を意味しているのでしょうか。簡単に言うならば、主を試みることは、主を試すということです。私達は「もし私がこの 罪を犯し続けるなら、どれくらい神様は憐れみを見せて下さるだろう。神様の怒りに触れるまで、どれ程罪に身を委ねることが

出来るだろう。神様は憐れみ深いお方だし、今私たちは恵みの時代に生きていて、罪人に裁きが下ることはないはず。神様の子どもである私に、どうして 裁きが下されようか」と言うことで、神様を試しているのです。

多くのクリスチャンは、恐ろしい試みを真剣に捕らえずに、同じ様な質問を簡単に投げかけます。彼らは、罪の報酬を受けることなしに、どれ程地獄の炎 に近づけるか、試してみたいのです。要するに、彼らはキリストを試しているのです。そして、そうすることによって、彼らは御言葉による確信を、投げ出して しまっているのです。

神様の御霊が明白にして下さった真理に逆らおうとする時はいつでも、パウロの警告を無視していることになります。「立っていると思う者は、倒れない ように気をつけるがよい。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で2万3千人倒れて死にまし た。」(第一コリント人への手紙10:12、8)

神様からの素晴らしい賜物である、恵みの限度を試していないか、自分を見つめてみて下さい。反抗心をむき出しにして、罪におぼれることで、キリスト を試していませんか。「私は新約聖書の信者です。イエス様の血で覆われています。だから、神様は私を裁かれることがありません」と言って、自分を納得させ ていませんか。

罪を犯し続けることで、あなたはイエス様御自身がいけにえとなって下さったことを、完全に無視しているのです。あなたが今故意に犯している罪によっ て、あなたはイエス様を世の中だけではなく、天と地獄の前で、辱めにあわしているのです。(ヘブル人への手紙6:6参照)

第一コリント人への手紙10章13節において、パウロはどうやって試みから逃れることが出来るかを記しています。「あなたがたを襲った試練で、人間 として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに 耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

この逃れる道とは何でしょうか。それは神様の聖い畏れを養い、また経験することです。

2010年3月25日木曜日

十戒

アメリカ人の多くは、裁判所で十戒を啓示してはならないという、最高裁が下した評決をご存知のことでしょう。この非常に重要な決断 は、メディアによって大きく報道されました。しかしこの評決は、一体何を意味しているのでしょうか。

裁判所とは、法律が施行されるところです。十戒は、決して変わったり、揺れ動いたりすることのない、神様の道徳的な律法を表します。それは、重力の 法則と同じくらい、不変のものです。それを無視することは、高い橋の上から飛び降りようとすることと同じです。自分はその法則に縛られていない、と信じ込 んでも、それのもたらす結果から免れることは出来ません。

簡単に言うならば、十戒は社会が自滅しない様、神様がお定めになった永遠の律法なのです。しかし驚くべきことに、多くの企業が、裁判所の大理石やコ ンクリートに関わらず、十戒だけではなく神様の御名を、削り落としてしまおうと働きかけています。

これはアメリカ社会の現実を、まざまざと映し出しています。これらの不変の律法は、神様御自身の指によって、最初に石に刻み込まれたのです。そして 今、人々の作った法律により、それらは石から削り落とされているのです。

クリスチャンの中には、「何故そんなに騒ぎ立てるのですか。私達は律法に縛られていません。これのどこが問題なのですか」と言う人達もいます。確か に、私達はヘブル人の法律、すなわちユダヤ教の指導者達によって加えられた613の法律には縛られていません。しかしすべてのクリスチャンは、十戒によっ て集約された、神様の道徳的な律法による主権の下にいるのです。

私達の目の前から、これらの企業が神様の律法を消し去ろうとするのを見て、神様はどう感じておられるでしょうか。信者の中には、「十戒を飾る必要な どありません。ただ私達の心に、それが刻み込まれていれば良いのです」という人がいます。しかしそれは、神様の御言葉と異なります。十戒が神様の民に与え られた時の、はっきり目に見える神様の臨在を、思い出して下さい。

「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、(中略)家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせな さい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」(申命記 6:6~9)

2010年3月23日火曜日

瞬き時代

多くのクリスチャンは、聖書を定期的に読み、それが私達に与えられた、神様の生ける御言葉であると信じています。聖書では何度も何度も、神様の御声 を聞いていた世代のことを目にします。「そして主はこう言われた」という言葉に続き、何度も何度も神様がその民に語られるのを読みます。しかし、そのクリ スチャンの多くが、今日では神様がその民に語られることがないかの様に生きています。

新しい世代の信者は、祈ったり、御言葉が何を言わんとしているか尋ね求めたりせずに、完全に自分一人で決断を下してしまいます。多くの信者は、ただ 自分のしたいことを決め、それから神様の承認を求めます。彼らは自分の決断を推し進め、その祈りは、「主よ、もしこれがあなたの御心でないなら、私を止め て下さい」というものだけに止まります。

私達は「瞬き時代」と呼ばれる時代に生きています。人々は重要な決断を、瞬きする間に決めてしまいます。あるベストセラーの本は、このコンセプトに 基づいて書かれました。その題は、「瞬き―考えずに考える力」(原題Blink: The Power of Thinking Without Thinking)です。この本の論説は、「自分の直感を信じなさい。瞬きする間にする決断こそが最善だと、証明されているからです」ということです。

私達が日々耳にする、私達を押し急かす「瞬き言葉」を思い出してみて下さい。「これは一世一代の大チャンスです。一晩で大金持ちになれます。でも、 このチャンスは今だけです。さあ、今すぐ行動に移して下さい。」

この様な考え方は、教会をも汚染し始めています。それは「瞬きクリスチャン」だけでなく、「瞬き牧師」による決断によって影響を受けているからで す。当惑した多くの教会員達が、私の元に同じ様な内容の手紙を書いてみえます。「私達の牧師は、教会成長セミナーから帰って来てすぐ、『今日からすべてが 変わります』と宣言しました。先生は私達の教会が、人々を引き寄せるトレンディーな教会に生まれ変わるべきと、一晩で思い立たれたのです。先生は、このこ とについて祈る様、私達に勧められることもありませんでした。私達教会員は、困惑しています。」

ほんの数年前まで、クリスチャンの合言葉は、「そのことについて祈りましたか。神様を求めましたか。兄弟姉妹が、祈りによって支えてくれています か。信仰に知恵を仰ぎましたか」ということでした。皆さんは、これを実行されていますか。この一年の間で、幾つの重要な決断を、ただ神様を尋ね求め、心か らの祈りによって決めましたか。それとも、それらの重要な決断の幾つを、瞬きする間に決めてしまったでしょうか。私達に人生のすべてを委ねることを、神様 が望んでおられるのは、私達を惨事から守ろうと願っておられるからです。なぜなら私達の「瞬きの決断」の多くは、大惨事に終わることが少なくないからで す。

2010年3月18日木曜日

聖さに追い求めること

神様の御言葉は、明確な言葉をもって私達に語られます。「聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見るこ とはできません。」(ヘブル人への手紙12:14)

ここに、簡潔で明白な真理を見ることが出来ます。キリストによってのみ、与えられる聖さ―神様の御言葉のすべてに従う決意を生き抜くことで与えられ る、貴重な賜物―この聖さなしでは、誰も主を見ることが出来ません。そしてそれは天においてだけではなく、現在の地上での命においても言えることです。聖 さなしでは、日々の歩みで、家庭で、人間関係において、伝道やミニストリーにおいて、神様の臨在を見ることが出来ません。

何度特別集会に参加したか、どれだけ多くの説教テープを聴いたことがあるか、また幾つの聖書研究会に属しているかは関係ないのです。もし私達が罪を 隠すなら、もし主が私達の罪に反感を持たれるなら、私達のいかなる努力も、信仰の実を結ぶことが出来ません。それどころか、私達の罪はさらに深まるだけ で、周囲の人々にも伝染し、彼らをも汚染させてしまいます。

もちろん、この問題はすべての肉的な色情を超え、霊的な堕落も含みます。パウロはその様な、破壊的な罪のことを、次の箇所で語っています。「彼らの 中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。」(第一コリント人への手紙 10:10)

ですから、愛する聖徒の皆さん、あなたは知らずに隠している色情のすべてに対して、聖霊が働かれままに委ねることが出来ますか。また神様がご用意下 さった逃げ場を探し、そこに信頼をおくことが出来ますか。どうか、終わりの日に対しての畏れと信仰を養って下さい。そうすることによって、周りにどんな悪 がはびころうと、あなたは潔白を守ることが出来ます。そして、神様の永遠の臨在を約束する、神様の聖さの内に歩むことが出来ます。

これは信仰の問題です。もしあなたが、ただキリストの語られたことを信じるならば、キリストはあなたが倒れないよう守ると、また罪に抵抗する力を与 えると、約束して下いました。それを受け入れ、そのために祈って下さい。神様は、必ずその約束をお守り下さいます。自制心や、誓約や、その他のどんな人間 的な努力では、絶えず付きまとう、罪の死の手から逃げ切ることは出来ません。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われ る。」(ゼカリヤ書4:6)

2010年3月16日火曜日

神様の究極の計画

創世記が締めくくられる前に、神様は小さく取るに足りない人々を、国々の模範として選ばれました。神様は不信仰に満ちた世界におい て、御自身の素晴らしさを表す、生ける証しとなる人々を起こされたかったのです。そしてその様な証しを示すため、神様は民が自分達の力では何も出来ないと ころを通らされました。神様は、御自身だけが命の源となり、すべての必要を満たすことが出来る荒野へと、イスラエルを導き出されました。

イスラエルの民にとって、その様な孤立した地で生き抜くことなど、自分達の手でどうにか出来ることではありませんでした。食べる物や水の入手を、自 分達でコントロールすることは出来ません。方位磁石も地図もなかったので、目的地を自分達の手で定めることも出来ませんでした。彼らはどうやって、食べた り飲んだりすることが出来たのでしょうか。どうやって、どの方向に進むべきかを決めることが出来たのでしょうか。そして、どこにたどり着くことが出来たの でしょうか。

神様がそのすべてを成されたのです。神様は、彼らの前にある闇を追い散らし、闇で光り輝く不思議な雲をもって、日毎彼らを導かれました。また、天か ら天使の食物を降らせることで食物を与え、岩から水を出すことで、水を供給されました。そうです、すべての必要は一つひとつ、神様の御手によって備えら れ、敵は彼らを打ち倒すことが出来ませんでした。

「主はあなたを訓練するために、天から御声を聞かせ、地上に大いなる御自身の火を示された。」(申命記4:36)神様の 民は、彼らを導かれる神様御自身の御声を聞くことが出来るので、「世界の国民の中で一体誰が、生ける神の御声を聞いたことがあるだろうか」と証しします。(4:32~34 参照)

古代のイスラエルを取り囲んでいた国々は、木や金銀で作られた偶像でしかない、他の神々で溢れていました。これらの神々は、語ることも、聞くこと も、見ることも出来ず、それらを礼拝する人々を愛することも、導くことも、守ることも出来ませんでした。これらの国々はイスラエルを見ることで、彼らがい かに神様によって厳しい荒野を導き出された、特別な民であるかを見ることが出来たはずです。また、御自分の民に語りかけ、愛し、感情を持ち、祈りに答え、 奇跡を起こされた神を見ることが出来たはずです。ここに、御自分の民の詳細に至るまですべてを導かれた、生ける神を見ることが出来ます。

神様は、御手によって訓練される民を起こされました。神様の主権に従い、その人生のすべてを完全に委ね切る民が必要だったのです。その様な民こそ、 世界に神様を証しする民とされるのです。

なぜ神様は、民が完全にすべてを委ね切り、いつも神様に信頼をおくことを望まれるのでしょうか。それは、神様だけが目的地にたどり着く方法を御存知 で、そのために必要な、不可能を可能とする力をお持ちだからです。

2010年3月9日火曜日

放蕩息子とその父

ルカによる福音書15章に記されている放蕩息子は、父との過去の関係があったから家に帰ってきたのだと思います。この若者は父の人 柄を良く知っており、父は彼にひたすら愛を注いでくれていた様です。そうでなければ、なぜ彼を痛い目にあわし、浪費したお金のすべてを返済させようとす る、怒りと復讐心に満ちた人の元に帰ろうとするでしょうか。

きっとこの放蕩息子は、家に帰ったとしても、犯した罪をとがめられたり、罰せられたりしないだろうということを、知っていたのでしょう。おそらく彼 は、「お父さんは、私のことを愛してくれている。きっと私の罪をなじったりしない。多分私を迎え入れてくれるはずだ」と思ったことでしょう。この様な過去 の関係があるなら、いつでも家に帰ることが出来ます。

放蕩息子の父が、いかに優しさの祝福をもって、息子を妨げたか見てみましょう。息子は父に対して、心からの告白をしようと心に決め、帰路につく間中 ずっとそれを復唱していたのです。しかし父の顔を見るや否や、彼は告白するチャンスを奪われてしまいます。彼に駆け寄り抱きしめることで、彼の父がそれを さえぎったからです。

「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(ルカによる福音書15:20)父は息子が帰って きたことが本当に嬉しくて、息子に接吻し、「愛しい息子よ。早く家に帰って、癒されなさい」と言いました。

父は息子が告白を終える前に、これらのことすべてを行ったのです。息子は、何とか練習した台詞の冒頭部分を、口に出すことが出来ました。しかし父 は、息子が言い終わるまで待ちませんでした。父にとってみれば、息子の罪はすでに清算されているのです。父の唯一の反応は、僕たちに命令を下すことでし た。「息子に衣を着せ、手に指輪をはめてやってくれ。お祝いをするための宴を準備してくれ。皆、喜んでくれ。息子が帰って来たのだ。」

父にとって、息子の罪は問題でありませんでした。彼の頭の中にあったのは、ただ愛でした。愛しい息子が罪を告白する前に、彼は受け入れられているの だと知って欲しかったのです。そして神様は、同じことを私たちに伝えたいと、願っておられるのです。神様の愛は、私たちのすべての罪よりも大きいのです。 「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く。」(ローマ人への手紙2:4)

2010年3月5日金曜日

霊によって行きなさい

あなたは霊によって、世界中のどこにでも行くことが出来ます。ひざまずき祈る時、福音を聞いたことのない人達に触れることが出来ます。事実、あなた の隠れた部屋が、ある国家における御霊の働きの本部となることがあります。

アブラハムがその良い例です。彼は神様を信じない、不道徳なソドムのために祈りました。主は彼に、こう答えられました、「もしソドムの町に正しい者 が50人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」(創世記18:26)

これを聞いた時、アブラハムは主と交渉を始めました。彼は、「もしかすると、50人に5人足りないかもしれません。それでもあなたは、5人足りない ために、町のすべてを滅ぼされますか。」(18:28)アブラハムは、「主よ、もしその50人の信仰者の内、45人が正しい人だったらどうされますか。も し求道者がそれだけだったら、どうされますか。それとも、たった10人だけが、あなたを求める正しい人だとしたら、どうされますか。もしあなたを呼び求め る人が、たった10人だとしたら、あなたは町を滅ぼさないでいて下さいますか。」とお願いしたのです。神様はアブラハムに答えられました、「その10人の ためにわたしは滅ぼさない。」(18:32)

この聖句は、主について私たちにあることを教えてくれています。主は、もし幾人かの正しい人がいるならば、その社会を丸ごとお救い下さるおつもりで ある、ということです。これは、自分の国のために執り成す、主の御顔を求める人達のことを語っています。

このことについて、神様はアブラハムに約束されたより、さらにその上を成されます。エゼキエル書22章で、神様は隔たりに立つ、祈りにあるたった一 人の信者について語っておられます。「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めた が、見いだすことができなかった。」(エゼキエル書22:30)

エゼキエルが預言していた時代、イスラエルは霊的に堕落していました。預言者たちは神様を冒涜し、ありとあらゆる神様の律法を破っていました。そし て民は抑圧され、様々なことに腹を立て、色情に溢れ、お互いに略奪し合っていました。彼らの中で、誰一人として主に叫ぶ者はいませんでした。隔たりに立 ち、執り成す者は、誰もいなかったのです。しかし神様は、たった一人の執り成し手のために、国のすべてを救われるおつもりでした。

もし肉体的にある国に行くことが出来なくても、執り成し手の一部となることが出来ます。私たちは、国々に遣わされるために献身した人達を援助する 様、召されているのです。パウロが宣教旅行について書き綴った時、彼のアシスタントとしてテモテやテトスの名を挙げただけではなく、彼を助けてくれたリ ディアを始めとする、その他の女性をも紹介しました。彼女達は皆、福音によって国々に触れる助けをした、敬虔な主の僕たちだったのです。

2010年3月4日木曜日

収穫の主に祈りなさい

イエス様は、地上でミニストリーをされていた時から、終わりの日までを見渡し、大変な問題があることを指摘されました。そして弟子 達にこう言われました、「収穫は多いが、働き手が少ない。」(マタイによる福音書9:37)

この箇所を読みながら、私は「では、どんな解決法があるのだろう。どうやったら、世界に出て行く働き手が、もっと起こされるのだろうか」と思いまし た。イエス様は私のこの質問に、次の節で答えて下さっていました。それは、それらの働き手が収穫の地に遣わされる様、誰かが祈らなければならない、という ことです。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイによる福音書9:38)

「しかし、いたる所で扉は閉ざされているではないか」と思う方がいらっしゃるかも知れません。確かにそれは事実かも知れません。しかしそれらの国々 が、私たちの目にどれだけ閉ざされているように見えるかは、問題ではないのです。もし神様がヨーロッパの鉄のカーテンを砕き、アジアの竹の衝立を砕くこと が出来るなら、神様が御心と定められた場所で、その働きを止めることが出来るものは、何もないのです。

私たちのミニストリーがテキサス州を本拠地としていた1980年代、私は一年間に亘り、誰かがニューヨークのタイム・スクエアーにおいて教会を開拓 するよう、神様にお祈りしていました。神様が起こされたその人に対して、私は必要な資金を集めたり、ミーティングを開いたり、支援したりして、お手伝いを することを誓いました。しかし私が、この具体的な収穫の地に働き手を送って下さる様、神様にお願いするにつれ、主は私にその重荷を置かれました。

使徒パウロは、祈りの力によって、宣教師として遣わされたのです。アンティオキアにおいて、教会のリーダー達は収穫のために祈っていました。(使徒 行伝13:2~6参照)パウロの最初の宣教旅行は、祈りの会から始まったのです。それは収穫地に働き手を送って下さる様、神様に祈りなさいという、イエス 様の御言葉に忠実に従った、信仰深い人達がもたらした結果です。

これと同じことが、今日にも言えます。アンティオキアの信仰深い人達がしたように、私たちも収穫のために祈るべきです。実際、私たちが祈る間に、聖 霊が地上を見渡して、主に用いられたいと望む人達の心に、危機感を送られるのです。聖霊はいたる所で人々に触れ、彼らを主の御用のために聖別されるので す。

マタイ8章で、ある百人隊長が、瀕死の僕を癒してもらうため、イエス様のところにやって来ました。キリストは、彼にこの様に答えられました、「『帰 りなさい。あなたが信じたとおりになるように。』ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。」(8:13)これと同じことが、収穫のために執り成す人々に 起こると信じます。働き手を送って下さいと神様にお願いする時、聖霊がどこかで誰かに働きかけられます。その場所は問題ではありません。ここに素晴らしい 真実があります。それは私たちの祈りが、収穫の地に働き手が遣わされるために、用いられているということです。