2009年10月30日金曜日

主にあって喜ぶ

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ人への手紙 4:4)これは、パウロがフィリピ人に対して書いた手紙の結びの部分 です。彼は、「私は今捕らわれの身で、つながれている鎖は祝福です。この痛みは素晴らしい。」と言っているのではありません。私が思うに、パウロは釈放さ れるように日々祈り、何とかその苦しみを耐えられるように強さを求めていたことでしょう。イエス様でさえ、その苦しみと試練の時に、父に向かってこう叫ば れました、「なぜわたしを見捨てられたのですか。」私たちも、苦悩にあって最初に叫ぶのは、「なぜですか」という言葉です。そして主はその叫びに対して、 忍耐強くいて下さいます。

しかし同時に、神様は私たちの「もしも」とか「どうして」という質問に御言葉によって答えられるよう、私たちに 備えを与えて下さっています。パウロはこう記しています「わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知っているので(中略)わたしはそれを喜んでい ます。これからも喜びます。」(フィリピ人への手紙 1:16~18)パウロが言わんとしていることは、「私がこの困難にどうやって対処するかによって、 神様の御言葉が証明されると信じています。だから、私は福音に泥を塗ったり、それが無力だと思わせたりしないと心に決めたのです。」

「実 際、私の平然とした表情や、こんな状況にあっても平安に満ちていることで、キリストが述べ伝えられるのです。私を見るすべての人が、私の語る福音こそが、 降りかかる困難の中で私を導いて下さっているのだと知っています。それが、神様は誰でも、たとえ火の中、水の中を通るような状況であったとしても、その人 を導き出し、神様の福音がその経験を通して伝えられるという証しとなるのです。」

パウロとアブラハムを通して語られているメッセージ、そ れは「私たちは神様に対して、何か偉大なことをする必要はない」ということです。私たちに委ねられていること、それは私たちの人生を神様の御手に委ねて、 神様が私たちを養って下さると信じきることです。もし私たちがそれを行うなら、たとえ私たちがどんな状況下にあっても、神様の福音は述べ伝えられます。そ して特に私たちが困難にある時にこそ、キリストが私たちを通して明らかにされるのです。

私たちの教会の長老であるサムという方が、私にあ る時こう語ってくれました。「ディビッド牧師、あなたが困難に立ち向かう姿が、私には証しとなっています。」ただサムが気付いていないのは、彼の人生は私 にとって説教(メッセージ)となっているということです。彼は慢性の痛みを抱えており、毎晩数時間ずつしか眠れないような状況にあります。絶えず続く、激 しい痛みがあるにも関わらず、彼の主に対する献身的な態度は、私たち皆にとっての証しとなっています。彼の人生そのものが、パウロの説教と同じくらい強 く、キリストを述べ伝えています。

あなたが今通っている試練の中で、キリストは述べ伝えられているでしょうか。あなたの家族はあなたの中 に福音が働くのを見ることが出来ているでしょうか。それとも、あなたがパニックを起こしたり、絶望したり、神様の守りを疑ったりするのを見ているでしょう か。あなたはどうやって、降りかかる困難に立ち向かっているでしょうか。

2009年10月29日木曜日

神様はすべてを統べ治めておられる

全世界は、テロや地球全体を襲う惨事を思い、震えおののいています。毎日、どこかで新たな惨事の発生を耳にします。中には、第三次世界大戦の始まりが見られる、という人までいます。

ク リスチャンでない人は、統一政府が存在しないことから、解決方法など何もない、すべてが混乱に向かっているのだ、という確信を持ちつつあります。しかし神 様を信じる人達は、そうではないと知っています。私たちには何も恐れることはありません。なぜなら、主がすべてを統べ治めておられるということを、何度も 何度も聖書が語っているからです。神様の権限と知識を超えて、世界で何か起きるということは有り得ません。

詩編の著者はこう語っています 「王権は主にあり、主は国々を治められます。」(詩編22:28)同じ様に、預言者イザヤも全世界に向かってこう宣言しています、「もろもろの国よ、近づ いて聞け。もろもろの民よ、耳を傾けよ。聞け、大地とそこに満ちるすべてのもの。世界とそこに生ずるすべてのものよ。」(イザヤ書34:1)イザヤが言っ ているのは、「聞け、国々よ。私に耳を傾けよ。この世界を創られた創造主について、伝えたい大切なことがある。」ということです。

イザヤ は、神様が国々とその軍隊に対して憤りを覚えた時、神様御自身が彼らに滅びをもたらす、と言っています。「見よ、国々は革袋からこぼれる一滴のしずく、天 秤の上の塵とみなされる。主の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしく空ろなものと見なされる。主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。地に住む者 は虫けらに等しい。お前たちはわたしを誰に似せ、誰に比べようとするのか。」(イザヤ書40:15、17、22、25)

その後にイザヤ は、世界の出来事によって虐げられ、悩まされている神の民に向かって語りかけます。「空を見上げてごらんなさい、この素晴らしい天を。そこにおかれた幾億 の星をごらんなさい。あなた方の神様がこれらを創られ、一つひとつに名前を付けられたのですよ。神様にとって、あなたの方が星よりもずっと大切な存在では ありませんか。だから、恐れてはなりません。」

私たちは、天国に神様が世界の歴史を刻まれた地図があるのだということを知る必要がありま す。そして神様は、世界の始めから、その終末がどうなるか、ご存知だったのです。その計画が実現する中で、私たちは「この状況で、神様の目はどこに焦点が 当てられているのだろう。」と自問する必要があります。神様の目は、世界にいるブリキ製の神様や指導者などには向けられていません。

聖書は私たちに、その様な人達の兵器も軍も力も、神様の前では無きに等しいということを教えてくれています。神様は、小さな塵でしかない彼らを笑い、そのうちに風をもって塵である彼らを吹き飛ばしてしまわれます。(イザヤ書40:23~24)

2009年10月28日水曜日

無駄な労苦

もしイエス様が、少しの達成感しか得られなかったと知ったら、あなたは驚きますか。

イ ザヤ書49:4にこう書かれています。「わたしは思った。わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。」これは、成熟してから神 様の召しを受けたイザヤの言葉ではありません。これらは、キリストご自身が語られた言葉です。「主は母の胎にあるわたしを呼び、(中略)ヤコブを御もとに 立ち帰らせ、イスラエルを集めるために、母の胎にあったわたしを、御自分の僕として形づくられた」主の言葉です。(イザヤ書1、5)

この 箇所は以前に何度も読んだことがありますが、この箇所にくると、私の心は不思議な気持ちに包まれます。自分が読んでいることを信じられないくらいです。な ぜなら、ここでの「空しく力を使い果たした」というイエス様の言葉は、「あなたはわたしの僕、イスラエル。あなたによってわたしの輝きは現れ る」(49:3)と宣言された父に対する答えだからです。その次に、驚くようなイエス様の回答が続きます。「わたしはいたずらに骨を折り、うつろに、空し く、力を使い果たした。」(49:4)

この箇所を読んでから、私は書斎に立って、「何て素晴らしいことだろう。キリストにこれ程弱みがあ り、父に向かって私たち人間が経験するような思いを打ち明けるとは、信じられない。人間として、イエス様も私たちと同じ様な失望感や落胆、また傷の痛みを 味わわれたのだ。自分の人生について、『約束と違う。無駄骨を折った。すべては無駄だった。』と、私たちと同じ様な考えを持たれたのだ。」

こ れらの言葉を読むと、イエス様をもっと愛したくなります。ヘブル書4:15がただの決まり文句ではないのだと気付いたからです。私たちの救い主は、私たち の弱さに同情し、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われながらも罪を犯されませんでした。私たち同様、イエス様も「お前の使命は達成されていな い。お前は失格者だ。お前の努力の成果を示すものなど何もない。」とささやく悪魔の声を聞かれたのです。

キリストは、イスラエルを生き返らせることで、神様の御心を実現させるために世に来ました。そして、召された通りのことを行ったのです。しかし、イスラエルは彼を拒みました。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:11)

ど うしてイエス様が、また神様に従う他の人が、「私の働きは無駄だった」などという絶望的な言葉をもらすのでしょう。なぜ神の子ともあろう方が、そんなこと を言われたのでしょう。そして何世代も続いた信仰にあるクリスチャンたちが、そのような言葉を発するのでしょう。なぜなら、それはほんの少しの成果を、大 きな期待と比較して見るからです。

あなたはこう思われるかも知れません、「この箇所は、牧師とか、宣教師とか、預言者とか、神様の素晴ら しい業をするために召された人のためにあるものだ。でも、私に一体何の関係があるだろうか。」実際のところ、私たちは皆、一つの大きな共通の目的をもっ て、一つの働きのために召されているのです。それは、キリストに似る者とされる、ということです。私たちはイエス様に似る者になるよう成長し、彼のイメー ジを表すものへと変えていかれるよう、召されているのです。

2009年10月27日火曜日

無駄な労苦

もしイエス様が、少しの達成感しか得られなかったと知ったら、あなたは驚きますか。


イ ザヤ書49:4にこう書かれています。「わたしは思った。わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。」これは、成熟してから神 様の召しを受けたイザヤの言葉ではありません。これらは、キリストご自身が語られた言葉です。「主は母の胎にあるわたしを呼び、(中略)ヤコブを御もとに 立ち帰らせ、イスラエルを集めるために、母の胎にあったわたしを、御自分の僕として形づくられた」主の言葉です。(イザヤ書1、5)

この 箇所は以前に何度も読んだことがありますが、この箇所にくると、私の心は不思議な気持ちに包まれます。自分が読んでいることを信じられないくらいです。な ぜなら、ここでの「空しく力を使い果たした」というイエス様の言葉は、「あなたはわたしの僕、イスラエル。あなたによってわたしの輝きは現れ る」(49:3)と宣言された父に対する答えだからです。その次に、驚くようなイエス様の回答が続きます。「わたしはいたずらに骨を折り、うつろに、空し く、力を使い果たした。」(49:4)

この箇所を読んでから、私は書斎に立って、「何て素晴らしいことだろう。キリストにこれ程弱みがあ り、父に向かって私たち人間が経験するような思いを打ち明けるとは、信じられない。人間として、イエス様も私たちと同じ様な失望感や落胆、また傷の痛みを 味わわれたのだ。自分の人生について、『約束と違う。無駄骨を折った。すべては無駄だった。』と、私たちと同じ様な考えを持たれたのだ。」

こ れらの言葉を読むと、イエス様をもっと愛したくなります。ヘブル書4:15がただの決まり文句ではないのだと気付いたからです。私たちの救い主は、私たち の弱さに同情し、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われながらも罪を犯されませんでした。私たち同様、イエス様も「お前の使命は達成されていな い。お前は失格者だ。お前の努力の成果を示すものなど何もない。」とささやく悪魔の声を聞かれたのです。

キリストは、イスラエルを生き返らせることで、神様の御心を実現させるために世に来ました。そして、召された通りのことを行ったのです。しかし、イスラエルは彼を拒みました。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:11)

ど うしてイエス様が、また神様に従う他の人が、「私の働きは無駄だった」などという絶望的な言葉をもらすのでしょう。なぜ神の子ともあろう方が、そんなこと を言われたのでしょう。そして何世代も続いた信仰にあるクリスチャンたちが、そのような言葉を発するのでしょう。なぜなら、それはほんの少しの成果を、大 きな期待と比較して見るからです。

あなたはこう思われるかも知れません、「この箇所は、牧師とか、宣教師とか、預言者とか、神様の素晴ら しい業をするために召された人のためにあるものだ。でも、私に一体何の関係があるだろうか。」実際のところ、私たちは皆、一つの大きな共通の目的をもっ て、一つの働きのために召されているのです。それは、キリストに似る者とされる、ということです。私たちはイエス様に似る者になるよう成長し、彼のイメー ジを表すものへと変えていかれるよう、召されているのです。

2009年10月26日月曜日

あなたの将来を一切委ねなさい

ある日主はアブラハムを訪れ、途方もない使命を与えました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」(創世記12:1)


何と驚くべきことでしょう。突然神様がある人を選び出し、「すべてのものをおいて、この地を出発しなさい、あなたの家も、親戚も、故郷もおいて。私はある地にあなたを遣わします。その場所までの行き方は、行きながら示します。」と言われたのです。

アブラハムは、主からのこの途方もない使命に対して、どう応答したでしょうか。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブル書11:8)

神 様は、何をされようとしていたのでしょうか。なぜ、一人のために世界中を探し、彼にすべてのものを見捨て、地図も与えず、行き先も教えず、目的地も教えな いまま出発するよう、命じられたのでしょう。神様がアブラハムに課したことを考えてみて下さい。神様は、アブラハムとその家族を養うと、決して約束された わけではありませんでした。どれ程遠い道のりになるかや、いつそこにたどり着くのかも伝えませんでした。神様が最初に語られたのは、たった二つ、「出発し なさい」と「わたしがあなたを導きます」ということでした。

実質、神様がアブラハムに言われたのはこういうことでした。「今日から、あな たの将来を一切、わたしに委ねなさい。あなたの残りの人生を、一日ずつ、わたしの御手に委ねなさい。わたしがあなたに求めるもの、アブラハム、それはあな たの人生をわたしが与える約束のために捧げきることです。もしそうするなら、わたしはあなたを祝福し、あなたを守り、あなたを想像もつかないような所に導 こう。」

神様がアブラハムを導き入れたかった場所、それは神様が、キリストの体である、私たち一人ひとりを導き入れたいと思っておられる 場所です。アブラハムは、神学者が呼ぶように、私たちの典型となった人でした。それは、神様の御前でどのように歩めばよいか、という見本を示してくれた人 だからです。アブラハムの例は、私たちに、神様を喜ばそうとする人が何をすべきか、教えてくれています。

注意して下さい。神様がアブラハ ムを召し出された時、アブラハムは決して若くはありませんでした。おそらく彼は、安泰した家庭を築くための計画を立てていたことでしょう。そして神様から の召しに応える上で、たくさんの葛藤があったことでしょう。しかし、アブラハムは「主を信じました。主はそれを彼の義と認められました。」(創世記15: 6)

使徒パウロは、キリストを信じ、キリストを慕う者は皆、アブラハムの子孫である、と語っています。そしてアブラハム同様、私たちも、将来の一切を主の御手に委ねようとするので、義と認められるのです。

2009年10月23日金曜日

天の父は知っておられる

イエス様は、私たちに明日のことなど考えず、将来をすべて神様の御手に委ねる生き方をするよう、呼びかけておられます。「だから、『何を食べようか』『何 を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがた に必要なことをご存知である。」


「何よりもまず、神の国とその義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。」(マタイ6:31~34)

イ エス様は何も、私たちに計画を立てたり、将来について全く何もするな、と語っておられたりするのではありません。むしろ、「明日のことについて、思い悩ん だり心を騒がせたりしなくて良い。」と言っておられるのです。考えてみて下さい、私たちの悩みのほとんどは、将来何が起きるかという心配からきています。 私たちは常に、「もしも・・・」という言葉にさいなまれています。

「もしも経済が悪化して、仕事を失くしてしまったらどうしよう。どう やって家のローンを返済しようか。どうやって家族で生活していけば良いだろう。医療保険を失くしてしまったらどうしよう。もしそんな時に病気にでもなっ て、入院しなければいけなくなったら、おしまいだ。それとも、もし私が試練の中で信仰を失ってしまったら。」私たちはみんな、幾千もの「もしも」という恐 れに満ちています。

イエス様は、私たちのそんな「もしも」という思いを止め、こう語りかけて下さいます。「あなたがたの天の父は、どう やってあなたがたを養っていこうかご存知でいらっしゃいます。」さらに、「心配することは、ありません。あなたがたの父は、これらのものがすべて、あなた がたにとって必要であるということをご存知で、決してあなたがたを見捨てられません。父は必ず、あなたがたに食物を与え、着る物を与え、すべての必要を満 たして下さいます。」

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってく ださる。(中略)野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の 一つほどにも着飾ってはいなかった。」

「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。」(マタイ6:26、28~30)

私 たちは喜んで、今までの罪を差し出し、私たちの過去をすべて主に委ねます。主は、私たちの過去の失敗や、疑いや、恐れのすべてに対する赦しを与えて下さる と信じています。だとすれば、将来のことについても、同じようにしようではありませんか。結局のところ、私たちは将来に関して権利を主張したり、自分の夢 にしがみついたりします。神様抜きで計画を立ても、後からその計画を祝福し、夢や願いを叶えて下さいと、お願いするではありませんか。

2009年10月22日木曜日

平安と安全

私が何よりも恐れていること、それはキリストから離れてさまよってしまうことです。霊的に怠惰や無頓着になったり、祈らなくなったり、何日も主の御言葉を 仰がないで過ごしたりする生活を考えるとぞっとします。世界中を旅する中で、悪に向かって押し流されてしまう「霊的な津波」を目の当たりにしてきました。 教団全体がこの津波に飲み込まれ、気が付けば霊的な無関心さに覆われてしまっているのです。聖書ははっきりと、熱心なクリスチャンでもキリストから離れて しまうことがあると、警告しています。


た だ一心に平安と安全だけを求め、かろうじて救いに繋がっているだけのクリスチャンは、霊的に大きな代価を支払わなければなりません。では、どうやったらキ リストから離れたり、素晴らしい救いをないがしろにしたりすることを、防ぐことが出来るでしょうか。パウロがその方法を語っています。「だから、わたした ちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。」(ヘブル書2:1)

神様は、私たちが御言 葉を速読出来るかなど、気にしておられません。毎日たくさんの章を読んだり、早く聖書を通読したりすることは、私たちに満足感や達成感を与えてくれるかも 知れません。しかし、それよりも重要なのは、読みながらきちんと霊の耳をもって聴くことが出来ているか、そしてそのことを熟慮することによって、心でしっ かり聴き取ることが出来ているか、ということです。

揺らぐことなく主の御言葉に留まることは、パウロにとって決して些細なことではありま せんでした。彼は愛の内にこう注意を促しています。「だから、わたしたちは聞いたことをもっと真剣に考慮すべきです。さもないと、それらのことが抜け落ち てしまうかも知れないからです。」(ヘブル書2:1)また、パウロはこのようにも語っています。「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟 味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別です が。」(第2コリント13:5)

パウロは、彼らが失格者達だと言っている訳ではないのです。そうではなく、「キリストを愛する者として、 自分を吟味してごらんなさい。霊的な評価をしてみて下さい。キリストと共に歩むことがどの様なことか、十分理解出来ているはずですから、どれ程キリストが あなたを愛しておられるか、決してあなたを見捨てることがないか、あなたが救いに預かっているかを分かっているはずです。でも、自分自身に聞いてみて下さ い。あなたのキリストに対する関係はどうなっているでしょう。一心にその関係を守ろうとしているでしょうか。困難な時、キリストに頼っていますか。」

もしかしたら、「少しさまよっているようだし、霊的にうたた寝してしまう傾向にあるかも知れない。確かにだんだん祈らなくなってきている。もう少し主との関係をきちんとしなくては。」と気付いたかも知れません。

「わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。」(ヘブル書3:14)

2009年10月21日水曜日

救い主

使徒ペテロは、このように語っています。「神は(中略)不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです。ま た、神はソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました。しかし神は、不道徳な者たちのみだら な言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。(中略)主は、信仰のあつい人を試練から救い出す方法を知っておられます。」(第二ペテ ロ 2:4~7)

こ れらは極端な例ですが、神様はある共通のメッセージを送って下さっています。それは慰めを与えるものであり、神様が次のように語られているかのようです。 「わたしはあなたがたに、わたしの憐みの深さを表す2つの例を示した。もし、世界を滅ぼすばかりの洪水から、一人の義なる人とその家族を救い出すことが出 来たのなら、あなたをも救い出すことが出来ないだろうか。奇跡的な救出方法を与えることは出来ないだろうか。」

「もし、一気に二つの町を滅ぼし尽くす裁きの火と硫黄を天から降らしながらも、御使いを遣わし、その混乱の中からロトと娘たちを救い出すことが出来たなら、あなたにも御使いを遣わして、あなたに降りかかる試練から救い出すことが出来ないだろうか。」

こ こに見られる正しい人へのメッセージとは、神様は従う者を、どんなことをしてでも厳しい試練や誘惑から救い出されるということです。考えてみて下さい。神 様はイスラエルを追っ手から解放するために、葦の海を二つに分けられました。また同じ民を荒野で助けるため、主は岩から水を流されました。彼らの空腹を満 たすため、文字通り天から天使の食物、奇跡のパンを与えられました。そしてノアを洪水から救い出すために箱舟を、また壊滅をもたらす火の手からロトを救い 出すために御使いを送られました。ここではっきり分かるのは、神様は民を助け出す方法をご存知であるということ、そして何としてでも、どんな状況であった としても、それをやり通されるということです。

最初のペテロの言葉に、「主は救い出す方法を知っておられる」とありましたが、それはつま り、「主はすでにその計画を立てられている」ということなのです。素晴らしいことに、神様は私たちが助けを求めるその前から、すでにどうやって私たちを救 出するかという計画を立てていらっしゃるのです。そして主は決して計画倒れに終わることはありません。私たちが呼び求めるのを待っておられるのです。絶体 絶命の危機に直面し、どうやって主が介入されるか想像つかないような状況下でさえ、主は事前に立てていた計画を実行に移す時のため、いつでも準備を整えて おられるのです。

その良い例が、エレミヤ書29章に記されています。その頃イスラエルの民は、バビロンの地で捕囚の民とされていました。 おそらくイスラエルの歴史の中でも、最も厳しい試練の中におかれていた時であったかも知れません。しかし、そんな中でも主はイスラエルに約束されました、 「70年後、わたしはあなたに臨み、わたしの約束を実現する」と。

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主 は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ書29:11)最後の箇所は、文字通り、「あな たの望むものを与える」という意味です。主は私たちが祈り続けることを望んでおられます。そうすることで、私たちが主の救出計画に向けて準備が整えられる ようになるためです。

2009年10月20日火曜日

立ち止まり主を知る

1958年のことでしたが、私はある身体障害児を殺害したことで裁判にかけられている7人の少年の話を聞いて、大変ショックを受けました。御霊に強く揺り 動かされ、私はその裁判が開かれている、ニューヨークの裁判所まで行くよう導かれるのを感じました。そして法廷に入った際、御霊によって、この少年たちに 語りかけなさいと促されているのを確信しました。

し かし、その日の審議が終わろうとする頃、ある思いが私の内に湧き上がりました。「この少年たちは、鎖につながれたまま、あちら側のドアから退廷してしま う。そうしたら、私は二度と彼らに会うことは出来ないであろう」と。そこで私は立ち上がって、裁判官の方へ向かって歩み寄り、少年達が留置所に戻る前に、 彼らと少し話すことは出来ないだろうかと願い出ようとしました。

その瞬間、複数の警察官が私に飛び掛り、私は無理矢理法廷から追い出され てしまいました。いたる所でフラッシュがたかれ、私は報道陣に取り囲まれた挙句、八次の質問を受けることになってしまいました。恥ずかしさと屈辱に満ち、 私はその場に、ただ呆然と立ち尽くすことしか出来ませんでした。そして私の頭をよぎったのは、「教会の皆さんは、一体どう思われるだろう。なんて莫迦なこ とをして、と思ったに違いない。私の考えは甘かったのだ。」という思いでした。

混乱の中、私は心の中で祈りました。「主よ、私はあなたの 導きを感じてここに来ました。何でこうなってしまったのでしょう。」もちろん、声に出して祈ることは出来ませんでした。そんなことをしたものなら、報道陣 はさらに私のことを、気が狂っていると思ったことでしょう。それでなくとも、蝶ネクタイをつけた私は、十分変わり者に見えたはずですから。

神 様はその時、そんな哀れな私の叫びを聞いて下さいました。そしてそれ以降ずっと、私の心の叫びというものに耳を傾け続けて下さっています。さらに、私のあ のような法廷での一件から、「ティーンチャレンジ」という新しいミニストリーが生まれ、今では世界中でその活動が用いられています。ここに詩編34より、 ダビデの証しをご紹介しましょう。「わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。」(詩編34:2)

ここでダビデが言 わんとしていること、それは、「私は主によって砕かれた人々に伝えたいことがある、今も、そしてとこしえまでも。この世界がある限り、主はその御名を呼 び、主に信頼をおく者を、必ず救い出される。主の計り知れない憐みと愛により、愚かなことをしてしまったこの私でさえ、主は助け出して下さった。」という ことです。

一番重要なのは、偉大なる主が私たちの心からの叫びをすべて聞き届けて下さるということ。それが言葉に出されたものでも、心の 中だけのものであっても、主は必ず応えて下さいます。たとえあなたが愚かな行動をとってしまったとしても、信仰につまずいてしまったとしても、ただ私たち の救い主に立ち返り、その御名を呼べば良いのです。私たちの神、義なる主は、あなたの祈りを聞き、必ず救い出して下さいます。