2009年8月31日月曜日

主が満たされるのは何だろう

イ エス様は信仰についての弟子達の願いにこう答えました。「あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たと き、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。 かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではない か。…同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。」(ル カ17:7-8 10)
 
キリストはわたし達を神、私達の主人の僕と言っています。そして、イエス様は神を食卓で仕えるようにいっています。では、神様にどのように仕えればいいのでしょうか。「どんな食べ物を持ってきたらよいのだろか。主の空腹を満足させるのは何だろうか」。
 
聖書は言っています。「信仰なしでは神を喜ばす事はできない」。(ヘブル11:6)簡単に言うと神様は最も好まれるものは信仰なのです。その料理が神を喜ばせるのです。
 
似 たような表現が聖書に沢山あります。百卒長がイエス様にただ言葉を命じ、彼の病んだ僕を癒される事を願った時、キリストはその生きている信仰を喜ばれ、力 付きました。「イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがな い。」(マタイ8:10)イエス様は「この異邦人、外からの人がわたしの魂を養っている。その信仰にどれほどに力付けられるわからない。」
 
主は遠慮なく、直接的に言っています。「あなたは食べではならない」。言い換えれば、私達は自分の信仰を私達が望んでるもの、必要に費やしてはならないのです。返って、私達の信仰は主を満たすためにあるのです。 「夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい

2009年8月28日金曜日

イエス様の言葉

「また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。」(ルカ16:12)イエス様はこういっているのです。「あなた方が啓示を受け、大きな事ができるように願っている。ではあなた方が与えられていることに忠実ではないのにそんな信仰が扱えると思うのか」。
 
イエス様の言葉は弟子達を戸惑わせたに違いありません。主は彼らが人から貰った物の内、少しばかりしか持っていないのを知っていました。主の弟子になるために諦めたからです。彼等は彼らにできる限りの事をしたつもりでした。主のことは彼らに当て嵌まらないように見えます。
 
イエス様が「ほかの人のもの」と言ったのはどんな意味でしょうか。イエス様は私達の肉体と魂の事を言っています。それは御自身の血で買われたものです。「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」(1コリント6:20)
 
イ エス様は言っています。「あなたの体はもうあなたのものではない。もしあなたがその体を面倒見ないのであれば、あなたが私にあなたの中でおこっていること をを見せないのなら、そして罪を取り扱う事、聖別することができないのであれば、もっと大きな事をあなたに任せられるであろうか」。
 
弟子達は信仰が増す事を願いまして、イエス様はその答えを与えたのです。「そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。」(ルカ17:6)
 
イ エス様はこの様な表現で何を仰りたがったのでしょうか。特にこの表現で私達の心にある根を抜く事を話されていたと信じます。イエス様は悪の根、私達が主を 従うために取り扱わなければならない隠れた事を話されています。「神が山を動かす事を信じる前に、あなたは根を取除くべきです。大きな、使徒の信仰がその 根を取除くために必要ではありません。あなたが必要なのは最低限の信仰です。私はあなたにきわめて基本的な事を求めています。罪の根を抜く事です。あなた は自分の心を調べ、わたしのではないものは全て取除く事を願っています。」

2009年8月27日木曜日

益々増していく信仰

「使 徒たちは主に『わたしたちの信仰を増してください』といった」。(ルカ17:5)キリストの近い者達は主に重要な事を聞きました。彼等は信仰の意味と働き をもっと知りたいと願いました。彼等は「主よ、どんな信仰を私達に願っていますか。あなたが喜びとする啓示を私達に与え下さい。私達は信仰の真髄を知りた いと思います」。

表 面ではその願いは素晴らしいものでした。しかし、私が考えると弟子達がイエス様にこれを聞いたのは彼ら混乱したからでしょう。前の文で、キリストは彼らに こう言いました。「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。だから、もしあなたがたが不正の富について 忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。」(16:10-11) 
 
イ エス様は彼を従う者達の肉が信仰で小さい物事を避けようとしているのを知っていました。ですから、イエス様は彼らに言いました。「もし、あなたが小さい 事、信仰の基礎的な事に忠実であるなら、あなたは大いなる事にも忠実であろう」。だから、あなたは信仰の基本的要求を満たしなさい。そうではなければ、 もっと深いことでどうやって信じるだろうか。
 
もし、私達が正直であるなら、私達がイエス様の弟子に似たようであると認めるでしょう。私達は信仰の大きなことにすぐ行き、山をも動かす信仰を得ようとします。そして弟子達のように、私達は目に見えることで信仰を判断します。
 
神の目で見た真の信仰はあなたがなそうとする業の大きさなど何の関係がないのです。かえって、あなたの人生の目標と焦点にあります。神はそれほどあなたの大きな夢には関心がありません。
 
神はこの世界のどんなものよりも私達の内側を全て求めています。

2009年8月26日水曜日

土の器

聖書で最も力付けられる御言葉の一つは2コ リント4:7の言葉です。「 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためであ る。」そしてパウロはこの土の器を死んでゆく人、問題だらけで、虐げられ、混乱した者と表現しています。その器は絶望していたり、見捨てられたりしていま せんが、神に用いられたこの人達はその肉体の重荷に苦しみつつ、新たな衣を着る事を待ち焦がれています。
 
神は人の力を嘲ります。神は私達本意の全で あろうとする努力を蔑みます。神は力強く、権威のあるものを使わず、賢い者を嘲るためにこの世の弱い者を用います。「兄弟たちよ。あなたがたが召された時 のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それなのに神は、知者をはず かしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである」。(1コリント1:26-29)
 
まさに、これはわたしのことです。弱き者、 愚かな者、身分の低い者、軽んじられる者、権威もなく、知恵もなく、強くもない者です。そんなものを神が使うなんて、常識で考えられるでしょうか。しか し、それは正しい計画であり、もっとも不思議な計画でもあるのです。神はたとえ私達が間違った事をするとしても、私達の弱さを使います。神は御自身の値無 き宝を私達と言う土の器に入れられます。神は取る足らないものを用いられるを喜んで居られるのです。
 
神は人の弱さを用いて、この世で、その御旨を成就されます。アブラハムも弱さがありました。彼は嘘をついて自分の妻を差しだしましたが、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」(ローマ4:3)と言われているのです。

2009年8月25日火曜日

ヤドカリ

沢山の詩篇の作者であるダビデ王はときに戦いに疲れます。彼の魂は問題に打たれ落ち込み、ただ平和と平安の場所に逃げたいと思います。「 わたしの心はわがうちにもだえ苦しみ、死の恐れがわたしの上に落ちました。
…「どうか、はとのように翼をもちたいものだ。そうすればわたしは飛び去って安きを得るであろう。… わたしは急ぎ避難して、はやてとあらしをのがれよう」と。」(詩篇55:4-8)
 
自 然の法則にあっても戦いを避けるならどのようなことが起こるかを示しています。最近、生物学者が蟹について書いた本を読みました。蟹は鋭利な岩間を住家と していています。蟹は波に揺れて岩にぶつけられたり、他の生物達に絶えず攻撃されます。彼等は自分を助けるために常に戦っており、時間と共に強い殻と生残 りのための強い本能を身に着けました。
 
驚く事に、蟹のある種類はそんな戦いを辞めました。安全を求め、空いた巻貝を仮で生き残ることにしました。そんな蟹がヤドカリです。安全を求め、自分で努力しないで、誰かが住んでいた住処を借りる事にしたのです。
 
し かし、ヤドカリの住処はたかくついています。彼等は自分で殻を作らないので、体の重要な一部は退化してしまいます。時がたつと内臓さえ弱くなってしまいま す。時がたつと動かなくなり、逃げる足さえ落ちてしまいます。ヤドカリは攻撃されることはなくなりますが、同時にだだそこにいるだけの存在となります。
 
他のカニ類はどうでしょう。時が経つと大きくなります。5組のあしは筋肉でできて、荒波を手抜き増す。そして、他の動物の餌食にならないために岩間にすばやく隠れます。
 
こ の自然の法則も御霊の法則を示しています。信仰者として、逆境の荒波に私達は揺られたり、流されたりします。サタンの権勢を持った者、力という飽食者を直 面します。しかし、私達が戦えば戦うほど、私達は強くなっていきます。そして、私達は悪魔が使う策略を気付くようになります。私達はイエス様を信じ、真の 退かれ場所、「岩間」を見つけるでしょう。それであって、私達は真に戦いにあって安全であると言えるでしょう。

2009年8月24日月曜日

あなたは7000人のうちのひとりですか?

7と言う数字は聖書をとおして特別な意味を 持っている事を知っています。ですから、私は1列王記19:18で神がエリヤに言った7000と数字は残された者達全員を象徴してると信じます。神がご自 身に分けられた人達、70かも知れませんし、7百万人かもしれません。重要な事は彼等は神に全てを委ねている事です。
 
ではその残された人達はどんな特徴があるでしょうか。三つの特徴があります。
 
    1. 主に繋がろうとする揺るがない決心が彼らにあるでしょう。全ての残された信仰者は悪の大波に立ち向かい泳ごうと決心した人達です。ある時、あなたは決心し、宣言したでしょう。「他の人が何を言うが、やろうが関係ない。私は主の者、私はこの事態の邪悪な霊に負けない。」
    2. 自分が貧しいものであると認める勇気がある ひとです。この社会の傾向は富んで成功した人達に繋がろうとしますが、あなたは自分を虐げられた人達とともにいるのです。オバデヤはジェジベルに使える神 の人でした。彼は神意外誰をも恐れず、彼の心は100人もの貧しい、苦しめられた預言者と共にいて、正しいものでした。(1列王記18:4)
    3. 希望により頼む。エリヤの時代の7000人はやがて来る救いの故に耐えました。同じように、教会の希望はイエス様の近い蔡倫です。終わりのラッパの音と共に、全ての邪悪は終わります。私達の主は幼い命の犠牲、全ての堂々とした邪悪、人種虐殺に酬いるでしょう
 
あなたは自分が神の聖別された者達の資質を持っていますか。そうであるなら、神様は言うでしょう。「この者がわたしに心を捧げた。わたしだけを見ている。かれは全く我が者である」。
 
私達は昼の間、伝道し、働きをなし、仕えます。また、私達は王なるイエス様が来る希望にあって生きています。イエス様は新しい世界を齎し、永遠の王座にて統べ治められます。 

2009年8月21日金曜日

神の目での成功

神が成功と見るには神に全く仕えることです。そんな僕はそうするために肉で努力したり、この世の安全策を講じません。彼等はただ主を知り、主に仕えます。
 
オバデヤによって隠された100人の預言者 の事を考えてみて下さい。彼等は激しい飢饉の時、少なくても3年ないし4年を人里離れた洞窟に住みました。 この人達は他には働きがありませんでした。彼等は公衆の面前から消え、人々から忘れられました。彼等はカルメル山でのエリヤの勝利を分かち合う事さえでき ませんでした。この世では彼らを失敗した者、何の業績がない者達と見るに違いありません。
 
しかし、神はこの忠実な僕たちに尊い時間を賜っています。彼らは毎日、毎週、何年も祈り、勉強し、成長し、主に仕えるときを持ちました。神様は彼らを御自身の民に使えるに戻すべく備えられたのです。真にこの人達がエリヤの働きによって神に帰依した者達を牧しました。
 
何年か前に主は私にもこのような時間を給い ました。牧会を始まる前に、森の中で鳥や木に御言葉を分ち合いました。私にはその時、計画、夢、議題などありませんでした。わたしはただ神の心を知りたい と願っていました。私は聖書をくまなく読みました。私のことは誰も知りませんでした。しかし、神がわたしを知っておられていました。
 
私は助言します。「働きを探すのは辞めなさ い。その代わり神を求めてあなたの時間を過ごしなさい。神はあなたがどこにいるか知っておられます。あなたが備わったと思えると神があなたを呼ぶでしょ う。他の人を気にしないで下さい。神の御座での成功に気に掛けてください。もしあなたが主につかえ、他の人達の為に祈るなら、あなたは神の目に既に成功者 です。」 

2009年8月20日木曜日

希望の時

そ の愛と慈しみにあって、神はイエス様が戻ってこられるのを、そして時を備えるべく人達に警告するために災害をこの世に許しています。神はその子らを愛する ために御国が前触れなく襲う事を望んでおられません。神は人類が耳を傾けない事を、地震のような災害が襲わなければ気がつかない事を知っておられます。こ のような災害はある面では終わりへの足音であり、直視せざるを得ない、神によって許された末の時への段階です。このような痛み、動きが末の時に近づくにつ れて激しさと頻度を増していきます。「これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」(ルカ 21:28)
 
背 筋が寒くなりますか。真実に驚いていますか。本当に世の終りが来るのでしょうか。聖書で預言者が言った事が今の時点で来るのでしょうか。最も信心深いクリ スチャンはこの世の終わりにどれだけ近いのかが理解できているのでしょうか。確かな事は-人の目で見ても、全てが滅びに向かっていることです。
 
信 愛する友よ、聖霊が私に語ったことを聞いて下さい。短い言葉ですが新たな信仰と希望をわたしの内に呼び起こした力強い言葉です。その言葉とは「神が統べ治 める」。もしあなたが神を信じるなら、あなたは災難に直面しても、固くたって宣言するでしょう。「我が神はこの宇宙に命令し、その御力が現れた。私は固く たって主の救いを見よう」。
 
神は全てを治められ、私達もしかりです。この時、神はこう語っておられます。「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」。(IIテモテ1:7)

2009年8月19日水曜日

高ぶりと御霊の声

先ず高ぶりと謙遜を分けましょう。
 
謙った人は自分の事をかえりみない、ただ「私はなんでもない」と言う人ではありません。返って、その人は主に全てを、全ての状況で委ねる人のことです。彼は主が導き、希望を与え力付ける事と主の導き無しでは死んだ 者である事を知っています。
 
高 ぶったひとは、反対に、ある面では神を愛することもできますが、彼は自分で考え行動します。高ぶりの根は、神から離れ一人立ちすることであり、高ぶった人 は自分の論理、技術と能力に基づいて判断をします。彼は「神は私によき心与えたから、神はそれを使う事を期待している。神に全ての些細な事まで訊くのは愚 かである」と言うでしょう。
 
こんな人は教える事ができません。何故なら彼は「全てを知っている」からです。彼は地位が高かったり、知識があると見たら聞くかもも知りませんが、彼が自分よりしたと思う人にはそうしません。
 
神 から高ぶる人は一語とも受けられないでしょう。彼は正しい、義なる判断をする事もできませんし、神の御心を語る事も不可能でしょう。何故なら、聖霊が彼に 真実を証しできないからです。「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。」(箴言14:12)
 
高ぶりは自己完結です。謙遜はより頼みです。謙ったクリスチャンは主からの助け無しでは何の行動も、判断もしません。聖書は義人の歩みは主によって導かれるといっています。しかし主は自己完結の魂を導く事ができません。神は全てを治めたいのです。神に委ねて下さい。
 
「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。」(ヤコブ4:5)

2009年8月18日火曜日

自分が何をすべきかを判らない時

三つの敵がユダの地に進みつつある時、エホシャファット王は戦略を練るために国を召集しました。戦略、何か決定的な行動を宣言しなければなりませんでした。何か直ちにすべきでした。しかし、エホシャファット王は民の前に立ち、神に自分の心を注ぎだしました。
 
「彼らがわれわれに報いるところをごらんください。彼らはここに現れ、あなたがわれわれに賜わったあなたの領地からわれわれを追い払おうとして います。われわれの神よ、あなたは彼らをさばかれないのですか。われわれはこのように攻めて来る大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません。 ただ、あなたを仰ぎ望むのみです」。(2歴代誌20:11-12)
 
私達は全てが不安で揺らぐ時代に-人々が誰かしら傷つけられる時代に 住んでいます。
 
何をすべきかを確実に知っている人は誰もいません。私達の指導者もこの世界-または経済で起きている事が理解出来ていません。
 
経済についてはもっと混乱しています。経済学者は何か次に来るかについて議論しています。心理学者らは今人達が何によって変えられるかに驚いているばかりです。
 
あなたは諦めて、ただ座して、神が全てをするのを待ってはいけません。このことは「主を見る」だけの事ではありません。私達が何をすべきかを知 る人としてではなく、何をすべきかを分からない人として主を見上げるべきです。しかし、私達は主が大水の居られる王である事を知っています。主の主であ り、この世が二つに譬えなったとしても、主は確実性の岩なのです。 私達の眼は甦られた主を見ているのです。私達が何をすべき判らない時、私達の信仰が主 は何をすべきかを知っていると確信させて下さいます。

2009年8月17日月曜日

ヨナは感謝して、そして自由になりました。

ヨ ナの言葉を聞いてください。「あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて 行った。…水がわたしをめぐって魂にまでおよび、淵はわたしを取り囲み、…わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった」。(ヨナ 2:3.-6)
 
ヨナは鯨の原の中で最悪の状態でした。彼の命は風前の灯火であり、恥、絶望、罪悪感に満たされていました 人が体験できる最も重苦しい心でした。彼は自分が神に見捨てられたと思いました。
 
こ んなどん底から彼はどう抜け出したのでしょうか。簡単に言うとその試みを通り抜けたのです。「わが魂がわたしのうちに弱っているとき、わたしは主をおぼ え、わたしの祈はあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。…しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげます。」(ヨナ2:7,9)
 
ヨナは救いの言葉を受けたのではありません。彼の状況は四面楚歌で、全てが暗闇でした。意識が朦朧としていました。しかし、そんな状況になった時、彼は「私は主に感謝を捧げる」と言いました。
 
彼の全ての試みの中で、ヨナは主の臨在に入り、感謝を捧げました。神は答えました。「わたしはあなたがそう言うのを待っていたのはこれである、ヨナよ。あなたはこれらの中でわたしを信じた。あなたはこの試みを通ったのである。」
 
聖 書は「主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した。」(10節)天からの一言で、大魚はヨナを海岸に吐き出しました。そして、その重荷を負っ た男はきっと浜辺をころぎ回りながら叫んだ事でしょう。「助かった。助かった」。頭の海草を取りながら踊った事でしょう-彼は既に感謝の祭壇にいたからで す。。
 
あ なたが何の術も見出さない時、感謝して下さい。主の許し-全ての過去の罪から解放-を感謝して下さい。獅子の歯から逃れさせたのを、栄光に有って新しい家 を与えた事を、全ての過去の祝福を、全ての神の約束を、神がこれからなさることについて感謝して下さい。全て感謝してください。
 
「いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。」(詩篇92:1)
 
「 感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ。悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。(詩篇50:14-15)

2009年8月14日金曜日

私達の遥かに超えて

神は御自身の民に御自身の栄光を注ぎたいと思っておられます。神は私達が求めまた思うところの一切を、遥かに越えて叶えようとしています。神が求められる人らに与える理由はこれです。神は人々がその人生でかつて体験しなかった素晴らしい臨在に満たしたいからです。

イエス様は言いました。「 わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10:10)。ではこの豊かな命を得るには、主を喜ばす事にもっともっと努めなければなりません。パウロはこう言いました。「わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める。あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。」(1テサロニケ4:1)「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。」(1コリント15:58)

ギリシャ語の「励む-abound」とは「超える、過ぎる、豊かに有るー満たして豊かにあり、量ることができないほどある」ことを意味します。言い換えれば、パウロは「神の栄光があなたが今まであるあなたのどんなものを超える。しかし、あなたの祈りは食事の祝福以上のものでなければならない」。

「 このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。」(コロサイ2:6-7)パウロはこのような神の栄光と臨在の豊かな命を得るためには、主に怠惰で怠け者の僕を越えて、愛と一途な思いで仕えなければなりません。

「神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、」(エペソ1:8) 神は栄光を今だ嘗てないようにあなたに注ぎたいと思っておられます。「御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。」(1:9) 主は言っておられます。「わたしはあなたの御言葉を深く理解するよう心を開きます。あなたにその御言葉の奥義の啓示を与えたいと思っています。」

2009年8月13日木曜日

「わたしはある」

私は聖霊様に私達の働き「Teen Challenge Drug Center」の子達が信仰について分かるように信仰の一段落の要約を願いました。私の書斎には信仰について語った300ページの本がありますが、私は理解できませんでした。(じつを言うと書いた本人も分からなかったと思います。)

モーセも私達と同じ事を問いました。「我…神…誰」。神はモーセに二語とで答えました。神は「モーセよ、人々に言いなさい。『わたしはある』があなたを送った」と言われました。(出エジプト記3:14)(神は御自身を単純に表しすぎると今の人達がいうかもしれません。)

考えてみて下さい。人々がモーセに「あなたを送ったものは『わたしはある』」は何であるが訊いたとき、モーセが何と言ったか。

「わたしはある」は誰ですか。あなたに必要なのは何ですか。自由ですか。では「わたしがその自由である」「わたしは」あなたが必要なもので「ある」。

信仰とは神が「わたしはある」と仰るなら、わたしは「是」とすることです。信仰は神が表した御自身を受け入れる事です。神が「わたしがあなたを嵐から救う」というなら、わたしも「神が私を嵐から救う」ということです。

信仰とは神が仰せになる「御自身」を受け入れる事です。

あなたの人生の嵐は何ですか。あなたはそれにどう当たっていますか。

神に信じる信仰を求めて下さい。あなたが直面しているどんな状況も、それに何が起きても神を信じるように求めて下さい。嵐は過ぎ去ります。

パウロは「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」(ピリピ4:11)と言いました。信仰がパウロを捉え、パウロは満ちていたと信じます。彼は神の御旨の中心にいて、神の約束を彼は持っていました。彼は祈りぬきました。彼の状況がどうであるかはかかわりありませんでした。神が嵐の棘を取られたのです。

神はあなたの為に嵐の恐れを取る事もできます。神さまにあなたはそうさせますか。嵐を飛び越えて下さい。神はあなたが嵐に巻き込まれる事を許されないでしょう。

2009年8月12日水曜日

私達の働き

「 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」。(2コリント3:18) ここで「主の栄光を見る」とは何を意味しているのでしょうか。パウロは混じりっけのない、心の込めた礼拝の事を言っています。神をただ崇めるために捧げられる時間のことです。そして、かの使徒は加えています。「このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから」。パウロはキリストの御顔を見続ける事が私達の行うべき働きである事を明らかにしています。

ギリシャ語の「見るーBEHOLD」とは強い意味を持っています。ただ目を留めるのではなく、「凝視する、目線を留める」という意味です。言い換えれば「私はここから動かない。他に何かする前に、何かを完成しようとする前に、私は神の臨在にいるべきである」と選択している事です。

多くのクリスチャンは「鏡に映す-BEHOLD AS IN A GLASS」(3:18)の意味を正しく理解しません。そこでイエス様の御顔が鏡を通して映し出されると考えます。しかし、それは使徒パウロが意味したことではありません。彼がこの事で示したがったのは、鏡を通して姿が現れ、それがどんなものか見定めるべく、目を凝らしてはっきり見ようとする行動です。私達は、キリストの顔から神の栄光を見出そうと目を凝らすべきだと使徒パウロは言っているのです。私達は、ただ御顔を拝見し、心を込めて交わり、自分を変化させるべく至聖所に自分を置かなければならない事を示しています。

また、「変えられていく」とギリシャ語は「METAMORPHOSED」を使っており、その意味は「変身、変質する、形を変える」です。至聖所に入り、キリストの御顔を拝見する人はすべて変えられていくのです。変化が行われ、その人はイエス様の御性質に似るように変えられていくのです。

もしかして、あなたは主の臨在にしばしば留まっているが、自分は主と共にいるほど、自分が変えられていると感じないかも知れません。変化は確実です。何かが確かに起きています。何故なら誰でもキリストの栄光を見続けながら変えられないでいる事はできないからです。「わたしたちはみな、…主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(3:18斜体強調)その前の文は「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。」と綴っています。

パウロは何と言いたいのでしょうか。彼は私達に「もし、あなたがキリストの顔を見るなら、そこには変えられる自由がある。」と言っているのです。主の臨在によって、私達は御霊に'私達を治める、御旨を行う自由を与えるのです。それは同時に「主よ、あなたの御旨は私の思いです。私をイエスの御姿に変えて下さい」という従順の行動なのです。

2009年8月11日火曜日

木を植える

神は彼の子供達をつねに苦しみから逃れることを約束しません。また、神は私達が生きるのに何も必要しなくなるとも約束していません。私達は世界平和、平安、安全保障、経済的な繁栄などは約束されていません。私達は魂と心の平和と安心そして全ての真の必要を悉く満たすこと、さらに私達は決して乞食とはならないと約束されています。 神は使徒パウロが「ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである」(1テモテ6:8)との境地まで私達が到達させたいと思っていられます。

未来は邪悪で暗雲が漂っています。しかし、ダビデは詩篇の23編で 「私はわざわいをおそれません」 といっています。これが現在の全ての信仰者への言葉です。将来は神に治められているので、私達は恐れる必要がないのです。神には定められた計画がおありなのです。神はキリストの再臨の正確な時を知っておられます。天と地を統べ治められると言っておられます。「 見よ、もろもろの国民は、おけの一しずくのように、はかりの上のちりのように思われる。見よ、主は島々を、ほこりのようにあげられる。…もろもろの国民は無いにひとしい。…むなしいもののように思われる」(イザヤ40:15,17)

神はキリストが戻ってこられるまで働きを続けて欲しいのです。それは私達は終りが決して来ないように働くが、終りが明日来るかごとく生きる事を意味します。かの偉大な伝道者、D.L. ムーディ師がこのように訊かれました。「あなたがイエスキリストの再臨が明日であると知ったら、今日あなたは何をしますか。」彼は答えました。「私は木を植えます」。ですから、本当のクリスチャンならば神の種を蒔き、植える事をして、神の業を励んでしましょう。主が来られた時、主は私達が主の御旨を行っているのを見せましょう。

神は私達の頭の髪の毛さえも数えられる神です。また、天から落ちる雀でさえ数えられる神です。願う先に思いを聴かれる神です。呼ぶ前に答える神です。私達が願ったり、考えたりする前に豊かに与える神です。では何故あなたは恐れているのですか。

2009年8月10日月曜日

ダビデの告白

神の御言葉を賛美した後、ダビデは詩篇の119編をこの言葉で綴っています。「わたしは失われた羊のように迷い出ました。あなたのしもべを捜し出してください」 。176節

ダビデはこう言っているのです。「主よ、私を、牧者が迷った羊を探し出したように、探して下さい。私の御言葉の知識や悟りや長くあなたといたにもかかわらず、私はあなたの愛から迷い出しています。私はあなたにあって平安でしたが今やそうではありません。全ての計画が空しくなっています。私はどうしようもありません。御父よ来て、私をこのひどい場所、乾いたところから救って下さい。一人ではできません。あなたが私を探して下さい。あなたの御言葉が真であると信じます。」

ダビデは自分が神の平安から迷いだしたのを知っていました。彼は主の愛が以前のl危機の時に彼の心に刻まれたのを知っていました。しかし、今や彼は神が自分を愛している事を忘れています。ですから、彼は主に、御自身の失われた僕を見出すように叫んでいます。

それで、牧者はダビデを探しに来ました。ダビデは自分の名が呼ばれたのを聞くや否や、彼の心は安らぎました。彼は知りました。「私の牧者は私を名で知っている」。ダビデは丘を下り緑の谷に導かれる事を知りました。下がって緑の牧場に到達して、エホバロヒーの神(主、わたしの牧者)は言いました。伏して休みなさい。あなたの疲れた魂を休ませなさい。心配してはならない。全てよくなる。

ダビデの状況は何も変わってない事に注意して下さい。返って聖書はダビデを苦しめている敵は増したと記しています。(詩篇3:1)しかし、ダビデは神の愛が回復しています。今や、彼は宣言します。「救い(自由)は主のもの」(3:8)彼は証します。「自分の計画、眠れない夜、何とか筋妻を合わせる事なんでしなくてもいい。私は進んで我が牧者の愛、その開いた御手に入ります。私は神の安息にあって休み、その無条件の愛にあって眠ります。」

2009年8月7日金曜日

導かれる聖霊

聖書が聖霊が私達に「つながる」と記す時は、神の御霊が来られ、私達の体を得て、それを聖霊の宮とする事を意味します。聖霊は御父の声と心を知っておられますから、神の考えを私達に仰って下さいます。「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう 」。(ヨハネ16:13) 聖霊は内からの神の声、私達への神の声です。

もし、聖霊にあなたが繋がっているなら、聖霊様はあなたを直接教えられます。聖霊様は牧師や、預言者や、教師にだけ語れのではなく、イエスに従う全ての人に語るのを知ってください。新約聖書を通して、聖霊がその民をどのよに、直に語ったこと「ここに行きなさい、…この町に入りなさい。…この人を油注ぎなさい。」などが明らかにされています。

御霊は決して聖書と矛盾していることは語りません。かえって、御霊は聖書をもって語ることを明らかにします。神の御言葉に反する「新しい啓示」は与えられません。御霊はその新しい御言葉を示し、導き、慰め、来るべき事を見せてくださいます。

私はモーセのように「来て、神とともの立つ」人達にのみに語ると考えます。その意味は私達は主と日毎に深く交わる-急ぎその臨在に入るのではなく、その臨在に御声を聞くべく私達の心を開いて待ち望む、主が私達と話す事を待たれると信じる事です。主は私達を待たせませんし、私達の最も難しい時でさえ混乱してるままや騙されるままにしません。

2009年8月6日木曜日

あなたの喜びはどこですか。

聖霊は神の民を喜びを持って主に仕える様に希っています。沢山の信仰者に悲しみと失望の雨雲が覆うのを見たら、神様はどれだけ悲しむでしょうか。

詩編の著者は宣言しています。「このような祝福をもつ民はさいわいです。主をおのが神とする民はさいわいです。」(詩編144:15)

イザヤも言っています。「あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。」(イザヤ12:3)

喜びを持って主に仕える事について聖霊様が私を導かれた時、私はその事が重大であることに気づきませんでした。私は神様が何故そう考えられるのかを解りませんでした。今の世界にある悲劇に比べればそれはどれほどのものかと思いました。

ほんの一部のクリスチャンが命を自由にする真の知識を得ています。人々は十字架が全ての恐れや縛りから彼らを自由にできるようにしていません。ですから、私達が十字架で起きた事をほんの少しの限られた知識の故に理解し、主との関係について喜び溢れることが出来ないのです。

あなたは神学的に購い、和解、宥め、恵み、聖別を理解する必要はありません。あなたが主に喜び生きる為に知らなければならないのは基礎的な真実一つです。「神はキリストの十字架の犠牲に全く充足された」事です。

これが全てです。神は喜んで、そして進んで悔い改めた者達を全て許されます。

キリストの許しを喜べないという事は、罪が全くキリストに購われた事を疑っているからです。御霊がこの真理の知識-自由を与えられますように。神は私達が豊かに喜ぶ事、その喜びが完全なものであることを願っています。そう、求め続けて下さい。
神の御言葉は聖徒らが喜びに満ちることを神が希っている事を明らかにしています。

「…わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」(ヨハネ17:13)

「主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る」。(イザヤ35:10)

2009年8月5日水曜日

思いっきり泣きなさい。

あなたが最も苦しんでいる時には、祈りの場所に行ってあなたの胸に溜まったものを全て吐き出し、泣いて下さい。イエス様も泣きました。ペテロも神の御子を否定し、激しく泣きました。山道を一人で歩きながら、悲しみ泣きました。これらの激しい涙は彼の内に奇跡を行い、サタンの企みを揺るがせました。

何年か前に乳癌で胸を取った女性が「先ず泣きなさい」と言う名の本を書いたのを覚えています。これは真です。最近、私は末期がんと診断された友人と話しました。「最初にしたことは、涙が涸れるまで泣いた事だよ。そして、イエス様の御手があなたを固く抱き締めるまで、主に近づくのです。」

イエス様は決して心の叫びを無視しません。「痛められた心を見過ごさない」(詩篇51:17参照)。主は決して「しっかりして、自分を保ちなさい。歯を食いしめ、吹きなさい」 などとおしゃいません。イエス様はあなたの流した涙の数を数えて下さいます。

あなたは傷つけられていますか。では、涙が涸れるまで思い切って泣いて下さい。その涙は自己憐憫や不信仰からではなく、痛みからでなければなりません。

主にあって強められ下さい。あなたを霧が多い、あなたが成す術がない時、イエス様の御手に委ね、ただ信じてください。主はあなたのすべてを任せるを願っています。完全なあなたの信仰、信頼を願っています。イエス様はあなたが声を上げて「イエス様は私を愛して、私とともにいる。今も働かれておられる。だから私は挫けない。負けない。私はサタンの犠牲にはならない。私は混乱したり、道を失ったりしない。神が私についている。私は神を愛しているし、また神も私を愛している」。と告白して欲しいのです。

2009年8月4日火曜日

主よ、天の故郷に行きます。

ダニエル書の3章15-16節に、三人のヘブル人の若者は肉において死んで、火に入りました。彼等は自分の肉体が、生ける生贄として喜んで捧げることが出来ました。そして、キリストは物理的に彼等の危機の中で彼等に会われました。

キリストが火の中で彼等に現れた時、何を言ったのでしょうか。「この痛みからの解放、そしてもう何年かの命をさずけてくださって有難う」といいました。

いいえ、決してそうではありません。私は「主よ、あなたと共に行かせてください。ここに残りたくありません。私達は栄光に触れられました。戻りたくありません。あなたの天の故郷に行きます。」 といったのだと思います。彼らはイエス様とともにいる事を返って望んだのでしょう。彼等の心をイエス様は知っておられ、イエス様は彼等を省みられました。

あなたは「天の故郷に行きます」ということができますでしょうか。もしかしたら、あなたは自分の体、仕事、家族やあなたの危機を神の手に委ねる事をいまだ学んでないかも知れません。そうです。私達は信仰により祈り、神が答えられると信じます。そう信じつつも、「しかし、そうではなくともあなたを信じます」と覚悟しなければなりません。

「主よ、あなたは燃え滾る炉の中から自由にできるでしょ。しかし、そうではなくとも私はあなたをなおも信じます。この激しい苦難の中でも、もっと苦しんでも、もっと試みられても、私はあなたに全てを委ねます。あなたはただ私と共に歩んで下さい。」あなたはこの祈りを祈れますか。

あなたに約束します。あなたの危機に主は来て、あなたの手をとり、火を潜り抜けるように導くでしょう。

キリストが私の危機に来てくださるのを私は最も願わしい答えと思います。何故なら、キリストが来られた時、キリストの臨在はわたしの苦しみ、痛み、混乱の上に私達を引き上げます。イエス様があなたの傍に現れ、イエス様はあなたの手を取り、あなたを強めて下さいます。

2009年8月3日月曜日

生きるも死ぬも

『ネブカデネザルは彼らに言った、「…わたしが立てた像を、ただちに拝むならば、それでよろしい。しかし、拝むことをしないならば、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。いったい、どの神が、わたしの手からあなたがたを救うことができようか」。』 (Daniel 3:14–15)

ダニエルの友人達は人として最悪の状況にいました。もし、神が奇跡的に彼等を助けなかったら、彼等は死ぬしかありませんでした。

キリストはあなたの問題にどのように関わるのでしょうか。あなたがこの三人のヘブル人の若者と同じように決心をした時に神様がその問題に関わるのです。『ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。もしそんなことになれば、わたしたちが仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。 たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。』 (16-18節)

言い換えれば、「状況は絶望的で、若し神が奇跡を起こさないなら、私達は死ぬだけだ。しかし、私達の神様はこの状況から助ける事ができる。そうではなくても神を捨てません。生きるも死ぬも神を信じる」。

愛する皆さん、このような信仰が天使や神の御心を喜ばせます。「主よ、あなたは私を救えると知っています。あなたの一語とで、全てが解決です」。

「しかし、そうでなくとも、うろたえません。見捨てたと非難しません。私はあなたを信じ続けます。あなたの道はわたしのより高いのです。わたしの命を委ねます。あなたの手に掛けられても、なお私はあなたを信じます」。

このように覚悟が困難な危機にキリストの介入を齎します。キリストが危機から私達を助け、自由にできるという信仰です。何事が起きても、神の御手の内にあるという信仰です。