2008年7月31日木曜日

「彼は死にましたが、信仰によってまだ語っています」

ヘブル人への手紙11章を読むと、ここに記されている人々に共通する、ある点を見つけ出すことが出来ます。一人ひとりが、神様が愛される、特別な特徴を示しました。それは何だったでしょうか。彼らの信仰が、主との深い親交によって生まれたものだということです。

実際のところ、神様との深い親交なしでは、神様を喜ばせる信仰を持つことは不可能です。ここでいう親交とは何を意味するでしょうか。それは、神様を追い求めることから来る、神様との深い関係のことです。この様な親交は、個人的な絆、交わりを示します。それは私たちが人生における何よりも、主を追い求める時に生まれます。

「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」(ヘブル人への手紙11:4)ここで幾つかの重要点を挙げたいと思います。先ず、神様御自身が、アベルの献げ物を認められたということ。次に、アベルは主にいけにえを献げるために、祭壇を築かなければならなかった、ということ。そして、彼は傷のない子羊を献げ物としただけでなく、その脂肪をも献げたということです。「アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」(創世記4:4)

これが何を意味しているのでしょうか。レビ記は脂肪について、こう記しています。「これが宥めの香りとして、燃やしてささげる食物である。脂肪はすべて主のものである。」(レビ記3:16)脂肪は献げ物のうちで、心地よい、宥めの香りを立ち上らせる部分だったのです。炎は動物のこの部分に、すばやく燃え移り、焼き尽くすことが出来るので、宥めの香りを生むのです。脂肪は神様が受け入れられる、祈り又は交わりの一種となります。それは隠れた祈りにおける、私たちの主へのミニストリーを表します。そして主ご自身が、この様な親密な礼拝が、主に宥めの香りとなって立ち上ると語っておられるのです。

聖書でこの様な礼拝が最初に記されているのは、アベルによる礼拝です。ですから“信仰の章”と呼ばれるヘブル書11章に、アベルの名が記されているのです。彼は、自分の持っているものの中から、最高のものを主に献げる、主との親しい交わりをもった、主の僕でした。ヘブル書が記す様に、アベルの見本は、生ける真の信仰の証として、今日もまだ生き続けています。「アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」(ヘブル人への手紙11:4)

2008年7月30日水曜日

私たちの信仰を増して下さい

マルコによる福音書4章には、イエス様と弟子達が嵐に遭遇する様が記されています。この場面でキリストは、たった一言で高鳴る波を静められます。そして今度は弟子達の方を向かれ、「まだ信じないのか」と尋ねられます。(マルコによる福音書4:40)

あなたはこれが、手厳しい言葉であると思われるかも知れません。この様な嵐に遭遇すれば、誰だって恐れを感じたことでしょう。しかしイエス様は、そのような理由で弟子達を叱られた訳ではありません。むしろイエス様は、「こんなにわたしと時間を過ごしているにも関わらず、あなたはわたしを誰か理解していない。これ程わたしと共に歩んでいて、何故わたしを深く知ることがないのか」と尋ねておられるのです。

事実、弟子達はイエス様が行われた奇跡を見て、あっけにとられていました。「弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った。」(4:41)

この状況が想像出来ますか。イエス様御自身の弟子達が、彼を知らなかったのです。イエス様は御自分で、この弟子達を一人ひとり召し出され、彼らと一緒に多くの人々にミニストリーを施されたのです。彼らは癒しの奇跡を行い、多くの貧しい人々に食物を与えました。しかし彼らは、自分たちが仕える先生が真にどういう方だったかを知らずにいたのです。

残念ながら、今も同じ状況が続いています。クリスチャンの多くは、イエス様と共に船に乗り、共にミニストリーを行い、イエス様の御名によって大衆に触れました。しかし彼らは、その仕える先生を知らないでいます。イエス様と二人きりで過ごす、親密な時間を持たないでいます。イエス様の臨在の中で静かにたたずみ、彼に心を開き、ただイエス様が何を伝えられたいかを黙って待ち望むということをしません。

ルカによる福音書17章に、弟子達の信仰に関する別の記述があります。弟子達はイエス様に近づき、「信仰を増してください」とお願いしました。(17:5)多くのクリスチャンは、彼らと同じ質問をします。「どうやったら信仰を手に入れることが出来ますか」と。しかし彼らは、主御自身を求めることをしないのです。

もしあなたが信仰を増したいと望むのなら、イエス様が弟子達にこの箇所で言われたのと同じことをしなければなりません。イエス様がどの様に返答されたかを見てみましょう。「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。」(17:8)イエス様が言わんとしておられること、それは「忍耐を衣としてまといなさい。それからわたしの食卓に来て、共に夕食を取りなさい。わたしはあなたに給仕として仕えて欲しいのです。あなたは一日中、喜んでわたしに仕えてくれました。だからあなたと交わりの時をもちたいのです。来て共に座り、心を開いて、わたしを知りなさい」ということです。

2008年7月29日火曜日

彼は神様を喜ばせた

エノクは主との親密な交わりを経験しました。事実、その関係はとても親密だったので、主はエノクが地上での人生を終える前に、彼を栄光の地へと移されました。「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。」(ヘブル人への手紙11:5)

神様は何故、エノクを天へと移されたのでしょうか。先述の聖句の最初の部分に、それが彼の信仰によるものだということが、明確に示されています。さらに最後の部分では、彼の信仰が神様に喜ばれるものであったと記されています。ここで使われている“喜ばれる”という言葉は、ギリシャ語で「完全に結ばれている、完全に同意する、完全に一致した」という意味があります。要するに、エノクは人間が経験出来る限りで最も親密な主との親交を経験したのです。そしてその親密な関係を、神様は喜ばれました。

聖書は、エノクが彼の息子であるメトシェラをもうけた後、神様と共に歩み始めたと記しています。エノクはその時65歳でした。彼はその後300年に亘り、神様と親密な交わりをもちます。ヘブル人への手紙には、エノクがいかに天の父と頻繁に交流を持ち、神様が彼を御側に引き寄せられたかが記されています。主はエノクにこう言われました、「肉にあるあなたを、これ以上引き寄せることは出来ない。あなたとの交わりを深めるためには、わたしの御側に引き上げるしかない。」そして主はエノクを栄光へと運び去られたのです。

ヘブル人への手紙11章5節によると、神様を喜ばせたのはエノクの親交の深さだったということが分かります。私たちの知る限り、エノクは一度も奇跡を行わず、重要な神学を唱えることも、聖書に記録されるような素晴らしい行いをすることもありませんでした。その代わり私たちは、この信仰に満ちた人の非常に簡潔な記述を目にします。「エノクは神様と共に歩んだ。」

エノクは御父と親密な交わりをもっていました。そして彼の人生そのものが、正しく信仰によって歩むとはどういうものかという証しとなったのです。

2008年7月28日月曜日

神様の友

神様が、御自身とアブラハムとの関係をどの様に表されたか、見てみましょう。「わたしの愛する友アブラハム」(イザヤ書41:8)同様に新約聖書にも、こう記されています「アブラハムは神を信じた。(中略)彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブの手紙2:23)

神様の友と呼ばれるとは、何という賞賛でしょうか。多くのクリスチャンは、「慈しみ深き友なるイエスは」という賛美歌を歌ったことがあることでしょう。これらの御言葉は、私たちに偉大なる真実を力強く物語っています。全宇宙の創造主が、人を友と呼ばれるとは、人知を超えた考えです。しかしそれはアブラハムとの関係で証明されました。それは彼が、神様と非常に親しい仲にあったことを表しています。

イザヤが用いた友という言葉はヘブル語で、愛情と親密さを表します。ヤコブが用いた友という言葉はギリシャ語で、親愛なる、身近な仲間という意味があります。どちらも、深く対等な親友関係を意味します。

私たちがキリストに近づく毎に、彼の臨在の中に住み続けたいという願いが深まります。さらに、イエス様が、私たちの唯一真の土台であるということが明確化されます。

聖書はアブラハムが「神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を切望していた」と記しています。(ヘブル人への手紙11:10)アブラハムは、彼の人生の中で永遠に続くものは何もないと知っていました。聖書はこの世が彼にとって、「奇妙な地」であったと記しています。そこは土台を築くべきではない所です。アブラハムが切望していた天の都は、実在する場所ではありません。むしろそれは、天の父と共に住まうことを表わしています。「天の都」という言葉はヘブル語で“Pater”と言います。そしてその語源は「父」という言葉から来ています。ですから、アブラハムが切望していた天の都は、文字通り「父といる場所」ということになります。

一方で、アブラハムは神秘的な存在だった訳ではありません。彼は霊的なかすみに生き、清い空気を食物としていた修道僧ではありませんでした。彼はこの世の出来事に深く関わり、地上での人生を送りました。彼は幾千もの家畜を持ち、小さな軍を形成出来るほどの奴隷を持っていました。これだけの奴隷を扱い、牛や羊やヤギ等の家畜の売買をしていたアブラハムは、忙しい人だったに違いありません。

しかしどうやってか、この多くの仕事と責任の最中で、アブラハムは神様との親密な時間を見つけ出しました。

2008年7月25日金曜日

生い茂り続ける力

私は黙示録9章を読むように導かれました。それはイナゴに関する章です。神様がイナゴに「生い茂るものは滅ぼしてはならない」と命じられた4節を読んでいる時、ある思いが私の内に浮かびました。

ここに、恐れにあっても安全でいるための秘訣があると発見しました。それは“生い茂り続ける”ということです。ダビデはこう記しました。「わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。」(詩篇52:10)

ここでダビデが言う“生い茂る”とは、霊的な健康・命のことです。それは繁茂、成長、実りを表します。ダビデは私たちに、「私の健康は、神様に依り頼むことからきます。私が繁栄するのは、神様を仰ぎ見るからです。神様に対する私の信頼は、私の内に霊的な命を生みます」と語っています。

ここに、生い茂る続ける力についての素晴らしい真実を見ることが出来ます。「主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地。炎暑の荒れ野を住まいとする。」(エレミヤ書17:5~6)

主は「人間に信頼をおいてはならない。もしわたしではなく、人の力に信頼をおくならば、あなたは呪われる」と警告しておられます。

しかし、もし私たちが主に信頼をおくならば、その信仰は次の様な収穫を生みます。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。」(エレミヤ書17:7~8)

私たちが天の父に完全なる信頼をおく時、私たちは神様の命の川のほとりに根を張ります。そして神様の、心地よく、青々とした、霊的な命に満ちた力が、私たちの内に、また私たちを通して流れます。私たちの周りが腐敗していく中、私たちは命と力に満ちた、生い茂る緑として繁茂します。そして試みの時が来ても、私たちは衰えたり、しおれたりしません。それどころか、私たちの信仰は成長し続けます。

2008年7月24日木曜日

神様の炎は燃え続けています

残念ながら今日のキリストの体の大半は、近代版の乾いた骨の谷に似ています。それは堕落したクリスチャンたちの真っ白な骨に溢れた荒野です。聖職者や敬虔なクリスチャンたちは、絶えず付きまとう罪の故に、燃え尽きてしまっています。彼らは恥に満ち、自分で作ったほら穴の中に引きこもってしまっています。エレミヤの様に、彼らは「主の名を口にすまい。もうその名によって語るまい」(エレミヤ書20:9)と自分自身に誓っています。

神様は、エゼキエルに尋ねた質問を、今日私たちにも尋ねておられます、「これらの乾いた骨が生き返ることが出来るか?」と。この質問に対する答えは、明確な「はい」です。どうやって?それは神様の御言葉により、信仰を新たにすることによってです。

主の御言葉は、焼き尽くす炎のようです。実際、御言葉は私たちが絶望の闇にある時の、唯一の光です。それはまた、「すべてはおしまいだ。お前は炎を失ってしまった。もう二度と炎を取り戻すことは出来ない」と敵が私たちに偽りをささやく時、唯一の防御となります。

私たちを暗闇から引き出す唯一のものは、信仰です。そして信仰は、神様の御言葉を聞くことから来ます。私たちはただ、私たちの心に植えつけられた御言葉にしっかりしがみつけば良いのです。主は「わたしははあなたを見放したりしない。だから絶望する必要などない。諦める理由など、どこにもない。わたしの言葉に安きを得なさい」と約束されました。

あなたは「しかしこの暗闇は、今まで経験したことの無い様な闇。今まで何千ものメッセージを聞いてきたけれど、どれも今となっては何も役に立たない」と思うかも知れません。心を荒立てないで下さい。神様の炎は今もあなたの内に燃えています、あなたにそれが見えなかったとしても。そしてあなたはその炎を、あなたの信仰の燃料に注ぐのです。これは神様に対する、信仰による行いです。もしあなたがそうするならば、あなたの疑いや肉欲は、焼き尽くされるでしょう。

神様の御霊は、すべての乾ききった骨に再び命を吹き入れます。御霊は、彼らの内に植え付けられた御言葉を思い出させているのです。そうすることで、かつて死んでいた者が、生き返るのです。彼らはエレミヤの様に叫びます、「神様の炎が私の心の中にずっと閉じ込められています。もう押さえつけておくことが出来ません。主の力が私を引き上げるのを感じます。神様は私に命を吹き込んでおられる。私は神様が与えて下さった御言葉を語り、神様の憐れみと癒しの力を宣言します」と。

2008年7月23日水曜日

私の人生は守られている

聖書は、ヤコブが神様と面と向かって会ったことを通して、驚くべき啓示を受けたと語っています。「ヤコブは、『わたしは顔と顔を合わせて神を見たのに、なお生きている』と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。」(創世記32:30)この啓示が与えられた背景は、一体どの様なものだったのでしょうか。それは、ヤコブが人生の中で最も恐れを抱き、絶望に満ちていた時でした。その時ヤコブは、二つの強い力に挟み撃ちになっていました。一つは怒りに満ちた義理の父、ラバン。もう一方は敵意をむき出しにして憤慨していた彼の兄、エサウでした。

ヤコブは、何度も何度も彼を騙したラバンの下で、20年以上も働きました。ついにヤコブが我慢出来なくなった時、彼はラバンに内緒で家族共々逃げ出したのです。

ラバンは東から、小さな軍隊を引き連れてヤコブを追跡し、彼を捕まえて殺してしまおうとさえ考えていました。しかし神様がラバンの夢の中で、ヤコブに危害を加えてはならないと命じられたので、ラバンはようやく義理の息子を手放したのです。ラバンの手から逃げ出せたと思いきや、今度はすぐさま西からエサウが現れます。彼も400人からなる小さな軍隊を引き連れ、長子権を盗んだ弟を殺そうとしていたのです。

ヤコブは完全に四面楚歌の状態で、すべてを失うところでした。状況は絶望的でした。しかしその最悪の状況で、ヤコブはかつて無い様な形で、神様に出会うのです。ここで彼は一人の御使いと格闘したとありますが、学者らはこの御使いが神様御自身であったと信じています。

今度はヨブについて考えてみて下さい。ヨブが最悪の状況にあった時、神様がつむじ風の中に現れました。そして主は彼に、人類の歴史上かつてない形で御自身を示されたのです。

神様はヨブを宇宙に引き上げ、次に深海へと導かれました。神様は彼に、創造の神秘を見せられたのです。そしてヨブは、かつて誰も見たことがないものを見ました。彼は神様の圧倒的な栄光と威厳を見たのです。ヨブは神様への賛美に溢れて、こう言いました。「主よ、今ようやくあなたが何でも出来るということが、分かりました。あなたの裁きを疑ったことを、悔い改めます。すべてはあなたの統治下にあり、あなたの恵みによって治められています。あなたは永遠の始めからご計画を立てておられ、私はようやく、この目でそれを目撃することが出来ました。」(ヨブ記42:2~5参照)

私たちがただ信じ委ねる時、何か素晴らしいことが起こります。平安が私たちに訪れ、「この苦しい体験を通して、何が起こるのかは分からない。でも私の神様はすべてを統べ治めておられる。恐れるものは何もない」と宣言出来るようになります。

2008年7月22日火曜日

すべての鍵を持っておられる方

聖書を通して、神様の優しさは、人々が困難、惨事、孤独、苦しみにある時に最も強く現れます。その例の一つを、ヨハネの人生に見ることが出来ます。3年間に亘り、この弟子はイエス様の胸の内にいました。それは何の困難も試みもない、安らぎと平安と喜びに満ちた時でした。その間ヨハネは、ほとんど何も啓示を受けませんでした。彼はイエス様を、人の子としてしか知りませんでした。では、ヨハネはいつ、キリストが栄光の中にいる啓示を受けたのでしょうか。

それはヨハネが鎖につながれ、エペソへと連れて行かれた後のことでした。彼はパトマスと呼ばれる島に追放され、そこで強制労働に科せられていました。彼は隔離され、交わることも出来ず、慰めてくれる家族も友達もいませんでした。彼の人生の中でも最低の、まったく絶望に満ちた時でした。

そんな時にヨハネは、主の啓示を受け、その啓示が聖書の最後の本、黙示録として記されたのです。暗く沈んだ時を過ごしていたヨハネに聖霊の光が射し、ヨハネは今まで見たことが無い様なイエス様を目撃しました。彼はイエス様を、神の御子として見たのです。

ヨハネはこの啓示を、他の弟子達といる時にも、イエス様が共に地上を歩まれていた時にも、受けませんでした。しかし何年も経って、彼が最も暗い時を過ごしている時に、「わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」(黙示録1:18)と栄光のうちに宣言されるキリストを見たのです。この驚くべき啓示に、ヨハネはひれ伏しました。しかしイエス様は彼を引き上げ、その御手にある鍵を彼に見せました。そしてイエス様はヨハネに「恐れるな」と言われたのです。(1:17)

この様な啓示は、祈りの内にある、困難に遭って痛みを覚えている、すべてのキリストの僕に与えられると、私は信じます。聖霊は、「イエス様は命と死のすべての鍵を持っておられる。だからすべての者の行方は彼の御手の内にある」と言っています。この啓示は私たちの心に、平安を与えるためのものです。ヨハネの様に私たちも、イエス様が私たちの前に立って命と死の鍵を持ち、「恐れるな。わたしがすべての鍵を持っている」と語りかけられるビジョンを見るべきなのです。私たちの応答はどの様なものであるべきでしょう。ヨブの様に信仰をもって、こう答えるべきです。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1:21)

2008年7月21日月曜日

人の恵み

神様はしばしば、御使いたちを用いて人々に働かれます。しかしほとんどの場合、神様は思いやりに満ちた主にある人々を用いて、その恵みを放たれます。これが、神様の恵みを共に分ち合う者とされた理由の一つです。私たちは、お互いに主の恵みを放ち合う様に造られているのです。私はこれを、“人の恵み”と呼んでいます。

「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」(エペソ人への手紙4:7)神様の恵みによる慰めがあるので、私たちは人生を悲嘆することだけで過ごすのは不可能です。どこかの時点で主の癒しに触れ、神様の恵みの給水所として立て上げられていくのです。

パウロが「神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。(中略)キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせるために」(エピソ人への手紙3:7~8)と語っているのは、正にこのことであると信じています。「あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思っているからです。」(フィリピ人への手紙1:7)ここでパウロは、非常に意義深い発言をしています。彼は「私が神様の御座に行って恵みを受け取るのは、あなた方のためなのです。私はあなた方にとって、批判的ではなく、憐れみに満ちた羊飼いとなりたいのです。あなた方が恵みを必要とする時、恵みを放てるようになりたいのです。」と言っているのです。神様の恵みは、パウロを憐れみ深い羊飼いにし、悲しむ者と共に嘆く者とされました。

ペテロはこう記しています。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」(第一ペテロの手紙4:10)神様のさまざまな恵みの管理者、もしくは分配者となるということは、どういうことでしょう。私はその様な人でしょうか。それとも自分の痛み、悲しみ、困難のためだけに祈りの時間を費やしているでしょうか。

愛する皆さん、現在の困難は私たちの人生において、大変貴重な何かを生み出してくれています。それは私たちの内に、痛みをおぼえる他の人々のために恵みと憐れみを求める賜物を形成しているのです。私たちの困難は、恵みを分け与える者になりたいという願いを与えてくれます。

2008年7月18日金曜日

パン屑

心を病んでいた娘をもった女性が、どうしてもイエス様に会いたいと懇願し続けました。結局、弟子達は仕方なく主に「主よ、彼女に帰るよう言って下さい。彼女を追い払って下さい。私たちをずっとうるさがらせているのです」と頼みました。この女性に対するイエス様の応対を見て下さい。「イエスは何もお答えにならなかった。」(マタイによる福音書15:23)明らかにキリストは、完全にこの状況を無視されました。何故そんなことをされたのでしょうか。イエス様は、この女性の話が未来まで代々語り継がれていくと御存知であり、またその話を読むすべての人々に真実を解き明かしたいと、望んでおられたのです。ですからイエス様は、この女性の信仰を試すためにこう言われたのです。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」(15:24)イエス様は、「わたしはユダヤ人の救いのために来た。どうして異邦人のために、彼らの福音を無駄遣いしようか。」と言われたのです。

この様な発言を聞けば、私たちのほとんどは諦めて家路についたことでしょう。しかし、彼女はたじろぎませんでした。あなたに尋ねます、祈りをどれ位で諦めてしまいますか。今までに何度、祈りに挫折し、「私は主を求めた。主に祈り、主に尋ねた。でも何の結果も得られなかった。」と言い訳を述べてしまったことがありますか。

先の女性の応答を見てみましょう。彼女は不平を述べたり、主を侮辱したりして「イエス様、あなたは何故私を拒絶するのですか」と言ったりしませんでした。そうではなく、彼女は真逆の応対をしたと聖書が記しています。「しかし女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った。」(15:25)

この次に何が起こったかを読むのは、心苦しくさえ思われます。イエス様は再び、この女性をはねつけられました。しかも二度目の答えは、一度目の答えよりもさらに無情なものだったのです。イエス様は、彼女にこう言われました。「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない。」(15:26)イエス様は、再び彼女を試しておられたのです。

母であるこの女性は、イエス様にこう答えます。「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(15:27)何と驚くべき答えでしょう。この女性は断固とした意志を表し、イエス様を求めることを決して諦めようとしませんでした。そしてイエス様は、彼女のこの姿勢を賞賛しました。イエス様は彼女に「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言われました。そして「そのとき、娘の病気はいやされた」と記されています。(15:28)

愛する皆さん、私たちはパン屑で満足するべきではないのです。私たちには、困難を乗り越えるに必要なすべての恵みと憐れみが約束されているのです。そしてそれには、救われている家族も、まだ救われていない家族も、どんな家族の問題も含まれているのです。私たちは大胆に、キリストの御座に近づくようにと、招かれているのですから。

2008年7月17日木曜日

絶望を越えて

私たちの人生において、人の目に全く絶望的な状況が訪れる時があります。どんなカウンセラーも、医者も、薬も、何も役に立ちません。全くもって不可能な状況におかれてしまうのです。奇跡でも起きない限り、最悪の終末を迎えることになります。

その様な時、残された最後の希望は、誰かがイエス様へと導いてくれることです。それが父であろうが、母であろうが、自分の子どもであろうが、関係ありません。誰であったとしても、その人はイエス様と連絡を取る責任があります。「私は主からの御声を聞くまで、何としても去りません。主は私に『その問題は片付いた。行きなさい』と言われるまでは。」

ヨハネによる福音書で、正にこのような状況にある家族の話が記されています。「カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。」(4:46)この家族は特別な階級にあった人達、ともすれば王家の人達であったかもしれません。しかし、両親が死にそうになっている息子の看病をしている時、死の霊がその家族に襲ったのです。家には叔父、叔母、祖父母、他の子どもたちなど、他に家族もいたかもしれません。聖書は、僕も含めて家族全員が信仰者であったと記しています。「彼(父親)もその家族もこぞって信じた。」(4:53)

困難にあったこの家族の内の誰かがイエス様のことを知っていて、その奇跡の力について聞いたことがあったのでしょう。そしてどうやってか、キリストが約40キロ離れたカナの地にいるということが、その家族の耳に入ったのです。聖書には、父親自身が主に会いにやって来た、と書かれています。「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行った。」(4:47)

この高貴な人は、強い意志を持ち、イエス様のもとへたどり着いたのです。聖書は彼が「イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。」と記しています。(4:47)何という素晴らしい執り成しの姿勢でしょう。この人はすべてを放り出して、ただ主の御声を受け取るためにやって来たのです。

キリストはこう答えました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」(4:48)イエス様は、この言葉によって何を言わんとされたのでしょうか。イエス様はこの男性に、奇跡的な救いが最も緊急の必要ではない、と伝えたかったのです。そうではなく、一番の問題は、この男性の信仰だったのです。考えてみてください。キリストはこの男性の家に行き、彼の死にかかっている息子の上に手を置き、癒すことが出来ました。しかしそれではこの家族にとって、イエス様はただ奇跡を行って下さった方だけで終わってしまいます。

キリストは彼とその家族に、さらに大きなものを望んでおられました。彼らがキリストを生ける神であると信じるようになって欲しかったのです。イエス様がその男性に言われたこと、それは「あなたがこの必要のために求めているのは、実は神御自身なのだということを信じますか。わたしがキリスト、すなわち世界の救世主であると信じますか。」ということなのです。それに対して男性は、「主よ、子どもが死なないうちに、おいでください」と答えました。(4:49)その時点で、イエス様はこの男性の内に信仰を見出されました。それはまるでイエス様が、「彼はわたしが肉となった神であると信じた」と言われたかのようです。なぜなら次の節にこう記されているからです。「イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』」(4:50)

2008年7月16日水曜日

信仰の土台

あなたの信仰はどんな土台の上に立てられていますか。聖書は、私たちの信仰は聞くことによってなり、それは神様の御言葉がその“霊的な耳”を与えて下さるので、聞くことが出来るのだと教えています。(ローマ人への手紙10:17参照)私たちの人生に起こる“荒れ野”の経験について、聖書は次の様に語っています。
• 「奔流がわたしを押し流すことのないように、深い沼がわたしをひと呑みにしないように、(中略)恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください。(中略)あなたの僕に御顔を隠すことなく、苦しむわたしに急いで答えてください。」(詩篇69:15~17)
• 「神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。あなたは我らを網に追い込み、我らの腰に枷をはめ、(中略)我らは火の中、水の中を通った。」(66:10~12)ここで、誰が私たちを困難に導いたと言っていますか。神様御自身です。
• 「わたしは迷い出て、ついに卑しめられました。今からは、あなたの仰せを守らせてください。卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」(119:67、71)これらの聖句は非常に明確です。困難に遭うことは良いこと、むしろそれは祝福でさえあると言っています。

詩篇の作者の証しを考えてみて下さい。「わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。死の綱がわたしにからみつき、陰府の脅威にさらされ、苦しみと嘆きを前にして、主の御名をわたしは呼ぶ。『どうか主よ、わたしの魂をお救いください。』」(詩篇116:1~4)ここに、主を愛し、大変な信仰を持っていた僕がいます。しかし彼は痛みと、苦しみと、死の悲しみに直面していました。

このことは、聖書のいたる所で見ることが出来ます。信仰への道は、洪水と火の道を通らなければならないと、神様の御言葉ははっきり宣言しています。「あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある。」(詩篇77:19)「見よ、新しいことをわたしは行う。(中略)わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。」(イザヤ43:19)「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ43:2)「わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う、恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。」(イザヤ41:13)

最後の聖句は、非常に重要です。私たちがどんな荒れ野に直面しようと、父なる神様は、私たちの手を取って下さるというのです。しかし、荒れ野を通るものだけが、この慰めの御手を受け取ります。神様はその御手を、困難の奔流の中にとらわれている人に差し伸ばされます

2008年7月15日火曜日

救いをもたらす聖霊の力

「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」(第二コリント人への手紙1:10)何と素晴らしい宣言でしょう。パウロは「聖霊は、私を絶望的な状況から救い出して下さった。今も救って下さっている。そしてこれからもずっと、すべての困難からわたしを救い続けて下さる。」と言い切っているのです。

聖霊を受けることは、感情的な変化やしるしによって立証されるものではありません。(ただ、私は聖霊のしるしの存在を信じていますが。)私が言わんとしているのは、永遠に深まり続ける知識によって、聖霊を受け取るということです。聖霊を受け取ることは、聖霊の備え、救いの力、重荷を取り去る力に関する光を深め続けるということです。

ペテロの言葉を見てみましょう。「わたしたちを御自分の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。」(第二ペテロの手紙1:3)ペテロによると、聖霊による神様の力は、しるしによって訪れる訳ではないと言うのです。聖霊はまず、「わたしたちを召し出してくださった方を認識させる」ことによって訪れます。

「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(ヨハネによる福音書1:16)さらに聖霊は、聖霊がすべてを統べ治める環境が整えられるまで、完全に受け入れられてはいません。もし私たちが、すべてを完全に委ねていないなら、実際には聖霊を受け入れていないことになります。私たちは自らを完全に聖霊に委ねきらねばなりません。

最後に一つ例を挙げましょう。創世記19章に、ロトとその家族が大変な危機に瀕する場面が記されています。彼らが住んでいた町、ソドムにいよいよ裁きが下されようとしていたので、神様は御使いを遣わし、彼らを救い出されようとしました。ロトは御使いたちに対して、扉を開き、彼らを家に招き入れました。御使いたちは、ロトの家族全員を救い出すための天からの力を持っていました。しかし、御使いたちは受け入れられなかったのです。

最終的に御使いたちは、ロトとその家族を救うために、彼らをソドムから強制的に引っ張り出さなくてはなりませんでした。神様のご計画は、最初から彼らを救い出すことでした。神様は彼らに衣食住を与え、すべてを備えるおつもりでした。しかし、私たちが知っている通り、ロトの妻は振り返り、死んでしまいました。

御使いのメッセージは明白なものでした。「もしあなたが神様に完全に委ねるなら、神様に手綱を譲り渡さなければなりません。もし救い出してもらおうと神様を仰ぐなら、自らの計画を明け渡し、神様の道に従わなければなりません。」簡単に言うなら、聖霊は疑う者を救い出されないということです。それは、聖霊の力を信じない者のことです。時には聖霊が、私たちの人生に変化をもたらすことに応じなければなりません、もしそれこそ神様が私たちを救い出す上で選ばれた方法であるのならば。

2008年7月14日月曜日

神様の喜び

神様は民を愛しておられるだけではなく、私たち一人ひとりに喜びを見出して下さいます。神様は私たちに、大きな喜びを感じて下さいます。事実、神様は私たちを守り、救いだすことで幸せになるのです。

私はこの様な親の愛を、孫からの電話に出る時の私の妻、グエンに見ます。孫と電話で話す時のグエンの顔は、クリスマスツリーの様にパッと輝きます。そんな時の彼女を、電話から引き離すことは不可能です。たとえ「大統領が玄関にいらっしゃった」と言ったとしても、おそらく彼女は私を追い払って、会話を続けるでしょう。

どうやって、天の父が私に喜びを感じて下さるよりも、私の方が自分の子どもたちに喜びを感じていると、神様を責めることが出来るでしょうか。時に私の子どもたちは、私の教えと正反対のことをして私を落胆させました。しかし、たった一度でさえ、私は子どもたちを愛することを止めたり、子どもたちに喜びを感じなくなったりすることはありませんでした。ですから、もし完璧ではない父親である私が、この様な永続的な愛を持つことが出来るなら、いかに天のお父様は、彼の子どもである私たちに、さらに大きな愛を持って下さるでしょう。

ヨシュアとカレブは、イスラエルの民の最中に立ち、こう叫びました。「もし、主が私たちに喜びを見出してくださるなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。」(民数記14:8)何と単純でありながら、力強い宣言でしょうか。彼らは、「私たちの主は、私たちを愛し、喜びを見出して下さる。そして神様は、私たちのために、すべての巨人を打ち倒される。だから、私たちは障害物に目を向けてはなりません。私たちは、ただ主の愛に目を向けるべきなのです。」と言い切ったのです。

聖書のあらゆる所で、神様がいかに私たちに喜びを見出して下さるかが記されています。「(主は)完全な道を歩む人を喜ばれる。」(箴言11:20)「主は・・・正しい人の祈りを喜び迎えられる。」(箴言15:8)「敵は力があり、私を憎む者は勝ち誇っているが、(中略)主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる。」 (詩編18:17~19)

神様が私たちを愛しておられ、私たちに喜びを見出して下さると信じることは、絶対に必要なことです。そうすることで、たとえどんな状況におかれようと、それは私たちを愛される主の御心なのだと、最終的に納得し、受け入れることが出来ようになるでしょう。また荒れ野での学びから抜け出し、イエス様の愛に満ちた御腕の中に入ることが出来ます。そして主は私たちの悲しみを、喜びへと変えて下さいます。

2008年7月11日金曜日

暗闇に打ち勝つ

闇に打ち勝ち、闇を追い払うことが出来るのは、ただ一つ。それは光です。イザヤはこう宣言しました。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ書9:1)同様に、ヨハネもこう述べています。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネによる福音書1:5)

光は理解を表します。私たちが「光が射した」と言う時、「やっと理解出来た」と言っているのと同じことです。聖書が語っていることが、分かりますか。主は、勝ち誇る悪を見るためではなく、新たな啓示を得るために、私たちの目を開こうとされているのです。神様は、地獄のすべての力に勝る力を持つ聖霊を、私たちに遣わして下さいました。「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」(第一ヨハネの手紙4:4)

黙示録には、地獄が偉大な力を持つイナゴやサソリを送り出す様が記されています。また竜、獣、角を持った生き物、そして反キリストのことも記されています。しかし、私たちはこの様な生き物が何を意味するのか、理解出来ません。それは、理解する必要がないからです。私たちは、反キリストのことや、獣の印のことなど、心配する必要がないのです。

私たちの内には、全能なる神様の霊と、キリスト御自身が生きておられます。パウロは、聖霊の力が私たちの内に働いていると宣言しています。要するに、聖霊は今この瞬間、私たちの内に生きておられるということです。

では困難に直面する時、一体どの様に聖霊は私たちの内に働いて下さるのでしょう。聖霊の力は、私たちが聖霊を“重荷を取り去って下さる方”として受け入れる時にのみ、働かれるのです。 私たちの心配や不安を取り去るという役目のためにこそ、聖霊は私たちに与えられているのです。ですから、もし私たちが心配を聖霊に明け渡さないなら、なぜ聖霊を受け入れたと言えるでしょうか。

聖霊は栄光の中に留まられず、この場所で、私たちの最中におられます。そして聖霊は、私たちの苦悩を含めた人生のすべてにおいて、不安を取り去ろうと待っておられるのです。ですから、もし私たちが絶望、疑い、不安、恐れを持ち続けるなら、私たちは聖霊を慰め主、助け主、指導者、力の源として受け入れていないということです。

すべての重荷を聖霊に明け渡したクリスチャンこそ、世に対する証し者となります。テサロニケの人々の様に、信仰者は困難に囲まれても、主の喜びを楽しむことが出来ます。その人は神様の霊がその人を慰め、困難から導き出して下さると信じています。その人は暗闇にあっても喜びを表すことが出来るので、その人はさまよう世に対して、力強い証しをすることが出来ます。その人の人生は、世に対して、「この人は光を見た」と証しします。

2008年7月10日木曜日

隠れた場所

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイによる福音書6:6)

今まで私は、生活環境を考えて、車内、バスの車中、仕事の休憩時など、どこでもこの“隠れた場所”を持つことが出来ると説いてきました。ある意味これは事実です。しかし、そこにはさらに深い意味が込められているのです。ここで使われている“部屋”という言葉は、ギリシャ語で「個人的な場所、秘密の場所」という意味があります。これはイエス様の話を聞いていた会衆には周知のことでした。なぜなら、当時の文化では、家の内部に物置として使われていた部屋があったからです。イエス様の教えは、この隠された物置に一人で行き、扉を閉めなさいということだったのです。教会においてや、祈りのパートナーと共にいては出来ない、特別な祈りをその場所で行うことが出来ます

イエス様は、御自身が隠れた場所に行って祈ることで、そのお手本を示されました。聖書は何度も何度も、イエス様が祈りの時間を持つために、隠れた場所に退かれたと記しています。イエス様は他の誰よりも忙しい毎日を送り、常に周囲の人々からの必要に迫られ、独りで過ごす時間はほとんどありませんでした。それにも関わらず、聖書はこう記しています。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコによる福音書1:35)「群集を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。」(マタイによる福音書14:23)

私たちはそれぞれ、なぜ隠れた特別な所で独り祈らないかということに対する言い訳を持っています。そんな隠れた場所はないと、またそんな時間はないと言います。トーマス・マントンという、清教徒の作者はこう語っています。「私たちは隠れて祈る時間がないと言います。食べる時間、飲む時間、子どもと過ごす時間など、他のことをする時間はあっても、すべてを支えるために必要な時間はないのです。私たちは隠れた場所がないと言います。しかしイエス様は山に行かれ、ペテロは屋根の上に行き、預言者たちは荒野に行きました。もしあなたが誰かを愛するなら、その人と二人きりになる場所を探し出すでしょう。」

隠れた場所で、心を備えて祈ることの大切さに気付きましたか。それは形式主義でも重荷でもなく、愛に関わることなのです。私たちに対する神様の優しさがそこにあります。神様はこれから何が起こるか、また私たちがたくさんの資源を必要とし、日々それらを補充することが必要であることを御存知なのです。それらすべては、神様と二人きりで隠れた場所にいることで見つかります。

2008年7月9日水曜日

イエス様と共に座する

パウロによると、イエス様を信じる私たちは、霊による死から復活し、天上で彼と共に王座に着いています。「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし(中略)、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(エペソ人への手紙2:5~6)

私たちがイエス様と共に着く、この天の王座とはどこにあるのでしょう。それは神様御自身の玉座の間、すなわち恵みの御座、全能者の住まいのことに他なりません。この2節後、私たちがどの様に、この素晴らしい場所に導かれたかが記されています。「あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(2:8)

この玉座の間には、すべての力と権力が宿ります。それは神様が、もろもろの支配と権威を統べ治められ、人の出来事すべてを統治される場所です。この玉座の間にて、神様はサタンの一挙手一投足を監視され、人の思いのすべてを調べておられるのです。

そしてキリストは、御父の右に座しておられます。聖書は「万物は言(キリスト)によって成った。」(ヨハネによる福音書1:3)と記しています。そして「キリストの内には、満ち溢れる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っている」のです。(コロサイ人への手紙2:9)イエス様の内に、すべての知恵と平安、すべての力と強さ、勝利に満ちた豊かな人生を歩むのに必要なもののすべてが備わっています。そして私たちには、キリストの内にある、これらのすべての富に対するアクセスが与えられているのです。

パウロは私たちにこう語っています。「キリストが死から復活されたのと同様に、私たちも神様によって、彼と共に復活させられたのです。そしてイエス様が栄光の御座に引き上げられたのと同様に、私たちも彼と共に、その栄光の場に引き上げられたのです。私たちがキリストの内にあるので、キリストと同じ所にいることが出来るのです。これはすべての信仰者に与えられた特権です。それはキリストが住まう天上に、私たちも住まうことを意味しています。」

パウロはすべての霊的な祝福は、玉座の間に備えられていると記しています。キリストにあるすべての富―揺るぎなさ、力、憩い、平安―は、その場で私たちに開放されます。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」(エペソ人への手紙1:3)

2008年7月8日火曜日

素晴らしい目覚め

私が言う、素晴らしい目覚めとは何のことでしょう。それはパウロが語っている、啓示と悟りのことです。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(エペソ人への手紙1:17~19)

パウロはエペソの人々に、こう語っているのです。「私は、神様があなたがたに鮮明な啓示を与えられるよう、神様からの召しに対してあなたがたの目が開かれるよう、お祈りしています。あなたがたが受け継ぐもの―キリストのうちにある富―に対する新しい理解を、神様が与えて下さるよう、お願いしています。神様はあなたがたの内に、偉大なる力を解き放ちたいと願っておられます。それは、イエス様の内にあったものと同じ力です。そうです、天の御座に着いておられるイエス様の内にあったものと全く同じ力が、今あなたの内にあるのです。」

パウロによると、「キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせた、神様の偉大なる力」は「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力」と同じ力なのです。(エペソ人への手紙1:20 、19)ですからパウロは、「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい」と強く勧めているのです。(第2コリント人への手紙13:5)

では、どの様に信仰を吟味すれば良いのでしょうか。神様が与えて下さった素晴らしい約束に照らし合わせれば良いのです。「悪に立ち向かう時、イエス様の力を用いているだろうか。罪に打ち勝つために、イエス様の力を用いているだろうか。イエス様が信仰者すべてに約束された喜び、平安、安らぎの内に、生きることが出来ているだろうか。」と自分自身に聞いてみるのです。

あなた自身の“素晴らしい目覚め”は、あなたが自分の人生を見つめて、「キリストにある人生は、これよりももっと素晴らしいものであるはずだ。私の計画はすべて失敗し、私の夢はすべて砕かれてしまった。私はただ恐れと肉の欲望の奴隷となって生きている。でもこれ以上、こんな生き方を続けることは出来ない。」と叫ぶ日にやって来ます。

「主が私にご用意下さった人生は、こんな敗北に満ちたものではない。もう偽善者でいたくない。神様、どこかに私が勝利者として生きるための力を、あなたが与えて下さる場所は本当にあるのですか。あなたは本当に私が試練にあっても、圧倒的な勝利者として下さるのですか。私が戦いの最中にある時にも、完全なる平安を本当に与えて下さるのですか。」

「私があなたと非常に親しい関係を持ち続けることは、本当に可能なのですか。もう無関心に陥ったり、あなたを喜ばせようと必死になったりしなくて良いというのは本当ですか。私の信仰が揺らぐことがないので、もう二度と信仰のリバイバルが必要ない、平安なる場所が、あなたの内にあるというのは本当ですか。」

2008年7月7日月曜日

聖霊の満たし

「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。」(第二ペテロ1:3)

長年に亘り、私は聖霊の満たしを主張してきました。私は聖霊による洗礼を受けたと証ししてきました。聖霊が私を証し者として整えて下さり、私を清めて下さると、メッセージしてきました。御霊によって祈り、御霊によって語り、御霊の内に歩み、御霊の声を聞いてきました。私は本当に、聖霊が神の力であると信じきっているのです。

あなたに、私が聖霊に満たされた時のことをお話しましょう。私は当時8歳でした。私は聖霊について聖書が語っていることは、すべて読んでいました。しかしどうしても、「私は本当に、この素晴らしい力が私の内に宿っていると、完全に理解しているのだろうか。それとも私にとって、聖霊はただの教理にしか過ぎないのだろうか。どういうわけか聖霊に気付いていないのだろうか。聖霊にその力を発揮して下さいとお願いしていないのだろうか。」という祈りを繰り返さずにはいられなかったのです。

実際、私たちは何か非常に価値あるものを持っていても、持っていることに気付いていないことがあるのです。そしてその価値に気付いていないので、それを活用することが出来ないのです。

ある農夫の話をしましょう。彼は一生、所有していた小さな畑で働いていました。何十年もの間、彼は岩だらけの土壌を耕し、貧しさの中で不満に満ちて亡くなりました。彼の没後、その畑は彼の息子に引き継がれました。ある日、その息子が土を耕している時、金の線が入った金属の塊を見つけました。鑑定してもらったところ、それが純金だということが判明しました。そして息子は、畑が金に溢れていることを発見したのです。即座に彼はお金持ちになりました。しかし、彼の父にとって、その富は失われていたのも同然でした。それが一生耕し続けた畑に隠されていたにも関わらずに。

聖霊もこれと同じです。私たちの多くは、自分たちが何を持っているのか、また自分たちの内に宿るものの力がどんなものなのかを知らずに生きています。クリスチャンの中には、聖霊がもたらすものは、すべて持っていると信じて一生を過ごしながら、実はその完全なる力を受けていない人達がいます。聖霊は、その人達の内で成すべき永遠の務めを果たすことが出来ないでいます。

2008年7月4日金曜日

家庭の祈り

「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイによる福音書18:19)クリスチャンの中には、これを“一致の祈り”と呼ぶ人達がいます。共に祈ってくれる熱心な兄弟もしくは姉妹がいるあなたは、非常に祝福された人です。事実、私が知っている力強い執り成し手のほとんどは、いつも2、3人で現れました。

この様な祈りが最も力を発揮する場所は、家庭においてです。私の妻グエンと私は、毎日一緒にお祈りしており、それが私の家庭を繋いでくれているのだと信じています。子ども達が成長過程にある時は、彼らが信仰から離れることのない様に、一人ずつ毎日覚えて祈りました。また、彼らの友達や、恋人、将来の配偶者のためにも祈りました。そして今ではそれらのことを、孫たちのためにお祈りしています。

クリスチャンの家庭でも、なかなか家でこの様な祈りの時を持つことはありません。私がこの様に今日、主にご奉仕出来ているのは、この家庭の祈りのおかげであると、自ら証しすることが出来ます。私が幼かった頃、毎日姉妹と私が、庭や、近所や、どこで遊んでいたとしても、母は必ず家の玄関から「ディビッド、ジェリー、ジュアニタ、ルツ、お祈りの時間ですよ!」と呼びかけました。(弟のドンはまだ生まれていませんでした。)

近所中が、我が家の祈りの時間を知っていました。時々母の呼び声を疎ましく思うことがあり、不平と不満をもらしていました。しかし、聖霊が私たち家族の内に動かれ、私たちの魂に触れる中で、何か特別なことがその祈りの時に起こりました。

もしかしたら、あなたは自分が家庭の祈りを持つことを想像出来ないかも知れません。もしかしたら、あなたの配偶者が乗り気でなかったり、子ども達が反抗的だったりするかも知れません。愛する兄弟姉妹よ、誰が参加しないと決めようと、それは関係のないことです。ただあなた自身が食卓に着いて、頭を垂れ、お祈りすれば良いのです。それが、あなたの家族にとっての家庭の祈りの時となり、家族全員がそれに気付くでしょうから。

2008年7月3日木曜日

わたしにはあなたが必要です

クリスチャンの中には、他のキリストの体である兄弟姉妹と関係を持ちたくない、と思っている人達がいます。彼らはイエス様と関係を持ちますが、他の信者からは故意に自分達を孤立させます。彼らは頭と関係を持っても、体とは何の関係も持ちたくないのです。

しかし、体はたった一つの部位からは成り立つことが出来ません。頭から手だけが生えている状態が想像出来ますか。キリストの体は、手足や臓器なしで、頭だけでは成り立ちません。彼の体は、多くの部位から成るのです。私たちは、キリストの体の一部にならずして、キリストと一つになることは絶対に出来ないのです。

私たちは、頭だけでなく、その体全体を必要とします。私たちはイエス様を必要とするだけでなく、お互いをも必要とすることで、互いに結ばれています。パウロはこう語っています。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。」(第一コリント人への手紙12:21)

この聖句の後半に目を留めて下さい。頭でさえ、他の部位に対して「お前など要らない」と言えないのです。何と驚くべき宣言でしょう。パウロは、「キリストは、決してその体の一部に対して『わたしはあなたを必要としない』と言われることがありません」と語っているのです。私たちの頭は、私たち一人ひとりと喜んで関係を持って下さいます。そればかりか、キリストの体が機能するためには、私たち全員が大切で、必要であるとさえ言って下さるのです。

これは特に傷つけられ、痛みを覚えている信者に言えることです。パウロはこう強調しています。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(12:22)使徒はさらに、「わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。」と続けています。(12:23)彼は、キリストの体の中で、見えず、隠され、知られていない部分について語っているのです。神様の目には、これらの部位に素晴らしい価値があるのです。そして彼らはキリストの働きの上で、絶対になくてはならない存在なのです。

この聖句は私たち全員にとって、非常に意義深いものであります。パウロが私たちに伝えようとしているのは、「あなたの自己評価がどれだけ低くても、関係ありません。クリスチャンとして、なっていないと思っているかも知れません。しかし、主御自身が『わたしにはあなたが必要なのです。あなたはキリストの体の部位として大切なだけではありません。あなたはキリストの体が機能する上で、大切かつ必要不可欠なのです。』と言っておられるのです。」

キリストの体の重要な部分として、サタンが他の信者を攻撃していることに対して、信者達は立ち上がり、真剣に行動を起こす必要があります。驚くべきことに、この命令は多くのクリスチャンから忘れ去られています。他の信者が痛みにあるのを見る時、私たちは慰めを申し出ようとします。もちろんそれは神の愛からくるものです。しかし、それだけでは十分ではありません。信者の一人ひとりが、イエス様の御名によって、サタンを縛り付け、彼を闇へと放り去るべきなのです。これこそがキリストの体の一部であるという、真の証しなのです。

2008年7月2日水曜日

神様の御手に委ねる

イエス様は言われました、「地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々はこの世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」(ルカによる福音書21:25~26)キリストは「わたしに希望をおかないなら、大勢の人が、文字通り恐ろしさの余り死んでしまうだろう」と警告しているのです。

しかし、神様がその民を守られるという約束を信じてイエス様に従う者達には、すべての恐れからの完全なる解放があります。事実、キリストを主としてあがめる人達が、「恐れからの真の解放は、人生を完全に主の御手に委ねることから成る」という奥義を抱き続けるなら、もう二度と恐れる必要はありません。

自分自身を完全に神様の御手に委ねることは、信仰の行いです。それは、自分を完全に神様の力、知恵、憐れみの下に置き、神様の御心によってのみ導かれ、守られることを意味しています。もし私たちがそうするならば、全宇宙の神が、完全に私たちの責任を負うと、すなわち、私たちの衣食住を供給し、すべての悪から私たちの心を守ると、約束して下さっています。

イエス様は十字架にかかられた時、この“聖なる委ね”の究極のお手本となって下さいました。イエス様は、御自身の霊を委ねられる直前、こう叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカによる福音書23:46)

キリストは文字通り、彼の命も永遠の未来も、父なる神様の管理に委ねられました。そうすることによって、キリストは牧する羊一人ひとりの魂を、父の御手に委ねられたのです。

あなたは「でもイエス様は自分の命を捨てることも、再び受けることも出来ると言われたではないか」と思っているかも知れません。(ヨハネによる福音書10:18参照)イエス様が再び命を受ける力があったなら、なぜ神様の御手に委ね、守ってもらう必要があったのでしょう。その答えは明確です。イエス様は、彼の羊がその後に従う様、お手本となられたのです。

もし私たちが、誰かに命を委ねるよう求められたら、その“誰か”がすべての危険、恐れ、暴力から守ってくれる力があるか、知る必要があります。使徒パウロは、「わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」と記しています。(第2テモテ1:12)

2008年7月1日火曜日

御国へのたった一つの道

泣き落とすことで天国には入れません。勉強によっても、行いによっても、意志の力によっても入ることは出来ません。御座への唯一の道は、生けるいけにえとなることです。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ人への手紙12:1)

パウロは自分の経験から語っているのです。彼は拒絶され、試みに遭い、迫害を受け、打たれ、投獄され、難船し、投石されました。またパウロは教会に対する心配を、一身に背負っていました。それでも彼は、「私はどんな状況にあっても、満足することが出来ます。」と証言したのです。

彼は私たちにこう語っています。「私がどうやって御国への道に関する知識を得たか知りたいですか?どうやってどんな境遇に遭っても満足することを、またキリストにある真の憩いを見つけたかを知りたいですか?これがその方法、天国に自分の場所を確保する秘訣です。自分の体を主に、生けるいけにえとして献げること。自分の思いを献げ尽くすことによってのみ、満足することが出来るのです。」

ここで使われている“生ける”という言葉は、ギリシア語の語源では「一生の」という意味があります。パウロは、献身することの契約、一生に一度のいけにえのことを語っているのです。しかし誤解しないで下さい。このいけにえは、罪をなだめるためのいけにえとは異なります。十字架の上でのキリストのいけにえだけが、唯一なだめに値するいけにえなのです。「実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」(ヘブル人への手紙9:26) 

パウロは異なる種類のいけにえについて語っているのです。間違えないで下さい。神様は旧約聖書に記されている、人間の手によるいけにえをお喜びにはなりません。ヘブル人への手紙にこう書かれています。「あなたは、焼き尽くす献げ物や、罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。」(10:6)なぜこれらのいけにえは、主に喜ばれるものでなかったのでしょう。簡単に言うなら、それらは別段、心を要求するものではなかったからです。

パウロが語るいけにえとは、心を必要とするからこそ、神様が大いに喜ばれるものなのです。そのいけにえとは何でしょう。それは、自分の思いに死に、自分の力に頼ることを止め、野望を捨てることです。

パウロが「あなたの体を献げなさい」と強く勧めるのは、「主に近づきなさい」と言っていることなのです。しかしそれは一体何を意味しているのでしょう。それは、私たちのすべてを献げるために、神様に近づくということを意味しています。自分の力や能力で近づくのではなく、復活させていただいた子どもとして、キリストの義の内に清められた者として、キリストとの関係により、御父に受け入れられた者として、神様に近づくのです。自分の主権を譲り渡す瞬間、そのいけにえは献げられます。あなたが自分の力で神様を喜ばせようとするのを諦める時、それは起こります。この信仰による行いこそ、パウロが“なすべき礼拝”と呼んでいるものです。それは、私たちの思いを完全に神様に委ね、神様が私たちに必要なすべての祝福を備えて下さると信じきることです。