2010年9月14日火曜日

巧妙な戦士

何か私達に敵対することが起きると、神様の憐れみが私達の内に流れ込みます。一本の木が、強い嵐に吹き付けられるとどうなるか、想 像してみて下さい。猛風によって、根こそぎ飛んで行ってしまいそうになります。枝は折れ、葉は散ってしまいます。根は引きちぎられ、芽はもぎ取られます。 そして嵐が去った後その木は、絶望的な姿になってしまいます。

しかし、近づいてよく見てみましょう。同じ嵐によって、周りの地面が掘り起こされて、根が張りやすくなりました。その木は、水と栄養を確保するため の、新たな道を発見したのです。そして古く死んでいた枝は、捨て去られました。芽はもぎ取られてしまったかも知れませんが、すぐに新芽が元気に顔を出すで しょう。その木は嵐によって強くされ、目に見えない形で成長を遂げたのです。収穫の時になれば、その木は多くの実を結ぶでしょう。

あなたは今、嵐の中にいらっしゃるかも知れません。猛風が吹き付け、あなたを激しく揺さぶるので、「もう倒れてしまうかも知れない」と思っておられ るかも知れません。愛する皆さん、慌てないで下さい。その様な嵐の中にあって、あなたは霊的な根をしっかり張ろうとしているのだと、気付いて下さい。あな たを砕き、罪に対する嘆き悲しみを増し、神様の義に対する飢えを強めようと、神様があなたを成長させておられるのです。

神様はあなたを、戦いを恐れていながらも、巧妙で勇敢な十字架の戦士として整えておられるのです。あなたは時に、自分に失望してしまうことがあるか も知れませんが、主はあなたに対して、決して失望されません。事実、神様は望まれるならば、あなたを困難の中から簡単に抜き出すことがお出来になります。 しかし神様はそうなされません。なぜなら困難によって、あなたの内に、神様に対する飢え渇きが強められていると御存知だからです。

ローマ人への手紙5章3節は、こう語っています、「苦難は忍耐を生み出します。」ここで使われている「生み出す」という言葉は、“完成する”という意味があります。

第二コリント人への手紙4章17節に、「わたしたちの一時の軽い困難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」と記されています。ここで使われている「もたらす」という言葉は、ローマ人への手紙5章3節で使われているのと同じ言葉です。

2010年9月13日月曜日

霊的成長について、すべてのクリスチャンが知るべきこと

「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。」(第二テサロニケ人への手紙1:3)

パウロによる何と素晴らしい、テサロニケのクリスチャン達に対する賞賛でしょうか。ここでパウロが言っていることを、要約してみましょう。それは、 「キリストにある信仰と、お互いに対する愛、その両方において、あなたがたがどれだけ成長したかを見ることは、本当に素晴らしい。どこにいっても、私はあ なたがたの霊的成長を自慢しているのです。あなたがたのことを、ただ神様に感謝します」ということです。

この短い聖句の中で、パウロは私達に、愛と一致とにおいて成長しているキリストの体について、驚くべきイメージを与えてくれています。パウロが用い ている「大いなる成長」という言葉は、ギリシア語で「他を超えて、さらに成長する」という意味があります。個人的にも集団的にも、テサロニケの信者の信仰 と愛は、他の教会のそれを、はるかに超えていたのです。

もちろんテサロニケのクリスチャン達は、イエス様が再び来られるまで、ただ自分達の信仰にしがみついているだけではありませんでした。彼らは学び、 動き、成長していたのです。そして彼らの人生が、その事実を証明しています。パウロによると、彼らの噂は、アジアの教会中に広まっていたということです。

察するに、彼らが聞いていたメッセージは、さらに深くキリストと歩みたいという思いを、彼らの内に起こさせていたのでしょう。それは彼らの肉の野望 を溶かし、キリストらしくない習慣に気付かせました。そして彼らの内におられる聖霊が、民族や人種の壁を打ち壊してくださいました。彼らは、金持ちも貧し い人も、教育を受けた人もそうでない人も、どんな人でも受け入れる術を発見しました。そして愛の内に、お互いのことを思いやり合ったのです。

もしあなたが神様の御言葉によって養われるなら、人生において必ず継続して、霊的に成長していくはずです。そしてそれは自動的に起こるものなのです。

私の教会に集われる方が全員、テサロニケの教会についてパウロが語った様な「大いなる成長」をしているか、明言出来ません。しかし、それは多くの方 について当てはまることだ、と言うことが出来ます。なぜなら、油注がれた真の神様の御言葉がメッセージとして語られるなら、それは必ず成長を促すからで す。また使徒パウロは、真の御言葉の乳を望む者は、必ず成長すると言っています。

パウロは私達の霊の成長が、聖霊の働きであると説明しています。聖霊は常に働いておられ、私達を栄光から栄光へと変えておられる、とパウロは言いま す。御霊は絶えず私達の思いを新たにし、肉を正し、私達の内なる人に純粋さをもたらそうとしておられます。また私達の心の内で、怒り、苦い思い、恨み等、 すべての悪しき思いを消し去るべく、働いておられます。そして御霊は、私達の内に親切、柔和、お互いを許す心を実らせてくださいます。聖霊は、私達をキリ ストの内に、成長させてくださるのです。私達が主の御名にふさわしい言動を行うよう、教えてくださっているのです。

さらにパウロは、こう私達に勧めています。「だれでも、自分をよく確かめなさい。」(第一コリント人への手紙11:28)ここで使われている“確か める”という言葉は、ギリシア語で「綿密に検査する、試みる」という意味があります。パウロは「自分が神様の御言葉通り歩めているか、試してみなさい」と 言っているのです。私達は常に「変わっているだろうか。もっと愛と柔和とに満ちることが出来ているだろうか。家族や友人を、尊敬をもって接することが出来 ているだろうか。私の会話が、もっと正しいものとなっているだろうか」と自問する必要があるのです。

2010年9月10日金曜日

目に見えない成長

クリスチャンの中には、自分の霊的成長を語ることの出来る人達がいます。そしてあなた自身も、彼らの人生にはっきりとした変化を見ることが出来ます。その人達は、いかに聖霊が彼らの敵を打ち倒されたかを証しし、あなたも彼らの勝利を共に祝って喜びます。

しかしこの様なクリスチャンは、特例です。ほとんどのクリスチャンは、自分達の人生に霊的な成長を見ることが出来ません。彼らは祈り、聖書を読み、心から主を求めます。霊的な成長を妨げるものは、何もないのです。

しかし彼らは、自分達でその成長を見ることが出来ないのです。私がこのタイプのクリスチャンの一例です。私は、キリストの義の内に歩んでいるという 自覚がありますが、成長していると感じたことがありません。事実、時折私はクリスチャンらしかぬ言動をしてしまっては、自分を責めてしまいます。その様な 時、「私はクリスチャンになって何年も経つのに、どうして学ぶことが出来ないのだろう」と思ってしまいます。

おそらくテサロニケのクリスチャン達は、パウロが彼らを賞賛した時、非常に驚いたことと思います。(第二テサロニケ人への手紙1:3参照)彼らはきっと「私が大いに成長しているって?パウロは寝ぼけているに違いない」と思ったことでしょう。

しかしパウロは、霊の成長が隠され、秘めた所で行われるもとだと知っていました。聖書はそれを、観察することの出来ない、花や木の成長と同じ様なも のだ、と言っています。「露のようにわたしはイスラエルに臨み、彼はゆりのように花咲き、レバノンの杉のように根を張る。その若枝は広がり、オリーブのよ うに美しく、レバノンの杉のように香る。」(ホセア書14:6〜7)

神様は私達に、こう語っておられます。「ゆりを見てごらんなさい。その成長を目で見てみなさい。その日の終わりが来ても、肉眼では何の変化も見られ ないはずだ。しかし、わたしが露によって、毎朝そのゆりに水をやっている。だからそれは必ず成長するのだ」と。これと同じことが、霊の成長にも言えます。 それは肉眼で、見ることは出来ません。

人々の中には、救われてから、過去の罪にまったく左右されない方がいます。その人達は、「イエス様を受け入れた瞬間から、主が誘惑を取り去ってくだ さいました。その時から完全に私は、その罪から解放されています」と、証しします。私は、多くの元薬物依存症の人達が、この様な経験をしているのを知って います。

しかし大半のクリスチャンにとって、これは彼らの証しとは異なります。イエス様を受け入れてから何年経っても、昔の悪習慣が戻ってきます。それは、 彼ら自身も忌み嫌い、二度と欲しくも見たくもないと思っていることです。しかしどれ程苦しんでも、最後の思いは消え去りません。時が経つにつれ、彼らは失 望してしまいます。彼らの魂は、「主よ、いつまで苦しめばなりませんか。いつになったら、この鎖は解き放たれますか」と叫びます。さらに悪魔がいつしか やってきて、「そのことから解放されることは不可能だ。こんな状況下にいて、お前が霊的に成長することなど出来ない」と語ります。

皆さん、勇気を出して下さい。良い知らせがあります。あなたはこれらの苦しみにあっても、その最中で成長しておられるのです。実際、あなたはその苦しみ故に、成長しておられるのかも知れません。

安心して下さい。もしあなたの内に、神様に対する畏れがあるなら、あなたは嵐の中から、より力強くなって、出て来ることが出来るでしょう。あなたは 敵と戦う時に、神様の力と憐れみの全てを呼び求める訓練をしているのです。そして弱さを覚えていたとしても、その力と憐れみが、あなたを強めてくださいま す。第一に、あなたは切羽詰まって祈ることを覚えます。第二に、あなたのプライドは、完全にはがされてしまいます。ですから実は嵐によって、あなたの人生 のすべての面に、霊的な防御壁が立てられるのです。

2010年9月9日木曜日

神様の愛を知り、信じ、信頼し続けなさい

霊にあって陶酔し、困難にも試練にも遭わずにいるのなら、誰でも喜び続けることが出来ます。しかし神様は、どんな時でも、特に試みにある時にこそ、私達が神様の愛の内に留まる様、望んでおられるのです。

使徒ヨハネは、どの様に神様の愛に留まればよいのかを、とても明白に語ってくれています。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信 じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(第一ヨハネによる手紙4:16)一言で言え ば、もし私達が神様の愛に留まるなら、私達は神様の内に留まることが出来るということです。

ここで使われている“留まる”という言葉は、「待ち望む状態にいる」という意味があります。言い換えれば、神様は私達に、神様の愛が日々新たにされ るということを、待ち望んで欲しいということです。私達は毎日、神様が私達を愛し、そして愛し続けてくださるのだ、ということを知りながら生きる必要があ ります。

現実的には、私達のほとんどが、自分の感情が上下するのに合わせて、神様の愛に近づいたり遠ざかったりしてしまいます。何か良いことをした時だけ、 神様の愛の内にいて良いのだと感じてしまいます。しかし私達が試練や困難にある時、また神様の御心に反したことをしてしまった時は、神様の愛を疑ってしま います。しかしその様な時こそ、神様の愛に頼るべき時なのです。これらの聖句を通して、神様は私達にこう語られています。「あなたがどの様な試練に直面し ようと、あなたに対するわたしの愛を、決して疑ってはなりません。もし進んでわたしの愛に信頼を置くなら、わたしがあなたに望む、その通りの生き方をして いることになるのです」と。

エレミヤ書31章は、素晴らしい神様の愛を記しています。イスラエルは背信の時代にありました。人々は肥え太り、富に溢れ、ありとあらゆる悪に手を染めていました。

すると突然、彼らの欲が苦みに変わりました。彼らは、五感を満足させることに対する喜びを失ってしまったのです。彼らは叫びました、「主よ、私達は 道を失ってしまいました。方向転換をするために、あなたが必要です」と。神様は、彼らのこの悔い改めの叫びを聞かれ、愛に溢れた神様の心が、彼らの元へと 飛んで行きました。神様は民を、杖と教えとによって懲らしめられました。そしてイスラエルは「あなたはわたしを懲らしめられました。どうかわたしを立ち帰 らせてください。わたしは立ち帰ります。わたしは背きましたが、後悔し、思い知らされ、悔い改めました」と叫びました。(エレミヤ書31:18〜19より 抜粋)

ここでの神様の御言葉に、耳を傾けて下さい。「彼を退けるたびに、わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられない。」(20節)「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。」(3節)

これこそ、神様の愛について、あなたが知るべきことです。神様はその民に、「わたしはあなたを懲らしめ、厳しい真実の言葉を語らねばならなかった。 しかしそれでもあなたは、わたしが注いだ恵みと慈しみにも関わらず、わたしに対して罪を犯した。わたしの愛に背き、わたしを拒絶した。それでもなお、わた しの憐れみに満ちた心は、あなたに対して動き、苦しみにあるあなたを顧みる。そしてあなたに憐れみを注ぐ。わたしはあなたを赦し、完全に癒す」と言われる のです。

2010年9月8日水曜日

栄光のうちに歩む

困難の時を受け入れ難くさせている理由の一つは、神様の栄光に関する理解にあります。あなたは「その様なことは非常に崇高で、神学 者に任せた方が良い題材だ」と思われるかも知れません。しかし神様の栄光は、すべての信者にとって、非常にリアルで実践的な価値を持っていると、私は確信 しています。それを理解することによって、人生に打ち勝つ扉の鍵を開け放つことが出来ます。

神様の栄光は、主の存在と神性を現すものです。旧約聖書でモーセが神様の栄光を垣間見たことを、覚えておられるかも知れません。それまで、主は「わ たしはある」という言葉の他、御自身について何も語られずにモーセを遣わされました。しかしモーセは、神様についてもっと知りたいと願いました。ですから 彼は、「主よ、あなたの栄光を見させて下さい」と主に請うたのです。

神様はモーセを岩の隙間に隠すことで、この要求に応えました。そして聖書は、神様がモーセに御自身の栄光のすべてを現された、と記しています。(出 エジプト記34:6〜7参照)神様は私達に、御自身の人類に対する偉大なその愛を通して、その栄光を知って欲しいと望んでおられます。そしてそれこそ、神 様がモーセに現された方法です。

この箇所は、主がどの様な方であるか、私達が理解する上での要となる箇所だと思います。神様の栄光について考える時、私達はよく、神様の尊厳や威 光、力や権力など、神様が民に対して現されているものを思い浮かべます。これらのすべては、神様の栄光を見た結果と言えるでしょう。しかし、それらは神様 が私達に知っていて欲しいと望まれる、神様の栄光の姿ではないのです。主は、私達にその愛を示し、私達を赦し、憐れみを注ぎ、御自身と和解させることを、 永遠に待ち望んでおられるのです。

神様の栄光の現れは、それを受ける者や、その理解を祈り求める者に対して、非常に強い影響をもたらします。その時までモーセは、主を「律法と怒りの 神」としてしか見ていませんでした。彼は主の臨在にあって畏れに身を震わせ、イスラエルのために主に泣き叫び、請い求めました。これが彼にとっての、主と の関係の土台となっていました。

しかし神様の栄光を垣間見た今、モーセの主に対する恐れは消え去りました。その代わり、主を礼拝する様に、心動かされたのです。「モーセは急いで地 にひざまずき、ひれ伏した。」(出エジプト記34:8)彼は神様が、ただ彼を震え上がらせる恐ろしい雷や稲妻の様な方ではないと知ったのです。実際はその 反対で、神様は愛であり、その神性は憐れみと優しさに満ちたものだったと気付いたのです。

ここで聖書が示している、素晴らしい真理を理解することが出来ますか。真の礼拝は、何の見返りも顧みない、神様の私達への愛によって揺り動かされた 心から、湧き上がってくるものなのです。それは神様が御自身を、その良さを、憐れみを、赦しを、私達に与えてくださるのだ、という悟りに基づいています。 ですからもし私達が神様を、霊と真とによって礼拝するのなら、私達の礼拝は、この素晴らしい真実に基づくものでなければなりません。

神様の栄光を受け取ったなら、私達の礼拝は絶対に変わります。何故でしょうか。それは神様の栄光を見ることで、私達の生き方が変わるからです。それ は私達の態度や行動に影響をもたらし、私達を「栄光から栄光」へと造り変えて、さらに主に似る者としてくださいます。神様の愛と憐れみが現されるその度 に、それは私達に、超自然的な変化をもたらすのです。

2010年9月7日火曜日

キリストを通して与えられる神の愛

ヨハネによると、神様の愛のすべてがイエス様の内に宿っているということです。ヨハネはこう記しています。「わたしたちは皆、この 方の満ち溢れる豊かさの中から受けた。」(ヨハネによる福音書1:16)ではどの様にして、私達は御父の愛を受けたのでしょう。それは、キリストの内にい ることによってです。

あなたは、キリストを通して神様の愛が与えられると知ることが、なぜそんなに大切なのだろう、と思われるかも知れません。それが私達の日常生活と、どう関わりがあるのだろうか、と。

どうやって神様の愛が、私達の日々の生活に影響をもたらすのでしょうか。その答えは、キリストの内に見つけなければなりません。なぜならイエス様は すでに、御父が御子を愛された様に、私達をも愛してくださる、と語ってくださいました。ですから、御父の愛がどの様に、イエス様の生活に影響をもたらして いたか、を見れば良いということです。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(第一ヨハネによる手紙3:16) ここにイエス様の内にある、神様の愛の実が見られます。イエス様は御自身を、他の者のためのいけにえとして献げられたのです。この聖句の後半部分は、私達 の人生における神様の愛の目的を記しています。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」神様の愛は、私達も自分の体を生けるいけにえと して献げる様、導いておられるのです。

兄弟・姉妹のために、本当に命を捨てるということがどういうことか、考えたことがありますか。ヨハネは、異国の地において殉教者になることを、話し ているのではありません。臓器提供者となることを、話している訳でもありません。また死刑囚の代わりに、刑を受けることを話している訳でもありません。キ リストだけが、その様ないけにえを献げられるのです。そうではなく、兄弟・姉妹に命と希望を与えられるクリスチャンとは、死んでいる者だけです。それはこ の世に、すなわち、プライドや野望等、自分に完全に死んだ僕ということです。

この“死んだ”クリスチャンは、聖霊がその人の魂の在庫確認をすることを許している人です。その人は自分の心に残っている、汚いもの、神様のもので ないものを見ます。そして神様の御元に行き、「主よ、私を焼き尽くして下さい。すべて取り去って下さい」と、叫ぶのです。その人はキリストの血潮によって 聖められなければ、他の兄弟・姉妹のために命を捨てることが出来ないと知っているのです。

2010年9月6日月曜日

神様の愛

最近になって私は、聖霊により揺り動かされ、この聖句へと導かれました。「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよ りどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れ みを待ち望みなさい。」(ユダによる手紙20〜21)この箇所を読みながら、私は御霊がこう囁かれるのを聞きました。「ディビッド、あなたはわたしの完全 なる喜びと愛を、まだ経験していない。神学的にはよく理解しているが、その快感とわたしの愛のうちに留まることの平安を体験していない。今まであなたが経 験してきたものは、足首までのもの。しかし実際は、あなたの目の前に、自由に泳ぐことの出来る、わたしの愛の大海原が広がっているのだ」と。

聖書は、神様の愛についての真実で満ちています。しかし時折私は、神様がなぜ自分の様な者を愛されるだろうか、と思ってしまいます。決して神様の愛 を疑っている訳ではありません。それは逆に私自身の問題で、神様の私に対する愛を完全に知り尽くし、信じ尽くしていないのです。

私達が神様を信じる時、神様の愛の一部が明らかにされます。もしクリスチャンに、神様の愛について何を知っているか尋ねるなら、その多くは「私のた めに御子を遣わし、死んでくださったことで、神様の愛が分かります」と答えるでしょう。ヨハネによる福音書の3章16節を引用するでしょう。「神は、その 独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

この真実を噛み締める瞬間とは、本当に素晴らしいものです。あなたは突然、「神様は、私が迷子で他人としてさまよっていた時から、私を愛していてく ださったのだ。そして私のために、御自身の独り子をいけにえとされたことで、私への愛を示してくださったのだ」とことを悟ります。

しかし、一握りのクリスチャンだけが、神様の愛に留まることを学びます。主に対する愛について、少しは知っていますが、神様の私達への愛を追求する ことをあまりしません。事実、もしクリスチャン達に「神様の愛が書かれている、聖書の箇所を教えて下さい」と尋ねても、おそらく数カ所しか思い浮かべるこ とが出来ないでしょう。しかし、神様の愛を知ることこそ、人生に打ち勝つ秘訣なのです。多くの人は、神様の愛を知らないために、霊的に冷めきり怠惰になっ てしまいます。彼らは、サタンに対する最大の武器が、聖霊の解き明かしにより、神様の愛を完全に知ることだと知らないのです。

イエス様は地上での最後の祈りの中で、こう言われました。「父よ、あなたは天地創造の前からわたしを愛してくださいました。」(ヨハネによる福音書 17:24)これは何と素晴らしいことでしょう。キリストは創造の前より、父によってひたすらに愛されていたのです。 そしてイエス様は、次の偉大な祈りを捧げました。「父よ、あなたが私を愛しておられたように、彼らをも愛しておられます。」(21、23節)またこの様に も祈られました。「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるように。」(26節)キリストは「父よ、あなたがわたしを愛された ように、わたしの体の内に集める者達を、あなたが愛してくださると知っています」と言っておられるのです。

ここに秘められたメッセージは、御父は永遠の昔よりイエス様を愛しておられ、私達をも同じ様に愛されたということです。事実、御父の永遠の思いの中 に、考えとして人間のことが浮かんでいた頃から、主はすでに私達の詳細を知り、救いの計画を立てておられたのです。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛 して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エペソ人への手紙1:4)

神様はどれ程長い間、あなたを愛してこられたのでしょうか。神様が存在されてからずっとです。なぜなら、神は愛だからです。愛することこそ、神様の 性質なのです。神様は、あなたを罪人として愛されました。神様は、あなたが胎にいる時から愛されました。神様は、世界が生まれる前からあなたを愛されまし た。あなたに対する神様の愛は、始まりがありません。そしてそれには終わりもないのです。

神様はいつ、あなたを愛することを止められるでしょうか。それは神様が、御子を愛されるのを止められる時です。そしてそんなことは、絶対にあり得ま せん。キリストはこう語っておられます。「イエスは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネによる福音書13:1)

2010年9月3日金曜日

神様の愛に留まりなさい

数年前、神様は私の心の内に、ロングアイランドで、少年の家を始めなさいという思いを植えられました。この働きに関して私は、強い 主の導きを感じました。しかし、そのたった18ヶ月後に、州が少年の家運営に関する厳しい制令を下し、私達はその家を閉鎖するしかありませんでした。

その短い運営期間中、私達は4人の少年をお世話しました。少年の家が閉鎖されてから、彼らとは音信不通になっていました。私はよく、この少年の家事 業のことを思い出しては、それが最大の失敗であったと思っていました。30年以上もの間、なぜ神様が私にその事業を進めることを許されたのか、分からない でいました。

しかし最近になって、私はクリフォードという名前の男性から、一通の手紙を受け取りました。その手紙の中で、彼は次の様なことを語ってくれました。

「ディビッド兄弟、私はロングアイランドの少年の家に送られた、4人の少年の一人です。そこでの寮母・父さん達は、とても親切で優しい方々でした。 私達に聖書を教え、教会へ連れて行って下さいました。ある日、彼らは私達を、リバイバル集会が行われている教会へ連れ行って下さいました。その時の私は、 非常に苦々しい思いで一杯でした。しかしその教会で、聖霊様が私の心に触れ始められたのです。私はメッセンジャーが『イエス様はあなたを愛しています』と 言うのを耳にしました。長年の痛み、迷い、絶望感が露にされました。私はひざまずき、祈りました。それは35年前のことです。今、神様は私を説教者して召 され、フルタイムの奉仕者となるよう、導いてくださっています。この感謝の気持ちは、この間ずっと、私の中で温められていました。私の面倒を見て下さっ て、本当にありがとうございました。神様の愛とは何か、知ることが出来ました。」

この手紙は、私達がキリストのために行うことは全て、決して無駄になることはないのだと証明してくれます。あの少年の家は、失敗ではなかったのです。なぜなら一人の失われた、さまようユダヤ人の少年が、神様の愛の意味を見つけることが出来たからです。

2010年9月2日木曜日

サタンの巧みな業

「アッシリアの王は、ラブ・シャケを大軍と共にヒゼキヤ王のいるエルサレムに遣わした。」(列王記下18:17)アッシリアは、今 日の「繁栄への手引き」を象徴しています。悪魔はあなたの城壁の周りを、力強い者、美しい者、またすべてにおいて成功を収めているように見える者を率い て、練り歩きます。その者たちを目にする時、あなたは囚人であるかのように意気消沈してしまします。

罪にある者からの最初の罠とは、信者の完全なる主への信頼を疑うことです。王の遣いであったラブ・シャケという名前は、「酔いつぶれた遣い」という 意味があります。彼は主を信じる人々を嘲りました。(列王記下18:19〜20参照)彼の言い分は、「神はお前たちをこの混乱から救い出さない。お前たち はただ、滅びるだけだ。大変な危機にあっても、お前達の信仰など、何の役にも立ちやしない」ということでした。

サタンは、さらにこれに一ひねり加えました。サタンはあなたに、神様がこれらすべての困難の背後にいるのだと囁きます。アッシリアの使者は、こう叫 びました。「わたしは今、主とかかわりなくこの所を滅ぼしに来たのだろうか。主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになった のだ」と。(列王記下18:25)サタンは、神様があなたに仕返しをし、あなたに怒りを覚えていらっしゃると信じ込ませたいのです。これこそ、サタンの狡 猾な偽りです。サタンは神様があなたを見捨て、困難と悲しみの中に突き落とされたのだと、あなたに信じ込ませようとしているのです。すべての問題は、あな たの過去の罪に対する神様からの懲らしめなのだと、信じ込ませたいのです。それを信じてはなりません。それはあなたを滅ぼそうとする、サタンの企みです。

私達の主は、救い主であり、守り主です。イザヤはこう語っています、救い主が来られるのは、「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶ らせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ばれる」と。(イ ザヤ書61:3)

愛する聖徒の皆さん、あなたは滅びに向かってなどいません。あなたの心が本当に主に向けられているからこそ、あなたは攻撃を受け、敵の偽りに惑わされているだけなのです。サタンは神様へのあなたの信仰を、打ち砕こうとしているのです。

2010年9月1日水曜日

戦いへの招き

「また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍してくる敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、 まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち 物を一切捨てなければ、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカによる福音書14:31〜33)

エノクはこう、預言しました。「見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。」(ユダの手紙14)聖書は、私達が主のための王や祭司で あり、サタンとの戦いへ行く何十万もの人々を率いるのだと記しています。サタンが私達に敵対するのは、私達をひたすらに憎んでいるからです。(黙示録 12:17参照)

これから来ることについて、私達は準備を整えねばなりません。霊の戦いが起こり、神様の民に対して、悪の洪水が押し寄せることを覚悟しなければなり ません。もし私達が、キリストを知る決意を固めるなら、キリストにあって、私達は絶対に打ち負かされることがないのだと、知る必要があります。聖書はこの 様に記しています。「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」(第一ヨハネの手紙4:4)神様は私達が、敵のどの様な力にも必ず 勝利すると、保証してくださっています。すべての天の大軍が、私達のために戦ってくださっているからです。

神様がさらに聖霊を私達に与え、全地と地獄の群れに対して、私達一人ひとりがこう叫ぶことの出来るように祈ります。「だれが、キリストの愛からわた したちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。しかし、これらのすべてのことにおいて、わたしたちは、わ たしたちを愛してくださる方によって、輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものの、現在のものも、未来の ものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わた したちを引き離すことはできないのです。」(ローマ人への手紙8:35、37〜39)

これこそ、イエス様を飢え求める者の上げる、ときの声なのです。

神様にあるすべての男女は、キリストに対しての生けるいけにえとなろうと決心した時から、地獄の悪しき企みの標的となります。信仰による聖い歩みをしようと心に決めている者に対して、地獄の群れが放たれます。

あなたが、サタンの偽りに満ちた計画を危ぶませるものとなったため、サタンはあなたを攻撃し、その道に障害物を置くでしょう。あなたは不戦敗し、諦め、いい加減で、実を結ばずにさまよう者となる道を選択することが出来ます。

でも私は、悪魔の計画に反旗を翻し、信仰によって立ち上がり、戦うことを選びます。サタンは完全に主に信頼をおく者を、押さえつけておくことが出来ないのです。