2011年1月12日水曜日

私達の牧者はそれでも迷えるものを愛している

私達の牧者は試みや苦しみ、痛みによって迷い出た全ての羊を愛しておられます。私たちを私達の牧者は決して捨てません。神は私達と共に歩んでおられ、いつも見張っておられます。

もしかして、誘惑にめげているかも知れません。その苦闘が何であっても、あなたは主から離れまいと決めていて、罪の触手に委ねることを拒んでいます。その代わり、あなたは神の言葉を心に覚えます。

しかし、あなたはダビデのように疲れているかも知れません。あなたには全く助けがないと感じているかも知れません。私達の敵は失望、恐れ、偽りで圧倒しようとします。

あなたの試みは益々不可解で理不尽なものとなっているかも知れません。しかし、あなたがどんな状況であっても知らなければならないのは聖霊様があな たにJehovah Rohi、「主は我が牧者」であることを啓示したいのです。あなたにはあなたの心に愛を焼き付けたい牧者がおられることを。

イエス様は約束しています。「わたしはあなたを孤児にはしない。」そして私達の天の父-Jehovah Rohi-「主は我が牧者」は御自身を詩篇23篇で啓示しています。神は私たちに「あなたの名をわたしは知っている。あなたの状況も知っている。来て、わ が恵みと愛にあって休みなさい。全てを理解する必要はありません。ただ、我が愛を受け入れ、慈しみの手で休みなさい。わたしは万軍の主、威厳と聖さの神で ある。あなたはこれらのことについて悟ってほしい。しかし、特に今あなたが知るべきはJehovah Rohiを悟って欲しい。あなたに知って欲しいのはわたしがあなたの親切な、よき牧者であることです。あなたの試みを私の慈しみの中で通ることを確信して 欲しい。」と言っておられます。

2011年1月11日火曜日

主は我が牧者であって

わたし達は詩篇23篇に馴染んでいます。この詩はクリスチャンでない人の間でもよく知られています。この詩篇はダビデ王によって書かれ、かの有名な詩篇はこの句で始まっています。「主は我が牧者であって、わたしに乏しき事がない。」

ダビデは乏しいことないとしています。言い換えれば、「わたしには不足なことはない。」と言っています。続く言葉から考えれば、ダビデは「主はわたしを導き、養う。故に私は足りないものがない。」と言っています。

この短い文の中に、ダビデはもう一つ主のご性質について述べています。文にはJe-HO-va-RO’-eeと始まっています。それは「主は我が牧者」という意味です。

Jehovah Rohiはただ親切、消極的な牧者を意味していません。そして、ただの雇われ人でもありません。ただの雇われ人は最小限のこと、食べさせ目的地に行かせる だけです。しかし、神は牧場と水飲み場にわたし達を連れて行き「必要なのは与えただろう。これでいいだろう。」とは言いません。そうではありません。神は 私達の忍耐、涙を知っています。神は耐え抜く気力が失っていくのも知っています。彼はあなたがどこで諦めるかを知っています。そして、神はわたし達を何時 救い、癒すべきかを知っています。神はいつも私達を危機から救い、休ませます。神は、休息と癒しの時を与えて下さいます。

Jehovah Rohi-主は我が牧者という神の名は私達が神の安息に導かれるとしています。そして神は私達に「shekinah」-であることが出来るのです。主なる 神は出エジプト書29:45でこう仰っています。「わたしはイスラエルの人々のうちに住んで、彼らの神となるであろう。」ここで「住む」はヘブル語の単語 で「shekinah」が使われています。その意味は「横で繋がっている」または「側面に落ち着く」です。この単語がここで使われているのは一過性ではな く永続-離れない臨在-することを強調したいがためです。ですから、神の「shekinah」なる栄光は見えない墨で書かれたのではありませんので心から 消えません。返って神が私達の魂に判印したものは永久のものです。それは私達の近くにあるものです。

それは栄光に満ちたものです。私達の牧者は私達の痛みは欝とした状況でも来て、私達の側に掛けて下さいます。神はまた私達の傷を塞ぎ、病んで痛んでる処を強めて下さいます。

これが「shekinah」なる神の栄光です。主の永久(とわ)の栄光です。それを私達の試練の時にしばしば体験します。私達の偉大なる牧者は語り ます。「わたしはあなたを修復し、あなたと例え死と影の谷であっても共にいる。我が臨在はサタンの計略のなかでもあなたと共にいる。もしあなたがわたしよ り逃げて行ったとしても、あなたを追って行く。そして、あなたを捕らえたら、私はあなたを両手で抱き上げ、神の安息に入るべくあなたを運ぶ。そしてわたし はあなたの傷を塞ぎ、あなたの全ての病は癒されえる。」

2011年1月10日月曜日

神が望まれるのはあなたの信仰が全てです。

神様はあなたの家を、車を、家具を、定期預金などあなたの持ち物が欲しいわけではありません。神が望まれるのはあなたの信仰-神の御言葉への強い信 頼です。信心深いと思われる人達にしばしば欠けるものです。ある人はあなたより信心深いように見えるかもしれません。しかし、その人は自分を義人ぽく見せ るために必死に努力しているかも知れません。神は他の人ならず、あなたに向け「ここに義人が居る」と仰います。何故でしょうか。あなたは義となるためには 自分が無力なのを認めているからです。そしてあなたは神の義を主が与えて下さる事を信頼しています。

パウロは私達が神の目に、アブラハムと同じ理由で義とせられていると言っています。「だから、彼は義と認められたのである。しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、」(ローマ4:22―23)

あなたは「わたしは神がイエス様を蘇らせたことを信じている。」と言うかもしれない。しかし、要はあなたが冷め切った夫婦関係を修復できると信じて いますか。あなたは霊的に死んだ親戚を復活させるのを信じますか。あなたは悪癖のどん底から引き上げる事を信じますか。あなたは忌まわしい自分の過去を消 し、失った時を回復できると信じますか。

全てに望みがない時-助けも希望も何もなく不可能に見える時、神がジェホバジャイラ(神に備えある)と信じますか。あなたは神自身があなたにした約束を守られると信じますか。-もし、神の言葉が行われないなら、天は落ち、宇宙は崩壊します。

2011年1月7日金曜日

主はわたし達の義

「主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。 その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。」(エレミア23:5-6)

神様は預言者エレミアに「Jehovah Tsidkenu」(Je-Ho-va Sid-KAY”-noo)という啓示を私達が現在直面している危機と似たようなときに彼らに与えました。ではわたし達にこの聖書箇所はどんな意味を持つ のでしょうか。『主はわれわれの正義』とは何であってイエスの役割をその中でどのように理解したらいいのでしょうか。

使徒パウロは聖書の幾つかの箇所で神様の義の定義を示しています。

• 「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた. 」(ローマ4:3)
• 「アブラハムには、その信仰が義と認められた」(ローマ4:9)
• 「このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。」(ガラテア3:6)

これらの聖句はアブラハムがどのように真の義とせられたかを示すものです。「彼は信じた。」

使徒パウロは義に対して「主による定義」をも示しています。「彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強めら れ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。だから、彼は義と認められたのである。」(ローマ4:20-22)

儀についてこれより明らかには出来ないでしょう。義とは、神が必ず御自身の言葉を守ることを納得して、神の約束を信じることなのです。

2011年1月6日木曜日

私たちには希望があります

キリストの義がある人は、希望がない人々のように生きてはいけません。私達は神への畏れと愛両方に祝福されています。神の御旨は暗闇にあっても私達 が喜びと嬉しさを得ることです。私達の周りが災難に会うとしても、私達は、裁きが来たからではなく、裁きに関わらず喜びの歌を歌います。

イザヤ書5:11は英文では「Therefore」と始まっている。それは「前に述べた理由によって」の意味です。その前に神は何を言ったでしょう か。「51:10 海をかわかし、大いなる淵の水をかわかし、また海の深き所を、あがなわれた者の過ぎる道とされたのは、あなたではなかったか。」言い換えれば「私は主、時 の古、奇跡を行うもの。我が手は汝を救う」と意味します。

そして神は51:11で前に述べた事実によって何を言いたかったのでしょうか。

• 主にあがなわれた者は、歌うたいつつ、シオンに帰ってきて、――その意味は信頼と信仰と神に対する自負心を持った

• 「そのこうべに、とこしえの喜びをいただき」神の民が体験する喜びは礼拝・日曜の朝/一週間/一ヶ月に限られるものではありません。それは苦しい時を堪える、最後まで残るものです。

• 「彼らは喜びと楽しみとを得」神は時の中で仰います。「わたしの民は喜びをえて、それを保ち、彼らのものとなる。」

• 悲しみと嘆きとは逃げ去る。-この意味はすべの苦しみが去ることを意味しません。これは主にあるわたし達の信頼が全ての苦しみと悲しみを超えうることを意味します。悲しみと苦しみとかは決してわたし達の喜びと楽しみを取り去ることは出来ません。

2011年1月5日水曜日

父を知る

子供たちは危機の時、親の資質を知ります。子が痛み、苦しみ、必要がある時、親の深い愛と犠牲を認識します。私が子供を育てる時、私は好きなことに ついて言いませんでした。「私が親で、私は我慢強く、優しく、あなたを愛している。何時でも、何が起きても、あなたを許します。」と言う必要はありません でした。そんな事を宣言するのは馬鹿げています。何故なら、私の子供は彼らが問題に当たった時、私が彼等をどれだけ愛したかを知っているからです。今や彼 らは結婚して子供が居ますが、私の息子や娘は新たに私を知る体験をしています。彼らは、彼らの人生が新しい場面にめぐり合い、その時の私の行動と対応を通 じて私を学んでいます。

天の父を知るにも同じことが言えます。アダムの時からキリストの十字架まで主はその民に、御自身の資質を絶え間なく啓示してきました。神はただ「この名がわたしを表す。ではそれを学びなさい。故に私を知るだろう。」の詔を与えるだけではありませんでした。

ヘブル語の主の名は主の名に関わる不思議な栄光と備えを表しています。そして、神はその名が宣言するご性質をその民にじかに行い、その誠実を啓示します。彼は御自身の子の必要を見ておられ、悪魔の姦計を見抜き、民の為に御自身か介入します。

皆さん、天なる父を時間を掛けて、心から知って下さい。聖霊があなたの必要な時に与え給う天なる父に多面的備えを気付かせて下さるように求めて下さい。そして聖霊に「わたしはいる」神を知る知識を求める資質を願って下さい‐神だけが必要なものの全てです。

2011年1月4日火曜日

最も大きな試み

「モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。」(出エジプト14:21)

イスラエル人の前には彼等を安全に導く道がありました。この決定的瞬間に神はその民が壁を見て、彼らが反対側に安全に着くまで、神がその壁を保って おれれると言う信仰を持って欲しいと思いました。言い換えれば、神はその民が信仰を持って告白して欲しいと思っておられました。「神は忠実な方なので、こ の奇跡を始めから終りまで見ておられます。」

私達が振り返ってみたら、何故そんなに恐れたかと思います。エジプト人が来るのを見ても恐れるべきではありません。神は彼らと私達の間に神の暗闇の 壁を置き、夜に彼等を恐れないですむようにしました。何時でも、神は敵が暗闇で何も見えない時、私達に輝く光を与えて下さいます。私達が激しい風に恐れ戦 慄く時、神は私達に逃れる道、その風を使って作って下さいます。

神は私達によい事だけをしたいと思っておられることが解ります。神が私達のために栄光と力を用いてくだることは十分知っています。私達は最早恐れの中ですむ必要がありません。水の壁が崩れても関係ありません。生きるも死ぬも、私達は主の者だからです。

神はその時点で、このような信仰を要求したのには理由があります。彼らには荒野での旅が待っていたからです。欠乏と危険と苦しみを堪えなければなら なかったからです。ですから、神は「我が民はわたしがよい事だけをすることを知らしめる。危険が差し迫る時、死を恐れないで欲しい。わたしは全てにおいて 忠実であるから彼らは死を恐れない民になるべきである。」

勝利した後、踊る者が、また敵を破った時に神を賛美する者が真の礼拝者ではありません。イスラエルは敵を破り、勝利して踊りました。それが彼らのし たものです。神が紅海を分け、向こう岸に着きました。彼らは歌い、踊り、神を賛美し、褒め称えました。しかし、その三日後、マラにおいて同じ人達は神に呟 きました。彼らは礼拝者ではなく、軽薄な興奮に浸っているだけでした。

真の礼拝者は嵐の中で神を信頼することを学んだ者のことです。この人の礼拝は単に言葉だけではなく、歩みをも含めるものです。その人の世界は、神に対する信頼が揺らがないので、世界はいつも平安です。また、未来も恐れません。そして死を恐れないからです。

わたしの妻グエンと私は孫娘12歳ティファニーに揺るぎない信仰を見ました。彼女の臨終の近い時、私達はベット際で彼女の人智を超えた平安を見まし た。彼女は私に言いました。「おじいちゃん、天の家に帰ります。イエス様は私にそこに居て欲しいって。ここにはもう居たくないよ。」彼女は終りとか死への 恐れが全くありませんでした。

それはが神がその民に持って欲しい平安です。パウロのように、またティファニーのように自信を持って言うのです。「生きるも死ぬも主のもの。」この信頼が真の礼拝者とするのです。

私はこの文を読む全ての人が嵐の中でこの言葉を言える事を祈ります。「そうです。経済が崩壊しているかも知れません。私は暗い嵐の夜を迎えるかも知れません。しかし、神は私に真であった。何が起きても、私はその愛に安住できる。」

2011年1月3日月曜日

三つの事をしなさい

試みの中でイスラエルの民に神が仰せられました。「恐れるな。立って主の救いを見よ。」そして、「私はあなたの為に戦う。あなたは黙して、平安でい よう。全てを我が手に委ねよ。私は見えざる次元で働き、統べ治めている。だから、慌てるな。私が悪魔と戦う。戦いは最早あなたのではない。」(出エジプト 14:13-14参照)

暗闇が、彼らがいる場所を覆います。イスラエルの暗い嵐の夜の始まりです。しかし、それは神の御手の業の始でもあります。神は民と民の仇の間に守護天使を送りました。私は神を愛し、恐れる者らの周りに守る天使を今でも送って下さっていると信じています。

主は神の雲を動かし、導きとしました。その雲は突如民の前から民の後ろ側に置かれエジプト人の前に憚る真っ暗な壁となりました。反対側は雲は夜もすがらイスラエルに神の光を与えました。(出エジプト14:20)

パラオの軍隊は暗闇にいましたが、彼らは声を上げる事は出来ました。夜通し、偽り、脅し続けました。この夜通しの虚言はイスラエル人を悩ましました。しかし、どれだけ仇が彼らを脅したとしても、天使が守って、神はその民に危機を通り抜けさせると約束します。

聖徒の皆さん、もしあなたが血で贖われた神の子であるなら、神はあなたと悪魔の間に戦闘する天使を置いてくださいます。イスラエルに言ったように神 はあなたに言います。「おそれるな。立ってわたしの救いを信じなさい。」サタンは悪しき計略で向かってくるかも知れませんが、嵐が吹き荒れる暗い夜のどん な時でもあなたの敵はあなたを破壊決してできません。

「モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。」(出エジプト14:21)

ここで使われている風とは、ヘブライ語で「強い吐く息」という意味があります。このことは神が息を吹き、水が壁を作ったと意味しています。イスラエ ル人の幕屋はその風が吹いた時、きっと揺れたでしょう。何故神は一語とで状況を静められる時、夜もすがらイスラエルが嵐の夜を堪えさせたのでしょうか。

嵐はイスラエルを恐れさせました。神は何故それを許したのでしょうか。何故、神は夜通し嵐が続くことを許しましたのでしょうか。何故、神はモーセが水を打ち、波を分けさせるようにはしなかったのでしょうか。神がこの恐ろしい夜をお許しになった理由は何だったのでしょうか。

それは、主は礼拝者を備えるためだったのです。神は最大の危機を抜ける道を、嵐を用いて創っておられました。その時、イスラエルはそれを見出しませ んでした。ある人は自分の幕屋に隠れたでしょう。しかし、外にいた人達は栄光に満ちた光景に証人となることができました。彼らは波が壁となり、海に乾いた 地が現れることを見たでしょう。「見よ、神が私達の為に風を用いて道を造られる。主を賛美せよ。」

2010年12月31日金曜日

礼拝者になること

出エジプト14章はイスラエルの歴史の劇的な場面を現しています。イスラエルは神の導きに従って出エジプトしました。で、その時、彼らはパラオの軍 に追われていました。イスラエルは両側に切り立つ山に挟まれた渓谷で立ち、前には海が憚っていました。彼らはまだ知らないでいますが、彼らは魂の暗闇、嵐 が吹き荒れる夜を体験する事になります。彼らは限界まで試す四面楚歌の苦悩と失望の夜を体験します。

この出来事は神が如何にその民を礼拝者と変えるかをあらわしています。聖書の何処にもこのような苦悩と失望をあらわしている章はありません。皆さ ん、真の礼拝者はリバイバルや、晴れの日に形作られません。私達が嵐にどのように応えるかによって私達がどんな礼拝者になるかが定められます。

ヘブル書の11章は老いたヤコブを表しています。「信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。」(ヘブル11:21) 何故、死に際のヤコブのことがここに書かれているのでしょうか。

ヤコブは自分の命が終わることを知っていました。ですから、ヤコブは自分の孫達に祝福をしました。ヤコブは自分の人生を振り返って、何をしましたか。彼は神を礼拝しました。誰もそうしろと言いません。彼は杖に寄りかかり、神が与える人生に感動し、そして「礼拝」しました。

ヤコブがその時神に礼拝したのは、彼の魂が休む時に差し掛かったからです。彼は神が疑う事無く忠実であることを知っていました。そして、族長はこう 語り彼の一生を締めくくりました。「どんな戦いでも神は私に忠実であった。神はいつも忠実であった。主よ、偉大な神よ。私はあなたを礼拝します。」

2010年12月30日木曜日

少しの苦しみにくよくよしない

キリストの復活の前にひと時の苦しみがありました。同じく私たちには死や苦しみ、痛み、悲しみがあります。

私たちは傷ついたり苦しんだりすることを望みません。私たちは苦しみのない救いを、神の介入を願います。「神様、あなたは私の弱さを知っています。私は弱すぎます。あなたが介入して、この状況を変えて下さい。私は何もすることができません。」

私たちは色々な問題を悪魔のせいにします。私たちは神の人を見つけ、彼が悪魔を追い払って、苦しみや痛みなく現状復帰したいと思っています。「解決 済み。勝利の歩みた。心地がいい。」 誰かが私に手を置いて祈り、乾きが全て除かれることを期待します。しかし、勝利は必ずしも苦しみや痛みなしで得られ る訳ではありません。罪を直視しましょう。キリストがしたように苦しみ抜いて下さい。キリストの苦しみに与って、夜を耐え、朝には喜びが待っています。

神の愛は選択を要求しています。もし、神が私たちの戦いに痛みや苦しみ無しで介入するなら、試みや問題自体が無くなるでしょう。その意味は私たちに は最早自由選択が存在しないし、火によって試されないことになります。それは神の御旨を問答無用にあてはめることです。しかし、神は旱魃の中で私達に会 い、御自身が如何に信仰の新生の道になるか見せて下さいます。

私達の苦しみや痛みは神の御旨の場合がしばしばあります。「だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。」(1ペテロ4:19)

神に、勝利を得られる前の苦しみは長くないことを感謝すべきかな。「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」(1ペテロ5:10)

2010年12月29日水曜日

祈りの時を保つこと

霊の枯渇を克服するためには祈りの時を保たなければなりません。私達は祈らなければならないのですが、そのようにはしていません。私達が神様との交わりがあるときには私達の重荷は取り去られることを知っています。聖霊は私達に呼びかけます。「来なさい。」と。

魂の渇きを満たす水に来なさい。その子らを哀れむ父に来なさい。全て罪を許し給う命の主に来なさい。あなたを呪う事も、捨てる事も、隠れる事も否む唯一の方に来なさい。

私達は罪悪感や自責で神から隠れようとしますが、紙は決して私達からお隠れになりません。罪を犯したり、路に逸れたりしても、神の恵みの御座に大胆 に進み出よう。神の恵みに戻ろうと努力したり、自責と反省の時間を何時間、何日間持ったりする必要はありません。御父に進み出て、膝を屈め、心を開き、あ なたの苦悩、苦痛を訴えてください。神にあなたの孤独、拒絶、躓きを話してください。

私達はいろんなことを試みますが、祈りません。解決する術を、方法を見つけようと本を読みます。慰めや助言を得ようと友人、牧師、カウンセラーなどいろんな人に行きます。私達は私達の声を探しますが、全てに答を持っておられる声を忘れます。

神様だけと交わるときに勝る、渇きや虚しさを退けるものはありません。隠れた場所で御父に祈ることに代わるものはありません。全ての渇きが解決します。

わたしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ、わが霊をあなたの子らにそそぎ、わが恵みをあなたの子孫に与えるからである(イザヤ44:3)

2010年12月28日火曜日

乾いた時を経る

私が沢山の人達にメッセージをしますが、時には神の優しい臨在から離れ、とても乾いていると感じるときがあります。私は乾き、御言葉を読む気力も、 祈りたい気もおきません。私の信仰が変わったわけでもなく、イエス様に対する愛が冷めたわけでもないし、この世につかろうとの望んでいるのでもありませ ん。

他のクリスチャンが、あなたが置いてきぼりになっているのに、恵みを受けていますが。彼らの祈りに神が答えられて、喜び溢れていると彼らは証しています。イエスを愛するあなたは歩留まりしていて、あなたの周りはだらけているのに彼らは幸せの絶頂にいます。

全ての信仰者は彼らのクリスチャンの歩みで幾度か乾いた時を経験します。イエス様でさえ孤独を感じ、叫びました。「父よ、何故あなたは私をお捨てになるのですか。」

神に近づく以外、平安はありません。枯渇はみ神の栄光の露のみによって解決します。神の応えの確かさによって落胆が退けられます。聖霊の火が心と体と魂を燃やすことが出来るのです。

私はしばしば罪人が感じる自分に虚しいと感じることがありますが、神は決して私を離れておらない事を知っています。小さな、はっきりした声を私は聞 きます。「来なさい、わが子よ。あなたが今通っていることを知っている。わたしの愛は変わっていないまた私はあなたを孤児にはしない。わたしがあなたの父 であり、あなたはわたしの子であるから、共にこのときを通り抜けよう。」私のうちに決して消すことの出来ない聖霊の炎があって、私に語りかけます。神はど んな乾いた時からもわたしを救い出してくださることを知っています。

「主の分はその民であって、/ヤコブはその定められた嗣業である。主はこれを荒野の地で見いだし、/獣のほえる荒れ地で会い、/これを巡り囲んでいたわり、/目のひとみのように守られた。」(申命記32:9~10)

「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。野の獣は わたしをあがめ、山犬および、だちょうもわたしをあがめる。わたしが荒野に水をいだし、さばくに川を流れさせて、わたしの選んだ民に飲ませるから だ。」(イザヤ43:19~20)

2010年12月27日月曜日

あなたは諦めようとしていますか

たくさんの神の僕らが私に教区の信徒が辞めたいと言っていると書いて来ます。「正直な信徒罪悪感や自己嫌悪に苛まれ、失望しでいます。自分の期待が失望に終わる時、彼らは罪に陥り、自暴自棄と成ります。」

益々多くのクリスチャンが自暴自棄と成ろうとしています。一部はイエスへの愛までも止めることさえ考え、落ち込んで自暴自棄となっています。

ある牧師は肯定的なメッセージを続いて語ります。それは、全てのクリスチャンは奇跡を受けたり、皆祈りの答を頂いたりして、幸せな生活を営みます。 勿論、私も神の民が健康で幸せに生きることを望んでいますから、そのようなメッセージを語りたいと思います。しかし、真の正直な、真剣なクリスチャンの多 くはそのようではありません。

たくさんの若者達が諦めようとすることも無理もありません。宗教によって作られた仮面、自立していて、豊かで、成功した、いつも肯定的に考える仮面 に見合うように生きていけません。彼らの世界は描いたほど理想的でもなく、苦しみや身近な人の問題や色々な災難の中に生きています。
パウロも問題について述べています。「...会った患難を、...知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、」(2コリント1:8)

肯定的考えは問題を消えさせたりしません。また、その問題が存在しないと自分に言い聞かしても何も変わりません。何をしたらいいのでしょうか。二つだけ確かなことがあります。それが私に大きな慰めと助けになりました。

• 神は私を愛してくださっています。私達の弱きを知り、助けたいと欲されています。
• 私達の信仰が神を喜ばします。神は私が神を信頼することを願っています。

2010年12月24日金曜日

あなたは生き残ります

幸福とは痛みや傷がなく生きる事ではありません。かえって、真の幸福とは悲しみや苦痛に関わらず、その日を如何に生きるかを学ぶことです。過ぎた時に何が起きたかに拘らず主にあって喜ぶ事を学ぶことです。

あなたは拒まれ、見捨てられていると感じるかも知れません。あなたの信仰が弱いと思ったり、試されると思っているかも知れません。悲しみ、涙、苦痛、虚しさがあなたを時には呑み込むかも知れませんが、神が御座に居られ、神であられます。

あなたは自分か生き残ると言い聞かせ下さい。あなたが生きるも死ぬも、あなたは主に属しています。人生の歩みは続いていきますし、神の助けがあるなら自分がどれだけ耐えられるかに驚くでしょう。

あなたは自らを助けたり、苦痛を止めたりすることは出来ませんが、私達の主があなたにはあるのです。種はその愛しみの御手をあなたに置き、天にあなたを立てます。主は死の恐怖からあなたを救い、あなたへの絶えることのない愛を示すでしょう。

天を見上げ、主にあって自分を力づけて下さい。霧があなたを囲み、あなたは問題を解決する方法が見つからない時、只イエスの御手に委ね、イエスを信 じて下さい。イエス様が全てを成して下さいます。イエス様はあなたが主を信じ、信頼して欲しいのです。彼はあなたが声を出して「イエス様が私を愛して、私 と共に居り、私は失望に終わることはない。今もイエス様は働いて居り、私は打ち捨てられない。私は敗れサタンの餌食にはならない。私は方向を失わない。神 が私と共におり、私は神を愛しているし、神も私を愛している。」

根本は信仰です。そして信仰はこの言葉を絶対的なものとするでしょう。「すべてあなたを攻めるために造られる武器は、その目的を達しない。」(イザヤ54:17)

2010年10月22日金曜日

遅く来た祈りの答え

私たちはしばしばダビデのように祈ります。「わたしの悩みの日にみ顔を隠すことなく、あなたの耳をわたしに傾け、わが呼ばわる日に、すみやかにお答 えください。」(詩篇102:2)「あなたの顔をしもべに隠さないでください。わたしは悩んでいるのです。すみやかにわたしにお答えください。」(詩篇 69:17)ここでヘブライ語の「すみやか」という単語が使われていますが、「今、急いで、これを呼んだら直にする」の意味ですから、ダビデは「主よ、私 はあなたを信じますが、急いで下さい。」と言っています。

 神は急ぐ事はありません。神は私たちが要求したから何かをされません。現に、あなたはしばしば神が答えるか、否がをも疑うことがしばしばです。あ なたは泣き、叫び、断食しそして望みますが、日、週、月が経ち年も暮れます。しかし、あなたは神があなたに耳を傾かれた兆しは何もありません。先ず、あな たは「何かが私の祈りを妨げている」と考えます。やがてあなたは混乱し、こう考えるようになります。「主よ、祈りが答えられるには何が必要ですか? あな たは御言葉で信仰にたって答えると言ったのではありませんかと、何年これを続けなければなりませんか。」

 神様は何故真心の祈りに答えないのでしょうか。神がそうされる能力が欠けているからではありません。また、神は私たちが答えを受けさせたいと思っ ています。この御言葉に答えがあります。「また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。」(ルカ18:1)

 ここで使われている「失望」というギリシャ語は「緩やかになる、信仰が弱々しくなって、疲れて、努力しない。成就されることを待たない」を意味し ます。しかし、聖書は「わたしたちは、善を行うことに疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」(ガラテア6:9)と言って います。主は疲れたり、弛んだりしないで祈る人々をも求めています。この人たちは主を待ち望み、御業が完成するまで諦めたりしないでしょう。そして、神が 答えをもたらす時を見出すでしょう

2010年10月21日木曜日

愛の鞭

神はあなたを愛しているので、あなたの人生を立ち直らせて下さいます。悔い改め神に立ち返る人には愛の鞭が与えられます。あなたの過去や現在の罪の 為に、神の矢が魂に刺さる痛みを感じるかもしれません。しかし、もしあなたが悔い改めの心を持ち、間違いから直りたいと思うなら、それは愛の鞭と言えるの ではないでしょうか。間違いは正されますが、神の愛と慈しみによる正され方があるのです。あなたは信じないもののように怒りの鉄拳を感じるのではなく、神 の慈しみ深い御手による薫陶を受けるのです。

 もしかしたら、あなたは過去の間違いによって苦しんでいるかもしれません。沢山の女性たちが、神様がその人ではないと戒めたにもかかわらず結婚し て苦しんでいます。若者たちは道を誤り、親の心を痛めています。こんなことが繰り返し行われるのは、罪や妥協の根があったからです。

 そしてあなたがどん底に落ちたと知る時、砕かれ、悔い、信仰によって主を求める時、そして聖霊の力の新たな注ぎを受ける時です。それはあなたの内から霊的力が溢れ、リフレッシュされる時です。

 あなたが神を叫ぶ時、神はあなたに力を注ぎます。「私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私の魂に力を与えて強くされました。。。。。たといわ たしが悩みの中を歩いても、あなたはわたしを生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。主は 私にかかわるすべてのことを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。」(詩篇 138:3 7-8)

 クリスチャンにとって最も受け入れ難いことは正しい人が苦しむ事です。キリストがこの世に来られるまで、ユダヤ人は信仰深い事と健康や成功を関連 付けていました。彼らはあなたが裕福であり、健康である事は、神があなたのよい行いに満足しているから祝福されると信じていました。ですから、イエス様が 弟子達に「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい。」といった時、弟子たちは「では、だれが救われることができ るのだろう?」(マタイ19:24-25) と反応をしたのです。

 同じように、今、世間で苦しみを受けない契約を神と結んでいて、必要な時に神を呼べば、全てが解決すると言っている間違った神学があります。しか しこれは福音とは言えません。ヘブル11章の信仰の偉人たちは神と共に歩みましたが、彼らは石打され、罵られ、拷問され、殺されました。(ヘブル 11:36-38)パウロ自身も神と共に歩みましたが、難破し、石打され、鞭打たれ、捨てられ、監獄に入れられ、迫害されました。彼は全てをなくす苦しみ を受けました。何故でしょうか。これらは全て、神の栄光に対する信仰が試され、清められる為に必要なものだったからです。

 神様は試みを通して私達の心に何かを植えつけようとされています。神は私たちがこう告白するのを望んでいます。「主イエス様、あなたは私を守り、 全てを司る事を信じます。何かが私に起きるのはあなたが許されていて、その御旨を信じます。あなたが私に知らしめ、受けさせようとする教えを解るように助 けて下さい。もし、私が義に立ち、心に神の喜びがあり、私の生きるも死ぬも神に栄光を帰すでしょう。あなたは、私の有限な心では理解できない神の御旨と備 えられている栄光があると信じます。私は、私が生きるも死ぬも、私はあなたのものと告白します。」

2010年10月20日水曜日

神様が思いがけないことを私におっしゃいました。

ある晩、祈りの会で神様は私に私達の教会について思いがけない事を言われました。主は私に「教会は今ショック療法が必要です。多くの人は現状に満足 して安住しています。今世で流行っている偽りの神学の波や風から閉ざされ、安全だと思っています。しかし、あなた方はやがて来るものについて備えられてい ません。」と言われました。

愛する皆さん、あなたに内に働く御霊の証しは、あなたが取捨選択するのもではありません。あなたの命がかかっているのです。終りの日に聖霊の証を内に持たないのなら、生き残れません。あなたはアンチクライストの霊に屈服するでしょう。

あなたは聖霊の証が、職場でも、働く時でも、学校でも常に必要です。指導者や政治家を正しく見極めてください。敵キリストの制度に気がついたら組み込まれないためにです。
 
これはイエス様が「灯火の油を持たなかった愚かな乙女」の例えで言いたかったことです。彼らは聖霊を持っていましたが、時が来たときにはその証はなくなっていました。

油が足りなくなっているなら愚かな乙女たちのように、教会やあなたの牧師があなたの魂を保ってくれると思うようにならないで下さい。そして現状を悔 い改め、自分を謙り、心を探ってください。自分の魂に潜む全ての怒りや苦き根を神様が取り除く事を願い、自分の罪を告白し、その罪から離れて下さい。神に 今一度全てを頼るのです。

 神の平安を得て、聖霊の証を内に持ってください。御父にもっと大きな御霊の祝福を願い、あなたの証となり、全ての導きとなるように招いてくださ い。私たちがイエス様の道に全く従うには、値を支払わなければなりませんが、同時に酬いもあるのです。キリストと共に立つ事は、祝福以外ほかにありませ ん。それに益して他の酬い(マタイ19:29)もありますが、この共に立つと言う祝福以外に何が私たちに必要でしょうか。
 
使徒パウロが エルサレムで獄に繋がれた時、時の権力を持っている宗教指導者は彼を殺そうとしました。彼らは使徒パウロが聖所を汚し、偽りを伝播すると訴えました。彼の 命は危うく、ローマの兵士でさえ「パウロが彼らに引き裂かれる」と思ったほどです。だから、彼らはパウロを引きずり出し、城に監禁しました。翌晩、主はパ ウロにこんな事を仰いました。「喜びなさい。もっと問題が沢山おきる」

イエス様に従う値は神の人の人生において明らかにされています。-私たちが主のようになりたいと思っているのであれば、その値も受け入れるべきで す。その値を耐えることはやがて喜びとなります。イエス様がどのような時も私たちと共に居られる事を知ることができるからです。その値を超えるイエスキリ ストの尊い臨在があなたの報いとして与えられることを皆さんは知るべきです。

2010年9月14日火曜日

巧妙な戦士

何か私達に敵対することが起きると、神様の憐れみが私達の内に流れ込みます。一本の木が、強い嵐に吹き付けられるとどうなるか、想 像してみて下さい。猛風によって、根こそぎ飛んで行ってしまいそうになります。枝は折れ、葉は散ってしまいます。根は引きちぎられ、芽はもぎ取られます。 そして嵐が去った後その木は、絶望的な姿になってしまいます。

しかし、近づいてよく見てみましょう。同じ嵐によって、周りの地面が掘り起こされて、根が張りやすくなりました。その木は、水と栄養を確保するため の、新たな道を発見したのです。そして古く死んでいた枝は、捨て去られました。芽はもぎ取られてしまったかも知れませんが、すぐに新芽が元気に顔を出すで しょう。その木は嵐によって強くされ、目に見えない形で成長を遂げたのです。収穫の時になれば、その木は多くの実を結ぶでしょう。

あなたは今、嵐の中にいらっしゃるかも知れません。猛風が吹き付け、あなたを激しく揺さぶるので、「もう倒れてしまうかも知れない」と思っておられ るかも知れません。愛する皆さん、慌てないで下さい。その様な嵐の中にあって、あなたは霊的な根をしっかり張ろうとしているのだと、気付いて下さい。あな たを砕き、罪に対する嘆き悲しみを増し、神様の義に対する飢えを強めようと、神様があなたを成長させておられるのです。

神様はあなたを、戦いを恐れていながらも、巧妙で勇敢な十字架の戦士として整えておられるのです。あなたは時に、自分に失望してしまうことがあるか も知れませんが、主はあなたに対して、決して失望されません。事実、神様は望まれるならば、あなたを困難の中から簡単に抜き出すことがお出来になります。 しかし神様はそうなされません。なぜなら困難によって、あなたの内に、神様に対する飢え渇きが強められていると御存知だからです。

ローマ人への手紙5章3節は、こう語っています、「苦難は忍耐を生み出します。」ここで使われている「生み出す」という言葉は、“完成する”という意味があります。

第二コリント人への手紙4章17節に、「わたしたちの一時の軽い困難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」と記されています。ここで使われている「もたらす」という言葉は、ローマ人への手紙5章3節で使われているのと同じ言葉です。

2010年9月13日月曜日

霊的成長について、すべてのクリスチャンが知るべきこと

「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。」(第二テサロニケ人への手紙1:3)

パウロによる何と素晴らしい、テサロニケのクリスチャン達に対する賞賛でしょうか。ここでパウロが言っていることを、要約してみましょう。それは、 「キリストにある信仰と、お互いに対する愛、その両方において、あなたがたがどれだけ成長したかを見ることは、本当に素晴らしい。どこにいっても、私はあ なたがたの霊的成長を自慢しているのです。あなたがたのことを、ただ神様に感謝します」ということです。

この短い聖句の中で、パウロは私達に、愛と一致とにおいて成長しているキリストの体について、驚くべきイメージを与えてくれています。パウロが用い ている「大いなる成長」という言葉は、ギリシア語で「他を超えて、さらに成長する」という意味があります。個人的にも集団的にも、テサロニケの信者の信仰 と愛は、他の教会のそれを、はるかに超えていたのです。

もちろんテサロニケのクリスチャン達は、イエス様が再び来られるまで、ただ自分達の信仰にしがみついているだけではありませんでした。彼らは学び、 動き、成長していたのです。そして彼らの人生が、その事実を証明しています。パウロによると、彼らの噂は、アジアの教会中に広まっていたということです。

察するに、彼らが聞いていたメッセージは、さらに深くキリストと歩みたいという思いを、彼らの内に起こさせていたのでしょう。それは彼らの肉の野望 を溶かし、キリストらしくない習慣に気付かせました。そして彼らの内におられる聖霊が、民族や人種の壁を打ち壊してくださいました。彼らは、金持ちも貧し い人も、教育を受けた人もそうでない人も、どんな人でも受け入れる術を発見しました。そして愛の内に、お互いのことを思いやり合ったのです。

もしあなたが神様の御言葉によって養われるなら、人生において必ず継続して、霊的に成長していくはずです。そしてそれは自動的に起こるものなのです。

私の教会に集われる方が全員、テサロニケの教会についてパウロが語った様な「大いなる成長」をしているか、明言出来ません。しかし、それは多くの方 について当てはまることだ、と言うことが出来ます。なぜなら、油注がれた真の神様の御言葉がメッセージとして語られるなら、それは必ず成長を促すからで す。また使徒パウロは、真の御言葉の乳を望む者は、必ず成長すると言っています。

パウロは私達の霊の成長が、聖霊の働きであると説明しています。聖霊は常に働いておられ、私達を栄光から栄光へと変えておられる、とパウロは言いま す。御霊は絶えず私達の思いを新たにし、肉を正し、私達の内なる人に純粋さをもたらそうとしておられます。また私達の心の内で、怒り、苦い思い、恨み等、 すべての悪しき思いを消し去るべく、働いておられます。そして御霊は、私達の内に親切、柔和、お互いを許す心を実らせてくださいます。聖霊は、私達をキリ ストの内に、成長させてくださるのです。私達が主の御名にふさわしい言動を行うよう、教えてくださっているのです。

さらにパウロは、こう私達に勧めています。「だれでも、自分をよく確かめなさい。」(第一コリント人への手紙11:28)ここで使われている“確か める”という言葉は、ギリシア語で「綿密に検査する、試みる」という意味があります。パウロは「自分が神様の御言葉通り歩めているか、試してみなさい」と 言っているのです。私達は常に「変わっているだろうか。もっと愛と柔和とに満ちることが出来ているだろうか。家族や友人を、尊敬をもって接することが出来 ているだろうか。私の会話が、もっと正しいものとなっているだろうか」と自問する必要があるのです。

2010年9月10日金曜日

目に見えない成長

クリスチャンの中には、自分の霊的成長を語ることの出来る人達がいます。そしてあなた自身も、彼らの人生にはっきりとした変化を見ることが出来ます。その人達は、いかに聖霊が彼らの敵を打ち倒されたかを証しし、あなたも彼らの勝利を共に祝って喜びます。

しかしこの様なクリスチャンは、特例です。ほとんどのクリスチャンは、自分達の人生に霊的な成長を見ることが出来ません。彼らは祈り、聖書を読み、心から主を求めます。霊的な成長を妨げるものは、何もないのです。

しかし彼らは、自分達でその成長を見ることが出来ないのです。私がこのタイプのクリスチャンの一例です。私は、キリストの義の内に歩んでいるという 自覚がありますが、成長していると感じたことがありません。事実、時折私はクリスチャンらしかぬ言動をしてしまっては、自分を責めてしまいます。その様な 時、「私はクリスチャンになって何年も経つのに、どうして学ぶことが出来ないのだろう」と思ってしまいます。

おそらくテサロニケのクリスチャン達は、パウロが彼らを賞賛した時、非常に驚いたことと思います。(第二テサロニケ人への手紙1:3参照)彼らはきっと「私が大いに成長しているって?パウロは寝ぼけているに違いない」と思ったことでしょう。

しかしパウロは、霊の成長が隠され、秘めた所で行われるもとだと知っていました。聖書はそれを、観察することの出来ない、花や木の成長と同じ様なも のだ、と言っています。「露のようにわたしはイスラエルに臨み、彼はゆりのように花咲き、レバノンの杉のように根を張る。その若枝は広がり、オリーブのよ うに美しく、レバノンの杉のように香る。」(ホセア書14:6〜7)

神様は私達に、こう語っておられます。「ゆりを見てごらんなさい。その成長を目で見てみなさい。その日の終わりが来ても、肉眼では何の変化も見られ ないはずだ。しかし、わたしが露によって、毎朝そのゆりに水をやっている。だからそれは必ず成長するのだ」と。これと同じことが、霊の成長にも言えます。 それは肉眼で、見ることは出来ません。

人々の中には、救われてから、過去の罪にまったく左右されない方がいます。その人達は、「イエス様を受け入れた瞬間から、主が誘惑を取り去ってくだ さいました。その時から完全に私は、その罪から解放されています」と、証しします。私は、多くの元薬物依存症の人達が、この様な経験をしているのを知って います。

しかし大半のクリスチャンにとって、これは彼らの証しとは異なります。イエス様を受け入れてから何年経っても、昔の悪習慣が戻ってきます。それは、 彼ら自身も忌み嫌い、二度と欲しくも見たくもないと思っていることです。しかしどれ程苦しんでも、最後の思いは消え去りません。時が経つにつれ、彼らは失 望してしまいます。彼らの魂は、「主よ、いつまで苦しめばなりませんか。いつになったら、この鎖は解き放たれますか」と叫びます。さらに悪魔がいつしか やってきて、「そのことから解放されることは不可能だ。こんな状況下にいて、お前が霊的に成長することなど出来ない」と語ります。

皆さん、勇気を出して下さい。良い知らせがあります。あなたはこれらの苦しみにあっても、その最中で成長しておられるのです。実際、あなたはその苦しみ故に、成長しておられるのかも知れません。

安心して下さい。もしあなたの内に、神様に対する畏れがあるなら、あなたは嵐の中から、より力強くなって、出て来ることが出来るでしょう。あなたは 敵と戦う時に、神様の力と憐れみの全てを呼び求める訓練をしているのです。そして弱さを覚えていたとしても、その力と憐れみが、あなたを強めてくださいま す。第一に、あなたは切羽詰まって祈ることを覚えます。第二に、あなたのプライドは、完全にはがされてしまいます。ですから実は嵐によって、あなたの人生 のすべての面に、霊的な防御壁が立てられるのです。

2010年9月9日木曜日

神様の愛を知り、信じ、信頼し続けなさい

霊にあって陶酔し、困難にも試練にも遭わずにいるのなら、誰でも喜び続けることが出来ます。しかし神様は、どんな時でも、特に試みにある時にこそ、私達が神様の愛の内に留まる様、望んでおられるのです。

使徒ヨハネは、どの様に神様の愛に留まればよいのかを、とても明白に語ってくれています。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信 じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(第一ヨハネによる手紙4:16)一言で言え ば、もし私達が神様の愛に留まるなら、私達は神様の内に留まることが出来るということです。

ここで使われている“留まる”という言葉は、「待ち望む状態にいる」という意味があります。言い換えれば、神様は私達に、神様の愛が日々新たにされ るということを、待ち望んで欲しいということです。私達は毎日、神様が私達を愛し、そして愛し続けてくださるのだ、ということを知りながら生きる必要があ ります。

現実的には、私達のほとんどが、自分の感情が上下するのに合わせて、神様の愛に近づいたり遠ざかったりしてしまいます。何か良いことをした時だけ、 神様の愛の内にいて良いのだと感じてしまいます。しかし私達が試練や困難にある時、また神様の御心に反したことをしてしまった時は、神様の愛を疑ってしま います。しかしその様な時こそ、神様の愛に頼るべき時なのです。これらの聖句を通して、神様は私達にこう語られています。「あなたがどの様な試練に直面し ようと、あなたに対するわたしの愛を、決して疑ってはなりません。もし進んでわたしの愛に信頼を置くなら、わたしがあなたに望む、その通りの生き方をして いることになるのです」と。

エレミヤ書31章は、素晴らしい神様の愛を記しています。イスラエルは背信の時代にありました。人々は肥え太り、富に溢れ、ありとあらゆる悪に手を染めていました。

すると突然、彼らの欲が苦みに変わりました。彼らは、五感を満足させることに対する喜びを失ってしまったのです。彼らは叫びました、「主よ、私達は 道を失ってしまいました。方向転換をするために、あなたが必要です」と。神様は、彼らのこの悔い改めの叫びを聞かれ、愛に溢れた神様の心が、彼らの元へと 飛んで行きました。神様は民を、杖と教えとによって懲らしめられました。そしてイスラエルは「あなたはわたしを懲らしめられました。どうかわたしを立ち帰 らせてください。わたしは立ち帰ります。わたしは背きましたが、後悔し、思い知らされ、悔い改めました」と叫びました。(エレミヤ書31:18〜19より 抜粋)

ここでの神様の御言葉に、耳を傾けて下さい。「彼を退けるたびに、わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられない。」(20節)「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。」(3節)

これこそ、神様の愛について、あなたが知るべきことです。神様はその民に、「わたしはあなたを懲らしめ、厳しい真実の言葉を語らねばならなかった。 しかしそれでもあなたは、わたしが注いだ恵みと慈しみにも関わらず、わたしに対して罪を犯した。わたしの愛に背き、わたしを拒絶した。それでもなお、わた しの憐れみに満ちた心は、あなたに対して動き、苦しみにあるあなたを顧みる。そしてあなたに憐れみを注ぐ。わたしはあなたを赦し、完全に癒す」と言われる のです。

2010年9月8日水曜日

栄光のうちに歩む

困難の時を受け入れ難くさせている理由の一つは、神様の栄光に関する理解にあります。あなたは「その様なことは非常に崇高で、神学 者に任せた方が良い題材だ」と思われるかも知れません。しかし神様の栄光は、すべての信者にとって、非常にリアルで実践的な価値を持っていると、私は確信 しています。それを理解することによって、人生に打ち勝つ扉の鍵を開け放つことが出来ます。

神様の栄光は、主の存在と神性を現すものです。旧約聖書でモーセが神様の栄光を垣間見たことを、覚えておられるかも知れません。それまで、主は「わ たしはある」という言葉の他、御自身について何も語られずにモーセを遣わされました。しかしモーセは、神様についてもっと知りたいと願いました。ですから 彼は、「主よ、あなたの栄光を見させて下さい」と主に請うたのです。

神様はモーセを岩の隙間に隠すことで、この要求に応えました。そして聖書は、神様がモーセに御自身の栄光のすべてを現された、と記しています。(出 エジプト記34:6〜7参照)神様は私達に、御自身の人類に対する偉大なその愛を通して、その栄光を知って欲しいと望んでおられます。そしてそれこそ、神 様がモーセに現された方法です。

この箇所は、主がどの様な方であるか、私達が理解する上での要となる箇所だと思います。神様の栄光について考える時、私達はよく、神様の尊厳や威 光、力や権力など、神様が民に対して現されているものを思い浮かべます。これらのすべては、神様の栄光を見た結果と言えるでしょう。しかし、それらは神様 が私達に知っていて欲しいと望まれる、神様の栄光の姿ではないのです。主は、私達にその愛を示し、私達を赦し、憐れみを注ぎ、御自身と和解させることを、 永遠に待ち望んでおられるのです。

神様の栄光の現れは、それを受ける者や、その理解を祈り求める者に対して、非常に強い影響をもたらします。その時までモーセは、主を「律法と怒りの 神」としてしか見ていませんでした。彼は主の臨在にあって畏れに身を震わせ、イスラエルのために主に泣き叫び、請い求めました。これが彼にとっての、主と の関係の土台となっていました。

しかし神様の栄光を垣間見た今、モーセの主に対する恐れは消え去りました。その代わり、主を礼拝する様に、心動かされたのです。「モーセは急いで地 にひざまずき、ひれ伏した。」(出エジプト記34:8)彼は神様が、ただ彼を震え上がらせる恐ろしい雷や稲妻の様な方ではないと知ったのです。実際はその 反対で、神様は愛であり、その神性は憐れみと優しさに満ちたものだったと気付いたのです。

ここで聖書が示している、素晴らしい真理を理解することが出来ますか。真の礼拝は、何の見返りも顧みない、神様の私達への愛によって揺り動かされた 心から、湧き上がってくるものなのです。それは神様が御自身を、その良さを、憐れみを、赦しを、私達に与えてくださるのだ、という悟りに基づいています。 ですからもし私達が神様を、霊と真とによって礼拝するのなら、私達の礼拝は、この素晴らしい真実に基づくものでなければなりません。

神様の栄光を受け取ったなら、私達の礼拝は絶対に変わります。何故でしょうか。それは神様の栄光を見ることで、私達の生き方が変わるからです。それ は私達の態度や行動に影響をもたらし、私達を「栄光から栄光」へと造り変えて、さらに主に似る者としてくださいます。神様の愛と憐れみが現されるその度 に、それは私達に、超自然的な変化をもたらすのです。

2010年9月7日火曜日

キリストを通して与えられる神の愛

ヨハネによると、神様の愛のすべてがイエス様の内に宿っているということです。ヨハネはこう記しています。「わたしたちは皆、この 方の満ち溢れる豊かさの中から受けた。」(ヨハネによる福音書1:16)ではどの様にして、私達は御父の愛を受けたのでしょう。それは、キリストの内にい ることによってです。

あなたは、キリストを通して神様の愛が与えられると知ることが、なぜそんなに大切なのだろう、と思われるかも知れません。それが私達の日常生活と、どう関わりがあるのだろうか、と。

どうやって神様の愛が、私達の日々の生活に影響をもたらすのでしょうか。その答えは、キリストの内に見つけなければなりません。なぜならイエス様は すでに、御父が御子を愛された様に、私達をも愛してくださる、と語ってくださいました。ですから、御父の愛がどの様に、イエス様の生活に影響をもたらして いたか、を見れば良いということです。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(第一ヨハネによる手紙3:16) ここにイエス様の内にある、神様の愛の実が見られます。イエス様は御自身を、他の者のためのいけにえとして献げられたのです。この聖句の後半部分は、私達 の人生における神様の愛の目的を記しています。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」神様の愛は、私達も自分の体を生けるいけにえと して献げる様、導いておられるのです。

兄弟・姉妹のために、本当に命を捨てるということがどういうことか、考えたことがありますか。ヨハネは、異国の地において殉教者になることを、話し ているのではありません。臓器提供者となることを、話している訳でもありません。また死刑囚の代わりに、刑を受けることを話している訳でもありません。キ リストだけが、その様ないけにえを献げられるのです。そうではなく、兄弟・姉妹に命と希望を与えられるクリスチャンとは、死んでいる者だけです。それはこ の世に、すなわち、プライドや野望等、自分に完全に死んだ僕ということです。

この“死んだ”クリスチャンは、聖霊がその人の魂の在庫確認をすることを許している人です。その人は自分の心に残っている、汚いもの、神様のもので ないものを見ます。そして神様の御元に行き、「主よ、私を焼き尽くして下さい。すべて取り去って下さい」と、叫ぶのです。その人はキリストの血潮によって 聖められなければ、他の兄弟・姉妹のために命を捨てることが出来ないと知っているのです。

2010年9月6日月曜日

神様の愛

最近になって私は、聖霊により揺り動かされ、この聖句へと導かれました。「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよ りどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れ みを待ち望みなさい。」(ユダによる手紙20〜21)この箇所を読みながら、私は御霊がこう囁かれるのを聞きました。「ディビッド、あなたはわたしの完全 なる喜びと愛を、まだ経験していない。神学的にはよく理解しているが、その快感とわたしの愛のうちに留まることの平安を体験していない。今まであなたが経 験してきたものは、足首までのもの。しかし実際は、あなたの目の前に、自由に泳ぐことの出来る、わたしの愛の大海原が広がっているのだ」と。

聖書は、神様の愛についての真実で満ちています。しかし時折私は、神様がなぜ自分の様な者を愛されるだろうか、と思ってしまいます。決して神様の愛 を疑っている訳ではありません。それは逆に私自身の問題で、神様の私に対する愛を完全に知り尽くし、信じ尽くしていないのです。

私達が神様を信じる時、神様の愛の一部が明らかにされます。もしクリスチャンに、神様の愛について何を知っているか尋ねるなら、その多くは「私のた めに御子を遣わし、死んでくださったことで、神様の愛が分かります」と答えるでしょう。ヨハネによる福音書の3章16節を引用するでしょう。「神は、その 独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

この真実を噛み締める瞬間とは、本当に素晴らしいものです。あなたは突然、「神様は、私が迷子で他人としてさまよっていた時から、私を愛していてく ださったのだ。そして私のために、御自身の独り子をいけにえとされたことで、私への愛を示してくださったのだ」とことを悟ります。

しかし、一握りのクリスチャンだけが、神様の愛に留まることを学びます。主に対する愛について、少しは知っていますが、神様の私達への愛を追求する ことをあまりしません。事実、もしクリスチャン達に「神様の愛が書かれている、聖書の箇所を教えて下さい」と尋ねても、おそらく数カ所しか思い浮かべるこ とが出来ないでしょう。しかし、神様の愛を知ることこそ、人生に打ち勝つ秘訣なのです。多くの人は、神様の愛を知らないために、霊的に冷めきり怠惰になっ てしまいます。彼らは、サタンに対する最大の武器が、聖霊の解き明かしにより、神様の愛を完全に知ることだと知らないのです。

イエス様は地上での最後の祈りの中で、こう言われました。「父よ、あなたは天地創造の前からわたしを愛してくださいました。」(ヨハネによる福音書 17:24)これは何と素晴らしいことでしょう。キリストは創造の前より、父によってひたすらに愛されていたのです。 そしてイエス様は、次の偉大な祈りを捧げました。「父よ、あなたが私を愛しておられたように、彼らをも愛しておられます。」(21、23節)またこの様に も祈られました。「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるように。」(26節)キリストは「父よ、あなたがわたしを愛された ように、わたしの体の内に集める者達を、あなたが愛してくださると知っています」と言っておられるのです。

ここに秘められたメッセージは、御父は永遠の昔よりイエス様を愛しておられ、私達をも同じ様に愛されたということです。事実、御父の永遠の思いの中 に、考えとして人間のことが浮かんでいた頃から、主はすでに私達の詳細を知り、救いの計画を立てておられたのです。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛 して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エペソ人への手紙1:4)

神様はどれ程長い間、あなたを愛してこられたのでしょうか。神様が存在されてからずっとです。なぜなら、神は愛だからです。愛することこそ、神様の 性質なのです。神様は、あなたを罪人として愛されました。神様は、あなたが胎にいる時から愛されました。神様は、世界が生まれる前からあなたを愛されまし た。あなたに対する神様の愛は、始まりがありません。そしてそれには終わりもないのです。

神様はいつ、あなたを愛することを止められるでしょうか。それは神様が、御子を愛されるのを止められる時です。そしてそんなことは、絶対にあり得ま せん。キリストはこう語っておられます。「イエスは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネによる福音書13:1)

2010年9月3日金曜日

神様の愛に留まりなさい

数年前、神様は私の心の内に、ロングアイランドで、少年の家を始めなさいという思いを植えられました。この働きに関して私は、強い 主の導きを感じました。しかし、そのたった18ヶ月後に、州が少年の家運営に関する厳しい制令を下し、私達はその家を閉鎖するしかありませんでした。

その短い運営期間中、私達は4人の少年をお世話しました。少年の家が閉鎖されてから、彼らとは音信不通になっていました。私はよく、この少年の家事 業のことを思い出しては、それが最大の失敗であったと思っていました。30年以上もの間、なぜ神様が私にその事業を進めることを許されたのか、分からない でいました。

しかし最近になって、私はクリフォードという名前の男性から、一通の手紙を受け取りました。その手紙の中で、彼は次の様なことを語ってくれました。

「ディビッド兄弟、私はロングアイランドの少年の家に送られた、4人の少年の一人です。そこでの寮母・父さん達は、とても親切で優しい方々でした。 私達に聖書を教え、教会へ連れて行って下さいました。ある日、彼らは私達を、リバイバル集会が行われている教会へ連れ行って下さいました。その時の私は、 非常に苦々しい思いで一杯でした。しかしその教会で、聖霊様が私の心に触れ始められたのです。私はメッセンジャーが『イエス様はあなたを愛しています』と 言うのを耳にしました。長年の痛み、迷い、絶望感が露にされました。私はひざまずき、祈りました。それは35年前のことです。今、神様は私を説教者して召 され、フルタイムの奉仕者となるよう、導いてくださっています。この感謝の気持ちは、この間ずっと、私の中で温められていました。私の面倒を見て下さっ て、本当にありがとうございました。神様の愛とは何か、知ることが出来ました。」

この手紙は、私達がキリストのために行うことは全て、決して無駄になることはないのだと証明してくれます。あの少年の家は、失敗ではなかったのです。なぜなら一人の失われた、さまようユダヤ人の少年が、神様の愛の意味を見つけることが出来たからです。

2010年9月2日木曜日

サタンの巧みな業

「アッシリアの王は、ラブ・シャケを大軍と共にヒゼキヤ王のいるエルサレムに遣わした。」(列王記下18:17)アッシリアは、今 日の「繁栄への手引き」を象徴しています。悪魔はあなたの城壁の周りを、力強い者、美しい者、またすべてにおいて成功を収めているように見える者を率い て、練り歩きます。その者たちを目にする時、あなたは囚人であるかのように意気消沈してしまします。

罪にある者からの最初の罠とは、信者の完全なる主への信頼を疑うことです。王の遣いであったラブ・シャケという名前は、「酔いつぶれた遣い」という 意味があります。彼は主を信じる人々を嘲りました。(列王記下18:19〜20参照)彼の言い分は、「神はお前たちをこの混乱から救い出さない。お前たち はただ、滅びるだけだ。大変な危機にあっても、お前達の信仰など、何の役にも立ちやしない」ということでした。

サタンは、さらにこれに一ひねり加えました。サタンはあなたに、神様がこれらすべての困難の背後にいるのだと囁きます。アッシリアの使者は、こう叫 びました。「わたしは今、主とかかわりなくこの所を滅ぼしに来たのだろうか。主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになった のだ」と。(列王記下18:25)サタンは、神様があなたに仕返しをし、あなたに怒りを覚えていらっしゃると信じ込ませたいのです。これこそ、サタンの狡 猾な偽りです。サタンは神様があなたを見捨て、困難と悲しみの中に突き落とされたのだと、あなたに信じ込ませようとしているのです。すべての問題は、あな たの過去の罪に対する神様からの懲らしめなのだと、信じ込ませたいのです。それを信じてはなりません。それはあなたを滅ぼそうとする、サタンの企みです。

私達の主は、救い主であり、守り主です。イザヤはこう語っています、救い主が来られるのは、「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶ らせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ばれる」と。(イ ザヤ書61:3)

愛する聖徒の皆さん、あなたは滅びに向かってなどいません。あなたの心が本当に主に向けられているからこそ、あなたは攻撃を受け、敵の偽りに惑わされているだけなのです。サタンは神様へのあなたの信仰を、打ち砕こうとしているのです。

2010年9月1日水曜日

戦いへの招き

「また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍してくる敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、 まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち 物を一切捨てなければ、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカによる福音書14:31〜33)

エノクはこう、預言しました。「見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。」(ユダの手紙14)聖書は、私達が主のための王や祭司で あり、サタンとの戦いへ行く何十万もの人々を率いるのだと記しています。サタンが私達に敵対するのは、私達をひたすらに憎んでいるからです。(黙示録 12:17参照)

これから来ることについて、私達は準備を整えねばなりません。霊の戦いが起こり、神様の民に対して、悪の洪水が押し寄せることを覚悟しなければなり ません。もし私達が、キリストを知る決意を固めるなら、キリストにあって、私達は絶対に打ち負かされることがないのだと、知る必要があります。聖書はこの 様に記しています。「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」(第一ヨハネの手紙4:4)神様は私達が、敵のどの様な力にも必ず 勝利すると、保証してくださっています。すべての天の大軍が、私達のために戦ってくださっているからです。

神様がさらに聖霊を私達に与え、全地と地獄の群れに対して、私達一人ひとりがこう叫ぶことの出来るように祈ります。「だれが、キリストの愛からわた したちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。しかし、これらのすべてのことにおいて、わたしたちは、わ たしたちを愛してくださる方によって、輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものの、現在のものも、未来の ものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わた したちを引き離すことはできないのです。」(ローマ人への手紙8:35、37〜39)

これこそ、イエス様を飢え求める者の上げる、ときの声なのです。

神様にあるすべての男女は、キリストに対しての生けるいけにえとなろうと決心した時から、地獄の悪しき企みの標的となります。信仰による聖い歩みをしようと心に決めている者に対して、地獄の群れが放たれます。

あなたが、サタンの偽りに満ちた計画を危ぶませるものとなったため、サタンはあなたを攻撃し、その道に障害物を置くでしょう。あなたは不戦敗し、諦め、いい加減で、実を結ばずにさまよう者となる道を選択することが出来ます。

でも私は、悪魔の計画に反旗を翻し、信仰によって立ち上がり、戦うことを選びます。サタンは完全に主に信頼をおく者を、押さえつけておくことが出来ないのです。

2010年8月31日火曜日

完成させること

「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしない と、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することは出来なかった』と言うだろう。」(ルカによる福 音書14:28〜30)

キリストは、彼に従う者の多くが、完成するに必要なものを持っていないことを知っていました。彼らが背を向け、レースを完走することがないと知って いました。キリストを知り、成熟した弟子となり、もっとキリストに似る者とされようという、完全なる志をもって始めながら、途中で離れて行ってしまうこと ほど、信者にとって悲劇的なことはありません。その様な人は、最初に費用を計算しなかったので、土台を築きながらも完成出来なかった人です。

実際にレースを完走した人達と会うことは、何と素晴らしいことでしょうか。これらの信者は、キリストの知恵と知識に満ちています。彼らは日々、瞬間 毎に、変えられています。パウロは彼らに、励ましの言葉を述べています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄 光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(第二コリント人への手紙3:18)彼らが望むのは天国では なく、栄光に満ちたキリストの御姿なのです。

このディボーションを読まれておられる方の中には、信仰の歩みにおいて一時休止していたり、後戻りしたりしておられる方がおられるかも知れません。 それは小さなステップの様に見えるかも知れませんが、神様の愛から大きく離れる原因になってしまいます。もしこれがあなたに当てはまることでしたら、聖霊 があなたを引き戻そうとされておられることに、気づいてください。悔い改め、自分に死に、完全に委ねることへと。そしてこの瞬間、時というものが重要な役 割を果たします。もしキリストを知りたいと思われるなら、今、そうして下さい。そして、完成させて下さい。

2010年8月30日月曜日

愛と憎しみ

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(ルカによる福音書14:26)

ギリシア語で「憎む」とは、“比較的に言って、少しの愛を注ぐ”という意味があります。イエス様は、この世のものいかなるものが、主への愛とは比較出来なくなるほど、 私達にイエス様だけを絶対的に強く愛するよう、呼びかけておられるのです。

考えてみて下さい。主の麗しい臨在に入り、何も求めなくてよいことが、どういうことか、私達に想像出来るでしょうか。ただ感謝の意から主に手を差し伸べ、主から完全に愛されるということが、想像出来るでしょうか。

私達は祈りにおいて、自己中心的かつ自分勝手になってしまいました。「これを下さい、来て下さい、祝福して下さい、用いて下さい、守って下さい」等 々と。これらの祈りはすべて、聖書に基づくものかも知れませんが、それでもその焦点は、私達に当てられています。主に対する働きでさえ、自分勝手なものに なっています。主への働きが祝福され、自分の信仰が本物であると証明される様、望んでいるからです。主は、私達がどれほど主のために働くかより、主にあっ てどの様な者にされていくかに興味を抱かれています。

これを読んでいる方の中で、ミニストリーの扉が閉ざされ、心を痛めておられる方がいらっしゃるかも知れません。自分は物置にしまわれてしまった、と 感じておられるかも知れません。またある方は、必要を覚えている宣教地で働くことで、さらに神様の役に立てると思っておられるかも知れません。しかし、隠 れた場所で祈ることで神様に愛を示すこと程、神様の役に立つことはないと、私は思います。私達が主を求める時、また神様を知るために御言葉を探り続ける 時、私達は一番役に立っているのです。どんな働きをするよりも、ただ神様と二人っきりで交わることが、神様を祝福し喜ばせます。神様が私達に働きを委ねよ うとされる時は、それが近くであっても遠くであっても、神様との交わりから自然に生まれます。神様にとって、私達が世界を勝ち得るよりも、私達自身の心が 完全に神様に向けられていることの方が、もっと大切なのです。

魂を得る働きを見下している訳ではなく、すべての霊的に祝福された宣教は、神様との交わりから生まれると、言いたいのです。常に祈りにあって主と共にいる証し者は、知恵と、絶好の機会と、神様の御心を行うための力が与えられています。

2010年8月27日金曜日

主の食卓

ある古いゴスペルソングが、私にとって、非常に奥深い意味を持っています。その歌詞は「イエス様は食卓を備えられている。それは神様の聖徒らが食する所。選ばれた神の人々が来て楽しむ。」

何て素晴らしい考えでしょう。主は従う者達に、天国で食卓を備えてくださっているのです。イエス様は、弟子達にこう言われました。「わたしの父がわ たしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、私の国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座 に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(ルカによる福音書22:29〜30)主への飢えを覚えるとは、信仰によって、私達もこの食事の座に 着くということです。

使徒パウロが「過越祭を祝い続けようではありませんか」(第一コリント人への手紙 5:8)と命じるのは、私達のために、天国においてキリストと共に、王の食事の席が備えられているということを、私達が明確に理解するためです。パウロは こう言っています、「必ず出席しなさい。あなたの席が空席になっているとは、言わせてはなりません」と。

しかし残念なのは、イエス・キリストの教会が、この「祭りを祝い続ける」ということの意味を理解していないということです。私達は、キリストによっ て引き上げられた後、御国で彼と共に座することの名誉と素晴らしさを、理解することが出来ません。私達は、食卓に着くことで、精一杯になっています。正餐 よりも、仕えることで霊的な喜びを得るよう、私達は勘違いを犯してしまっています。私達は、もっともっと主のために働く一方で、もっともっと、主御自身を 知らなくなっています。主のために、私達の心も体も酷使しながら、ほとんど祭りをお祝いしません。

天国において主が、その僕や、牧師や、羊飼い達から、他のことよりもただ一つ求められることとは、主の食卓に共に座することです。この食卓は、霊的 な交わりを持つためのもので、毎日備えられています。「祭りをお祝いする」とは、食べ物と、力と、知恵と、交わりを求めて、主の元に継続的にやって来ると いうことです。

十字架の後、すべての霊的な偉人達には、一つの共通点がありました。彼らは主の食卓の座を畏れたのです。彼らはキリストの偉大さに、我を失っていました。彼らは皆、亡くなる時に、自分達がいかに、まだキリストとその生涯のことをよく知らないでいるかを嘆きました。

私達が今日描いている、キリストのビジョンは、あまりに小さく制限されています。この堕落した時代の、複雑で増加するばかりの問題に打ち勝つために は、偉大さを語る福音が必要です。神様は、ただこの世の問題を解決されるだけではありません。神様の偉大さの内にあって、それらの問題は一飲みにされてし まいます。キリストの偉大さをはっきり持つ人は、どんな問題も、悪魔も、この世の力も、恐れる必要がありません。その人は、いかにキリストが、そのどれよ りも偉大であるかを知っているからです。もし私達がこの様に、キリストの偉大さについての理解を抱くなら、すなわち、それがいかに制限なく、豊かで、莫大 であるかを知るならば、私達はもう二度と、人生の問題に心を失うことがないでしょう。

パウロは、私達の良き見本です。彼はキリストの啓示を、ただただ深めようと決意していました。事実、彼がキリストについて知っていたことはすべて、 啓示から来ました。それらは彼が、主の食卓に座する時に与えられ、聖霊によって明らかにされたのです。思い出して下さい、彼がエルサレムにいる弟子達を訪 ねていったのは、改心した3年後のことでした。そして彼は、弟子達とたった15日間一緒にいただけで、すぐに宣教の旅に出て行きました。後にパウロはこう 語っています、「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。」(エペソ人への手紙3:3)聖霊は、神様の深く隠された秘密を御存知です。パウ ロは恵みの賜物によって、「キリストの計り知れない富」(エペソ人への手紙3:8)について理解し、その福音を語り告げることが出来る様、常に祈り求めて いました。

真実の言葉を見つけるために、様々な矛盾する声をかき分けるだけでは満足出来なくなった信者を、主は探しておられます。深く、個人的な交わりから来る主の啓示を、私達が求めるよう、主は願っておられます。

2010年8月26日木曜日

信仰の戦場から

パウロがエルサレムに行くと決めたのは、そこでリバイバルが起きていたからではありません。彼は失望した宣教師が、神様からの啓示を求めてやって来 る状況とは違います。彼はエルサレムに行く理由を、こう明言しています。「わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。エルサレムに上ったの は、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、話すためでした。」(ガラテヤ人への手紙2:1〜2より抜粋 )パウロは、神様が御自分の民に示したいと願っていた奥義を証しするために、エルサレムに向かったのです。

この信仰の人は、個人的に栄光に輝くキリストの啓示を体験しました。彼が宣べ伝えていた教義は、独り部屋に閉じこもって、本や解説書を読むことで学 んだものではありません。彼は独り神学的な真実を瞑想することにふけり「いつか私の研究の成果が、未来の世代の人々に読まれるのだ」と夢見る哲学者ではあ りませんでした。

どうやって、またどこからパウロが彼の手紙を執筆していたか、お伝えしましょう。彼は暗い、湿った監獄から手紙を書いていたのです。背中に鞭打たれ、血を流した後にこれらの手紙を書いたのです。また船が難破し、海から這い上がって来た後に、これらの手紙を書いたのです。

パウロは、彼が人々に教えていたことはすべて、信仰の戦場から来たのだという自覚がありました。そして直面していた苦しみのすべては、福音のためな のだと考え、それらを喜んだのです。彼はこう言いました。「これでようやく、難破した経験のある船員に対して、また希望もなく監獄されている収容者に対し て、死の危機に瀕したことのある人に対して、権威をもって宣教出来る。聞く耳のある者が主の真実を聞くことの出来るよう、神様の御霊が、私を経験豊富なベ テラン兵士としてくださったのです」と。

神様はあなたをサタンの手に引き渡されたのではありません。それどころか、神様は御霊を通して、あなたの内で目に見えない働きをするために、あなたが試練を経験することを、許されているのです。キリストの栄光が、あなたの内で永遠に形成されているのです。

誰か他の人や、他のものによって、自分の真の霊性を磨くことは出来ません。神様の栄光を経験するには、あなたが今いるその場所で、それが良くても悪くても、その環境のままで、栄光を経験する必要があるのです。

パウロの霊の強さに関する一番の秘密とは、彼がいかにどんな状況をも不満をもらすことなく受け入れたか、ということです。彼はこう記しています。「わたしは自分のおかれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」(フィリピ人への手紙4:11)

ここで使われている「満足する」とは、ギリシア語で“攻撃をかわす”という意味があります。パウロは「私は自分をひどい環境から救い出そうとは思い ません。神様に、『私を救い出してください』ともお願いしません。反対に、私はどんな境遇をも受け入れます。経験から言って、それらはすべて、主が永遠の ものを私の内で実らせておられるからだと知っているからです」と言っているのです。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。」(第一コリント人への手紙10:13)パウロがここで使って いる「耐える」という言葉は、私達の境遇が変わることのないことを示唆しています。ここでのポイントは、与えられた環境下で、いかに私達が耐えるか、とい うことです。それは何故でしょうか。神様がもし環境を変えられれば、私達が最終的に滅びてしまうと御存知だからです。神様は私達を愛しておられるからこ そ、私達が苦しむのを許されるのです。

困難にある時の私達の役目とは、苦しみの中にあっても、満足を覚えるに必要な力と資源のすべてを、神様が備えて下さっていると信頼することです。誤 解しないで下さい。困難にあって満足することは、困難を楽しむこととは異なります。それはただ、困難から自分自身を救い出そうとすることを、止めることを 意味します。私達は、神様が許される環境に満足し、それを耐えねばなりません。それは私達の主が必ず、御子にあって私達の憩いをもたらしてくださると信じ ているからです。