2010年7月30日金曜日

御国の前触れ

前触れとは、前もって体験すること、または認識することです。聖書はこれを保証金と呼んでいます。(例:「わたしたちが御国を受け継ぐための保証」 エペソ人への手紙1:14より)それは全体を経験する前に、一部のみを体験するという意味です。私達が受け継ぐもの、それはキリスト御自身です。そして私 達がキリストの花嫁となり、永遠の交わりを楽しむことの前触れとして、聖霊は私達を主の臨在に導き入れてくださいます。

パウロは神様の内にある人々を「聖霊で証印を押された者」と表現しています。(エペソ人への手紙1:13)これは御霊の働きによって、特別に印をつ けられた人々のことを表しているのです。聖霊は彼らの内に、特徴的な印を押し、また素晴らしい内なる働きを起こしたのです。それは彼らを、永遠に変えられ た者とする超自然的なものです。

彼らはもはや、ただの信者ではありません。 この世のものではなく、天のものに情熱を寄せているので、彼らはもはや、この世に属する者ではありません。彼らはこの世の出来事に押し流されません。むし ろ、彼らは 揺り動かされない者となったのです。また彼らは、生温かったり、中途半端だったりすることはありません。それどころか、彼らの心は昼も夜も、「主なるイエ ス様、早く来て下さい」と叫ぶのです。

一体彼らに何が起こったのでしょうか。聖霊が彼らの内で、何を行ったのでしょうか。何が彼らに、主に属する者だという証印を押したのでしょうか。そ れは簡単に言うと、こういうことです。聖霊が彼らに、素晴らしい主の臨在を、前触れとして体験させてくださったからです。御霊は彼らに近づき、御国を垣間 見せました。それによって彼らは、神様の偉大なる素晴らしさを、超自然的な明示によって体験したのです。御霊は私達に、御国を待ち望む様、“御国の一片” を与えてくださったのです。

黙示録に書かれている終わりの日に、御霊はどんな花嫁をイエス様に備えられるのでしょうか。生温い人でしょうか。中途半端な愛、または冷めきった愛を持った人でしょうか。イエス様を熱愛していない人でしょうか。キリストとの親密な交わりを望まない人がいるでしょうか。

もしあなたが本当にイエス様を愛しておられるなら、常に彼のことが頭から離れないでしょう。あなたの歩みの一歩一歩に、主は臨在しておられます。ク リスチャンの中には、「それは死んでからの話だ。天国に行けば、すべては変わる。その時に主の特別な花嫁とされるのだ」と思っている人がいます。いいえ、 死が人を聖めるのではありません。御霊は今、ここにおられます。御霊は今生きておられ、あなたの内に働いておられます。あなたが死のこちら側にあるうち に、キリストに対する熱愛を生むために。

ローマ人への手紙8章26節に、御霊が信者の内にいかに強く働かれているかが記されています。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」

ここで使われている「うめき」という言葉は、ギリシア語で“熱望”すなわち、もっとキリストを切望すること、という意味があります。あまりにキリス トを切望し、その臨在にたたずんでいるので、深いうめきの他、言葉が何も出て来ないかも知れません。それは「イエス様、あなただけがこの世界での唯一の幸 せです。わたしはあなたの良さを体験しました。あなたのすべてを経験させてください」と願うことです。

これこそが、御霊の内に歩む者の印です。その人は、イエス様に対する強い欲求をもっています。パウロ同様、その人はこの世を去り、主とまみえる日を心待ちにしています。

2010年7月29日木曜日

深夜零時1分前

サムエル記上13章で、サウルはすべての信者がいつかは経験しなくてはならない、決定的な瞬間に直面しました。それは、信仰によって神様を待ち望むか、我慢出来ずに自分の手でなんとかしようとするか、という決断を迫られる時です。

サウルにとっての分岐点は、戦争を暗示する不吉な暗雲が、イスラエルの上に広がっていた時に訪れました。ペリシテ人は騎手、鉄製の戦車、最新兵器を 振り回す歩兵からなる、大軍を従えていました。一方のイスラエルは、全軍を通して、たった2本の剣しか持っていませんでした。その1本はサウルのもの、そ してもう1本は彼の息子であるヨナタンのものでした。残りの兵は全員、木製の槍や、農道具等、持ち合わせの兵器を使用せねばなりませんでした。

この場面の1週間前、サムエルはサウルに、戦闘に行く前にギリガルにて彼を待つように命じました。預言者は7日後に来て、主に適切ないけにえを捧げると言ったのです。

約束の7日が過ぎてもサムエルの姿は見られず、サウルの兵士達はまとまりを失い始めていました。それどころか、王は戦いに対して、主からの託宣を受けていませんでした。

サウルはどうしたでしょうか。固く立ち、「例えサムエルが8日かかろうが、私は神様からの御言葉に固く立つ。生きるとしても死ぬとしても、私は主の 命令に従う」と宣言したでしょうか。いいえ。サウルは狼狽しました。周りの状況に飲み込まれてしまったのです。結局彼は、神様の御言葉を自分に良い様に解 釈し、自分のやり方を通しました。サウルはその場にいた祭司に、サムエル抜きでいけにえを捧げる様に命じました。このことによって、彼は主に対して重大な 罪を犯してしまったのです。(サムエル記上13:11〜12)

神様が約束に遅れるということは、絶対にありません。主はサムエルがギリガルに向かっている道中の、その一歩一歩を知っておられました。主は預言者 を、天のナビゲーションシステムに従わせ、主が定められたその瞬間にギリガルに到着する様、完全に計画しておられたのです。本来ならサムエルは、7日目に はそこに着くことが出来ました。例えそれが、7日目の深夜1分前だったとしても。

神様は歴史を通して、決して変わることがありません。そして今日も、主の民がこの掟に従うかに関心を持っていらっしゃいます。「主の御声に聞き従い なさい、そして主の御命令に背いてはなりません。」(サムエル記上12:15より要約)例え私達の人生が手に負えない状況であっても、それは問題ではあり ません。私達は、主にある完全な信頼の内に歩むべきなのです。例え絶望的な状況にあったとしても、恐れの内に行動を起こすべきではありません。むしろ、御 言葉が約束されている通り、神様が私達を救い出されるのを、我慢強く待つべきなのです。

実際神様は、ペリシテ人の大軍に迫られていたサウルの、すぐ側に立っておられたのです。主はサウルが直面していた危機を御存知で、主の御目は、その詳細のすべてに注がれていました。

私達の神様は、あなたが直面している危機の詳細を、すべて見ることがお出来になります。主はあなたに押し迫る、人生の問題の一つひとつを見ておられ ます。そして日々、その状況が深刻化していることを御存知です。祈り、揺るぎない信仰と共に神様を待ち望む者は、大変な危険に遭遇することがありません。 そればかりか、神様はあなたの「これ程の借金をどうやって返済すれば良いというのか・・・結婚生活に全く望みが持てない・・・どうやったら仕事をクビにな らずに済むだろうか・・・」等という、恐れに満ちた思いを、すべて御存知です。しかし神様の御命令は真実です。「恐れず、わたしより先に進んではいけな い。あなたはただ、祈れば良い。そしてわたしに信頼しなさい。わたしに信頼を置く者を、わたしは祝福する」と。

神様が教会に対して語られた、次の御言葉を見てみましょう。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル人への手紙11:6)「民 よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(詩編62:9)「主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は 盾。」(詩編115:11)「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなた道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐに してくださる。」(箴言3:5〜6)

不信仰は致命的で、そのもたらす結果は悲劇的です。もし私達が、主に頼るのではなく、自分の手で試みから逃げ出そうとするなら、恐ろしい結果に直面することになります。

2010年7月28日水曜日

霊的な良薬

「敵をも愛しなさい」という神様の掟は、苦くてまずい薬のようです。しかし、私が小さい頃に飲まされたビーバー香油同様、それは癒しをもたらす薬です。正に「良薬口に苦し」ということです。

イエス様ははっきり、こう語られています。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしはあなたに言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイによる福音書5:43〜44)

イエス様は、律法に反することを語られていたのでしょうか。そうではありません。イエス様は、律法に侵入していた肉の霊を翻そうとされたのです。当 時のユダヤ人は、ユダヤ人のみを愛していました。彼らは、異邦人の手を握ることや、さらには異邦人の衣が自分の衣に触れることすら許していませんでした。 しかしこれは、神様の律法の本質とは食い違っていたのです。律法は聖く、こう教えています。「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているな ら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」(箴言25:21〜22)

私達は政権にある者達の、みだらな行いを憎むことが出来ます。同性愛者や中絶者など、キリストを忌む者達の罪を憎むことが出来ます。しかし主は、彼 らを人間として、イエス様が彼らのために死なれた人々として、私達も彼らを愛する様、命じておられるのです。そして彼らのために祈る様、命じておられま す。もし私が、ある人の掲げている主義ではなく、その人自身を軽蔑するなら、私はキリストを代表出来ていません。

私はここ、ニューヨーク市の五番街で、同性愛者のパレードを見ました。25万人もの人達が、多くは半裸で、「神様は同性愛者である」と記したサイン を掲げて歩いていたのです。また私は、彼らが行列から離れ、「神様はあなたの罪を憎んでおられますが、あなたを愛しておられます」というサインを掲げたク リスチャン達に、食って掛かっている姿を見ました。

私は怒りで顔が真っ赤になりました。ソドムの様に、彼らの上に硫黄の火が降る様に求めたい気分でした。しかし私は反省し、心の中でこう自分に言いました。「私はまるで、イエス様を拒絶した人々の上に、火を降らせて滅ぼしをもたらすよう、弟子達が求めたのと同じである」と。

同性愛は罪です。不貞も罪です。また許さないことや、 無慈悲も罪なのです。

あなたの敵を愛しなさい。好戦的でうっとうしく思う様な罪人達を愛しなさい。彼らのために祈りなさい。迫害する者達を祝福しなさい。

これこそ、イエス様が命じられたことです。

ですから、これを実行しましょう。

2010年7月27日火曜日

ダニエル―異なるタイプの人

ダニエルは自分が砕かれた者であることを語る、異なるタイプの人でした。「わたしは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をか ぶって祈りをささげ、嘆願した。わたしは主なる神に祈り、罪を告白してこう言った。」(ダニエル書9:3〜4)一方でダニエルは神様の御心を知っていたの で、時を読むことが出来ました.「わたしダニエルは文書を読んでいて、エルサレムの荒廃の時が終わるまでには、主が預言者エレミヤに告げられたように、 70年という年数のあることを悟った。」(ダニエル書9:2)

どうやってダニエルはこの様に砕かれ、知識と識別を持つ人となったのでしょう。それは神様の御言葉を学ぶことから始まりました。ダニエルは、御言葉 が彼を支配するに委ねました。そして心に御言葉を蓄えていたので、聖句をよく引用しました。「モーセの律法に記されている通り・・・」(ダニエル書 9:13)

ダニエル書10章では、この信仰深い預言者が、キリストに関するビジョンを受けたことが記されています。「目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻 の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声 のようであった。」(10:5〜6)

あなたの力のすべて、思いのすべてをもって、神様を追い求めると、今日心に誓って下さい。そしてかつてない程の愛と渇望をもって、御言葉に触れて下 さい。断食によって砕かれる様、また神様の重荷を背負うことが出来る様祈るのです。そして最後に、聖霊が天の恵みをあなたに与えることを妨げるものすべて を告白し、それらから離れて下さい。異なるタイプの人となる方法は、誰にでも与えられています。あなたはこの方法を用いられますか。

この様な方法によって、神様に触れられることが出来ます。ダニエルは、こう証ししています。「突然、一つの手がわたしに触れて引き起こしたので、わ たしは手と膝をついた。」(ダニエル書10:10)ここで使われている「触れる」という言葉は、“激しく掴む”という意味があります。ダニエルは「神様が 御手を私の上に置かれた時、私は顔を伏せました。それは私の内なるすべてのものが、主を求める様切迫した渇望を与えてくれました。」

神様が誰かの人生に触れられる時、これと同じことが起こります。その人はひざまずき、祈りの勇士となり、激しく主を求める様になります。

神様は、何故特定の人にだけ触れてこの様な緊迫感を与えられるのだろうと、私はよく思います。何故一部の神様の僕が主を飢え渇いて求める時、他の信 仰深い人々は自分の道を歩み続けるのでしょうか。神様に触れられた僕達は、主と親密な関係を持っています。彼らは天から啓示を受けます。そして他の人はあ まり楽しまない、キリストとの歩みを楽しみます。

何故神様はダニエルの上に手を置き、彼に触れられたのでしょう。何故彼は他の誰も見ることが出来なかったことを見、聞くことの出来ないことを聞くこ とが出来たのでしょう。ダニエルはこう語っています。「この幻を見たのはわたしダニエルひとりであって、共にいた人々は何も見なかった。」(ダニエル書 10:7)

神様は、神様のメッセージを語る声が必要だったのです。神様は祈る僕、神様の召しに対して信仰をもって応える者が必要だったのです。ダニエルこそ、 その人でした。彼は一日に3度、熱心に祈りを捧げていました.そして彼が川岸を歩んでいる時、キリストは彼に啓示を与えたのです。(ダニエル書10:7〜 9参照)

神様がダニエルを神託として用いた理由は次の通りです。1.ダニエルは祈りを止めなかったため(ダニエル書10:2〜3参照)2.ダニエルは社会と 教会の霊的堕落に関して、心を痛めていたため(ダニエル書9章参照)3.ダニエルは罪を隠したり罪から逃れたりしようとしなかったため (ダニエル書 9:4〜5)

2010年7月26日月曜日

聖霊が必要です

ある人は救われてからもう何年も経っているでしょう。ある人は一年前に救われたかも知れません。またある人は数ヶ月前、もしくは数週間前に救われた ばかりかも知れません。罪から救われるということは、素晴らしいことです。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくされるのです。あなたが救われているという ことを、心から嬉しく思います。

しかし、私達の主、イエス・キリストの良き勇士となるためには、ただ救われているだけでは十分ではありません。あなたには、もっと大きなものが与えられているのです。あなたは聖霊によるバプテスマを受けなければなりません。

パウロの時代、聖霊の存在を知らない人々がいました。「彼らに、『信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか』と言うと、彼らは、『いいえ、聖霊がある かどうか、聞いたこともありません』と言った。」(使徒行伝19:2)彼らは救われていましたが、彼らが聖霊によって満たされたり、聖霊のバプテスマを受 けたりしていなかったことがはっきり分かります。

私達は、聖霊の力と御業によって救われると信じてます。しかし聖書はそれに加えて、聖霊による洗礼、満たしがあると語っています。

イエス様御自身も、弟子達と信者が聖霊によるバプテスマを受けるまで、彼らを世界に遣わされませんでした。もちろん弟子達は純粋な心を持っていたこ とでしょう。病む者を癒し、悪霊を追い出す信仰を持っていました。御言葉を信じ、すでにキリストについて伝道し、改宗者が生まれていました。彼らはイエス 様の甦りを目撃しました。これ以上に何が必要だというのでしょうか。彼らはイエス様のために、死ぬ覚悟が出来ていました。彼らのイエス様に対する愛が、国 々に出て行き神様の御業をするには十分でなかったのでしょうか。

愛する皆さん、そのどれも十分ではなかったのです。彼らにはさらに必要なものがあったのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受 ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒行伝1:8)

本当に聖霊が欲しいですか。聖霊があなたの上に降り、火によってあなたにバプテスマを授けられるのを求めておられますか。聖霊はあなたのために与え られているのだ、と完全に確信していなければなりません。自分では何者でもなく、何も持たず、聖霊による導きと力なしでは何も出来ないのだ、と確信するに 至る必要があります。

聖霊が今もバプテスマを授け、信者の上に降り、その体を所有しているのだと、知るべきです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名に よって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいる すべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒行伝2:38〜39)

毎日、毎時、世界中で多くの人々が聖霊によるバプテスマを受けています。彼らは聖書に記された約束を目にしたか、それにまつわるメッセージを耳にしたのでしょう。それで彼らは約束の成就を主張し、洗礼を受けることが出来たのです。

聖霊によるバプテスマは、特に終わりの日に生きている人々に与えられています。「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。そのときには、わた しの霊を注ぐ。」(使徒行伝2:17〜18より抜粋)聖霊は求める者に与えられます。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカによる福 音書11:13)

神様はあなたが霊の内に生き、歩むことを望んでおられます。何か必要がある時、誰か他の人にその必要を満たしてもらう様、頼むべきではありません。 私達は、聖霊が働かれるままに神様の御言葉を語り、 病む人の上に手を置き、悪霊を追い出す様に召されているのです。私達は聖霊と力に満たされた証し者として召されているのです。

2010年7月23日金曜日

御言葉による支配

もしキリストが王国の支配者であり、私達がその支配下にあるなら、私達の人生はキリストによって支配されなければなりません。ではイエス様によって 支配されるとは、実際どういうことを意味するのでしょうか。
辞書によると、「支配する」とは、“導くこと、指導すること、すべての行動やその権力 下にある者の態度を管理すること”とあります。要するに、一つひとつの考えや言動を含む、私達の行動や態度のすべてを、イエス様が管理されるのを許すとい うことです。

また、イエス様は世界のすべての国々を統べ治めておられます。聖書はこう語っています。「神はとこしえに力強く支配し、御目は国々を見渡す。背く者 は驕ることを許されない。」(詩編66:7)「主は天に御座を固く据え、主権をもってすべてを統治される。」(詩編103:19)

騙されてはなりません。アメリカ合衆国は、共和党や、民主党、もしくはどんな人間の権威によって支配されているのではないのです。経済界や、大企業 によって支配されているのでもありません。どんな力―この世の力も超自然の力も―合衆国やその他のどんな国をも支配することは出来ません。それが出来るの は、神様だけです。神様は王の王、主の主として、天の御座からすべての被造物を管理し、統べ治めておられます。

全米を通して、モラルの低下、オカルト団体の増加、逸脱した性の問題、無神論者のはっきりした主張などが見られます。クリスチャンの中には、地獄か らの大群が、サタンの闇の王国を建て上げるために、米国をじわじわと占領していっている、と不安を抱く人達がいます。

しかし私達は恐れる心配などありません。イザヤはこう語っています。「主は、逆らう者の杖と支配者の鞭を折られた。ああ、お前は天から落ちた明けの 明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた。もろもろの国を倒した者よ。しかし、お前は陰府に落とされた、墓穴の底に。お前を見る者は、まじまじと見つ め、お前であることを知って、言う。『これがかつて地を騒がせ、国々を揺るがせた者か。』」(イザヤ書14:5、12、15〜16)

愛する皆さん、私達の神様は、サタンのことをほんの少しも心配しておられないのです。悪魔がこの国を襲っていると、私達が目にするものに対して、神 様は全くやきもきしておられません。たった一言の御言葉によって、サタンは永遠に消え去り、永遠の苦しみを味わうのです。ですから、私達はどんな悪をも恐 れる必要がないのです。

神様の王国、すなわち神様の民の心の内に建て上げられた王国の他には、どんな国家も完全かつ力強い神様の支配を見ることが出来ません。

イエス様は言われました。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書17:21)そして私達の心の中にある、この王国におい て、キリストは私達を導き、癒し、私達の言動と態度を管理されるのです。

「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。」(イザヤ書9:6)この聖句は、永遠に続くイエス様の権威について語っているの です。しかしここにはもう一つの、重要な意味があります。それは、私達が常に私達の支配に対する服従を増すべきだということです。

正直に、自分は日々イエス様の支配に対する服従を増している、と言うことが出来ますか。あなたの言動を少しずつ、イエス様の権威の下に委ねています か。
もしイエス様が天国におられ、御父の右の座からすべてを治めておられるなら、どうやって地上での王国を統べ治められているのだろう、と思われ るかも知れません。この答えは、ヘブル人への手紙に見つけることが出来ます。この手紙の著者は、旧約聖書の時代には、神様が預言者を通して語られたと記し ています。しかし今日、主は御子を通して語られるのです。(ヘブル人への手紙参照1:1〜2)

イエス様は私達に与えられた、肉となった聖なる御言葉、明示的な神様のメッセージです。代わりに御父は聖霊を私達に与え、イエス様が地上にて語られ た御言葉を思い出させてくれます。ですから、イエス様は文字として綴られた、明白な神様の御言葉によって、私達を統べ治めておられるのです。聖書は私達の 王の笏であり、それを通して神様の御言葉を私達に示してくださいます。

もし書面として与えられている神様の御言葉によって支配されるに任せた人の証しを読みたいと思われるなら、詩編119:11にそれを見ることが出来 ます。「わたしは仰せを心に納めています。あなたに対して過ちを犯すことのないように。」(119:105, 123, 133, 162をも参照のこと。)

2010年7月22日木曜日

恵みの成長を妨げるもの

エペソ人への手紙4章31節において、パウロはキリストの恵みにおける成長を促すために、私達が生活から取り除かなければならないものを列挙してい ます。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」

私達はパウロが並べたこれらの問題を、軽視するべきではありません。私達が恵みにおいて成長するなら、これらのことに直面しなければならないと、パ ウロは語っているのです。もしここでパウロの挙げている問題を無視するなら、あなたは聖霊を悲しませることになります。あなたの成長は妨げられ、あなたは 霊的なゾンビとなってしまうでしょう。

パウロが挙げた最初の3つ、無慈悲、憤り、怒りは、理解し易いと思います。無慈悲とは、過去の傷を手放そうとしなかったり、過去の過ちを許さなかっ たりすることです。憤りとは、激しい怒りと共に、復讐を望むことです。怒りとは激高、すなわち瞬間的な憤激や、誰かに向かってじわじわと憤りを燃やすこと です。悪意とは、破壊的な言葉を発すること、すなわち誰かを立て上げる言葉を発することと正反対のことです。悪意を持って語る言葉とは、敵意に満ち、誰か を傷つける言葉のことです。

わめきとは何にも無いことに対して、突然爆発すること、すなわち必要のない大騒ぎをし、無意味に大きな雑音を立てることです。些細なことを取り上げ て大きな問題としたり、癒しや平和をもたらす代わりに修羅場を作り出したりすることで、私達はわめきます。

パウロのリストの最後はそしりです。そしりとは、誰かが苦しむことを望むことです。多くのクリスチャンにとって、そしりとは、自分を苦しめた人を神 様が懲らしめられるのを望むことです。それは非道な霊であり、大抵心の奥底にしまい込まれています。

パウロが「これらを一切の悪意と一緒に捨てなさい」と言ったのは、即席の解決について語っているのではありません。彼は長い時を要する、成長過程に ついて説明しているのです。時に私達は、これらの悪意をコントロールすることに失敗するかも知れません。しかし私達がすぐに悔い改め、その人との関係の修 復に徹するなら、これらの問題は時が経つにつれて消え去っていきます。

2010年7月21日水曜日

爆発的な成長

私達が私達を苦しめる人達の成長を促す時、私達は恵みにおいて、爆発的に成長します。

「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神 の聖霊を悲しませてはいけません。」(エペソ人への手紙 4:29〜30)ここでパウロが用いている“造り上げる”という言葉の語源には「家を建てる者」という意味があります。またその語源は「立て上げる」とい う語源から来ています。要するに、造り上げる者は皆、神様の家、すなわち教会を建て上げる者なのです。

パウロはここで、私達が語る言葉について3つの重要な点を挙げています。

1.私達の言葉は、神様の民を立て上げるために使うべきだということ
2.私達の言葉は、人々に恵みを与えるために使うべきだということ
3. 私達の発する言葉によって、聖霊を悲しませることがあるということ

過去の偉大なる信仰に満ちた人々の伝記を読むと、私は深く反省させられます。彼らは御国中心の考え方をしていました。御言葉に熱心で、よく祈り、恵 みにおける成長を願っていました。彼らの人生で最も私の心を打つのは、彼らのキリストに対する献身的な姿勢や、祈りの激しさだけではありません。もちろ ん、これらは彼らの内に生まれた、素晴らしい霊の実です。しかしそれよりも、私が彼らの共通点として見るのは、いかに彼らが恵みにおける成長を望み、聖い 言葉が流れ出す、純粋な心が与えられる様願っていたか、ということです。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」(マタイによる福音 書12:34)

私が自分の為ではなく、他の人々の為に生きようとする時、恵みにおいて成長することが出来ます。この恵みにおける成長は、家庭において、伴侶や子ど も達にキリストらしさを証しすることから始まらなければなりません。自分の家庭こそ、「自分がいつも正しい」という思いを捨て去ることによって、すべての 問題や誤解に打ち勝つ場所とされるべきなのです。

いつも自分が正しくなければいけない、と思わなくなることで、かつて無い程に神様の恵みを楽しむことが出来るようになりました。私達がつまらない論 争に勝とうとするのを止め、お互いを立て上げることを求めるなら、すべての口論や権利の主張はなくなります。

皆さん、恵みにおいて成長しようではありませんか。

2010年7月20日火曜日

異なるタイプの僕達

旧約聖書に記されている信仰に満ちた人の偉業を読む時、私の心は燃やされます。この神の僕達は、神様の御名に対して重荷を持ち、今日のクリスチャン の多くが驚きを覚える様な、力ある業の数々を成し遂げました。

旧約時代に生きたこの聖徒らは、神様の御言葉なしに進むことを岩の様に固く拒絶しました。そして彼らは神様の宮の堕落に対し、幾日にも亘って涙を流 し嘆きました。彼らは食べることも、飲むことも、体を洗うことも拒否しました。頭から髪の毛の束を、またヒゲを引き抜きました。予言者エレミアは、365 日もの間、神様の来るべき裁きを警告し続け、エルサレムの街角で身を横たえました。

この聖徒達は、一体どこからその霊的な権力とスタミナを得ていたのでしょうか。彼らは全く異なる種類の人達、今日の教会で見られる僕達とは全く異な るタイプの僕達だったのです。私は自分を彼らと、又彼らの歩み方と比較することは出来ません。私は完全に彼らの様な者には、なれていません。実際、彼らの 様な人は、誰一人として知りません。

このことは、私の心を乱します。聖書はこれらの旧約時代の僕達が行った偉業は、私達の教訓として記されている、と語っています。「これらのことは前 例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」(第一コリント人への手紙 10:11)彼らの話は前例として、いかに神様の心を動かすか、またいかに堕落した人々を悔い改めに導くかを示すために記されているのです。

では、この聖徒達は特別な人種だったのでしょうか。彼らは、はっきり心に決めた宿命を抱き、私達の時代では見られない超自然的な力を受けた、スー パーマンの様な人達だったのでしょうか。全くそうではありません。聖書は、彼らがいかに私や皆さんと全く同じ様に、肉による熱情に悩まされていたかを記し ています。(ヤコブによる手紙5:17参照)事実、彼らの前例は、私達が従うべき模範となってくれています。彼らには、神様の働きを促す様な性質がありま した。だからこそ神様は、彼らを用いて御業を成そうとされたのです。そして神様は今日私達にも、彼らと同じ性質を求める様、促しておられます。

エズラは国家全体を目覚めさせた、信仰に満ちた神の人でした。聖書は、神様がエズラの上に御手を置かれたと語っています。エズラはこう証ししていま す。「わたしは、わが神なる主の御手の加護によって勇気を得た。」(エズラ記7:28)言い換えるならば、神様は御手を伸ばされ、エズラを抱き、彼を異な る者へと変えられたということです。

神様は何故、エズラに対してこうなされたのでしょうか。当時のイスラエルには、何百人という書記官がいました。彼らは全員、神様の御言葉を学び、人 々にそれを説明するという、同じ召しを受けていました。何がエズラを、他の書記官とは異なる者にしていたのでしょうか。何が主に、この僕の上に御手を置く 様、そしてエルサレム再建の為に、彼を5万人の頂点に立たせる様、導かれたのでしょうか。

聖書はその答えを記しています。「エズラは主の律法を研究して実行し、イスラエルに掟と法を教えることに専念した。」(エズラ記7:10)答えは簡 単です。エズラは自分で決断したのです。彼は何事よりも、ただ神様の御言葉を求め、それに従おうと決心しました。そしてその決断からそれることがありませ んでした。彼は自分自身にこう言い聞かせたのです、「私は御言葉の弟子となる。読むものすべてを実行に移すのだ」と。

神様がエズラの上に御手を置かれる前から、彼は御言葉を求めることに熱心でした。彼は御言葉が自分を探り、洗い出し、すべての肉と霊の汚れから清め るままに委ねました。エズラは飢え渇いて御言葉を求め、そこに喜びを見いだしました。彼は御言葉が、神様の選ばれたどんな召しにも答えられる様、彼の心を 整えられるままに委ねました。だからこそ、神様は彼の上に御手を置かれ、彼に油を注がれたのです。

2010年7月19日月曜日

神様の特別部隊

米国軍隊の特別部隊について耳にされたことがあるでしょうか。彼らは特別な訓練を受けた、軍隊の中の軍隊であり、非常に熱心なエリート集団です。特 別部隊は、上官によって招集された、完全なるボランティアによって構成されています。

アフガニスタンでの戦争が始まる前、ウサマ・ビンラディンはアメリカ軍が弱く、臆病で、山岳での戦いに対して訓練がなされていない軍隊である、と発 言しました。彼はタリバン軍が、アメリカ部隊を侮辱と共に帰還に追い込むと予測していました。しかし彼は特別部隊のことを考慮していなかったのです。この 恐れを知らない部隊は、たった2,000人でアフガニスタンに侵入しました。数日の間に、敵の本拠地を完全に把握することが出来たのです。

霊的な領域において、神様はこれと同じ様なことをなされている、と私は信じています。祈っている間に、私は聖霊によって感銘を受けました。神様は天 において、極秘作戦にあたっておられているのです。神様は、通常部隊の中から、ボランティアによるエリート軍を、軍隊の中の軍隊として起こそうとしておら れます。この特別部隊は、神様が敵との戦いにおいて、直接触れ、動かすことが出来る勇士達から構成されています。この状況は、サウルの特別部隊について記 した箇所で、目にすることが出来ます。聖書はこう記しています、「神に心を動かされた勇士たちは、サウルに従った。」(サムエル記上10:26)

今日の神様の特別部隊は、若者も、中年者も、年配者をも含みます。彼らは皆、隠れた部屋においての祈りによって、ずっと訓練されてきました。イエス 様と親密な時間を持つことで、彼らはどの様に戦えば良いかを学んできたのです。ですから、彼らは例えそれが山岳戦であっても、盆地での戦いであっても、ど の様な霊的領域においても戦う術を知っています。

神様の軍隊の中の軍隊は、すべての国々に置かれています。その戦略はまだ極秘となっているかも知れませんが、そのうちにキリストの御名と力によって 行われる戦術が、明らかにされることでしょう。神様の御言葉が成り、飢饉は終着に向かっています。主は勝利を取られます。その御言葉は、すべてに打ち勝ち ます。

「自分の神を知る民は確固として行動する。」(ダニエル書11:32)

「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40:31)

2010年7月16日金曜日

神の家族

キリストの御名による力を主張することは、難しく、隠された神学的な真実ではありません。私の書斎には、イエス様の御名についての み書かれた本がたくさんあります。これらの著者達は、キリストの御名に秘められた奥義を、信者達がさらに深く理解出来る様にと、執筆したのです。しかしこ れらの本の多くは、あまりに深くまで探求しているため、読者の理解力を遥かに超えてしまっています。

イエス様の御名について私達が知るべきことは、幼子でも理解出来るような、非常に簡単なものである、と私は信じています。それは基本的にこういうこ とです。「イエス様の御名によって求める時、それはイエス様御自身が御父にお願いしているのと同じことなのだ、と私達が完全に確信するべきである」という ことです。「これは本当だろうか」とあなたは思われるかも知れません。その理由をご説明しましょう。

私達は、神様がいかに御子を愛しておられるかを知っています。神様はイエス様と共に語り合い、イエス様が地上におられた間、彼を教え続けられまし た。そして神様は、イエス様の祈りをすべて聞かれただけでなく、そのすべてに対してお答えになられました。イエス様はこのことについて、証ししておられま す。「神様はいつでも、わたしに耳を傾けておられる」と。言い換えれば、御父は御子の願いを、一度も退けたことがないということです。

今日、イエス様を信じる者は皆、彼の御子としての権利を衣としてまとっているのです。そして天のお父様は、心から私達を御自身の子どもとして受け入 れてくださいます。何故でしょうか。それは私達が、キリストと霊的に結ばれているからです。十字架と復活を通して、イエス様は私達とお父様を結びつけてく ださいました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。わたしが彼らの内におり、あなた がわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(ヨハネによる福音書17:21〜23より抜粋)

簡単に言うなら、私達は今や神の家族である、ということです。御父と一つであり、また御子とも一つなのです。私達は養子縁組をしていただき、すべて の子どもが受け取る相続権を完全に与えていただきました。すなわち、天におけるすべての力と富は、キリストによって、すべて私達に与えられているというこ とです。

“イエス様のお名前を通して”祈ることは、単なる方程式ではありません。このフレーズを口に出すことによって、力が生まれる訳ではないのです。その 力は、イエス様が私達の主張を取り上げ、御自身の持つ特権によって私達を御父の元に導いてくださる、と信じることから来ます。イエス様は私達の代弁者、す なわち私達の代わりにお願いしてくださる方なのです。その力は、御父が御子の願いを退けたことがなく、私達が御父の御子に対する誠実さの恩恵を被る者であ ると、完全に信じることから来ます。

2010年7月14日水曜日

地獄を揺り動かす祈り

ダニエル書が書かれた時、イスラエルはバビロンにて捕囚とされていました。そして長年のミニストリーを経て、6章でダニエルは80歳になっていまし た。

ダニエルは常に祈りにある人でした。そして年老いた今も、ゆったりした生活を送ろうという気はありませんでした。ダニエルが落胆したり、燃え尽きた りしたとは、聖書のどこにも記されていません。その反対で、ダニエルは始動しかけたところでした。聖書は、80歳になっても、彼の祈りが地獄を揺り動か し、悪魔を怒らせたと記しています。

ダレイオス王はダニエルを王国において、最も高い位に昇進させました。彼は3人いた大臣の一人で、他の2人と共に、王子と120地方からの総督を統 べ治めていました。ダレイオス王は、他の2人よりもダニエルを気に入っており、彼に政務と、裁判官や知識人達を教える担当の長としました。(ダニエル書 6:3)

もちろんダニエルは、非常に忙しい預言者でした。多忙なスケジュールに、長時間の会議の数々と、彼に圧し掛かっていた圧力は想像するに、た易いもの でしょう。しかしダニエルから祈りを取り上げるものは、何もありませんでした。どんなに忙しくても、彼は決して祈ることを止めなかったのです。祈りは、彼 にとって最も大切な任務であり、他のいかなることよりも優先されるべきものであり続けました。一日に3度、彼は大臣としての責任や要求や義務から抜け出 し、主との時間を持ちました。彼はただ、周りのすべてから撤退し、祈ったのです。そして神様は、彼に答えられました。ダニエルは彼の知識、導き、お告げ、 預言のすべてを、ひざまずいて祈る時に与えられたのです。(ダニエル書6:10参照)

地獄を揺り動かす祈りとは一体どんな祈りだろう、とあなたは思われるかも知れません。それは国や教会が堕落してしまっているのを目にする、従順で信 仰に満ちた主の僕から来ます。この人はひざまずき、主に向かって叫びます、「主よ、私はこの環境に馴染んでしまいたくありません。この堕落した時代にあっ て、あなたが力を握っていることを証しする、生きた例として下さい。他の人が祈っているかどうかは、関係ありません。私はあなたに向かってお祈りしま す。」と。

忙し過ぎてお祈り出来ないのですか。「祈りによって受け取ります」と言っているのですか。「神様は私の心を御存知だ。私がどれだけ忙しいかも知って おられる。日中を通して、頭の中でお祈りしている」と自分に言い聞かせておられるかも知れません。

神様は、私達と二人きりで、ゆとりをもった時を持ちたいと願っておられます。そうならば、祈りはただリクエストを伝えるだけの時間ではなく、愛と献 身の行いとなります。

2010年7月13日火曜日

キリストにある力を主張する

イエス様が地上での最後の数時間を、弟子達と共に過ごしている時、イエス様は彼らに言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名に よって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」(ヨハネによる福音書16:23)そしてこう命じられました、「今までは、あなたがたはわたしの名に よっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(16:24)

何と素晴らしい御言葉でしょうか。この場面において、キリストは弟子達に、御自身が彼らを放れ去ること、そしてしばらくの間、彼らを見ることが出来 ないことを、伝えられました。しかし同時に、イエス様は彼らに、天におけるすべての祝福へのアクセスを保障されたのです。彼らはただ、イエス様の御名に よって願えば良いということです。

弟子達は、扉を叩き、探し、神様のものを求めることを、イエス様から個人的に教わりました。彼らはキリストの内にある、御父の恵みについて―その恵 み、権威、力のすべてについて―を直接教わったのです。そして彼らは、イエス様が人々にこう語るのを聞きました。「はっきり言っておく。わたしを信じる者 は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあ げよう。」(ヨハネによる福音書14:12~14)

弟子達に対するキリストの言葉は、私をチャレンジします。「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。」(ヨハネによる福音書 16:24)この箇所を読むと、主が私にささやかれる声が聞こえてきます。「ディビッド、あなたはわたしが与えた力を主張していない。あなたはただ、わた しの名によって願えば良いだけなのに」と。

すべての肉においての罪よりも、神様の心を悲しませるもの、それは、私達がいかに神様の約束を信じていないかです。また神様が、私達の祈りに答えら れないのでは、という疑いを深めていることです。そして人々が、キリストの内にある力を、だんだん主張しなくなっていることです。

あなたがどれ程、キリストに似る者とされる様願ったとしても、神様の宝庫には、それをはるかに超える、霊的な知識の源が備えられています。大きな願 いを持ちましょう。知恵を、導きを、啓示を求めましょう。しかしこれらは、疑いではなく信仰によって、求めなければいけません。

2010年7月12日月曜日

あなたのキリストの偉大さ

ヨハネによる福音書14章は、2つの素晴らしい約束を記しています。一つ目に、イエス様はこう宣言されています。「はっきり言っておく。わたしを信 じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかな えてあげよう。」(ヨハネによる福音書14:12~14)最後の節で、イエス様は単純かつ明確に、こう言われています、「わたしの名によって願うなら、そ れを叶えてあげよう」と。

その2節後、イエス様はこう約束されています。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてく ださる。この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。 この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに 戻って来る。」(ヨハネによる福音書14:16~18)ここでイエス様は、「わたしはあなたがたに真理の霊を授ける。そしてこの霊の力が、あなたがたの内 に留まるでしょう」と言われています。

この2つの素晴らしい約束は、イエス様がなされたものです。しかし、これら2つの間に挟まれた節を見てみて下さい。「あなたがたは、わたしを愛して いるならば、わたしの掟を守る。」(ヨハネによる福音書14:15)何故この言葉が、この場所に記されているのでしょう。キリストは私達にこう、語ってお られるのです、「従順さの問題が、これらの約束に関係しています」と。要するに、この2つの約束は、神様の御言葉を守り、それに従うことに関わっていると いうことです。私達がキリストにある力を主張するにあたって、一切障害となるものがない様、御言葉が与えられているのです。

私は、イエス様の御名によって、何も願わなかったり、小さいことしか願わなかったりすることは、イエス様に対しての侮辱にあたると確信しています。 毎年、多くのクリスチャン達が妥協してしまっています。彼らは最終的に、「救いさえあれば良い」というところに行き着いています。いつか御国にたどり着く こと以外は、何の期待も持っていないのです。

あなたに尋ねます。「あなたはキリストに対する期待の、最終段階にありますか。キリストの恵みと力によって救われること以外に、何の期待も抱いてい ないのですか。あなたのキリストは、この日を生きるのに必要な力を与えるだけでお終いですか。キリストは、サタンからの攻撃が大半の人生において、時々平 安と喜びの場所となっているだけでお終いですか。」

これらの箇所は、私にこう教えてくれています、「私のイエス様の大きさは、私の願いの大きさに比例しているのだ」と。しかし残念ながら、多くのクリ スチャンは不信仰によって、キリストを力無いものにしてしまっています。愛する皆さん、私は私のキリストを制限してしまいたくありません。そうではなく、 地獄中の悪魔達に、私の神様がいかに大きいかを、私の願いの大きさによって示してやりたいのです。私はキリストに、さらに多くを期待しています。私の人生 において、かつて無いほど、大きなキリストとなって欲しいのです。

2010年7月9日金曜日

御手に記されたあなたの名前

私達には祈りによって、素晴らしい権威が与えられています。では実際、一体どの様にして、この権威を用いるべきなのでしょうか。それは、キリストの 御名を通してです。私達がイエス様の内に信仰を持った時、イエス様は私達に、御自身の御名を与えてくださいました。イエス様のいけにえによって、「私はキ リストのものです。私は彼の内にいます。彼と一つとされています」と言う事が出来る様になりました。すると素晴らしいことに、イエス様が私達の名前を手に してくださったのです。大祭司として、イエス様は私達の名前を、その御手に記されました。ですから私達の名前は、イエス様の御名の下で、天に登録されてい るのです。

「キリストの御名によって」という言葉が、単に重要な方程式ではないということが、分かっていただけるでしょう。そうではなく、文字通りそれが私達 の立場を示しているのです。そしてその立場は、天のお父様によって承認されています。イエス様はこう言われています。「その日には、あなたがたはわたしの 名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがた が、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」(ヨハネによる福音書16:26~27)

ここに、何故イエス様が私達に、彼の御名によって祈る様、命じられたかが記されています。「あなたがわたしの名によって願うなら、その願いは、わた しが父にお願いするのと同じ力と影響が与えられる。」言い換えるならば、私達の祈りが、御父の御座の前でイエス様の口から発せられたものと見なされる、と いうことです。同様に、私達が病む者の上に手を置いて祈るのならば、神様はそれを、イエス様が癒しをもたらすために、その人に手を置いているのだと見なさ れるということです。

これはまた、何故私達が恵みの御座に、大胆に近づくべきかを示しています。それは、受け取るためです。私達は確信を持って、「天のお父様、私は出て 行き実を結ぶよう、キリストの内に選ばれた者として、御前に立っています。今、私の喜びが満ち溢れるよう、大胆に願いを申し上げます」と祈るべきなので す。

私は多くのクリスチャン達が「イエス様の御名によってお祈りしたのに、聞かれなかった」と言うのを耳にします。この人達は、「イエス様の御名による 力を宣言しようとしたのに、うまくいかなかった」と語っています。私達の祈りが聞かれない理由は、たくさんあります。私達が罪を犯すことで、キリストとの 交わりが汚されてしまいます。それは、神様からの祝福をせき止めてしまう、障害となります。そして私達がそれらの罪を取り除くまで、神様は私達の祈りに答 えられません。

または、神様に対する私達の生温さや、中途半端な態度が障害となっているかも知れません。疑いによって、キリストの力が私達の内に流れ込むのを止め ているかも知れません。ヤコブはこう警告しています。「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。」(ヤコブの手紙1:6~7)

ヤコブは明確に語っています、「揺れ動くものは、神様から何も受け取ることが出来ない」と。ここでヤコブが使っている、「揺れ動く」という言葉は、 “決断していない”という意味があります。事実、この様な人達が神様にお願いをする時、彼らは神様を試しているのです。心の中で彼らは、「主よ、もし答え てくださるなら、あなたに従います。この祈りに答えてくださるなら、あなたにすべてを捧げます。でももし答えてくださらないなら、自分のやり方で生きてい きます」と。

しかし神様は、下心のある取り引きをなされません。神様は私達の心を御存知で、御子に対しての決心がついているか否か、お見通しなのです。神様は、 キリストにすべてを委ねた者のために、キリストの内にある力を取っておかれます。

2010年7月8日木曜日

主はすべてを求めておられます

「なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて、必ず恵みを与えられる。あな たの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け』と。あなたたちは祭りを祝う夜のように歌い、笛に合わせ て進む者のように心楽しむ。」(イザヤ書18~19、 21、29より抜粋)イザヤは「もしあなたが、ただ主を待ち望むなら―再び主を呼び求め、主に信頼するようになるなら―主は私が言ったことすべて、またそ れ以上のことを成してくださいます」と言っているのです。

神様がただ一言発せられるだけで、敵は私達の前に打ちのめされます。「アッシリアは主の声のゆえにおののく。」(イザヤ書30:31)愛する皆さ ん、神様に解決出来ない問題はありません。私達のために勝利出来ない戦いはありません。神様はそれを、口から出る御言葉だけで成されるのです。イザヤはこ う言っています、「主の息が焼き尽くす硫黄の流れのように、そこに臨む。」(イザヤ書30:33) 

しかし、すべてのことにおいて、神様に信頼することは、簡単なことではありません。最近のことですが、私はニューヨーク市にある私の教会の建物につ いて、主の御心を求めました。私は主にこう言いました、「天のお父様、このことについて、あなたに一切をお委ねします。私はあなたの御心を求めましたか ら、平安の内に待ち望みます」と。神様はこの様に返答されました。「ディビッド、あなたが自分の所有地や、財産など、物質的なものに関して、わたしに信頼 を置いてくれていることは素晴らしいことだ。しかし、あなたはまだ、自分の健康について、わたしを信頼していない。」

私は自分の年齢を、よくわきまえているつもりです。そして自分がいなくなった後、家族がどうなるのか、非常に心配しています。主からの御言葉は、稲 妻の様に私に突き刺さりました。私は物質上の心配はすべて主の御手に委ねているのに、永遠についての心配は委ねられていなかったのです。それに気付き、私 は「主よ、あなたは私がすべてを委ねることを、求めていらっしゃるのですね」と祈りました。

そうです、聖徒なる皆さん、神様はすべてを求めておられるのです―あなたの健康も、家族も、将来も。神様はあなたに、すべての問題について神様に委 ねて欲しいと願っておられます。そしてあなたに、平安と、確信と、憩いの中で生活して欲しいと願っておられるのです。ですから、隠れた場所に行き、主と二 人っきりの時間を持って下さい。すべてを携えて、御前に行くのです。神様は、「あなたはわたしが背後から、『こっちに進みなさい、この道を歩みなさい』と 語る言葉を聞く」と約束してくださっています。

信仰を証明するものは、安らぎです。信頼し切った信仰は、心に平安をもたらします。そして真の信仰は、すべてを主の御手に委ねます。

2010年7月7日水曜日

霊的な強さと信頼

私達がすべての必要を神様の御手に委ね、神様の御力に信頼を置く時、聖霊は私達に力を与えてくださいます。

ルツはその良い例です。彼女は夫に先立たれてから、義理の母であるナオミと一緒に生活していました。ナオミはルツの将来と生活を心配していました。 ですから、彼女はルツに裕福であるボアズの元に行って身を横たえ、家系を絶やさない責任を果たすようお願いしなさい、と助言しました。

その夜、もみ殻を吹き分ける仕事が終わった後、ボアズは「山と積まれた麦束の端に身を横たえ」(ルツ記3:7)、毛布を被りました。翌朝目が覚めた 時、彼は自分の足元に女性が寝ているのを見て驚きました。(ルツがそこにいたことは、ふしだらなことではありませんでした。この様なことは、当時慣習的 に、よく行われていたことでした。)

ルツは彼に言いました、「どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」(ルツ記 3:9)基本的に彼女が言いたかったのは、「同族の者としての責任を果たしてくれますか。私を養ってくれますか。」ということです。実際、彼女は「私と結 婚してくれますか」とお願いしたのです。

これは決してずる賢い策略ではありません。ルツとナオミは、すべて神様の掟に従って行ったのです。キリストがルツの血統から来たことで、これが正し かったのだと分かります。ルツが帰宅した時、ナオミは彼女にこう尋ねました、「娘よ、どうでしたか。」(3:16)言い換えると、彼女は「婚約したルツと 呼ぶべきなの?それともまだ“やもめルツ”なの?」と聞いていたのです。

ルツはナオミに、一部始終を伝えました。ナオミの知恵に満ちた助言を聞いて下さい。「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさ い。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう。」(ルツ記3:18)ナオミはこのことについて祈り、神様の導きを求めていたので、神 様は彼女に助言を与えていました。神様は彼女に、家を絶やさぬ責任に関する律法のことを知らせました。(この概念はキリストの典型、また予兆となりまし た。)ですからナオミは、彼女とルツが、自分達の責任は果たしたという確信を持つことが出来たのです。次はじっと待ち、神様が約束を成就してくださるのを 信じる番です。彼女は、「ルツ、すべては主の御手にあります。落ち着いて、平静にしていましょう」と言いました。

平安と平和が、ナオミの家を覆いました。取り乱し、爪を噛み、「神様は本当に働かれるのかしら。いつ起こるのかしら」と心配する者は、誰もいません でした。この二人の信心深い女性は、落ち着いて、神様に賛美を捧げることが出来ました。

お祈りしていますか?信じていますか?主の救いをじっと待つ準備が出来ていますか?主はすべてを統べ治めていらっしゃいます。

2010年7月6日火曜日

祈りの民となること

エレミヤ書5章において、神様は「エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行 い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。」と言われました。(エレミヤ書5:1)主が言わんとされていること、それは「もしわたしを 求める者が一人でもいるなら、わたしは憐れみを持とう」ということです。

バビロンでの奴隷生活にあった時、神様はダニエルをその様な人として見つけられました。そして今日、歴史上でかつてなかった程に、主はその様に、神 様を敬う人達を探しておられるのです。主は生垣を建て直し、隔たりに立つ、従順な僕達を探しておられるのです。

ダニエルの様に、その様な人は、神様の御言葉を手にしている時に見つけ出されます。聖霊がダニエルに降った時、彼はエレミヤ書を読んでいました。そ の瞬間に御霊が、イスラエルに神様の救いの時が訪れたのだと、明らかにされたのです。この啓示が与えられると、ダニエルは祈るように導かれました。「わた しは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した。わたしは主なる神に祈り、罪を告白した。」(ダニエル書9:3~4)

ダニエルは、主の民が元通りに回復される準備が出来ていないと知っていました。しかし彼は、仲間の罪を非難したでしょうか。いいえ。ダニエルは、自 分を道徳的に堕落していた周囲の人々と同じ様に見なしました。「わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。 主よ、恥を被るのはわたしたちです。あなたに対して罪を犯したのですから。」(ダニエル書9:5、8)

神様は御自身の民を祝福されることを、強く望んでおられます。しかし、もし私達の心が、この世の霊によって汚染されているなら、私達は神様の祝福を 受け取る準備が出来ていません。ダニエルは、次の様な厳しい言葉を述べました。「モーセの律法に記されているこの恐ろしい災難は、紛れもなくわたしたちを 襲いました。それでもなお、わたしたちは罪を離れて主なる神の怒りをなだめることをせず、またあなたのまことに目覚めることもできませんでした。主はその 悪を見張っておられ、それをわたしたちの上に下されました。」(ダニエル書9:13~14)

神様との歩みを見直し、私達が妥協している部分を聖霊に見せていただくようにしましょう。堕落した国家のために祈るだけではなく、「主よ、私の心を ご覧ください。私の内にはびこる、この世の霊をさらし出してください」と神様に叫び求めましょう。そうすることで、私達もダニエルの様に、家族や国家の救 いのために祈ることが出来る様になります。

2010年7月2日金曜日

霊的な強さの秘密

「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安 らかに信頼していることにこそ力がある』と。」(イザヤ書30:15)

ここに、神様の霊的な強さの秘密があります。「安らかに信頼していることにこそ力がある」ということです。ここで使われている「安らか」にという言 葉は、ヘブル語で“静養”という意味です。そしてこの「静養」とは、“落ち着いていること、穏やかであること、不安がないこと、閑静であること、下からの 支えがある所で横になること”という意味があります。

今日のクリスチャンの中で、この様な安らかな信頼を持っている人は、あまりいません。多くの人は、たくさんの活動に参加し、富や財産や快楽を得よう と、必死に走り回っています。ミニストリーにおいても、神様の僕達は不安を覚え、カンファレンスや、セミナーや、ベストセラー本に答えを探そうと、躍起に なっています。誰もが導きや答え、また魂を静める何かを欲しがっています。しかし彼らは、主以外の所に、それを探し求めているのです。彼らは、神様がすで にこのことについて、イザヤを通して語られたのだと、気づいていないのです。もし彼らが、主こそすべての源であると、主に立ち帰らないならば、彼らの探求 は悲しみと混乱に終わってしまいます。

イザヤは、神様の義が私達の内で、何を成し遂げるべきなのかを、語っています。「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえ に安らかな信頼である。」(イザヤ書32:17)もし私達が、本当に義の内に歩むなら、私達の人生は平安な霊と、心の安らぎと、神様との平和という実を生 むことでしょう。

イザヤが周囲を見回すと、神様の民が、人に信頼を置き、馬や戦車により頼み、エジプトへ助けを求めて逃れていくのを見ました。多くの大使が行き来 し、リーダーたちは、緊急会議を開いて策略を練っていました。誰もがパニックに陥り、「どうしたら良いのだろう」と嘆いていました。

彼らに対してイザヤは、こう言いました。「こんな道を たどる必要はないのです。堕落した道から、立ち帰りなさい。他人に信頼を置き、反抗した態度を悔い改めるのです。主に立ち帰りなさい。そうすれば、主はあ なたを平和で覆ってくださるでしょう。今あなたが直面しているすべての状況のただ中にあって、主はあなたに平安と安らぎを与えてくださいます。」

2010年7月1日木曜日

41 日目

もし、あなたが41日目、荒野で誘惑を受けられた直後のイエス様に遭遇したら、と想像してみて下さい。その御顔は輝いているでしょう。素晴らしい勝 利を得た後ですから、喜びに満ち、御父を誉め讃えていることでしょう。

あなたは、活気と自信に満ちているイエス様を目にします。地獄の力に立ち向かう準備が整われたイエス様は、大胆に、闇に覆われた大都市に出て行きま す。福音を述べ伝え、神様の御言葉を確信していらっしゃいます。病人を癒され、御父が共にいてくださると御存知です。

一方、あなたが自分の人生に目を向けると、正反対の状況を目にします。未だに乾いた荒野での体験が続いています。サタンからの激しい攻撃に耐え、あ なたの魂は元気を失っています。「イエス様は、私が通っている様な試練は経験されなかった。イエス様はこんなことでつまずかれたりしないだろう」と思われ るかも知れません。

あなたが牧師を見ると、とても強い信仰を持った人の様に見えるかも知れません。彼の言うことは、神様の臨在を確信している様に聞こえ、あなたは「彼 は私が抱えている様な問題など、経験したことはないだろう」と思うでしょう。もしあなたが真実を見ることが出来たなら、と思います。神様が彼をミニスト リーに導き出された後、彼が荒野で厳しい試練を経験したことを、あなたは知らないでしょう。彼が自分自身を失いそうになり、落胆にくれていたことを、あな たは知らないでしょう。そして彼の素晴らしい説教が、彼自身の試練から生まれたものだということを、あなたは知らないでしょう。

パウロは、自分の義を他人の義と比較しないよう、警告しています。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしような どとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。」(第二コリント人への手紙10:12)

私達は他人の心を読むことが出来ません。41日目に、イエス様が長く厳しい試練を終えられたばかりだということを、いったい誰が知り得たでしょう か。人々が目にした栄光が、彼らの経験したことがないような困難から生まれたものだということを、いったい誰が知り得たでしょうか。

私達は、イエス様だけを見つめるべきです。そして、彼の義と聖さのみに、より頼むべきなのです。主は私達全員に、同じ権利を与えてくださっていま す。

神様は、あなたが試練にある時も、あなたを愛しておられます。神様御自身の御霊が、あなたを荒野へと導き出されたのです。しかし、御子はすでにそこ に行き、あなたが経験していることのすべてを知っておられるのです。あなたが主に完全なる信頼を置く様、神様が成されている御業の 完成を見ましょう。あなたはこの試練から、自信だけでなく、神様のもつ憐れみと、他人を助けるための力を持って、抜け出すでしょう。