2009年9月3日木曜日

「賞賛された」

「昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された」。(ヘブル11:2)

ギリシャ語の原典では「賞賛された」は「証明する、証となる」の意味があります。主にあって私達の先輩達は動じる事のない、揺るがない、地に付いた信仰を持って、試みの時に神の忠実さへの証となったということです。

第 一に彼等は神が彼らを喜んでおられた事を内からの証としてもっていました。彼等は神を大水、嘲り、鎖、投獄、拷問、戦争、獅子の穴、大火事などにあって信 頼しました。そして、主が彼らに微笑んでおられる、「よくやった。あなた方は我を信じた」と言っておられ喜びを知っていました。

「信 仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだから である」。(ヘブル11:6)私達が試みの時に信仰に立つなら、私達は聖霊様から「よくやった。あなたこそ神の証である」という同じ確信が与えられます。
嵐 の狭間で休みを得る時、キリストに重荷を委ねて、信仰に立つなら、私は「賞賛される」事(証)となるのです。私は私の周りに希望の目印となるのです。家 で、職場で、近所で私を見てる者達が大っぴらには言わないでしょうが、彼等は希望と救いが彼らにも与えられている事を知るでしょう。彼等は私の試みの時に 私を見て「まだ希望がある。神に希望を失っていない人がいる。また、神を信頼し、戦い続けている」と言うでしょう。

災害が増え、この世が大恐慌に陥っても、信仰者の態度は揺るぎない信仰の証のみです。私達は内に聖霊に繋がっており、御言葉、完全に啓示された神の言葉を持っているからです。私達は私達の肉を誇れませんが、神の言葉により頼めるのです。

何 時しか、私は「私は心を落ち着かせ、恐れない。私は私の肉か言う疑いや恐れに耳を傾けない。ゆれる事もなく、振り返りもしない。拗ねたり、怖気づいたり、 自己憐憫に更けたりしない」と心に決めて、心に武装をして戦いました。しかし、しばしば不信仰が私の勝利を奪っていきました。

私は「信仰に立つ」事を多く未だ学ばなければなりません。しかし、同時に私が主に全く信頼した時、私がキリストに私の全ての重荷を能動的に委ね、安息に入た時に体験する勝利も味わう事もできたのです。