2010年6月30日水曜日

泣いてしまいなさい

あなたがひどく心を痛める時は、隠れた場所に行って、嘆きのすべてを泣きはらしてしまいなさい。

イエス様は涙を流されました。ペテロも苦い涙を流しました。ペテロは、神様の御子を否定してしまったという痛みを抱えていました。しかしその苦い涙 は、彼の内に麗しい奇跡となって働いたのです。彼はサタンの支配を揺さぶるため、戻って来ました。

イエス様は、涙を流す者から、決して目をそらされません。こう書いてある通りです。「打ち砕かれ悔い改める心を、神よ、あなたは侮られませ ん。」(詩篇51:19)ただの一度でさえ、主は「しっかりしなさい!ちゃんと立って、必要な薬を服用しなさい。歯を食いしばり、涙を我慢しなさい」と言 われませんでした。それどころか、イエス様は私達の涙の一粒一粒を、永遠の容器に入れて保存しておられるのです。

今あなたは痛みを覚えておられますか。ひどく傷ついておられますか。だったら、泣いてしまいなさい。涙が流れ落ちなくなるまで、泣き続けるのです。 しかし、痛みのためにだけ泣くのです。不信仰や自分に対する同情心から泣いてはいけません。

人生は進んでいきます。神様の助けによって、どこまで我慢することが出来るか、自分自身に驚くことがあるでしょう。幸せとは、痛みや傷を受けずに生 きることではありません。真の幸せとは、悲しみや痛みがあるにも関わらず、一日ずつ、その日を生きる方法を学ぶことです。それは、過去にどんなことがあっ たとしても、主にあって喜ぶことを学ぶことです。

あなたは拒絶感を抱いているかも知れません。見捨てられたように感じているかも知れません。信仰の弱さを覚えているかも知れません。打ちのめされ、 カウントをとられるのを待っている様に感じているかも知れません。時に、悲しみ、涙、痛み、空虚感に襲われるかも知れませんが、神様はそれでも御座にい らっしゃいます。神様は、神様なのです。

あなたは自分自身を救うことが出来ません。自分の手で、痛みや苦しみを止めることは出来ません。しかし、私達の主があなたに訪れ、その愛に溢れた御 手であなたを引き上げ、再び天の御国へと導いてくださいます。主は死の恐怖から、あなたを救い出してくださいます。神様は、永遠に続くあなたへの愛を示し てくださいます。

だから目を上げて下さい。主にあって、元気を出して下さい。霧があなたを囲み、窮地から逃れる道が見えない時には、イエス様の御腕に身を委ね、ただ 主に信頼するのです。イエス様は、あなたの信仰、信頼感を求めていらっしゃいます。主はあなたがこう叫ぶのを望んでおられるのです。「イエス様は私を愛し ておられる!私と共におられる!主は決して私を見放されることはない。今、すべてを良きに働いてくださっている。落胆することなどない!私は決してサタン の餌食になったりしない!打ち負かされることもない!神様が私と共におられる。私は主を愛しているし、主は私を愛してくださっている!」

結局は信仰が要となります。そして信仰は、次の絶対的な事実に、安らぎを得ます。「どのような武器があなたに対して作られても、何一つ役に立つこと はない。」(イザヤ書54:17)

2010年6月29日火曜日

量り与えられる神様の栄光

「また、彼らに言われた。『(中略)あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えら れ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。』」(マタイによる福音書4:24~25)

イエス様はこれらの御言葉が、霊のない人の耳には奇妙に聞こえるかも知れないと御存知だったので、「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言ってこのお 話を始められました。(マルコによる福音書4:23)イエス様は「もしあなたの心が、神様の御霊に対して開かれているなら、わたしがあなたに伝えようとし ていることを、あなたは理解するだろう」とおっしゃったのです。

イエス様がこの箇所で伝えられたかったのは、一体何だったのでしょうか。イエス様は、私たちの人生における、神様の栄光を語っておられたのです。す なわちそれは、キリストの臨在のことです。要するに、主はその栄光に満ちたご臨在を、教会や個人に対して、異なる分量を分け与えられるということです。あ る人達は、神様の栄光を一切受け取りません。しかしある人達は、彼らの教会又は人生において、永遠に増し続ける、神様の栄光を受け取ります。

神様は終わりの日に、神様の民の上に御霊を注ぐと約束されました。実際聖書はすべて、終末のときに勝利と栄光に満ちた教会に向けて書かれています。 イエス様御自身も、地獄の門は彼の教会に打ち勝つことが出来ないと語られました。私たちは、弱々しく足を引きずり、打ちのめされ、絶望し、すすり泣き、落 胆した状態で、御国に入る訳ではありません。そうではなく、私たちの主は、もっと素晴らしい力を、主の教会に与えてくださいます。この力は、しるしと不思 議によって表わされるだけではありません。それは神様の民によって表わされます。神様の御霊によって触れられた彼らの心が、素晴らしい変化を遂げることに よって表わされるのです。

どの様にして、さらに素晴らしく、永遠に増し続けるキリストの栄光を、手に入れることが出来るのでしょうか。主は明確に語ってくださっています。 「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。」(マルコによる福音書4:24)イエス様はこう言っておられます。「あなたがわた しに委ねている心の分量に応じて、わたしはあなたに与えよう。あなたのわたしに対する態度に応じて、わたしもあなたに応じよう。あなたがわたしを量る分量 に応じて、わたしもあなたに量り与えよう。」

もしあなたが、神様の素晴らしい御業を当然のものと見なし、神様に怠惰とものぐさを量り与えているのなら、あなたにも無気力でうたた寝をするような 霊が与えられるでしょう。「怠惰は人を深い眠りに落とす。怠けていれば飢える。」(箴言19:15)結果として、あなたの魂は飢え渇き、満たされることが ないでしょう。

神様の私達に対する愛、憐れみ、恵みは、限りがありません。ここでの問題は、どうやって神様の愛、憐れみ、恵みを手に入れるかではありません。そう ではなく、神様の栄光の恵みを、いかに私達の人生で体験するかということです。

イエス様は、私達が神様に分け与える心の分量に応じて、神様の栄光を私達に分け与えられると、はっきり語って折られます。私達に求められているこ と、それは礼拝において、忠実さにおいて、従順さにおいて、さらに神様に近づくことです。

2010年6月28日月曜日

傷つくとき

どの様にかは別として、私たちは皆、傷ついています。地上に生きる人は誰でも、その人に課せられた、痛みの重荷を背負っています。

あなたが深く傷つく時、誰もあなたの内なる恐れと、心の奥底でのもがきを鎮めることは出来ません。どんなに親しい友人も、あなたが経験している試練 や、あなたが受けた傷を理解することは出来ません。

傷ついた心に対する特効薬は、あるのでしょうか。深く、秘めた痛みに対する癒しは、存在するのでしょうか。砕かれた心が元通りにされ、以前よりさら に強められることは、可能でしょうか。はい、断言して言います。それは可能です。もしそうでないなら、神様の御言葉がただの作り話であり、神様が嘘つきと いうことになってしまいます。そんなことは、決してあり得ません。

神様はあなたに、痛みのない道を約束されませんでした。神様はあなたに、「逃げ道」を約束してくださいました。あなたの痛みを担うと、また、弱さに 負けそうになりよろめく時に、再び歩みだす力を与えると、約束してくださったのです。

私たちの愛に満ちた神様は、こうおっしゃいます。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方 です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(第一 コリント人への手紙10:13)

天のお父様は、あなたを揺るぎのない目で見守ってくださっています。あなたの一挙手一投足は、記録されています。涙の一滴一滴は、瓶に詰められてい ます。神様は、あなたの痛みのすべてに共感してくださっています。神様はそのすべての痛みを感じておられるのです。あなたが決して涙に溺れることのないよ うに、あなたの痛みが、あなたの思いを破壊させることのないようにしてくださいます。神様は、必要な時に必ず、あなたの涙を拭き、悲しみの代わりに喜びを 与えるために来てくださると、約束してくださっています。

あなたには、主にあって心に喜びを抱く力が与えられています。神様の御目は、あなたに注がれています。そして神様はあなたに、立ち上がり、疑いを生 む恐れを振り払うよう、命じておられます。