2008年8月29日金曜日

神様は人生を通してそれを成される

いかに神様が人々を神の宮に呼ばれるか、人々に語りかけられるか、人々を救われるかについて、お話しましょう。神様は、人々の人生を通してそれを成されます。主は、神様を愛する人々から放たれる証しの光を通して、神様の教会を立て上げられます。それは彼らが正しい方法を用いているからではなく、彼らの人生を生きているから、神様がそれを可能にされるのです。

キリストの人生は、家庭に、近隣に、町に、職場に、光をもたらします。どうやったらこの人生を手に入れることが出来るでしょうか。それは、信者の一人ひとりが、とがめることなく、神様の憐れみの証しとして、正しく生きることに要約されます。その様な僕は、正直で、自分を捨て、腹黒いところが全くありません。彼らは、イエス様に完全に従う人生を歩み、いつでも他の人々のために仕える準備が出来ています。

パウロは「(神)の御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえ、(中略)盲人の案内者、闇の中にいる者の光」であると自負している僕について語っています。(ローマ人への手紙2: 18~19)パウロが記述する、この様な聖徒は賞賛に値します。

この光について、ある例を挙げましょう。最近のことですが、ニューヨークのある会社の社長が、私たちの教会に電話してきました。牧師のニール先生が、その電話に出ました。その社長は、ニール牧師に私たちの教会に集っている、彼の二人の女性社員について話しました。彼女達は職場の誰とも異なると、社長は言いました。彼女達はいつも、礼儀正しく、微笑を浮かべ、周囲に親切で、決して不平や陰口をたたきません。「彼女達は何かが違う。是非あなたにお会いして、何が違うのか知りたいのですが」と社長は言いました。

彼女達は、イエス様によってその職場に置かれた、天の燭台です。そして彼女達が放つ光は、職場全体を照らします。どうやってでしょうか。それは彼女達が、キリストの命を内に持っているからです。彼女達の上司は、それがこの世が与えることの出来る以上のものだということに気付いたのです。

その社長はユダヤ人でした。彼がリバイバル集会への招待に応じたと思いますか。教会が作成したトラクトを読んだと思いますか。おそらくどこかのファイルにしまい込んで、二度と目にすることはなかったでしょう。しかし彼は、本当の光に応じました。それは、キリストに秘められた私たちの人生にある光であり、二人の心砕かれた女性によって、日々表された光です。

私たちがキリストの人生を完全に生きる時初めて、地域の人々に光をもたらすことが出来ます。権威を持って語るには、自分達が語るメッセージをまず生きていなければなりません。神様は人生の小さいことを通して光を輝かせられると、私たちに教えて下さいます。

2008年8月28日木曜日

放蕩息子とその父

ルカによる福音書15章に記されている放蕩息子は、父との過去の関係があったから家に帰ってきたのだと思います。この若者は父の人柄を良く知っており、父は彼にひたすら愛を注いでくれていた様です。そうでなければ、なぜ彼を痛い目にあわし、浪費したお金のすべてを返済させようとする、怒りと復讐心に満ちた人の元に帰ろうとするでしょうか。

きっとこの放蕩息子は、家に帰ったとしても、犯した罪をとがめられたり、罰せられたりしないだろうということを、知っていたのでしょう。おそらく彼は、「お父さんは、私のことを愛してくれている。きっと私の罪をなじったりしない。多分私を迎え入れてくれるはずだ」と思ったことでしょう。この様な過去の関係があるなら、いつでも家に帰ることが出来ます。

放蕩息子の父が、いかに優しさの祝福をもって、息子を妨げたか見てみましょう。息子は父に対して、心からの告白をしようと心に決め、帰路につく間中ずっとそれを復唱していたのです。しかし父の顔を見るや否や、彼は告白するチャンスを奪われてしまいます。彼に駆け寄り抱きしめることで、彼の父がそれをさえぎったからです。

「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(ルカによる福音書15:20)父は息子が帰ってきたことが本当に嬉しくて、息子に接吻し、「愛しい息子よ。早く家に帰って、癒されなさい」と言いました。

父は息子が告白を終える前に、これらのことすべてを行ったのです。息子は、何とか練習した台詞の冒頭部分を、口に出すことが出来ました。しかし父は、息子が言い終わるまで待ちませんでした。父にとってみれば、息子の罪はすでに清算されているのです。父の唯一の反応は、僕たちに命令を下すことでした。「息子に衣を着せ、手に指輪をはめてやってくれ。お祝いをするための宴を準備してくれ。皆、喜んでくれ。息子が帰って来たのだ。」

父にとって、息子の罪は問題でありませんでした。彼の頭の中にあったのは、ただ愛でした。愛しい息子が罪を告白する前に、彼は受け入れられているのだと知って欲しかったのです。そして神様は、同じことを私たちに伝えたいと、願っておられるのです。神様の愛は、私たちのすべての罪よりも大きいのです。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く。」(ローマ人への手紙2:4)

2008年8月27日水曜日

霊によって行きなさい

あなたは霊によって、世界中のどこにでも行くことが出来ます。ひざまずき祈る時、福音を聞いたことのない人達に触れることが出来ます。事実、あなたの隠れた部屋が、ある国家における御霊の働きの本部となることがあります。

アブラハムがその良い例です。彼は神様を信じない、不道徳なソドムのために祈りました。主は彼に、こう答えられました、「もしソドムの町に正しい者が50人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」(創世記18:26)

これを聞いた時、アブラハムは主と交渉を始めました。彼は、「もしかすると、50人に5人足りないかもしれません。それでもあなたは、5人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」(18:28)アブラハムは、「主よ、もしその50人の信仰者の内、45人が正しい人だったらどうされますか。もし求道者がそれだけだったら、どうされますか。それとも、たった10人だけが、あなたを求める正しい人だとしたら、どうされますか。もしあなたを呼び求める人が、たった10人だとしたら、あなたは町を滅ぼさないでいて下さいますか。」とお願いしたのです。神様はアブラハムに答えられました、「その10人のためにわたしは滅ぼさない。」(18:32)

この聖句は、主について私たちにあることを教えてくれています。主は、もし幾人かの正しい人がいるならば、その社会を丸ごとお救い下さるおつもりである、ということです。これは、自分の国のために執り成す、主の御顔を求める人達のことを語っています。

このことについて、神様はアブラハムに約束されたより、さらにその上を成されます。エゼキエル書22章で、神様は隔たりに立つ、祈りにあるたった一人の信者について語っておられます。「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。」(エゼキエル書22:30)

エゼキエルが預言していた時代、イスラエルは霊的に堕落していました。預言者たちは神様を冒涜し、ありとあらゆる神様の律法を破っていました。そして民は抑圧され、様々なことに腹を立て、色情に溢れ、お互いに略奪し合っていました。彼らの中で、誰一人として主に叫ぶ者はいませんでした。隔たりに立ち、執り成す者は、誰もいなかったのです。しかし神様は、たった一人の執り成し手のために、国のすべてを救われるおつもりでした。

もし肉体的にある国に行くことが出来なくても、執り成し手の一部となることが出来ます。私たちは、国々に遣わされるために献身した人達を援助する様、召されているのです。パウロが宣教旅行について書き綴った時、彼のアシスタントとしてテモテやテトスの名を挙げただけではなく、彼を助けてくれたリディアを始めとする、その他の女性をも紹介しました。彼女達は皆、福音によって国々に触れる助けをした、敬虔な主の僕たちだったのです。

2008年8月26日火曜日

収穫の主に祈りなさい

イエス様は、地上でミニストリーをされていた時から、終わりの日までを見渡し、大変な問題があることを指摘されました。そして弟子達にこう言われました、「収穫は多いが、働き手が少ない。」(マタイによる福音書9:37)

この箇所を読みながら、私は「では、どんな解決法があるのだろう。どうやったら、世界に出て行く働き手が、もっと起こされるのだろうか」と思いました。イエス様は私のこの質問に、次の節で答えて下さっていました。それは、それらの働き手が収穫の地に遣わされる様、誰かが祈らなければならない、ということです。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイによる福音書9:38)

「しかし、いたる所で扉は閉ざされているではないか」と思う方がいらっしゃるかも知れません。確かにそれは事実かも知れません。しかしそれらの国々が、私たちの目にどれだけ閉ざされているように見えるかは、問題ではないのです。もし神様がヨーロッパの鉄のカーテンを砕き、アジアの竹の衝立を砕くことが出来るなら、神様が御心と定められた場所で、その働きを止めることが出来るものは、何もないのです。

私たちのミニストリーがテキサス州を本拠地としていた1980年代、私は一年間に亘り、誰かがニューヨークのタイム・スクエアーにおいて教会を開拓するよう、神様にお祈りしていました。神様が起こされたその人に対して、私は必要な資金を集めたり、ミーティングを開いたり、支援したりして、お手伝いをすることを誓いました。しかし私が、この具体的な収穫の地に働き手を送って下さる様、神様にお願いするにつれ、主は私にその重荷を置かれました。

使徒パウロは、祈りの力によって、宣教師として遣わされたのです。アンティオキアにおいて、教会のリーダー達は収穫のために祈っていました。(使徒行伝13:2~6参照)パウロの最初の宣教旅行は、祈りの会から始まったのです。それは収穫地に働き手を送って下さる様、神様に祈りなさいという、イエス様の御言葉に忠実に従った、信仰深い人達がもたらした結果です。

これと同じことが、今日にも言えます。アンティオキアの信仰深い人達がしたように、私たちも収穫のために祈るべきです。実際、私たちが祈る間に、聖霊が地上を見渡して、主に用いられたいと望む人達の心に、危機感を送られるのです。聖霊はいたる所で人々に触れ、彼らを主の御用のために聖別されるのです。

マタイ8章で、ある百人隊長が、瀕死の僕を癒してもらうため、イエス様のところにやって来ました。キリストは、彼にこの様に答えられました、「『帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。』ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。」(8:13)これと同じことが、収穫のために執り成す人々に起こると信じます。働き手を送って下さいと神様にお願いする時、聖霊がどこかで誰かに働きかけられます。その場所は問題ではありません。ここに素晴らしい真実があります。それは私たちの祈りが、収穫の地に働き手が遣わされるために、用いられているということです。

2008年8月25日月曜日

彼らには命と光があった

「イエス・キリストの教会は、社会の中で霊的な権威を持たない。それは彼らが霊性に欠けているからだ。」

何故、アメリカ政府のリーダー達やメディアは、クリスチャンを馬鹿にするのでしょう。何故、世間の目から見て、教会はその意義と目的を失ってしまったのでしょうか。何故若者は、キリスト教が彼らにとって無関係なものと見なす様になってしまったのでしょうか。

その理由の大半は、教会が光でなくなってしまったことにあります。キリストが社会で権威を持たないのは、キリストが私たちの人生において権威を持っていないからです。今日周りを見渡してみると、神の家で、キリストと真に結びついている人を、ほとんど見かけなくなりました。天国との交わりも、ほとんどありません。そして牧師の中でも、世の方法を拒み、ただ神の導きだけに信頼をおく人が、ほとんどいなくなりました。私たちが光を失ってしまったのは、私たちがキリストの命を失ってしまったからです。神様の主権が影響力を持つには、まず完全に委ね切った従順な器で、それが実現されなければなりません。

ネブカドネツァル王時代の、バビロン王国を思い出してみて下さい。それは、地上で最も巨大な王国でした。ダニエルは、後に続く王は皆、能力でも、力でも、影響力でも彼に劣ると、預言しました。何故でしょうか。それは、バビロンを本当に統べ治めていたのが、ネブカドネツァル王ではなかったからです。巨大な王国を支えていたのは、王が建設した金の彫像ではありませんでした。そうではなく、バビロンの権威は、少人数の神に従う人達の手にありました。主は隠れた天の政府を立て上げ、ダニエルと3人のヘブル人の子ども達によって、それを支配させました。彼らが主の権威の器として用いられたのは、彼らが天の領域において働いていたからです。彼らは、世の組織や制度を一切拒絶しました。その代わり、彼らは神様と一緒に閉じこもったのです。

その結果、この聖なる男性達は、時を読むことが出来ました。いつでも、神様が何をなさろうとしているか、民に告げることが出来たのです。彼らが王国中で、明るく光り輝いていたのは、彼らの内に神の命があったからです。

列王記2章6節に、シリアがイスラエルに対して戦争をしかけようとする場面のことが、記されています。この危機にあって預言者エリシャは、自分の家で腰掛け、主と語っていました。彼は神様の秘密の政府として、権威をもって統べ治めました。エリシャは主から御言葉を受け、シリアの策略のすべてを警告するメッセージを、イスラエルの王に届けました。

シリアの王が、いかにエリシャが彼の策略を妨害しているかを耳にした時、彼は預言者の故郷を大勢の軍隊で取り囲みました。しかし神様はシリア人の目を見えなくし、エリシャが彼らを捕虜として、イスラエル軍のキャンプ地まで導いていくことになったのです。エリシャには光があり、サタンの一挙手一投足をすべて知っていました。なぜなら、彼には命があったからです。

2008年8月22日金曜日

イスラエルの聖なる方を傷つけた

「(彼らは)繰り返し神を試み、イスラエルの聖なる方を傷つけた。」(詩篇78:41)ここで使われている“傷つける”という言葉は、「神様の印象を傷つけることで、神様を悲しませる」という二つの語源から来ています。言い換えれば、神様を傷つけるということは、境界線を引いたり、円で囲んだりすることによって「神様はここにいるけど、この先には行けない」と神様を制限することです。多くの信者が、この様な考えを持っています。私たちは自分の頭の中で、非常に大きいキリストを、とても小さな印象や概念として記録してしまっています。

エルサレムの初代教会も、全く同じことをしました。彼らはキリストを小さな円で囲み、ユダヤ人だけの間に留めておこうとしました。しかし、イエス様を制限することは出来ません。彼は絶えず、私たちの描く小さな境界線を破り、いつも一番遠くの人達に御手を伸ばされます。

例を一つ挙げてみましょう。約40年前まで、ペンテコステ派の人達は、霊による洗礼が自分達だけに与えられているものだと信じていました。彼らの内の多くは、「私たちこそ、神様の霊に満ち溢れた教会なのだ」と思っていました。ペンテコステ派の牧師達は、主流の教派の活気の無さを見て嘆き、「彼らは私たちの様に、完全なる福音を持っていないのだ」と宣言していました。

突然、神様の霊が、私たちの引いた境界線を打ち破られました。聖霊が、全教派の信者達の上に注がれたのです。この現象は、ジョン・シェリル(John L. Sherrill)氏によって、「彼らは異言を語った」(原題:They Speak With Other Tongues)という一冊の本にまとめられました。

また主は、私が書いた本、「十字架と飛び出しナイフ」を、特にカトリックの方の間で用いて下さいました。しかし、ペテロと初代教会同様、私がこの現象を受け入れられる様になるには、主が私の心に働いて下さらねばなりませんでした。私はずっとペンテコステ派の信者として育てられてきたので、神父達が罪を確信して涙を流し、イエス様に叫ぶのを初めて見ました。

すぐに福音派の牧師達が、「カトリックの聖母崇拝はどうするのか。そんな信仰を持つ人達に、どうやって働きかけるのか」と言って私に詰め寄りました。私はペテロと同じ様に、彼らに返答しました。「私には聖母崇拝のことは、よく分かりません。私が知っているのは、ただカトリック信者の間で、霊に飢え渇いている人達がいるということです。そして神父達の間でも、イエス様を礼拝する真の信者がいるということです。神様が、この人達を御自身の御霊で満たしておられるのです。」

神様は、世界の隅々まで御自身の民を養っておられます。ですから私たちは、その中の誰をも、下品で汚れた者と呼ぶことは出来ないのです。私たちは、イエス様を小さい方である様に描いたり、自分達のちっぽけな考えの中で、小さな箱に入れてしまったりしない様、気を付けなければなりません。

2008年8月21日木曜日

シミもしわもない

キリストの教会は、世から承認されたり、受け入れられたりすることがありませんでした。そして将来的にも、同じことが言えるでしょう。もしあなたがイエス様のために生きるなら、すすんで他の人から離れようとする必要はありません。彼らの方が、あなたから離れていくでしょうから。あなたがただ、イエス様のために生きようとするだけで、突然、非難を受け、拒絶され、悪魔と呼ばれることに気付くでしょう。あなたは「人々に憎まれ、また人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる」のです。(ルカによる福音書6:22)

しかしイエス様は、こう続けられます。そしてこれこそが、真の満たしへの道なのです。「自分のために命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイによる福音書16:25)言い換えると、こういうことです、「人生に意義を見つける唯一の方法は、わたしのために一切を失うことです。そうすれば、真の喜び、平安、満足感を得ることが出来るでしょう。」キリストは、私たちにこう言われます。「わたしの教会には、シミもしわもありません。だから、あなたがわたしのところに来る時、すべての罪を投げ捨てる心構えが必要なのです。わたしにすべてを明け渡し、完全に自分に、また自分勝手な野望や自我に、死ななければなりません。信仰によって、あなたはわたしと共に葬られます。しかしわたしがあなたを、新しい命へと甦らせます。」

シミもしわもないということが、何を意味するか、考えてみて下さい。皆さんもご存知の通り、シミは汚れのことです。しかししわとは、どういうことでしょう。“新しいしわ”という言葉を聞いたことがありますか。それは、「既存の考えに、新しいアイデアを付け足す」という意味です。この理解を当てはめるならば、しわとは、福音を改良しようとする人達のことを示しています。それは、完全にキリストに委ねることなしに、簡単に天国へ入る方法を手に入れようとすることです。

この種の福音が、今日の多くの教会で語られています。説教は、人々の必要を満たすことだけを目的として説かれています。イエス様の御言葉を読む時、私はこの種の福音が、うまくいかないことに気付かされます。それは、真の福音の働きを成し遂げることが出来ないからです。

誤解しないで下さい。私は神様の民に、慰めや勇気を語ることに反対している訳ではありません。主の羊飼いとして、私は正にそのために召されているのです。しかし、もし私が人々の必要を満たすことだけのために説教し、私たちのすべてを投げ出す様勧められたキリストの教えをないがしろにするならば、私たちの真の必要は、決して満たされることがありません。イエス様の御言葉は明確です。私たちの必要は、自分に死に、キリストの十字架を背負うことによって、満たされるのです。

2008年8月20日水曜日

悔い改めを宣べ伝える

イエス様は、「わたしの教会は、恥じることなく、開かれた、悔い改めの場所である」と宣言されました。事実、使徒パウロは、こう証言しています。「『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活されたと信じるなら、あなたは救われるからです。

実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。」(ローマ人への手紙10:8~11)

簡単に言うならば、私たちは公に悔い改めることで、救いにあずかることが出来るのです。イエス様は、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。(マタイによる福音書9:13)そしてイエス様は、悔い改めることによって、私たちは癒され、健康を回復することが出来るのだと言われました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカによる福音書5:31~32)

これは素晴らしい福音です。イエス様は私たちに、「わたしの教会では、誰もが悔い改めによって癒されます。あなたが誰であるか、すなわち、肉体的に病んでいるのか、精神的に病んでいるのか、霊的に病んでいるのか、全く関係がないということです。誰もが同じ様に、わたしのところに来なければなりません。そして誰もが悔い改めによって、癒しを見つけることが出来るのです」と語って下さっています。

どれだけの教会が今も、心砕かれた人々に招きをし、悔い改めを勧めているでしょうか。どれだけの牧師が、招きを施すという、この非常に重要な霊的な働きを、止めてしまっているでしょうか。どれだけの信者が、罪を告白することの必要性を忘れてしまっているでしょうか。

キリストの福音で、中心的なメッセージとは何でしょう。彼は4つの福音書を通して、それを非常に明確にしています。イエス様は「これが、わたしの教会で語っていることです。これが全ての罪人に対してのメッセージです」と言っておられます。

「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコによる福音書1:14~15)これが、記録されている、イエス様の最初のメッセージです。彼は悔い改めを宣べ伝えられたのです。

クリスチャンの中には、これを極端な表現だと思う人がいるかも知れません。彼らは「イエス様が悔い改めを語られたのは、分かりました。でも一体どれだけ強くそれを語られたのでしょうか」と思うことでしょう。ルカは彼の福音書の中で、この質問に対する答えを記しています。イエス様は会衆に対して、こう言われました。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じ様に滅びる。」(ルカによる福音書13:5)

2008年8月19日火曜日

自分の描く主の姿

あなたは、キリストとの関係に成長が見られなかったり、成熟していなかったりする家族や友達のことを心配していますか。その人を見定める時、自分にとってのキリストの概念を、その人の人生に当てはめようとしていませんか。自分の中で、真のクリスチャンはこういうものだという絵を描いて、あなたの愛する人がその絵に当てはまらないと思っていませんか。

もしかして、あなたはキリストを制限していないでしょうか。あなたのイエス様はとても小さく、固く活動を制限されているので、あなたは彼の御霊が、深く隠れた働きをしていると、信じることが出来ないでいるのではないでしょうか。自分の思い描いた絵に見合っていないと言って、非難していませんか。神様は大きなお方であり、目に見えない方法で、その人の内に働かれることが出来ると信じていますか。

約35年前、セレステ・ホバスというある悪名高い女性が、ブルックリンにあるティーン・チャレンジにやって来ました。彼女は、全米でも非常に有名な男性たちを相手にする売春婦たちを雇っている、ニューヨークで最も名の知れた女将でした。セレステはペンテコステ派の家庭で育ち、祈りの人であった彼女の祖母は、彼女に向かって「あなたは伝道者になる」と預言しました。しかしセレステは、教会の教えを拒絶し、売春に走ったのでした。

セレステの売春宿が繁盛するにつれ、彼女は薬物に依存するようになりました。この間ずっと、彼女の心の中で葛藤が繰り広げられていました。毎晩彼女はこう祈りました、「神様、どうか私にあともう一日、命を与えて下さい」と。結局セレステは逮捕されました。そのニュースは、全米で一面記事となりました。ある時彼女の弟は、「お前は家族にとんでもない恥をもたらした。もう救いようがない」と彼女に書き付けました。

しかしイエス様は、彼女を決して見捨てられませんでした。ある日、非常に心細く感じてどうしようもなかった時、セレステは祈り、主の御前で心を砕きました。すぐに彼女は変えられ、その瞬間に新しく創られた者となりました。

彼女の生活を外側から眺めていた人達は、誰もが彼女に望みは無く、何も変わりようが無いと思っていました。しかし彼らは、限定されたキリストの考えしか持っていなかったのです。彼らは、この間何年にも亘って、彼女の内でずっと働いておられた聖霊を見ていなかったのです。人々がセレステを、ただのありふれた汚れた者としてしか見ていない中、主は彼女を伝道者として見ておられたのです。

セレステは判決が下る直前にティーン・チャレンジにやって来たので、私たちは彼女のケースを引き受けました。彼女は刑務所にいる間に、神様が召された通り、伝道者になりました。彼女は投獄中に、たくさんの魂をイエス様に導きました。釈放されてから、彼女は力強い路傍伝道師となり、やがてロングアイランドで教会を開拓しました。その教会は、今日も霊に満ち溢れています。

2008年8月18日月曜日

畏怖と敬意

聖書は、一人ひとりの信者が養わなければならない、主の畏れがあると明確に示しています。真の神様に対する畏れは、畏怖と敬意を含みますが、それよりももっと深いものです。ダビデはこう記しています。「神に逆らう者に罪が語りかけるのが、わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。」(詩篇36:1)ダビデは、「誰かが罪におぼれるのを見るとき、私の心は、その人の内に神に対する恐れがないことを知らせてくれます。その人は、罪に関する真実や、神様が私たちを聖さへと召されていることを認めていないのです」と言っているのです。

事実、信仰に満ちた畏れは、邪悪な時代にあって、私たちに勝利を維持する力を与えてくれます。ではどうやって、この畏れを手に入れることが出来るのでしょうか。エレミヤは、神様からの御言葉によって、こう答えてくれます。「わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。」(エレミヤ書32:39~40)

これは、主からの素晴らしい約束です。神様が、私たちに聖い畏れを与えると、保証して下さっているのです。神様はこの畏れを、超自然的な閃光として、ただ私たちの心に入れ込まれる訳ではありません。神様は御自身の御言葉を通して、この畏れを私たちの内に入れられるのです。

では、ただ聖書を読むだけで、神様の畏れが私たちの内に植えられるということでしょうか。そうではありません。それは私たちが、神様の御言葉一つひとつに従おうという決断を、意識的に行う時に与えられます。聖書はこれを証明しています。エズラにどうやって、神様に対する畏れが与えられたかが記されています。「エズラは主の律法を研究して実行し、イスラエルに掟と法を教えることに専念した。」(エズラ記7:10)

神様に対する畏れは、旧約聖書だけの概念ではありません。それは旧約・新約両聖書を通して見ることが出来ます。旧約聖書は、「主を畏れ、悪を避けよ」(箴言3:7)と語っています。同様に、新約聖書もこう記しています、「彼らの目には神への畏れがない。」(ローマ人への手紙3:18)さらにパウロはこう言っています、「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(第二コリント人への手紙7:1)

2008年8月15日金曜日

隠されるべきではない光

イエス様は私たちに、「あなたがたは世の光である」と言っています。(マタイによる福音書5:14)この御言葉は、ただミニストリーを行うこと以上のことを、物語っています。それは教えや、説教や、トラクト配布を超えています。キリストは非常に分かり易く「あなたがたは光である」とおっしゃっているのです。彼が言っていること、それは「あなたがたは、ただ光が反射したものではありません。光そのものなのです。そしてあなたの光の明るさは、私との歩みの強さにかかっています」ということです。

ここで主が、何を言わんとされているか、分かりますか。世界は、誰が主と共に歩む者か、判断することが出来ます。あなたの近所の方や職場の仲間は、あなたの主との日々の交わりや、主にある信仰や、主への完全なる信頼を知らないかもしれません。しかし、彼らはあなたが放つ光を見ます。あなたが主と共にあって、命を得ているからです。そして、何もその命を隠すものが無い限り、あなたの光は暗闇で光り輝きます。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタイによる福音書5:14)イエス様は、「わたしはあなたを、世に見せるために置いた。わたしがあなたを展示物としたので、人々はあなたを見るでしょう。あなたは隠されるべきでない、光なのです。」

では、誰がこの山に置かれた光なのでしょうか。そしてどこで彼らを見かけることが出来るのでしょう。彼らは大抵、スポットライトの下では見つけられません。彼らは自己中心的で、世から認められることのために生きている、出世を追い求める人達の間では見ることが出来ません。また彼らは、聖いふりをしながら、陰口をたたき、不平・不満をこぼしている、自尊心の強い、教会の派閥支持者の間でも見ることが出来ません。

長年の経験を通して私は、一見信心深く見えながら、実は霊的に怠惰である多くの信者を見てきました。彼らは謙遜に見えると思い、自分達の失敗や弱さを語ります。しかし彼らは他人の過ちを、すぐに裁きます。彼らは、誠実で、寛大で、僕の様に仕える、キリストの様な霊を持っていないのです。それどころか、彼らが持つ“光”は実は暗闇なのです。イエス様は「もしあなたの内にある光が濁っているなら、その暗さはどれほどであろう」(マタイによる福音書6:23)と言っています。キリストの命がないなら、他の人を照らす光はありません。

「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(5:16)私たちが世に光を放つようにされているのは、神様が栄光を受けられるためです。

2008年8月14日木曜日

光に秘められた命

「イエスは再び言われた、『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」(ヨハネによる福音書8:12)

イエス様は世の光です。ヨハネは、キリストの内にある命が、この光を生み出したと言っています。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネによる福音書1:4)簡単に言うならば、キリストが持つ命が、世の光の源だということです。そして信じる者はすべて「命の光を得る」(ヨハネによる福音書8:12)のです。では、聖書が語っている“光に秘められた命”とは、一体何のことでしょう。

私たちのほとんどは、この命をキリストの内に秘められた永遠の命として理解しています。それは、信じる者すべてに永遠の命を与えることが出来る、キリストの力です。しかしヨハネはここで、それ以上のことを語っています。彼がここで使っている“命”という言葉は、イエス様の存在のすべてを表しているのです。

イエス様は私たちに、御自身が生きられた様に生きなさいと言われています。私たちがキリストの様に生きるためには、彼の人生が私たちにとって、自分たちの経験から理解出来る様なものである必要がありました。私たちの人生に、結びつくようなものでなければならなかったのです。

皆さんに、どうやって私がキリストにある命と結びつきを見出しているか、お教えしましょう。私はイエス様が触れられ、話され、成されたどんな小さなことをも喜びます。イエス様の日々の行い、御言葉、御父との歩みが、私たちにキリストにある命が、どんなものであるかを明確にしてくれると信じています。

私はラザロとイエス様の友情を、思い浮かべます。長いミニストリーの後に、群集から距離を置かれたイエス様のことを、思い浮かべます。マリア、マルタ、ラザロの家で、楽しんでいるイエス様を思い浮かべます。そして子ども達を抱え、祝福するイエス様の姿を思い浮かべます。結婚の宴の席で水をワインに変えた、成長した後も母に対して従順であったイエス様を思い浮かべます。軽蔑を受ける者、醜い者、貧しい者を気にかけ、愛を注いだイエス様を思い浮かべます。姦淫の最中に捕まった女性や、たった二枚の銅貨しか捧げることの出来なかった、やもめに対するイエス様の憐れみを思い浮かべます。

イエス様が地上で成された、愛に満ち、僕の様に仕えられた、すべての御業を記録するには、本が足りないでしょう。これらの聖句の中で私たちは、自分の人生とキリストの人生を結びつける方法を見つけ出します。これが“光である命”を理解する方法です。

2008年8月13日水曜日

約束に立つ

神様の先見的な祝福の約束があるので、私たちは戦いが始まる前に、勝利と主権を主張することが出来ます。ダビデはこう歌いました、「主よ、王はあなたの御力を喜び祝い、御救いのゆえに喜び踊る。あなたは王の心の望みをかなえ、唇の願い求めるところを拒まれませんでした。」(詩篇21:1~2)

あなたは、「何故ダビデは喜ぶことが出来たのだろうか。彼は体験したことのないような、厳しい攻撃に直面していたのに。傷つけられ、殺されるかもしれないという時に、なぜ彼は喜ぶことが出来たのだろうか」と不思議に思われるかも知れません。

ダビデはこう答えています。「(あなたは)彼を迎えて豊かな祝福を与え、黄金の冠をその頭におかれた。」(21:3)ここでダビデが言っていることは、人生の転換を示すものです。「私は、私を必死になって滅ぼそうとしている、強力な敵に直面しています。しかし、私の心には平安があります。何故かって?それは、主がすでに私の苦しみを、御存知でいて下さるからです。そして神様は、私に神様の愛の保証を降り注いで下さったのです。敵は私をつまずかせ、倒れさせ、場合によっては完全に私の望みが絶たれたように見えるかも知れません。しかし神様は、私は立ち上がり、神様の力を受けて、戦いに勝つと、教えて下さいました。」

ダビデは次の言葉を、戦いに行く直前に発しました。「(あなたは)彼を迎えて豊かな祝福を与え、黄金の冠をその頭におかれた。」(詩篇21:3)ここでダビデが言っている黄金の冠とは、勝利と主権の象徴です。ダビデは、「私は神様の約束に立って、戦いに行きます。神様は、私が勝利の冠をかぶって戦いを後にすると、約束して下さったのです」と言ったのです。

ここに、神様の先見的な約束の教理を要約することが出来ます。神様は、私たちの困難のすべて―私たちの罪、肉、悪魔との戦いのすべて―をすでに御存知であり、その憐れみと恵み故に、私たちの負債を、その期日前に支払って下さったのです。私たちの勝利は、すでに確約されているのです。

神様の先見的な約束は、特にイエス様を愛し、罪に驚く人達に対して適用されます。主は、もし私たちが一時的に倒れてしまったとしても、イエス様がすでに負債を支払って下さっているので、戦いから高く頭を上げて起き上がってくることが出来ると、保証して下さいます。

2008年8月12日火曜日

愛の備え

「(あなたは)彼を迎えて豊かな祝福を与え、黄金の冠をその頭におかれた。」(詩篇21:3)初見では、このダビデの詩篇は、少し不思議な感じがします。ここで使われている“与える”という言葉は、英語の聖書で“prevent”すなわち“防止する”という訳がなされています。それは普通、何かを妨げる時に使うもので、祝福とは共に使いません。直訳するならば、「主はダビデが祝福を受けないようにされた」となります。

しかし、聖書の“prevent”は全く異なる意味を示しています。それは、“予期する、先に立つ、あらかじめ見越し実現する、期日前に支払う”という意味があります。さらに、ほぼすべての事例において、それは何か好ましいことを示しています。

イザヤは私たちに、この様な喜びを垣間見せてくれます。それは神様が、あらかじめ必要を予期し、それを実現させて下さることから来ます。「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける。」(イザヤ書65:24)

この聖句は、私たちに対する素晴らしい神様の愛を描いてくれています。明らかに、神様は私たちを祝福したいと待ち焦がれていらっしゃいます。神様は私たちの人生を、主の愛と恩恵で満たす準備が出来ているので、私たちがそれらを求めるまで待つことが出来ないでいらっしゃるのです。ですから、神様は介入して、私たちに憐れみ、恵み、愛の御業を成して下さるのです。そしてそれは、神様にとって最上の喜びとなるのです。

これこそが、ダビデが詩篇21篇で語っていたことです。「主よ、あなたは私が、あなたの愛と恵みを求める前に、それらを注いで下さいます。そして、私が求める想像さえつかない程のものを、与えて下さいます。」

ダビデは霊の領域において、神様が彼に対して行った、素晴らしい御業を思い出して言っているのです。それは、ダビデが敵から勝利を得たこと、祈りに答えられたこと、力に打ち勝ったこと、言葉に言い表せない程の喜びを感じたこと等です。そして神様はこれらすべてのことを、ダビデが祈りに入り、心の重荷を下ろしたり、願いを示したりする前に成されました。ある時ダビデは、神様の前に心を注ぎ出しましたが、神様がすでに敵を打ち負かすための備えをして下さっていたことに気付きました。ダビデの勝利は、彼が戦場に近づくそのずっと前から、すでに確約されていたのです。

2008年8月11日月曜日

私たちの焦点

パウロの時代のクリスチャン達は、エルサレム崩壊が近づくのを感じるにつれ、もっと預言された出来事を知りたいと願うようになりました。彼らは、大勢の捕虜を奴隷とする、冷酷な侵略者達に関するうわさに恐れを抱いていました。信者達はそれを聞いて、危険な時が近づいているのだと感じる様になりました。そこで彼らはパウロに、何が起ころうとしているのか、もっと教えて欲しいと願い出ました、「どうやって時を読めば良いのか、私たちに手紙を書いて教えて欲しい」と。

パウロは、次の様な確信の言葉をもって返答しました。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜にやって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身がよく知っているからです。」(第一テサロニケ人への手紙5:1~2)

パウロは、キリストの再臨の際、何が起こるかを彼らに伝えました。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。」(14:16~18)

パウロの奨励の言葉は、彼らを励ますためのものでした。パウロが根本的に語っているのは、「これから地に起こることについて、あなた方が恐れることは何一つありません。恐ろしい前兆や惨事に関して、過度に心配する必要もありません。あなた方は、これが何を意味するか、よく分かっているはずです。それは主イエス様が、彼の民を引き上げるために、再び来られることを示しているのです」ということです。

歴史はどこかに向かっています。私たちは、矢のような速さで展開していく今日の出来事が、私たちを神様の永遠の目的に向かって運んでくれていると、確信することが出来ます。世界は当てなくさ迷っている訳ではありません。どれ程人間が邪悪で不信仰になっても、主はこの地を見放されません。むしろ、神様はペースを速められました。そして今私たちが目撃しているのは、ある神様の出来事に向かって素早く移り変わる時代の動向です。それはキリストが永遠に統べ治める、新しい天と地の創造です。

キリストに従う私たちの焦点は、日々のニュースではありません。戦争や、戦争のうわさや、核事故や、地上で起こっているその他のどんな出来事にも、気を留めるべきではありません。イエス様が「その日が来たら、目を上げなさい」(ルカによる福音書21:28参照)と言われた時、彼は私たちが焦点をどこに置くべきかを教えて下さったのです。

2008年8月8日金曜日

私たちの怪物をも従えられる神様

神様はヨブに言われました。「見よ、ベヘモットを。お前を造ったわたしはこの獣をも造った。」(ヨブ記40:15)「お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ、その舌を縄で捕らえて、屈服させることができるか。」(40:25)

なぜ神様は、ヨブに現れられて最初に、これら二つの大きな怪物について考えさせられたのでしょうか。なぜ神様は、ヨブにカバとワニの顔を調べさせられたのでしょうか。

まず、主はこの問題を僕に突き付けられました。「ヨブよ、あなたの後ろにカバがいるが、どうする。自分の力でそのカバを、押し倒すことが出来るか。無理だと言うのか。猫なで声で話しかけてみてはどうだ。」

「では、恐ろしいワニはどうだ。このワニをどうする。この生き物は、氷の様な心を持っていて、情けという観念が全くないのだ。」これは、単なる野生界のお話ではありませんでした。むしろ、神様はこれらの怪物の生涯について、ヨブに教えようとされたのです。神様はその僕に、この二匹の素晴らしく、どう猛で、強靭な生き物は、ヨブの人生に襲い掛かる巨大な問題を表しているのだと示されたのです。

「カバのことを考えてみなさい。カバは、目に見えるものすべてを、踏みつぶしてしまう。ヨブ、カバはあなたには大き過ぎて、手に負えない問題なのだ。あなたはどうやっても、カバには敵わない。何をしたって、飼いならすことは出来ない。ただ、主であるわたしだけが、この様な怪物を止めることが出来るのだ。」

「では、ワニはどうか。どんな人間も、そんな生き物と争うことは出来ない。そして誰も、その力でワニの固い鎧を引き剥がすことは出来ない。これは霊の敵である、悪魔についても同じことが言える。ただ、主であるわたしだけが、彼と争うことが出来るのだ。」

ここで神様が言われようとしていることが、分かりますか。神様はヨブだけに語っておられるのではなく、信じる者すべてに語っておられるのです。そして神様は、「あなたの人生の中にある、怪物についての真実を受け入れなさい。あなたはそれらを扱うことが出来ない。それが出来るのは、わたしだけである。」

ヨブは答えました。「私の神様は全能です。神様は何でもお出来になられます。そして神様のご計画は、何も妨害されることがありません。私は自分の力で、ワニやカバに立ち向かうことが出来ないと、知っています。でも、それは問題ではありません。なぜなら、神様にはお出来になると知っているからです。私のするべきこと、それはただじっと信じて立って、主の救いを見ることです。」(ヨブ記42:1~2参照)

2008年8月7日木曜日

すべての戦いにおける勝利

神様は、私たちが神様の力の冠を得、すべての戦いで勝利することが出来る、と約束して下さいました。「御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。」(詩篇21:13)

主はどの様に、慈愛と良いものの祝福で私たちをお守り下さるのでしょうか。聖霊は、私たちのすべての恐れ―失敗や神様から離れてしまうことの恐れ、聖霊の臨在を失ってしまう恐れ―を私たちの内に御霊の喜びを植え付けることによって、追い出して下さいます。神様が勝利を確約して下さっているので、私たちはダビデがした様に、喜び歌うべきなのです。

しかし、この様な元気と素晴らしい喜びに満ちたクリスチャンは限られています。多くは魂の安らぎや、キリストの臨在にある平安を全く知らないでいます。その様な人達は、神様の救いの翼の影にいるのではなく、神様の裁きと憤りの下にあって、喪に服しているかの様に歩いています。彼らは、神様を常に鞭を構えている厳しい親方として捉えています。ですから、彼らは希望もなく、生きているというより死んでいるように、惨めに生きるのです。

しかし神様にとって、私たちの問題は罪ではなく、信頼なのです。イエス様は、私たちのすべての罪を十字架の上で担い、罪に関する問題を一切解決して下さいました。イエス様は「今回の罪はもう手に負えない」などと決して言われたりしません。むしろその正反対です。神様の御霊は、失敗の最中にある私たちにさえ、常に御父の慈愛を伝えようと努めています。

私たちが自分の罪に焦点を当てる時、神様が私たちに望まれることから目をそらしてしまいます。神様の望まれること、それは「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」ということです。(ヘブル人への手紙11:6)この御言葉が、すべてを物語っています。私たちの神様は、ご褒美を下さる方であり、御自身の慈愛で私たちを満たしたいと切望しておられるので、予定を随分早めて、私たちを祝福して下さいます。

これこそが、天におられる父なる神様が、私たちに持っていて欲しい、神様のイメージなのです。神様は、いつ私たちが罪を犯しそれを告白するか、すべて御存知です。いつ私たちが心から悔い改めるかも、御存知です。しかし、それをお待ちになることが出来ないでいらっしゃるのです。ですから、「わたしの子どもは、裁きを受けることがないと約束する。御子の清めの血によって、すでに赦しを与えているからである」と、言って飛び込んできて下さるのです。

2008年8月6日水曜日

生い茂ることの大切さ

「イナゴは、地や草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。」(黙示録9:4)

どうしてこの“青物”が私たちの信仰にとって重要なのでしょうか。イナゴは、どんな生い茂るものにも触れてはいけないと命じられたのを、覚えていますか。簡単に言い換えるならば、イナゴたちは信仰に歩む人達に危害を与えることが、出来ないのです。

ですから、神様に信頼をおく人は、イナゴに襲われる時も、生い茂る木のように固く立ちます。彼らはテロリストなど、イナゴによって象徴される様々な敵に、傷つけられることがありません。サソリの毒針の様な地獄の攻撃がある時、その最善の防衛は霊的な健康です。そしてこの様な霊的健康は、神様に立ち返り、神様の約束に信頼することによってのみ、与えられます。

あなたにお伺いします。
• あなたは神様の赦しを完全に信じていますか。すべての罪の清めを、神様の血に頼っていますか。もし、罪悪感にさいなまれていたり、いつも神様を喜ばせようとしたりするならば、あなたは霊的に健康ではなく、生い茂ってはいません。神様の一番の望みは、私たちが神様の赦しの賜物を受け入れ、そこに平安を得ることです。
• あなたは、神様の赦しを受け入れているかも知れません。しかし、神様のあなたに対する無条件の愛を信じていますか。

私たちの主は、失敗したからと言って、私たちを見放されたりしません。神様は、私たちが失敗したり間違えたりしないようにと、いつも私たちを見張っておられる訳でもありません。神様はただ、神様の所に近づき、「主よ、私はあなたの御言葉を信じます。私を赦し、清め、あなたの御腕に私を抱きしめて下さい」と告白すれば良いのです。

神様が私たちに望まれることは、私たちが恐れの無い人生を過ごすことです。ですから、サタンが私たちの過去の失敗について責めるのを、赦してはいけません。もし私たちが罪を告白するなら、キリストの尊く清い血が、私たちを覆って下さいます。

これが、神様に信頼をおくすべての人に与えられた約束です。「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。彼らは力を失って倒れるが、我らは力に満ちて立ち上がる。」(詩篇20:7~8)

2008年8月5日火曜日

地に足を着け備える

「主はダビデと共におられ、サウルを離れ去られたので、サウルはダビデを恐れました。」(サムエル記上18:12)

サタンは、祈りの中で神様と共にいて信仰に立ち戦おうと決心した人達を、最も恐れ、またねたんでいます。サタンは、信仰により戦いのために武具を身に付けた人なら、どんなに少人数でも恐れを抱きます。しっかりと地に足を着け、抵抗する準備が出来ている人達の前に、サタンはすくんでしまいます。そしてサタンはあなたを恐れているので、彼はあなたの闘争心をかき消してしまおうと計画しているのです。

悪魔は、あなたの心を敗北感や混乱、また神様に対する不信感や疑いを生む不快感で溢れさせることで、その計画をまっとうしようとしてます。悪魔はあなたの心と霊に、こう叫びます。「戦うことはもう無駄である。お前は自分の人生の問題で弱り切っているではないか。お前はその問題に打ち勝つことは出来ない。地獄の力は強すぎて、お前は絶対にそれに勝つことは出来ない。だったら、観念してリラックスしたらどうだ。戦うことに、もうそんなに躍起になる必要などない。」

これらはすべて、あなたの心を乱そうとしているサタンの働きです。サタンの策略のすべては、あなたの目を十字架の勝利からそらせようとすることです。サタンはあなたが、自分の弱さ、罪、欠点に目を向けるよう、しむけてきます。ですからサタンは、あなたが抱える問題や苦しみを加熱させようとするのです。サタンはあなたに「もう無理だ」と思わせたいのです。しかし、あなたの力が問題なのではありません。それはイエス様の力次第です。

事実、私たちは皆、死ぬかイエス様の再臨の時まで、戦い続けます。時に静かで、一時的に混乱から逃れられる時が来るかも知れません。しかし、この地上に生きる限り、霊の戦いから逃れることは出来ません。そして霊の戦いは、決して終わることがないのです。ですからパウロは、イエス様が私たちに、とりでを打ち壊すための力強い武器を与えて下さった、と言っているのです。私たちはサタンが太刀打ち出来ない様な武器を装備しています。その武器とは、祈りと断食と信仰です。

今は自分が抱えている問題から目をそらす時です。私たちは自分の試練に焦点を当てるのではなく、この戦いの指揮官に目を向けるべきなのです。イエス様はすべての勝利に通ずる鍵を持ち、私たちに確かな約束を与えて下さっています。「わたしはあなたに、戦いに必要なすべての武器を与えました。そしてあなたが弱さを感じる時、必要な力を与える準備が出来ています。」

2008年8月4日月曜日

神様に喜ばれる歩み

使徒パウロは、コロサイの教会に次の様に教えました。「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」(コロサイ人への手紙1:10)

主に喜ばれるように歩みには、一体何が必要でしょうか。パウロはこう、語っています。「神様に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」(コロサイ人への手紙3:12~13)

パウロは様々な言葉を用いて、「これが重要な場面に直面するあなたがたへの言葉です。近いうちにやってくる困難に際して、あなたがたは信仰の歩みを、主に照らし合わせる必要があります」と語っています。

それは言い換えてみると、こういうことです。「私はキリストに似る者となってきているだろうか。もっと忍耐強くなっているだろうか、それとも短気だろうか。もっと優しく、寛容になってきているだろうか、それとも意地悪で、理屈っぽくなってきているだろうか。もっと柔和で寛大になってきているだろうか、それとも辛辣で、恨みを抱えているだろうか。互いに赦し合えているだろうか。周囲の人々の弱さや過ちを赦しているだろうか、それともいつも自分の正しさを貫こうとしているだろうか」と、自問しなければならないということです。

パウロは、これから困難がやって来る時、あなたが何を成し遂げたかや、どんな慈善事業に携わったかは関係ないと言っています。あなたがどんなに他人に親切を施したとしても、どれだけ多くの魂をキリストへと導いたとしても、この質問が残されています、「あなたはもっと愛に満ち、忍耐深く、寛大で、寛容になってきていますか。」

信仰の歩みをキリストと照らし合わせるということは、あなたが何をしているかに焦点を当てるのではなく、あなたがどんな人間になってきているかに注目するということです。その様な歩みは、人間の努力のみで達成出来るものではありません。それは自分自身の決断で、「私はこの様なクリスチャンになる」と断言することでは起こりません。むしろ、神様の御言葉における信仰を通し、聖霊の働きによって成されます。

まず、私たちはこれらの御言葉を読み、これらが神様からの召しであると信じて、自分自身を吟味します。そして、私たちの本来の姿を示して下さるよう御霊にお願いし、御言葉と照らし合わせます。それから、御霊に私たちを変えて下さるよう、お願いするのです。

2008年8月1日金曜日

ハゲタカを追い払う

創世記15章で、神様はアブラハムと素晴らしい契約を結ばれました。神様は彼に、雌牛と雌山羊を用意し、それらを二つに切り裂くようにと命じられました。さらにアブラハムは、山鳩と鳩を互いに向かい合わせて地面に置かねばなりませんでした。アブラハムが、血を滴らせたいけにえを命じられた通りに用意する中、ハゲタカがこれらの死体を狙って降りてきました。突然、アブラハムは彼を取り巻く恐ろしい暗闇を感じました。その暗闇とは何だったのでしょうか。それはサタンの狼狽でした。

あなたがイエス様に人生を捧げ、神様の約束がすべてあなたのものとされるのを見て、サタンはどう反応すると思いますか。悪魔は嫉妬に満ちて激怒するでしょう。そしてあなたがどこまでも主に従うと固く決心するのを見る時、悪魔に残された反応はたった一つ、それは地獄中がパニックに陥ることです。

ハゲタカがやって来た時、アブラハムはどうしたでしょうか。聖書は、彼がハゲタカを追い払ったと記しています。同様に、主は私たちを脅かすハゲタカをどう扱ったら良いか、その方法を示して下さっています。私たちには戦いに必要な武具が既に与えられているので、悪魔の攻撃を恐れる必要がありません。

戸惑いや神様に対する疑いの声が、私にささやきかける時はいつも、私はそれらを愛する主について知っていることと照らし合わせてみます。その瞬間の感情だけを元に、どんな考えも正しいと受け入れることは出来ません。それらはイエス様の私に対する約束や、イエス様が私のために勝ち取って下さった勝利と照らし合わされなければなりません。

簡単に言うなら、もし非難に満ちた思いが生まれるなら、また、もしそれらの思いが疑いや恐れを引き起こしたり、責めたり、拒否感を引き起こしたりするのであれば、それらは神様から来るものではないと分かります。私たちは、その様な恐ろしい考えが生まれることに対して、心構えをしておかねばなりません。主なるイエス様でさえ、荒野で試みに遭われた時に、悪魔からのこのような考えにさらされねばなりませんでした。

ハゲタカが自己批判や自己不信をもってあなたに襲い掛かる時、神様の御言葉をもってハゲタカを追い払うのです。主があなたに捧げる様命じられたいけにえは、神様にとって喜ばしいものであり、神様は必ずそれを祝福して下さいます。