2009年9月9日水曜日

神だけが知られる道

「(正 しい・義人の)人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。」(詩編37:23)。ここで「定められる」と訳されているヘブライ語は「前 もって決められている、計画されている」との意味を含んでいます。神は日々の計画を日ごとに定めるのでもなく、また週毎、年毎に計画を立てているのではあ りません。否、神は信じる者悉く一生の計画を持っておられます。私達が救われた瞬間、その計画は実行に移されます。

で はこの「定められた」道とは何でしょう。イエス様は短く、はっきりと示されました。「わたしは道である」(ヨハネ14:6)。キリスト自身が栄光と永遠の 命への道です。私達の終に行く所にっキリストが導きます。私達の歩みは天にて、御手の中で終わるのです。へブル人への手紙2:10はイエス様が「多くの子 らを栄光に導く」と記しています。

し かし私達はイエス様がどの様な道筋によって導くかを知りません。私達の誰も私達の後の旅路がどのようなものとなるがは知りません。その道は神のみぞ知って おられます。私自身の例をとりましょう。私は70余年間栄光への歩みを続けて来ました。道すがら、神は時には目標を与え、夢を与え、幻を与えて、私はそれ を追い求めました。しかし、主は決して私に全ての道筋を知らされませんでした。現に私はこれまで、明日どのような道を歩むかもわかりませんでした。

ヤ コブが老いて、バローにこう自分の人生を表しています。「わたしの旅路のとしつきは、百三十年です。わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたし の先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません」。ここで「ふしあわせ」と訳されているヘブライ語は「災難、試み、悲しみ、問題、逆境」を意味します。

ヤ コブの心を私はわかります。私の旅路のある日々は繰り返すなど考えたくありません。勿論、私は神がなさった全ての祝福と奇跡を褒め称えます。そして、これ まで神が私のうちに立てられた信仰に感謝しています。しかし、わたしがそれをもう一度生きるなら、全てがよい結果を齎すように前もって知ろうとするでしょ う。これは神が働く方法ではないのです。全ての信じる者の道は信仰によって定められるのです。