2010年8月31日火曜日

完成させること

「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしない と、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することは出来なかった』と言うだろう。」(ルカによる福 音書14:28〜30)

キリストは、彼に従う者の多くが、完成するに必要なものを持っていないことを知っていました。彼らが背を向け、レースを完走することがないと知って いました。キリストを知り、成熟した弟子となり、もっとキリストに似る者とされようという、完全なる志をもって始めながら、途中で離れて行ってしまうこと ほど、信者にとって悲劇的なことはありません。その様な人は、最初に費用を計算しなかったので、土台を築きながらも完成出来なかった人です。

実際にレースを完走した人達と会うことは、何と素晴らしいことでしょうか。これらの信者は、キリストの知恵と知識に満ちています。彼らは日々、瞬間 毎に、変えられています。パウロは彼らに、励ましの言葉を述べています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄 光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(第二コリント人への手紙3:18)彼らが望むのは天国では なく、栄光に満ちたキリストの御姿なのです。

このディボーションを読まれておられる方の中には、信仰の歩みにおいて一時休止していたり、後戻りしたりしておられる方がおられるかも知れません。 それは小さなステップの様に見えるかも知れませんが、神様の愛から大きく離れる原因になってしまいます。もしこれがあなたに当てはまることでしたら、聖霊 があなたを引き戻そうとされておられることに、気づいてください。悔い改め、自分に死に、完全に委ねることへと。そしてこの瞬間、時というものが重要な役 割を果たします。もしキリストを知りたいと思われるなら、今、そうして下さい。そして、完成させて下さい。

2010年8月30日月曜日

愛と憎しみ

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(ルカによる福音書14:26)

ギリシア語で「憎む」とは、“比較的に言って、少しの愛を注ぐ”という意味があります。イエス様は、この世のものいかなるものが、主への愛とは比較出来なくなるほど、 私達にイエス様だけを絶対的に強く愛するよう、呼びかけておられるのです。

考えてみて下さい。主の麗しい臨在に入り、何も求めなくてよいことが、どういうことか、私達に想像出来るでしょうか。ただ感謝の意から主に手を差し伸べ、主から完全に愛されるということが、想像出来るでしょうか。

私達は祈りにおいて、自己中心的かつ自分勝手になってしまいました。「これを下さい、来て下さい、祝福して下さい、用いて下さい、守って下さい」等 々と。これらの祈りはすべて、聖書に基づくものかも知れませんが、それでもその焦点は、私達に当てられています。主に対する働きでさえ、自分勝手なものに なっています。主への働きが祝福され、自分の信仰が本物であると証明される様、望んでいるからです。主は、私達がどれほど主のために働くかより、主にあっ てどの様な者にされていくかに興味を抱かれています。

これを読んでいる方の中で、ミニストリーの扉が閉ざされ、心を痛めておられる方がいらっしゃるかも知れません。自分は物置にしまわれてしまった、と 感じておられるかも知れません。またある方は、必要を覚えている宣教地で働くことで、さらに神様の役に立てると思っておられるかも知れません。しかし、隠 れた場所で祈ることで神様に愛を示すこと程、神様の役に立つことはないと、私は思います。私達が主を求める時、また神様を知るために御言葉を探り続ける 時、私達は一番役に立っているのです。どんな働きをするよりも、ただ神様と二人っきりで交わることが、神様を祝福し喜ばせます。神様が私達に働きを委ねよ うとされる時は、それが近くであっても遠くであっても、神様との交わりから自然に生まれます。神様にとって、私達が世界を勝ち得るよりも、私達自身の心が 完全に神様に向けられていることの方が、もっと大切なのです。

魂を得る働きを見下している訳ではなく、すべての霊的に祝福された宣教は、神様との交わりから生まれると、言いたいのです。常に祈りにあって主と共にいる証し者は、知恵と、絶好の機会と、神様の御心を行うための力が与えられています。

2010年8月27日金曜日

主の食卓

ある古いゴスペルソングが、私にとって、非常に奥深い意味を持っています。その歌詞は「イエス様は食卓を備えられている。それは神様の聖徒らが食する所。選ばれた神の人々が来て楽しむ。」

何て素晴らしい考えでしょう。主は従う者達に、天国で食卓を備えてくださっているのです。イエス様は、弟子達にこう言われました。「わたしの父がわ たしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、私の国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座 に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(ルカによる福音書22:29〜30)主への飢えを覚えるとは、信仰によって、私達もこの食事の座に 着くということです。

使徒パウロが「過越祭を祝い続けようではありませんか」(第一コリント人への手紙 5:8)と命じるのは、私達のために、天国においてキリストと共に、王の食事の席が備えられているということを、私達が明確に理解するためです。パウロは こう言っています、「必ず出席しなさい。あなたの席が空席になっているとは、言わせてはなりません」と。

しかし残念なのは、イエス・キリストの教会が、この「祭りを祝い続ける」ということの意味を理解していないということです。私達は、キリストによっ て引き上げられた後、御国で彼と共に座することの名誉と素晴らしさを、理解することが出来ません。私達は、食卓に着くことで、精一杯になっています。正餐 よりも、仕えることで霊的な喜びを得るよう、私達は勘違いを犯してしまっています。私達は、もっともっと主のために働く一方で、もっともっと、主御自身を 知らなくなっています。主のために、私達の心も体も酷使しながら、ほとんど祭りをお祝いしません。

天国において主が、その僕や、牧師や、羊飼い達から、他のことよりもただ一つ求められることとは、主の食卓に共に座することです。この食卓は、霊的 な交わりを持つためのもので、毎日備えられています。「祭りをお祝いする」とは、食べ物と、力と、知恵と、交わりを求めて、主の元に継続的にやって来ると いうことです。

十字架の後、すべての霊的な偉人達には、一つの共通点がありました。彼らは主の食卓の座を畏れたのです。彼らはキリストの偉大さに、我を失っていました。彼らは皆、亡くなる時に、自分達がいかに、まだキリストとその生涯のことをよく知らないでいるかを嘆きました。

私達が今日描いている、キリストのビジョンは、あまりに小さく制限されています。この堕落した時代の、複雑で増加するばかりの問題に打ち勝つために は、偉大さを語る福音が必要です。神様は、ただこの世の問題を解決されるだけではありません。神様の偉大さの内にあって、それらの問題は一飲みにされてし まいます。キリストの偉大さをはっきり持つ人は、どんな問題も、悪魔も、この世の力も、恐れる必要がありません。その人は、いかにキリストが、そのどれよ りも偉大であるかを知っているからです。もし私達がこの様に、キリストの偉大さについての理解を抱くなら、すなわち、それがいかに制限なく、豊かで、莫大 であるかを知るならば、私達はもう二度と、人生の問題に心を失うことがないでしょう。

パウロは、私達の良き見本です。彼はキリストの啓示を、ただただ深めようと決意していました。事実、彼がキリストについて知っていたことはすべて、 啓示から来ました。それらは彼が、主の食卓に座する時に与えられ、聖霊によって明らかにされたのです。思い出して下さい、彼がエルサレムにいる弟子達を訪 ねていったのは、改心した3年後のことでした。そして彼は、弟子達とたった15日間一緒にいただけで、すぐに宣教の旅に出て行きました。後にパウロはこう 語っています、「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。」(エペソ人への手紙3:3)聖霊は、神様の深く隠された秘密を御存知です。パウ ロは恵みの賜物によって、「キリストの計り知れない富」(エペソ人への手紙3:8)について理解し、その福音を語り告げることが出来る様、常に祈り求めて いました。

真実の言葉を見つけるために、様々な矛盾する声をかき分けるだけでは満足出来なくなった信者を、主は探しておられます。深く、個人的な交わりから来る主の啓示を、私達が求めるよう、主は願っておられます。

2010年8月26日木曜日

信仰の戦場から

パウロがエルサレムに行くと決めたのは、そこでリバイバルが起きていたからではありません。彼は失望した宣教師が、神様からの啓示を求めてやって来 る状況とは違います。彼はエルサレムに行く理由を、こう明言しています。「わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。エルサレムに上ったの は、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、話すためでした。」(ガラテヤ人への手紙2:1〜2より抜粋 )パウロは、神様が御自分の民に示したいと願っていた奥義を証しするために、エルサレムに向かったのです。

この信仰の人は、個人的に栄光に輝くキリストの啓示を体験しました。彼が宣べ伝えていた教義は、独り部屋に閉じこもって、本や解説書を読むことで学 んだものではありません。彼は独り神学的な真実を瞑想することにふけり「いつか私の研究の成果が、未来の世代の人々に読まれるのだ」と夢見る哲学者ではあ りませんでした。

どうやって、またどこからパウロが彼の手紙を執筆していたか、お伝えしましょう。彼は暗い、湿った監獄から手紙を書いていたのです。背中に鞭打たれ、血を流した後にこれらの手紙を書いたのです。また船が難破し、海から這い上がって来た後に、これらの手紙を書いたのです。

パウロは、彼が人々に教えていたことはすべて、信仰の戦場から来たのだという自覚がありました。そして直面していた苦しみのすべては、福音のためな のだと考え、それらを喜んだのです。彼はこう言いました。「これでようやく、難破した経験のある船員に対して、また希望もなく監獄されている収容者に対し て、死の危機に瀕したことのある人に対して、権威をもって宣教出来る。聞く耳のある者が主の真実を聞くことの出来るよう、神様の御霊が、私を経験豊富なベ テラン兵士としてくださったのです」と。

神様はあなたをサタンの手に引き渡されたのではありません。それどころか、神様は御霊を通して、あなたの内で目に見えない働きをするために、あなたが試練を経験することを、許されているのです。キリストの栄光が、あなたの内で永遠に形成されているのです。

誰か他の人や、他のものによって、自分の真の霊性を磨くことは出来ません。神様の栄光を経験するには、あなたが今いるその場所で、それが良くても悪くても、その環境のままで、栄光を経験する必要があるのです。

パウロの霊の強さに関する一番の秘密とは、彼がいかにどんな状況をも不満をもらすことなく受け入れたか、ということです。彼はこう記しています。「わたしは自分のおかれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」(フィリピ人への手紙4:11)

ここで使われている「満足する」とは、ギリシア語で“攻撃をかわす”という意味があります。パウロは「私は自分をひどい環境から救い出そうとは思い ません。神様に、『私を救い出してください』ともお願いしません。反対に、私はどんな境遇をも受け入れます。経験から言って、それらはすべて、主が永遠の ものを私の内で実らせておられるからだと知っているからです」と言っているのです。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。」(第一コリント人への手紙10:13)パウロがここで使って いる「耐える」という言葉は、私達の境遇が変わることのないことを示唆しています。ここでのポイントは、与えられた環境下で、いかに私達が耐えるか、とい うことです。それは何故でしょうか。神様がもし環境を変えられれば、私達が最終的に滅びてしまうと御存知だからです。神様は私達を愛しておられるからこ そ、私達が苦しむのを許されるのです。

困難にある時の私達の役目とは、苦しみの中にあっても、満足を覚えるに必要な力と資源のすべてを、神様が備えて下さっていると信頼することです。誤 解しないで下さい。困難にあって満足することは、困難を楽しむこととは異なります。それはただ、困難から自分自身を救い出そうとすることを、止めることを 意味します。私達は、神様が許される環境に満足し、それを耐えねばなりません。それは私達の主が必ず、御子にあって私達の憩いをもたらしてくださると信じ ているからです。

2010年8月25日水曜日

この時代の忍耐

「忍耐する」とは、“困難の中でも続行する、諦めずに耐え忍ぶ”という意味があります。簡単に言うならば、続行する、忍耐するということです。しか し今の時代、この言葉はあまり意味を持ちません。今日のクリスチャンの多くは、配偶者に、家族に、また神様に、諦めを抱いています。

ペテロはこのことについて、こう述べています。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みなのだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは 御心に適うことなのです。」(第一ペテロ2:19)さらに彼はこう続けています。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょ う。しかし善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリスト もあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続く様にと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』の のしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたち の罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやさ れました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(第一ペテロ2:20〜 25)

使徒パウロは私達に、こう命じています。「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。」(第二テモテへの手紙2:3) また主御自身が、次の約束を与えてくださっています。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイによる福音書24:13)

あなたにお尋ねします。あなたが直面している困難とは、一体何ですか。結婚生活が波乱状態にありますか。仕事の危機に瀕しておられますか。親戚や、大家さんや、友人との間に問題を抱えていたり、彼らに裏切られたりしましたか。

私達は希望を抱くべきです。パウロは苦しみましたが、決して諦めず、彼の深い信仰、揺るぎない平安、成熟さ、理解も決して止まることがありませんで した。彼はこう語っています。「もし私が霊的な人となるなら、もし私が本当に主を喜ばせたいなら、環境に逆らうことは出来ません。私は決して諦めず、耐え 忍びます。この世の何ものも、神様の御霊が試練に立ち向かうために、私に与えてくださっているものを、与えることは出来ません。神様は私を、霊的な者へと 育ててくださっているのです。」

パウロの人生は、キリストの霊による息吹が吹き入れられていました。そして真の霊的な人は、皆そうあるべきなのです。聖霊は神様の天の息吹を、すべ ての僕の内なる人に注ぎます。その人は落胆しません。自分のおかれた環境に対して、不平不満をもらしたりしません。人生における大変な試練にあったとして も、その人は微笑むことが出来ます。それはその人が、神様が内に働いて、永遠の栄光を示して下さることを知っているからです。

2010年8月24日火曜日

あなたに与えられたキリストの啓示

もしあなたが牧師、宣教師、または教師であるなら、考えてみて下さい。あなたは一体何を教えているのでしょう。それは人から教わったことですか。あ る素晴らしい先生が受けた啓示を、そのまま伝えておられますか。それとも、自分自身でイエス・キリストについての啓示を経験されましたか。もし経験された ことがあるなら、それは成長し続けていますか。御国があなたに開かれていますか。

パウロは言いました。「我らは神の中に生き、動き、存在する。」(使徒行伝17:28)本当に神様にある人は、この小さいながらも莫大な円の内に生 きます。その一挙手一投足、その存在のすべては、キリストの思いの内に包まれています。何年か前、私は聖霊がキリストのみを語る様、導いておられるのを感 じました。私の内に、ただキリストだけを述べ伝えたい、という強い思いがありました。しかし私の心は定まっておらず、この円だけでは小さ過ぎると思ってし まいました。結果として、私がいただいた啓示は消え去っていきました。

キリストを述べ伝えるために、私達は聖霊から、常にキリストの啓示を受ける必要があります。そうでなければ、私達の伝えることは、活気のないものと なってしまうでしょう。もし聖霊が神様の御心を知り、隠された神様の奥義を探すなら、そして私達の内に聖霊が豊かな水の流れとして満ちてくださるなら、私 達はその流れで満たされる準備をする必要があります。決して終わることのない、キリストの啓示で満たされ続けなければなりません。この様な啓示は、主に従 おうという態度を示し、 聖霊が主の御心を明らかにしてくださることを信じている主の僕すべてに備えられています。

パウロは、キリストが彼に示されているだけではなく、彼の内に示されていると言いました。(ガラテヤ人への手紙1:16参照)説教者の生活やミニス トリーで力を持たない御言葉なら、たとえそれが説教として分かち合われたとしても、神様の目にそれは、無駄なものとして写ります。浅はかなクリスチャン達 には、キリストを論争として取り扱うことが良いことの様に写るかもしれません。しかし、真の神の人には、そうではありません。私達は、永遠に深まり続ける キリストの啓示を伝えなければなりません。そしてただ伝えるだけではなく、その啓示が自分の人生にもたらした変化をも伝える必要があるのです。

パウロも個人的な悩みを打ち明けました。「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者 になってしまわないためです。」(第一コリント人への手紙9:27)パウロはキリストにおける救いを疑っていた訳ではありません。ここで使われている「失 格者」という言葉は、ギリシア語で“認められていないもの”又は“価値のないもの”という意味があります。パウロは、キリストの裁きの座に着く時、よく知 りもしないキリストについて教えたり、自分が行動に移さなかった福音を宣教したりしたことについて裁かれることを、非常に恐れていました。パウロがよく用 いている「キリストを生きる」もしくは「我が内に生きるキリスト」とは、このことを表しています。

私達は次の質問に個人的、また正直に答えるまで、自分自身を神の僕と呼ぶことは出来ません。「私は心からキリストだけを求めているだろうか。キリストだけが、我がすべてであり、唯一の生きる目的だろうか。」

あなたはこの質問に「はい」と答えられますか。もし心から「はい」と答えることが出来るなら、パウロが語っている、自分の人生の汚点を指摘すること が出来ます。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピ人への手紙3:8)キリス トの啓示の素晴らしさ故、すべてのものを損失と見なしていますか。あなたが本当にキリストだけを求めるなら、あなたのミニストリーは単なる職業ではなくな り、祈りとなります。催促されてキリストを求めるのではなく、キリストと交わることを望む心から、頻繁に自ら隠れた場所に行くようになるでしょう。主を礼 拝し、急がされることなく主との交わりの時を持ち、主を愛し、手を上げて主を賛美し、主を求め、主の知恵に対して感謝を捧げることでしょう。

2010年8月23日月曜日

依り頼む心

詩編の著者は、こう記しています。「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。」(詩編22:4〜5)

「依り頼む」というヘブル語の語源は“絶壁から自分自身を放り投げる”ということを示唆します。それはまるで、子どもが垂木に登ってはみたものの、 降りられなくなった光景のようです。その子は父親が「飛び降りなさい」と言う声を聞き、言われるままに、父の腕の中に飛び込みます。あなたは今、この様な 状況におられますか。絶壁に立ち、ぐらつき、イエス様の御腕に飛び込むしか選択はない、という状態ですか。ただ諦めてしまうことは、依り頼むことと違いま す。それは単なる運命論でしかありません。依り頼むことと、受け身で観念することとは、大きく異なります。依り頼むとは、能動的に信じることです。

私達がイエス様を強く求めれば求める程、私達はしっかりとイエス様に依り頼むことが出来ます。人生において、イエス様が全体的な構図を捉えておられ ず、自分が主権を握っていた方が良いと思えてしまい、イエス様に依り頼むことが出来ないことがあるかも知れません。しかしイエス様に近づき、もっと彼を知 ることで、その考えは変わるでしょう。命綱の端っこにしがみつき、どうしても助けが必要な時だけイエス様に近づくのではなく、常にイエス様と共に歩むこと で、待ち受ける試練を警告してくださる御声が聞こえるようになります。

依り頼む心は、常に「私の歩みのすべては、主によって定められています。主こそ私の愛する父であり、私が苦しみや試練を通るのを許されます。しかし それは、決して私が耐えられないものではありません。神様がいつも逃げ道を備えてくださるからです。主は私に、永遠の御計画と使命を持っていてくださいま す。私の髪の毛の数を御存知で、私を母の胎にて形作ってくださいました。神様は私が座るのも、立つのも、横になるのも御存知です。私を目に入れても痛くな い者として見てくださるからです。主こそ神であられます。私の神であるだけではなく、私に訪れる、すべてのことやものの神様でもあられます」と言います。

また完全な心とは、砕かれた心です。

詩編の著者であるダビデは、こう語っています。「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。」(詩編34:18)

砕かれた心とは、単に嘆き悲しんだり、押しつぶされたり、謙遜したりする心ではありません。真に砕かれた心は、神様が人間に与えてくださっている、 最も素晴らしい力を解き放つことが出来ます。それは死人を甦らせることよりも、病人を癒すことよりも、さらに素晴らしい力です。私達が神様の御前で本当に 心砕かれるなら、廃虚を建て直し、神様に特別な栄光と誉れをもたらすことの出来る力が与えられます。

砕かれることは、壊されたり、登ったりと、壁と関わりがあります。ダビデはエルサレムの壁を登ることと、神様の民が砕かれることとを関連づけまし た。「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。御旨のままにシオンを恵み、エルサレムの城壁を築いてください。そのときには、正しいいけにえも焼き 尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれるでしょう。」(詩編51:17〜19より抜粋)

ネヘミヤは心砕かれた者で、彼の物語は、エルサレムの壊れた城壁に関することでした。(ネヘミヤ書2:12〜15参照)夜の闇の中、ネヘミヤは砕か れた城壁を見ました。ここで使われている「砕かれた」という言葉は、ヘブル語の「シャバー」です。そしてそれは、詩編51章17節にある「砕かれた心」で 使われている言葉と同じものです。ヘブル語での意味を踏まえて言うなら、ネヘミヤの心は2つの方法で砕かれていました。一つ目は廃虚を嘆く心、そして二つ 目は再建の希望によって、心がはち切れそうになっていたことです。

真の砕かれた心とは、こういうことです。それはまず、教会や家庭の崩壊を見て嘆き、主の苦悩を感じること。この様な心は、主の御名が非難されること に、痛みを覚えます。そしてまたこの様な心は、ダビデ同様、自分自身を見つめ、恥と失敗を見つけ出します。しかし砕かれた心に関する二つ目の重要点は、希 望です。真に砕かれた心を持つ人は、神様からの「わたしは癒し、再建し、回復する。廃虚を片付け、基礎を建て始めなさい」という御声を耳にしているので す。

2010年8月20日金曜日

神様と共に歩む

「エノクは神と共に歩んだ。」(創世記5:24)原文のヘブル語で「歩む」とは、エノクが上ったり下ったり、出たり入ったり、進んだり下がったり、 神様と手を取り合い、語り合い、神様に近づき続けていた様を表しています。エノクは365年、もしくは1年365日ですから、年を年分生きたと言えるで しょう。彼の内に、私達は新しいタイプの信者を見ます。成人してからの365年間の毎日、彼は主と手を取り合って歩みました。主こそ彼の人生そのものでし た。だからこそ、彼は人生の最後で、死を見ることがなかったのです。(ヘブル人への手紙11:5参照)

神様が取られたエノクと同じ様に、神様と親しく共に歩む者は、サタンの手から取られます。サタンの闇の王国から取り去られ、キリストの光の王国へと 導き入れられるのです。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」(コロサイ人への手紙1:13)

エノクは堕落した社会にあって、神様を喜ばせる歩みをすることを学びました。彼はまったく普通の人で、私達が直面しているのと同じ問題や重荷を背負 い、初代教会時代に見られた一部の信者の様に、荒れ野にある洞穴で隠れた生活を送ったりしませんでした。彼には妻子があり、責任と義務がありました。エノ クは一人隠れて、聖い人生を送っていた訳ではありませんでした。

「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記5:24)ヘブル人への手紙の中で、私達はこれがエノクの移動、すなわち彼が死 を体験しなかったことを表しているのだと知ることが出来ます。しかしここに、さらに深い真理があります。創世記5章で使われている「いなくなった」という 言葉は、「この世の者ではない」という意味をも持つのです。エノクは霊的また本質的に、この堕落した世界の者ではありませんでした。日毎彼は主と共に歩 み、少しずつこの世のものから離れていきました。パウロの如く、エノクは日々この地上での生活に死に、霊によって天国の領域へと引き上げられていたので す。

しかし地上での歩みを続けていた間、エノクはすべての責任を果たしました。家族を養い、働き、仕えました。しかし彼は、この世のものに捕らえられていませんでした。日常生活の何ものをも、彼を神様との歩みから引き離すことは出来なかったのです。

ヘブル人への手紙11章5節は、こう明確に記しています。「(エノクが)移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。」エノクの したことの一体何が、神様をそこまで喜ばせたのでしょうか。それは彼の神様との歩みが、神様の愛される信仰を生み出したからです。次の二つの箇所は切り離 すことが出来ません。「移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル人への 手紙11:5〜6)私達はこの聖句をよく耳にしますが、その前の節と共に読まれることは、ほとんどありません。しかし聖書全体を通して、神様と親しく歩ん だ者は皆、深い信仰を持った人達でした。もし教会が、日毎神様と共に歩み、神様と絶え間なく交わりを持つなら、結果として神様を喜ばせる信仰に溢れた人達 を生み出すでしょう。

エノクの周りで、人類は堕落していくばかりでした。しかし人々が切望、頑なさ、好色に溢れて野獣と化しいく中で、エノクは共に歩む方にだんだん似る者となっていきました。

「信仰によってエノクは移された。」これは私達の理解を超えてしまう様な、驚くべき真理です。エノクの信仰のすべては、たった一つの望みに焦点が置 かれていました。それは主と共にいるということです。そしてその信仰に対する応えとして、神様はエノクを移されたのです。エノクは、もはや覆いの後ろに隠 れていることができませんでした彼はただ、主を仰ぎ見たかったのです。

私達の兄弟であるエノクには、聖書も賛美歌集も、信仰の仲間も先生も、内に宿る聖霊も、至聖所へのアクセスをもたらす裂け目もありませんでした。ただ彼は神様を知っていたのです。

「神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからで す。」(ヘブル人への手紙11:6)どうやって私達は、エノクが神様を報われる方であると信じていたと知ることが出来るでしょうか。彼が神様を喜ばせる信 仰を持っていたことによってです。神様は報いと報酬を与えられる方、すなわち信仰の深さに応えられる方です。では、熱心に求める達に、主はどのように報わ れるでしょうか。

信仰により神様を信じ、神様と共に歩む者に与えられる、3つの重要な報酬があります。

1.一つ目は、神様が私達の人生を統べ治めてくださること。主をないがしろにする人は、悪魔が働いて占領するに従い、人生のコントロールを失いま す。その人がただイエス様と恋に落ち、彼と歩むなら、神様はすぐに、サタンがいかに彼の人生の主権を握ることが出来ないかを示し、キリストが彼の人生を統 べ治められるようにしてくださいます。

2.二つ目の報酬は「真の光」を持つ信仰から来ます。私達が主と共に歩む時、私達は光、導き、分別、啓示の報酬を受けます。それらは神様が与えてくださる、神様をさらに知るためのものです。

3. 信仰の歩みから来る三つ目の報酬は、すべての敵からの擁護です。「どのような武器があなたに対して作られても、何一つ役に立つことはない。」(イザヤ書 54:17)原文のヘブル語では、この箇所は「どんな計画も、どんな破壊の道具も、悪魔のどんな大砲も、あなたを押したり、打ち負かしたりすることはな く、必ずなくなってしまう」と訳されます。

2010年8月19日木曜日

戦利品に託された神様の御計画

ダビデと彼の軍が不在であった時、アマレク人がツィクラグという村を奇襲しました。略奪者達は村を焼き払い、女性と子どもを全員捕虜として連れ去り ました。ダビデが戻った時、「兵士は皆、息子、娘のことで悩み、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したので、ダビデは苦しんだ。だが、ダビデはその神、主に よって力を奮い起こした。」(サムエル記上30:6)

これこそ霊的戦いです。これはただ、ダビデ一人に向けられた攻撃ではありません。これは神様の永遠の計画に対しての、徹底した急襲でした。

霊的戦いの焦点とは、いかに敵が常にキリストの種を摘み取ろうとしているかにあります。そしてこの事実は、十字架から2,000年経った今でも変わ りありません。悪魔は今も神様の種を滅ぼし、キリストの種である私達に攻撃を仕掛けることで、その目的を果たそうとします。ダビデは、彼の兵士達のぼやき を聞いて、恐れました。しかし彼は、自分と神様との関係が正しいことを確信していました。そして聖書は、彼がいかに神様によって励まされたかを記していま す。すぐにこの信仰の人は、アマレク人の追跡に転じました。そしてすぐさま彼らに追いつき、奪い取られたすべての人々と財産を奪い返しました。(サムエル 記上30:19〜20参照)ダビデはツィクラグから取り去られたものだけではなく、アマレク人が奪い取ったすべての戦利品を取り戻しました。

ダビデはこれらの戦利品をどうしたでしょうか。彼は神様のご計画を続行するために、それらを用いました。さらに、彼はユダの長老たち、また以前彼と その僕をかくまってくれていた町に対して、戦利品を贈り物として送り届けました。(サムエル記上30:26と31参照)これは、霊の戦いを通して神様が抱 いているご計画のもう一つの例です。私達は戦利品を、自分達のためだけに勝ち取るのではなく、キリストの体のために勝ち取るのです。私達が得た資源は、他 の人々に祝福をもたらすために与えられているのです。

サマリアが飢饉にあった時、アラム軍が町を占領しました。アラム軍は町の外に陣営を張り、サマリア人が飢え死にするのを待っていました。城壁の内側 の状態は非常に悪化し、ロバの頭が銀80枚で売られるようになりました。あまりの飢えから、女性達は自分達の子どもを、食料として煮てしまおうとしていた 程です。異常な事態だったしか言えません。(列王記下6章参照)

その頃、城壁の外で生活していた、4人の重い皮膚病を患っていた人達がこう相談しました。「どうしてわたしたちは死ぬまでここに座っていられよう か。町に入ろうと言ってみたところで、町は飢饉に見舞われていて、わたしたちはそこで死ぬだけだし、ここに座っていても死ぬだけだ。そうならアラムの陣営 に投降しよう。もし彼らが生かしてくれるなら、わたしたちは生き延びることができる。もしわたしたちを殺すなら、死ぬまでのことだ。」(列王記下7:3〜 4)こうして彼らはアラムの陣営に向かいました。

彼らが陣営に到着した時、すべては静まり返っていました。誰一人として見かけることが出来なかったので、彼らは天幕の一つひとつを探りましたが、誰 も見つけることが出来ませんでした。聖書はこう説明しています。「主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたため、彼らは、『見 よ、イスラエルの王が我々を攻めるためにヘト人の諸王やエジプトの諸王を買収したのだ』と言い合い、夕暮れに立って逃げ去った。彼らは天幕も馬もろばも捨 て、陣営をそのままにして、命を惜しんで逃げ去った。」(7:6〜7)

重い皮膚病を患っている者達がこのことに気付いた時、彼らは天幕を渡り歩き、食べたり飲んだりした後、町に帰ってこう言いました、「私達と共に来て みて下さい。信じられないでしょうが、アラム軍は陣営を逃げ去りました」と。(7:10参照)主は事態を完全にひっくり返されました。主は戦利品を用い て、神の民を再建し力を与え、地上での御計画を続行されたのです。

話の筋が掴めましたか。あなたに襲いかかっている、現在の戦いの理由が見え始めてきましたか。主に信頼をおく者は、敵のどんな力にも輝かしい勝利を 収めると約束されています。神様はあなたにこう知らせたいのです。「あなたは必ず勝利を収めます。しかしただ打ち勝つだけではなく、わたしの王国のため に、あなたの内にさらに素晴らしい計画を立てているのです。あなたはこの戦いから、どうしたら良いか分からない程の戦利品を持って歩み出るでしょう」と。

2010年8月18日水曜日

霊の戦いにおける戦利品

「彼らは主の神殿を修理するために戦利品の一部を聖別した。」(歴代誌上26:27)この聖句は、非常に意味深く、人生を転換させる様な、驚くべき 真実を示しています。それは戦いにおいてしか、勝ち得ることの出来ない戦利品について語っているのです。そしてその戦利品を勝ち取ってから、彼らは神様の 宮を建て上げるためにそれらを聖別しました。

この聖句に隠された、力強い真理を完全に理解するなら、なぜ主が私達の人生に厳しい霊的戦いを許されるのかが理解出来ます。多くのクリスチャン達 は、神様を受け入れたなら困難はもう訪れることがなく、残りの人生はなだらかな船路が続くと思っています。これ程真実からかけ離れたものはありません。神 様は戦いを許されるばかりか、私達の人生において、それらの戦いに素晴らしい意図をもっておられます。

戦いにおける戦利品とは、何でしょうか。戦利品とは、略奪したもの、勝者によって戦いで勝ち得たものを意味します。聖書では創世記の14章で、他国 の王達が連合してソドムとゴモラを侵略した時に、初めて戦利品についての記載があります。これらの侵略者達は、ソドムとゴモラの地の住民を捕虜とし、その 所有物を略奪しました。「ソドムとゴモラの財産や食糧はすべて奪い去られ、ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。」(創世記 14:11〜12)

甥のロトが捕虜とされたと聞いたアブラムは、318人の僕を集めて、敵の王達を追跡しました。聖書は、彼が侵略者に襲いかかり、「すべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女達やそのほかの人々も取り返した」と記しています。(14:15〜16)

この場面で、勝利に満ちたアブラムを思い描いてみて下さい。彼は喜びに満ちた人々と、山と積まれた様々な物を乗せた台車の列を先導していました。途 中彼はサレムの王であるメルキゼデクに出会います。聖書は、彼がこの王に戦利品の什一を献げる様に導かれた、と記しています。(14:20参照)「この人 がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。」(ヘブル人への手紙7:4)

ここに、神様が私達に理解を促す原理があります。私達の主は、私達が勝利を収めるか否かより、もっと大きなことに関心を寄せておられるということで す。主は私達に、戦利品や、様々な物、霊的な富を与えたいと願っていらっしゃいます。私達は、様々な資源で山積みの台車を持って、戦いから歩み出るべきな のです。これこそ、次の箇所でパウロが語っていることです。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって 輝かしい勝利を収めています。」(ローマ人への手紙8:37)
ダビデは、戦いで勝ち得た戦利品に対して、敬虔な態度を示しました。彼が人生の終盤 で立てた制令に、それを見ることが出来ます。ダビデは彼の息子、ソロモンをイスラエルの王として任命しました。そして国のリーダー達を呼び集め、神殿の維 持に関して、神聖なる命令を立てようとしました。この聖なる働きに際して使われた資源は何だったでしょうか。「彼らは主の神殿を修理するために戦利品の一 部を聖別した。」(歴代誌上26:27)

この前後の状況を説明しましょう。すべての戦いに勝利する度に、ダビデは戦利品を勝ち取り、金、銀、真ちゅう、材木、金銭など、数えきれない程のものを蓄えました。ダビデにはたった一つの意図がありました。それはこれらの戦利品を、神殿建築に用いるということでした。

聖書が神殿維持について語る時、原文のヘブル語では「家を直す、建てられたものを強化する」という意味があります。これらの資源は、神殿の最初の荘厳さを維持する為に、用いられるべきものだったのです。

今日、神様の宮はどこにあるのでしょう。それは神様の人々、すなわちあなたと、私と、世界中にある主の教会からなります。パウロによると、私達の体 は聖霊の宮とされています。そして古代イスラエル同様、私達の主は、今も戦利品を用いて御自身の神殿を維持されているのです。ですから、私達の霊的戦い は、単なる生存の糧以上のものがあるのです。戦いの一つひとつを通して、神様は豊かな富と資源を、私達に備えてくださいます。神様は私達の戦いによって、 豊かに資源の貯蓄をなさいます。そしてこれらの戦利品は、イエス・キリストの教会を建て上げ、また維持するために聖別されているのです。 

考えてみてください。ソロモンが神殿を建築した後何年も、貯蓄してあった戦利品によってその維持がなされました。神様の宮は活気に満ちていたのは、 神様の民が、ただすべての困難に勝利するだけではなく、多くの戦利品をもってその戦いから歩み出たからです。この「戦いによる供給」という原理は、聖書の いたるところで見ることが出来ます。

2010年8月17日火曜日

複製の出来ない霊性

ここニューヨーク市では、ロレックスの腕時計が15ドルで購入出来ます。ニューヨーク市民なら誰でも知っている様に、これらの腕時計は本物のロレックスではありません。それらはコピー商品、すなわち非常に安価な偽物なのです。

今日、すべてのものに対して、コピー商品が出回っている様に見受けられます。しかしたった一つ、絶対に複製出来ないものがあります。それは真の霊性 です。真の霊によるものは、何一つ複製することが出来ないのです。主は御自身の作品を御存知で、人の手によって複製された神の業の偽物を、決して受け入れ られません。何故でしょうか。それは真の霊性を、人の手によって複製することは不可能だからです。それは聖霊の御業によってのみ、可能なことなのです。聖 霊は神の民の内で、絶え間なく新たな働きを続けています。そしてその働きを、人間の手で複製することは絶対に不可能なのです。

ここに、今日の宗教の大きな誤りがあります。ただ聖書の知識や原則を人々に授けさえすれば、その人達は霊的になると思ってしまっています。しかし真実は、誰も、どんな団体も、人々の内に霊性を生み出す力を持っていないのです。ただ聖霊だけに、その力が与えられています。

私達の内に働かれている、神様の霊の御業のほとんどは、目で見ることが出来ません。ですから真に霊的な人達は、目に見える証拠を探したりしません。 パウロはこう語っています。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する からです。」(第二コリント人への手紙4:18)

この前後の箇所でパウロは、苦しみと困難について語っています。彼は、「聖霊以外は誰も、私達に何が起こっているのか、完全に知り得ません。そして厳しい試練の最中にある時にこそ、真の霊性が問われるのです」と言っています。

神様の霊の導きに委ねている人達、すなわち困難にあっても、それは主がその人の内で何かを生み出そうとしているのだと確信している人達は、試練のる つぼから揺るぎない信仰をもって出てきます。そして彼らは、すべてがうまくいっていた時よりも、困難にある時の方が、聖霊によって多くを学んだと、証しす るのです。

私の長年に亘る主との歩みの中で、人生がうまくいっている時には、霊的な成長を見ることがあまりありませんでした。むしろ、その様な霊的成長は、聖霊が許された困難、苦痛、試練を乗り越えた時に見られました。

彼自身の信仰生活の中で、パウロはこう言いました。「聖霊ははっきりと、苦難が私を待ち受けていると告げられました。」(使徒業伝20:22〜23参照)事実、パウロの人生は、常に困難で満ちていました。困難は絶えることなく、彼の上に降り掛かったのです。
「わ たしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(第二コリント人への手紙4:17)パウロによると、 困難や苦難は私達の内に永遠の価値を生み出してくれます。彼は「地上での困難は、おそらく命がある限り続くでしょう。しかしそれも永遠と比べれば、ほんの 一瞬の様なものです。そして今、困難を耐える私達の内に、神様が永遠に続く神様の栄光を明らかにしてくださっているのです」と語っています。

2010年8月16日月曜日

キリストを勝ち得る

「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはす べてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められたからです。」(フィリピ人への手紙3:8)

パウロは完全に、主に魅了されていました。ではなぜ、キリストを“得る”必要があったのでしょう。キリストは、使徒だけにではなく、彼の人生におい て、既にはっきりと御自身を表されました。しかしそれでも、パウロはキリストの心と愛を勝ち取らねばならない、と強く感じたのです。

パウロの存在すべて、すなわち彼のミニストリー、人生、そして人生におけるすべての目的は、彼の主である神様を喜ばせることだけに焦点が当てられていました。その他のものはすべて、例え良いものであっても、塵あくたにしか過ぎませんでした。

この箇所で「イエス様の心を勝ち取るとは、どういうことだろう」と思われるかも知れません。神様の愛は、すでに私達に注がれているのではないので しょうか。事実、神様の情け深い愛は、人類すべてに注がれています。しかし、ほんの一握りのクリスチャンしか経験したことのない、もう一つの愛があるので す。それは妻と夫との間に見られる様な、キリストとの親密で深い愛です。

この愛は、雅歌に表現されています。雅歌はキリストの愛を示すものとされ、ある箇所では、主が花嫁を次の様に語っています。

「あなたはわたしの心をときめかす。あなたのひと目も、首飾りのひとつの玉も、それだけでわたしの心をときめかす・・・花嫁よ、あなたの愛は美しく、ぶどう酒よりもあなたの愛は快い。」(雅歌4:9〜10)

キリストの花嫁は、主を喜ばせたいと願い、他の何ものからも離れ、従順に生きている、聖い人々のことです。そしてキリストの心は、彼らに対してとき めきます。ここで使われている「ときめく」という言葉は、“心を失う”または“心を奪われる”という意味があります。キング・ジェームス訳の聖書では、キ リストの心はたった一目でときめいた、と記されています。この「一目」とはキリストだけに注がれた、誠意のことだと思います。

2010年8月13日金曜日

金よりも尊い

エステル妃のお話は、聖書の中でも、最も厳しい霊的戦いを記したものの一つです。悪魔はハマンを用いて、地上での神様のご計画を阻止しようと企みま した。この裕福で影響力を持った男は、ペルシアの王を説得し、インドからエチオピアをまたぐその王国内のユダヤ人を、一人残らず抹消する様、命令を下した のです。

ハマンが最初に見たユダヤ人は、義なる人であったエステルの叔父、モルデカイでした。ハマンはモルデカイのために、特別な絞首台を用意していました が、その計画はエステルによって阻止されました。それは彼女が、神の民に祈りを要請し、ハマンの命令を撤回させるために、自分自身の命を投げ出したからで す。神様は、ハマンが企んでいた悪しき計画を明るみに出されたので、ハマンは自分が立てた絞首台に吊るされました。王はただ死の命令を撤回しただけでな く、今日で言えば何十億ドルもするハマンの家を、エステルに譲り渡しました。

しかしこのお話での戦利品は、ハマンの家だけではありませんでした。聖書は「それはユダヤ人にとって輝かしく、祝うべきこと、喜ばしく、誉れあることであった」と記しています。(エステル記8:16)これらは、敵との戦いにおいて勝ち取った、真の戦利品です。

私達の試練は、霊的な富を与えてくれるだけではなく、私達に強さや純粋さを与え、継続的に維持してくれます。私達が主に信頼を置くなら、主は私達の 試練が、金よりも価値のある信仰を生み出す様にしてくださいます。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほ かない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、賞賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」(第一ペテロの手紙1:7)

「そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ人への手紙2:15)

イエス様はカルバリによって悪魔に打ち勝ち、そのすべての支配と権威を奪い取られました。キリストが勝利の内に墓から復活された時、主は数え切れない捕虜を、サタンの手から解放しました。そして主の血潮によって購われた行列は、今も行進を続けているのです。

驚くべきことに、カルバリでのキリストの勝利は、死に打ち勝つことよりもさらに素晴らしいものを与えて下さいました。それはこの人生においての戦利 品、すなわち、恵み、憐れみ、平和、赦し、力、信仰、等勝利にある人生を歩むために必要なものすべてです。主は御自身の宮を維持するため、必要のすべてを 備えてくださっています。「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の 家なのです。」(ヘブル人への手紙3:6)
聖霊はここで、驚くべき真実を解き明かしてくださっています。それは、イエス様が御霊の内に、私達のす べての必要を与えてくださっている、ということです。しかし主の宮の維持するために、その宝庫を訪れるのは、私達の役目であり、主の宮を維持するために必 要なものはすべて、直接私達の戦利品からくるべきなのです。

維持のために必要なものは、キリストがすべて与えてくださっています。主は私達を神様の住まいに導き入れてくださいました。主がその家の礎となり、 その家全体を完全に清められたのです。最後に、主は私達に至聖所へのアクセスを与えてくださいました。すなわち信仰によって、私達は完全に整えられ、宮と して完成させられるのです。イエス様は、未完成の家を建てられたのではありません。主の宮は完成しているのです。

この宮は、きちんと維持されていなければなりません。常に修理が行き届いていなければなりません。もちろん、必要なものはすべて、キリスト御自身の 御霊の内に与えられています。キリストこそ、すべての戦利品の出納官なのです。これらの戦利品は、私達がその必要を感じ、神様と恊働する時に解放されま す。

神様との恊働は、私達が試練のただ中にいる時に始まります。試練の真っただ中で、私達が勝ち得るのは、キリストらしさです。敵との戦いから、教訓、 信仰、練達を戦利品として勝ち取ります。戦いには価値があります。ですから、これらの戦いから良きものが生まれると、確信出来るのです。

2010年8月5日木曜日

砕かれて、聖霊によって満たされなさい

旧約・新約両聖書において、聖霊は非常に珍しい方法で、人々の上に降りました。建物を震わせ、人々は異言によって神様を讃える様になりました。そこには聖霊による、完全な支配がありました。

ペンテコステの日には、聖霊が力強く、激しい風として降りました。聖霊が注がれた時、すべてのものが揺り動かされました。(使徒行伝2:4及び 4:11 参照)

バプテスマのヨハネはこう教えました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(ルカによる福音書3:16)

愛する皆さん、聖書は明確に語っています。イエス様があなたの元に来られる時、彼はあなたが聖霊と火による洗礼を受けることを望んでおられるので す。聖霊は火をもたらします。その火とは、真っ赤で熱い、イエス様の愛のために燃える炎です。では、何故多くのクリスチャン達が、熱くなったり、冷めてし まったりして、なかなか自分を捧げきることが出来ないのでいるのでしょうか。それは彼らが、イエス様による聖霊の洗礼を受けることを、拒絶しているからで はないでしょうか。

「その方(聖霊)が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(ヨハネによる福音書16:8)これらのクリ スチャンが確信に至ることが出来ないのは、彼らの内の玉座に着く様に、聖霊を招き入れていないからではないでしょうか。聖霊は神様の測量機です。キリスト に対して不適切なものはすべて、聖霊がそれを明らかにし、私達が御言葉に従う様、力を与えてくださいます。この様な時にこそ、聖霊は私達の慰め主となられ ます。なぜなら聖霊は、私達の罪を明らかにし、それを捨て去る様、力付けてくださるからです。これこそ真の慰めです。

聖霊は決して、あなたに馬鹿げたことをさせたりなさいません。しかし時に聖霊が降りると、罪人達からして見れば、まるで私達が酔っぱらっているかの 様に振る舞うことがあります。多くの教会で、聖霊はあまり受け入れられていません。それは聖霊が、騒がしく、気分を害し、予測不可能なものであると思われ ているからです。

2010年8月4日水曜日

御霊の働き

聖霊は、無秩序でいい加減な方法で、私達の内に働かれる訳ではありません。私達がうまく人生をこなし、危機や寂しさに沈む夜を乗り越えるのを助ける為だけに存在している訳でもありません。私達を競技場に戻す前に、少し力を与えようと待っておられる訳でもありません。

聖霊が成される御業のすべては、聖霊が来られた理由に関わっています。それは私達を花嫁として、御国に連れて行くということです。御霊は、その使命 を果たすためだけに働かれます。そう、聖霊は私達の案内人であり、慰め主であり、弱い時の力です。しかし、私達を救い出すためのこれらの御業のすべて、す なわち、私達の内で御自身を表される御業の一つひとつは、私達を花嫁として整えることを目的としているのです。

また、御霊はただ世に賜物を与えるためだけに存在している訳ではありません。そうではなく、御霊の与える賜物の一つには、それぞれ目的があるので す。聖霊が掲げるメッセージはたった一つ。すべての教えは、ある中核的な真実に向かっています。私達の内で、聖霊は宝石の様に輝いておられるかも知れませ んが、その輝きの一つひとつは、私達に唯一の真実をもたらすためにあるのです。そしてその真実とは、次の通りです。

「あなたは自分のものではありません。代価をもって購われたものです。キリストの花嫁として選ばれた者なのです。そして、あなたを他のどんな切望か らも解き放つために、神様の霊が遣わされているのです。真実こそ、罪の束縛をすべて解き、不信仰を取り扱ってくれます。あなたはこの世に属する者ではあり ません。あなたには、素晴らしい花婿との対面と、婚礼の宴が待ち受けているのです。すべての準備は整っているので、わたしがあなたの準備を手伝っているの です。神様への激しい愛を内に秘めた、非の打ち所のない者として、あなたを紹介したいのです。」

これこそが聖霊の御業です。キリストを教会に表すことで、私達がキリストと恋に落ちるためです。そしてこの愛こそ、私達を支えるのです。

2010年8月3日火曜日

信仰によって聖霊を受ける

「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたから ですか。」(ガラテヤ人への手紙3:2)聖徒の皆さん、この聖句はあなたの信仰を燃やし、信仰によって神様の約束を信じるよう促すべきです。「いささかも 疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。」(ヤ コブの手紙1:6〜7)

この賜物が与えられる様、神様に求められましたか。聖霊を求めておられますか。扉を叩き続けておられますか。「このように、あなたがたは悪い者であ りながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカによる福音書11:13)

ただ求めれば、受け取ることが出来るのです。聖霊の洗礼を受けることを天のお父様に求めれば、神様は必ず与えてくださいます。

私達はこの世にはびこる悪に直面します。悪魔はその力を振りかざし、悪しき霊の大軍は、御国との最後の戦いに備えています。しかしサタンは、聖霊に 満ち、信仰と従順の内に歩む、義なる神様の子どもに立ち向かうことは出来ません。真に聖霊に満ちたクリスチャンは、地獄の大軍を追い払う者です。

神様、どうか聖霊を遣わしてください。聖霊を注いでください。聖霊によって、力強く洗礼を授けてください。そして揺るぎない信仰と共に、サタンが強く働く所へと、私達を遣わしてください。

使徒パウロは言いました、「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ人への手紙 5:16)また、こうも語っています。「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(5:25)

クリスチャンとして、私達は「聖霊の導きに従って歩む」という言葉を幾度も耳にしてきました。多くのクリスチャン達は、聖霊の導きに従って歩んでい ると言うものの、それが本当にどういう意味なのか、しらないでいます。お尋ねしましょう。あなたは聖霊の導きに従って歩み、聖霊の内に生きていらっしゃい ますか。そしてそれはあなたにとって、どういう意味がありますか。

私にとって「聖霊の導きに従って歩む」とは、次の一文に集約されます。それは“聖霊の導きに従って歩むことは、ただ私達の内で、神様が聖霊を遣わされた業の成就をゆるすこと”です。

何故神様が聖霊を遣わされたかを理解するまで、あなたの内で聖霊が働かれるのをゆるすことは出来ません。

聖霊は、神様からたった一つの永遠の目的を果たす為に、私達の元へ遣わされました。そして私達が、この聖霊の使命と私達の内での働きを理解しないな らば、次の2つの内、どちらかの間違いを犯すことになります。一つ目は、ほんの少しの霊的な賜物を受け取る等、限られた聖霊の御業で満足し、私達の人生に おいて聖霊が成そうとされている、素晴らしい永遠の目的を見逃してしまうことです。二つ目は、聖霊を求めながら、私達の内で完全に聖霊を無視してしまうこ とです。それは聖霊が神秘的であり、その存在は信仰によって受け取るもので、私達には決して理解することが出来ないものである、という考えからきます。

聖霊は、あなたの内で、また私の内で、確信を与え、聖め、力を与え、備えるために、私達の元に来てくださいました。聖霊は、私達をキリストと結ばれる花嫁として整えるために、この世に遣わされているのです。

旧約聖書時代の信者と聖霊の関係を示したものが、創世記24章に記載されています。アブラハムは、彼の最も年老いた僕、エリエゼルを遣わし、息子で あるイサクに花嫁を探し出す様、命じました。エリエゼルという名前は、「力強い、神の助け手」という意味があり、言ってみれば聖霊の様なものです。そして この力強い助け手が、リベカをイサクの花嫁として連れ帰って来た様に、聖霊もまた、私達の主、イエス・キリストの元に、必ず花嫁を連れ帰られます。

神様はリベカをイサクの花嫁として選ばれました。そして神様は、エリエゼルを彼女の元へ、真っ直ぐに導かれました。この僕の任務と目的のすべては、 たった一つ。それはリベカをイサクの元の連れ帰ることでした。彼はリベカに、彼女の持っていたものすべてを捨て、イサク自身に、またイサクと結婚すること に夢中になるよう、働きかけねばなりませんでした。リベカの両親は、エリエゼルに告げました。「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申 することはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。」(創世記 24:50〜51)

そしてこれと同じことが、皆さんと私にも起こっているのです。神様は私達を、神様の花嫁として選んでくださいました。私達の救い、すなわちキリスト のものとして選ばれることは、主の御意志によるものです。神様は私達をイエス様の元へと導くために、聖霊を遣わされました。もし私達が彼を信じるなら、聖 霊は私達を、キリストの永遠の花嫁として無事に連れ帰ってくださいます。

2010年8月2日月曜日

「アバ父よ」

聖霊は、私達とイエス様、及び私達と父なる神様との関係を、 簡素化してくださいます。 私達に「アバ父よ」と神様に呼びかける様、促してくださるのは、聖霊です。

この表現は、聖書時代に東洋で用いられていた、養子縁組にまつわる習慣から来ています。養子縁組の書類がすべて整い、養父によって承認されるまで、 養子とされた子どもは、養父をただの父としてしか呼ぶことが出来ません。「アバ」とは“私の父”という意味なので、養父を「アバ父よ」と呼ぶ権利がないの です。

しかし、書類が整い、登録が済み、承認を受けるや否や、養子とされた子どもの世話役は、彼を養父の元へと連れて行きます。そしてその時初めて、彼は 「アバ父よ!」と呼ぶことが出来るのです。養父の腕に抱かれ、その子は、「私のお父さん、あなたはただの父ではなく、私のお父さんです」と叫ぶのです。

これこそが、聖霊の働きとミニストリーです。御霊はキリストについてのあなたの世話役であり、あなたを父なる神様の元へと導きます。そしてこう、私 達に告げるのです。「書類はすべて承認を受けました。あなたはもう、孤児ではありません。法的に、神様の子とされたのです。あなたには、ひたすらに愛と富 と力に満ちた父がいます。彼に抱きつきなさい。『わが父よ』と呼んでごらんなさい。あなたに神様がどれ程あなたを愛しておられるかを示すため、わたしは来 たのです。神様はあなたを愛しておられ、あなたを求めておられます」と。

私達の叫びは、これ以上とない喜びと感謝からくるものであるはずです。私達の内におられる御霊は、「あなたは神様の相続人です。イエス様が勝ち取ら れたものすべてを相続する者です」と叫んでおられます。この様な素晴らしい財産を相続することが出来るのは、あなたのお父様が宇宙一裕福な方だからです。 神様に近づくことをためらう必要はありません。お父様はあなたに対して怒りを燃やしておられる訳ではありません。貧しさに打ちひしがれ、喜びと霊的勝利を 失った孤児の様に振る舞うのは止めましょう。あなたは見捨てられてはいないのです。お父様の存在を、存分に楽しめば良いのです。

私達は見捨てられていないばかりか、迷いや苦しみの時にも、聖霊が私達と共にいてくださいます。

聖霊の任務とは、キリストの花嫁をその花婿がいない間、慰めることです。「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくだ さる。」(ヨハネによる福音書14:16)「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、 わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(26節)

“慰め主”とは「痛みや悲しみの時になだめる者」という意味です。それは痛みと悲しみを和らげ、安堵をもたらし、慰め、励ます者のことです。しかし 私は次のギリシア語の定義が気に入っています。「あなたを温かで、安全な寝床に横たえてくださるお方。」あなたの魂が冷たく暗い闇に沈む時、御霊は、その 心地よく、慰めに満ちた御手によって、あなたをやわらかな布団に寝かしつけてくださいます。

御霊を慰め主と呼ぶことで、イエス様は実に確実な予測を立てられました。イエス様は、彼に従う者達が苦しみの目に遭うこと、終わりの日に大きな痛みと苦しみがあり、いかに慰めが必要となるかを予測されたのです。

聖霊は、御自身が神様の力のすべてをもって、あなたの内に住まわれているかを思い起こさせることで、あなたに慰めをもたらします。ですからあなた は、こう叫ぶことが出来るのです。「世界中のすべての力より、悪魔のすべての力より、私の内におられる方の力は勝っている」と。神様は私達を悪魔の手から 守られるために、聖霊を遣わされ、その力を与えられたのです。それは、私達の霊を引き上げ、打ちひしがれた思いを追い出して、神様の愛によってあなたの心 を満ち溢れさせるためです。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。そして希 望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ人への手紙 5:3、5)