2009年2月27日金曜日

祈りの時を保つこと

霊の枯渇を克服するためには祈りの時を保たなければなりません。私達は祈らなければならないのですが、そのようにはしていません。私達が神様との交わりがあるときには私達の重荷は取り去られることを知っています。聖霊は私達に呼びかけます。「来なさい。」と。

魂の渇きを満たす水に来なさい。その子らを哀れむ父に来なさい。全て罪を許し給う命の主に来なさい。あなたを呪う事も、捨てる事も、隠れる事も否む唯一の方に来なさい。

私達は罪悪感や自責で神から隠れようとしますが、紙は決して私達からお隠れになりません。罪を犯したり、路に逸れたりしても、神の恵みの御座に大胆に進み出よう。神の恵みに戻ろうと努力したり、自責と反省の時間を何時間、何日間持ったりする必要はありません。御父に進み出て、膝を屈め、心を開き、あなたの苦悩、苦痛を訴えてください。神にあなたの孤独、拒絶、躓きを話してください。

私達はいろんなことを試みますが、祈りません。解決する術を、方法を見つけようと本を読みます。慰めや助言を得ようと友人、牧師、カウンセラーなどいろんな人に行きます。私達は私達の声を探しますが、全てに答を持っておられる声を忘れます。

神様だけと交わるときに勝る、渇きや虚しさを退けるものはありません。隠れた場所で御父に祈ることに代わるものはありません。全ての渇きが解決します。

わたしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ、わが霊をあなたの子らにそそぎ、わが恵みをあなたの子孫に与えるからである(イザヤ44:3)

2009年2月26日木曜日

乾いた時を経る

私が沢山の人達にメッセージをしますが、時には神の優しい臨在から離れ、とても乾いていると感じるときがあります。私は乾き、御言葉を読む気力も、祈りたい気もおきません。私の信仰が変わったわけでもなく、イエス様に対する愛が冷めたわけでもないし、この世につかろうとの望んでいるのでもありません。

他のクリスチャンが、あなたが置いてきぼりになっているのに、恵みを受けていますが。彼らの祈りに神が答えられて、喜び溢れていると彼らは証しています。イエスを愛するあなたは歩留まりしていて、あなたの周りはだらけているのに彼らは幸せの絶頂にいます。

全ての信仰者は彼らのクリスチャンの歩みで幾度か乾いた時を経験します。イエス様でさえ孤独を感じ、叫びました。「父よ、何故あなたは私をお捨てになるのですか。」

神に近づく以外、平安はありません。枯渇はみ神の栄光の露のみによって解決します。神の応えの確かさによって落胆が退けられます。聖霊の火が心と体と魂を燃やすことが出来るのです。

私はしばしば罪人が感じる自分に虚しいと感じることがありますが、神は決して私を離れておらない事を知っています。小さな、はっきりした声を私は聞きます。「来なさい、わが子よ。あなたが今通っていることを知っている。わたしの愛は変わっていないまた私はあなたを孤児にはしない。わたしがあなたの父であり、あなたはわたしの子であるから、共にこのときを通り抜けよう。」私のうちに決して消すことの出来ない聖霊の炎があって、私に語りかけます。神はどんな乾いた時からもわたしを救い出してくださることを知っています。

「主の分はその民であって、/ヤコブはその定められた嗣業である。主はこれを荒野の地で見いだし、/獣のほえる荒れ地で会い、/これを巡り囲んでいたわり、/目のひとみのように守られた。」(申命記32:9~10)

「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。野の獣はわたしをあがめ、山犬および、だちょうもわたしをあがめる。わたしが荒野に水をいだし、さばくに川を流れさせて、わたしの選んだ民に飲ませるからだ。」(イザヤ43:19~20)

2009年2月25日水曜日

あなたは諦めようとしていますか。

たくさんの神の僕らが私に教区の信徒が辞めたいと言っていると書いて来ます。「正直な信徒罪悪感や自己嫌悪に苛まれ、失望しでいます。自分の期待が失望に終わる時、彼らは罪に陥り、自暴自棄と成ります。」

益々多くのクリスチャンが自暴自棄と成ろうとしています。一部はイエスへの愛までも止めることさえ考え、落ち込んで自暴自棄となっています。

ある牧師は肯定的なメッセージを続いて語ります。それは、全てのクリスチャンは奇跡を受けたり、皆祈りの答を頂いたりして、幸せな生活を営みます。勿論、私も神の民が健康で幸せに生きることを望んでいますから、そのようなメッセージを語りたいと思います。しかし、真の正直な、真剣なクリスチャンの多くはそのようではありません。

たくさんの若者達が諦めようとすることも無理もありません。宗教によって作られた仮面、自立していて、豊かで、成功した、いつも肯定的に考える仮面に見合うように生きていけません。彼らの世界は描いたほど理想的でもなく、苦しみや身近な人の問題や色々な災難の中に生きています。
パウロも問題について述べています。「...会った患難を、...知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、」(2コリント1:8)

肯定的考えは問題を消えさせたりしません。また、その問題が存在しないと自分に言い聞かしても何も変わりません。何をしたらいいのでしょうか。二つだけ確かなことがあります。それが私に大きな慰めと助けになりました。


- 神は私を愛してくださっています。私達の弱きを知り、助けたいと欲されています。
- 私達の信仰が神を喜ばします。神は私が神を信頼することを願っています。

2009年2月24日火曜日

あなたは生き残ります。

幸福とは痛みや傷がなく生きる事ではありません。かえって、真の幸福とは悲しみや苦痛に関わらず、その日を如何に生きるかを学ぶことです。過ぎた時に何が起きたかに拘らず主にあって喜ぶ事を学ぶことです。

あなたは拒まれ、見捨てられていると感じるかも知れません。あなたの信仰が弱いと思ったり、試されると思っているかも知れません。悲しみ、涙、苦痛、虚しさがあなたを時には呑み込むかも知れませんが、神が御座に居られ、神であられます。

あなたは自分か生き残ると言い聞かせ下さい。あなたが生きるも死ぬも、あなたは主に属しています。人生の歩みは続いていきますし、神の助けがあるなら自分がどれだけ耐えられるかに驚くでしょう。

あなたは自らを助けたり、苦痛を止めたりすることは出来ませんが、私達の主があなたにはあるのです。種はその愛しみの御手をあなたに置き、天にあなたを立てます。主は死の恐怖からあなたを救い、あなたへの絶えることのない愛を示すでしょう。

天を見上げ、主にあって自分を力づけて下さい。霧があなたを囲み、あなたは問題を解決する方法が見つからない時、只イエスの御手に委ね、イエスを信じて下さい。イエス様が全てを成して下さいます。イエス様はあなたが主を信じ、信頼して欲しいのです。彼はあなたが声を出して「イエス様が私を愛して、私と共に居り、私は失望に終わることはない。今もイエス様は働いて居り、私は打ち捨てられない。私は敗れサタンの餌食にはならない。私は方向を失わない。神が私と共におり、私は神を愛しているし、神も私を愛している。」

根本は信仰です。そして信仰はこの言葉を絶対的なものとするでしょう。「すべてあなたを攻めるために造られる武器は、その目的を達しない。」(イザヤ54:17)

2009年2月23日月曜日

神はあなたを拉ぐことはしない。

神はあなたが耐えられる限界を知っておられる事を覚えなさい。神はあなたが自暴自棄になることはお許しになりません。

愛する私達の父は言っておられます。「あなた方に会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなた方が耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(Iコリント10:13)

神に対する最たる冒涜は,神があなたの傷や痛みを無視してると思うことです。その時神は、あなたに祝福を恵む前にー度二度打ち砕きあなたの将来を立て直すために訓練しているのです。

主が愛するものを訓戒することもあります。しかし、その訓戒はひと時であって、私達を傷つけるものではありません。神様もあなた自身も、人生を困惑させようとするものではありません。 私達の敵が、ヨブの神を信じない妻を通して彼を傷つけたように、私たちの周りにいる他の人々を通して傷つけようとしているだけです。

天国の父はあなたを弛む事無く守っておられます。彼はあなたの全ての行いを見ておられ、涙もみな数えられています。神様も私達が受ける痛みをことごとく感じておられ、私達の仇からどれほどの嫌がらせを受けているかも知っておられます。あなたの痛みがもはや神に近づくことにならないで、返ってあなたの霊性を弱めるとき、神は介入して、「もう十分である。」と言われます。神はその子らの信頼が、魂の苦悶や苦痛によって失われることをお許しになりません。

神は時によってその戦いからあなたを引き上げます。神はあなたの傷があなたの心を壊すことを決してお許しになりません。神は時にあなたの涙を拭いそして呻きを喜びに変えるでしょう。神の御言葉は「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。」(詩篇30:5)

2009年2月20日金曜日

神を求める者であり続ける

「...それでわたしは、わが顔を主なる神に向け、・・・かつ願い求めた。・・・すなわちわたしは、わが神、主に祈り、・・・わが罪とわが民イスラエルの罪をざんげし、わが神の聖なる山のために、わが神、主の前に願いを祈り続けた・・・」(ダニエル9:3,4,20)この人達は祈る人達でした。

彼らが最初に決心した聖別された歩みは、神を求め続けることに基づかなければなりません。真に神に跪き、聖い歩みを歩むべく、力と権威を求めなければ、その聖い生を生きることは不可能です。
ここで間違ってはいけません―充実な祈りは困難を避けさせるものではありません。返って、多分にあなたは火に油を注ぐように、獅子の穴にあなたが近づく事になるでしょう。しかし、祈りがこの全てを信仰で直面できるよう備えます。-イエス様のゆえに生ける犠牲となるために。

ダニエルの祈りは獅子の穴に投げ込まれる結果となりました。この試みはダニエルが80余りのときでした。あなたはいつしか困難が止むだろうかと思っているのに、こんな言葉にあなたは憂えるでしょう。もしか、あなたは主と共に歩んだ何年かで重要な鍛錬を経て学んだと思ったかも知れません。しかし、神は大いなる祈りの戦士が-穏やかで落ち着いた霊の持ち主―充実な取成しの祈りの長い時を経ているにもかかわらず人生の危機を直面することをお許しになりました。

愛する皆さん、試みはイエス様の再臨、もしくは、あなたが死ぬまで続きます。これが、返って、祈りが重要な理由でもあるのです。あなたは自分が聖い歩みを生きる事を決心できますが、その決心は神を求めることを決心する外、成し得ないことを知るべきです。

2009年2月19日木曜日

邪悪の渦で聖く保つ

ダニエルは王の食物と、王の飲む酒とをもって、自分を汚すまいと、心に思い定めたので、自分を汚させることのないように、宦官の長に求めた。(ダニエル1:8)

この「汚す」という単語は「ことがないように」に次ぎます。―「拒絶を通して自由になります」。ダニエルは「彼が心に決めた基準の妥協は自分の自由を奪う」と考えました。そして次の十日間、豆と水だけを取ることに決めました。彼が宦官の長にそれを言ったとき、宦官の長は答えました。「あなたの言う通りにしたら、私は命が危ういかも知れない。もしも、あなた方が十日後貧弱に見えたら。あなた方の頬がこけていたりしたら、王様はそれを気づくだろう。肉を食べ、ワインを飲み、甘いものをとりなさい。」

ダニエルと3人のヘブル人の若者はただ聖くないものを拒むこと以上に思うところがありました。彼らは同国人の何千人とともに捕囚となっていました。彼らがバビロンに着いた時、彼らは全く驚いたと思います。その社会は、乱れきり、呪いに満ち、彼らの霊性さえ攻撃されるほどでした。

それで、この4人は互いに言ったと思います。「私達は妥協しない。この人達の慣わしを受け入れない。私たちは別たれ、信仰の歩みに従う。」

この4人は周りの人達に己の道を説いたりしませんでした。彼らの歩みは彼らと神に限定されたものでした。

皆さん、あなたが困難に面した時、あなたは神に叫びますか。「主よ、私の必要な時、あなたは何処に居られるのですか。あなたは私を救うと言ったのではありませんか。」しかし、あなたは主がこう答えたらどうするのでしょうか。「我が声が必要な時、あなたはどこにいるのか。この罪深い時代に私が語ることができる清い器、声が必要だ。あなたは困難の時いて欲しいと言うが、あなたはこの悪しき時代の一部になっている。では言うがあなたはわが旨に自分を委ねる用意があるのか。」

2009年2月18日水曜日

悔改めより全てが始まる。

今の教会は悔改めから始まりました。使徒ペテロが五旬節で十字架について語った時、何千人とキリストに帰依しました。新しい教会は一つの体、全ての人種、互いの愛で、建て上げられています。その共同体は伝道、犠牲、強いては殉教に彩られています。

エレミヤに言った神の言葉が教会の始めをこう表しています。「わたしはあなたを、まったく良い種の/すぐれたぶどうの木として植えた」しかし、神様は次の文で言葉を返し「だがどうしてあなたは変ってしまい、悪い野ぶどうの木となったのか。」2:21と仰いました。神様は「私はあなたを正しく植え、あなたにわが名と私の真実を現すものとしたのに、何故あなたはこう変わったのか」と言っています。

何がこの教会の堕落を招いたのでしょうか。それは、過去にも、未来でも、偶像崇拝からです。神様がエレミアに偶像について語りました。「ところが、わたしの民はその栄光を/益なきものと取り替えた。」(エレミヤ2:11)

多くのキリスト教の教えは偶像を神の民と神との間で妨げになるものと認識しています。しかし、それは偶像崇拝の一部に過ぎません。

偶像崇拝はもっと深い心の問題に起因しています。神の民の一番の偶像と言えるものは不倫でも、ポルノでも酒でもありません。もっと強い欲があります。それが何かと言うと「成功しようとする野心」です。そして、それにはそれを正当化する論理すらあります。

成功することの崇拝は神の家に多く蔓延っています。この人達は品行正しく、道徳的に優れています。しかし、彼らの心には成功の偶像を置かれ、それを取り除くことはありません。

神はその民を祝福されようとしています。神はその民が正しく成功することを欲っされています。しかし、沢山の人が荒れ狂う霊にとらわれています。-ものの欲や有名になる事の霊です。

ある人が最近こういったのを記憶します。「ものに囲まれて死ぬ人が勝ちである。」悲しいことにクリスチャンもこの風潮に流れています。

私達が自分に、自己の、この世の野心に捕われどれだけ迷い出していることでしょうか。

2009年2月17日火曜日

キリストは招待状と警告文両方を持って来る

イエス様は宮に立ち、全ての人を御子の守りの慈しみに招きました。イエス様は、盲人、病んでる人、ライ病人、貧しい人、乞食など、全ての人々の前に現れ、癒しと許しを受ける事を呼掛けました。しかし、当時の保守的宗教の群れはこの招きを拒みました。ですから、イエス様は彼らについてこう証しています。「おまえたちは応じようとしなかった。」(マタイ23:37:)

これを読んだ時、疑問が湧きあがりました。神が旧約でなさったように古き業を新約でもお捨てになるだろうか。神の恵み、慈しみ、覚醒を拒んだ者達を放り出すだろうかと。

そうです。神はそうされるでしょう。イエス様は御自身を否んだ人達に答えて言われました。「見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。」(マタイ23:38)言い換えればこう言ったのです。「この宮はもはや私の家ではなく、あなた方のものだ。私は離れる。私はあなた方が荒れ廃れさせた所を離れる。」

イエス様は加えて「わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。(23:39)と言います。イエス様はここで宣言しています。「私の栄光はもはやこの古き業に留まらない。」

ここに恵みと慈しみの生まれ変わりが立って、言います。「この旧いものは我がものではない。」そして、イエス様は五旬節に新しいことをしました。イエス様は、古いかたちの模造品ではなく、新しい教会を立てあげました。その教会は基礎から新しいものでした。それは彼にあって生れ変った新たな人、牧会者の教会です。

では今の教会にイエス様を表すものに、何があるのでしょうか。今ある教会がしみも無く勝利したキリストの花嫁を示すのでしょうか。教会がこの迷える世界に神の真実を啓示しているのでしょうか。これが神の霊が終りの日に出来得る最善のものでしょうか。

皆様、キリストを忠実に真に表している教会に行っていますか。神に感謝してください。もしかしたら、あなたは命の教会を探せない多くの一人かも知れません。私は彼らの叫びが聞こえます。「私の霊的飢えを満たす教会が見つからない。世の教会は娯楽的で-現世的―乾ききっている。」

心を静めなさい。-神は私たちが知らない信じられない方法で、ものごとを揺るがします。?神がこの全てを揺るがす時に、飢えている羊達を養う真の牧会者を生きかえらせるでしょう。

2009年2月16日月曜日

私はすでにあなたに言葉を与えた。

私達は有史以来の大いなる福音の時代に生きています。沢山の牧師、書籍、そして福音のメディアが今の時代で紹介されていますが、実際に神の民の間にはいままでにないもっと大きなストレス、苦悩が感じられています。今日の牧師たちはしばしば説教を失望から立ち上がるテーマだけで取り組みます。

これが間違っていると言ってのではありません。私はこの事実を私自身に言い聞かしているのです。ですが、私は、不信仰についてあまり勝利や自由が無い事には理由があります。神様が今、この終りの日に起こることをはっきり仰っていることは事実です。神様は、「私は既に言葉を与えた。それは全く完全なものだ。だから、その土台の上に立ちなさい。」と語っていらっしゃいます。

神の言葉が与えられない時代だと誰が言ったのですか。かえって、この時代が神の言葉を聴くこと、また従うことが出来ない時代と言った方が正しいでしょう。何故でしょうか、信仰は不可解なものなので、論理や合理性で話すことができません。パウロははっきり言います。「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」(ローマ10:17)

「主の目は正しい人をかえりみ、主の耳は彼らの叫びに傾く….?正しい者が助けを叫び求めるとき、主はそれを聞き、彼らのすべての悩みから助け出される。…正しい者には苦難が多い。しかし、主はそのすべての中から彼を助け出される。主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない。」詩篇34:15,17,19,:22

先に示した詩篇の箇所で、すでに、私達は不信仰から逃れうる十分な神の御言葉が与えられています。

2009年2月13日金曜日

わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。

詩篇の著者は繰り返し言います、「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。私は取り残され、捨てられている。私の心は不安だらけです。何故ですか? 私は何故、誰も助けてくれないと感じるのですか?」(詩篇42:11、43:5参照)神を愛し、仕えている沢山の人達がこの問い掛けをします。

エリアを例にとってみましょう。彼はえにしだの木の下で神に自分を殺してくれと懇願しました。彼は自分の命を取るほど落ち込みました。また、義なるエレミアも失意に沈んでいました。預言者エレミアは叫びます。「主よ、あなたは私に偽りました。あなたは預言が成就すると言いましたが、何も起こりません。私は命を尽くして求める以外、何もしなかったのにあなたはこう酬いますか。私はもはやあなたの名を語りません。」

これらのしもべは一時的な不信仰の攻撃に会っています。しかし、主は私達の混乱と疑問の時と状態を知っておられます。暫く後に神はそれから出る方向を示します。混乱の只中で、聖霊は光を差し出されるのです。

エレミアの証を見てください。「私はあなたの御言葉を見つけ出し、それを食べました。あなたの御言葉は、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」(エレミア5:16)「御言葉が彼の心にはいりこんできた。」(1列王記15:16) ある時点で、神の御使いは神の御言葉を思い出しまし、その言葉は彼らを暗闇の穴から脱出させ、彼らの賛美、喜びとなるのです。

真実は、彼らが苦悩している間、主は横にいて待っています。神は彼らの苦悩の叫びを既に聞かれています。しばらくたってから、神は彼らを仰います。「あなたは苦悶と疑問の時を十分満たした。私を信じてほしい。御言葉に戻って、私の約束に目を留めなさい。そうすれば、我が言葉があなたを保つであろう。」

2009年2月12日木曜日

あなたが必要なのは神の約束だけ

信仰とは私たちに大きな事を求めています。私達の判断を助ける他の証拠なしで、神の御言葉を聞いたら従わなければなりません。その障害がどれだけ大きくても、状況がどれだけ不可能であってもです。私達は御言葉、神が宣く「わたしの約束のみあなたに必要である」ということだけを信じ、神の言われることに従わなければなりません。

先の世代の様に、私たちも「主よ、何故私はこの試みに会うのでしょうか。」と問い掛けます。あなたの人生であなたは不可解な事を沢山体験しています。何故、私の状況には説明がないのでしょうか? 何故、私の魂はうなたれ、難しい試みに満ちているのでしょうか?

もう一度言います。信仰の要求は人にとって全く不可解なものです。ですから、神様は御自身の言葉を送り、神の約束を思い起こさせ、私達の叫びにこう答えます。「だだ、従いなさい。あなたへの私の言葉を信頼しなさい。」神は、あなたの状況がどれほど不可能であっても、信じない理由も、ためらいも受け入れないでしょう。

誤解して欲しくないのですが、御神は慈しみ深い御父です。神はその民が理由もなく、ただ苦しむ事をお許しなりません。また、私達は神が心の痛みや問題を解決する意図も力もお持ちであることを知っています。神の一言で全ての試みや問題が解決します。

しかし、神は御自身がされた約束をどのように、いつ成就されるかを私たちに知らせません。神が既に私たちに答を与えでいるので、それ以上の説明は必要ありません。神は私達に必要な全てと御子の御資質を私達に与えます。神は御自身が既に啓示した言葉に固く立たれます。「我が言葉はあなたの内にあり、我が契約は信じる者にとって可であり、是である。我が言に安らぎなさい。信じ従いなさい。」

2009年2月11日水曜日

信仰の不可解さ

神が人に「信ぜよ」と言われた時、神は論理を超えこの事を命じました。信仰は全く非論理的です。その言葉の定義から論理的ではありません。考えてみましょう。ヘブル書では 、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(ヘブル 11:1)言い換えれば、「手に取る事も、見る事もできない」事です。ですが、私達は信ぜよと求められています。

このことを話す理由があります。今、世界中で沢山の信じる者たちが気落ちし、うなだれています。事実、私達はこの世を生きる限り失望し続けるでしょう。しかし、もし私達が信仰の性質を―非論理的且つ不可解な性質と理解するなら、私達が必要な助けを得ることができるでしょう。

ノアに求められた信仰をよく考え直してみて下さい。彼は混沌の時代に生きていました。人の性質は全く忌むべき状態となり、神はもはや耐えることが出来なくなりました。遂に、神は「人は自分を破壊する道筋にいるから終わらせなければならない」と考えました。(創世記6)

ノアがこの事を知らされた時の戸惑いを考えてみて下さい。神がこの世を滅ぼす、そのような大災害を起こそうとしていました。そして、ノアが知らされたのは簡単な言葉だけでした。彼は、その後120年間を他の何の方向を示されずに信仰で受け入れるしかありませんでした。

ノアに求められた信仰を考えてみて下さい。彼は、大きな箱舟を建造する巨大な仕事が与えられました。そして、彼は住んでいるのは危険な世界です。周りが酒池肉林に耽る世界で、ノアは信じ続けなければなりません。しかし、ノアは神の御言を行いました。彼は、一世紀以上、与えられた言葉を信じ続けました。

創世記12:1-4で、神はアブラハムに言いました。「立ち上がって、出よう。自分の国を離れよう。」当然、アブラハムは疑問があったと思います。「しかし、主よ、何処に。」神はこう答えたでしょう。「あなたに今告げない。ただ行きなさい。」

これは論理的ではありません。これは分別ある人にとって全く理不尽な要求です。クリスチャンの御夫妻で奥様がたに、この事がどれだけ理不尽なのかを、例えて説明しましょう。ある日、あなたの夫が帰って来て、こう言ってとしましょう。「おい、引越しするから荷造りして。」当然、あなたは何故いきなり、また何処に、そして予定はと疑問が湧くでしょう。しかし、唯一返って来る答えは「私も知らないが、神様が行けと言われた。」この種の託宣は理由も余韻もありません。非論理的なだけです。

しかし、これが、アブラハムが従った理不尽な導きでした。「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。」(ヘブル11:8)彼が知った全ては神の単純な言葉でした。「アブラハムよ、行きなさい。私が共に居る。害があなたに及ばない。」信仰はアブラハムがこの約束のみで行動することを求めました。

ある星空の夜、神はアブラハムに言います。「頭(こうべ)を上げ、星を見、それを数えてみなさい。あなたの末はそのようであろう。」(創世記15:5参照)アブラハムは戸惑ったに違いありません。彼も彼の妻サラーも老いて、子供持つ年をとうに過ぎました。が、ここで彼に多くの民族の父となる約束を与えられました。証拠は天からの御言葉「わたしは・・・・主です。」(創世記15:7)だけでした。

しかし、アブラハムは従いました。そして、聖書はノアと同じようにアブラハムについて言います。「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。」(創世記15:6)これも非論理的です。しかし、この人の信仰は義と数えられたのです。

神があなたに求めているのは理不尽な事かも知れません。神は私たちの祈りに答える何の証拠も与えないで、状況が全く希望も、もはや救いようも無い時に、神は御自身を信じる事を求められています。「わたしを信じなさい。」―主の御言は非論理的でしょうか。そうです。非論理的です。しかし、神は時にあたって相応しく答えを与え、サタンに決して最終決定権を与えません。神は聖霊の完璧なタイミングでに必ず来られます。

2009年2月10日火曜日

溢れ続けている

エゼキエル47章で、エゼキエルは「終りの日には、イエスキリストの教会はそれまでかつてなかったように栄光に満ち、勝利すること」を見せられました。主の真の御体は弱まったり、散らされたりしません。また、数が少なくなったり、霊的権威や力が無くなったりしません。否、神の教会は力と栄光に輝くでしょう。そして、誰も知らなかった全きイエスの啓示を受けるでしょう。

エゼキエルは述べています。「その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。(エゼキエル47:10)」主の臨在の溢れる大水の中で泳ぐ、信じる者の群れが来ると。

これは神がエゼキエルの大水の幻で私たちに示していることです。(エゼキエル47:3-4)

エゼキエルはここで聖霊の増すことを言っています。後の日には、神の人の中で神の臨在が増します。

この川の源になる泉は十字架です。聖書は実際にそうなったと語っています。「しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。(ヨハネ19:34)」

この水の増す流れは聖霊が弟子達に与えられた時の五旬節の光景です。聖霊の賜物と共に、キリスト御自身がキリストを従う者の内から溢れ出る命の川となる約束を与えられています。(ヨハネ7:38~39)

命の川は主の再来のちょうど前に最高水位点の頂点に達するでしょう。神はエゼキエル預言者を幻の旅に連れだしそう語られました。ここで、主と預言者エゼキエルは測り棒を持って、一千キュビット、約1/3マイルの処まで踝辺りまで来る水の上を歩きました。

エゼキエルは「わたしを主が渡らせてくださった。(エゼキエル47:3)」と証言します。そして、主はエゼキエルをもっと下流に行く様に促しました。一千キュウビット後には、水は膝まで来ました。そして、水はまだまだ深くなって行きました。

何がここで起きているのでしょうか? エゼキエルは彼にとって未来、今の私達とっては現在を歩いています。現在のクリスチャンはこの幻の最後の一千キュビットに生きているのです。私達は最後の測りに来ています。そして、エゼキエルは測り棒を使いましたが、水は深く、圧倒されました。「水は深くなって、泳げるほどの水、越え得ないほどの川になった。(エゼキエル47:5)」

私の想像ですが、主は不思議と感じたこう訊かれたでしょう。「エゼキエルよ、この海が上がるのは何であるか。もし、この川が甦りと命の力を示しているなら、その栄光に泳ぐ人は誰だ?」彼は今私達が喜んで想像する栄光しかできないでいたのだと思います。

もしかしたらあなたは今、イエスの存在を豊かに体験しているかも知れません。あなたはイエスの啓示に現在、身震いするほどの喜びを感じているのかもしれまん。しかし、私はあなたに言います。その喜びは、正しいものにやがて押し寄せて増加する喜びと比べることなど出来ないでしょう。キリストは私達の目を開き、私達の心のうちに現れるでしょう。キリストは御自身を私達の前に現し、私達が主のもつ栄光の体なしで、彼の命の喜びを感じ生きていけるよう私達にたくさん注ぎ教えてくださると思います。

2009年2月9日月曜日

篩に掛けられる時

シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。(ルカ22:31)

みなさん、サタンは彼の業をおびやかす者だけを篩に掛ける事を知っておいて下さい。特に、最も実を結ぶ可能性がある人を標的にします。しかし、何故悪魔は使徒ペテロを篩に掛けたのでしょうか。何故悪魔は勇んで使徒ペテロを試みたのでしょうか。3年間、ペテロは悪魔追い出し、病んでいる人を癒しました。サタンはイエス様が異なる、聖霊の火と力による洗礼を弟子達に約束されたのを聴きました‐そして、サタンは振るえあがりました。悪魔は神のペテロに対する究極の計画を聞きました。悪魔はペテロや他の使徒たちがやがて行うであろう大いなる業に比べればその三年間の業は取るに足りないものであることを知っていました。ユダーを既に落とし、サタンはペテロの信仰が躓くようにペテロに仕掛けました。

もしかしたら、今あなたは、ペテロのように篩に掛けられているかも知れません。そして、なぜ自分なのかまた、なぜ今なのかと訊きます。まずは、自分が暗闇の国で有名なのを喜ぶべきです。サタンは、あなたが従順の線を越えてなければ、あなたを篩に掛ける神の許しを得ようとしたりしません。それでなければあなたを揺るがし、怖がらせ、嫌がらせ、問題を起こしたりしません。悪魔が終りの日に、あなたが神の教会で重要な役割を担うから、あなたを篩に掛けるのです。神はこの時代に新たな業をなして下さいます。そして、あなたは多くの人に証となるように聖別されています。神はあなたを自由にし、あなたを神の永遠の御旨に従って、備えています。あなたの賜物が、あなたの可能性が大きければ大きい程、神の御旨に従う姿勢が全きものである程、その篩掛けは激しいものとなるのです。

もし誰かが、篩掛けの火を通るとしたら、彼の周りはどうすればいいのでしょうか。イエス様はペテロの躓きが差し迫っていた時、どうしたのでしょうか。イエス様はペテロに「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。」(ルカ22:32)

私は、このイエス様の素晴らしい愛の例を見たときに、自分が躓く、落ちた人をどのように愛するかを何も知らないと気づかされました。勿論、イエス様は「兄弟よりもたのもしい友」箴言18:24です。イエス様はペテロの良し,悪しを全て知ってから決めたのです。「この人は救うべきだ。サタンもこの人を欲しているが、私はそれよりもっとこの人のことを願っている。」ペテロは真に主を愛していました。イエス様は彼に「あなたのために祈った。」と言いました。イエス様は御父にペテロについての多くを例えば、イエス様がペテロをどれだけ愛しているか、御国でペテロがどれだけ必要であるか、友としてどれだけ考えたかを語ったと思います。

主よ、このような愛の全てを私たちに下さい。もし、私達が兄弟姉妹が妥協したり、問題や災難に逢ったりするなら、イエス様がペテロにしたように助言を与えるほど固くお互いを愛することが出来るようにして下さい。そして、私達に「私はあなたのために祈っている」と言うことが出来るように。

今日、私達は「聖書に書かれている」と言ってサタンと戦うことが出来ます。それは、「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。」という言葉で悪魔に立ち向かうことが出来ます。「サタン、あなたは私を篩に掛ける許しは得ているかも知れないし、私の信仰を台無しにしようとするかもしれない。しかし、あなたはこれを知りなさい。『私のイエス様は私の為に祈っている』ということを!」

2009年2月6日金曜日

境界線を越える

イエス様がこの世におられたとき、サタンの力が激しいことを、そしてまた、その兵器が主に属する人たちを揺さぶるために用いられることをよく知っておられました。私達は今、霊的な世界で行われている大いなる戦いを理解することは出来ないと思います。また、サタンがどれだけキリスト様の道に歩もうと心に決めて信じる全てものを、破壊しようと心に決めているかを判っていません。

しかし、キリスト様の者としての私たちの歩みが真である境界線、神を従順する線を跨る時、地獄の警報が鳴り響きます。その瞬間に神の御言葉に対す従順とイエスだけにより頼む境界線を跨るのです。そして、私達は暗闇の国に対する脅威となると同時に、悪の主権と力を持つものの標的となるのです。心を尽くして主に向いて信じる者全ての証には突如の試み、問題が含まれるのです。  

もし、あなたがこの服従線を越えたなら、目に見える世界で波風を経てているのです。ルカの福音書22:28-34でイエス様は聖人が揺さぶられる事を述べています。「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。」31節 主がこの世を歩んだ時代、収穫の時、畑の人たちは穀物を袋にかける前に篩を使いました。網に覆われている四角の箱に入れて、箱を上下左右に激しく揺らします。石やごみははみな落ち穂だけが残ります。ここで篩にかけることは「揺らされ、別たれた」-突如の試みに驚かされる-と言う意味です。イエス様はこの例で使徒ペテロに「サタンはあなたを石やごみだと思っていて地に落とすと思っている」といっているのです。  

試みや苦難があり篩かけがあります。私は篩い掛けが大きな、サタンの業であると思います。それは多くの場合、とても短いが圧縮された期間です。ペテロにとって篩掛けはたったの何日間でしたが、それは信仰を揺るがし、ショッキングな、後悔すべき時でした。この篩掛けがペテロに問題になっていたプライドを振るい出しました。この揺らしによってやがて彼の証を消し得る魂の妨げを、遂に取り除いたのです。神よ、ペテロの為に「信仰がなくならない」とイエス様が祈ったように、イエス様が私達の為に祈って下さっている事を感謝します。

2009年2月5日木曜日

一人の時間

私は神の沈黙の時、神の御声を暫く聞けない事がどんな事か知っています。その時、私を導く小さな声は沈黙し、方向なしで混乱します。私に助けを伸べる友人も、回りにいませんした。前から頼りにしていた助言もなく、慌てるばかりでした。道は見えなくなり、間違いを重ねました。私は神様に「おお、神よ、どうしたのでしょうか。私はどっちに行っていいのでしょうか?」と言いたかったのです。  

神はその愛する者から御顔を隠されるのでしょうか。神様は、私たちに神を信じ頼む事を教えられる為、暫し御手を離されることもないのでしょうか。聖書ははっきり答えています。「神は彼を試みて、彼の心にあることを、ことごとく知るために彼を捨て置かれた。」(歴代Ⅱ32:31)  

あなたは苦しみの波に苛まれているかもしれません。天が真鍮のようであるとの表現を知っていると思います。人が繰り返す間違いについても全部知っています。あなたは待ちに待ちました。しかし、苦悶の杯しがきません。何も、また誰も、あなたの心に必要なことをわかってぐれません。  

その時こそあなたは固く立つ時です。その時は喜んだり、笑ったりする必要はありません。何故ならあなたの内には喜びがないからです。現に、あなたの魂には混沌しか残っていないかもしれません。しかし、神があなたと共にいます。聖書にこう記されています。「主は大洪水のときに御座に着かれた。まことに主は、とこしえに王として御座に着いておられる。」(詩篇29:10)  

暫くの内にあなたは神の声を聞くでしょう。「心を騒がせ、驚くな。全てを私に委ねなさい。」という神の声を。そして、あなたは神の言い尽くせない愛の対象であると知るでしょう。

2009年2月4日水曜日

遅く来た祈りの答え

私たちはしばしばダビデのように祈ります。「わたしの悩みの日にみ顔を隠すことなく、あなたの耳をわたしに傾け、わが呼ばわる日に、すみやかにお答えください。」(詩篇102:2)「あなたの顔をしもべに隠さないでください。わたしは悩んでいるのです。すみやかにわたしにお答えください。」(詩篇69:17)ここでヘブライ語の「すみやか」という単語が使われていますが、「今、急いで、これを呼んだら直にする」の意味ですから、ダビデは「主よ、私はあなたを信じますが、急いで下さい。」と言っています。  

神は急ぐ事はありません。神は私たちが要求したから何かをされません。現に、あなたはしばしば神が答えるか、否がをも疑うことがしばしばです。あなたは泣き、叫び、断食しそして望みますが、日、週、月が経ち年も暮れます。しかし、あなたは神があなたに耳を傾かれた兆しは何もありません。先ず、あなたは「何かが私の祈りを妨げている」と考えます。やがてあなたは混乱し、こう考えるようになります。「主よ、祈りが答えられるには何が必要ですか? あなたは御言葉で信仰にたって答えると言ったのではありませんかと、何年これを続けなければなりませんか。」  

神様は何故真心の祈りに答えないのでしょうか。神がそうされる能力が欠けているからではありません。また、神は私たちが答えを受けさせたいと思っています。この御言葉に答えがあります。「また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。」(ルカ18:1)  

ここで使われている「失望」というギリシャ語は「緩やかになる、信仰が弱々しくなって、疲れて、努力しない。成就されることを待たない」を意味します。しかし、聖書は「わたしたちは、善を行うことに疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」(ガラテア6:9)と言っています。主は疲れたり、弛んだりしないで祈る人々をも求めています。この人たちは主を待ち望み、御業が完成するまで諦めたりしないでしょう。そして、神が答えをもたらす時を見出すでしょう。

2009年2月3日火曜日

愛の鞭

神はあなたを愛しているので、あなたの人生を立ち直らせて下さいます。悔い改め神に立ち返る人には愛の鞭が与えられます。あなたの過去や現在の罪の為に、神の矢が魂に刺さる痛みを感じるかもしれません。しかし、もしあなたが悔い改めの心を持ち、間違いから直りたいと思うなら、それは愛の鞭と言えるのではないでしょうか。間違いは正されますが、神の愛と慈しみによる正され方があるのです。あなたは信じないもののように怒りの鉄拳を感じるのではなく、神の慈しみ深い御手による薫陶を受けるのです。  

もしかしたら、あなたは過去の間違いによって苦しんでいるかもしれません。沢山の女性たちが、神様がその人ではないと戒めたにもかかわらず結婚して苦しんでいます。若者たちは道を誤り、親の心を痛めています。こんなことが繰り返し行われるのは、罪や妥協の根があったからです。  

そしてあなたがどん底に落ちたと知る時、砕かれ、悔い、信仰によって主を求める時、そして聖霊の力の新たな注ぎを受ける時です。それはあなたの内から霊的力が溢れ、リフレッシュされる時です。  

あなたが神を叫ぶ時、神はあなたに力を注ぎます。「私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私の魂に力を与えて強くされました。。。。。たといわたしが悩みの中を歩いても、あなたはわたしを生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。主は私にかかわるすべてのことを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。」(詩篇138:3 7-8)  

クリスチャンにとって最も受け入れ難いことは正しい人が苦しむ事です。キリストがこの世に来られるまで、ユダヤ人は信仰深い事と健康や成功を関連付けていました。彼らはあなたが裕福であり、健康である事は、神があなたのよい行いに満足しているから祝福されると信じていました。ですから、イエス様が弟子達に「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい。」といった時、弟子たちは「では、だれが救われることができるのだろう?」(マタイ19:24-25) と反応をしたのです。  

同じように、今、世間で苦しみを受けない契約を神と結んでいて、必要な時に神を呼べば、全てが解決すると言っている間違った神学があります。しかしこれは福音とは言えません。ヘブル11章の信仰の偉人たちは神と共に歩みましたが、彼らは石打され、罵られ、拷問され、殺されました。(ヘブル11:36-38)パウロ自身も神と共に歩みましたが、難破し、石打され、鞭打たれ、捨てられ、監獄に入れられ、迫害されました。彼は全てをなくす苦しみを受けました。何故でしょうか。これらは全て、神の栄光に対する信仰が試され、清められる為に必要なものだったからです。  

神様は試みを通して私達の心に何かを植えつけようとされています。神は私たちがこう告白するのを望んでいます。「主イエス様、あなたは私を守り、全てを司る事を信じます。何かが私に起きるのはあなたが許されていて、その御旨を信じます。あなたが私に知らしめ、受けさせようとする教えを解るように助けて下さい。もし、私が義に立ち、心に神の喜びがあり、私の生きるも死ぬも神に栄光を帰すでしょう。あなたは、私の有限な心では理解できない神の御旨と備えられている栄光があると信じます。私は、私が生きるも死ぬも、私はあなたのものと告白します。」

2009年2月2日月曜日

神様が思いがけないことを私におっしゃいました。

ある晩、祈りの会で神様は私に私達の教会について思いがけない事を言われました。主は私に「教会は今ショック療法が必要です。多くの人は現状に満足して安住しています。今世で流行っている偽りの神学の波や風から閉ざされ、安全だと思っています。しかし、あなた方はやがて来るものについて備えられていません。」と言われました。

愛する皆さん、あなたに内に働く御霊の証しは、あなたが取捨選択するのもではありません。あなたの命がかかっているのです。終りの日に聖霊の証を内に持たないのなら、生き残れません。あなたはアンチクライストの霊に屈服するでしょう。

あなたは聖霊の証が、職場でも、働く時でも、学校でも常に必要です。指導者や政治家を正しく見極めてください。敵キリストの制度に気がついたら組み込まれないためにです。 

これはイエス様が「灯火の油を持たなかった愚かな乙女」の例えで言いたかったことです。彼らは聖霊を持っていましたが、時が来たときにはその証はなくなっていました。

油が足りなくなっているなら愚かな乙女たちのように、教会やあなたの牧師があなたの魂を保ってくれると思うようにならないで下さい。そして現状を悔い改め、自分を謙り、心を探ってください。自分の魂に潜む全ての怒りや苦き根を神様が取り除く事を願い、自分の罪を告白し、その罪から離れて下さい。神に今一度全てを頼るのです。  

神の平安を得て、聖霊の証を内に持ってください。御父にもっと大きな御霊の祝福を願い、あなたの証となり、全ての導きとなるように招いてください。私たちがイエス様の道に全く従うには、値を支払わなければなりませんが、同時に酬いもあるのです。キリストと共に立つ事は、祝福以外ほかにありません。それに益して他の酬い(マタイ19:29)もありますが、この共に立つと言う祝福以外に何が私たちに必要でしょうか。 

使徒パウロがエルサレムで獄に繋がれた時、時の権力を持っている宗教指導者は彼を殺そうとしました。彼らは使徒パウロが聖所を汚し、偽りを伝播すると訴えました。彼の命は危うく、ローマの兵士でさえ「パウロが彼らに引き裂かれる」

と思ったほどです。だから、彼らはパウロを引きずり出し、城に監禁しました。翌晩、主はパウロにこんな事を仰いました。「喜びなさい。もっと問題が沢山おきる」イエス様に従う値は神の人の人生において明らかにされています。-私たちが主のようになりたいと思っているのであれば、その値も受け入れるべきです。その値を耐えることはやがて喜びとなります。イエス様がどのような時も私たちと共に居られる事を知ることができるからです。その値を超えるイエスキリストの尊い臨在があなたの報いとして与えられることを皆さんは知るべきです。