2009年9月15日火曜日

嫉みや嫉妬の種

私達は全て嫉みや嫉妬の種を内に持っています。問題はそれを認める人がいるかです。

清教徒の牧師トーマス・マントンと言う人は嫉妬と嫉みについての人の性質をこう言っています。「私達はアダムの罪に生まれている。私達が母の乳房を含むときからそれを飲んでいる」。それは私達の深い一部です。

その罪の種は私達が他の働きの祝福と達成した事を素直に喜べないようにしています。その結果、私達は兄弟姉妹達と私達の開いたに大きな壁を建ててしまいますs。「憤りはむごく、怒りははげしい、しかしねたみの前には、だれが立ちえよう」。(箴言27:4)

ヤゴボ長老はこう言っています。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない」。ヤゴボ3:14

平たく言うと、ねたみと嫉妬の罪は苦い毒であるといっているのです。もし、私たちがそれを手放さないなら、それは私達の霊的権威を損なうだけではなく、悪魔の計略に身を任せることになるのです。

サ ウル王は聖書で言っていることの明らかな例です。第一サムエルの18章でダビデがペリシテ人を討ち負かし回旋する場面が出できます。そこではダビデとサウ ル王は一緒に馬に乗って入城しましたが、イスラエルの乙女達が出てきてダビデの勝利を祝い歌いました。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討つ」。

サウルはこの喜ばしき祝い歌に傷つけられ、考えました。「ダビデには万と言い、わたしには千と言う。この上、彼に与えるものは、国のほかないではないか」。(第1サムエル18:7)

直 ちに、サウルは嫉みと嫉妬の霊に捕らえれれます。次の節でサウルにどんなことがおきたかが記されています。「サウルは、この日からのちダビデをうかがっ た」。そして悲劇的にもその後「 サウルは、ますますダビデを恐れた。こうしてサウルは絶えずダビデに敵した」。となりました。

サ ウルはねたみに囚われていました。彼は主の前にて悔い改めるほど謙ることも出来ませんでした。もし彼が自分のねたみを認め、それを採ったのなら神はその油 注がれた僕に光栄を与えたでしょう。しかし、差うろは自分を末席に置くことは出来ませんでした。その代わり、彼は自分の妬む霊を最も高いところに置きまし た。次におきたことはまったく畏れるべきことです。「 主がサウルを離れて、ダビデと共におられたので、サウルはダビデを恐れた」。(18:10-12)