2009年3月31日火曜日

私たちには希望があります。

キリストの義がある人は、希望がない人々のように生きてはいけません。私達は神への畏れと愛両方に祝福されています。神の御旨は暗闇にあっても私達が喜びと嬉しさを得ることです。私達の周りが災難に会うとしても、私達は、裁きが来たからではなく、裁きに関わらず喜びの歌を歌います。

イザヤ書5:11は英文では「Therefore」と始まっている。それは「前に述べた理由によって」の意味です。その前に神は何を言ったでしょうか。「51:10 海をかわかし、大いなる淵の水をかわかし、また海の深き所を、あがなわれた者の過ぎる道とされたのは、あなたではなかったか。」言い換えれば「私は主、時の古、奇跡を行うもの。我が手は汝を救う」と意味します。

そして神は51:11で前に述べた事実によって何を言いたかったのでしょうか。

- 主にあがなわれた者は、歌うたいつつ、シオンに帰ってきて、――その意味は信頼と信仰と神に対する自負心を持った

- 「そのこうべに、とこしえの喜びをいただき」神の民が体験する喜びは礼拝・日曜の朝/一週間/一ヶ月に限られるものではありません。それは苦しい時を堪える、最後まで残るものです。

- 「彼らは喜びと楽しみとを得」神は時の中で仰います。「わたしの民は喜びをえて、それを保ち、彼らのものとなる。」

- 悲しみと嘆きとは逃げ去る。-この意味はすべの苦しみが去ることを意味しません。これは主にあるわたし達の信頼が全ての苦しみと悲しみを超えうることを意味します。悲しみと苦しみとかは決してわたし達の喜びと楽しみを取り去ることは出来ません。

2009年3月30日月曜日

蛇使い

あなたはイエス様が前もって忠告された蛇に出会う危険を甘受する事無しではキリストにある働きを効果的に出来ません。

私は、聖書は悪しき者達は毒蛇のようですから私達は蛇使いなるべきと言っています。聖書がサタンを「年を経た蛇」(黙示録12:9)と呼んでいるのは意味があります。また、イエス様も約束した言葉にも「... へびをつかむであろう」(マルコ16:18)と記しています。

イエス様は仰いました。「道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい」(ルカ14:23) しかし、伝道の書では私達に戒めています。「石がきをこわす者は、へびにかまれる。」(10:8) 垣根は蛇がうようよしていますが、しかし、人を獲る漁師の私たちに「その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。」とも神は言っています。


人の魂を得る人達は約束されています。「へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。...」 (マルコ16:18) この言葉は一意的には宣教師や信仰者の毒に関わる偶発の事故のことを言っていますが、それ以上に重要な意味が隠されています。クリスチャンはキリストの血-命、神の愛、麗しいの川-を飲みますが、同時に私達が福音を語る為に出て行くならば、この世の毒も心ならずとも飲むことになります。

私達がこの世の魂を吸収するなら、私達は私達の霊性において致命的なもの(毒)を取ってしまいます。聖霊の御加護が無ければクリスチャンが罪人の処に出かけ致命的なものをとってしまうとの事です。あなたの霊にこれらの恐ろしいものを摂ってしまうのです。しかし、もしキリストの力にあって蛇達を追払う際にこれの劇薬を飲んだなら、その毒はあなたに効きません。主が、私にそんなことが起きていると示した時、私は祈り、聖霊の息吹が私の体に注がれるようにします。そうしましたら、その毒は私から流れ出されて、私は清らかに、純粋であること-病まず-ができます。

2009年3月27日金曜日

死ぬことは益である。

パウロは「死ぬことは益である」(ピリピ1:21) こんな話は現代の霊性を語る言葉の中で全く異質なものと言わざるを得ないでしょう。私達は主から離れるなど全く考えられない、今の生を尊ぶ人々となってきました。

使徒パウロは「わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。」(ピリピ1:23)と言っていますが、新しくキリストを知る者の為に「殻に留まる」方がまたは彼の言葉によれば「肉体にとどまっていること」がよいとも述べています。

使徒パウロは頭がおかしかったのでしょうか。死に対して不健康に執着していたのでしょうか。パウロは神が祝福した自分の生について蔑ろにしたのでしょうか。断じてそうではありません。パウロは自分の生を精一杯生きた人でした。彼にとって生とは賜物であり、その生を良き戦いを戦うに使いました。ですから、彼は「死の棘」を克服して、「死んで主と共に居るほうが肉に留まるよりましである」と言えるのです。

主に既に死んだ者は勝利を勝ち取った者であり、生きている私達はまだ敗者に留まっています。死は究極的には修正に過ぎず復活が全てを正すのです。死は通過点に過ぎませんし、時にはその通過点は苦痛かもしれません。この体がどれだけ苦しみや痛みを伴っても、通過点を耐え抜いた者達に待ち受ける言いようのない栄光に比べられないでしょう。

死について話したら私達は嫌がって、それを勤めて無視します。誰かが死について話すと変人扱いをします。時には天国がどんなものが話しますが、死の話題は禁忌となっています。

初代教会のクリスチャンは違っていました。パウロは死についてしばしば話しています。事実、私達の死からの復活は新約聖書では「祝福された希望」ともうたわれています。しかし、今や死は私達が馴染んできた人生から私達を切り離す媒介としか認めません。私達はこの世に私達を縛る物理的なものに満たされています。この世は私達を唯物主義によって捉えてしまっています。私達はもはや自分の小綺麗な家庭を、小さな楽しみを、心を満たすものを離れるなんて考えもしません。私達はこう考えているのではないでしょうか。「今死ぬのは全く惜しい。私は主を愛しているが、私が買った不動産の値上がりを楽しむ時間が欲しい。私は結婚したばかりだ。買った牛を使ってみなきゃ。時間がもっと必要だ。」

人々はこの使い古された世を離れる事について、天の御国についてもあまり話したがらないことに気付きませんか。その代わり、私たちはもっと物を蓄えるために信仰を如何に使うかのメッセージに攻め立てられています。神の永久の御旨はなんと歪められているのでしょうか。多くのクリスチャンが死に慄いているのも無理もありません。私達はキリストがこの世とこの世の縛りから離れるという呼び掛けからなんと離れてしまっているのでしょうか。キリストは私達がキリストに進み出て、この世に未練を残さずに死ぬ、私達がどの世にどのように記憶されるかを新倍する事無く死ぬことを求めています。キリスト御自信は自叙伝も、立派な社屋も、名前がついた大学も、聖書学校も残しでいません。キリストはその記憶を記念するものは、「主のパンと葡萄酒」以外は何も残しませんでした。

2009年3月26日木曜日

放蕩息子の教訓

聖書に「(放蕩息子は)そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。」(ルカ15:20)

放蕩息子が家に帰って来たのは彼の父との過去があったからです。この若者は父の人格を知っていました。彼は嘗て父の寵愛を受けていました。だから、戻ったら自分は自分の罪について非難されたり、罵倒されたりしないことを知っていました。

放蕩息子の父親は哀れな状態をどのように受け入れましたか。その若者は真心で父に懺悔をしようと思っていました。が、彼は父に顔を合わせた時、話すことが出来ませんでした。彼の父は走って来て、彼を抱擁したからです。

かの若者は告白の初めしか言い出せません。「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません。」(21節)しかし、父はその告白を終える迄待ちません。父にとってはその若者の罪は既に解決済みでした。父の反応は僕達にこう指図しただけでした。「わたしの息子に服を着せ、指に指輪を嵌めさせ、祝いの宴を設けよ。みな喜べ。息子が帰って来たぞ。」彼は全く悔改めた子の心を知っていました。

罪は父にとって何の問題もなりませんでした。父に心架かりなのは愛でした。彼は子が告白する前に既に受け入れていることを子に知って欲しいと思っていました。その事を神は私達全てに知って欲しいのです。神の愛をわたし達の罪が阻むことは出来ません。「神の慈愛があなたを悔改めに導く」(ローマ2:4)のです。

2009年3月25日水曜日

切り捨てなさい

イエス様は弟子達に言いました。「もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。」(マタイ18:8)

イエス様は言葉を「もし-英語wherefore」で始めました。これは『その前に十字架についての教え』の意味を含めての意味です。ですから、ここでイエス様が「もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら-offend」と言っているのは十字架に対して罪を犯すことを示しています。

イエス様が「切り捨てなさい」と言ったのは、先ずはユダヤ人の人達が自分の良き業に自信を持っているから言いました。足、手、目などは肉-人が自分の力で罪の縛りを取り除く努力-を象徴します。イエス様はそんな人達に言っているのです。「あなたの目は間違ったものに注意を払っている。あなたは自分の力や能力を見ている。だから、そんな目は取り除きなさい。そんな考えをする肢体、心、考えを全て排除すべきである。否み、確実に除きなさい。神にあなたの肉からの利益や良き業を捧げる望みを切り捨てなさい。欲や神に逆らうものは切られなければならない。しかし、取除きはあなたの肉の手ではなく、御霊により行う。

だから、わたしの手に委ねなさい。あなたは子供のように十字架の我が勝利を受け入れ、謙りなさい。わたしに全くより頼み、委ねなさい。カルバリの我が業の為に、あなたは自分のものではなく、わたしが贖ったものである。我が霊があなたに求められる聖さを満たすであろう。」

2009年3月24日火曜日

わたしはあなたに語ることが出来ない…しかし

悲しいことに沢山のクリスチャンは神の声を知りません。ある人は彼らの内に居られる主からの言葉を得ずに、何ヶ月も、何年も過ごします。彼は神が語ったことを覚えています。しかし時が経って、彼はその心の神の声を締め出すことを覚えました。また、他の者は心に浮かぶ全てが神からの言葉であると信じます。ある人たち言います。「神様がわたしに言いました。」-しかし、彼らが聞ける言葉は彼らの肉の声です。

もしあなたが神の声を先もって聞きたいと思うなら、神が導きを語る前に神に示され清められるべきです。多くのクリスチャンは給料が、仕事が、家族が保つことについて神が示すことを願っています。しかし、神がこれらのことを私達に言う前に、神は御自身の法を私達に語ります。

「これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。」(ヨハネ15:17)神は先ずあなたの妻や子供に接する態度-あなたの怒りっぽさ、あなたが根に持っていること、あなたが持っている怒り-を示します。神はあなたの隠れた、密かなものを示し、あなたに言います。「わたしはあなたの助言者、相談者、導くもの、守る者、養う者になる。わたしはあなたの困難と試みにあって共に歩む。わたしはあなたをわたしの霊によって保つ。しかし、先ずあなたは自分の心に隠れた偶像があるのを知らなければならない。今だ、あなたはその偶像を保っているが、それは捨てなければならない。このことを受け入れなければ、わたしとともにあなたは歩むことは出来ない。」と神は仰っているのです。

2009年3月23日月曜日

神の御声を知る

神は私達がどんな状況にあっても「神を信頼する人たちを保つ」事を知って欲しのです。

預言者イザヤが言っています。「また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで『これは道だ、これに歩め』と言う言葉を耳に聞く。」(イザヤ30:21)イザヤはこの詔をイスラエルの状況が最悪の時に語りました。かの国は裁きの下、滅びつつ、全てが崩壊しつつ、ありました。その時、イザヤはイスラエルの指導者達に促しました。「主に戻りなさい。主は導き-この道、こっちが道だ-との言葉を与えたいと思っている。」しかし、彼らは聞きません。彼らはエジプトに助けを求めました。彼らはエジプトの馬車、馬、兵糧に頼りました。

その時点では、神はイスラエルをまだ裁かれませんでした。神は成す術がなくなるまで待ちました。神は思っていました。「彼らは生き残りに奔走するが、彼らの悪しきに関わらず、わたしは待とう。」(18節参照)同然すべて失敗し、益々悪くなります。全ての謀が無駄となったとき、神は民に仰います。「わたしに任せなさい。耳を開き、言葉に耳を傾けなさい。わたしは逃れる道を知っており、わたしが導く。一歩一歩右か左か導き、あなたを救う。わたしに聞きなさい。わたしは語り、仔細に語ろう。」

重要なこと-最も重要な-は神の言葉を知ることです。神は今も人々に語ります。神ははっきり仰っています。「わたしの羊はわたしの声を知る。」この世には沢山の声-時にはそれは大きく、強圧的な-があります。しかし、イエス様が仰った言葉を信頼する人々には、主の静かな、落ち着いた声があることを覚えてください。

2009年3月20日金曜日

神との和解

イエスは私のために神と和解を売るために十字架に架かって亡くなりました。そして、イエス様は私達の内にあって、私達の為に平和を天にて保っておられます。キリストによる神にある平和とは、私達の信仰が他の宗教と異なる点です。

キリスト教以外の他の全ての宗教では、罪の問題は解決できません。罪の影響は消えないのです。ですから、そこには平安がありません。「主は言われた、『悪い者には平安がない』と。」(イザヤ48:22)しかし、私達には罪を赦すことによって平和を与える神様がいます。このためにイエス様はこの地に来られたのです。問題ばかりの、裁きを恐れる人類、私達のところに来たのです。

ではイエス様は私たちのために神の平和をどのように保っておられるのでしょうか。三つの方法をもってそうされています。

- 第一にキリストの血はわたしの罪に対する罪悪感を取り除きます。パウロは「キリストはわたしたちの平和」(エペソ2:14)と言っています。イエス様は自信の血によって私の平安を与えて下さいました。

- 第二にキリストは信仰によって私の平安と喜びを保っておられます。「どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。」(ローマ15:13).

- 第三にイエス様は永久の栄光に入る喜びを与えます。「わたしたちは、……神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。」(ローマ5:2)

そうです。平安とは恐れの欠乏です。そして恐れのない生は平安の歩みです。

イエス様が天に昇られた時、イエス様は神が与え給う栄光にただ安住しに言ったのではありません。いいえ、イエス様はカルバリで私達のために得た尊い平安を保つために御父のところへ行かれたのです。

私達の救い主は栄光にあって生きておられます。そして、彼は、手足目を持った完全な人であると同時に完全な神です。彼の手足には釘痕が、脇腹にも傷痕があります。イエスさまは御自身の人性を決して捨てません。彼は栄光にあっての人なのです。今この時、私達の永遠の人イエス様は、御自身が私達に残した平和を取られないように働いておられます。大祭司としてこの地での御自身の肢体が神の平安に満たされるために仕えています。そして、イエス様が再臨する時、私達が「安らかな心」におられることを望んでおられるのです。(2ペテロ3:14)

私が罪を犯した時、私の平安が二つの面で揺らぎます。第一に私の良心が問題に気づき自信を責めます、それは正しい責めなのですがその次にサタンは私を責め恐れさせます。キリストの取成しが働く時はこの二つが適合した時なのだと思います。

これに対して、先ず私達の大祭司は私達の良心もサタンの責めによって私達を責め身動きできないでいることをお許しになりません。キリストは、悪魔が私達を叱責しようとするとき、御父の前で弁護します。友達として弁護されます。クリスチャンにとっては、この友人は裁判官の嫡子でもあるのです。加えてこの友人は私達の兄弟です。それ以上に私達はその裁判官の遺産を受け継ぐように定められています。

2009年3月19日木曜日

私達を取成す方

「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。」ヘブル7:25

「イエス様が私達のために取成している」と聖書が記しているのはどういうことでしょうか。これには人の理解を超える、神妙な、深い意味があります。これは恐れ多いことです。聖書学者はこれについて様々な見方をします。

聖霊の導きにあっての信頼と祈りによって、私は不可思議な主題の小さな一片を理解し始めました。私が祈ったのはただ「主よ、天でのあなたの取成しが私にどんな影響を及ぼしますか。あなたの御言葉はあなたが私の為に父の御前にいると記しています。これはあなたと日々共に歩むことにどんな意味を持っていますか。」

英語の単語「intercession-取成す」は「人の為に願う」意味です。これは人の前で、あなたの理由を弁論するためにあなたの変わりに立つ人のことを示します。この定義によれば、キリストは神の御前であなたの為に弁護し、神があなたに慈しみ、赦し、恵み、祝福を求め続けています。

聖書は私達の天の父が必要を求めない先から知っておられると宣言しています。そして神は必要を祈る前に既に満たしてくださいます。ですから、神の御子が神に何かを懇願するとは考えられません。その上、聖書は御父が御子に全てを委ねているとしています。「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており」(コロサイ2:9)

私は私達の為のキリストの取成しを全て知っているとは言いません。しかし、私は私達の大祭司が私達の為に取成していることは極めて簡単なことだと信じます。その取成しはこの地でのキリストの御体の成長についてです。キリストは力を以てその御体の部分や関節を全て与えようと居られるのです。

2009年3月18日水曜日

新しい祭祀職

エゼキエル44:15~16を読んで下さい。ヘブライ語のザドクという名は「義もしくは義なる」という意味を持っています。エゼキエルはここでダビデ治世の時に祭司を勤めたザドクのことを言っています。この正しい人は主なる神やダビデ王に対する忠実さを失ったことはありません。彼は時が良くても悪くても王と共に、神の言葉に立ちました。ザドクはダビデ王が主の油注がれた人であることを知っていたので、彼に常に忠実でした。

ザドクが全てに忠実だったので、彼は主に真である働きを象徴するようになります。真に、ザドクは神の祭司の模範-この世と離れ、主と歩む、天から声を聞く‐と数えられています。それは祭司が自分の主な仕事は、神を日々求める、聖霊と常に交わる、キリストに仕える祈りであることを認識していることです。

新しい宮の祭司らは会衆の前に立つ以前に主の御前に忠実でなければなりませんでした。彼らは、自分らの魂に神からの詔が焼きつかれて満たされるまで、主の臨在にあって尊い時を経ました。そして彼らが神の臨在から離れて人々の前に立った時、彼らは人々の心に直に語ることが出来ました。神からの詔は、神の御座から出たので、羊が住んでいる所に流れたのです。
主はザドクの時の祭司職について「これらの祭司らは聖所に入り、我が前に立つ。彼らは祭壇に近づき、仕えなければならない。彼らは我が定めを守らなければならない。われは彼等を忠実に導き、方向を示し、我が詔を我が民に与える。」

新しい、末世の聖所では、ザドクの祭司職たる者は自分の仕事の中心が主に仕えることを知らなければなりません。その祭司には、義に歩みたいと望んでいるイエスを愛する人達ことごとく含まれます。新約聖書の色々な箇所で「信じる者の祭司職」について書かれています。ヨハネは言っています。「わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに」黙示録1:6) ペテロは記しています。「2:5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。」(Iペテロ2:5)

あなたは教会から何の権威も受けてないかもしれません。また、あなたは神学校に行っていないし,聖壇でメッセージをしていないかも知れない。しかし、あなたはザドクの祭祀職に、伝道者として、説教者として召され、任命されています。新旧約は明らかにしています。私達、それぞれは祭司として祭祀を行うのです。

ではあなたはどうすればいいのでしょうか。あなたは最初に主に仕えることから始めます。あなたは主に犠牲を、賛美の、礼拝の犠牲を、自分の心を、魂、力を主に委ねる犠牲を捧げます。主はあなたを主の聖なる祭祀職の一部として召しています。ですから、あなたは主に仕えた後だけに他の人に仕えるべきです。このことは毎週神の家に来るときに説教者が火をつけてくれることを期待して乾き、むなしい状態で来るべきではありません。いいえ、あなたは賛美の心をもって主に仕えることを備えて神の家に来るのです。

2009年3月17日火曜日

神の忠実さに信仰をもつ

信仰は神に委ね、自分を全く捨てることから始まりますが、それは能動的なもので受動的のものではありません。

私たちは神が不可能なことをされる力があり、またそうされることを信じなければなりません。イエス様は仰いました。「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」(マタイ19:26) 「神には、なんでもできないことはありません」」(ルカ1:37)言い代えれば信仰において「神以外には何も要らないのです。」

主は彼を不可能な状況で導き、信仰の人とならしめました。主はその僕が、「父よ、あなたが導き給うは良きことです。ですから私は黙してあなたが不可能をなさることを信じます。私はあなたの御手に私の命を委ね、あなたが私や家族を決して飢えさせないことを信じます。そして、あなたが私にあなたの子について約束したことを信じ、私が守られることを信じます。」と言うのを聞かんとしています。

私たちの信仰は決して困難な状況を脱し、苦しい環境を変えることを必ずしも意味しません。それより、窮状の中で神が忠実なのを現すことなのです。神は時には私たちの状況を変える事もありますが、状況が変わらない事もしばしばです。神様は私達を変えていきたいからです。

私達は、私達の困窮の中で神の力を体験しない限り、神の力を信頼し切れないのです。これはかのヘブル人の子3名についてもそうでした。彼らはキリストを燃え尽くす炎の中で会いました。そしてダニエルは神の力と恵みを獅子の穴に投げ込まれた時、体験することが出来ました。もし、彼らがその状況に遭っていないなら彼らは決して神の奇跡を働く力の恵みを体験出来なかったでしょう。また、神を信じない者らの中で、神の御名は高められなかったでしょう。

私達は神様が私達の嵐や困難を止むようにすると神の奇跡を宣べ伝えられると考えます。しかし、そんな時、信仰の教訓を見過ごし勝ちです。-それは、神は私達の困難の中で忠実であるという教訓です。神は私達が信仰によって試みに勝ち、こう宣言することを望んでおられます。「我が神は不可能を可能にする。主は救い主であられるから、私を試みの中で保っておられる」。

2009年3月16日月曜日

神の臨在の秘密

詩篇の31編でダビデは「み前のひそかな所に隠して」と書いています。詩篇は「あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに寄り頼む者のために/人の子らの前に施されたあなたの恵みは/いかに大いなるものでしょう。あなたは彼らをみ前のひそかな所に隠して/人々のはかりごとを免れさせ、また仮屋のうちに潜ませて/舌の争いを避けさせられます。」と記しています。

ダビデはここでとても重要なことを書いています。それは「真の強さは主に近づくことに由来する。私達の力の強さは主に如何に近くいるかに比例する。」簡単に言えば、イエスに近くいればいるほど、私達はもっと強くなるとのことです。そして私達の必要な力は祈りの密かな歩みから来るのです。もし、私達がキリストに近づくなら、キリスト御自身も私達の近くに来られ,私たちに必要な日々の力を与えられます。これが「み前のひそかな所」です。

旧約聖書では、主の臨在は契約の箱と密接に関係がありました。イスラエルの人は契約の箱が居る所に神の臨在が在ると信じました。そして、人達が移動する時は、彼らは契約の箱をも一緒に移動しました。主の臨在と契約の箱に対する信仰の例が第一サムエル4書に記されています。

悪魔は私達の生における主の臨在を大いに恐れます。彼はキリストの近くにいるクリスチャンを考えるだけで戦慄きます。ですから、サタンの軍団があなたの天の父の臨在のうちに祈る時に、サタン達は叫びます。「神がこのクリスチャンと一緒におられる。この者には神の臨在がある。私達はどうすればいいだろう。」

これで、サタンがあなたの人生から主の臨在を除こうとあらゆる力を使う理由です。それでサタンはあなたの魂が疑いと恐れに苛まれさせようとする理由です。サタンは出来る方法を全て使って、時には「良き」業を用いてあなたがイエス様と時間を過ごすことを阻もうとします。彼はキリストにあるあなたの時間がこの世代の焦りや恐れに打ち勝つようにすることを知っているからです。

神の御言葉は私達が倦む事無く祈るように言っています。これが示すのは何時でもとこでも、祈りを捧げることです。私は私の最も重要な祈りは日々の歩みの中で神に捧げる密かな感謝の囁きであると信じるようになりました。これで神の臨在を認識し続けるのです。

神の臨在の秘密

詩篇の31編でダビデは「み前のひそかな所に隠して」と書いています。詩篇は「あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに寄り頼む者のために/人の子らの前に施されたあなたの恵みは/いかに大いなるものでしょう。あなたは彼らをみ前のひそかな所に隠して/人々のはかりごとを免れさせ、また仮屋のうちに潜ませて/舌の争いを避けさせられます。」と記しています。

ダビデはここでとても重要なことを書いています。それは「真の強さは主に近づくことに由来する。私達の力の強さは主に如何に近くいるかに比例する。」簡単に言えば、イエスに近くいればいるほど、私達はもっと強くなるとのことです。そして私達の必要な力は祈りの密かな歩みから来るのです。もし、私達がキリストに近づくなら、キリスト御自身も私達の近くに来られ,私たちに必要な日々の力を与えられます。これが「み前のひそかな所」です。

旧約聖書では、主の臨在は契約の箱と密接に関係がありました。イスラエルの人は契約の箱が居る所に神の臨在が在ると信じました。そして、人達が移動する時は、彼らは契約の箱をも一緒に移動しました。主の臨在と契約の箱に対する信仰の例が第一サムエル4書に記されています。

悪魔は私達の生における主の臨在を大いに恐れます。彼はキリストの近くにいるクリスチャンを考えるだけで戦慄きます。ですから、サタンの軍団があなたの天の父の臨在のうちに祈る時に、サタン達は叫びます。「神がこのクリスチャンと一緒におられる。この者には神の臨在がある。私達はどうすればいいだろう。」

これで、サタンがあなたの人生から主の臨在を除こうとあらゆる力を使う理由です。それでサタンはあなたの魂が疑いと恐れに苛まれさせようとする理由です。サタンは出来る方法を全て使って、時には「良き」業を用いてあなたがイエス様と時間を過ごすことを阻もうとします。彼はキリストにあるあなたの時間がこの世代の焦りや恐れに打ち勝つようにすることを知っているからです。

神の御言葉は私達が倦む事無く祈るように言っています。これが示すのは何時でもとこでも、祈りを捧げることです。私は私の最も重要な祈りは日々の歩みの中で神に捧げる密かな感謝の囁きであると信じるようになりました。これで神の臨在を認識し続けるのです。

2009年3月13日金曜日

「緊急のお知らせ」に対するある牧師の考え

真の預言者の役割は警告をすることです。私たちは来るべき災いの時に対してはっきりした警告を聞きました。預言者は貪欲な狼が近づくのを牧者に知らせる者のようです。


もし牧者の仕事がその警告を見分け、預けられた者を知識と平安の場所に導くことであるならば私は預言者ではありません。私はただの渤海者です。では私は自分に神からの警告を聞いたときにどうすればいいのかを訊かなければなりません。私が牧会している聖徒達に何を言うべきでしょうか。

先ずは、私は教会の聖徒達はその言葉をはっきり聴いて欲しいと思っています。その言葉が何を言っているか、何を言っていないかをはっきり分かって欲しいのです。ある人達は家事と略奪の話を聞き、心が恐れに満ちてしまいます。しかし神はいつも全てを治められることを覚えてください。神は統べ治められ、神の知るまた命令無しでは何も起こりませんし、神の究極の、いと高き栄光の故にものごとが起きるのです。最も試みのときにおいても、私たちの神は御自身がなさっていることを、完全に知っておられます。

第二に、私は私の教会員が神の怒りについて二つのことを知って欲しいと思っています。一つは、ある教会の指導者達は悲しいことに「神の怒り」などは存在しないとの偽りに陥っています。ローマ書1:18では「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される」。ある者たちは単に神を蔑ろにする行動をしますが、ある人達は神の怒りの真を阻むことによって神を蔑ろにします。ある指導者は神の怒りの確実性を戒める人達を軽んじたり、無視したり、その上馬鹿にしたりさえします。また、ローマ人への手紙2:5に神の怒りが「あなたのかたくなな、悔改めのない心」に向くと言っています。これは神の怒りを理解するに重要なことを示しています。それは神の怒りが決して、神の子に向かいないとのことです。第一ヨハネ2:2に「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。」と書いています。「あがない」とは「怒りを静めるもの」です。なんと素晴らしい恵みでしょうか。また何と言う贖いでしょうか。私達の反抗と罪に対する神の怒りはキリストの十字架によって静められました。危機は訪れ、雨は正しい者にも例外なく降りますが、神の怒りはそうではありません。

最後に私は慈しみと覚醒で私に与えられた群れを導く任が与えられています。もし、狼や嵐が来るなら、牧者として私は私の群れの状態を知らなければなりません。誰かが境界線にいないか。この世と妥協や密接な関連を持つことを戒めなければなりません。過越しの夜にエジプト人の家で宴会などあってはなりません。今は大牧者の近くにいるべきなのです。私達には門の外にいる人達に呼びかける機会があります。イエス様はその門であり、心を開いておられます。イエス様は来る神の怒りから全ての人が逃れさせようと叫んで折られます。それは二重の錠前かけの戸の後ろに隠れる、または田舎の家に疎開するなどではなく、羊囲いの中に来ようと呼びかけるイエス様の声です。

もし預言者が警告の詔を与えられたなら、人々はその預言者にその警告に対してするべきことを示すように求めます。時にはその預言者に神は言葉を与えますが、そうではなくその牧者に委ねられることがしばしばであり、最も多くの場合は個人がそれぞれに与えられた言葉をもって自分の身やその家族をどうするかは委ねられています。牧会者がその教会を任せられているように神の人もその家族への責を担わされているのです。ある人が狼が来るのを警告したからと言って、必ずしも何をすべきかを語るのも彼の務めとは限りません。神から私達は直接聞く事が出来るのです。ヨセフは神が将来に備えて穀物を蓄えるようにと仰ったことを聞きました。(創世記41)モーセはエジプト人がイスラエルの旅立つときにその旅に備えるべく貢ぐと神から聞きました。(出エジプト記12)私達も神から自分の状況について聞けるのです。羊は羊飼いの声を聞くのです。

2009年3月12日木曜日

恐れるな、イエス様のことだけを考えなさい。

私達は見廻りの警告に耳を傾けなければなりませんがその警告に虜になる必要はありません。

私達に注意を促し、神は預言者の託宣で警告されますが、同時に啓示されたものを注意して調べ、御言葉にて確かめなければなりません。私たちは来る嵐についてあらゆる手掛かりを集めて、破滅がもたらすことについて私達の心を備えるべきです。しかし、私達は恐れ戦き、いてもたっても出来ないように苛立ったり、捕らわれてしまったりしてはなりません。


闇は確実に来ますし、裁きは戸のすぐ外に立っています。しかし、神の民として、私達は暗闇の雲が、神がその民へ向けた愛と恵みの大いなる約束の光を、陰るようにしてはなりません。私達は主の言葉にて、また預言者によって言われたことをよく聞くべきですが、その預言の知らせばかり気にして生活してはいけないのです。

悪魔はそんな風になることを願っています。悪魔はあなたが裁きについて神の御言葉を疑うように出来なかったら、禍の時あなたを恐れ戦くようにします。徴に囚われて、希望をなくすようにします。

使徒パウロはそんな状況について私達にうろたえないで安心するように言っています。「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。」(ピリピ4:8)パウロがここで言っている意味は「あなたは警告を聞きました。それでは神の言葉と神の見張り人が言っていることに注意しつつ、イエス様とイエス様の良きことに考えを留めなさい。」です。

私は近々くる経済恐慌について警告しました。私達は今起きていることを見ています。私はクリスチャンに苦難と試みが-既に沢山の聖徒達が世界中で信じられない様な苦しみにあっています。しかし、これらは私の働きや力の焦点ではありません。否、私の魂の深いところで私達の救い主イエスの慈しみと父なる神の愛を宣べることが中心です。

ですから私が寝るとき、私はこれらを主のみが統べ治めることを知っています。預言者イザヤがしたようにただ全ての信頼を主におきます。「あなたは全き平安をもって/こころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたに信頼しているからである。」(イザヤ26:3)

2009年3月11日水曜日

完全な平安

パニックの時に、神を信頼する人々は全き平安に祝福される。

主が宣う「遠い者にも近い者にも平安あれ、平安あれ、わたしは彼をいやそう」と主は言われる。」(イザヤ57:19)ここで使われたヘブライ語の単語「平安」は「完全な平安」を意味しています

私は来る日に私達が混乱とパニックに囲まれても、アメリカはいまだ嘗て無かったような神の力と栄光の証を、目のあたりにします。どのようにでしょうか。アメリカの全ての人は神の民の多くが全く平安を保つことを見ることによります。時にあだって、神の絶対的な完全な平安もつ人を立てます。-それはキリストが御父の右手で保つ平安だからです。そして、私たちはこの素晴らしい平安に生き、動き、息つくでしょう。

聖書は神を信頼する者を保つと言っています。-「あなたは全き平安をもって/こころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたに信頼しているからである。」(イザヤ26:3)そして、今、多くの神の民が神にこう誓っています。「私は全てについて神を求めることと心に決めた。何事が起きても。私は私の存在全てにおいて神に委ねる。私は神の裁きが来ることを信じている-神の花嫁として私は自分を備える」。

神はこの完全な平安の約束をユダヤの人々に与えました。彼らはその時、神の警告の時を通っていました。神様は高き砦、城壁など富んでいる者達が頼りにしているものを虚しくしました。「その石垣の高い城郭を主は傾け倒し、地に投げうって、ちりにかえされる。」(イザヤ25:12)神を信じている忠実な残された人でさえ芯から慄きました。しかし、神はその時、忠実な信徒に確信を与えています。「主はあなたを全き平安に保つ-もしあなたが信じさえいれば」。かの預言者は言いました。「主よ、あなたはわれわれのために/平和を設けられる」。(イザヤ26:12)言い換えれば、神は私達の心に神御自身の平和を置くのです。神は我々に揺るかない平安を与えようとしているのです。

同じように、現在アメリカじゅうにパニック-この地に裁きを予期させるニュースが恐れの衝撃波を送り出し、恐れが募っています。-神の民は人の焦りの大きな波を感じることは避けられません。そうです。あなたも、私も、全てのクリスチャンも感じるでしょう。感じることを避け得ません。人であったらそんな混乱に反応してそうならざるを得ないでしょう。しかし、神は私達に与えています。私達がその恐れを直ちに治められる力を与え、キリストの真に私達を導きます。そして、神の御霊が神の完全な平和を私達に満たすでしょう。

2009年3月10日火曜日

誰がこんな生き残りの計画を考えたか

「主の言葉がエリヤに臨んだ、『ここを去って東におもむき、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに身を隠しなさい。』」(列王17:2-3)

エリヤは来る危機を考えたときに、物事は全く希望がないように見えたことでしょう。しかし、神は御自身の忠実な僕の為に計画を持っていました。神はかの預言者に「ヨルダン川の東、ケリテ支流に行きなさい。あなたはそこから水を得ることが出来る。そして、わたしの宅配カラスがあなたに食べ物を運ぶだろう。」といいました。

誰がこんな生残りの計画を考えるでしょうか。かの地を旱魃が覆った時、エリヤは川の支流の水で生かされることを期待出来たでしょう。また、目の前にあるものは全て食べる貪欲の鳥が日々の糧を運んでくれるとはどう想像できたでしょうか。

暫くの後に、その小川は涸れてしまい、エリヤの状況はもっと難しくなります。しかし、神様はまたかの預言者に新しい方向を示します。「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」(同9節) またもやわたしは疑問を持たざるを得ません-誰が,飢饉の中で、貧しい寡婦が預言者を、何日でもなく、何週でもなく、何ヶ月も最後まで養うとはどう想像できるのでしょうか。しかし、神は真にこの世の最も卑しまれる、取るに足りないものを用いて栄光を現します。神はエリヤに言いました。「あなたが彼女に行き、わたしが言った事を行うなら、あなたは生きる事が出来る。わたしに聞きなさい-導きに従いなさい-あなたは生き残る事が出来る。」

神が私達への計画を持っておられる事は明らかです。神―わたし達の助言者、弁護人、生かす方-は最悪の時を乗り越えさせるべく、神は神の子等悉く、我々に確固たる計画を持っておられます。

2009年3月9日月曜日

次の言葉は

もし、基礎が崩れるなら、義人は何をすべきでしょうか。

最近、私は来る大いなる災いを警告する緊急の言葉を送りました。そして、神が選んだ人でさえ慄かせました。

あるビショップの方が私に聞きました。「それ以上言葉はありませんか。義人はそんな言葉にどう対応すべきですか。」

私は聖霊が私の心に語った事と私が何をするかを皆さんに言うだけで、答えるしかありません。実践的に一ヶ月の食糧を蓄える-以前のテロにどのようなパニックがあったか―ことを分かち合いました。しかし、すべてその個人それぞれが言葉をもつべきです。

これが来るべき災いに対する私の霊的な反応について聖霊が語ったものです。簡単に言うと- 黙して主の救いを見よう。

「モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプト人を見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。」(出エジプト14:1314)

これが災いに直面した信仰の態度であるべきです。紅海の辺でイスラエルが出来ることが、何があったのでしょうか。後ろにはパラオの軍が迫ってきており、両側は山がそびえ立ち、目の前は進むことが出来ない海が横たわっていました。そんな時、肉は「何かしなさい」と叫びます。

肉は絶望を叫びます。神の民が海を乾かすことが出来るでしょうか。山を平らげることが出来るでしょうか。武器なしで大いなる軍と戦うことが出来るでしょうか。神の民は戦慄きました-そんな時、神からの言葉がありました。神は「黙しなさい。恐れてはならない。今は救いの時です。あなたはこの世の力の基を破ることの証人となるだろう。しかし、同時にわたしはあなたのために戦う。平安を保ち、黙して我が業を見よう」。

愛する皆さん、私の警告は沢山の人達が言っている同じ事の一つの声に過ぎません。時には私たちは恐れに震えるでしょうか、神の御言葉を真に知っている者ならば聖霊によって直ちに無く覚められるでしょう。私達は大いなる平安―超自然の静寂―に浸され、恐れ戦く人々に大いなる証となるでしょう。

In Christ,

David Wilkerson 

2009年3月7日土曜日

緊急のメッセージ

私は聖霊様の促しによって今まであった私達のメーリングリストにある人達、友人達、聖職者達に緊急のメッセージを送ります。

地球規模の災害が起こります。
驚きのあまり私達のうち、神に最も従う人でさえ戦慄きます。

過去十年間、私はニューヨークに千の火の手が上がると警告されました。それはニュージャージやコネチカットなどの地域にあるメガフレックスなどもそうです。アメリカの重要都市で-以前ロス・ワットであったような-暴動と火事があるでしょう。

世界中の大都市で暴動と火の手が上がるでしょう。略奪-ニューヨークのタイムスクエアーなどに-があるでしょう。私達が体験するのは不況、経済恐慌ではなく、神の怒りの下にあるのです。詩篇の11編に書かれています。

「基が取りこわされるならば、正しい者は何をなし得ようか」(3節)

神はアメリカや国々の荒れ狂う罪を裁かれます。神は世俗の基を破壊されます。

預言者エレミヤは邪なイスラエルに訴えました。「『見よ、わたしはあなたがたに災を下そうと工夫し、あなたがたを攻める計りごとを立てている。あなたがたはおのおのその悪しき道を離れ、その道と行いを改めなさい』と。しかし彼らは言う、『それはむだです。われわれは自分の図るところに従い、おのおのその悪い強情な心にしたがって行動します』と。」エレミヤ18:11~12

詩篇11:6にダビデは警告しています。「主は悪しき者の上に炭火と硫黄とを降らせられる。燃える風は彼らがその杯にうくべきものである。」何故でしょうか。ダビデは答えます。「主は正しくいまして、正しい事を愛されるからである。」これは正しい裁きーソドムやノアーの世代への裁きのように-です。

神の目に義なる人達はどうすべきでしょうか。神の民はどうすればいいのでしょうか。

第一に私が受けた実践的言葉をあなたに授けましょう。もし出来るなら30日分の保存食、洗剤、生活必須品を備えてください。大都市では災いの兆しがあった時、数時間で量販店の棚は空となるでしょう。

信仰に於いては、私達は二つの選択肢があります。詩篇の11編に書かれている「鳥のように山にのがれ」(1節)るか、またはダビデが言ったように天の御座にいまし主に目を留め「その目は人の子らをみそなわし、そのまぶたは人の子らを調べられる。」(4節)「わたしは主に寄り頼む。」(1節)

私は我が魂に言います。逃げる必要も、隠れる必要もありません。これが神の正しい業です。私は御座にいまし我が主が優しい、慈しみの眼差しで、一瞬一瞬を見張っておられること―神がその民を大水から、火の手から、災いから、試みから、全ての災難から救うを信じる-を証しするでしょう。

註:私はこれらの事が正確にいつ起こるかはわかりませんが、そう遠くないことも知っています。私は我が魂の重荷を皆さんに吐露せざるを得ませんでした。このメッセージについて自分で選択して下さい。

神があなたを祝福し保つように。

キリストにあって,
DAVID WILKERSON

2009年3月6日金曜日

父を知る

子供たちは危機の時、親の資質を知ります。子が痛み、苦しみ、必要がある時、親の深い愛と犠牲を認識します。私が子供を育てる時、私は好きなことについて言いませんでした。「私が親で、私は我慢強く、優しく、あなたを愛している。何時でも、何が起きても、あなたを許します。」と言う必要はありませんでした。そんな事を宣言するのは馬鹿げています。何故なら、私の子供は彼らが問題に当たった時、私が彼等をどれだけ愛したかを知っているからです。今や彼らは結婚して子供が居ますが、私の息子や娘は新たに私を知る体験をしています。彼らは、彼らの人生が新しい場面にめぐり合い、その時の私の行動と対応を通じて私を学んでいます。

天の父を知るにも同じことが言えます。アダムの時からキリストの十字架まで主はその民に、御自身の資質を絶え間なく啓示してきました。神はただ「この名がわたしを表す。ではそれを学びなさい。故に私を知るだろう。」の詔を与えるだけではありませんでした。

ヘブル語の主の名は主の名に関わる不思議な栄光と備えを表しています。そして、神はその名が宣言するご性質をその民にじかに行い、その誠実を啓示します。彼は御自身の子の必要を見ておられ、悪魔の姦計を見抜き、民の為に御自身か介入します。

皆さん、天なる父を時間を掛けて、心から知って下さい。聖霊があなたの必要な時に与え給う天なる父に多面的備えを気付かせて下さるように求めて下さい。そして聖霊に「わたしはいる」神を知る知識を求める資質を願って下さい‐神だけが必要なものの全てです。

2009年3月5日木曜日

最も大きな試み

「モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。」(出エジプト14:21)

イスラエル人の前には彼等を安全に導く道がありました。この決定的瞬間に神はその民が壁を見て、彼らが反対側に安全に着くまで、神がその壁を保っておれれると言う信仰を持って欲しいと思いました。言い換えれば、神はその民が信仰を持って告白して欲しいと思っておられました。「神は忠実な方なので、この奇跡を始めから終りまで見ておられます。」

私達が振り返ってみたら、何故そんなに恐れたかと思います。エジプト人が来るのを見ても恐れるべきではありません。神は彼らと私達の間に神の暗闇の壁を置き、夜に彼等を恐れないですむようにしました。何時でも、神は敵が暗闇で何も見えない時、私達に輝く光を与えて下さいます。私達が激しい風に恐れ戦慄く時、神は私達に逃れる道、その風を使って作って下さいます。

神は私達によい事だけをしたいと思っておられることが解ります。神が私達のために栄光と力を用いてくだることは十分知っています。私達は最早恐れの中ですむ必要がありません。水の壁が崩れても関係ありません。生きるも死ぬも、私達は主の者だからです。

神はその時点で、このような信仰を要求したのには理由があります。彼らには荒野での旅が待っていたからです。欠乏と危険と苦しみを堪えなければならなかったからです。ですから、神は「我が民はわたしがよい事だけをすることを知らしめる。危険が差し迫る時、死を恐れないで欲しい。わたしは全てにおいて忠実であるから彼らは死を恐れない民になるべきである。」

勝利した後、踊る者が、また敵を破った時に神を賛美する者が真の礼拝者ではありません。イスラエルは敵を破り、勝利して踊りました。それが彼らのしたものです。神が紅海を分け、向こう岸に着きました。彼らは歌い、踊り、神を賛美し、褒め称えました。しかし、その三日後、マラにおいて同じ人達は神に呟きました。彼らは礼拝者ではなく、軽薄な興奮に浸っているだけでした。

真の礼拝者は嵐の中で神を信頼することを学んだ者のことです。この人の礼拝は単に言葉だけではなく、歩みをも含めるものです。その人の世界は、神に対する信頼が揺らがないので、世界はいつも平安です。また、未来も恐れません。そして死を恐れないからです。

わたしの妻グエンと私は孫娘12歳ティファニーに揺るぎない信仰を見ました。彼女の臨終の近い時、私達はベット際で彼女の人智を超えた平安を見ました。彼女は私に言いました。「おじいちゃん、天の家に帰ります。イエス様は私にそこに居て欲しいって。ここにはもう居たくないよ。」彼女は終りとか死への恐れが全くありませんでした。

それはが神がその民に持って欲しい平安です。パウロのように、またティファニーのように自信を持って言うのです。「生きるも死ぬも主のもの。」この信頼が真の礼拝者とするのです。

私はこの文を読む全ての人が嵐の中でこの言葉を言える事を祈ります。「そうです。経済が崩壊しているかも知れません。私は暗い嵐の夜を迎えるかも知れません。しかし、神は私に真であった。何が起きても、私はその愛に安住できる。」

2009年3月4日水曜日

三つの事をしなさい

試みの中でイスラエルの民に神が仰せられました。「恐れるな。立って主の救いを見よ。」そして、「私はあなたの為に戦う。あなたは黙して、平安でいよう。全てを我が手に委ねよ。私は見えざる次元で働き、統べ治めている。だから、慌てるな。私が悪魔と戦う。戦いは最早あなたのではない。」(出エジプト14:13-14参照)

暗闇が、彼らがいる場所を覆います。イスラエルの暗い嵐の夜の始まりです。しかし、それは神の御手の業の始でもあります。神は民と民の仇の間に守護天使を送りました。私は神を愛し、恐れる者らの周りに守る天使を今でも送って下さっていると信じています。

主は神の雲を動かし、導きとしました。その雲は突如民の前から民の後ろ側に置かれエジプト人の前に憚る真っ暗な壁となりました。反対側は雲は夜もすがらイスラエルに神の光を与えました。(出エジプト14:20)

パラオの軍隊は暗闇にいましたが、彼らは声を上げる事は出来ました。夜通し、偽り、脅し続けました。この夜通しの虚言はイスラエル人を悩ましました。しかし、どれだけ仇が彼らを脅したとしても、天使が守って、神はその民に危機を通り抜けさせると約束します。

聖徒の皆さん、もしあなたが血で贖われた神の子であるなら、神はあなたと悪魔の間に戦闘する天使を置いてくださいます。イスラエルに言ったように神はあなたに言います。「おそれるな。立ってわたしの救いを信じなさい。」サタンは悪しき計略で向かってくるかも知れませんが、嵐が吹き荒れる暗い夜のどんな時でもあなたの敵はあなたを破壊決してできません。

「モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。」(出エジプト14:21)

ここで使われている風とは、ヘブライ語で「強い吐く息」という意味があります。このことは神が息を吹き、水が壁を作ったと意味しています。イスラエル人の幕屋はその風が吹いた時、きっと揺れたでしょう。何故神は一語とで状況を静められる時、夜もすがらイスラエルが嵐の夜を堪えさせたのでしょうか。嵐はイスラエルを恐れさせました。神は何故それを許したのでしょうか。何故、神は夜通し嵐が続くことを許しましたのでしょうか。

何故、神はモーセが水を打ち、波を分けさせるようにはしなかったのでしょうか。神がこの恐ろしい夜をお許しになった理由は何だったのでしょうか。それは、主は礼拝者を備えるためだったのです。神は最大の危機を抜ける道を、嵐を用いて創っておられました。

その時、イスラエルはそれを見出しませんでした。ある人は自分の幕屋に隠れたでしょう。しかし、外にいた人達は栄光に満ちた光景に証人となることができました。彼らは波が壁となり、海に乾いた地が現れることを見たでしょう。「見よ、神が私達の為に風を用いて道を造られる。主を賛美せよ。」

2009年3月3日火曜日

礼拝者になること

出エジプト14章はイスラエルの歴史の劇的な場面を現しています。イスラエルは神の導きに従って出エジプトしました。で、その時、彼らはパラオの軍に追われていました。イスラエルは両側に切り立つ山に挟まれた渓谷で立ち、前には海が憚っていました。彼らはまだ知らないでいますが、彼らは魂の暗闇、嵐が吹き荒れる夜を体験する事になります。彼らは限界まで試す四面楚歌の苦悩と失望の夜を体験します。

この出来事は神が如何にその民を礼拝者と変えるかをあらわしています。聖書の何処にもこのような苦悩と失望をあらわしている章はありません。皆さん、真の礼拝者はリバイバルや、晴れの日に形作られません。私達が嵐にどのように応えるかによって私達がどんな礼拝者になるかが定められます。

ヘブル書の11章は老いたヤコブを表しています。「信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。」(ヘブル11:21) 何故、死に際のヤコブのことがここに書かれているのでしょうか。

ヤコブは自分の命が終わることを知っていました。ですから、ヤコブは自分の孫達に祝福をしました。ヤコブは自分の人生を振り返って、何をしましたか。彼は神を礼拝しました。誰もそうしろと言いません。彼は杖に寄りかかり、神が与える人生に感動し、そして「礼拝」しました。

ヤコブがその時神に礼拝したのは、彼の魂が休む時に差し掛かったからです。彼は神が疑う事無く忠実であることを知っていました。そして、族長はこう語り彼の一生を締めくくりました。「どんな戦いでも神は私に忠実であった。神はいつも忠実であった。主よ、偉大な神よ。私はあなたを礼拝します。」

2009年3月2日月曜日

少しの苦しみにくよくよしない。

キリストの復活の前にひと時の苦しみがありました。同じく私たちには死や苦しみ、痛み、悲しみがあります。私たちは傷ついたり苦しんだりすることを望みません。

私たちは苦しみのない救いを、神の介入を願います。「神様、あなたは私の弱さを知っています。私は弱すぎます。あなたが介入して、この状況を変えて下さい。私は何もすることができません。」

私たちは色々な問題を悪魔のせいにします。私たちは神の人を見つけ、彼が悪魔を追い払って、苦しみや痛みなく現状復帰したいと思っています。「解決済み。勝利の歩みた。心地がいい。」 誰かが私に手を置いて祈り、乾きが全て除かれることを期待します。しかし、勝利は必ずしも苦しみや痛みなしで得られる訳ではありません。罪を直視しましょう。キリストがしたように苦しみ抜いて下さい。キリストの苦しみに与って、夜を耐え、朝には喜びが待っています。

神の愛は選択を要求しています。もし、神が私たちの戦いに痛みや苦しみ無しで介入するなら、試みや問題自体が無くなるでしょう。その意味は私たちには最早自由選択が存在しないし、火によって試されないことになります。それは神の御旨を問答無用にあてはめることです。しかし、神は旱魃の中で私達に会い、御自身が如何に信仰の新生の道になるか見せて下さいます。

私達の苦しみや痛みは神の御旨の場合がしばしばあります。「だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。」(1ペテロ4:19)

神に、勝利を得られる前の苦しみは長くないことを感謝すべきかな。「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」(1ペテロ5:10)