2010年1月29日金曜日

地に足を着け備える

「主はダビデと共におられ、サウルを離れ去られたので、サウルはダビデを恐れました。」(サムエル記上1812


サ タンは、祈りの中で神様と共にいて信仰に立ち戦おうと決心した人達を、最も恐れ、またねたんでいます。サタンは、信仰により戦いのために武具を身に付けた 人なら、どんなに少人数でも恐れを抱きます。しっかりと地に足を着け、抵抗する準備が出来ている人達の前に、サタンはすくんでしまいます。そしてサタンは あなたを恐れているので、彼はあなたの闘争心をかき消してしまおうと計画しているのです。


悪 魔は、あなたの心を敗北感や混乱、また神様に対する不信感や疑いを生む不快感で溢れさせることで、その計画をまっとうしようとしてます。悪魔はあなたの心 と霊に、こう叫びます。「戦うことはもう無駄である。お前は自分の人生の問題で弱り切っているではないか。お前はその問題に打ち勝つことは出来ない。地獄 の力は強すぎて、お前は絶対にそれに勝つことは出来ない。だったら、観念してリラックスしたらどうだ。戦うことに、もうそんなに躍起になる必要などな い。」


こ れらはすべて、あなたの心を乱そうとしているサタンの働きです。サタンの策略のすべては、あなたの目を十字架の勝利からそらせようとすることです。サタン はあなたが、自分の弱さ、罪、欠点に目を向けるよう、しむけてきます。ですからサタンは、あなたが抱える問題や苦しみを加熱させようとするのです。サタン はあなたに「もう無理だ」と思わせたいのです。しかし、あなたの力が問題なのではありません。それはイエス様の力次第です。


事 実、私たちは皆、死ぬかイエス様の再臨の時まで、戦い続けます。時に静かで、一時的に混乱から逃れられる時が来るかも知れません。しかし、この地上に生き る限り、霊の戦いから逃れることは出来ません。そして霊の戦いは、決して終わることがないのです。ですからパウロは、イエス様が私たちに、とりでを打ち壊 すための力強い武器を与えて下さった、と言っているのです。私たちはサタンが太刀打ち出来ない様な武器を装備しています。その武器とは、祈りと断食と信仰 です。


今 は自分が抱えている問題から目をそらす時です。私たちは自分の試練に焦点を当てるのではなく、この戦いの指揮官に目を向けるべきなのです。イエス様はすべ ての勝利に通ずる鍵を持ち、私たちに確かな約束を与えて下さっています。「わたしはあなたに、戦いに必要なすべての武器を与えました。そしてあなたが弱さ を感じる時、必要な力を与える準備が出来ています。」

2010年1月28日木曜日

神様に喜ばれる歩み

使徒パウロは、コロサイの教会に次の様に教えました。「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」(コロサイ人への手紙110


主 に喜ばれるように歩みには、一体何が必要でしょうか。パウロはこう、語っています。「神様に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの 心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あ なたがたも同じようにしなさい。」(コロサイ人への手紙31213


パウロは様々な言葉を用いて、「これが重要な場面に直面するあなたがたへの言葉です。近いうちにやってくる困難に際して、あなたがたは信仰の歩みを、主に照らし合わせる必要があります」と語っています。


そ れは言い換えてみると、こういうことです。「私はキリストに似る者となってきているだろうか。もっと忍耐強くなっているだろうか、それとも短気だろうか。 もっと優しく、寛容になってきているだろうか、それとも意地悪で、理屈っぽくなってきているだろうか。もっと柔和で寛大になってきているだろうか、それと も辛辣で、恨みを抱えているだろうか。互いに赦し合えているだろうか。周囲の人々の弱さや過ちを赦しているだろうか、それともいつも自分の正しさを貫こう としているだろうか」と、自問しなければならないということです。


パ ウロは、これから困難がやって来る時、あなたが何を成し遂げたかや、どんな慈善事業に携わったかは関係ないと言っています。あなたがどんなに他人に親切を 施したとしても、どれだけ多くの魂をキリストへと導いたとしても、この質問が残されています、「あなたはもっと愛に満ち、忍耐深く、寛大で、寛容になって きていますか。」


信 仰の歩みをキリストと照らし合わせるということは、あなたが何をしているかに焦点を当てるのではなく、あなたがどんな人間になってきているかに注目すると いうことです。その様な歩みは、人間の努力のみで達成出来るものではありません。それは自分自身の決断で、「私はこの様なクリスチャンになる」と断言する ことでは起こりません。むしろ、神様の御言葉における信仰を通し、聖霊の働きによって成されます。


まず、私たちはこれらの御言葉を読み、これらが神様からの召しであると信じて、自分自身を吟味します。そして、私たちの本来の姿を示して下さるよう御霊にお願いし、御言葉と照らし合わせます。それから、御霊に私たちを変えて下さるよう、お願いするのです。

2010年1月27日水曜日

ハゲタカを追い払う

創世記15章 で、神様はアブラハムと素晴らしい契約を結ばれました。神様は彼に、雌牛と雌山羊を用意し、それらを二つに切り裂くようにと命じられました。さらにアブラ ハムは、山鳩と鳩を互いに向かい合わせて地面に置かねばなりませんでした。アブラハムが、血を滴らせたいけにえを命じられた通りに用意する中、ハゲタカが これらの死体を狙って降りてきました。突然、アブラハムは彼を取り巻く恐ろしい暗闇を感じました。その暗闇とは何だったのでしょうか。それはサタンの狼狽 でした。


あ なたがイエス様に人生を捧げ、神様の約束がすべてあなたのものとされるのを見て、サタンはどう反応すると思いますか。悪魔は嫉妬に満ちて激怒するでしょ う。そしてあなたがどこまでも主に従うと固く決心するのを見る時、悪魔に残された反応はたった一つ、それは地獄中がパニックに陥ることです。


ハ ゲタカがやって来た時、アブラハムはどうしたでしょうか。聖書は、彼がハゲタカを追い払ったと記しています。同様に、主は私たちを脅かすハゲタカをどう 扱ったら良いか、その方法を示して下さっています。私たちには戦いに必要な武具が既に与えられているので、悪魔の攻撃を恐れる必要がありません。


戸 惑いや神様に対する疑いの声が、私にささやきかける時はいつも、私はそれらを愛する主について知っていることと照らし合わせてみます。その瞬間の感情だけ を元に、どんな考えも正しいと受け入れることは出来ません。それらはイエス様の私に対する約束や、イエス様が私のために勝ち取って下さった勝利と照らし合 わされなければなりません。


簡 単に言うなら、もし非難に満ちた思いが生まれるなら、また、もしそれらの思いが疑いや恐れを引き起こしたり、責めたり、拒否感を引き起こしたりするのであ れば、それらは神様から来るものではないと分かります。私たちは、その様な恐ろしい考えが生まれることに対して、心構えをしておかねばなりません。主なる イエス様でさえ、荒野で試みに遭われた時に、悪魔からのこのような考えにさらされねばなりませんでした。

ハゲタカが自己批判や自己不信をもってあなたに襲い掛かる時、神様の御言葉をもってハゲタカを追い払うのです。主があなたに捧げる様命じられたいけにえは、神様にとって喜ばしいものであり、神様は必ずそれを祝福して下さいます。

2010年1月26日火曜日

「彼は死にましたが、信仰によってまだ語っています」

ヘブル人への手紙11章を読むと、ここに記されている人々に共通する、ある点を見つけ出すことが出来ます。一人ひとりが、神様が愛される、特別な特徴を示しました。それは何だったでしょうか。彼らの信仰が、主との深い親交によって生まれたものだということです。


実 際のところ、神様との深い親交なしでは、神様を喜ばせる信仰を持つことは不可能です。ここでいう親交とは何を意味するでしょうか。それは、神様を追い求め ることから来る、神様との深い関係のことです。この様な親交は、個人的な絆、交わりを示します。それは私たちが人生における何よりも、主を追い求める時に 生まれます。


「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」(ヘブル人への手紙114) ここで幾つかの重要点を挙げたいと思います。先ず、神様御自身が、アベルの献げ物を認められたということ。次に、アベルは主にいけにえを献げるために、祭 壇を築かなければならなかった、ということ。そして、彼は傷のない子羊を献げ物としただけでなく、その脂肪をも献げたということです。「アベルは羊の群れ の中から肥えた初子を持って来た。」(創世記44


これが何を意味しているのでしょうか。レビ記は脂肪について、こう記しています。「これが宥めの香りとして、燃やしてささげる食物である。脂肪はすべて主のものである。」(レビ記316) 脂肪は献げ物のうちで、心地よい、宥めの香りを立ち上らせる部分だったのです。炎は動物のこの部分に、すばやく燃え移り、焼き尽くすことが出来るので、宥 めの香りを生むのです。脂肪は神様が受け入れられる、祈り又は交わりの一種となります。それは隠れた祈りにおける、私たちの主へのミニストリーを表しま す。そして主ご自身が、この様な親密な礼拝が、主に宥めの香りとなって立ち上ると語っておられるのです。


聖書でこの様な礼拝が最初に記されているのは、アベルによる礼拝です。ですから“信仰の章”と呼ばれるヘブル書11章 に、アベルの名が記されているのです。彼は、自分の持っているものの中から、最高のものを主に献げる、主との親しい交わりをもった、主の僕でした。ヘブル 書が記す様に、アベルの見本は、生ける真の信仰の証として、今日もまだ生き続けています。「アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」(ヘ ブル人への手紙114

2010年1月25日月曜日

私たちの信仰を増して下さい

マルコによる福音書4章には、イエス様と弟子達が嵐に遭遇する様が記されています。この場面でキリストは、たった一言で高鳴る波を静められます。そして今度は弟子達の方を向かれ、「まだ信じないのか」と尋ねられます。(マルコによる福音書440


あ なたはこれが、手厳しい言葉であると思われるかも知れません。この様な嵐に遭遇すれば、誰だって恐れを感じたことでしょう。しかしイエス様は、そのような 理由で弟子達を叱られた訳ではありません。むしろイエス様は、「こんなにわたしと時間を過ごしているにも関わらず、あなたはわたしを誰か理解していない。 これ程わたしと共に歩んでいて、何故わたしを深く知ることがないのか」と尋ねておられるのです。


事実、弟子達はイエス様が行われた奇跡を見て、あっけにとられていました。「弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った。」(441


こ の状況が想像出来ますか。イエス様御自身の弟子達が、彼を知らなかったのです。イエス様は御自分で、この弟子達を一人ひとり召し出され、彼らと一緒に多く の人々にミニストリーを施されたのです。彼らは癒しの奇跡を行い、多くの貧しい人々に食物を与えました。しかし彼らは、自分たちが仕える先生が真にどうい う方だったかを知らずにいたのです。


残 念ながら、今も同じ状況が続いています。クリスチャンの多くは、イエス様と共に船に乗り、共にミニストリーを行い、イエス様の御名によって大衆に触れまし た。しかし彼らは、その仕える先生を知らないでいます。イエス様と二人きりで過ごす、親密な時間を持たないでいます。イエス様の臨在の中で静かにたたず み、彼に心を開き、ただイエス様が何を伝えられたいかを黙って待ち望むということをしません。


ルカによる福音書17章に、弟子達の信仰に関する別の記述があります。弟子達はイエス様に近づき、「信仰を増してください」とお願いしました。(175)多くのクリスチャンは、彼らと同じ質問をします。「どうやったら信仰を手に入れることが出来ますか」と。しかし彼らは、主御自身を求めることをしないのです。


もしあなたが信仰を増したいと望むのなら、イエス様が弟子達にこの箇所で言われたのと同じことをしなければなりません。イエス様がどの様に返答されたかを見てみましょう。「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。」(178) イエス様が言わんとしておられること、それは「忍耐を衣としてまといなさい。それからわたしの食卓に来て、共に夕食を取りなさい。わたしはあなたに給仕と して仕えて欲しいのです。あなたは一日中、喜んでわたしに仕えてくれました。だからあなたと交わりの時をもちたいのです。来て共に座り、心を開いて、わた しを知りなさい」ということです。

2010年1月22日金曜日

彼は神様を喜ばせた

エ ノクは主との親密な交わりを経験しました。事実、その関係はとても親密だったので、主はエノクが地上での人生を終える前に、彼を栄光の地へと移されまし た。「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたこ とが証明されていたからです。」(ヘブル人への手紙115


神 様は何故、エノクを天へと移されたのでしょうか。先述の聖句の最初の部分に、それが彼の信仰によるものだということが、明確に示されています。さらに最後 の部分では、彼の信仰が神様に喜ばれるものであったと記されています。ここで使われている“喜ばれる”という言葉は、ギリシャ語で「完全に結ばれている、 完全に同意する、完全に一致した」という意味があります。要するに、エノクは人間が経験出来る限りで最も親密な主との親交を経験したのです。そしてその親 密な関係を、神様は喜ばれました。


聖書は、エノクが彼の息子であるメトシェラをもうけた後、神様と共に歩み始めたと記しています。エノクはその時65歳でした。彼はその後300年 に亘り、神様と親密な交わりをもちます。ヘブル人への手紙には、エノクがいかに天の父と頻繁に交流を持ち、神様が彼を御側に引き寄せられたかが記されてい ます。主はエノクにこう言われました、「肉にあるあなたを、これ以上引き寄せることは出来ない。あなたとの交わりを深めるためには、わたしの御側に引き上 げるしかない。」そして主はエノクを栄光へと運び去られたのです。


ヘブル人への手紙115節 によると、神様を喜ばせたのはエノクの親交の深さだったということが分かります。私たちの知る限り、エノクは一度も奇跡を行わず、重要な神学を唱えること も、聖書に記録されるような素晴らしい行いをすることもありませんでした。その代わり私たちは、この信仰に満ちた人の非常に簡潔な記述を目にします。「エ ノクは神様と共に歩んだ。」


エノクは御父と親密な交わりをもっていました。そして彼の人生そのものが、正しく信仰によって歩むとはどういうものかという証しとなったのです。

2010年1月21日木曜日

神様の友

神様が、御自身とアブラハムとの関係をどの様に表されたか、見てみましょう。「わたしの愛する友アブラハム」(イザヤ書418)同様に新約聖書にも、こう記されています「アブラハムは神を信じた。(中略)彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブの手紙223


神 様の友と呼ばれるとは、何という賞賛でしょうか。多くのクリスチャンは、「慈しみ深き友なるイエスは」という賛美歌を歌ったことがあることでしょう。これ らの御言葉は、私たちに偉大なる真実を力強く物語っています。全宇宙の創造主が、人を友と呼ばれるとは、人知を超えた考えです。しかしそれはアブラハムと の関係で証明されました。それは彼が、神様と非常に親しい仲にあったことを表しています。


イザヤが用いた友という言葉はヘブル語で、愛情と親密さを表します。ヤコブが用いた友という言葉はギリシャ語で、親愛なる、身近な仲間という意味があります。どちらも、深く対等な親友関係を意味します。

私たちがキリストに近づく毎に、彼の臨在の中に住み続けたいという願いが深まります。さらに、イエス様が、私たちの唯一真の土台であるということが明確化されます。


聖書はアブラハムが「神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を切望していた」と記しています。(ヘブル人への手紙1110) アブラハムは、彼の人生の中で永遠に続くものは何もないと知っていました。聖書はこの世が彼にとって、「奇妙な地」であったと記しています。そこは土台を 築くべきではない所です。アブラハムが切望していた天の都は、実在する場所ではありません。むしろそれは、天の父と共に住まうことを表わしています。「天 の都」という言葉はヘブル語で“Pater”と言います。そしてその語源は「父」という言葉から来ています。ですから、アブラハムが切望していた天の都は、文字通り「父といる場所」ということになります。


一 方で、アブラハムは神秘的な存在だった訳ではありません。彼は霊的なかすみに生き、清い空気を食物としていた修道僧ではありませんでした。彼はこの世の出 来事に深く関わり、地上での人生を送りました。彼は幾千もの家畜を持ち、小さな軍を形成出来るほどの奴隷を持っていました。これだけの奴隷を扱い、牛や羊 やヤギ等の家畜の売買をしていたアブラハムは、忙しい人だったに違いありません。


しかしどうやってか、この多くの仕事と責任の最中で、アブラハムは神様との親密な時間を見つけ出しました。

2010年1月20日水曜日

生い茂り続ける力

私は黙示録9章を読むように導かれました。それはイナゴに関する章です。神様がイナゴに「生い茂るものは滅ぼしてはならない」と命じられた4節を読んでいる時、ある思いが私の内に浮かびました。


ここに、恐れにあっても安全でいるための秘訣があると発見しました。それは“生い茂り続ける”ということです。ダビデはこう記しました。「わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。」(詩篇5210


こ こでダビデが言う“生い茂る”とは、霊的な健康・命のことです。それは繁茂、成長、実りを表します。ダビデは私たちに、「私の健康は、神様に依り頼むこと からきます。私が繁栄するのは、神様を仰ぎ見るからです。神様に対する私の信頼は、私の内に霊的な命を生みます」と語っています。


こ こに、生い茂る続ける力についての素晴らしい真実を見ることが出来ます。「主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を 離れ去っている人は。彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地。炎暑の荒れ野を住まいとする。」(エレミヤ書1756


主は「人間に信頼をおいてはならない。もしわたしではなく、人の力に信頼をおくならば、あなたは呪われる」と警告しておられます。


し かし、もし私たちが主に信頼をおくならば、その信仰は次の様な収穫を生みます。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は 水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをや めない。」(エレミヤ書1778


私 たちが天の父に完全なる信頼をおく時、私たちは神様の命の川のほとりに根を張ります。そして神様の、心地よく、青々とした、霊的な命に満ちた力が、私たち の内に、また私たちを通して流れます。私たちの周りが腐敗していく中、私たちは命と力に満ちた、生い茂る緑として繁茂します。そして試みの時が来ても、私 たちは衰えたり、しおれたりしません。それどころか、私たちの信仰は成長し続けます。

2010年1月19日火曜日

神様の炎は燃え続けています

残 念ながら今日のキリストの体の大半は、近代版の乾いた骨の谷に似ています。それは堕落したクリスチャンたちの真っ白な骨に溢れた荒野です。聖職者や敬虔な クリスチャンたちは、絶えず付きまとう罪の故に、燃え尽きてしまっています。彼らは恥に満ち、自分で作ったほら穴の中に引きこもってしまっています。エレ ミヤの様に、彼らは「主の名を口にすまい。もうその名によって語るまい」(エレミヤ書209)と自分自身に誓っています。


神様は、エゼキエルに尋ねた質問を、今日私たちにも尋ねておられます、「これらの乾いた骨が生き返ることが出来るか?」と。この質問に対する答えは、明確な「はい」です。どうやって?それは神様の御言葉により、信仰を新たにすることによってです。


主の御言葉は、焼き尽くす炎のようです。実際、御言葉は私たちが絶望の闇にある時の、唯一の光です。それはまた、「すべてはおしまいだ。お前は炎を失ってしまった。もう二度と炎を取り戻すことは出来ない」と敵が私たちに偽りをささやく時、唯一の防御となります。


私 たちを暗闇から引き出す唯一のものは、信仰です。そして信仰は、神様の御言葉を聞くことから来ます。私たちはただ、私たちの心に植えつけられた御言葉に しっかりしがみつけば良いのです。主は「わたしははあなたを見放したりしない。だから絶望する必要などない。諦める理由など、どこにもない。わたしの言葉 に安きを得なさい」と約束されました。


あ なたは「しかしこの暗闇は、今まで経験したことの無い様な闇。今まで何千ものメッセージを聞いてきたけれど、どれも今となっては何も役に立たない」と思う かも知れません。心を荒立てないで下さい。神様の炎は今もあなたの内に燃えています、あなたにそれが見えなかったとしても。そしてあなたはその炎を、あな たの信仰の燃料に注ぐのです。これは神様に対する、信仰による行いです。もしあなたがそうするならば、あなたの疑いや肉欲は、焼き尽くされるでしょう。


神 様の御霊は、すべての乾ききった骨に再び命を吹き入れます。御霊は、彼らの内に植え付けられた御言葉を思い出させているのです。そうすることで、かつて死 んでいた者が、生き返るのです。彼らはエレミヤの様に叫びます、「神様の炎が私の心の中にずっと閉じ込められています。もう押さえつけておくことが出来ま せん。主の力が私を引き上げるのを感じます。神様は私に命を吹き込んでおられる。私は神様が与えて下さった御言葉を語り、神様の憐れみと癒しの力を宣言し ます」と。

2010年1月18日月曜日

私の人生は守られている

聖書は、ヤコブが神様と面と向かって会ったことを通して、驚くべき啓示を受けたと語っています。「ヤコブは、『わたしは顔と顔を合わせて神を見たのに、なお生きている』と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。」(創世記3230) この啓示が与えられた背景は、一体どの様なものだったのでしょうか。それは、ヤコブが人生の中で最も恐れを抱き、絶望に満ちていた時でした。その時ヤコブ は、二つの強い力に挟み撃ちになっていました。一つは怒りに満ちた義理の父、ラバン。もう一方は敵意をむき出しにして憤慨していた彼の兄、エサウでした。


ヤコブは、何度も何度も彼を騙したラバンの下で、20年以上も働きました。ついにヤコブが我慢出来なくなった時、彼はラバンに内緒で家族共々逃げ出したのです。


ラ バンは東から、小さな軍隊を引き連れてヤコブを追跡し、彼を捕まえて殺してしまおうとさえ考えていました。しかし神様がラバンの夢の中で、ヤコブに危害を 加えてはならないと命じられたので、ラバンはようやく義理の息子を手放したのです。ラバンの手から逃げ出せたと思いきや、今度はすぐさま西からエサウが現 れます。彼も400人からなる小さな軍隊を引き連れ、長子権を盗んだ弟を殺そうとしていたのです。


ヤコブは完全に四面楚歌の状態で、すべてを失うところでした。状況は絶望的でした。しかしその最悪の状況で、ヤコブはかつて無い様な形で、神様に出会うのです。ここで彼は一人の御使いと格闘したとありますが、学者らはこの御使いが神様御自身であったと信じています。


今度はヨブについて考えてみて下さい。ヨブが最悪の状況にあった時、神様がつむじ風の中に現れました。そして主は彼に、人類の歴史上かつてない形で御自身を示されたのです。


神 様はヨブを宇宙に引き上げ、次に深海へと導かれました。神様は彼に、創造の神秘を見せられたのです。そしてヨブは、かつて誰も見たことがないものを見まし た。彼は神様の圧倒的な栄光と威厳を見たのです。ヨブは神様への賛美に溢れて、こう言いました。「主よ、今ようやくあなたが何でも出来るということが、分 かりました。あなたの裁きを疑ったことを、悔い改めます。すべてはあなたの統治下にあり、あなたの恵みによって治められています。あなたは永遠の始めから ご計画を立てておられ、私はようやく、この目でそれを目撃することが出来ました。」(ヨブ記4225参照)


私たちがただ信じ委ねる時、何か素晴らしいことが起こります。平安が私たちに訪れ、「この苦しい体験を通して、何が起こるのかは分からない。でも私の神様はすべてを統べ治めておられる。恐れるものは何もない」と宣言出来るようになります。

2010年1月15日金曜日

すべての鍵を持っておられる方

聖書を通して、神様の優しさは、人々が困難、惨事、孤独、苦しみにある時に最も強く現れます。その例の一つを、ヨハネの人生に見ることが出来ます。3年 間に亘り、この弟子はイエス様の胸の内にいました。それは何の困難も試みもない、安らぎと平安と喜びに満ちた時でした。その間ヨハネは、ほとんど何も啓示 を受けませんでした。彼はイエス様を、人の子としてしか知りませんでした。では、ヨハネはいつ、キリストが栄光の中にいる啓示を受けたのでしょうか。


そ れはヨハネが鎖につながれ、エペソへと連れて行かれた後のことでした。彼はパトマスと呼ばれる島に追放され、そこで強制労働に科せられていました。彼は隔 離され、交わることも出来ず、慰めてくれる家族も友達もいませんでした。彼の人生の中でも最低の、まったく絶望に満ちた時でした。


そんな時にヨハネは、主の啓示を受け、その啓示が聖書の最後の本、黙示録として記されたのです。暗く沈んだ時を過ごしていたヨハネに聖霊の光が射し、ヨハネは今まで見たことが無い様なイエス様を目撃しました。彼はイエス様を、神の御子として見たのです。


ヨ ハネはこの啓示を、他の弟子達といる時にも、イエス様が共に地上を歩まれていた時にも、受けませんでした。しかし何年も経って、彼が最も暗い時を過ごして いる時に、「わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」(黙示録118)と栄光のうちに宣言されるキリストを見たのです。この驚くべき啓示に、ヨハネはひれ伏しました。しかしイエス様は彼を引き上げ、その御手にある鍵を彼に見せました。そしてイエス様はヨハネに「恐れるな」と言われたのです。(117


こ の様な啓示は、祈りの内にある、困難に遭って痛みを覚えている、すべてのキリストの僕に与えられると、私は信じます。聖霊は、「イエス様は命と死のすべて の鍵を持っておられる。だからすべての者の行方は彼の御手の内にある」と言っています。この啓示は私たちの心に、平安を与えるためのものです。ヨハネの様 に私たちも、イエス様が私たちの前に立って命と死の鍵を持ち、「恐れるな。わたしがすべての鍵を持っている」と語りかけられるビジョンを見るべきなので す。私たちの応答はどの様なものであるべきでしょう。ヨブの様に信仰をもって、こう答えるべきです。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられ よ。」(ヨブ記121

2010年1月14日木曜日

人の恵み

神 様はしばしば、御使いたちを用いて人々に働かれます。しかしほとんどの場合、神様は思いやりに満ちた主にある人々を用いて、その恵みを放たれます。これ が、神様の恵みを共に分ち合う者とされた理由の一つです。私たちは、お互いに主の恵みを放ち合う様に造られているのです。私はこれを、“人の恵み”と呼ん でいます。


「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」(エペソ人への手紙47)神様の恵みによる慰めがあるので、私たちは人生を悲嘆することだけで過ごすのは不可能です。どこかの時点で主の癒しに触れ、神様の恵みの給水所として立て上げられていくのです。


パウロが「神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。(中略)キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせるために」(エピソ人への手紙378)と語っているのは、正にこのことであると信じています。「あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思っているからです。」(フィリピ人への手紙17) ここでパウロは、非常に意義深い発言をしています。彼は「私が神様の御座に行って恵みを受け取るのは、あなた方のためなのです。私はあなた方にとって、批 判的ではなく、憐れみに満ちた羊飼いとなりたいのです。あなた方が恵みを必要とする時、恵みを放てるようになりたいのです。」と言っているのです。神様の 恵みは、パウロを憐れみ深い羊飼いにし、悲しむ者と共に嘆く者とされました。


ペテロはこう記しています。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」(第一ペテロの手紙410)神様のさまざまな恵みの管理者、もしくは分配者となるということは、どういうことでしょう。私はその様な人でしょうか。それとも自分の痛み、悲しみ、困難のためだけに祈りの時間を費やしているでしょうか。


愛する皆さん、現在の困難は私たちの人生において、大変貴重な何かを生み出してくれています。それは私たちの内に、痛みをおぼえる他の人々のために恵みと憐れみを求める賜物を形成しているのです。私たちの困難は、恵みを分け与える者になりたいという願いを与えてくれます。