2009年9月30日水曜日
神はあなたの傍を過ぎ行かず
2009年9月29日火曜日
カレブ
カレブの名は「砦、硬く守る」意味です。カレブは全てを賭けるタイプのクリスチャンを象徴します。彼はヨシュア(イエス様を象徴している)と離れられない存在でした。それは主と一緒に歩み続けている人の事を示します。
カ レブは他の間者とともにヨルダン川を渡りました。そして、彼は聖霊によってヘブロン「死の場所」に引き寄せられました。感動しつつ、彼はその畏れられた山 を登り、信仰に彼の魂を満たしました。そこにはアブラハムとサラーが、イサクとヤコブも葬られています。その後、ダビデの王朝もそこから始められていま す。カレブはその場所を見て、感慨に深けました。その時からヘブロンを自分の嗣業としたいと思ったのでしょう。
カ レブは「わたし[主]に完全に従った」(民数記14:24)と記されています。最後まで揺らぎませんでした。ソロモンは老いて揺らいで、「主に全く従うこ とが出来ませんでした」と記されています。しかし、カレブにとっては85歳の時にあってもカレブは証しています。「 今もなお、モーセがわたしをつかわした日のように、健やかです。わたしの今の力は、あの時の力に劣らず、どんな働きにも、戦いにも堪えることができま す」。(ヨシュア14:11)
85 の時、カレブは大勝利得ています。「それで主があの日語られたこの山地(ヘブロン)を、どうか今、わたしにください。…」(ヨシュア14:12)「そこで ヨシュアはエフンネの子カレブを祝福し、ヘブロンを彼に与えて嗣業とさせた。こうしてヘブロンは、ケニズびとエフンネの子カレブの嗣業となって、今日に 至っている。彼が全くイスラエルの神、主に従ったからである。」(ヨシュア14:13-14)
な んと栄光に満ちた言葉でしょう。その栄光とはこれです。罪に死ぬだけでは、過去に満たし受けただけでは足りません。主にあって終わりまで成長することで す。あなたの霊的力と器量を保ち、揺らぐことなく、老いた時さえも主に全く従うことです。私達の信仰は常に増し続けなければなりません。
ヘ ブロン、カレブの領地は、「関わりのある人々」という意味です。何と関わりがあるのでしょうか。答えは「死」です。ヨルダンにおける罪に死ぬだけではな く、イエスキリストの死と復活に関わる人たちコミュニティーの中で歩むことです。アブラハムがその子を生贄として奉げ様として祭壇を築いたのもヘブロンで あって、そこにカレブとその部族が住んだのです。彼らは常に生贄を捧げる祭壇と常にかかわりを持ったのでしょう。
主に対するカレブの完全な従順はカレブの子らに聖なる灯火を与えました。二つ半の氏族の子らがどっちつかずで迷う傍ら、カレブの氏族らはますます主にあって強められたのです。
2009年9月28日月曜日
定まらない心
2009年9月25日金曜日
キリストのうちにあること
2009年9月24日木曜日
神の御顔
2009年9月23日水曜日
獅子の爪から救う
神様が何かを覚えようと言われるのは私達のためです。私達が過去に助けられた事の記憶は今体験するものの私達の信仰の念を大きなものにします。
あ なたには今なにか抱えてる問題がありますか。家で、仕事で、家族の問題が巨人のように憚っていると思っていますか。そんな時、巨人に対処するにはダビデの ようにするしかありません。彼は獅子と熊のことを思い起こしました。嘗て神が忠実であった事を思い起こし、ダビデはゴリアテに怖れ無しで臨む事が出来まし た。
ダビデがコリアテと戦うことを志願したとき、「 サウルはダビデに言った、『行って、あのペリシテびとと戦うことはできない…』。 しかしダビデはサウルに言った、『しもべは父の羊を飼っていたのですが、しし、あるいはくまがきて、群れの小羊を取った時、 わたしはそのあとを追って、これを撃ち、小羊をその口から救いだしました。その獣がわたしにとびかかってきた時は、ひげをつかまえて、それを撃ち殺しまし た。 しもべはすでに、ししと、くまを殺しました。この割礼なきペリシテびとも、生ける神の軍をいどんだのですから、あの獣の一頭のようになるでしょ う』」。(Iサムエル17:33-36)
2009年9月22日火曜日
実を結ぶために選ばれた
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび」(ヨハネ15:16)
沢山のまじめなクリスチャンは、実を結ぶとは、単に、魂をイエス様に導くことと思っています。しかし、実を結ぶとは魂の救い以上の大きな意味があります。
イエス様が仰っている実は、キリストに似るものになることです。実を結ぶとはイエス様の資質を反映することです。次ぐ言葉「多くの実」とは「益々キリストと似る」事です。
キリストに益々似ることは私達の命の根本的目的です。それが私達の全ての活動、生活、関係の中心となるべきです。真に、私達の賜物、召命、仕事、働き、証全てがこの目的が中核となるべきです。
もし、私の心がキリストに似るものとならないなら、私がいよいよキリストに似ないなら、私は私の人生に於ける神の召しを損なっているのです。
私 への神の御旨はキリストの為にする業によっては充足できません。私が病人を癒し、悪魔を追い出したとて御旨を成就できません。否、神の御旨はキリストにあ る者になる事のみで充足されます。キリストに似るとは私が主のために何をするかではなく、キリストに似るものに変化されつつあることです。
ク リスチャンの本屋に行って、棚の本の題を見てください。沢山の本はマニュアル本で、孤独を如何に克服するかとか、鬱に生き残るとか、生甲斐を探すとかのも のです。何故でしょうか。私達は根本から間違っています。私達は成功する為に、試みから開放されるために、または特別な人となるために、若しくは「有名に なる」為でしょうか。そうではありません。私達は私達の生活の中心となるべき、唯ひとつの召命、唯一の焦点を捕らえていないからです。それはキリストに あって似るものとなり、実を結ぶことです。
イエス様は自分の全てを御父に捧げました。イエス様は「わたしは、わたしの父が言ったこと以外、何も言わないし、何も働かない」。
あなたはキリストと似るものになる事から湧き出す実を多く結びたいと思っていますか。私達はイエス様が人々を愛したように私たちが人々を愛する時、私達の人生の目的が達成されます。わたし達が人々を益々愛する時、私たちはもっとキリストと似るものとなるのです。
「父 がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」。(ヨハネ15:9) イエス様の命令ははっきりしていま す。「行って、人々を愛しなさい。私があなたに示したような無条件の愛を人々に与えなさい」。人々への愛が増すほどに私達もしかりキリストと似つつあるで しょう。言って見れば、実を結ぶとは他の人をどう扱うかなのです。
2009年9月21日月曜日
新しい力を得る
私達は神が私達を救われた事をすぐに忘れてしまいます。神様が奇跡を行っても、当たり前のように見過ごしでしまいます。でも聖書は私達に繰り返し言っています。「あなたの救いを覚えよう」。
私達は弟子達のようです。彼等はイエス様が何切れのパンと魚で何千人の人達に食事を与えたキリストの奇跡を理解しませんでした。イエス様はそんな奇跡を2度行っています。一度は 五千人、他の時は四千人でした。数日後には弟子達の記憶からこの事件は無くなりました。
イエス様がパリサイ人のパン種について警告した時、その記憶が無くなった事が明らかになりました。弟子達はイエス様がその話をしたのは、彼等が旅路にパンを忘れたからと考えました。しかし、キリストは彼等に答えて、「まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。」。(マタイ16:9-10)
マルコによれば、キリストは弟子達がそんなに忘れっぽいのを呆れていました。イエス様は言いました。「イエスはそれと知って、彼らに言われた、『なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。まだ思い出さないのか。五つのパンをさいて五千人に分けたとき、拾い集めたパンくずは、幾つのかごになったか』」。(マルコ8:17-19)
こ の話は私達に何を言っているのでしょうか。弟子達の誰もそんな奇跡によって人々に食べ物を与えるなんて毛頭考えまてなかったのは明らかです。。この人達が 食べ物籠を運んで、人々に与える時、パンや魚が不思議に増えることを目の当たりにする光景を描いて見てください。あなたは弟子達が跪き、叫んだと考えられ ませんか。「不思議だ。驚きだ。理屈では考えられない。イエス様こそ真の主です」。彼等は食べ物を分けながら人々にこう言ったと思います。「見なさい。奇 跡の食べ物を、神に栄光を。イエス様が与え給うものだ」。
弟子達はその奇跡を目の当たりに見たにも拘らず、その重大さに気づきませんでした。彼等は奇跡を理解できませんでした。同じくあなたも私も自分の歩みでの神の奇跡を忘れます。今日の喚きの中で、昨日の救い、助けはすぐに忘れられてしまいます。
新 旧役を通した、聖書は「私達のために奇跡を行う、主の強き手を覚えよう。あなたの過ぎた日々の救いを全て覚えよう」と言っています。モーセが紅海にての奇 跡の後、戒めたのを思い出して下さい。「モーセは民に言った、『あなたがたは、エジプトから、奴隷の家から出るこの日を覚えなさい。主が強い手をもって、 あなたがたをここから導き出されるからである」。(出エジプト記13:3)
2009年9月18日金曜日
父の口づけ
私 達が天に行く時、大いなる祝福が私達のものとなります。この祝福とは何でしょう。これは受け入れられる特権です。「これは、その愛する御子によって賜わっ た栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである」。(エペソ1:6)ここで賜ったと訳されていますが、原語のギリシャ語では好意をもたれるとの意 味です。パウロがこの言葉を使い言いたかった事は「神が私達を善しと思い受け入れられる。私達はキリストにある者達なので私達は特別な存在である」事で す。
神 がキリストの犠牲を受けられたので神には信仰によってキリストに繋がっている人達をキリスト一人としてみています。私達の肉は神の目には死んだものです。 何故でしょうか。イエス様は十字架の上で私達の古い性質を捨てられました。ですから、神が私達を見るとき、キリストしか見えないのです。その代わり、私達 も神が私達をどのように見られるかを学ばなければなりません。このことは私達が自分の罪や弱さばかりに注意を傾けないで、キリストが私達のために十字架の 上でなされた勝利を見るべきだと言う意味です。
放 蕩息子の喩えはキリストにあって私達が天でどのような位置づけであるかを力強く示しています。よくご存知の話です。ある若者が父の遺産を貰い、放蕩三昧を して全て費やしました。そして、何もかもなくしたとき、情緒的にも、道徳的にも、物理的にも全て無くした時、彼は父の事を思い出しました。彼は父の愛を全 て無くしたと思いました。彼は父は怒り心頭で、自分を憎んでいると思いました。
聖書はこの若者は自分の罪に嘆き、叫んだと記しています。「私は何の役に立たない者だ。私は天に罪を犯した者だ」。この叫びは神からの後悔によって悔い改めを象徴しています。
放 蕩息子は自分に言いました。「立って、父のところへ帰る」(ルカ15:18)ここで彼は受け入れられる祝福を自分の者としているのです。解りますか。放蕩 息子は罪に背を向けて、この世を捨てました。そして、彼の父が約束した「開かれた戸」に与ったのです。彼は悔い改めつつ歩き、自分の祝福に与りつつあった のです。
次 に、放蕩息子にはどんなことがおきたのでしょうか。彼が未だ遠くにいる時、父は彼を見て、哀れみ走って駆け寄り、首を取り、口づけしました。(ルカ 15:20)なんと美しい光景でしょうか。罪を犯した息子は許され、何の罰や制限なしで受け入れられ、父に愛されました。彼が父の口づけを受けた時、彼は 自分が受け入れられた事を知りました。
2009年9月17日木曜日
私達の信仰
私 は、人々が信仰を失い希望を無くすと思います。人々は沢山のメッセージを聞き、多くの本を読みますが、自分の周りには破船したような信仰の例しか見ませ ん。嘗て信仰を持っていたクリスチャンでも、今やその苦悶の中で神に対する彼らの信頼を捨てようとしています。では希望はどこから得るべきでしょうか。御 霊ははっきりした言葉で私に語りました。「あなたは自分の信仰に錨を置きなさい。全てに、いつも神を信じる心を持ちなさい」。
私 達の信仰を「置く」と言っていますが、「置く」とは「安定させる」、「揺るがないようにする」、「基礎柱を置く」、「基礎を置く」との意味を持っていま す。聖書は私達がそれが出来るといっています。ヤゴボ長老は書いています。「疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何 かをいただけるもののように思うべきではない」。(ヤゴボ1:7)
こ の聖句で、主は信じる者の責務を示しています。神様はこう言っているのです。「この世が、怖れ、慄きの日にわが民を見るとき、彼らはわが民のうちに信仰を 見出さなければならない。全てが揺り動く時、信仰が堅く、揺らがないべきある。だから、あなた、信仰者よ、信仰を錨付けなさい。あなた、クリスチャンよ、 固く立ちなさい。動き回ってはなりません」。
こ の世はもっと信仰のメッセージが必要なのではなく、信仰を目撃することが必要です。この世を前にして信仰に生きる兄弟姉妹の歩みを見ることです。彼らは神 の僕が災いを彼らと同じように体験しながらも揺るがないことを見る必要があるのです。そうすることによって、罪人らは揺らがない信仰の力強い証を目の当た りにすることが出来るのです。
ダビデはこのことを詩編でこう書いています。「あなたに寄り頼む者のために/人の子らの前に施される」。(詩編31:19) 彼は暗闇の中にいる人達への希望の光となる強い信仰にあって歩む信じる者達ついて語っているのです。
あなたが全ての重荷や試みをキリストに委ね信仰を錨付けた時、信仰によって全てをキリストの足元に置く時、あなたは激しく試されます。
嘗 て私が耐える信仰のプロセスにあった時、主に真全ての私の重荷を委ねた時、私は私を揺るがすある知らせの電話を受けました。一時、怖れの大水が私を覆いま した。しかし、その時、聖霊様は優しく私に囁きました。「諦めず、信仰を堅く保ちなさい。私が全てを統べ治めている。自分を堅く保ちなさい」。私はその時 私に流れた平安の大波を決して忘れる事が出来ません。その日が過ぎる前に、私の心は「私はあなたを信頼し、疑わなかった」ことに気づき、喜びに満たされま した。
2009年9月16日水曜日
自分を許すことを学ぶ
私にとって許しにおいて最も難しい事でした。クリスチャンとして私達はこの世へ主の恵みのことを語ります。しかし、私達自身にはその恵みの豊かさに預かろうとしません。
ダ ビデが不倫を隠すためにその相手の夫を殺しました。彼の罪が明らかになった時、ダビデは悔い改め、主は預言者ナダンを送りダビデに言いました。「あなたの 罪は許されました」。しかし、ダビデ自身が罪が許されたのを知っていても彼は喜びを失いました。彼は祈ります。「わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなた が砕いた骨を喜ばせてください。…あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。」(詩編51:8,12)
何 故、ダビデはそんなに落ち込んでいたのでしょうか。主は彼を許しまして、神の許しの約束を頂き平安を得たと思います。しかし、あなたの罪が神の本から消さ れたにも、あなたの記憶からはそれは消されるとは限りません。ダビデは自分の罪を知っていて、良心の呵責を止めたいのでこの詩編を書きました。ダビデは自 分を許せませんでした。それで、彼は許さない心-自分に向けた許さないを持っていたので、その弊害も同じように被ることになったのです。喜びを失う弊害で す。主の喜びは神の許しを全く受ける事から実を結ぶのです
私はハドソン・テイラーの伝記に大いに感銘を受けました。テイラーは歴史上最も効果的な宣教師の一人でした。中国の内陸で幾つかの教会を立てた祈りの人、神の人でした。彼は何年間を喜びなしで働きをなして、自分の不信仰の密かな思いに絶望して、苦しんでいました。
1869 年、テイラーは考えられない変化を体験しました。テイラーはキリストが全て必要とするものは用意しているが、彼の嘆きや懺悔がその用意された祝福を齎さな い事を見ました。テイラーはキリストの満たしを受ける唯一の道は信仰のみであると気づきました。神が人にした全ての約束は信仰を必要とします。ですからテ イラーは信仰を増そうと思いましたが、その努力も空しいものでした。終に、暗闇の中で聖霊様は彼に啓示を与えられました。それは信仰は努力する事から来る のではなく、神の約束に休まる事から来ることでした。それがキリストの祝福を受ける秘訣でした。
テイラーは、キリストが既に海に投げ込んだと言われている罪について、自分も許しましました。彼は、神の約束にあって平安を得て、自分の重荷を主に委ね続け喜びのある僕となりました。
2009年9月15日火曜日
嫉みや嫉妬の種
私達は全て嫉みや嫉妬の種を内に持っています。問題はそれを認める人がいるかです。
清教徒の牧師トーマス・マントンと言う人は嫉妬と嫉みについての人の性質をこう言っています。「私達はアダムの罪に生まれている。私達が母の乳房を含むときからそれを飲んでいる」。それは私達の深い一部です。
その罪の種は私達が他の働きの祝福と達成した事を素直に喜べないようにしています。その結果、私達は兄弟姉妹達と私達の開いたに大きな壁を建ててしまいますs。「憤りはむごく、怒りははげしい、しかしねたみの前には、だれが立ちえよう」。(箴言27:4)
ヤゴボ長老はこう言っています。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない」。ヤゴボ3:14
平たく言うと、ねたみと嫉妬の罪は苦い毒であるといっているのです。もし、私たちがそれを手放さないなら、それは私達の霊的権威を損なうだけではなく、悪魔の計略に身を任せることになるのです。
サ ウル王は聖書で言っていることの明らかな例です。第一サムエルの18章でダビデがペリシテ人を討ち負かし回旋する場面が出できます。そこではダビデとサウ ル王は一緒に馬に乗って入城しましたが、イスラエルの乙女達が出てきてダビデの勝利を祝い歌いました。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討つ」。
サウルはこの喜ばしき祝い歌に傷つけられ、考えました。「ダビデには万と言い、わたしには千と言う。この上、彼に与えるものは、国のほかないではないか」。(第1サムエル18:7)
直 ちに、サウルは嫉みと嫉妬の霊に捕らえれれます。次の節でサウルにどんなことがおきたかが記されています。「サウルは、この日からのちダビデをうかがっ た」。そして悲劇的にもその後「 サウルは、ますますダビデを恐れた。こうしてサウルは絶えずダビデに敵した」。となりました。
サ ウルはねたみに囚われていました。彼は主の前にて悔い改めるほど謙ることも出来ませんでした。もし彼が自分のねたみを認め、それを採ったのなら神はその油 注がれた僕に光栄を与えたでしょう。しかし、差うろは自分を末席に置くことは出来ませんでした。その代わり、彼は自分の妬む霊を最も高いところに置きまし た。次におきたことはまったく畏れるべきことです。「 主がサウルを離れて、ダビデと共におられたので、サウルはダビデを恐れた」。(18:10-12)
2009年9月14日月曜日
互いを忍び合う
「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい」。(コロサイ3:13)
忍びあい、許すことは違うことです。忍び合うとはやり返す考えや行動をまったく止めることを意味します。言い換えれば、自分でやり返すことをせずに、傷つけられることを耐え、そのことを委ねきることです。
忍 び合うのは新約聖書だけにある考えではありません。箴言にも記されています。「『彼がわたしにしたように、わたしも彼にしよう、わたしは人がしたところに したがって、その人に報いよう』と言ってはならない。」。(箴言24:29) 私達はダビデの人生でそんなことに如何に対処するかのよき例を与えられてい ます。彼は邪まなナバルという人に憤慨していました。ナバルがダビデが助けて欲しい時、助けを拒んだからでした。ダビデは復讐を誓いましたが、神の導きに 従いました。「自分で復讐してはなりません。あなたの戦いを主が戦われます」。状況は時にあたって変わり、ダビデは神が介入されたことを賛美しまし た。(第一サムエル25章の話を参照)
ダビデは彼を追いかけるサウルにやり返す機会を、ダビデが隠れている洞窟でサウルがて いる時に与えられました。ダビデの僕たちが言いました。「これこそ神の導きである。神がサウルをあなたの手に渡された。今殺して、自分で復讐しなさい」。 ダビデは耐えました。殺す代わりに服の端を切って、彼がサウルを殺す事が出来たことの証明としました。そんな賢い行動が私達の敵を辱める神の方法であり、 当にダビデがサウルに服の端を見せた時、そのことが行われたのです。サウルは答えてこう言いました。「あなたはわたしよりも正しい。わたしがあなたに悪を 報いたのに、あなたはわたしに善を報いる」。(Iサムエル24:17)
私達が人を許すことについては主が言われた二つの命令を含めています。1.敵を愛し 2.彼らのために祈りなさい。「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」。(マタイ5:44)
ある牧師先生が賢いことをいいました。「もし、あなたが敵のために祈るなら、あなたは何でも出来ます」。私自身の歩みでもこの真理がいえます。
イ エス様は許すことが易しいとは言ってはいません。主が「敵を愛しなさい」と言ったことを記したギリシャ語は「愛」と言っても好意とかの意味してるのではな く、「道徳的理解」を意味しています。簡単に言うと許すとは「人の感情に促され」するのではなく、私達の心から自分の憎しみを取り除く道徳的な選択をする ことなのです。
2009年9月11日金曜日
愛は家族から
イエス様はヨハネの福音書15:6で私の妻や夫、子供たちをどの様に扱うかを示されました。独身の人達にはそれはルームメート、信仰の友、自分に近い人達をどの様に扱うかでしょう。
そ れには多くに説明は要りません。もし、私が神が示されたような夫となるなら、私の妻は天地を前に、世界を前に「私の夫はキリストの愛で私を愛しています。 彼には間違いも犯しますが、彼は辛抱強くなり、私を理解しようとしています。彼は益々愛しく、親切になっています。私と一緒に祈ります。それはうそではあ りません。彼は自分で言っているように行動します。」
も しこれが自分の妻の証ではないなら、もし彼女が自分の心に痛みがあって「私の夫は神の人といっているが、それは嘘である。」と言うならば、私の人生の全て は空しいものです。私の働き-説教、功績、献金、寄付、働きの為の旅-は何の価値もありません。私はキリストに似ると言う実を結ばない役に立たない、枯れ てしまう枝です。イエス様は周りの人に私が死んでいることを示され、私は御国で取るに足りない者となるでしょう。
あ る中年の牧師ご夫妻が相談に来ました。その牧師先生は泣いていました。「デビット、私は神と私の妻に罪を犯しました。私は不倫をしました」。彼は罪を懺悔 し、神にあってその罪を悔いていました。奥様はその時、言いました。「私は彼を許します。彼の悔い改めは本物で、神が私達を回復する事を信じます。」
私はそのすばらしい癒しを拝見できる特権に預かりました。私達は過去の失敗をやり直すことは出来ません。しかし、誠の悔い改めがあるなら、神は虫食って駄目になったものを回復すると約束しているのです。
私 は全ての夫婦がキリストにある夫婦生活を楽しみ、証できるよう願っています。「容易いことではありません。」結婚はクリスチャンの歩みがそうであるよう に、日々の努力です。十字架の道のように、自分の権利を日々放棄する事です。勿論、サタンはあなたの心がキリストに似ようと決めている事を知っていて、あ なたを次から次へと苦しめます。
夫婦生活のように難しく、激しいものはありません。そのことには卒業というものはありません。神は私達に明らかにしています。自分の愛する人達と一緒の人生が私達の試しの中心にあるのです。もし、私達がそこで間違うのなら、私達の歩み全てに間違うのでしょう。
2009年9月10日木曜日
他の人を愛する
2009年9月9日水曜日
神だけが知られる道
2009年9月8日火曜日
注ぎ出しなさい。
2009年9月7日月曜日
賢い乙女のように
2009年9月4日金曜日
末席に座る
おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。(ルカ14:8-11 斜体に注意)
…見えのために長い祈をする」(ルカ20:46-47)人達を指しています。