2009年9月30日水曜日

神はあなたの傍を過ぎ行かず

私が主の牧者として担っている大きな重荷の 一つは「神よ、本当に痛んで、苦しんでいる人達を如何に慰め、希望を与えられるでしょうか。彼等の疑いと恐れをなくす言葉を与えてください。嘆く人の涙を 拭う真理を与えてくださって、希望なき人達の唇に喜びの歌を与えられ」る事です。

これについて神の民へ私が聖霊から聞いたことは極めて短純なことでした。「御言葉とわが約束に立ちなさい。あなたの疑う感情を拒みなさい。全ての希望は神の約束から生まれる」。

このことを素晴らしく示すある手紙を最近受 け取りました。ある母親からの手紙でした。「私の娘は16歳ですが、彼女は筋肉、靭帯、関節が退化し続ける病気を患って、激しい痛みに24時間苛まれてい ます。私の息子も97年、同じ病気で患いまして、自殺で亡くしました。彼は発病して9年間苦しみ、22歳でした。苦しみに耐えられなかったのでしょう。」

「私の娘はクラシックバレーを学び、ジュリ アードに行く事を夢見ていましたが、その夢は彼女の兄を苦しめた同じ病が彼女を襲った時、砕かれてしまいました。14歳の時、医者が言うにはその痛みは 1-10の段階で言えば10と言っていました。その痛みを和らげられる痛み止めの量は腎臓破壊するので、とる事は出来ないと言われました。」

「彼女は主を愛していて、身近に彼女を見ることは喜びがありました。彼女は詩人で15もの印刷物に彼女の詩が載って、詩人として人名辞典に名前が載っています。」

このような激しい、絶え間ない心と体の揺るがしにも関わらす、この母と娘は彼らへの神のみ言葉に希望をおいています。神は彼らに平安を与えられたのです。

私たちの敵は神があなたを通り過ぎて行くと言っています。あなたはそう考えてしまっていないのでしょうか。もう信じられないのでしょうか。あなたに与えた主の御言葉に希望を置いて下さい。
主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。(ヘブル13:5)

「主はしえたげられる者のとりで、なやみの時のとりでです。み名を知る者はあなたに寄り頼みます。主よ、あなたを尋ね求める者を/あなたは捨てられたことがないからです。」(詩篇9:9-10)

2009年9月29日火曜日

カレブ

カレブの名は「砦、硬く守る」意味です。カレブは全てを賭けるタイプのクリスチャンを象徴します。彼はヨシュア(イエス様を象徴している)と離れられない存在でした。それは主と一緒に歩み続けている人の事を示します。


カ レブは他の間者とともにヨルダン川を渡りました。そして、彼は聖霊によってヘブロン「死の場所」に引き寄せられました。感動しつつ、彼はその畏れられた山 を登り、信仰に彼の魂を満たしました。そこにはアブラハムとサラーが、イサクとヤコブも葬られています。その後、ダビデの王朝もそこから始められていま す。カレブはその場所を見て、感慨に深けました。その時からヘブロンを自分の嗣業としたいと思ったのでしょう。


カ レブは「わたし[主]に完全に従った」(民数記14:24)と記されています。最後まで揺らぎませんでした。ソロモンは老いて揺らいで、「主に全く従うこ とが出来ませんでした」と記されています。しかし、カレブにとっては85歳の時にあってもカレブは証しています。「 今もなお、モーセがわたしをつかわした日のように、健やかです。わたしの今の力は、あの時の力に劣らず、どんな働きにも、戦いにも堪えることができま す」。(ヨシュア14:11)


85 の時、カレブは大勝利得ています。「それで主があの日語られたこの山地(ヘブロン)を、どうか今、わたしにください。…」(ヨシュア14:12)「そこで ヨシュアはエフンネの子カレブを祝福し、ヘブロンを彼に与えて嗣業とさせた。こうしてヘブロンは、ケニズびとエフンネの子カレブの嗣業となって、今日に 至っている。彼が全くイスラエルの神、主に従ったからである。」(ヨシュア14:13-14)


な んと栄光に満ちた言葉でしょう。その栄光とはこれです。罪に死ぬだけでは、過去に満たし受けただけでは足りません。主にあって終わりまで成長することで す。あなたの霊的力と器量を保ち、揺らぐことなく、老いた時さえも主に全く従うことです。私達の信仰は常に増し続けなければなりません。


ヘ ブロン、カレブの領地は、「関わりのある人々」という意味です。何と関わりがあるのでしょうか。答えは「死」です。ヨルダンにおける罪に死ぬだけではな く、イエスキリストの死と復活に関わる人たちコミュニティーの中で歩むことです。アブラハムがその子を生贄として奉げ様として祭壇を築いたのもヘブロンで あって、そこにカレブとその部族が住んだのです。彼らは常に生贄を捧げる祭壇と常にかかわりを持ったのでしょう。


主に対するカレブの完全な従順はカレブの子らに聖なる灯火を与えました。二つ半の氏族の子らがどっちつかずで迷う傍ら、カレブの氏族らはますます主にあって強められたのです。

2009年9月28日月曜日

定まらない心

心が定まらない人たちはある特徴があります。それは聖書で書かれているルベンとカドの部族とマナセ半部族の特徴です。その特徴は彼らの偶像を打ち壊すことやこの世に死ねない事です。彼らの名前もそのことを示しています。
ルベンは「見出す子」という意味です。彼はヤコブの初子でありましたが、彼は情欲によってその嫡子の資格を失いました。ヤコブはルベンをこのようにあらわしています。沸き立つ水のようだから、もはや、すぐれた者ではあり得ない」。ルベンは自分の父の側女と寝たので、ヤコブは死の床で「あなたは父の床に上って汚した。ああ、あなたはわが寝床に上った」(創世記49:4)と言っています。

ルベンは現世的-情欲、物欲、快楽-に世を見ています。彼は心が定まらなかったのでいつも優柔不断であって、その霊は彼の子孫に受け継がれました。そして、後に彼の部族はこの世に契合して、妥協してしまいます。

カドは「機会主義者、傭兵」を意味します。 言い換えれば、その名は傭兵、雇われの兵士を意味します。モーセはガト部族についてこういっています。「 彼は初穂の地を自分のために選んだ…。」(申命記33:21)この部族は外面的には従順であり、主の詔を行うように見えますが、本心は自己中心です。カド は自己満足の虜になっており、自分を満足させる為にそう行動せざるを得なかったのです。

カドの考えは「主の兵として戦い、神が望まれるすべてのことに忠実であろう。しかし、先ずは私にも生活がある。私は私と家族が必要なのを先に得て、その後に主のことをしよう」。

次にマナセです。マナセは「忘れる、等閑に する」との意味があります。彼はヨセフの初子でありまして、嫡子の権利があります。しかし、年少の時既にそんな兆候があり、ヤコブは彼の本質を霊にあって 見極めました。マナセはいつか父ヨセフの生き方を忘れ、主の命じた法を等閑にします。

この様な心の定まらない傾向を考えて見ま しょう。霊的責任にどっちつかずで、、神のことに全力を注ぐことなく、生温く、情欲に弱く、自分がまず先で、御言葉を等閑にし、主の戒めを真剣に考えるこ となく、神を信じる代わりに自分で物事を決め、祝福と導きを忘れ、自分の密かな偶像を捨てる事が出来ず、自分の選択を正当化し、全てに死ぬ事を拒み、いつ もグレイゾーンに引き返してしまう人たちです。

主の全き満たしを得ましょう。神はあなたが安息の場所、聖霊にあって平安で喜び合って欲しいのです。それが「心をつくして、力をつくして」神に従うに求められる事なのです。

2009年9月25日金曜日

キリストのうちにあること

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し」(エペソ1:3) パウロは私達に「イエスに従う全ての人達は、キリストが居られる天にて霊的な祝福を受けている」と言っています。なんと素晴らしい神の民への約束でしょうか。

もし私達がこれらの霊的な祝福がどんなものかをわからないなら、その約束は無用のものです。もし私達が神が約束したものを分からないなら、いかにその約束したものを自分のものと出来るでしょうか。
パウロはこの手紙を「キリスト・イエスに あって忠実な聖徒たちへ」宛てに、救いを確信している信仰者に、書いています。エペソ教会の信徒たちはイエスキリストの福音と永遠の命の希望についてよく 教えられていました。彼らはキリストにあって天に自分らの場所があると確信していました。

「忠実な」ものたちは「神はその力をキリス トのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座 」(1:20)す事を確信していました。彼らは「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを 選」(1:4)ばれていることを知っていました。彼らは「イエス・キリストによって」(1:5)神の子たる身分を授けられた事を掴んでいました。涸れたが 真理の言葉を聞き、信じ、信頼したので神が彼らを神の家族に受容れられました。

許され、清められ、贖われた多くの人達は恵 みに歩んでいません。彼らはキリストにあって満たされていると感じていません。その代り、彼らは霊的なローラーコースタにあり続けています。何故、そうな るのでしょうか。彼らは十字架に架けられた救い主から復活の栄光の主を見出すことが出来ないからです。
イエス様は弟子たちに言いました。「わたし が生きるので、あなたがたも生きるからである。 その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり」(ヨハネ14:19-20)。ここでイエス様が言っている「その日」に私達が今生きて おり、私達はキリストにあって自分が天にてどのような立場であるかを理解すべきです。

「天にて自分がどのような立場」とはどんな意味でしょうか。「立場」とは「立つ場所。立っている所」と辞書は記しています。ですから、神はキリストのうちに私達を立たせているということです。

それと同時に御父にあってキリストは御座の 右に座しています。そこで、もし私達がキリストにあるなら、私達はイエス様と同じようにそこに座しているのです。全能なる神の御前に座しているのです。こ れが、使徒パウロが「エペソ人への手紙」で言っている「キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのであ る」(2:6)の意味です。もちろん、イエス様は天のパラダイスにいますが、同時に主はあなたとわたしに繋がっているのです。主は私達をこの世でご自身の 宮、住処としておられるのです。

2009年9月24日木曜日

神の御顔

「 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める」。詩編27:4 ダビデ王は神様をもっと知るべきと思っていました。自分が得ていない何かが主にあ るようで、それを得るまでは自分が休まらないと思いました。私が体験していない主からの何か、それは麗しく、栄光に満ちたものである。私は我が神と絶える 事のない交わりが何かであるか知りたいと思う。私の生き方が祈りとなってほしいと思う。私のこれからの時にそれだけを願っている。

神の御顔は神がどんな方で、どんなお考えを 持っているか象徴します。ダビデの心の叫び、神様と深く交わりたいと言う叫びに答えて、神は「わたしの顔を求めなさい」と言いました。ダビデは答えまし た。「あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」 と」。(詩編27:8)

この様な答え方をした時、主はダビデに啓示 しました。、ダビデが、自分の人生で神を示すならば、彼が求めていたものを得られると神様が示されたのです。神はダビデに教えています。「わたしから学び なさい。我が言葉を探し、御霊によって理解できるように祈りなさい。そして、あなたはわたしと似るものとなる。わたしはこの世にわが麗しさを示す人生があ なたの人生になって欲しいのだ」。

これは単なる祈りへの呼びかけではありません。ダビデはそれまでも日に7回祈っていました。現にそのように祈っていた為に、神をもっと知ろうとする願いが起こされたのです。神から求められたこの召しはイエスを完全に示しうる生き方への招きです。

カルバリで、神は人としていました。イエス 様は地に人として来られました。受肉した神としてです。神が人となったのは私達と同じように苦しみを受け、試みられ、験され、父を示す為だったのです。聖 書はイエス様を通して神様を垣間見ることができるとしています。何故ならイエス様は父なる神と同じ資質と神核(essense of God)を持っておられる、それが肉に刻まれたからです。(ヘブル1:13参照) イエス様は御父をそのままお示しになったのです。

今なお、イエスキリストはこの地上での神様 を示されています。それ故に私達は神様と親しき交わりが続けられるのです。十字架によって、私達は御顔を見、御顔に触れられる特権を持つことが出来ます。 私達はイエス様がしたように「わたしは主から見聞きしたこと以外では何もしない」と証しながら生きることが出来るのです。

今日、神が「我が顔を求めようと」と仰る 時、神の言葉は今まで嘗てない重要な意味を持ちます。今の時代で私達はその御言葉によってどの行動すべきでしょうか。ダビデは回りを偶像崇拝の異教徒に囲 まれた時、神は「我が顔を求めなさい」と命じました。そして私達は主と似る者となるべくそのようにします。私達が主の御姿を示し、イエス様が私達によって 現されますように。

2009年9月23日水曜日

獅子の爪から救う

神様が何かを覚えようと言われるのは私達のためです。私達が過去に助けられた事の記憶は今体験するものの私達の信仰の念を大きなものにします。


あ なたには今なにか抱えてる問題がありますか。家で、仕事で、家族の問題が巨人のように憚っていると思っていますか。そんな時、巨人に対処するにはダビデの ようにするしかありません。彼は獅子と熊のことを思い起こしました。嘗て神が忠実であった事を思い起こし、ダビデはゴリアテに怖れ無しで臨む事が出来まし た。


ダビデがコリアテと戦うことを志願したとき、「 サウルはダビデに言った、『行って、あのペリシテびとと戦うことはできない…。 しかしダビデはサウルに言った、『しもべは父の羊を飼っていたのですが、しし、あるいはくまがきて、群れの小羊を取った時、 わたしはそのあとを追って、これを撃ち、小羊をその口から救いだしました。その獣がわたしにとびかかってきた時は、ひげをつかまえて、それを撃ち殺しまし た。 しもべはすでに、ししと、くまを殺しました。この割礼なきペリシテびとも、生ける神の軍をいどんだのですから、あの獣の一頭のようになるでしょ う』」。(Iサムエル17:33-36) 


ダ ビデはゴリアテと対峙する危険を知っていました。彼は馬鹿でもなく、虚勢を張って、喧嘩を吹っかける若者ではありませんでした。そうではなく、ダビデは嘗 て自分がどのように救われたか思い出だしていました。だから、彼は敵に向かってこう言えたのでしょう。「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された 主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう」。

神 の民の多くはゴリアテのような巨人に挑まれています。しかし、彼らの多くは怖れてしまっています。あなたはその中の一人ですか。あなたが病気で死ぬところ を主が癒して下さった事を忘れてはいませんか。あなたがお金の問題で「もう、おしまいだ」と思ったのに、主によって助けられ、未だにあなたを保たれること を覚えていませんか。

私達が理解できない事が沢山ありますし、私達がイエス様と共に故郷に帰るまで理解できない事も沢山あります。しかし私は神は癒し給う神、逃れる道を与え給う神である事を絶対的に信じます。私達の問題はどこで私達は立ち上がって、勝利を得る信仰と勇気を探すかです。

それは獅子や熊の事を思い出して、そんな信仰と勇気をえるのです。あなたが嘗ての 信じられない神の忠実さ、神があなたに与えた勝利を思い起こすことからくるのです。あなたはあなたの人生での神の権威と栄光を見出し、理解すること無しで は決してその巨人に立ち向かうことが出来ないでしょう。

2009年9月22日火曜日

実を結ぶために選ばれた

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび」(ヨハネ15:16)


沢山のまじめなクリスチャンは、実を結ぶとは、単に、魂をイエス様に導くことと思っています。しかし、実を結ぶとは魂の救い以上の大きな意味があります。


イエス様が仰っている実は、キリストに似るものになることです。実を結ぶとはイエス様の資質を反映することです。次ぐ言葉「多くの実」とは「益々キリストと似る」事です。


キリストに益々似ることは私達の命の根本的目的です。それが私達の全ての活動、生活、関係の中心となるべきです。真に、私達の賜物、召命、仕事、働き、証全てがこの目的が中核となるべきです。


もし、私の心がキリストに似るものとならないなら、私がいよいよキリストに似ないなら、私は私の人生に於ける神の召しを損なっているのです。


私 への神の御旨はキリストの為にする業によっては充足できません。私が病人を癒し、悪魔を追い出したとて御旨を成就できません。否、神の御旨はキリストにあ る者になる事のみで充足されます。キリストに似るとは私が主のために何をするかではなく、キリストに似るものに変化されつつあることです。


ク リスチャンの本屋に行って、棚の本の題を見てください。沢山の本はマニュアル本で、孤独を如何に克服するかとか、鬱に生き残るとか、生甲斐を探すとかのも のです。何故でしょうか。私達は根本から間違っています。私達は成功する為に、試みから開放されるために、または特別な人となるために、若しくは「有名に なる」為でしょうか。そうではありません。私達は私達の生活の中心となるべき、唯ひとつの召命、唯一の焦点を捕らえていないからです。それはキリストに あって似るものとなり、実を結ぶことです。


イエス様は自分の全てを御父に捧げました。イエス様は「わたしは、わたしの父が言ったこと以外、何も言わないし、何も働かない」。


あなたはキリストと似るものになる事から湧き出す実を多く結びたいと思っていますか。私達はイエス様が人々を愛したように私たちが人々を愛する時、私達の人生の目的が達成されます。わたし達が人々を益々愛する時、私たちはもっとキリストと似るものとなるのです。


「父 がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」。(ヨハネ15:9) イエス様の命令ははっきりしていま す。「行って、人々を愛しなさい。私があなたに示したような無条件の愛を人々に与えなさい」。人々への愛が増すほどに私達もしかりキリストと似つつあるで しょう。言って見れば、実を結ぶとは他の人をどう扱うかなのです。

2009年9月21日月曜日

新しい力を得る

私達は神が私達を救われた事をすぐに忘れてしまいます。神様が奇跡を行っても、当たり前のように見過ごしでしまいます。でも聖書は私達に繰り返し言っています。「あなたの救いを覚えよう」。


私達は弟子達のようです。彼等はイエス様が何切れのパンと魚で何千人の人達に食事を与えたキリストの奇跡を理解しませんでした。イエス様はそんな奇跡を2度行っています。一度は 五千人、他の時は四千人でした。数日後には弟子達の記憶からこの事件は無くなりました。


イエス様がパリサイ人のパン種について警告した時、その記憶が無くなった事が明らかになりました。弟子達はイエス様がその話をしたのは、彼等が旅路にパンを忘れたからと考えました。しかし、キリストは彼等に答えて、「まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。」。(マタイ16:9-10)


マルコによれば、キリストは弟子達がそんなに忘れっぽいのを呆れていました。イエス様は言いました。「イエスはそれと知って、彼らに言われた、『なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。まだ思い出さないのか。五つのパンをさいて五千人に分けたとき、拾い集めたパンくずは、幾つのかごになったか』」。(マルコ8:17-19)


こ の話は私達に何を言っているのでしょうか。弟子達の誰もそんな奇跡によって人々に食べ物を与えるなんて毛頭考えまてなかったのは明らかです。。この人達が 食べ物籠を運んで、人々に与える時、パンや魚が不思議に増えることを目の当たりにする光景を描いて見てください。あなたは弟子達が跪き、叫んだと考えられ ませんか。「不思議だ。驚きだ。理屈では考えられない。イエス様こそ真の主です」。彼等は食べ物を分けながら人々にこう言ったと思います。「見なさい。奇 跡の食べ物を、神に栄光を。イエス様が与え給うものだ」。


弟子達はその奇跡を目の当たりに見たにも拘らず、その重大さに気づきませんでした。彼等は奇跡を理解できませんでした。同じくあなたも私も自分の歩みでの神の奇跡を忘れます。今日の喚きの中で、昨日の救い、助けはすぐに忘れられてしまいます。


新 旧役を通した、聖書は「私達のために奇跡を行う、主の強き手を覚えよう。あなたの過ぎた日々の救いを全て覚えよう」と言っています。モーセが紅海にての奇 跡の後、戒めたのを思い出して下さい。「モーセは民に言った、『あなたがたは、エジプトから、奴隷の家から出るこの日を覚えなさい。主が強い手をもって、 あなたがたをここから導き出されるからである」。(出エジプト記13:3)

2009年9月18日金曜日

父の口づけ

私 達が天に行く時、大いなる祝福が私達のものとなります。この祝福とは何でしょう。これは受け入れられる特権です。「これは、その愛する御子によって賜わっ た栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである」。(エペソ1:6)ここで賜ったと訳されていますが、原語のギリシャ語では好意をもたれるとの意 味です。パウロがこの言葉を使い言いたかった事は「神が私達を善しと思い受け入れられる。私達はキリストにある者達なので私達は特別な存在である」事で す。

神 がキリストの犠牲を受けられたので神には信仰によってキリストに繋がっている人達をキリスト一人としてみています。私達の肉は神の目には死んだものです。 何故でしょうか。イエス様は十字架の上で私達の古い性質を捨てられました。ですから、神が私達を見るとき、キリストしか見えないのです。その代わり、私達 も神が私達をどのように見られるかを学ばなければなりません。このことは私達が自分の罪や弱さばかりに注意を傾けないで、キリストが私達のために十字架の 上でなされた勝利を見るべきだと言う意味です。

放 蕩息子の喩えはキリストにあって私達が天でどのような位置づけであるかを力強く示しています。よくご存知の話です。ある若者が父の遺産を貰い、放蕩三昧を して全て費やしました。そして、何もかもなくしたとき、情緒的にも、道徳的にも、物理的にも全て無くした時、彼は父の事を思い出しました。彼は父の愛を全 て無くしたと思いました。彼は父は怒り心頭で、自分を憎んでいると思いました。

聖書はこの若者は自分の罪に嘆き、叫んだと記しています。「私は何の役に立たない者だ。私は天に罪を犯した者だ」。この叫びは神からの後悔によって悔い改めを象徴しています。

放 蕩息子は自分に言いました。「立って、父のところへ帰る」(ルカ15:18)ここで彼は受け入れられる祝福を自分の者としているのです。解りますか。放蕩 息子は罪に背を向けて、この世を捨てました。そして、彼の父が約束した「開かれた戸」に与ったのです。彼は悔い改めつつ歩き、自分の祝福に与りつつあった のです。

次 に、放蕩息子にはどんなことがおきたのでしょうか。彼が未だ遠くにいる時、父は彼を見て、哀れみ走って駆け寄り、首を取り、口づけしました。(ルカ 15:20)なんと美しい光景でしょうか。罪を犯した息子は許され、何の罰や制限なしで受け入れられ、父に愛されました。彼が父の口づけを受けた時、彼は 自分が受け入れられた事を知りました。

2009年9月17日木曜日

私達の信仰

私 は、人々が信仰を失い希望を無くすと思います。人々は沢山のメッセージを聞き、多くの本を読みますが、自分の周りには破船したような信仰の例しか見ませ ん。嘗て信仰を持っていたクリスチャンでも、今やその苦悶の中で神に対する彼らの信頼を捨てようとしています。では希望はどこから得るべきでしょうか。御 霊ははっきりした言葉で私に語りました。「あなたは自分の信仰に錨を置きなさい。全てに、いつも神を信じる心を持ちなさい」。

私 達の信仰を「置く」と言っていますが、「置く」とは「安定させる」、「揺るがないようにする」、「基礎柱を置く」、「基礎を置く」との意味を持っていま す。聖書は私達がそれが出来るといっています。ヤゴボ長老は書いています。「疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何 かをいただけるもののように思うべきではない」。(ヤゴボ1:7)

こ の聖句で、主は信じる者の責務を示しています。神様はこう言っているのです。「この世が、怖れ、慄きの日にわが民を見るとき、彼らはわが民のうちに信仰を 見出さなければならない。全てが揺り動く時、信仰が堅く、揺らがないべきある。だから、あなた、信仰者よ、信仰を錨付けなさい。あなた、クリスチャンよ、 固く立ちなさい。動き回ってはなりません」。

こ の世はもっと信仰のメッセージが必要なのではなく、信仰を目撃することが必要です。この世を前にして信仰に生きる兄弟姉妹の歩みを見ることです。彼らは神 の僕が災いを彼らと同じように体験しながらも揺るがないことを見る必要があるのです。そうすることによって、罪人らは揺らがない信仰の力強い証を目の当た りにすることが出来るのです。

ダビデはこのことを詩編でこう書いています。「あなたに寄り頼む者のために/人の子らの前に施される」。(詩編31:19) 彼は暗闇の中にいる人達への希望の光となる強い信仰にあって歩む信じる者達ついて語っているのです。

あなたが全ての重荷や試みをキリストに委ね信仰を錨付けた時、信仰によって全てをキリストの足元に置く時、あなたは激しく試されます。

嘗 て私が耐える信仰のプロセスにあった時、主に真全ての私の重荷を委ねた時、私は私を揺るがすある知らせの電話を受けました。一時、怖れの大水が私を覆いま した。しかし、その時、聖霊様は優しく私に囁きました。「諦めず、信仰を堅く保ちなさい。私が全てを統べ治めている。自分を堅く保ちなさい」。私はその時 私に流れた平安の大波を決して忘れる事が出来ません。その日が過ぎる前に、私の心は「私はあなたを信頼し、疑わなかった」ことに気づき、喜びに満たされま した。

2009年9月16日水曜日

自分を許すことを学ぶ

私にとって許しにおいて最も難しい事でした。クリスチャンとして私達はこの世へ主の恵みのことを語ります。しかし、私達自身にはその恵みの豊かさに預かろうとしません。

ダ ビデが不倫を隠すためにその相手の夫を殺しました。彼の罪が明らかになった時、ダビデは悔い改め、主は預言者ナダンを送りダビデに言いました。「あなたの 罪は許されました」。しかし、ダビデ自身が罪が許されたのを知っていても彼は喜びを失いました。彼は祈ります。「わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなた が砕いた骨を喜ばせてください。…あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。」(詩編51:8,12)

何 故、ダビデはそんなに落ち込んでいたのでしょうか。主は彼を許しまして、神の許しの約束を頂き平安を得たと思います。しかし、あなたの罪が神の本から消さ れたにも、あなたの記憶からはそれは消されるとは限りません。ダビデは自分の罪を知っていて、良心の呵責を止めたいのでこの詩編を書きました。ダビデは自 分を許せませんでした。それで、彼は許さない心-自分に向けた許さないを持っていたので、その弊害も同じように被ることになったのです。喜びを失う弊害で す。主の喜びは神の許しを全く受ける事から実を結ぶのです

私はハドソン・テイラーの伝記に大いに感銘を受けました。テイラーは歴史上最も効果的な宣教師の一人でした。中国の内陸で幾つかの教会を立てた祈りの人、神の人でした。彼は何年間を喜びなしで働きをなして、自分の不信仰の密かな思いに絶望して、苦しんでいました。

1869 年、テイラーは考えられない変化を体験しました。テイラーはキリストが全て必要とするものは用意しているが、彼の嘆きや懺悔がその用意された祝福を齎さな い事を見ました。テイラーはキリストの満たしを受ける唯一の道は信仰のみであると気づきました。神が人にした全ての約束は信仰を必要とします。ですからテ イラーは信仰を増そうと思いましたが、その努力も空しいものでした。終に、暗闇の中で聖霊様は彼に啓示を与えられました。それは信仰は努力する事から来る のではなく、神の約束に休まる事から来ることでした。それがキリストの祝福を受ける秘訣でした。

テイラーは、キリストが既に海に投げ込んだと言われている罪について、自分も許しましました。彼は、神の約束にあって平安を得て、自分の重荷を主に委ね続け喜びのある僕となりました。

2009年9月15日火曜日

嫉みや嫉妬の種

私達は全て嫉みや嫉妬の種を内に持っています。問題はそれを認める人がいるかです。

清教徒の牧師トーマス・マントンと言う人は嫉妬と嫉みについての人の性質をこう言っています。「私達はアダムの罪に生まれている。私達が母の乳房を含むときからそれを飲んでいる」。それは私達の深い一部です。

その罪の種は私達が他の働きの祝福と達成した事を素直に喜べないようにしています。その結果、私達は兄弟姉妹達と私達の開いたに大きな壁を建ててしまいますs。「憤りはむごく、怒りははげしい、しかしねたみの前には、だれが立ちえよう」。(箴言27:4)

ヤゴボ長老はこう言っています。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない」。ヤゴボ3:14

平たく言うと、ねたみと嫉妬の罪は苦い毒であるといっているのです。もし、私たちがそれを手放さないなら、それは私達の霊的権威を損なうだけではなく、悪魔の計略に身を任せることになるのです。

サ ウル王は聖書で言っていることの明らかな例です。第一サムエルの18章でダビデがペリシテ人を討ち負かし回旋する場面が出できます。そこではダビデとサウ ル王は一緒に馬に乗って入城しましたが、イスラエルの乙女達が出てきてダビデの勝利を祝い歌いました。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討つ」。

サウルはこの喜ばしき祝い歌に傷つけられ、考えました。「ダビデには万と言い、わたしには千と言う。この上、彼に与えるものは、国のほかないではないか」。(第1サムエル18:7)

直 ちに、サウルは嫉みと嫉妬の霊に捕らえれれます。次の節でサウルにどんなことがおきたかが記されています。「サウルは、この日からのちダビデをうかがっ た」。そして悲劇的にもその後「 サウルは、ますますダビデを恐れた。こうしてサウルは絶えずダビデに敵した」。となりました。

サ ウルはねたみに囚われていました。彼は主の前にて悔い改めるほど謙ることも出来ませんでした。もし彼が自分のねたみを認め、それを採ったのなら神はその油 注がれた僕に光栄を与えたでしょう。しかし、差うろは自分を末席に置くことは出来ませんでした。その代わり、彼は自分の妬む霊を最も高いところに置きまし た。次におきたことはまったく畏れるべきことです。「 主がサウルを離れて、ダビデと共におられたので、サウルはダビデを恐れた」。(18:10-12)

2009年9月14日月曜日

互いを忍び合う

「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい」。(コロサイ3:13)

忍びあい、許すことは違うことです。忍び合うとはやり返す考えや行動をまったく止めることを意味します。言い換えれば、自分でやり返すことをせずに、傷つけられることを耐え、そのことを委ねきることです。

忍 び合うのは新約聖書だけにある考えではありません。箴言にも記されています。「『彼がわたしにしたように、わたしも彼にしよう、わたしは人がしたところに したがって、その人に報いよう』と言ってはならない。」。(箴言24:29) 私達はダビデの人生でそんなことに如何に対処するかのよき例を与えられてい ます。彼は邪まなナバルという人に憤慨していました。ナバルがダビデが助けて欲しい時、助けを拒んだからでした。ダビデは復讐を誓いましたが、神の導きに 従いました。「自分で復讐してはなりません。あなたの戦いを主が戦われます」。状況は時にあたって変わり、ダビデは神が介入されたことを賛美しまし た。(第一サムエル25章の話を参照)

ダビデは彼を追いかけるサウルにやり返す機会を、ダビデが隠れている洞窟でサウルがて いる時に与えられました。ダビデの僕たちが言いました。「これこそ神の導きである。神がサウルをあなたの手に渡された。今殺して、自分で復讐しなさい」。 ダビデは耐えました。殺す代わりに服の端を切って、彼がサウルを殺す事が出来たことの証明としました。そんな賢い行動が私達の敵を辱める神の方法であり、 当にダビデがサウルに服の端を見せた時、そのことが行われたのです。サウルは答えてこう言いました。「あなたはわたしよりも正しい。わたしがあなたに悪を 報いたのに、あなたはわたしに善を報いる」。(Iサムエル24:17)

私達が人を許すことについては主が言われた二つの命令を含めています。1.敵を愛し 2.彼らのために祈りなさい。「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」。(マタイ5:44)

ある牧師先生が賢いことをいいました。「もし、あなたが敵のために祈るなら、あなたは何でも出来ます」。私自身の歩みでもこの真理がいえます。

イ エス様は許すことが易しいとは言ってはいません。主が「敵を愛しなさい」と言ったことを記したギリシャ語は「愛」と言っても好意とかの意味してるのではな く、「道徳的理解」を意味しています。簡単に言うと許すとは「人の感情に促され」するのではなく、私達の心から自分の憎しみを取り除く道徳的な選択をする ことなのです。

2009年9月11日金曜日

愛は家族から

イエス様はヨハネの福音書15:6で私の妻や夫、子供たちをどの様に扱うかを示されました。独身の人達にはそれはルームメート、信仰の友、自分に近い人達をどの様に扱うかでしょう。

そ れには多くに説明は要りません。もし、私が神が示されたような夫となるなら、私の妻は天地を前に、世界を前に「私の夫はキリストの愛で私を愛しています。 彼には間違いも犯しますが、彼は辛抱強くなり、私を理解しようとしています。彼は益々愛しく、親切になっています。私と一緒に祈ります。それはうそではあ りません。彼は自分で言っているように行動します。」

も しこれが自分の妻の証ではないなら、もし彼女が自分の心に痛みがあって「私の夫は神の人といっているが、それは嘘である。」と言うならば、私の人生の全て は空しいものです。私の働き-説教、功績、献金、寄付、働きの為の旅-は何の価値もありません。私はキリストに似ると言う実を結ばない役に立たない、枯れ てしまう枝です。イエス様は周りの人に私が死んでいることを示され、私は御国で取るに足りない者となるでしょう。

あ る中年の牧師ご夫妻が相談に来ました。その牧師先生は泣いていました。「デビット、私は神と私の妻に罪を犯しました。私は不倫をしました」。彼は罪を懺悔 し、神にあってその罪を悔いていました。奥様はその時、言いました。「私は彼を許します。彼の悔い改めは本物で、神が私達を回復する事を信じます。」

私はそのすばらしい癒しを拝見できる特権に預かりました。私達は過去の失敗をやり直すことは出来ません。しかし、誠の悔い改めがあるなら、神は虫食って駄目になったものを回復すると約束しているのです。

私 は全ての夫婦がキリストにある夫婦生活を楽しみ、証できるよう願っています。「容易いことではありません。」結婚はクリスチャンの歩みがそうであるよう に、日々の努力です。十字架の道のように、自分の権利を日々放棄する事です。勿論、サタンはあなたの心がキリストに似ようと決めている事を知っていて、あ なたを次から次へと苦しめます。

夫婦生活のように難しく、激しいものはありません。そのことには卒業というものはありません。神は私達に明らかにしています。自分の愛する人達と一緒の人生が私達の試しの中心にあるのです。もし、私達がそこで間違うのなら、私達の歩み全てに間違うのでしょう。

2009年9月10日木曜日

他の人を愛する

キ リストに似る者となるには人々の内にキリストがおられることを認めなければなりません。旅をするとき私は全てを捧げて尊い男女を度々会っています。彼らに 出会う時に私の心は躍ります。私達が今まであったこともないのに、彼らがキリストに満たされていると聖霊様が証します。

あ る人達、牧師、監督、貧しい路傍伝道者の人達はいまだに交わり続けています。彼らにあった瞬間、何も言わずとも、「この人はイエス様とともにいる。この方 はキリストにあって満たされている」ことを知ります。 彼らに挨拶するとき、私は私に言われてほしいと思っている言葉「兄弟、姉妹よ。あなたのうちにイエス様がおられるのが見えます」。

キ リストに似る者となるのは自分の家族以外、キリストが私達を愛した様に他の人を愛し、どのように扱うかによります。これは私達の敵-私達を憎み、私達を利 用する、私達を愛しない人達を愛することを意味します。そして、その業を報いを期待せずにしなければなりません。この様に愛することは人には不可能です。 それにはキリストが私達を愛したように敵を愛するマニュアル本もないし、方程式も、よい知恵もありません。しかし、私達はそうするように主に命令されてま す。私達は常にそうすることに勤めなければなりません。

で は私達はどうすべきでしょうか。教会の近くで私の顔に唾掛けするイスラム教徒やインターネットで私を詐欺だと非難する人達、5番街のパレードで「イエスは 同性愛者である」とプラカードをもって行進する人達をどう愛することが出来ましょうか。キリストにあって彼らを真に愛することが出来るのでしょうか。私は 自分の力では他のクリスチャンを愛する術さえ知りません。


そ れは聖霊の業です。イエス様は御父に祈りました。「それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるため であります」。(ヨハネ17:26)キリストは御父にご自身の愛を私達のうちに入れるように願いました。そして、イエス様は聖霊がその愛を私達が生きるべ く示されると約束しました。


聖 霊様は忠実にキリストが人を愛した全ての道を調べ、あなたに見せて下さいます。(ヨハネ16:15)まことに御霊はイエスを私達にもっと示されたいと願っ ておられます。それが私達の肉なる宮に住まわれる理由:キリストを私達に教えることです。「あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと 共におり、またあなたがたのうちにいるからである。…聖霊は、あなたがたにすべてのことを教えます」。(ヨハネ14:17、26)

2009年9月9日水曜日

神だけが知られる道

「(正 しい・義人の)人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。」(詩編37:23)。ここで「定められる」と訳されているヘブライ語は「前 もって決められている、計画されている」との意味を含んでいます。神は日々の計画を日ごとに定めるのでもなく、また週毎、年毎に計画を立てているのではあ りません。否、神は信じる者悉く一生の計画を持っておられます。私達が救われた瞬間、その計画は実行に移されます。

で はこの「定められた」道とは何でしょう。イエス様は短く、はっきりと示されました。「わたしは道である」(ヨハネ14:6)。キリスト自身が栄光と永遠の 命への道です。私達の終に行く所にっキリストが導きます。私達の歩みは天にて、御手の中で終わるのです。へブル人への手紙2:10はイエス様が「多くの子 らを栄光に導く」と記しています。

し かし私達はイエス様がどの様な道筋によって導くかを知りません。私達の誰も私達の後の旅路がどのようなものとなるがは知りません。その道は神のみぞ知って おられます。私自身の例をとりましょう。私は70余年間栄光への歩みを続けて来ました。道すがら、神は時には目標を与え、夢を与え、幻を与えて、私はそれ を追い求めました。しかし、主は決して私に全ての道筋を知らされませんでした。現に私はこれまで、明日どのような道を歩むかもわかりませんでした。

ヤ コブが老いて、バローにこう自分の人生を表しています。「わたしの旅路のとしつきは、百三十年です。わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたし の先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません」。ここで「ふしあわせ」と訳されているヘブライ語は「災難、試み、悲しみ、問題、逆境」を意味します。

ヤ コブの心を私はわかります。私の旅路のある日々は繰り返すなど考えたくありません。勿論、私は神がなさった全ての祝福と奇跡を褒め称えます。そして、これ まで神が私のうちに立てられた信仰に感謝しています。しかし、わたしがそれをもう一度生きるなら、全てがよい結果を齎すように前もって知ろうとするでしょ う。これは神が働く方法ではないのです。全ての信じる者の道は信仰によって定められるのです。

2009年9月8日火曜日

注ぎ出しなさい。

次の言葉は祈りに答えが必要な方たちに向けてです。彼らは試みにあって助けが必要で、神の言葉によって神の心を動かすことに備え、そうする用意がある人達です。

先 ず、最初に詩編の46編1節で神が誓われた約束を覚えてください。「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」。ここで「いと近 き」助けと記されて今すけと、それは「身近で、いつも使える」との意味です。信仰は神の御霊があなたの内に昼夜、いつもあなたと繋がっている確信に基づか なければなりません。御霊があなたの内に住まわれている為に、御霊はあなたの祈りの思いや叫びを全て聞いておられます。私達は御霊様が私達に聞いておられ るなら、そのことは答えられます。聖霊は「御父」の臨在にあって、時間を割き、交わり自分の心を注ぎだす神の子の為に、天地を動かします。

次 に詩編の62編5-7節を読んで、それを信じてください。これは神の御心に触れたダビデの祈りです。ダビデは「神のみを待ち望み、ほかの何の助けも期待し ないで下さい。神さまだけをより頼んでください。神こそがあなたの希望、守りです。神だけが答えた来るまであなたを保つ力を与えたれます。」と言っていま す。

主にのみぞ頼るなら、人を頼むことを止み、神が不思議に働かれることを信じるなら、何事をあなたを揺るがすことが出来ないでしょう。何事もあなたを絶望のどん底に陥れることはないでしょう。ダビデは宣言しています。「私は動かされることはない」。(詩編62:6)

次 のことが最も重要な、今までの全ての聖徒が学んだ勝利する祈りの奥義です。「主の御前に心を注ぎ出す」ことです。「民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そ のみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である」。神はあなたが全ての雑音を締め出し、自分の心を神に叫び、御前に注ぎ、神が答えると信じ るならば神はあなたに聞き、答えられるでしょう。

2009年9月7日月曜日

賢い乙女のように

「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった」。(マタイ25:1-2)

もしあなたが自分に正直であるなら、この言葉に納得せざるを得ないでしょう。「そうです。この話は私のことです。私は怠惰になっています。愚かな乙女たちのように迷い出したくありません。私は主の日に備えたいと思います」。

もし、あなたが賢い乙女となりたいのなら、二つのことをしなければなりません。複雑なことではありませんが、欠けることはできません。

1.キリストをあなたの考えの中心に立てなさい。主があなたのすべてとならしめなさい。朝起きたら、御名を唱えなさい。世に床に就くとき、キリストを跪き呼びなさい。

「最 後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳とい われるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」。(ピリピ4:8)この御言葉が一日中あなたの素直な祈りの基本とさせてくださ い。「イエス様、あなたは真実、誠、義、純潔、いとおしい方です。あなたこそ私の福音です。」

パウロは書いています。「 主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである」。(1コリント3:20)神はあなたのすべての考えを知っておられます。あなたが神を考える毎にそれを知っておられます。ですからあなたのすべての考えをもって感謝を捧げて下さい。

2. いつもこう祈ってください。「主よ、罪人である私を哀れんでください。」
こ の簡単な祈りがあなたの灯火の油となります。これを毎日祈ることによってあなたが主に会える用意ができるのです。あなたは神に「父よ、私はあなたの名を呼 ぶに相応しくないものです。私を哀れんでください。私は自分で考えていた程、正しい人ではありません。私は自分が善人であると思いましたが、この自分の 薄っぺらな善は何の役にも立ちませんでした。ただ、それはあなたの目に薄汚れた汚いものに過ぎませんでした。自分の良き業によっては私は救われないでしょ う。恵みが必要です。主の前に謙ります。罪人の私を哀れんで下さい。」

2009年9月4日金曜日

末席に座る

ルカの福音書の14章ではイエス様があるパリサイ人のリーダの人に食事を招待されている場面が記されています。他のパリサイ人も招待されておりました。勿論、彼等は、もてなす主人のように律法を厳しく守る者達でした。

招待した主人がお客達に着席を呼びかけますと、そこには突然上席を目掛ける競りがありました。聖書はイエス様がこれを見て「客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子」をごらんになったと述べています。これは厚かましい自己顕示欲、見られ認められたい必要の限りでした。

イ エス様が席にお掛けになって食事を始めた時、その部屋にいるイスラエルの指導者と言う人達に戒めの言葉を与えました。「婚宴に招かれたときには、上座につ くな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。 その場合、あなたとその人とを招いた者がて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろ う」。

むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。

おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう
」。(ルカ14:8-11 斜体に注意)
このキリストの言葉はキリストに従う者全てに当て嵌まります。そのパリサイ人の家で人達に話しつつも、キリストはここであるタイプのリーダ「彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、
…見えのために長い祈をする」(ルカ20:46-47)人達を指しています。

イエス様は人々に見られたいが為に働く人々がいると言っています。この人達はスポットライトを好み、常に自分達の事でラッパを吹かなければなりません。この言葉は牧師いや全ての神の子らに宛てる言葉です。

イ エス様は言っています。「末席に座りなさい」。これは何を意味しているのでしょうか。主からのこの言葉を真剣に考えて下さい。主は私達全てをもっと栄耀あ る「上席」に招きたい思っています。この「上席への招き」は神の完全な触れの満たしに入る事への召しです。それは豊かな、深き交わりである召しであると共 に、主へのより輝く、確実な、義成る託宣とならしめる事への招きなのです。

2009年9月3日木曜日

「賞賛された」

「昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された」。(ヘブル11:2)

ギリシャ語の原典では「賞賛された」は「証明する、証となる」の意味があります。主にあって私達の先輩達は動じる事のない、揺るがない、地に付いた信仰を持って、試みの時に神の忠実さへの証となったということです。

第 一に彼等は神が彼らを喜んでおられた事を内からの証としてもっていました。彼等は神を大水、嘲り、鎖、投獄、拷問、戦争、獅子の穴、大火事などにあって信 頼しました。そして、主が彼らに微笑んでおられる、「よくやった。あなた方は我を信じた」と言っておられ喜びを知っていました。

「信 仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだから である」。(ヘブル11:6)私達が試みの時に信仰に立つなら、私達は聖霊様から「よくやった。あなたこそ神の証である」という同じ確信が与えられます。
嵐 の狭間で休みを得る時、キリストに重荷を委ねて、信仰に立つなら、私は「賞賛される」事(証)となるのです。私は私の周りに希望の目印となるのです。家 で、職場で、近所で私を見てる者達が大っぴらには言わないでしょうが、彼等は希望と救いが彼らにも与えられている事を知るでしょう。彼等は私の試みの時に 私を見て「まだ希望がある。神に希望を失っていない人がいる。また、神を信頼し、戦い続けている」と言うでしょう。

災害が増え、この世が大恐慌に陥っても、信仰者の態度は揺るぎない信仰の証のみです。私達は内に聖霊に繋がっており、御言葉、完全に啓示された神の言葉を持っているからです。私達は私達の肉を誇れませんが、神の言葉により頼めるのです。

何 時しか、私は「私は心を落ち着かせ、恐れない。私は私の肉か言う疑いや恐れに耳を傾けない。ゆれる事もなく、振り返りもしない。拗ねたり、怖気づいたり、 自己憐憫に更けたりしない」と心に決めて、心に武装をして戦いました。しかし、しばしば不信仰が私の勝利を奪っていきました。

私は「信仰に立つ」事を多く未だ学ばなければなりません。しかし、同時に私が主に全く信頼した時、私がキリストに私の全ての重荷を能動的に委ね、安息に入た時に体験する勝利も味わう事もできたのです。

2009年9月2日水曜日

罪人の友

ルカの福 音書7章でイエス様をもてなすべく自分の家に招いたシモンというパリサイ人の話があります。何故、パリサイ人がイエス様を宴会に招き、その上、ユダヤ教の 掟に厳し他の人達と食事をするようになったかは分かりません。多分、シモンとその仲間達はイエス様が預言者でない事を暴こうとしたのではないでしょうか。 話し筋に拠るとシモンはイエス様が預言者と言われていることを知っていたようです。(ルカ7:39)

聖 書はこの人達が食卓を交えてどんな話をしたかは明らかにしていませんが、神学と考えて間違い有りません。パリサイ人は神学が専門で、他の箇所でも神学の難 題を掛けて、困らせようとしました。しかし、キリストはこの人達の心を知っておられ、その事を明らかにしました。次の場面には「その町で罪の女」がそこに 現れました。聖書は「女の方に振り向いて」(ルカ7:44)と記しています。イエス様がそこで私達に何が私達の焦点となるべきかを示されました。それは宗 教の仕来りでもなく、偽りの教師でもなく、罪人である事を示されました。

シ モンやそのお客達から目を離し、イエス様は女の人に向けて言いました。「その多くの罪はゆるされているから、女は多く愛したのである。少しだけゆるされた 者は、少しだけしか愛さない…あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(7:47,50)イエス様はここで何故御自分が来られたかを明 らかにしました。落ちぶれ、一人ぼっちで、罪に溺れ掛けている人達の友となり、彼らを助ける為に来られました。そして今日も私達にイエス様は仰っておられ ます。「これがわたしの働きの全てである」と。

同 じように使徒パウロも私達の焦点がこうあるべきと述べています。私達は落ちた人を裁くのではなく、彼らを助ける事を求め、彼らの重荷を取除くようにするべ きです。事実、使徒パウロはこの事-落ちた人を助け救う事-を真の霊性の基準と示しています。「もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の 人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい」。(ガ ラテヤ6:1)そしてパウロは直ちにキリストの方法について薫陶しています。「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全う するであろう」。(6:2)キリストの律法とは何でしょう。愛ではないでしょうか。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさ い。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」。(ヨハネ13:34)と主は仰っています。

2009年9月1日火曜日

神の不思議な御業を信じつつ

自 分で何故、如何に傷つけられたか、どう防ごうかと考えるのは辞めなさい。それはあなたにだけ有る問題ではありません。あなたが正しいかどうかは最早全く意 味のない事です。今重要なのは神にあってあなたが御旨に従って働く意思があるか否か、そしてあなたの人生に働く神の不思議な御業を信頼するか、どうかで す。

「… あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである」。(1ペテロ 4:12-13)
お そらくあなたはこの時点で自分がなすべきことはしたと思います。あなたは神の御旨にあって自分の良心に正直に従い、行動し、自分を委ねる用意があったで しょう。そして愛があなたの動機であったでしょう。あなたは相手の仕打ちにも関わらず神の御旨を行いました。そうでなかったら、あなたは傷つけられる側に は立たなかったでしょう。あなたが傷つけられたのはあなたが正直であろうとしたからでしょう。

あ なたは、神が全てを導いたのに何故こんな結果となったかが信じられないでしょう。あなたは心で「何故、神はこれがうまくいかない事を知りつつ、こんな状況 に陥らせたのか」と問うのではありませんか。イスカリオテ・ユダは神の人になるべく主に召された人です。彼は救い主自ら選んだ人であり、神に用いられまし た。しかし、ユダは神の御計画を拒み、イエス様を悲しめる事になります。神の御計画と始められたものが、ユダが自分が判断して、選んだ為に悲劇に終わりま した。

自 分が何を間違えたかとは考えてはなりません。じぶ責めるのはやめなさい。過ちが何処にあったかなど考えるのは辞めなさい。今、あなたが何を考えているかが 神様にとって重要なのです。あなたは間違ってはいません。否、あなたは与えすぎたのです。パウロのように、自分に言うべきです。「わたしがあなたがたを愛 すれば愛するほど、あなたがたからますます愛されなくなるのであろうか」。(2コリント12:15)