2009年9月2日水曜日

罪人の友

ルカの福 音書7章でイエス様をもてなすべく自分の家に招いたシモンというパリサイ人の話があります。何故、パリサイ人がイエス様を宴会に招き、その上、ユダヤ教の 掟に厳し他の人達と食事をするようになったかは分かりません。多分、シモンとその仲間達はイエス様が預言者でない事を暴こうとしたのではないでしょうか。 話し筋に拠るとシモンはイエス様が預言者と言われていることを知っていたようです。(ルカ7:39)

聖 書はこの人達が食卓を交えてどんな話をしたかは明らかにしていませんが、神学と考えて間違い有りません。パリサイ人は神学が専門で、他の箇所でも神学の難 題を掛けて、困らせようとしました。しかし、キリストはこの人達の心を知っておられ、その事を明らかにしました。次の場面には「その町で罪の女」がそこに 現れました。聖書は「女の方に振り向いて」(ルカ7:44)と記しています。イエス様がそこで私達に何が私達の焦点となるべきかを示されました。それは宗 教の仕来りでもなく、偽りの教師でもなく、罪人である事を示されました。

シ モンやそのお客達から目を離し、イエス様は女の人に向けて言いました。「その多くの罪はゆるされているから、女は多く愛したのである。少しだけゆるされた 者は、少しだけしか愛さない…あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(7:47,50)イエス様はここで何故御自分が来られたかを明 らかにしました。落ちぶれ、一人ぼっちで、罪に溺れ掛けている人達の友となり、彼らを助ける為に来られました。そして今日も私達にイエス様は仰っておられ ます。「これがわたしの働きの全てである」と。

同 じように使徒パウロも私達の焦点がこうあるべきと述べています。私達は落ちた人を裁くのではなく、彼らを助ける事を求め、彼らの重荷を取除くようにするべ きです。事実、使徒パウロはこの事-落ちた人を助け救う事-を真の霊性の基準と示しています。「もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の 人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい」。(ガ ラテヤ6:1)そしてパウロは直ちにキリストの方法について薫陶しています。「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全う するであろう」。(6:2)キリストの律法とは何でしょう。愛ではないでしょうか。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさ い。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」。(ヨハネ13:34)と主は仰っています。