2008年6月30日月曜日

主にあって喜びなさい

私たちの平安と満足感は、どんな状況にあったとしても、常に神様の御手にすべてを委ねることにかかっています。詩編の作者はこう記しています。「主に自らをゆだねよ、主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩編37:4)

もしあなたが神様の御手にあなた自身を完全に委ねるなら、すべてのいかなる困難をも耐え忍ぶことが出来ます。あなたのお父様は、あなたがすべてを神様の御手に委ね、日常生活を恐れや不安なしに送ることを望んでおられます。そしてあなたの神様に対する信頼は、あなたの人生において、目に見える効果をもたらします。神様にすべてを委ねれば委ねるほど、あなたはあなたを取り巻く環境が気にならなくなるでしょう。

もしあなたが神様に委ねているなら、いつも次の行動を計画しようと躍起になることはありません。あなたの近くで起こっている恐ろしいニュースを聞いても、不安に駆られることはないでしょう。あなたの人生も家族も将来も、そのすべてが主の愛と安心に満ちた御手にあることを信じるなら、将来の日々に押し潰されることもありません。

羊飼いの後をついて行く羊たちが、どれ程心配と不安に満ちていると思いますか。ゼロです。羊飼いの導きに完全に委ねきっているからです。同様に、キリストは私たちの素晴らしい羊飼いで、私たちはその羊です。だとすれば、なぜ私たちは人生や将来のことを恐れたり、それに心を乱したり、心配したりする必要があるでしょうか。私たちの羊飼いは、愛によって導いて下さるので、どうやって私たちを守り、その群れを保護すればよいか、完全に御存知なのです。

私は人生を通して、問題が起こる度に、どうやって神様を信頼すればよいかを学ばされました。考えてみて下さい。もし私がある一つのことを神様に委ねられていないなら、どうして神様にすべてを委ねていると言うことが出来るでしょうか。ただ「私は主に完全なる信頼をおいている」という言葉を発するだけでは、十分ではありません。私は何度も何度も、私の人生におけるたくさんの分野で、また日常茶飯事において、これを確かなものにしなければいけませんでした。

多くの人々は、他に抜け道が全くなくなってしまった時になって初めて、「私は任せている、委ねている、信じている」と言います。しかし本当の委ね、神様が喜ばれる委ねとは、どうしようもなくなるその前に、自ら喜んで委ねることです。私たちは、アブラハムが神様に人生のすべてを委ね、神様がそのすべてを満たされるままに進んだ様に、主の御心に適うことを行うべきです。

2008年6月27日金曜日

荒廃した時代の祈り

今日のような危険な時代、教会は無力で何も出来ないでいるのでしょうか。私たちはただ大人しく、キリストの再臨を待つべきなのでしょうか。それとも、私たちは何か思い切った行動を起こすべきでしょうか。私たちを取り囲む世界が震えおののき、人々の心が恐れに負けてしまう時、私たちは霊の武器を手に取り、敵と戦うために召されているのでしょうか。

預言者ヨエルは、イスラエルに同じ様な時代が迫っているのを見ました。それは“濃い暗闇と陰鬱”と表現された時代の一つです。ヨエルによると、イスラエルに迫る暗闇の日は、歴史上でかつてなかった程のものだったそうです。「ああ、恐るべき日よ、主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る。」(ヨエル1:15)

この様な暗い時代に、ヨエルがイスラエルに語った助言とは何だったでしょうか。彼はこの様な言葉を伝えました。「主は言われる。『今こそ、心からわたしに立ち帰れ。断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。』あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ。あるいは、主が思い直され、その後に祝福を残し、あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を、残してくださるかもしれない。」(ヨエル2:12~14)

この聖句を読むと、私はある言葉に心打たれます。それは“今でもなお”という言葉です。ひどい闇がイスラエルを覆う中、神様は民にこう訴えかけられました、「今でもなお、わたしの報復の時でさえ―あなたたちの社会からわたしを追い出し、憐れみなど存在しないと思える時、人類がわたしの警告をあざ笑う時、恐れと闇が地を覆う時―そんな今でもなお、あなたがたがわたしに立ち帰るよう訴えかけよう。わたしは怒るのに遅く、ヨシヤにした如く、裁きを遅らせることで知られているからだ。わたしの民はわたしに向かって祈り、憐れみを請うことが出来る。しかしあなたがたが『憐れみなどない』と言うならば、世界は決して悔い改めないだろう。」

ここに込められた、私たちへの神様のメッセージを読み取ることが出来ますか。神の民として、私たちは祈りよって神様に嘆願することが出来ます。そしてそれを神様は聞き届けて下さいます。私たちは神様に向かって要請を立てることが出来、神様は聖徒の心からの有益な祈りに、必ず答えて下さることを知っています。

2008年6月26日木曜日

恐れと畏れ

預言者たちは、神様が国々を揺れ動かし、危険が私たちに降りかかるのを見る時、私たちの人間的な部分は非常に恐れるでしょう。エゼキエルは、こう尋ねています。「わたしが裁きを行う日に、お前の心は耐えられようか。お前の手の力はうせないだろうか。主であるわたしが、これを語りこれを行う。」(エゼキエル22:14)

神様がノアに来るべき裁きを通告し、箱舟を建てるよう言われた時、ノアは「恐れかしこみました。」(ヘブル人への手紙11:7)大胆で勇ましいダビデでさえ、「あなたを恐れてわたしの身はすくみます。あなたの裁きを畏れ敬います。」と言いました。(詩編119:120)預言者ハバククが悲惨な未来を見た時、彼はこう叫びました。「それを聞いて、わたしの内臓は震え、その響きに、唇はわなないた。腐敗はわたしの骨に及び、わたしの立っているところは揺れ動いた。わたしは静かに待つ、我々に攻めかかる民に、苦しみの日が臨むのを。」(ハバクク3:16)

これらの聖句を読む時、どうか注意して下さい。これらの神の人々に押し寄せた恐れは、肉の恐れではなく、主への尊敬の念を表す畏れだったのです。彼らは、その魂の敵を恐れていたのではなく、神様の義なる裁きを畏れていました。そしてそれは、彼らが待ち受ける惨事の裏に、神様の素晴らしい力があることを知っていたからなのです。彼らは嵐が引き起こす惨事を恐れていたのではなく、神様の聖さを畏れていたのです。

同様に、私たちもそれぞれ破壊や災難が訪れる時に、どうしようもない程の恐れを体験するでしょう。しかし、私たちの恐れは主の聖さに対する畏れから来るべきで、私たちの運命に対する肉的な不安からくるべきではありません。神様は、私たちの内にある、所有物や、財産や、基本的な生活を失うことに対する恐れを罪とされ、それを嫌っておられます。

世界中で、国々の経済が悪化するのを見て、人々はこの種の恐れに満ちています。彼らは一生をかけて築き上げたものが、経済の波にすべてさらわれていってしまうのを恐れているのです。それは、希望が何もない、未信者の叫びです。神にある人の叫びであってはなりません。事実、もしあなたが神の子であるならば、天のお父様はあなたの内にある、その様な不信仰をお許しになられません。イザヤは「なぜ、あなたは恐れるのか、死ぬべき人、草にも等しい人の子を。なぜ、あなたは自分の造り主を忘れ、(中略)苦痛を与える者の怒りを、常に恐れてやまないのか。」と警告しました。(イザヤ51:12~13)「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。」(イザヤ8:13)

神様があなたの畏れでありますように。その様な畏れは死ではなく、命に導きます!

2008年6月25日水曜日

必要を覚える時

御言葉の中でも、最も力強い約束の一つである、次の聖句を考えてみてください。

「神はわたしの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。大河とその流れは、神の都に喜びを与える、いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔・・・地の果てまで、戦いを断たれる。」(詩編46:1~7、 9)

なんと素晴らしい言葉でしょうか。私はこの箇所を、何度も何度も読んでいますが、未だに圧倒させられます。私たちに対するここでの神様の御言葉は、非常に力強く、揺るぎなく、神様は私たちに、「もう二度と恐れることはない。たとえ全世界が混乱にあったとしても関係ない。地は振るえ、海は荒れ、山々は海に砕け入るかも知れない。すべてのものは完全に混沌とし、大混乱があなたの四方を囲むかも知れない。」

「しかしわたしの御言葉ゆえ、あなたは川の流れの様な平安を受けるであろう。国々が荒れ狂う中、力強い喜びの流れが、わたしの民の中を流れる。それはあなたがたの心を、喜びで満たすであろう。」

たった今、全世界は恐ろしい時にあります。国々はテロに怯え、その脅威から免れる地域はありません。人間関係の問題や苦しみは山と積まれていくばかりです。しかし、そのただ中で、詩編46篇は世界中の神の民に響きます、「わたしはあなたがたのただ中にいる。わたしはこのすべての中で、あなたがたと共にいる。わたしの民は滅びたり、揺れ動いたりしない。わたしは教会に対して、常に必ずある助けとなろう。」

神様は、私たちがそれぞれ重大な必要に直面することを御存知です。私たちは皆、混乱、誘惑、困惑し魂が揺れるのを覚える時を経験します。詩編46篇での神様のメッセージは、その様な時にこそあるのです。神様は、もし私たちが恐れに屈してしまい、意気消沈し絶望に満ちてしまうなら、私たちは私たちの人生における神様の現実とは全く正反対の生き方をしていることになるのだ、と言っておられます。

神様が私たちにこの詩編を通して語っておられることを理解することは、非常に大切なことです。私たちの神様は、昼でも夜でも、いつだって側にいて下さいます。神様は、私たちに語りかけ、また私たちを導かれようと、常に私たちの右側にいて下さいます。そしてこれを可能にするため、神様は私たちに聖霊を授け、私たちの内に留まるようにして下さいました。聖書は、キリスト御自身が私たちの内におられ、また私たちがキリストの内にある、と語っています。

2008年6月24日火曜日

キリストの体

使徒パウロは、私たちにこう教えています、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(第一コリント12:27)さらに具体的に、彼はこう記しています、「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」(12:12)

パウロが言っているのは、「自分の体を見てごらんなさい。手があり、足があり、目があり、耳があるでしょう。あなたは脳だけが、その他の器官から独立して存在するものではありません。キリストの場合もそれと同じなのです。彼はただの頭ではありません。彼には体があり、その体はすべての部分によって成り立っているのです。」

そして使徒はこう指摘します、「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形作っており、各自は互いに部分なのです。」(ローマ人への手紙12:5)言い換えると、私たちは単に頭であるキリストにつながっているのではありません。私たちは、お互いにもつながっているのです。事実、私たちはキリストにある兄弟・姉妹にもつながっていなければ、キリストとつながることは出来ません。

パウロは同じ点をさらに強調してこう語っています、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」(第一コリント10:16~17)簡単に言うなれば、私たちは同じ食物を与えられているということです。それは天からのマンナ、キリストです。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(ヨハネ6:33)

イエス様はよく、弟子達にたとえを用いて語られ、それらのたとえにはそれぞれ、神様の真実が隠されていました。これらの神秘は、創造の前より、御父、御子、聖霊の間で分かち合われてきたことです。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」(マタイ13:35)これらの隠された真実は、それを探し求めている者のみに明らかにされる、とイエス様は証言されました。

イエス様はこう宣言されています。「わたしが命のパンである。わたしは、天から降って来た生きたパンである。わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ6:35、51、57)ここで記されているパンのイメージは重要です。私達の主は「もしあなたがわたしの所に来るならば、あなたは養われます。あなたはわたしの体の一部としてわたしにつながります。だからあなたはわたしの内にある命の泉から力を受けるのです。」実際、キリストの体の部分はすべて、一つの源から力を得ます。それは頭である、キリストです。私たちが勝利者としての人生を歩む上で必要なものはすべて、彼から流れてくるのです。

このパンこそ、私たちが彼の体の一部であるということを識別するものです。私たちは同じ一つのパン―イエス・キリスト―を分かち合っているので、他の人々から聖別されています。「皆が一つのパンを分けて食べるからです。」(第一コリント10:17)

2008年6月23日月曜日

約束の地

私は詩編46編が、新約聖書での“約束の地”を表現していると信じます。実際、詩編46編はヘブル人への手紙で語られている神様の憩いを表しています。「それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。」(ヘブル人への手紙4:9)この詩編はここに記されている休みを、神の民に説明しているのです。それは神様の常にある強さ、困難な時にある助け、混乱する時にある平安について語っています。神様の臨在は私たちといつも共にあり、神様の助けはいつも時宜に適っています。

イスラエルはこの憩いを拒否しました。「彼らは愛すべき地を拒み、御言葉を信じなかった。」(詩編106:24)残念ながら、今日の教会もイスラエルと同じようなものです。神様の素晴らしい約束―神様の平安、助け、完全なる備えの約束―があるにも関わらず、神様を完全に信頼し切っていません。その代わりに、私たちは不満を述べます。「私が苦しんでいる時に、神様はどこにおられるのか。私と共にいて下さるのか、それともいらっしゃらないのか。神様の臨在の証拠は一体どこにあるのか。なぜ神様は、私の上にこの様な苦難が積み重なるのをお許しになっておられるのか。」と。

今日私は、主が教会にこう尋ねておられるのを聞きます。「わたしが今もわたしの民に話しかけているのを信じますか。わたしがあなたがたに、わたしの助けと導きを授けることを望んでいると信じますか。わたしが毎日、毎時間、一瞬毎にあなたがたに語り掛けたいと望んでいると、本当に信じますか。」私たちの応答は、ダビデの応答と同じ様なものであるべきです。この神の人が主に関する次の声明を述べた時、彼は地獄を揺れ動かしました。「主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。」(詩編33:9)

ここに、神様が私たちに語りかけることを望んでおられるという御言葉を信じる、すべての時代の人々に対する神様の約束があります。「主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。」(詩編33:11)全宇宙を創造された主は、その御心の一つひとつを、私たちと分かち合いたいと望んでおられるのです!

聖書はこれを明確化してくれます。私たちの神様は、過去において神の民に語られ、現在の神の民にも語りかけておられ、そして終わりの日まで、私たちに語り続けて下さるのです。さらに言うなれば、神様はあなたに、今日、あなたの抱える問題について、お語りになりたいと望んでおられるのです。神様は御言葉を通して、信仰の厚い友人を通して、または小さく静かな声で「これがあなたの行くべき道です。この道を歩みなさい。」とささやかれる御霊の声を通して、語られるかもしれません。

神様がどの様な方法を用いられるとしても、あなたは神様の御声に気付くでしょう。羊は羊飼いの声を知っているからです。そして神様は必ず「慈しみに生きる人の魂を主は守り、神に逆らう者の手から助け出してくださる」のです。(詩編97:10)

2008年6月20日金曜日

主イエス様、早く急いで来てください!

黙示録にてイエス様は、「見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は幸いである。」と宣言しておられます。(黙示録22:7)その5節後、キリストは「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。」と言っておられます。(22:12)

そしてこれが、イエス様の再臨を待ち望む人々の叫びです。「“霊“と花嫁とが言う、『来てください。』」(22:17)これはキリストの花嫁、キリストを君主とする世界中の信者のことを表しています。これらの人々は皆、新しく生まれ変わり、血潮によって清められた信者たちです。

あなたは「確かに、これが信者の心からの叫びだということは分かる。でもなぜ“霊”もイエス様に向かって『来てください』と叫ぶのだろう。」と不思議に思われるかもしれません。それはこれが、地上での働きが間も無く完了すると知っている、聖霊の最後の祈りだからです。神様によって、地上での時間に終わりが迫っていることを知らされたパウロやペテロ同様、聖霊もまた「来てください、主なるイエス様。」と叫ぶのです。

ではこの聖霊の叫びを、今日の私たちはどこで聞くでしょうか。それは天においてキリストと共に座する人達―聖霊の内に生き、歩み、その体が聖霊の宮となっている人達―を通してです。霊は彼らの内に、また彼らを通して「主よ、早く来てください。」と叫んでいるのです。

あなたが最後に「主なるイエス様、早く来て下さい。急いで来て下さい。」と祈ったのはいつのことですか。個人的に、私はこの様な祈りをしたことを覚えてさえいません。私は聖霊が自分を通してこの祈りを祈ることにより、キリストの再臨を早めることが出来るとは全く知りませんでした。しかしペテロはこの素晴らしい真実の証拠を語っています。「神の日の来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。」(第二ペテロ3:12)ギリシャ語で、「その日が来るのを早めるように」という箇所は、「速度を上げる、駆り立てる」という意味があります。ペテロは私たちが待ち望む祈りは、父なる神様に御子を再び送られることを駆り立て、それを早めさせることが出来ると言っているのです。

主の憐れみに満ちた忍耐が、再臨のタイミングを取り仕切っています。だからと言って私たちがそのタイミングに関して祈らなくても良いのでしょうか。全くそうではありません。キリスト御自身が、こう私たちに語っておられます。「それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自身のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。」(マルコ13:19~20)世界中でキリストの花嫁が目覚め、霊によって「イエス様、来てください」と祈ったら何が起こるか、想像してみてください。

2008年6月19日木曜日

生ける御言葉によって

主は力と主権とをもって、すべての被造物を統べ治めておられます。神様の掟が宇宙のすべてを支配しているのです、自然界も、国々も、人々のすべての行ないでさえ。また神様は海を、植物を、天体とそのすべての行動を治めておられます。聖書は「神はとこしえに力強く支配し、御目は国々を見渡す。」(詩編66:7)「主こそ王。威厳を衣とし、力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。御座はいにしえより固く据えられ、あなたはとこしえの昔からいます。あなたの定めは確かです、日の続く限り。」(93:1~2、 5)と語っています。

これらの詩編はダビデによって書かれました。彼が証ししていることの真髄は、「主よ、あなたを証しするもの―あなたの掟、法令、御言葉―は、取り消すことが出来ません。それらは完全に確かです。」ということです。ヘブル人への手紙の著者も、神様の生ける御言葉は永遠で変わることがないと繰り返しています。「きのうも今日も、また永遠に変わることがない。」(ヘブル人への手紙13:8)

考えてみて下さい。これらは全宇宙を、その働きのすべてを一つの例外なしに支配する掟なのです。太陽を、月を、星を、そして地球を治めている法則を思ってみて下さい。これらの天体はすべて、神様が御言葉を発せられた時に配置され、その時からずっとその御言葉によって、統べ治められているのです。

私たちは新約聖書を通して、この素晴らしい神様が私たちの父であり、このお父様はその子どもに憐れみを抱いて下さる方である、と教えられています。ヘブル書は、主が私たちの弱さに心を痛められ、私たちの叫びの一つひとつを聞き届け、涙の一粒一粒を溜めて下さっていると語っています。しかし、同時に私たちは神様が正義に満ちた王であり、彼の掟によって裁かれる方であるとも教えられています。そして神様の御言葉は、すべての法令を含む憲法のようなものであり、それによって公正な裁きをもたらします。すべての存在するものは、神様の不変の御言葉によって裁かれるのです。

簡単に言うならば、私たちが聖書を手にし、これらのことを知ることが出来るということです。「この本は神様が誰か教えてくれます。神様の性質、本質、約束、そして裁きを記しています。これこそ神様の口から出た法則で、これを持って神様は統べ治め、君臨されます。またこれらの御言葉は、神様御自身が守ると誓われた言葉です。」

地上のすべての裁判官は、定められた法律によって、神様の御前に判決を下す役目を負っています。神様は、永遠の法律、すなわち神様御自身の御言葉によって、すべてを治め裁かれるのです。
神様が判決を下される時、神様は御自身が誓約された生ける御言葉によってお語りになるのです。

2008年6月18日水曜日

大胆さ

「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブル人への手紙4:16)「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」(エピソ人への手紙3:12)これらの御言葉は、執拗な必要をもって私たちが神様に大胆に近づくことを語っており、それが神様を喜ばせることである、と記しています。

神様が、私たちに大胆かつ確信をもって御座に近づくようにと言われることは、単なる提案ではありません。それは神様が望まれることであり、私たちが心に留めるべきことなのです。では私たちが祈る上で、どこからこの大胆さや確信を持って近づくことを得られるでしょうか。

「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」(ヤコブの手紙5:16)ここで使われている“効果をもたらす”という言葉は、元々ギリシャ語の“固定した位置”という意味を持つ語源から来ています。それは、動じず、揺るぎない心情を示しています。同様に、“大きな力”は確固たる証拠に基づき、あなたの言い分を完全に証明する大胆さのことを語っています。
これら二つの言葉―効果をもたらす、大きな力―は、訴訟を起こす準備が完全に出来た状態で神様の法廷に赴くことを表しています。それは感情や、派手で見せ掛けだけの熱意を超えたものです。

この様な祈りは神様の御言葉を探り、主がそれを与えて下さるという完全なる確信がある僕からのみ聞かれることが出来ます。実際私たちの中で誰も、御言葉を携えずに神様の臨在に進み出でることがないようにすることは大切です。主は私たちとの約束を成就させ、私たちが主にその約束を思い出させ、約束を守ってもらうように訴え出て、その約束に固く立つことを望んでおられます。

このことは使徒行伝10章で、ペテロがビジョンを与えられたことによって実証されています。神様は使徒にこう言われました。「何人かの人があなたを尋ねてやって来て、彼らと共に行くようにお願いするでしょう。わたしが彼らを遣わしたのです。だからペテロ、何も疑わずに彼らと共に行きなさい。」

この箇所は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。それは、神様があることを真実であると宣言される時、私たちは現実と引き合わせることなく、それを信じ、ただそこに固く立つべきなのです。私たちの現状や価値を吟味することで、神様の御言葉がどれだけ信頼出来るかを計ることは出来ないのです。もしそうするなら、自分たちの価値のなさを思い知るだけです。そして御言葉に訴えかけることも、それを自分のものとすることも断念してしまうでしょう。

さらに、私たちには神様の恵みの御座に近づくための助けが与えられています。聖書は、私たちが御座においての原告であり、キリストが私たちの調停者または擁護人であると語っています。また、御父の法廷に立つ時、聖霊が私たちと共にいて下さいます。聖霊は私たちの“パラクリート”、すなわち、私たちの相談役を担って下さる方なのです。聖霊は私たちの側に立ち、御言葉を構成する永遠の政令と神の憲法を思い出させて下さいます。

私たちにはこの様な、素晴らしい約束―私たちの側に立っていて下さる調停人と相談役の存在―が神様の御座に近づく上で大胆さと確信を持つために与えられています。

2008年6月17日火曜日

必ずある救い

神様は私たちにこう約束されました。「あなたが苦難を覚える時、しつこくてひっきりなしに襲う悪に直面する時、わたしは必ずそこにいて、あなたの避けどころとなろう。」(詩編46:1)

この“必ずそこにいて”という言い回しは、“いつでもある、常に利用出来る、制限なくアクセス出来る”という意味があります。すなわち、永遠の神様の臨在は常に私たちの内にある、ということです。そして神様が私たちの内に臨在されるなら、神様は私たちと常に対話し続けたいと望んでいらっしゃいます。私たちがどこにいても、職場でも、家族といても、友達といても、未信者といても、神様は私たちと会話することを望んでいらっしゃいます。

私は今日、サタンが神の民の多くを突き刺している、「主は民に話しかけるのを止められた。」という偽りを拒みます。敵が私たちに信じて欲しいこと、それは、神様がサタンに力と影響力を与え、私たちにはそれに勝る権力を授けて下さらなかったということです。断じてそうではありません!聖書はこう言っています。「敵が洪水のようにやってくるとき、主の霊は彼に向かって軍旗を立てられる。」(イザヤ書59:19)悪魔が私たちに何をしようかなど、関係ありません。神の民に与えられた神様の力は、サタンの攻撃より、常に勝っているのです。

このイザヤ書の聖句は、実はイスラエル軍の先頭を行く旗手のことを指しています。主はいつもその力強い軍旗を持って、神の民を戦闘へと導きました。同じ様に、今日でも神様は、主の軍旗の下に進む栄光に満ちた天の万軍を、私たちの代わりに戦いに遣わそうといつでもご準備しておられます。

あなたは、「ではどうやって神様は私たちの苦難の時に助けを送って下さるのか。」と思っているかも知れません。神様の助けは、私たちの内に住まわれ、お父様の御心を私たちの人生において成就させようと働かれている、聖霊という神様からの贈り物としてやって来ます。パウロは何度も何度も、私たちの体が聖霊の宮であるということを教えています。私たちは、地上においての神様の住処なのです。

もちろん、私たちは賛美や証しの中で、この事実をよく繰り返します。しかし私たちの多くは、まだこの事実を本気で受け止めていません。実際、私たちはこの事実に込められた力を理解し切れていないのです。もし私たちが本当にそれを理解し、そこに信頼をおくならば、私たちはもう二度と恐れたりうろたえたりすることがないでしょう。

私もまだ完全にこの教えを摑み切れてはいません。長年に亘りミニストリーに携わっていても、未だに神様の御声を聞くためには、感情を高めなくてはいけないと思ってしまうことがあります。そうではなく、主はこう言っておられるのです。「私が来るのを何時間も待つ必要などないのですよ。わたしはあなたの内にいます。昼も夜も、あなたのためにいます。」

ダビデの証し聞いてみて下さい。「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。」(詩編16:7~8)ダビデは「神様はいつも私の前にいてくださる。だから常に神様のことを心に留めようと決心したのです。神様は昼も夜も、変わらず私を導いて下さる。私は決して混乱する必要がないのです。」と宣言しているのです。

2008年6月16日月曜日

主の憐れみは決して欠けることがない

神様はえこひいきをされることがない、と聖書は語っています。そして神様はえこひいきをされず、その約束はいつの時代であっても決して変わることがないので、私たちは歴史上で神様が民に示されたのと同じ憐れみを、私たちにも見せて下さいとお願いすることが出来るのです。マナセ王は、歴史上でも最も悪いとされた王でしたが、彼は悔い改め、完全に整えられました。(列王記21:1~18参照)

主の憐れみは決して欠けることがなく、過去に示された憐れみの例の数々は、私たちがそれぞれ主に願い出る上で、力強い確信を与えてくれるはずです。ですから、主にある聖徒の皆さん、あなたが主の憐れみに逆らって罪を犯し過ぎたと感じる時、主の憐れみから逸脱してしまったと思う時、神様が自分を見捨てられたと思うような時、勇気を失う時、失敗やキリストらしかぬ言動によって落ち込む時、過去に犯した罪のせいで、神様から放置されたり愛を止めておかれたりしているのではと思うような時、もしあなたが完全に悔い改めた心を持っているなら、この真実を受け止めて下さい。神様は決して変わることがありません。

神様が御自身の言葉を守られる様、主張するのです。神様がこの数年間であなたにして下さったことすべてを書き出してみて下さい。そして御言葉と照らし合わし、“憐れみの先例”として神の民が体験した例を見つけ出してみて下さい。これらのリストを神様の御前に差し出し、神様が御自分の言われたことを思い出してもらう様、訴えて下さい。「神様、あなたは御自身の言葉を否定されることが出来ません。あなたは昨日も、今日も、そしてとこしえまでも変わらないお方です。」

この行為を軽視しないようにして下さい。私たちはよく、自分たちの要望を神様の御前に激しく、熱心に迫ります。しかし祈りの時になると元気を無くします。神様の御座に準備もなしに近づくからです。神様の御前に行く時、私たちは確固たる姿勢で臨むべきです。真の大胆さは、感情から来るものではありません。それは私たちが完全なる確信を持つときに現れます。そして事前に事例を立証させるのです。それは神様に訴え出るためだけではなく、自分たちの信仰を強めるためでもあります。

今日私たちには、旧約聖書の聖徒らが夢にさえ見ることが出来なかったものが、与えられています。それは神様の御子が裁き主なる父の右に座しておられるということです。私たちは御子を知っています。それは養子縁組によって彼が血と契約にある兄弟であるからです。そして裁き主の前に立つ時、私たちは御子との血縁を主張し、神様御自身が言われたことを守られる様、主張することが出来ます。「お父様、私にはあなたの御言葉以外、何も訴え出るものはありません。あなたは、私がキリストによって完全にされると、つまづくことから守られると、またイエス様が私の執り成し手となられると、約束されました。あなたは私の嘆願に耳を傾け、すべての必要を満たして下さると約束されました。ああ主よ、どうか私を憐れんで、今恵みの御手をもって触れて下さい、私があなたを必要とするこの時に。アーメン。」

私たちがこの様な大胆さを持って神様の御座に近づき、御言葉に訴えかける時、神様はとても喜んで下さると、私は固く信じています。それはまるで神様が、「ようやく分かったようだね。あなたはわたしの喜びです。」と言っておられるかの様です。

2008年6月13日金曜日

キリストの日が近づいている

パウロは「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。」(第二テサロニケへの手紙2:1-2)

あざける者たちは、「ほら、初代教会の誰かがキリストがすぐに来るというニュースを持って、信者たちを動揺させた。そしてパウロは『いや、心配しなくても良い。このことによって心配したり悩んだりしないように』と言ったではないか。」と指摘します。

しかし、それはギリシア語の原文が語っていることではありません。原形は「(動揺してはなりません)主の日が既に来てしまったかのように」です。すなわち、テサロニケの人々が動揺していたのは、キリストが既に来てしまって、彼らはそれを見逃したと思ってしまっていたからです。パウロは次の節で、彼らを安心させるためにこう語っています。「だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法な者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。」(2:3)パウロが「心配しなくても良い、まず二つの事が起こらなければいけないのだから」と言ったのは、彼らの不安を案じていたからです。

では、パウロの再臨に対する基本的な神学とは、一体どの様なものだったでしょうか。それは二箇所で見ることが出来ます。「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。」(ローマ人への手紙13:11-12)「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」(フィリピ人への手紙4:5)パウロはこう叫んでいます、「目を覚ましなさい!すでに深夜を回っています。主が来られる時が近づいています。だから起きなさい。怠惰になっていてはいけません。イエス様は、彼を待つ人達の元に来られるのです。」

疑い深い人達は、「でもパウロが言った言葉はどうなのか。彼はキリストが戻るまでに、まず二つのことが起こらなければならないと言っていた。一つ目は大きな背信が起こるということ。そして二つ目は反キリストが来て、自分こそが神だと宣言すること。反キリストが神殿に座り、人々に彼を礼拝するよう強制するのを見てからでないと、キリストは来ないはずだ。」

まず、世界中の人々の心を捕らえている背信に気付かないとは、故意に目をふさいでいるとしか思えません。国々で不信仰が広がり、いたる所で信者が信仰からこぼれ落ちてしまっています。パウロが語っている背信は、確実に始まっています。

ある人は「パウロは、反キリストが権力に就くまでキリストは来ないと言った」と言うかも知れません。聖書がこう語っているのを考えてみて下さい。「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者ではなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。」(第一ヨハネ2:22)ヨハネによると、御父と御子を否定するものは誰でも反キリストなのです。さらに彼はその様な者が増えているのが、私たちが終わりの日に生きているという証拠である、と言っています。もはや、キリストの再臨を留めているものは、何もないのです!

2008年6月12日木曜日

神様は人々を用いられる

神様は人を用いて他の人を回復させます。神様はその様なミニストリーを非常に愛しておられ、預言者マラキを通して、これが終わりの日に最も必要とされている働きなのだと語られました。マラキは、当時の神の民が、いかにお互いを励まし合っていたかを説明しました。「主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。」(マラキ書3:16)

これは正確にはいつ頃起きたのでしょうか。マラキの言葉は、不信心がはびこっていた時代、むさぼる者が地の実りを滅ぼしてしまった時代に語られました。神の民は疲れきり、神様の道を歩むことに価値はあるのかと疑い始めました。彼らは「神に仕え、神の御言葉に従い、神のくびきを負うことには報いがあると教えられてきた。しかし私たちの周りにいるおごり高ぶった者や妥協している者たちを見ると、彼らの方が幸せに見える。彼らは成功を追い求め、ぞんざいに生き、人生を満喫している。」と思っていました。

その様な時、聖霊がイスラエルにおいて働き始められ、間もなく神様の畏れが、神様を飢え乾いて求めていた人達のもとに訪れたのです。突然、若い人も年老いた人も、イスラエルにいるすべての人々が一対一の宣教者となりました。御霊の促しにより、人々は互いに心を開き合い、お互いを励まし、助け合い、周囲の人々を慰めるようになったのです。

私はこのミニストリーを表すマラキの言葉が、現代に与えられた鏡像のような物だと確信しています。彼は私たちに、終わりの日、神の民がゴシップや不平を言うのをやめ、代わりにお互いを励まし合うようになる時、聖霊が豊かに注がれる様を映し出してくれたのです。それは電話や手紙やメール、また面と向かって始められています。そして神様は、それを見て非常に喜んでおられ、それらすべてを書き留めておられるそうです。優しさに満ちた言葉、すべての通話、すべての手紙、心沈んだ人を慰めようとする、それらのすべての努力は、“記憶の書”に記されます。そして聖書は、その書に行動が記された者たちは、神様にとって愛しいものだと語っています。「わたしが備えているその日に、彼らはわたしにとって宝となると、万軍の主は言われる。」(マラキ書3:17)

霊的に沈んでいる人に、テトスのようになりなさい。傷ついた人達を探し出し、癒しを与えたオネシモのような霊が与えられる様に祈りなさい。あなたには、痛みを覚えている信者、神様があなたに特別に示された慰めを必要としている人に励ましを与えるため、天のすべての力が与えられているのです。そう、あなたを必要としている人達がいるのです。そして主はあなたの過去の慰めを持って、彼らを励ますよう意図しておられるのです。今日、誰かに電話をし、「兄弟(姉妹)、あなたを励まし、あなたのために祈りたいのです。あなたにお分かちしたい言葉があります。」と伝えて下さい。

2008年6月11日水曜日

神様に近づくこと

私は祈りの中で、主を求めてこう尋ねました。「あなたが私たちをあなたの宮とされる上で、最も大切なことは何ですか。」私の感じた答え、それは大胆さと確信を持って近づくことです。

パウロはキリストについてこう言っています。「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」(エピソ人への手紙3:12)

イスラエルの神殿では、神様に接近することは非常に限られていました。事実、それは大祭司のみに許されていたことで、しかも一年に一度だけでした。その時が来ると、祭司は神殿で、神様の臨在に恐れとおののきをもって入りました。彼は心の内に赦されていない罪がありながら償いの座に近づくならば、滅ぼされてしまう可能性があると知っていたからです。

今日神様は、小さく限られた部屋から出て来て下さいました。そして神様は、汚れと腐敗に満ちた私たちの所に直接来て下さいます。神様は「あなたの内に住まうために来ました。あなたの汚れや絶望をわたしから隠す必要はありません。わたしがあなたを選んだのは、あなたを求めているからで、あなたの体をわたしの家、宮、住まいに変えるところです。」

「あなたを清める聖霊を遣わします。御霊はあなたの心をわたしの宮として備えるために、すべての心の部屋をきれいに掃除しますが、それだけではありません。あなたをわたしのすぐ隣に座らせて、わたしの御座に大胆に確信を持って近づくよう促します。力、恵み、強さ、そして必要なものすべてをわたしに求めてきて欲しいのです。あなたがそれらすべてにアクセス出来る様、わたしは御国をあなたの元へと持って来ました。あなたは裕福なのに、それに気が付いていないのです。あなたはわたしの栄光の相続人なのです。」

あなたの体が清い唯一の理由は、聖霊がそこに住んでおられるからです。そしてその清さが保たれているのは、聖霊の臨在と力が常にあるからこそなのです。あなた自身に出来ることではありません。すべての出入り口を見張ろうとするだけで、あなたは取り乱してしまうでしょう。出入り口から入ってくるすべてのほこりやゴミを防げなかった時、あなたは落胆してしまうでしょう。ほこりを掃き出し、部屋をきちんと整えようと、部屋から部屋へ走り回ることで疲れ切ってしまうでしょう。

すべてのクリスチャンはこの事実に喜ぶべきです。神様はあなたの内におられます。そして神様は常にあなたと共におられます。一体誰があなたに敵対することが出来るでしょうか。

2008年6月10日火曜日

心の拡張

伝道者であるジョージ・ホワイトフィールドとジョン・レスリーは、歴史上でも指折りの説教者でした。彼らは集会場、街頭、公園、刑務所などで何千人もの会衆に向かって説教し、彼らのミニストリーを通して、多くの人々がキリストに導かれました。しかし、どうやったら人は清められるかという教理において、二人の間に食い違いが生じました。どちらもそれぞれの言い分を主張し、ひどい言葉が交わされ、それぞれの支持者の間でも見苦しい口論が繰り広げられました。

ホワイトフィールドの支持者の一人が、ある日彼の元にやって来てこう尋ねました。「ジョン・レスリーを天国で見ますかね。」彼が聞こうとしていたのは、「もし彼が大きな間違いを説いているなら、どうしてレスリーが救われるだろうか。」ということでした。

ホワイトフィールドは、「いや、私たちがジョン・レスリーを天国で見かけることはないだろう。彼はキリストのいと高き王座の近く、主のすぐ側にいて、私たちが彼を見かけることは出来ないだろう。」と答えました。

パウロはこの様な魂を、「心の拡張」と呼びました。そして彼自身も、コリント人への手紙を書く中でそれを経験しました。コリントの教会には、パウロを厳しすぎると非難し、彼の教えをあざ笑う人達がいたからです。パウロは彼らに保証しました。「コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。」(第二コリント6:11)

神様があなたの心を拡張される時、突然非常に多くの障害や限界が取り去られます。もはや限られた視野でものを見ることはありません。その代わり、聖霊があなたを痛みと苦しみにある人々に導かれるのに気付くでしょう。そして苦しみにある人々は、聖霊の不思議な引力によって、あなたの憐れみ深い魂に引き寄せられて来るでしょう。

では、あなたが苦しんでいる人々を目にする時、心に優しさや穏やかさはあるでしょうか。兄弟や姉妹が罪につまずいていたり、問題を抱えていたりするのを見た時、あなたは彼らの生き方で何が間違っているのか伝えたくなるでしょうか。パウロは、苦しんでいる人たちは柔和で穏やかな霊の内で回復されなければならないと言っています。彼らはイエス様が示された霊に出会わなければいけないのです。

これが私に残された人生での心の叫びです。「神様、どうか私の心からすべての偏見を取り去ってください。苦しんでいる人達に対してあなたの憐れみ深い霊を、罪にある人達に対してあなたのゆるしの霊を、与えて欲しいのです。彼らの咎めを取り去るために、あなたの回復の霊を与えて欲しいのです。」

「どうか私の心からすべての閉鎖的な思いを取り去り、敵をも愛することが出来る様に、私の心の度量を広げて下さい。私が罪を犯している人に近づく時、裁きを持って近づかないようにして下さい。そうではなく、私の心の内に、彼らに対する聖なる愛の川が湧き出でる様にして下さい。そして彼らに示された愛が、他の人々への愛として燃え続けるようにして下さい。

2008年6月9日月曜日

神様は教会を愛しておられる

本来のキリストの教会は、主が目に入れても痛くないと思われるようなものです。しかし当初から神の教会は、背信者や偽教師に悩まされていました。初代教会-パウロや他の弟子達によって築かれた使徒の体-には神様の豊かな助言がありました。キリストに従う者には、成長と揺るぎなさを育てるものは何一つ、差し控えられることがないのです。彼らには、言葉だけではなく事実や行動として表された真理と、聖霊の力が与えられたのです。

パウロはテモテに、神の民の内で何人かは「健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話(象徴的な真理)の方にそれていくようになる」時が来ると忠告しました。(第二テモテ4:3~4)

歴史は、パウロが予想した通りのことが起きたと記録しています。使徒たちが亡くなり、彼らの教えを直接受けた世代も亡くなった後、邪悪な過ちの陰謀が、教会を押し流したのです。信者たちは奇妙な教義に惑わされ、科学と哲学がキリストの福音の真理を腐食させていったのです。

パウロがキリストの教会の純粋さについて述べたことを考えてみて下さい。「キリストは教会を愛し、教会のために御自分をお与えになりました。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エペソ5:25~27)

神様が非常に心配されているのは、背信教会に関してではありません。背教でさえ、イエス・キリストの教会を殺したり、滅ぼしたりすることは出来ません。これらの問題があっても、神様はすべてを統べ治めておられ、神の神秘的で目に見えない勝利者なる教会は、死に瀕することなどないのです。それどころか、聖霊の川が背信教会の「死海」に流れ込み、不正や生ぬるさをさらけ出していくのです。そしてそれは、新しい命が生まれる源となります。

生気のない、死んでいた教会から戻ってきた人達は、ただ幸運な生き残りかも知れません。それでもイエス様はこう、宣言されています。「畑は収穫に満ちている。そして今はまだ労働者が頑張り抜く時なのだ。」聖書の中にはどこにも、枯れた収穫だけを残して聖霊が逃げ去ってしまったという記述はありません。神様の霊はまだ、豊かに働いておられます、罪を明らかにし、懇願し、失われた魂をキリストに引き寄せるために。そして背信者たちもその、失われた魂の中に含まれているのです。

天にある証し者の大群は、裁きを求めたり、砦を守ることだけに努力を費やしたりしてはいけないと、私たちに語ってくれることでしょう。今はまだ、聖霊の時なのです。そして聖霊は進み出るすべての器を満たそうと、待っておられるのです。

神様は、それでも彼の教会を愛していらっしゃいます、汚れも含めたそのすべてを。

2008年6月6日金曜日

備えていなさい

マタイ24章でイエス様は、たとえを用いて再臨に備えることを語られました。「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。主人がその家の使用人ちの上に立てて、時間通りに彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。」

「しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイ24:44-51)

ここでイエス様が語られている僕とは、信者のことです。一人の僕は忠実で、もう一人は悪い僕と呼ばれています。何が二番目の僕を、神様の目に悪い僕と映させるのでしょうか。イエス様によると、彼は主人の帰りが遅いと思ったからです。(24:48)この僕は、その考えを口に出したり、他の人に伝えたりしていません。しかし彼は心の中でそう思ったのです。彼は心を「主の帰りは遅い」という悪魔の偽りに売り渡してしまったのです。ここで彼は「主は帰ってこない」と言っているのではなく、「主の帰りは遅い」と言っていることに注目してください。すなわち「イエス様は思いがけない時に突然来られたりはしない。私が生きている間に再臨はないだろう。」と言っているのです。

この「悪い僕」とは、明らかに一部の信者のことです。もしくはミニストリーの一部となってさえいるかも知れません。彼は人の子は思いがけない時に来るから、目を覚まし、準備していなさいと命じられていたのです。(マタイ24:44) しかしこの僕はサタンの偽りに耳を貸すことで、緊張の糸を緩めてしまいました。

イエス様は、この様な思考がどんな結果をもたらすかを示されました。もし僕が主の帰りが遅くなると確信するなら、彼は正しく生きることの必要性を見出さないでしょう。無理に彼の仲間と仲直りしたり、職場、家庭、教会で一致を保ったりする必要も感じないでしょう。仲間の僕を殴り、責め、恨み、彼らの評判を落としたりするかも知れません。ペテロが言ったように、この僕は欲望に突き動かされていました。彼は悪事にふけりながらも、義なる裁き主の手からは免れていると信じ、二つの世界に生きようと思っていたのです。

2008年6月5日木曜日

悪魔の偽り

私たちが試練や試みにある時、サタンは偽りを持ってやって来ます。「お前は完全に閉じ込められていて、抜け道などどこにもない。お前より素晴らしい僕たちが、これと同じ位の状況にあって投げ出してしまった。今度はお前の番だ。お前は落伍者。そうでなければどうしてこんな状況に陥るだろうか。こうなったのもお前のせいで、神はお前に落胆しているのだ。」

試練のただ中にあって、ヒゼキアは自分の無力さを認めました。王は彼に向けられた怒りや失望の声を止めることも、脅威や偽りを止めることも出来ないと理解したからです。彼は自分の力では戦いから抜け出せないと知っていたので、主に助けを求めました。そして神様は預言者イザヤを遣わし、このメッセージをもってそれに答えました。「主はあなたの叫びを聞かれました。さあ、あなたの心の扉にいるサタンに向かってこう言いなさい『お前こそが落ちていくのだ。ここに来たのと同じ様に、ここから出て行くのだ。』」

ヒゼキアは、もう少しで敵の罠に陥るところでした。実際、もし私たちがサタンの偽りに立ち向かわなければ、私たちが危機に瀕する時に、信仰に立ち返って祈らないならば、もし神様の救いの約束からくる力を得ようとしないならば、悪魔は私たちの揺らぐ信仰を奪い去り、さらにその攻撃を強めることでしょう。

ヒゼキアは預言者がもたらした言葉によって励まされ、センナケリブに向かってはっきりとこう言うことが出来ました。「悪しき王よ、あなたは私を冒涜したのではない。あなたは神に対して偽ったのだ。私の主は必ず私を救い出される。そしてあなたが彼を冒涜したから、あなたは彼の怒りを受けることになる。」

聖書は、その夜神様が超自然的な方法で、ヒゼキアとユダを救い出されたと語っています。「その夜、主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で18万5千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。」(列王記下19:35)

今日の信者は、約束だけでなくイエス・キリストが流された血潮の上にも立っています。そしてその血潮によって、私たちはおとずれるすべての罪、試み、戦いに勝利するのです。もしかしたら、あなたは最近悪魔から手紙を受け取ったかも知れません。あなたに尋ねます、「神様はあなたのすべての試練を予想していたと信じますか。あなたが犯すすべての愚かな行動も、あなたのすべての疑いや恐れも。もし信じるなら、ダビデの良き例があります。彼はこう祈りました。『この愚かな者は神に向かって叫びました、すると主は彼を救い出されました。』あなたも同様にしますか。

2008年6月4日水曜日

平安と聖霊

イエス様は、一体誰に彼の平和を授けているでしょうか。あなたは「私はキリストの平和の内に生きる価値はない。私の人生は苦難で満ちていて、私の信仰は弱すぎる。」と思っているかも知れません。

イエス様が彼の平和を与えた最初の人達のことを考えてみると良いでしょう。彼らは平和を受ける価値があった訳でも、平和を受ける権利があった訳でもありませんでした。

ペテロのことを考えてみて下さい。イエス様は彼の平和を、その後すぐに彼をののしった福音の僕に授けようとされました。ペテロは熱狂的にキリストを愛していましたが、同時にそのキリストを知らないと言ったのです。

またヤコブとその兄弟のヨハネはどうでしょう。彼らは競争心が激しく、いつも評価を受けることを求めていました。彼らはイエス様が天に昇られ栄光の御座に着く時、その右と左に座らせて欲しいと願い出ました。

その他の弟子達も、決して彼らより正しかった訳ではありません。彼らは自分達より上に立とうとしたヤコブとヨハネに向かって怒りを煮え立たせました。そしてトーマスは疑いに負けてしまった神の人でした。弟子達の信仰のなさに、イエス様はただ驚きとストレスを感じられました。事実、キリストが最大の苦しみにあった時、彼らは全員キリストを裏切って逃げ出してしまいました。復活の後「イエス様が甦られた」といううわさが広がっていたにも関わらず、弟子達はなかなかそれを信じようとしませんでした。

しかしこれだけではありません。多くの人達は混乱していました。彼らは主の道を理解せず、イエス様が語られたたとえ話によって、困惑していたのです。イエス様が十字架にかかられた後、彼らは団結力を失い、四方八方へと散らばってしまいました。

何という光景だったでしょう。彼らは恐れ、疑い、不一致、悲しみ、混乱、ライバル意識、プライドに満ちていたのです。しかしイエス様が「わたしの平和を授ける」と言われたのは、同じこの悩める僕たちに対してだったのです。

弟子達は、彼らが正しい人だったり、良い人だったりしたから選ばれたのではありません。それは非常に明らかです。また、彼らが優秀だったり、特別な才能を持っていたりしたから選ばれたわけでもありません。彼らは漁師や、日雇い労働者で、地位の低く、意気地のない人達でした。ただキリストは、そんな彼らの心に何かを見出したので、彼らを弟子へと召し出したのです。彼らを見つめられた時、キリストは、彼らがそれぞれ聖霊に服従する者達だということをご存知だったのです。

この時点で弟子達が持っていたもの、それはキリストの平和が与えられるという約束だけでした。その約束の成就は、五旬祭まで待たねばなりませんでした。その時になって初めて聖霊が降り、彼らの内に住まわれたのです。この平安は、御霊が私たちにキリストを明らかにする時やって来ます。あなたがイエス様を求めれば求めるほど、御霊はあなたに彼を示されます。そしてそれに伴って、キリストの真の平安があなたに与えられるでしょう。

2008年6月3日火曜日

神様の関心の中心

世界中のすべてが揺れ動いている中、神様の関心はどこにおかれているのでしょうか。中近東での出来事でしょうか。いいえ、聖書は神様の視線が、神様の子ども達の上に注がれていることを教えてくれます。「見よ、主は御目を注がれる、主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。」(詩編33:18)

私たちの主は、この地上で起こっているすべてのこと、すべての生き物の動きの一つひとつをご存知です。それでも主のまなざしは、まず彼の子ども達に注がれているのです。主は霊の体のメンバーである一人ひとりの痛みや必要を見つめていらっしゃいます。簡単に言うならば、私たちを苦しめるものが、神様の関心の中心ということです。

それを証明するために、イエス様はこうおっしゃっています。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)世界中で大きな争いが起こっていても、神様の関心の中心は暴君たちに置かれていません。神様の関心の中心は、その子どもたちが置かれている一つひとつの状況です。

キリストは、すぐその後の箇所でこう言っています。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」(マタイ10:29)キリストの時代では、雀は貧しい人達の食肉として、二羽約一円で売られていました。しかしイエス様は、「こんな小さな生き物でさえ、あなたがたの父が知らずに地に落ちることはない。」と言われたのです。

この箇所でイエス様が使われた「落ちる」という言葉には、鳥の死よりもさらに大きな意味が含まれています。アラム語での意味は「地面に降りて止まる」となります。すなわち、この「落ちる」という言葉は、一羽の小さな鳥による小さな動きの一つひとつを表します。

キリストは私たちに、こう語っておられます。「あなたがたの父の御目は、雀が死ぬ時だけではなく、それが地面に降り立った時でさえ、その雀の上に注がれています。雀が徐々に飛び方を学ぶにつれ、それは巣から降り立ち、地面の上でちゅんちゅん飛び跳ねます。神様はその小さな努力の一つひとつを見ておられるのです。雀の生涯に起こることすべてに関心を持っておられるのです。」

そしてイエス様はこう続けられます。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(10:31)実に彼は、「髪の毛までも一本残らず数えられている」とおっしゃっています(10:30)すなわち、星を創られそれを数えられた方は、ローマ王国の動きのすべてを見守られた方は、銀河系をその軌道の内にとどめられる方は、あなたの上にその御目を注がれているのです。そしてイエス様は尋ねられます、「あなたは彼にとって、さらに価値のあるものではないですか」と。

2008年6月2日月曜日

驚くべき平安!

イエス様は私たちが何故彼の平安が必要なのか、幾つかその理由を挙げています。キリストはヨハネによる福音書14章30節で、「世の支配者が来るからである。」と弟子たちに言っています。これはどの様な状況下で語られたことなのでしょうか。イエス様はこの直前、十二弟子達に「もはや、あなたがたと多くを語るまい」と言っています。(14:30)そして「世の支配者が来るから」というのがその理由なのです。

イエス様はその時サタンが働かれているのをご存知でした。悪魔は既にイエス様を裏切るためにユダに入っていました。そしてキリストはエルサレムにいる宗教家たちが、地獄の力に促されているのをご存知でした。さらに悪魔に触発された暴徒らが、もうすぐ彼を捕らえに来ることもご存知でした。そんな状況下でイエス様は、「邪悪なものであるサタンが来ている。だからもう、あまりあなた方とは話すことが出来ない。」と言われたのです。

イエス様は襲い掛かろうとしている戦いに備えるため、お父様との時間を持つ必要があることをご存知でした。イエス様は、かつてご自身が言われたとおり、間も無く悪の手に引き渡されるところでした。そしてまた、サタンがイエス様の平安を何とかして乱そうとしているのもご存知でした。悪魔は何とかして十字架にかからせないようにするために、イエス様を苦しめて落胆させ、父によせる信頼と信仰を砕こうとしました。

あなたは苦しみの中で「もう終わりだ。私には出来ない。」と思うことがあるかも知れません。しかしイエス様は「わたしはあなたに何が起こっているか知っています。来て、わたしの平安を飲みなさい。」と言われるのです。

今、あなたは人生の中で最も厳しい困難に直面しているかも知れません。あなたの人生は不安定で、絶望的に見えるかも知れません。抜け道が全く見えず、どの道を選んでも、さらなるストレスや困惑や疲労に溢れるだけの様に思えるかも知れません。

あなたがどんな経験をしていても関係ありません。あなたの人生が竜巻に襲われたと感じているかも知れません。他の人が「この人は現代のヨブだ」と思うくらいの困難を耐えているかも知れません。しかしそれらの困難のただ中で、あなたがキリストの平安で洗礼を授けて下さいと聖霊に呼び求める時、御霊は必ずそれを成して下さいます。

人々はあなたに向かってこう言うでしょう、「あの人の人生は完全に崩壊してしまった。でも彼は人生をかけて神様の御言葉に信頼しきっている。どうやったらそんなことが出来るだろうか。どうやって耐え続けていられるのだろう。もうずっと前に諦めていて当然なのに。でもまだ彼は耐え続けている。それに彼が信じていることを妥協したりしない。何て平安だろう。信じられない。」と。