2008年11月28日金曜日

信仰によって試練と向き合う

もし試練も、争いも、衝突もなかったら、私達はおそらく消極的で生温い者となってしまうでしょう。腐食が進み、私達の宮は、やがて廃虚と化してしまいます。勝ち取った領域を、管理することも出来ません。敵の計画は明白です、それは私達を戦いから退けてしまうことです。敵のねらいは、私達からすべての戦いを取り除いてしまうことなのです。

戦い続ける強さや、敵を打ち負かす力等、私達には霊的な戦いを続けるのに、必要なもののすべてが与えられています。そして私達が、いつの日か主の御前に立つ時、主は「あの時何が起こったか、覚えているか。あの厳しい戦いを。それを通して達成したことのすべてを見てごらんなさい。これらの成果はみな、あなたが勝ち取った戦いによって、確保されたのだよ」と解き明かしてくださいます。

単純かつ明白な事実とは、神様が人間の体の内に、素晴らしい宝を納めてくださっている、ということです。神様はあなたを、神様の霊が宿られる宮とされました。あなたには、この宮を管理する責任があります。もし怠惰で軽卒になってしまい、維持に必要な働きを怠ってしまうなら、すなわち、定期的な祈り、御言葉による養い、他の聖徒らとの交わりを怠るなら、腐食が始まってしまいます。そしていつしか、完全に廃虚と化してしまうのです。

50年に亘る、自分のミニストリーを振り返る時、何度も投げ出してしまいたくなった場面がありました。そんな時には、「主よ、この攻撃は何故起こっているのですか。どこから来たのですか。一体いつ終わるのですか。これに対する目的など、全く見えません」と祈ったものです。しかし時が経つと、やがてこれらの試練の成果が、見られるようになりました。そしてその成果とは、資源、力、霊的な富であり、その他の方法では、どうやっても手に入れられなかったものでした。

皆さんに強く勧めます。あなたに襲いかかる試練を、信仰によって捉え、神様がそれを許されたのだ、と信じるのです。神様はその試練を通して、あなたをさらに強めようとされているのです。それはあなたがサタンを阻害するため、あなたを周りの人々の祝福とするため、すべてを聖め神様の栄光とされるためです。

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものではないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(第二コリント人への手紙4:7〜9)

「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(第二コリント人への手紙4:17〜18)

2008年11月27日木曜日

恐れてはなりません

もしあなたが御霊と共に歩むなら、絶えず悪霊からの攻撃に遭うでしょう。しかし、どんな悪の力をも恐れる必要はありません。いつ、どんな所であっても。

パウロは常に、悪の力から攻撃を受けていました。彼がパフォスという所で宣教していると、悪霊が彼を邪魔しようとしました。「ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。彼は対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。」(使徒行伝13:6〜8より抜粋)

「バルイエス」とは、“イエスの息子”又は“光の天使”という意味があります。これは悪魔がパウロに反抗していた証しです。しかし聖霊が、使徒パウロの内に満ちていました。「パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、言った。『ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。』するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。」(使徒行伝13:9〜12)

パウロは“聖霊に満たされ”すべての闇の力を打ち倒したのです。

悪魔があなたを攻撃することに、悲しみを抱くだけでは十分ではありません。使徒行伝16章で、パウロは悲しみました。「悲しむ」とは、“動揺する、思い悩む”という意味があります。彼は何日も悲しみに暮れていましたが、神様の霊がパウロの内に満ちたので、彼は悪の力にこう言い放ちました。「もう十分だ!イエス様の御名によって命じる、悲しみよ、消え去れ!」(使徒行伝16:16〜18参照)

愛する皆さん、私達は悪魔が好き勝手にするのを、許してしまっています。時には私達も、聖霊の力によって立ち上がり、「もう十分だ!イエス様の御名によって命じる、消え去れ!」と言い放つ必要があります。

私達が権威を掲げて、悪魔に立ち去る様命じるなら、サタンはありとあらゆる武器をもって、あなたに攻撃をしかけてくるでしょう。パウロが、使徒行伝16章16節から18節において、悪霊に取り憑かれていた女性を癒した直後、サタンは事を起こし始めました。会衆を誘導し、パウロとシラスに対して暴動を起こさせたので、彼らは突如、大変な危機に陥りました。

市の高官は、彼らを鞭打ち、投獄するよう命じました。彼らの背中に振り落とされた、鞭の一振り一振りに合わせて、サタンがこう言うのが聞こえてきます。「勝利を得たとでも思ったのか。わたしの悪魔を追い出し、わたしに勝る権威を握っているとでも思ったのか。」

悪魔は、御霊のうちに歩む神様の僕が鞭打たれれば打たれるほど、さらに賛美が生まれるということを、知らなかったようです。その人を危機に陥れ、問題や苦難で縛り付けたとしても、彼は歌い、叫び、高らかに賛美を捧げるでしょう。

「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」(使徒行伝16:25)

もし私達が御霊のうちに歩むなら、神様が私達をいかなるサタンの束縛からも、超自然的な力をもって救い出して下さると、信じなくてはなりません。神様がそのために、地震を起こされるかも知れません。事実これこそ、神様がパウロのために成されたことです。

「突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。」(26節)サタンは、あなたが今まで経験をしたことがない様な、ひどい苦難や試みをもたらそうとします。サタンはあなたを、罪悪感や自責に落し入れたいのです。愛する聖徒の皆さん、あなたは聖霊のうちに立ち上がり、あなたを取り巻く環境や、あなたを縛り付けるものから目をそらさなくてはなりません。すべてを自分の力で解決しようとするのは、止めましょう。神様を讃え、賛美を捧げ、神様に信頼するのです。神様があなたを救い出してくださいます。

2008年11月26日水曜日

聖霊と共に歩むことの奥義

サムエル記上9章には、サウルが逃げ出したロバを探す様、父親から命じられたことが記されています。僕を従えたサウルは、ありとあらゆる所を探し回ります。最終的に彼は落胆し、探すのを止めようとします。しかしその瞬間、サウルの僕は、彼に先見者であるサムエルのことを、「彼だったらロバを探し出すことが出来るかも知れない」と話します。

ここでのサムエルは、神様の御心を知る者として、いわば聖霊の様な働きをします。彼の内には、ロバの居場所以上のものが、与えられていたのです。彼はサウルが神様によって選ばれ、天の永遠の目的を果たすために、大きな役目を担っていることを知っていました。

サウルが訪ねて来た時に、まずサムエルがしたことは、祝宴を開くことでした。(サムエル記上9:19参照)これこそ、御霊が私達に望んでおられることです。それは私達が、主の祝宴の座につき、神様の御心に耳を傾けることを意味しています。

サムエルはサウルに、共に交わることが出来る様、心配事をすべて捨て去るように命じました。(サムエル記上 9:20〜25参照)サムエルはこう、言っていたのです。「ロバの居場所に気を向けてはなりません。それは既に解決しています。それよりもずっと重要なことが、起ころうとしているのです。それには、神様の御心に触れ、神様の永遠の目的を知ることが必要です」と。

その夜、交わりの時間を持った後、二人だけで密接な対談が持てる様、サムエルはサウルに、彼の僕に席を外してもらうように命じました。(サムエル記上9:27、10:1参照)

神様がここで何を言わんとしていらっしゃるか、分かりますか。「もしあなたが、本当に御霊によって歩みたいのなら、本当にわたしの油注ぎを望むのなら、ロバの居場所以上のものを、求めなければならない。わたしの臨在に入り、わたしの御心と願いを知らなければならない。わたしの願いは、あなたに油を注ぎ、わたしの御国のために用いることなのだ。」

愛する皆さん、ロバの居場所のことなど忘れて下さい。居場所だけでなく、その他すべてのことを忘れ去ってしまうのです。聖霊があなたに、神様の奥義を解き明かされるままに、委ねて下さい。神様の臨在に固く立ち、あなたに御心を分かち合われるのを待つのです。これこそ、御霊に導かれて歩むことの極みです。

主の臨在の内に時を過ごすことで、失われた世にキリストを示すことになります。

「わたしたちは落胆しません・・・真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。」(第二コリント人への手紙4:1〜2)使徒パウロは、私達が真理を表す者として召されているのだと語っています。もちろん私達は、イエス様こそが真理であると知っています。ではパウロが「あなたがたは真理を表す者だ」と言う時、彼は一体何を意味しているのでしょう。

パウロはここで、目に見える表現のことを語っているのです。「明示」とは、あることに光を当て、それを明確にし、理解し易くするということです。簡単に言うならば、パウロは人々がイエス様を知り、理解し易くなる様に、私達は召されているのだ、と言っているのです。私達一人ひとりの人生を通して、キリストの性質が輝き出されるべきなのです。

パウロはこの「キリストの明示」に関して、さらに述べています。彼は私達が、世界に対する神様の手紙なのだ、と言っているのです。「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それはわたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」(第二コリント人への手紙3:2〜3)私達の人生は、聖霊によって書かれ、世の人々のために送られた手紙なのです。そして私達は、周囲の人々によって、読まれ続けます。

一体どうやったら、神様の世に対する手紙になることが出来るのでしょうか。それは御霊の働きによってです。私達が救われた瞬間に、聖霊は私達の内にイエス様のイメージを焼き付けられました。そしてそのイメージを、私達の内に日々映し出します。聖霊の使命は、私達の内にキリストのイメージをはっきりと、また正直に映し出し、人々の良心に語りかけるようにすることです。

2008年11月25日火曜日

聖霊の導きのまま歩むとは

「聖霊に導かれて歩みなさい」という御言葉は、一握りの特別な聖徒に与えられているのではなく、すべての人に対して与えられています。ここに、どうやって聖霊の導きを手に入れるかが記されています。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい・・・」(ガラテヤ人への手紙5:16)

1.あなたのすべてをもって、この導きを求めなければなりません。まずは聖霊に、あなたの友、また案内人となって欲しいとお願いするのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(ルカによる福音書11:9)

もしあなたが救われていらっしゃるなら、聖霊はすでに、あなたに与えられています。ただ御霊に、主権を握っていただく様お願いし、すべてをお委ねするのです。心の中で、聖霊の導きに従うのだ、という決心をする必要があります。モーセは後の日のことに関して、こう語りました。「しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めなければならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。」(申命記4:29)

2.聖霊の御声を聞き分けることに集中し、あなたの抱える問題や試みから、目を背けなければなりません。もしもパウロとシラスとテモテが、問題に焦点を当てていたなら、彼らは恐れと絶望感に飲み込まれていたことでしょう。しかし彼らは、賛美と礼拝を捧げることで、神様に焦点を当てていました。

私達が祈る時よく、過去の失敗に焦点を当てることがあります。過去の失敗を何度も再生し、「もしあんな失敗を犯して、神様をがっかりさせていなかったら、今頃はもっと人生の先を歩んでいただろうに」と言います。

過去のことは、すべて水に流してしまうのです。あなたの過去はすべて、イエス様の血潮によって覆われています。そして未来も捨て去るのです。神様だけが、あなたの未来を御存知だからです。その代わり、あなたの思いと心のすべてを、聖霊だけに向けるのです。

3.聖霊との交わりに、時間を割かなくてはなりません。聖霊は、急いでいる者にお語りになられません。忍耐をもって、待ち望むのです。主を求め、賛美を捧げるのです。あなたに囁きかける偽りの声に、耳を貸してはなりません。聖霊がそれらの囁きよりも偉大であること、またあなたが惑わされたり、騙されたりするのを聖霊がお許しになられないこと信じるのです。

「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」(第一ヨハネ4:4)

2008年11月24日月曜日

神様はあなたを愛しておられます!

天のお父様は、あなたを愛しておられます。しかし、これは多くのクリスチャン達にが、神様を完全に受け入れられていない点でもあります。彼らは何度も、罪悪感や敗北感を味わうことを許します。しかし一方で、神様の御霊がお父様の愛によって、彼らを満たすことを許可出来ずにいます。

律法主義者は、罪の意識の下に生きることを、生き甲斐としています。その人は、神様の愛を完全に理解することも、聖霊が神様の愛によって、彼の霊に働きかけるのを許可することも出来ないでいます。

私達、タイム・スクエアー教会では、義なる人、また心からイエス様を愛する人は、叱責を好む、と教えてきました。その人は、聖霊がその人の内に隠された、罪や不信仰をあらわにすることを許す様になります。なぜなら、罪と向き合えば向き合う程、その人はさらなる喜びと解放を味わうことが出来るからです。

しかし多くのクリスチャン達に見られるのは、「裁きを与え続けて下さい、主よ。私の罪を指摘し、叱責して下さい」という態度です。これは真の罪の意識とは異なります。私のニュースレターに対する返答・意見に、この様な反応が多く見受けられます。私が裁きに満ちたメッセージを書くと、それに同意する返事が押し寄せます。

しかし、私がイエス様の愛の素晴らしさについて語ると、「あなたはもう、真実を語っていない」と綴った手紙を受け取ります。それはまるで、人々が「叱責なしのメッセージは福音ではない」と言っているかの様です。この様な信者は、聖霊による大きな“愛の計画”に触れたことがないのです。

これは、聖霊に導かれて歩むことを、経験から学ばなくてはならない対象の一つです。そしてそれは感情によって、左右されるべきではありません。聖霊に導かれて歩むとは、御霊が私達に遣わされた使命を、私達の内に果たすことを許すということです。そしてそれは、今、あなたの心を神様の愛で満ち溢れさせることなのです。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ人への手紙5:5)

イザヤはこう言っています。「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。」(イザヤ書66:13)イザヤは、「(神を)背き続け、心のままに歩んで」いた、頑固な神様の民に書き記したのです。(イザヤ書57:17)

指導を聞き入れず、頑固で聞き分けのない生徒を、先生はどれ程我慢し続けるでしょう。そう長くはありません。しかし預言者イザヤは、人間にとっての最高のイメージを用いました。それは、母の子に対する愛です。そしてこのイメージによって、私達に対する神様の愛を示したのです。

私の教会に集われている、あるお母さんは、州の外れにある刑務所に収容中の息子さんを、一日がかりで訪ねて行かれます。彼女は、たった少しの面会時間の為に、何時間もバスに乗って行くのです。この様なお母さんは、くすんだ刑務所の制服に身を包んだ息子を窓越しに見つめ、彼の瞳の奥に隠された苦難を見ます。そして訪問する度に少しずつ、彼女の内で何かが死んでいくのを体験します。しかし彼女は、決して息子さんを見放しません。彼は今でも、彼女にとっては息子だからです。

これこそ、聖霊が伝えようとしておられる、私達に対する神様の愛なのです。御霊はこう語ることで、私達に慰めをもたらします。「あなたはかつて、イエス様にすべてを捧げると言いました。あなたの愛を捧げると言いました。そしてイエス様は、今もあなたを愛しておられます。そしてわたしも、あなたを決して見放したりしません。わたしはイエス様によって、ある使命を与えられたのです。そしてその使命を果たすために、働き続けます」と。

御霊による以外に、この世での真の慰めはありません。だからこそ、あなたの内に聖霊が宿られることが必要なのです。聖霊だけが、夜、あなたを温かな布団に寝かしつけ、あなたの心を完全なる平安で満たすことがお出来になります。聖霊だけが、あなたが苦しみと痛みを覚える時に、真の慰めを与えることがお出来になります。聖霊こそ、「これはその場しのぎの慰めではありません。これは永遠の慰めです」と言って、私達に確信を与えてくださるのです。

2008年11月21日金曜日

砕かれて、聖霊によって満たされなさい

旧約・新約両聖書において、聖霊は非常に珍しい方法で、人々の上に降りました。建物を震わせ、人々は異言によって神様を讃える様になりました。そこには聖霊による、完全な支配がありました。

ペンテコステの日には、聖霊が力強く、激しい風として降りました。聖霊が注がれた時、すべてのものが揺り動かされました。(使徒行伝2:4及び 4:11 参照)

バプテスマのヨハネはこう教えました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(ルカによる福音書3:16)

愛する皆さん、聖書は明確に語っています。イエス様があなたの元に来られる時、彼はあなたが聖霊と火による洗礼を受けることを望んでおられるのです。聖霊は火をもたらします。その火とは、真っ赤で熱い、イエス様の愛のために燃える炎です。では、何故多くのクリスチャン達が、熱くなったり、冷めてしまったりして、なかなか自分を捧げきることが出来ないのでいるのでしょうか。それは彼らが、イエス様による聖霊の洗礼を受けることを、拒絶しているからではないでしょうか。

「その方(聖霊)が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(ヨハネによる福音書16:8)これらのクリスチャンが確信に至ることが出来ないのは、彼らの内の玉座に着く様に、聖霊を招き入れていないからではないでしょうか。聖霊は神様の測量機です。キリストに対して不適切なものはすべて、聖霊がそれを明らかにし、私達が御言葉に従う様、力を与えてくださいます。この様な時にこそ、聖霊は私達の慰め主となられます。なぜなら聖霊は、私達の罪を明らかにし、それを捨て去る様、力付けてくださるからです。これこそ真の慰めです。

聖霊は決して、あなたに馬鹿げたことをさせたりなさいません。しかし時に聖霊が降りると、罪人達からして見れば、まるで私達が酔っぱらっているかの様に振る舞うことがあります。多くの教会で、聖霊はあまり受け入れられていません。それは聖霊が、騒がしく、気分を害し、予測不可能なものであると思われているからです。

2008年11月20日木曜日

御霊の働き

聖霊は、無秩序でいい加減な方法で、私達の内に働かれる訳ではありません。私達がうまく人生をこなし、危機や寂しさに沈む夜を乗り越えるのを助ける為だけに存在している訳でもありません。私達を競技場に戻す前に、少し力を与えようと待っておられる訳でもありません。

聖霊が成される御業のすべては、聖霊が来られた理由に関わっています。それは私達を花嫁として、御国に連れて行くということです。御霊は、その使命を果たすためだけに働かれます。そう、聖霊は私達の案内人であり、慰め主であり、弱い時の力です。しかし、私達を救い出すためのこれらの御業のすべて、すなわち、私達の内で御自身を表される御業の一つひとつは、私達を花嫁として整えることを目的としているのです。

また、御霊はただ世に賜物を与えるためだけに存在している訳ではありません。そうではなく、御霊の与える賜物の一つには、それぞれ目的があるのです。聖霊が掲げるメッセージはたった一つ。すべての教えは、ある中核的な真実に向かっています。私達の内で、聖霊は宝石の様に輝いておられるかも知れませんが、その輝きの一つひとつは、私達に唯一の真実をもたらすためにあるのです。そしてその真実とは、次の通りです。

「あなたは自分のものではありません。代価をもって購われたものです。キリストの花嫁として選ばれた者なのです。そして、あなたを他のどんな切望からも解き放つために、神様の霊が遣わされているのです。真実こそ、罪の束縛をすべて解き、不信仰を取り扱ってくれます。あなたはこの世に属する者ではありません。あなたには、素晴らしい花婿との対面と、婚礼の宴が待ち受けているのです。すべての準備は整っているので、わたしがあなたの準備を手伝っているのです。神様への激しい愛を内に秘めた、非の打ち所のない者として、あなたを紹介したいのです。」

これこそが聖霊の御業です。キリストを教会に表すことで、私達がキリストと恋に落ちるためです。そしてこの愛こそ、私達を支えるのです。

2008年11月19日水曜日

信仰によって聖霊を受ける

「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」(ガラテヤ人への手紙3:2)聖徒の皆さん、この聖句はあなたの信仰を燃やし、信仰によって神様の約束を信じるよう促すべきです。「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。」(ヤコブの手紙1:6〜7)

この賜物が与えられる様、神様に求められましたか。聖霊を求めておられますか。扉を叩き続けておられますか。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカによる福音書11:13)

ただ求めれば、受け取ることが出来るのです。聖霊の洗礼を受けることを天のお父様に求めれば、神様は必ず与えてくださいます。

私達はこの世にはびこる悪に直面します。悪魔はその力を振りかざし、悪しき霊の大軍は、御国との最後の戦いに備えています。しかしサタンは、聖霊に満ち、信仰と従順の内に歩む、義なる神様の子どもに立ち向かうことは出来ません。真に聖霊に満ちたクリスチャンは、地獄の大軍を追い払う者です。

神様、どうか聖霊を遣わしてください。聖霊を注いでください。聖霊によって、力強く洗礼を授けてください。そして揺るぎない信仰と共に、サタンが強く働く所へと、私達を遣わしてください。

使徒パウロは言いました、「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ人への手紙5:16)また、こうも語っています。「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(5:25)

クリスチャンとして、私達は「聖霊の導きに従って歩む」という言葉を幾度も耳にしてきました。多くのクリスチャン達は、聖霊の導きに従って歩んでいると言うものの、それが本当にどういう意味なのか、しらないでいます。お尋ねしましょう。あなたは聖霊の導きに従って歩み、聖霊の内に生きていらっしゃいますか。そしてそれはあなたにとって、どういう意味がありますか。

私にとって「聖霊の導きに従って歩む」とは、次の一文に集約されます。それは“聖霊の導きに従って歩むことは、ただ私達の内で、神様が聖霊を遣わされた業の成就をゆるすこと”です。

何故神様が聖霊を遣わされたかを理解するまで、あなたの内で聖霊が働かれるのをゆるすことは出来ません。

聖霊は、神様からたった一つの永遠の目的を果たす為に、私達の元へ遣わされました。そして私達が、この聖霊の使命と私達の内での働きを理解しないならば、次の2つの内、どちらかの間違いを犯すことになります。一つ目は、ほんの少しの霊的な賜物を受け取る等、限られた聖霊の御業で満足し、私達の人生において聖霊が成そうとされている、素晴らしい永遠の目的を見逃してしまうことです。二つ目は、聖霊を求めながら、私達の内で完全に聖霊を無視してしまうことです。それは聖霊が神秘的であり、その存在は信仰によって受け取るもので、私達には決して理解することが出来ないものである、という考えからきます。

聖霊は、あなたの内で、また私の内で、確信を与え、聖め、力を与え、備えるために、私達の元に来てくださいました。聖霊は、私達をキリストと結ばれる花嫁として整えるために、この世に遣わされているのです。

旧約聖書時代の信者と聖霊の関係を示したものが、創世記24章に記載されています。アブラハムは、彼の最も年老いた僕、エリエゼルを遣わし、息子であるイサクに花嫁を探し出す様、命じました。エリエゼルという名前は、「力強い、神の助け手」という意味があり、言ってみれば聖霊の様なものです。そしてこの力強い助け手が、リベカをイサクの花嫁として連れ帰って来た様に、聖霊もまた、私達の主、イエス・キリストの元に、必ず花嫁を連れ帰られます。

神様はリベカをイサクの花嫁として選ばれました。そして神様は、エリエゼルを彼女の元へ、真っ直ぐに導かれました。この僕の任務と目的のすべては、たった一つ。それはリベカをイサクの元の連れ帰ることでした。彼はリベカに、彼女の持っていたものすべてを捨て、イサク自身に、またイサクと結婚することに夢中になるよう、働きかけねばなりませんでした。リベカの両親は、エリエゼルに告げました。「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申することはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。」(創世記24:50〜51)

そしてこれと同じことが、皆さんと私にも起こっているのです。神様は私達を、神様の花嫁として選んでくださいました。私達の救い、すなわちキリストのものとして選ばれることは、主の御意志によるものです。神様は私達をイエス様の元へと導くために、聖霊を遣わされました。もし私達が彼を信じるなら、聖霊は私達を、キリストの永遠の花嫁として無事に連れ帰ってくださいます。

2008年11月18日火曜日

「アバ父よ」

聖霊は、私達とイエス様、及び私達と父なる神様との関係を、簡素化してくださいます。 私達に「アバ父よ」と神様に呼びかける様、促してくださるのは、聖霊です。

この表現は、聖書時代に東洋で用いられていた、養子縁組にまつわる習慣から来ています。養子縁組の書類がすべて整い、養父によって承認されるまで、養子とされた子どもは、養父をただの父としてしか呼ぶことが出来ません。「アバ」とは“私の父”という意味なので、養父を「アバ父よ」と呼ぶ権利がないのです。

しかし、書類が整い、登録が済み、承認を受けるや否や、養子とされた子どもの世話役は、彼を養父の元へと連れて行きます。そしてその時初めて、彼は「アバ父よ!」と呼ぶことが出来るのです。養父の腕に抱かれ、その子は、「私のお父さん、あなたはただの父ではなく、私のお父さんです」と叫ぶのです。

これこそが、聖霊の働きとミニストリーです。御霊はキリストについてのあなたの世話役であり、あなたを父なる神様の元へと導きます。そしてこう、私達に告げるのです。「書類はすべて承認を受けました。あなたはもう、孤児ではありません。法的に、神様の子とされたのです。あなたには、ひたすらに愛と富と力に満ちた父がいます。彼に抱きつきなさい。『わが父よ』と呼んでごらんなさい。あなたに神様がどれ程あなたを愛しておられるかを示すため、わたしは来たのです。神様はあなたを愛しておられ、あなたを求めておられます」と。

私達の叫びは、これ以上とない喜びと感謝からくるものであるはずです。私達の内におられる御霊は、「あなたは神様の相続人です。イエス様が勝ち取られたものすべてを相続する者です」と叫んでおられます。この様な素晴らしい財産を相続することが出来るのは、あなたのお父様が宇宙一裕福な方だからです。神様に近づくことをためらう必要はありません。お父様はあなたに対して怒りを燃やしておられる訳ではありません。貧しさに打ちひしがれ、喜びと霊的勝利を失った孤児の様に振る舞うのは止めましょう。あなたは見捨てられてはいないのです。お父様の存在を、存分に楽しめば良いのです。

私達は見捨てられていないばかりか、迷いや苦しみの時にも、聖霊が私達と共にいてくださいます。
聖霊の任務とは、キリストの花嫁をその花婿がいない間、慰めることです。「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネによる福音書14:16)「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(26節)
“慰め主”とは「痛みや悲しみの時になだめる者」という意味です。それは痛みと悲しみを和らげ、安堵をもたらし、慰め、励ます者のことです。しかし私は次のギリシア語の定義が気に入っています。「あなたを温かで、安全な寝床に横たえてくださるお方。」あなたの魂が冷たく暗い闇に沈む時、御霊は、その心地よく、慰めに満ちた御手によって、あなたをやわらかな布団に寝かしつけてくださいます。

御霊を慰め主と呼ぶことで、イエス様は実に確実な予測を立てられました。イエス様は、彼に従う者達が苦しみの目に遭うこと、終わりの日に大きな痛みと苦しみがあり、いかに慰めが必要となるかを予測されたのです。

聖霊は、御自身が神様の力のすべてをもって、あなたの内に住まわれているかを思い起こさせることで、あなたに慰めをもたらします。ですからあなたは、こう叫ぶことが出来るのです。「世界中のすべての力より、悪魔のすべての力より、私の内におられる方の力は勝っている」と。神様は私達を悪魔の手から守られるために、聖霊を遣わされ、その力を与えられたのです。それは、私達の霊を引き上げ、打ちひしがれた思いを追い出して、神様の愛によってあなたの心を満ち溢れさせるためです。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。そして希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ人への手紙5:3、5)

2008年11月17日月曜日

御国の前触れ

前触れとは、前もって体験すること、または認識することです。聖書はこれを保証金と呼んでいます。(例:「わたしたちが御国を受け継ぐための保証」エペソ人への手紙1:14より)それは全体を経験する前に、一部のみを体験するという意味です。私達が受け継ぐもの、それはキリスト御自身です。そして私達がキリストの花嫁となり、永遠の交わりを楽しむことの前触れとして、聖霊は私達を主の臨在に導き入れてくださいます。

パウロは神様の内にある人々を「聖霊で証印を押された者」と表現しています。(エペソ人への手紙1:13)これは御霊の働きによって、特別に印をつけられた人々のことを表しているのです。聖霊は彼らの内に、特徴的な印を押し、また素晴らしい内なる働きを起こしたのです。それは彼らを、永遠に変えられた者とする超自然的なものです。

彼らはもはや、ただの信者ではありません。 この世のものではなく、天のものに情熱を寄せているので、彼らはもはや、この世に属する者ではありません。彼らはこの世の出来事に押し流されません。むしろ、彼らは揺り動かされない者となったのです。また彼らは、生温かったり、中途半端だったりすることはありません。それどころか、彼らの心は昼も夜も、「主なるイエス様、早く来て下さい」と叫ぶのです。

一体彼らに何が起こったのでしょうか。聖霊が彼らの内で、何を行ったのでしょうか。何が彼らに、主に属する者だという証印を押したのでしょうか。それは簡単に言うと、こういうことです。聖霊が彼らに、素晴らしい主の臨在を、前触れとして体験させてくださったからです。御霊は彼らに近づき、御国を垣間見せました。それによって彼らは、神様の偉大なる素晴らしさを、超自然的な明示によって体験したのです。御霊は私達に、御国を待ち望む様、“御国の一片”を与えてくださったのです。

黙示録に書かれている終わりの日に、御霊はどんな花嫁をイエス様に備えられるのでしょうか。生温い人でしょうか。中途半端な愛、または冷めきった愛を持った人でしょうか。イエス様を熱愛していない人でしょうか。キリストとの親密な交わりを望まない人がいるでしょうか。

もしあなたが本当にイエス様を愛しておられるなら、常に彼のことが頭から離れないでしょう。あなたの歩みの一歩一歩に、主は臨在しておられます。クリスチャンの中には、「それは死んでからの話だ。天国に行けば、すべては変わる。その時に主の特別な花嫁とされるのだ」と思っている人がいます。いいえ、死が人を聖めるのではありません。御霊は今、ここにおられます。御霊は今生きておられ、あなたの内に働いておられます。あなたが死のこちら側にあるうちに、キリストに対する熱愛を生むために。

ローマ人への手紙8章26節に、御霊が信者の内にいかに強く働かれているかが記されています。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」

ここで使われている「うめき」という言葉は、ギリシア語で“熱望”すなわち、もっとキリストを切望すること、という意味があります。あまりにキリストを切望し、その臨在にたたずんでいるので、深いうめきの他、言葉が何も出て来ないかも知れません。それは「イエス様、あなただけがこの世界での唯一の幸せです。わたしはあなたの良さを体験しました。あなたのすべてを経験させてください」と願うことです。

これこそが、御霊の内に歩む者の印です。その人は、イエス様に対する強い欲求をもっています。パウロ同様、その人はこの世を去り、主とまみえる日を心待ちにしています。

2008年11月14日金曜日

深夜零時1分前

サムエル記上13章で、サウルはすべての信者がいつかは経験しなくてはならない、決定的な瞬間に直面しました。それは、信仰によって神様を待ち望むか、我慢出来ずに自分の手でなんとかしようとするか、という決断を迫られる時です。

サウルにとっての分岐点は、戦争を暗示する不吉な暗雲が、イスラエルの上に広がっていた時に訪れました。ペリシテ人は騎手、鉄製の戦車、最新兵器を振り回す歩兵からなる、大軍を従えていました。一方のイスラエルは、全軍を通して、たった2本の剣しか持っていませんでした。その1本はサウルのもの、そしてもう1本は彼の息子であるヨナタンのものでした。残りの兵は全員、木製の槍や、農道具等、持ち合わせの兵器を使用せねばなりませんでした。

この場面の1週間前、サムエルはサウルに、戦闘に行く前にギリガルにて彼を待つように命じました。預言者は7日後に来て、主に適切ないけにえを捧げると言ったのです。

約束の7日が過ぎてもサムエルの姿は見られず、サウルの兵士達はまとまりを失い始めていました。それどころか、王は戦いに対して、主からの託宣を受けていませんでした。

サウルはどうしたでしょうか。固く立ち、「例えサムエルが8日かかろうが、私は神様からの御言葉に固く立つ。生きるとしても死ぬとしても、私は主の命令に従う」と宣言したでしょうか。いいえ。サウルは狼狽しました。周りの状況に飲み込まれてしまったのです。結局彼は、神様の御言葉を自分に良い様に解釈し、自分のやり方を通しました。サウルはその場にいた祭司に、サムエル抜きでいけにえを捧げる様に命じました。このことによって、彼は主に対して重大な罪を犯してしまったのです。(サムエル記上13:11〜12)

神様が約束に遅れるということは、絶対にありません。主はサムエルがギリガルに向かっている道中の、その一歩一歩を知っておられました。主は預言者を、天のナビゲーションシステムに従わせ、主が定められたその瞬間にギリガルに到着する様、完全に計画しておられたのです。本来ならサムエルは、7日目にはそこに着くことが出来ました。例えそれが、7日目の深夜1分前だったとしても。

神様は歴史を通して、決して変わることがありません。そして今日も、主の民がこの掟に従うかに関心を持っていらっしゃいます。「主の御声に聞き従いなさい、そして主の御命令に背いてはなりません。」(サムエル記上12:15より要約)例え私達の人生が手に負えない状況であっても、それは問題ではありません。私達は、主にある完全な信頼の内に歩むべきなのです。例え絶望的な状況にあったとしても、恐れの内に行動を起こすべきではありません。むしろ、御言葉が約束されている通り、神様が私達を救い出されるのを、我慢強く待つべきなのです。

実際神様は、ペリシテ人の大軍に迫られていたサウルの、すぐ側に立っておられたのです。主はサウルが直面していた危機を御存知で、主の御目は、その詳細のすべてに注がれていました。

私達の神様は、あなたが直面している危機の詳細を、すべて見ることがお出来になります。主はあなたに押し迫る、人生の問題の一つひとつを見ておられます。そして日々、その状況が深刻化していることを御存知です。祈り、揺るぎない信仰と共に神様を待ち望む者は、大変な危険に遭遇することがありません。そればかりか、神様はあなたの「これ程の借金をどうやって返済すれば良いというのか・・・結婚生活に全く望みが持てない・・・どうやったら仕事をクビにならずに済むだろうか・・・」等という、恐れに満ちた思いを、すべて御存知です。しかし神様の御命令は真実です。「恐れず、わたしより先に進んではいけない。あなたはただ、祈れば良い。そしてわたしに信頼しなさい。わたしに信頼を置く者を、わたしは祝福する」と。

神様が教会に対して語られた、次の御言葉を見てみましょう。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル人への手紙11:6)「民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(詩編62:9)「主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。」(詩編115:11)「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなた道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」(箴言3:5〜6)

不信仰は致命的で、そのもたらす結果は悲劇的です。もし私達が、主に頼るのではなく、自分の手で試みから逃げ出そうとするなら、恐ろしい結果に直面することになります。

2008年11月13日木曜日

霊的な良薬

「敵をも愛しなさい」という神様の掟は、苦くてまずい薬のようです。しかし、私が小さい頃に飲まされたビーバー香油同様、それは癒しをもたらす薬です。正に「良薬口に苦し」ということです。

イエス様ははっきり、こう語られています。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしはあなたに言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイによる福音書5:43〜44)

イエス様は、律法に反することを語られていたのでしょうか。そうではありません。イエス様は、律法に侵入していた肉の霊を翻そうとされたのです。当時のユダヤ人は、ユダヤ人のみを愛していました。彼らは、異邦人の手を握ることや、さらには異邦人の衣が自分の衣に触れることすら許していませんでした。しかしこれは、神様の律法の本質とは食い違っていたのです。律法は聖く、こう教えています。「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」(箴言25:21〜22)

私達は政権にある者達の、みだらな行いを憎むことが出来ます。同性愛者や中絶者など、キリストを忌む者達の罪を憎むことが出来ます。しかし主は、彼らを人間として、イエス様が彼らのために死なれた人々として、私達も彼らを愛する様、命じておられるのです。そして彼らのために祈る様、命じておられます。もし私が、ある人の掲げている主義ではなく、その人自身を軽蔑するなら、私はキリストを代表出来ていません。

私はここ、ニューヨーク市の五番街で、同性愛者のパレードを見ました。25万人もの人達が、多くは半裸で、「神様は同性愛者である」と記したサインを掲げて歩いていたのです。また私は、彼らが行列から離れ、「神様はあなたの罪を憎んでおられますが、あなたを愛しておられます」というサインを掲げたクリスチャン達に、食って掛かっている姿を見ました。

私は怒りで顔が真っ赤になりました。ソドムの様に、彼らの上に硫黄の火が降る様に求めたい気分でした。しかし私は反省し、心の中でこう自分に言いました。「私はまるで、イエス様を拒絶した人々の上に、火を降らせて滅ぼしをもたらすよう、弟子達が求めたのと同じである」と。

同性愛は罪です。不貞も罪です。また許さないことや、 無慈悲も罪なのです。

あなたの敵を愛しなさい。好戦的でうっとうしく思う様な罪人達を愛しなさい。彼らのために祈りなさい。迫害する者達を祝福しなさい。

これこそ、イエス様が命じられたことです。

ですから、これを実行しましょう。

2008年11月12日水曜日

ダニエル―異なるタイプの人

ダニエルは自分が砕かれた者であることを語る、異なるタイプの人でした。「わたしは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した。わたしは主なる神に祈り、罪を告白してこう言った。」(ダニエル書9:3〜4)一方でダニエルは神様の御心を知っていたので、時を読むことが出来ました.「わたしダニエルは文書を読んでいて、エルサレムの荒廃の時が終わるまでには、主が預言者エレミヤに告げられたように、70年という年数のあることを悟った。」(ダニエル書9:2)

どうやってダニエルはこの様に砕かれ、知識と識別を持つ人となったのでしょう。それは神様の御言葉を学ぶことから始まりました。ダニエルは、御言葉が彼を支配するに委ねました。そして心に御言葉を蓄えていたので、聖句をよく引用しました。「モーセの律法に記されている通り・・・」(ダニエル書9:13)

ダニエル書10章では、この信仰深い預言者が、キリストに関するビジョンを受けたことが記されています。「目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声のようであった。」(10:5〜6)

あなたの力のすべて、思いのすべてをもって、神様を追い求めると、今日心に誓って下さい。そしてかつてない程の愛と渇望をもって、御言葉に触れて下さい。断食によって砕かれる様、また神様の重荷を背負うことが出来る様祈るのです。そして最後に、聖霊が天の恵みをあなたに与えることを妨げるものすべてを告白し、それらから離れて下さい。異なるタイプの人となる方法は、誰にでも与えられています。あなたはこの方法を用いられますか。

この様な方法によって、神様に触れられることが出来ます。ダニエルは、こう証ししています。「突然、一つの手がわたしに触れて引き起こしたので、わたしは手と膝をついた。」(ダニエル書10:10)ここで使われている「触れる」という言葉は、“激しく掴む”という意味があります。ダニエルは「神様が御手を私の上に置かれた時、私は顔を伏せました。それは私の内なるすべてのものが、主を求める様切迫した渇望を与えてくれました。」

神様が誰かの人生に触れられる時、これと同じことが起こります。その人はひざまずき、祈りの勇士となり、激しく主を求める様になります。

神様は、何故特定の人にだけ触れてこの様な緊迫感を与えられるのだろうと、私はよく思います。何故一部の神様の僕が主を飢え渇いて求める時、他の信仰深い人々は自分の道を歩み続けるのでしょうか。神様に触れられた僕達は、主と親密な関係を持っています。彼らは天から啓示を受けます。そして他の人はあまり楽しまない、キリストとの歩みを楽しみます。

何故神様はダニエルの上に手を置き、彼に触れられたのでしょう。何故彼は他の誰も見ることが出来なかったことを見、聞くことの出来ないことを聞くことが出来たのでしょう。ダニエルはこう語っています。「この幻を見たのはわたしダニエルひとりであって、共にいた人々は何も見なかった。」(ダニエル書10:7)

神様は、神様のメッセージを語る声が必要だったのです。神様は祈る僕、神様の召しに対して信仰をもって応える者が必要だったのです。ダニエルこそ、その人でした。彼は一日に3度、熱心に祈りを捧げていました.そして彼が川岸を歩んでいる時、キリストは彼に啓示を与えたのです。(ダニエル書10:7〜9参照)

神様がダニエルを神託として用いた理由は次の通りです。
1.ダニエルは祈りを止めなかったため(ダニエル書10:2〜3参照)
2.ダニエルは社会と教会の霊的堕落に関して、心を痛めていたため(ダニエル書9章参照)
3.ダニエルは罪を隠したり罪から逃れたりしようとしなかったため (ダニエル書9:4〜5)

2008年11月11日火曜日

聖霊が必要です

ある人は救われてからもう何年も経っているでしょう。ある人は一年前に救われたかも知れません。またある人は数ヶ月前、もしくは数週間前に救われたばかりかも知れません。罪から救われるということは、素晴らしいことです。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくされるのです。あなたが救われているということを、心から嬉しく思います。

しかし、私達の主、イエス・キリストの良き勇士となるためには、ただ救われているだけでは十分ではありません。あなたには、もっと大きなものが与えられているのです。あなたは聖霊によるバプテスマを受けなければなりません。

パウロの時代、聖霊の存在を知らない人々がいました。「彼らに、『信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか』と言うと、彼らは、『いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません』と言った。」(使徒行伝19:2)彼らは救われていましたが、彼らが聖霊によって満たされたり、聖霊のバプテスマを受けたりしていなかったことがはっきり分かります。

私達は、聖霊の力と御業によって救われると信じてます。しかし聖書はそれに加えて、聖霊による洗礼、満たしがあると語っています。

イエス様御自身も、弟子達と信者が聖霊によるバプテスマを受けるまで、彼らを世界に遣わされませんでした。もちろん弟子達は純粋な心を持っていたことでしょう。病む者を癒し、悪霊を追い出す信仰を持っていました。御言葉を信じ、すでにキリストについて伝道し、改宗者が生まれていました。彼らはイエス様の甦りを目撃しました。これ以上に何が必要だというのでしょうか。彼らはイエス様のために、死ぬ覚悟が出来ていました。彼らのイエス様に対する愛が、国々に出て行き神様の御業をするには十分でなかったのでしょうか。

愛する皆さん、そのどれも十分ではなかったのです。彼らにはさらに必要なものがあったのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒行伝1:8)

本当に聖霊が欲しいですか。聖霊があなたの上に降り、火によってあなたにバプテスマを授けられるのを求めておられますか。聖霊はあなたのために与えられているのだ、と完全に確信していなければなりません。自分では何者でもなく、何も持たず、聖霊による導きと力なしでは何も出来ないのだ、と確信するに至る必要があります。

聖霊が今もバプテスマを授け、信者の上に降り、その体を所有しているのだと、知るべきです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒行伝2:38〜39)

毎日、毎時、世界中で多くの人々が聖霊によるバプテスマを受けています。彼らは聖書に記された約束を目にしたか、それにまつわるメッセージを耳にしたのでしょう。それで彼らは約束の成就を主張し、洗礼を受けることが出来たのです。

聖霊によるバプテスマは、特に終わりの日に生きている人々に与えられています。「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。そのときには、わたしの霊を注ぐ。」(使徒行伝2:17〜18より抜粋)聖霊は求める者に与えられます。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカによる福音書11:13)神様はあなたが霊の内に生き、歩むことを望んでおられます。何か必要がある時、誰か他の人にその必要を満たしてもらう様、頼むべきではありません。私達は、聖霊が働かれるままに神様の御言葉を語り、病む人の上に手を置き、悪霊を追い出す様に召されているのです。私達は聖霊と力に満たされた証し者として召されているのです。

2008年11月10日月曜日

御言葉による支配

もしキリストが王国の支配者であり、私達がその支配下にあるなら、私達の人生はキリストによって支配されなければなりません。ではイエス様によって支配されるとは、実際どういうことを意味するのでしょうか。
辞書によると、「支配する」とは、“導くこと、指導すること、すべての行動やその権力下にある者の態度を管理すること”とあります。要するに、一つひとつの考えや言動を含む、私達の行動や態度のすべてを、イエス様が管理されるのを許すということです。

また、イエス様は世界のすべての国々を統べ治めておられます。聖書はこう語っています。「神はとこしえに力強く支配し、御目は国々を見渡す。背く者は驕ることを許されない。」(詩編66:7)「主は天に御座を固く据え、主権をもってすべてを統治される。」(詩編103:19)

騙されてはなりません。アメリカ合衆国は、共和党や、民主党、もしくはどんな人間の権威によって支配されているのではないのです。経済界や、大企業によって支配されているのでもありません。どんな力―この世の力も超自然の力も―合衆国やその他のどんな国をも支配することは出来ません。それが出来るのは、神様だけです。神様は王の王、主の主として、天の御座からすべての被造物を管理し、統べ治めておられます。

全米を通して、モラルの低下、オカルト団体の増加、逸脱した性の問題、無神論者のはっきりした主張などが見られます。クリスチャンの中には、地獄からの大群が、サタンの闇の王国を建て上げるために、米国をじわじわと占領していっている、と不安を抱く人達がいます。

しかし私達は恐れる心配などありません。イザヤはこう語っています。「主は、逆らう者の杖と支配者の鞭を折られた。ああ、お前は天から落ちた明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた。もろもろの国を倒した者よ。しかし、お前は陰府に落とされた、墓穴の底に。お前を見る者は、まじまじと見つめ、お前であることを知って、言う。『これがかつて地を騒がせ、国々を揺るがせた者か。』」(イザヤ書14:5、12、15〜16)

愛する皆さん、私達の神様は、サタンのことをほんの少しも心配しておられないのです。悪魔がこの国を襲っていると、私達が目にするものに対して、神様は全くやきもきしておられません。たった一言の御言葉によって、サタンは永遠に消え去り、永遠の苦しみを味わうのです。ですから、私達はどんな悪をも恐れる必要がないのです。

神様の王国、すなわち神様の民の心の内に建て上げられた王国の他には、どんな国家も完全かつ力強い神様の支配を見ることが出来ません。

イエス様は言われました。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書17:21)そして私達の心の中にある、この王国において、キリストは私達を導き、癒し、私達の言動と態度を管理されるのです。

「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。」(イザヤ書9:6)この聖句は、永遠に続くイエス様の権威について語っているのです。しかしここにはもう一つの、重要な意味があります。それは、私達が常に私達の支配に対する服従を増すべきだということです。

正直に、自分は日々イエス様の支配に対する服従を増している、と言うことが出来ますか。あなたの言動を少しずつ、イエス様の権威の下に委ねていますか。
もしイエス様が天国におられ、御父の右の座からすべてを治めておられるなら、どうやって地上での王国を統べ治められているのだろう、と思われるかも知れません。この答えは、ヘブル人への手紙に見つけることが出来ます。この手紙の著者は、旧約聖書の時代には、神様が預言者を通して語られたと記しています。しかし今日、主は御子を通して語られるのです。(ヘブル人への手紙参照1:1〜2)

イエス様は私達に与えられた、肉となった聖なる御言葉、明示的な神様のメッセージです。代わりに御父は聖霊を私達に与え、イエス様が地上にて語られた御言葉を思い出させてくれます。ですから、イエス様は文字として綴られた、明白な神様の御言葉によって、私達を統べ治めておられるのです。聖書は私達の王の笏であり、それを通して神様の御言葉を私達に示してくださいます。

もし書面として与えられている神様の御言葉によって支配されるに任せた人の証しを読みたいと思われるなら、詩編119:11にそれを見ることが出来ます。「わたしは仰せを心に納めています。あなたに対して過ちを犯すことのないように。」(119:105, 123, 133, 162をも参照のこと。)

2008年11月7日金曜日

恵みの成長を妨げるもの

エペソ人への手紙4章31節において、パウロはキリストの恵みにおける成長を促すために、私達が生活から取り除かなければならないものを列挙しています。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」

私達はパウロが並べたこれらの問題を、軽視するべきではありません。私達が恵みにおいて成長するなら、これらのことに直面しなければならないと、パウロは語っているのです。もしここでパウロの挙げている問題を無視するなら、あなたは聖霊を悲しませることになります。あなたの成長は妨げられ、あなたは霊的なゾンビとなってしまうでしょう。

パウロが挙げた最初の3つ、無慈悲、憤り、怒りは、理解し易いと思います。無慈悲とは、過去の傷を手放そうとしなかったり、過去の過ちを許さなかったりすることです。憤りとは、激しい怒りと共に、復讐を望むことです。怒りとは激高、すなわち瞬間的な憤激や、誰かに向かってじわじわと憤りを燃やすことです。悪意とは、破壊的な言葉を発すること、すなわち誰かを立て上げる言葉を発することと正反対のことです。悪意を持って語る言葉とは、敵意に満ち、誰かを傷つける言葉のことです。

わめきとは何にも無いことに対して、突然爆発すること、すなわち必要のない大騒ぎをし、無意味に大きな雑音を立てることです。些細なことを取り上げて大きな問題としたり、癒しや平和をもたらす代わりに修羅場を作り出したりすることで、私達はわめきます。

パウロのリストの最後はそしりです。そしりとは、誰かが苦しむことを望むことです。多くのクリスチャンにとって、そしりとは、自分を苦しめた人を神様が懲らしめられるのを望むことです。それは非道な霊であり、大抵心の奥底にしまい込まれています。

パウロが「これらを一切の悪意と一緒に捨てなさい」と言ったのは、即席の解決について語っているのではありません。彼は長い時を要する、成長過程について説明しているのです。時に私達は、これらの悪意をコントロールすることに失敗するかも知れません。しかし私達がすぐに悔い改め、その人との関係の修復に徹するなら、これらの問題は時が経つにつれて消え去っていきます。

2008年11月6日木曜日

爆発的な成長

私達が私達を苦しめる人達の成長を促す時、私達は恵みにおいて、爆発的に成長します。

「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。」(エペソ人への手紙 4:29〜30)ここでパウロが用いている“造り上げる”という言葉の語源には「家を建てる者」という意味があります。またその語源は「立て上げる」という語源から来ています。要するに、造り上げる者は皆、神様の家、すなわち教会を建て上げる者なのです。

パウロはここで、私達が語る言葉について3つの重要な点を挙げています。
1.私達の言葉は、神様の民を立て上げるために使うべきだということ
2.私達の言葉は、人々に恵みを与えるために使うべきだということ
3.私達の発する言葉によって、聖霊を悲しませることがあるということ

過去の偉大なる信仰に満ちた人々の伝記を読むと、私は深く反省させられます。彼らは御国中心の考え方をしていました。御言葉に熱心で、よく祈り、恵みにおける成長を願っていました。彼らの人生で最も私の心を打つのは、彼らのキリストに対する献身的な姿勢や、祈りの激しさだけではありません。もちろん、これらは彼らの内に生まれた、素晴らしい霊の実です。しかしそれよりも、私が彼らの共通点として見るのは、いかに彼らが恵みにおける成長を望み、聖い言葉が流れ出す、純粋な心が与えられる様願っていたか、ということです。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」(マタイによる福音書12:34)

私が自分の為ではなく、他の人々の為に生きようとする時、恵みにおいて成長することが出来ます。この恵みにおける成長は、家庭において、伴侶や子ども達にキリストらしさを証しすることから始まらなければなりません。自分の家庭こそ、「自分がいつも正しい」という思いを捨て去ることによって、すべての問題や誤解に打ち勝つ場所とされるべきなのです。

いつも自分が正しくなければいけない、と思わなくなることで、かつて無い程に神様の恵みを楽しむことが出来るようになりました。私達がつまらない論争に勝とうとするのを止め、お互いを立て上げることを求めるなら、すべての口論や権利の主張はなくなります。

皆さん、恵みにおいて成長しようではありませんか。

2008年11月5日水曜日

異なるタイプの僕達

旧約聖書に記されている信仰に満ちた人の偉業を読む時、私の心は燃やされます。この神の僕達は、神様の御名に対して重荷を持ち、今日のクリスチャンの多くが驚きを覚える様な、力ある業の数々を成し遂げました。

旧約時代に生きたこの聖徒らは、神様の御言葉なしに進むことを岩の様に固く拒絶しました。そして彼らは神様の宮の堕落に対し、幾日にも亘って涙を流し嘆きました。彼らは食べることも、飲むことも、体を洗うことも拒否しました。頭から髪の毛の束を、またヒゲを引き抜きました。予言者エレミアは、365日もの間、神様の来るべき裁きを警告し続け、エルサレムの街角で身を横たえました。

この聖徒達は、一体どこからその霊的な権力とスタミナを得ていたのでしょうか。彼らは全く異なる種類の人達、今日の教会で見られる僕達とは全く異なるタイプの僕達だったのです。私は自分を彼らと、又彼らの歩み方と比較することは出来ません。私は完全に彼らの様な者には、なれていません。実際、彼らの様な人は、誰一人として知りません。

このことは、私の心を乱します。聖書はこれらの旧約時代の僕達が行った偉業は、私達の教訓として記されている、と語っています。「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」(第一コリント人への手紙10:11)彼らの話は前例として、いかに神様の心を動かすか、またいかに堕落した人々を悔い改めに導くかを示すために記されているのです。

では、この聖徒達は特別な人種だったのでしょうか。彼らは、はっきり心に決めた宿命を抱き、私達の時代では見られない超自然的な力を受けた、スーパーマンの様な人達だったのでしょうか。全くそうではありません。聖書は、彼らがいかに私や皆さんと全く同じ様に、肉による熱情に悩まされていたかを記しています。(ヤコブによる手紙5:17参照)事実、彼らの前例は、私達が従うべき模範となってくれています。彼らには、神様の働きを促す様な性質がありました。だからこそ神様は、彼らを用いて御業を成そうとされたのです。そして神様は今日私達にも、彼らと同じ性質を求める様、促しておられます。

エズラは国家全体を目覚めさせた、信仰に満ちた神の人でした。聖書は、神様がエズラの上に御手を置かれたと語っています。エズラはこう証ししています。「わたしは、わが神なる主の御手の加護によって勇気を得た。」(エズラ記7:28)言い換えるならば、神様は御手を伸ばされ、エズラを抱き、彼を異なる者へと変えられたということです。

神様は何故、エズラに対してこうなされたのでしょうか。当時のイスラエルには、何百人という書記官がいました。彼らは全員、神様の御言葉を学び、人々にそれを説明するという、同じ召しを受けていました。何がエズラを、他の書記官とは異なる者にしていたのでしょうか。何が主に、この僕の上に御手を置く様、そしてエルサレム再建の為に、彼を5万人の頂点に立たせる様、導かれたのでしょうか。

聖書はその答えを記しています。「エズラは主の律法を研究して実行し、イスラエルに掟と法を教えることに専念した。」(エズラ記7:10)答えは簡単です。エズラは自分で決断したのです。彼は何事よりも、ただ神様の御言葉を求め、それに従おうと決心しました。そしてその決断からそれることがありませんでした。彼は自分自身にこう言い聞かせたのです、「私は御言葉の弟子となる。読むものすべてを実行に移すのだ」と。

神様がエズラの上に御手を置かれる前から、彼は御言葉を求めることに熱心でした。彼は御言葉が自分を探り、洗い出し、すべての肉と霊の汚れから清めるままに委ねました。エズラは飢え渇いて御言葉を求め、そこに喜びを見いだしました。彼は御言葉が、神様の選ばれたどんな召しにも答えられる様、彼の心を整えられるままに委ねました。だからこそ、神様は彼の上に御手を置かれ、彼に油を注がれたのです。

2008年11月4日火曜日

神様の特別部隊

米国軍隊の特別部隊について耳にされたことがあるでしょうか。彼らは特別な訓練を受けた、軍隊の中の軍隊であり、非常に熱心なエリート集団です。特別部隊は、上官によって招集された、完全なるボランティアによって構成されています。

アフガニスタンでの戦争が始まる前、ウサマ・ビンラディンはアメリカ軍が弱く、臆病で、山岳での戦いに対して訓練がなされていない軍隊である、と発言しました。彼はタリバン軍が、アメリカ部隊を侮辱と共に帰還に追い込むと予測していました。しかし彼は特別部隊のことを考慮していなかったのです。この恐れを知らない部隊は、たった2,000人でアフガニスタンに侵入しました。数日の間に、敵の本拠地を完全に把握することが出来たのです。

霊的な領域において、神様はこれと同じ様なことをなされている、と私は信じています。祈っている間に、私は聖霊によって感銘を受けました。神様は天において、極秘作戦にあたっておられているのです。神様は、通常部隊の中から、ボランティアによるエリート軍を、軍隊の中の軍隊として起こそうとしておられます。この特別部隊は、神様が敵との戦いにおいて、直接触れ、動かすことが出来る勇士達から構成されています。この状況は、サウルの特別部隊について記した箇所で、目にすることが出来ます。聖書はこう記しています、「神に心を動かされた勇士たちは、サウルに従った。」(サムエル記上10:26)

今日の神様の特別部隊は、若者も、中年者も、年配者をも含みます。彼らは皆、隠れた部屋においての祈りによって、ずっと訓練されてきました。イエス様と親密な時間を持つことで、彼らはどの様に戦えば良いかを学んできたのです。ですから、彼らは例えそれが山岳戦であっても、盆地での戦いであっても、どの様な霊的領域においても戦う術を知っています。

神様の軍隊の中の軍隊は、すべての国々に置かれています。その戦略はまだ極秘となっているかも知れませんが、そのうちにキリストの御名と力によって行われる戦術が、明らかにされることでしょう。神様の御言葉が成り、飢饉は終着に向かっています。主は勝利を取られます。その御言葉は、すべてに打ち勝ちます。

「自分の神を知る民は確固として行動する。」(ダニエル書11:32)

「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40:31)

2008年11月3日月曜日

神の家族

キリストの御名による力を主張することは、難しく、隠された神学的な真実ではありません。私の書斎には、イエス様の御名についてのみ書かれた本がたくさんあります。これらの著者達は、キリストの御名に秘められた奥義を、信者達がさらに深く理解出来る様にと、執筆したのです。しかしこれらの本の多くは、あまりに深くまで探求しているため、読者の理解力を遥かに超えてしまっています。

イエス様の御名について私達が知るべきことは、幼子でも理解出来るような、非常に簡単なものである、と私は信じています。それは基本的にこういうことです。「イエス様の御名によって求める時、それはイエス様御自身が御父にお願いしているのと同じことなのだ、と私達が完全に確信するべきである」ということです。「これは本当だろうか」とあなたは思われるかも知れません。その理由をご説明しましょう。

私達は、神様がいかに御子を愛しておられるかを知っています。神様はイエス様と共に語り合い、イエス様が地上におられた間、彼を教え続けられました。そして神様は、イエス様の祈りをすべて聞かれただけでなく、そのすべてに対してお答えになられました。イエス様はこのことについて、証ししておられます。「神様はいつでも、わたしに耳を傾けておられる」と。言い換えれば、御父は御子の願いを、一度も退けたことがないということです。

今日、イエス様を信じる者は皆、彼の御子としての権利を衣としてまとっているのです。そして天のお父様は、心から私達を御自身の子どもとして受け入れてくださいます。何故でしょうか。それは私達が、キリストと霊的に結ばれているからです。十字架と復活を通して、イエス様は私達とお父様を結びつけてくださいました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(ヨハネによる福音書17:21〜23より抜粋)

簡単に言うなら、私達は今や神の家族である、ということです。御父と一つであり、また御子とも一つなのです。私達は養子縁組をしていただき、すべての子どもが受け取る相続権を完全に与えていただきました。すなわち、天におけるすべての力と富は、キリストによって、すべて私達に与えられているということです。

“イエス様のお名前を通して”祈ることは、単なる方程式ではありません。このフレーズを口に出すことによって、力が生まれる訳ではないのです。その力は、イエス様が私達の主張を取り上げ、御自身の持つ特権によって私達を御父の元に導いてくださる、と信じることから来ます。イエス様は私達の代弁者、すなわち私達の代わりにお願いしてくださる方なのです。その力は、御父が御子の願いを退けたことがなく、私達が御父の御子に対する誠実さの恩恵を被る者であると、完全に信じることから来ます。