2009年11月30日月曜日

神様に近づくこと

私は祈りの中で、主を求めてこう尋ねました。「あなたが私たちをあなたの宮とされる上で、最も大切なことは何ですか。」私の感じた答え、それは大胆さと確信を持って近づくことです。

パウロはキリストについてこう言っています。「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」(エピソ人への手紙3:12)

イ スラエルの神殿では、神様に接近することは非常に限られていました。事実、それは大祭司のみに許されていたことで、しかも一年に一度だけでした。その時が 来ると、祭司は神殿で、神様の臨在に恐れとおののきをもって入りました。彼は心の内に赦されていない罪がありながら償いの座に近づくならば、滅ぼされてし まう可能性があると知っていたからです。

今日神様は、小さく限られた部屋から出て来て下さいました。そして神様は、汚れと腐敗に満ちた私 たちの所に直接来て下さいます。神様は「あなたの内に住まうために来ました。あなたの汚れや絶望をわたしから隠す必要はありません。わたしがあなたを選ん だのは、あなたを求めているからで、あなたの体をわたしの家、宮、住まいに変えるところです。」

「あなたを清める聖霊を遣わします。御霊 はあなたの心をわたしの宮として備えるために、すべての心の部屋をきれいに掃除しますが、それだけではありません。あなたをわたしのすぐ隣に座らせて、わ たしの御座に大胆に確信を持って近づくよう促します。力、恵み、強さ、そして必要なものすべてをわたしに求めてきて欲しいのです。あなたがそれらすべてに アクセス出来る様、わたしは御国をあなたの元へと持って来ました。あなたは裕福なのに、それに気が付いていないのです。あなたはわたしの栄光の相続人なの です。」

あなたの体が清い唯一の理由は、聖霊がそこに住んでおられるからです。そしてその清さが保たれているのは、聖霊の臨在と力が常に あるからこそなのです。あなた自身に出来ることではありません。すべての出入り口を見張ろうとするだけで、あなたは取り乱してしまうでしょう。出入り口か ら入ってくるすべてのほこりやゴミを防げなかった時、あなたは落胆してしまうでしょう。ほこりを掃き出し、部屋をきちんと整えようと、部屋から部屋へ走り 回ることで疲れ切ってしまうでしょう。

すべてのクリスチャンはこの事実に喜ぶべきです。神様はあなたの内におられます。そして神様は常にあなたと共におられます。一体誰があなたに敵対することが出来るでしょうか。

2009年11月27日金曜日

心の拡張

伝道者であるジョージ・ホワイトフィールドとジョン・レスリーは、歴史上でも指折りの説教者でした。彼らは集会場、街頭、公園、刑務所などで何千人もの会 衆に向かって説教し、彼らのミニストリーを通して、多くの人々がキリストに導かれました。しかし、どうやったら人は清められるかという教理において、二人 の間に食い違いが生じました。どちらもそれぞれの言い分を主張し、ひどい言葉が交わされ、それぞれの支持者の間でも見苦しい口論が繰り広げられました。

ホワイトフィールドの支持者の一人が、ある日彼の元にやって来てこう尋ねました。「ジョン・レスリーを天国で見ますかね。」彼が聞こうとしていたのは、「もし彼が大きな間違いを説いているなら、どうしてレスリーが救われるだろうか。」ということでした。

ホワイトフィールドは、「いや、私たちがジョン・レスリーを天国で見かけることはないだろう。彼はキリストのいと高き王座の近く、主のすぐ側にいて、私たちが彼を見かけることは出来ないだろう。」と答えました。

パ ウロはこの様な魂を、「心の拡張」と呼びました。そして彼自身も、コリント人への手紙を書く中でそれを経験しました。コリントの教会には、パウロを厳しす ぎると非難し、彼の教えをあざ笑う人達がいたからです。パウロは彼らに保証しました。「コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く 開きました。」(第二コリント6:11)

神様があなたの心を拡張される時、突然非常に多くの障害や限界が取り去られます。もはや限られた 視野でものを見ることはありません。その代わり、聖霊があなたを痛みと苦しみにある人々に導かれるのに気付くでしょう。そして苦しみにある人々は、聖霊の 不思議な引力によって、あなたの憐れみ深い魂に引き寄せられて来るでしょう。

では、あなたが苦しんでいる人々を目にする時、心に優しさや 穏やかさはあるでしょうか。兄弟や姉妹が罪につまずいていたり、問題を抱えていたりするのを見た時、あなたは彼らの生き方で何が間違っているのか伝えたく なるでしょうか。パウロは、苦しんでいる人たちは柔和で穏やかな霊の内で回復されなければならないと言っています。彼らはイエス様が示された霊に出会わな ければいけないのです。

これが私に残された人生での心の叫びです。「神様、どうか私の心からすべての偏見を取り去ってください。苦しんで いる人達に対してあなたの憐れみ深い霊を、罪にある人達に対してあなたのゆるしの霊を、与えて欲しいのです。彼らの咎めを取り去るために、あなたの回復の 霊を与えて欲しいのです。」

「どうか私の心からすべての閉鎖的な思いを取り去り、敵をも愛することが出来る様に、私の心の度量を広げて下 さい。私が罪を犯している人に近づく時、裁きを持って近づかないようにして下さい。そうではなく、私の心の内に、彼らに対する聖なる愛の川が湧き出でる様 にして下さい。そして彼らに示された愛が、他の人々への愛として燃え続けるようにして下さい。

2009年11月26日木曜日

神様は教会を愛しておられる

本来のキリストの教会は、主が目に入れても痛くないと思われるようなものです。しかし当初から神の教会は、背信者や偽教師に悩まされていました。初代教会 -パウロや他の弟子達によって築かれた使徒の体-には神様の豊かな助言がありました。キリストに従う者には、成長と揺るぎなさを育てるものは何一つ、差し 控えられることがないのです。彼らには、言葉だけではなく事実や行動として表された真理と、聖霊の力が与えられたのです。

パウロはテモテ に、神の民の内で何人かは「健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真 理から耳を背け、作り話(象徴的な真理)の方にそれていくようになる」時が来ると忠告しました。(第二テモテ4:3~4)

歴史は、パウロが予想した通りのことが起きたと記録しています。使徒たちが亡くなり、彼らの教えを直接受けた世代も亡くなった後、邪悪な過ちの陰謀が、教会を押し流したのです。信者たちは奇妙な教義に惑わされ、科学と哲学がキリストの福音の真理を腐食させていったのです。

パ ウロがキリストの教会の純粋さについて述べたことを考えてみて下さい。「キリストは教会を愛し、教会のために御自分をお与えになりました。キリストがそう なさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教 会を御自分の前に立たせるためでした。」(エペソ5:25~27)

神様が非常に心配されているのは、背信教会に関してではありません。背 教でさえ、イエス・キリストの教会を殺したり、滅ぼしたりすることは出来ません。これらの問題があっても、神様はすべてを統べ治めておられ、神の神秘的で 目に見えない勝利者なる教会は、死に瀕することなどないのです。それどころか、聖霊の川が背信教会の「死海」に流れ込み、不正や生ぬるさをさらけ出してい くのです。そしてそれは、新しい命が生まれる源となります。

生気のない、死んでいた教会から戻ってきた人達は、ただ幸運な生き残りかも知 れません。それでもイエス様はこう、宣言されています。「畑は収穫に満ちている。そして今はまだ労働者が頑張り抜く時なのだ。」聖書の中にはどこにも、枯 れた収穫だけを残して聖霊が逃げ去ってしまったという記述はありません。神様の霊はまだ、豊かに働いておられます、罪を明らかにし、懇願し、失われた魂を キリストに引き寄せるために。そして背信者たちもその、失われた魂の中に含まれているのです。

天にある証し者の大群は、裁きを求めたり、砦を守ることだけに努力を費やしたりしてはいけないと、私たちに語ってくれることでしょう。今はまだ、聖霊の時なのです。そして聖霊は進み出るすべての器を満たそうと、待っておられるのです。

神様は、それでも彼の教会を愛していらっしゃいます、汚れも含めたそのすべてを。

2009年11月25日水曜日

備えていなさい

マタイ24章でイエス様は、たとえを用いて再臨に備えることを語られました。「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るから である。主人がその家の使用人ちの上に立てて、時間通りに彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たと き、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。」

「しか し、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない 日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイ24:44-51)

こ こでイエス様が語られている僕とは、信者のことです。一人の僕は忠実で、もう一人は悪い僕と呼ばれています。何が二番目の僕を、神様の目に悪い僕と映させ るのでしょうか。イエス様によると、彼は主人の帰りが遅いと思ったからです。(24:48)この僕は、その考えを口に出したり、他の人に伝えたりしていま せん。しかし彼は心の中でそう思ったのです。彼は心を「主の帰りは遅い」という悪魔の偽りに売り渡してしまったのです。ここで彼は「主は帰ってこない」と 言っているのではなく、「主の帰りは遅い」と言っていることに注目してください。すなわち「イエス様は思いがけない時に突然来られたりはしない。私が生き ている間に再臨はないだろう。」と言っているのです。

この「悪い僕」とは、明らかに一部の信者のことです。もしくはミニストリーの一部と なってさえいるかも知れません。彼は人の子は思いがけない時に来るから、目を覚まし、準備していなさいと命じられていたのです。(マタイ24:44) し かしこの僕はサタンの偽りに耳を貸すことで、緊張の糸を緩めてしまいました。

イエス様は、この様な思考がどんな結果をもたらすかを示され ました。もし僕が主の帰りが遅くなると確信するなら、彼は正しく生きることの必要性を見出さないでしょう。無理に彼の仲間と仲直りしたり、職場、家庭、教 会で一致を保ったりする必要も感じないでしょう。仲間の僕を殴り、責め、恨み、彼らの評判を落としたりするかも知れません。ペテロが言ったように、この僕 は欲望に突き動かされていました。彼は悪事にふけりながらも、義なる裁き主の手からは免れていると信じ、二つの世界に生きようと思っていたのです。

2009年11月24日火曜日

悪魔の偽り

私たちが試練や試みにある時、サタンは偽りを持ってやって来ます。「お前は完全に閉じ込められていて、抜け道などどこにもない。お前より素晴らしい僕たち が、これと同じ位の状況にあって投げ出してしまった。今度はお前の番だ。お前は落伍者。そうでなければどうしてこんな状況に陥るだろうか。こうなったのも お前のせいで、神はお前に落胆しているのだ。」

試練のただ中にあって、ヒゼキアは自分の無力さを認めました。王は彼に向けられた怒りや失 望の声を止めることも、脅威や偽りを止めることも出来ないと理解したからです。彼は自分の力では戦いから抜け出せないと知っていたので、主に助けを求めま した。そして神様は預言者イザヤを遣わし、このメッセージをもってそれに答えました。「主はあなたの叫びを聞かれました。さあ、あなたの心の扉にいるサタ ンに向かってこう言いなさい『お前こそが落ちていくのだ。ここに来たのと同じ様に、ここから出て行くのだ。』」

ヒゼキアは、もう少しで敵 の罠に陥るところでした。実際、もし私たちがサタンの偽りに立ち向かわなければ、私たちが危機に瀕する時に、信仰に立ち返って祈らないならば、もし神様の 救いの約束からくる力を得ようとしないならば、悪魔は私たちの揺らぐ信仰を奪い去り、さらにその攻撃を強めることでしょう。

ヒゼキアは預 言者がもたらした言葉によって励まされ、センナケリブに向かってはっきりとこう言うことが出来ました。「悪しき王よ、あなたは私を冒涜したのではない。あ なたは神に対して偽ったのだ。私の主は必ず私を救い出される。そしてあなたが彼を冒涜したから、あなたは彼の怒りを受けることになる。」

聖書は、その夜神様が超自然的な方法で、ヒゼキアとユダを救い出されたと語っています。「その夜、主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で18万5千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。」(列王記下19:35)

今 日の信者は、約束だけでなくイエス・キリストが流された血潮の上にも立っています。そしてその血潮によって、私たちはおとずれるすべての罪、試み、戦いに 勝利するのです。もしかしたら、あなたは最近悪魔から手紙を受け取ったかも知れません。あなたに尋ねます、「神様はあなたのすべての試練を予想していたと 信じますか。あなたが犯すすべての愚かな行動も、あなたのすべての疑いや恐れも。もし信じるなら、ダビデの良き例があります。彼はこう祈りました。『この 愚かな者は神に向かって叫びました、すると主は彼を救い出されました。』あなたも同様にしますか。

2009年11月23日月曜日

平安と聖霊

イエス様は、一体誰に彼の平和を授けているでしょうか。あなたは「私はキリストの平和の内に生きる価値はない。私の人生は苦難で満ちていて、私の信仰は弱すぎる。」と思っているかも知れません。

イエス様が彼の平和を与えた最初の人達のことを考えてみると良いでしょう。彼らは平和を受ける価値があった訳でも、平和を受ける権利があった訳でもありませんでした。

ペテロのことを考えてみて下さい。イエス様は彼の平和を、その後すぐに彼をののしった福音の僕に授けようとされました。ペテロは熱狂的にキリストを愛していましたが、同時にそのキリストを知らないと言ったのです。

またヤコブとその兄弟のヨハネはどうでしょう。彼らは競争心が激しく、いつも評価を受けることを求めていました。彼らはイエス様が天に昇られ栄光の御座に着く時、その右と左に座らせて欲しいと願い出ました。

そ の他の弟子達も、決して彼らより正しかった訳ではありません。彼らは自分達より上に立とうとしたヤコブとヨハネに向かって怒りを煮え立たせました。そして トーマスは疑いに負けてしまった神の人でした。弟子達の信仰のなさに、イエス様はただ驚きとストレスを感じられました。事実、キリストが最大の苦しみに あった時、彼らは全員キリストを裏切って逃げ出してしまいました。復活の後「イエス様が甦られた」といううわさが広がっていたにも関わらず、弟子達はなか なかそれを信じようとしませんでした。

しかしこれだけではありません。多くの人達は混乱していました。彼らは主の道を理解せず、イエス様が語られたたとえ話によって、困惑していたのです。イエス様が十字架にかかられた後、彼らは団結力を失い、四方八方へと散らばってしまいました。

何という光景だったでしょう。彼らは恐れ、疑い、不一致、悲しみ、混乱、ライバル意識、プライドに満ちていたのです。しかしイエス様が「わたしの平和を授ける」と言われたのは、同じこの悩める僕たちに対してだったのです。

弟 子達は、彼らが正しい人だったり、良い人だったりしたから選ばれたのではありません。それは非常に明らかです。また、彼らが優秀だったり、特別な才能を 持っていたりしたから選ばれたわけでもありません。彼らは漁師や、日雇い労働者で、地位の低く、意気地のない人達でした。ただキリストは、そんな彼らの心 に何かを見出したので、彼らを弟子へと召し出したのです。彼らを見つめられた時、キリストは、彼らがそれぞれ聖霊に服従する者達だということをご存知だっ たのです。

この時点で弟子達が持っていたもの、それはキリストの平和が与えられるという約束だけでした。その約束の成就は、五旬祭まで待 たねばなりませんでした。その時になって初めて聖霊が降り、彼らの内に住まわれたのです。この平安は、御霊が私たちにキリストを明らかにする時やって来ま す。あなたがイエス様を求めれば求めるほど、御霊はあなたに彼を示されます。そしてそれに伴って、キリストの真の平安があなたに与えられるでしょう。

2009年11月20日金曜日

神様の関心の中心

世界中のすべてが揺れ動いている中、神様の関心はどこにおかれているのでしょうか。中近東での出来事でしょうか。いいえ、聖書は神様の視線が、神様の子ど も達の上に注がれていることを教えてくれます。「見よ、主は御目を注がれる、主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。」(詩編33:18)

私 たちの主は、この地上で起こっているすべてのこと、すべての生き物の動きの一つひとつをご存知です。それでも主のまなざしは、まず彼の子ども達に注がれて いるのです。主は霊の体のメンバーである一人ひとりの痛みや必要を見つめていらっしゃいます。簡単に言うならば、私たちを苦しめるものが、神様の関心の中 心ということです。

それを証明するために、イエス様はこうおっしゃっています。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れる な。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)世界中で大きな争いが起こっていても、神様の関心の中心は暴君たち に置かれていません。神様の関心の中心は、その子どもたちが置かれている一つひとつの状況です。

キリストは、すぐその後の箇所でこう言っ ています。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」(マタ イ10:29)キリストの時代では、雀は貧しい人達の食肉として、二羽約一円で売られていました。しかしイエス様は、「こんな小さな生き物でさえ、あなた がたの父が知らずに地に落ちることはない。」と言われたのです。

この箇所でイエス様が使われた「落ちる」という言葉には、鳥の死よりもさらに大きな意味が含まれています。アラム語での意味は「地面に降りて止まる」となります。すなわち、この「落ちる」という言葉は、一羽の小さな鳥による小さな動きの一つひとつを表します。

キ リストは私たちに、こう語っておられます。「あなたがたの父の御目は、雀が死ぬ時だけではなく、それが地面に降り立った時でさえ、その雀の上に注がれてい ます。雀が徐々に飛び方を学ぶにつれ、それは巣から降り立ち、地面の上でちゅんちゅん飛び跳ねます。神様はその小さな努力の一つひとつを見ておられるので す。雀の生涯に起こることすべてに関心を持っておられるのです。」

そしてイエス様はこう続けられます。「だから、恐れるな。あなたがた は、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(10:31)実に彼は、「髪の毛までも一本残らず数えられている」とおっしゃっています(10:30) すなわち、星を創られそれを数えられた方は、ローマ王国の動きのすべてを見守られた方は、銀河系をその軌道の内にとどめられる方は、あなたの上にその御目 を注がれているのです。そしてイエス様は尋ねられます、「あなたは彼にとって、さらに価値のあるものではないですか」と。

2009年11月19日木曜日

驚くべき平安!

イエス様は私たちが何故彼の平安が必要なのか、幾つかその理由を挙げています。キリストはヨハネによる福音書14章30節で、「世の支配者が来るからであ る。」と弟子たちに言っています。これはどの様な状況下で語られたことなのでしょうか。イエス様はこの直前、十二弟子達に「もはや、あなたがたと多くを語 るまい」と言っています。(14:30)そして「世の支配者が来るから」というのがその理由なのです。

イエス様はその時サタンが働かれて いるのをご存知でした。悪魔は既にイエス様を裏切るためにユダに入っていました。そしてキリストはエルサレムにいる宗教家たちが、地獄の力に促されている のをご存知でした。さらに悪魔に触発された暴徒らが、もうすぐ彼を捕らえに来ることもご存知でした。そんな状況下でイエス様は、「邪悪なものであるサタン が来ている。だからもう、あまりあなた方とは話すことが出来ない。」と言われたのです。

イエス様は襲い掛かろうとしている戦いに備えるた め、お父様との時間を持つ必要があることをご存知でした。イエス様は、かつてご自身が言われたとおり、間も無く悪の手に引き渡されるところでした。そして また、サタンがイエス様の平安を何とかして乱そうとしているのもご存知でした。悪魔は何とかして十字架にかからせないようにするために、イエス様を苦しめ て落胆させ、父によせる信頼と信仰を砕こうとしました。

あなたは苦しみの中で「もう終わりだ。私には出来ない。」と思うことがあるかも知れません。しかしイエス様は「わたしはあなたに何が起こっているか知っています。来て、わたしの平安を飲みなさい。」と言われるのです。

今、あなたは人生の中で最も厳しい困難に直面しているかも知れません。あなたの人生は不安定で、絶望的に見えるかも知れません。抜け道が全く見えず、どの道を選んでも、さらなるストレスや困惑や疲労に溢れるだけの様に思えるかも知れません。

あ なたがどんな経験をしていても関係ありません。あなたの人生が竜巻に襲われたと感じているかも知れません。他の人が「この人は現代のヨブだ」と思うくらい の困難を耐えているかも知れません。しかしそれらの困難のただ中で、あなたがキリストの平安で洗礼を授けて下さいと聖霊に呼び求める時、御霊は必ずそれを 成して下さいます。

人々はあなたに向かってこう言うでしょう、「あの人の人生は完全に崩壊してしまった。でも彼は人生をかけて神様の御言 葉に信頼しきっている。どうやったらそんなことが出来るだろうか。どうやって耐え続けていられるのだろう。もうずっと前に諦めていて当然なのに。でもまだ 彼は耐え続けている。それに彼が信じていることを妥協したりしない。何て平安だろう。信じられない。」と。

2009年11月18日水曜日

証人の群れ

ヘブル書121に、 世界はキリストと共に栄光にある証人の群れに取り囲まれていると記されています。この天にいる大勢の証人たちが、今日の世界に語ろうとしているのは、一体 どんなことでしょうか。私たちはノアの時代よりも、はるかに邪悪な世界に住んでいます。天の証人たちは、ソドムの罪よりもさらに重い罪を犯し続けている今 の人類に、何を言おうとしているのでしょう。

私 たちは歴史的にも最も繁栄した時代の一つに生きています。経済は祝福されていますが、社会は非常に不道徳で、暴力的で、神に敵対するものとなってしまい、 世俗主義者までもがここまで堕ちてしまったことを嘆いているくらいです。世界中のクリスチャンは、この様な邪悪な社会になぜ神様が裁きをもたらすのを遅ら せておられるのか、不思議に思っています。

キリストを愛する私たちは、なぜこの様なおぞましい悪がはびこり続けるのが許されているのか、理解出来ないかも知れません。しかし、天にある証人の群れは理解しています。彼らは神様が示された憐れみと忍耐の深さを疑ったりしないからです。

使 徒パウロはその証人の群れの一人で、「罪人の中の罪人」をさえ救われた、神様の絶大な愛を証言しています。パウロの人生と様々の文献は、彼がかつてキリス トの御名を冒涜したことを示しています。彼は神の民を狩り出しては、牢屋に入れたり殺したりするテロリストでした。パウロはこう言うでしょう、神様がこの 世界に対して忍耐を示されるのは、かつての彼の様に、何も知らずに罪を犯す人がたくさんいるからだと。

使 徒ペテロもまた証人の群れの一人で、彼もなぜ神様がこれほどに我慢強いかよく理解しています。ペテロの人生と様々の文献は、彼がイエス様を冒涜し、全く知 らないと誓ったことを記録しています。神様が裁きを下すのを抑えられておられるのは、かつてのペテロのように神様を冒涜したり否定したりする人がまだたく さんいるからです。主がペテロを決して見放されなかった様に、主は彼らを決して見放されたりしません。イエス様がペテロのために祈られたように、まだ祈り 続けておられる人がたくさんいるのです。

私がこの証人の群れに思いをはせる時、以前薬物やアルコール依存症だった人達、売春婦や同性愛者だった人達、ギャングメンバーや麻薬密売人だった人達、殺人やDVを行っていた人達、不倫やポルノに明け暮れていた人達の顔が浮かんできます。彼らは社会から見捨てられていた人達です。彼らは皆、悔い改めてイエス様の腕の中で自分に死に、今では憐れみと忍耐と愛に溢れるお父様の証し者となっています。

私 は彼らの全員が一丸となってこう証しすると信じます。イエス様は彼らがイエス様の憐れみを受け取る前に裁かれることはないと。神様はまだこの不道徳で狂っ たこの世界を愛して下さっています。どうか主が、主が愛されるのと同じ位、私たちも失われた魂を愛することが出来るよう助けて下さいますように。そして主 が世界に今示されている忍耐と愛を持てる様、祈ることが出来ます様に。

2009年11月17日火曜日

聖霊が注がれる時

預言者イザヤは、聖霊が人々の上に注がれる時何が起こるかを説明しています。「ついに、我々の上に、霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり、園は森と見なされる。」(イザヤ書3215

イ ザヤが語っているのはこういうことです。「聖霊が下る時、かつて不毛であった荒地は収穫の畑となる。枯れきっていた一画が、突然実りで溢れる。そしてそれ は一時だけの収穫ではない。その収穫の畑は森へと成長する。あなた方は毎年その森から収穫を採ることが出来、その収穫を増やし続けていくことが出来る。」

さらにイザヤはこう続けています。「そのとき、荒れ野の公平が宿り、園に正義が住まう。」(3216)預言者が言うに、聖霊は罪に対する裁きのメッセージをももたらします。そしてこのメッセージは、人々の内に正義を生むのです。

イザヤは、人々が「リバイバル」と呼ぶ、単発的な聖霊の注ぎを語っているのではありません。イザヤが語っているのは、継続的なもののことです。クリスチャンの社会学者らが行った研究によると、近年のリバイバルのほとんどは平均約5年 で、活気付いていた状態から混乱と意見の衝突の内に去っていってしまうそうです。私はいわゆるリバイバルを経験した教会が、今となっては、ほんの数年のう ちに聖霊の面影を失ってしまったのを知っています。それらの教会は乾ききり、空虚で、死んでいるかのようです。かつては千人もの信者が集った会堂が、今で はたった50人が集うのみで、まるでうつろな墓のようです。

イザヤはこう続けています。「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿、憂いなき休息の場所に住まう。」(イザヤ書321718

正 義が働いているからこそ、平安があります。聖霊はすべての不安、混乱、非難を払い除けるのに大忙しです。その後に続くのは、平和な心、平安な家庭、神の教 会での平安です。そして神の民がキリストの平安にある時、彼らはたいがいのことでは動揺しなくなります。「しかし、森には雹が降る。町は大いに辱められ る。すべての水のほとりに種を蒔き、牛やろばを自由に放つあなたたちは、なんと幸いなことか。」(321920

イ ザヤの聖霊に関する預言は、ウジヤの治世にあるイスラエルに向けて語られたものでした。しかしこの同じ預言は、今日の神の民にも当てはまります。これは二 重の預言と言われているものです。実際、どの世代も聖霊の注ぎが必要です。そして今日の教会は、聖霊が本当に成し遂げようとされていることと比べれば、ま だ何も見ていないのです。

2009年11月16日月曜日

心配することは異邦人のすること

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。」(マタイ63132

イ エス様は心配すること-将来の家族や仕事、どうやって生活していくかなどを思い悩むこと-は異邦人の生き方だと言っています。ここでイエス様が言われる 「異邦人」とは、天のお父様を知らない人達のことです。彼らは、神様が御自分を彼らに示されたいように、すなわち、優しさに満ち、必要を満たし、愛に溢れ た天のお父様なのだということを知らないのです。

「だから、明日のことまで思い悩むな。」(34) この明白な言葉によって、イエス様はこう、私たちに命じておられます。「明日何が起こるとか起こらないとか、考えたり心配したりしなくともよい。あなた方 は何一つ変えることは出来ないのだから。それに、心配することで何の助けにもならないのだから。もし心配するなら、あなた方は異邦人のすることをしている のです。」そしてイエス様は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(33節) と言われました。要するに、あなたはただイエス様を愛し続ければ良いということです。ただ前に進み、すべての心配を彼に委ねていくべきなのです、必ず約束 を守られる神様の内に安らぎを覚えて。あなた方の天のお父様は、生きていく上で必要なものが一切備えられるよう、ちゃんと見届けて下さいます。

神 様を信じている、と告白する人が心配したり心を悩ませたりする様子を見て、天使たちが当惑していないかと思うことがあります。私たちがまるで面倒を見てく れる天のお父様がいらっしゃらないかのように心配する姿勢は、天使たちにとって、神様に対する無礼で失礼な態度と映っているでしょう。天使たちは困惑しな がら、このような質問を投げかけ合っていることでしょう。「天にお父様がいないとでもいうのだろうか。神様が彼らを愛しておられることを信じていないのだ ろうか。神様は彼らのすべての必要をご存知だと伝えなかったとでもいうのだろうか。鳥やその他すべての動物を養われる方は、彼らをも養われ、着物をご準備 されないと思っているのだろうか。神様が力と富のすべてを支配しておられ、被造物すべての必要を満たすことが出来ると知っていたなら、なぜ心配したり恐れ たりするのか。天のお父様が約束を守られなかったかのように、彼らの面倒を見なかったと責めるつもりだろうか。」

あなた方には天のお父様がおられます。彼を信用しなさい。

2009年11月13日金曜日

励ましのミニストリー

使徒行伝27章 でパウロはローマ行きの船に乗っており、その途中にシドンという場所に寄港したことが記されています。パウロは囚人を取り仕切っていた百人隊長に、シドン にいる友人を訪ねても良いかと聞きました。「ユリウスはパウロを親切に扱い、友人たちのところへ行ってもてなしを受けることを許してくれた。」(使徒行伝273)ここでも神様が信者を用いて、他の信者を力づけられた例が見られます。

また、パウロがある兄弟に向かって書いた第二テモテでも同じことが言えます。

「ど うか、主がオネシフォロの家族を憐れんでくださいますように。彼はわたしをしばしば励まし、わたしが囚人の身であることを恥とも思わず、ローマに着くとわ たしを熱心に探し、見つけ出してくれたのです。(中略)彼がエフェソでどれほどわたしに仕えてくれたか、あなたがだれよりもよく知っています。」(第二テ モテ116-18

オ ネシフォロはパウロの霊にある息子の一人で、彼を非常に愛し慕っており、パウロが苦しみにある時、彼を探し出し無条件に深く愛を注ぎました。ある時、パウ ロが牢屋に入れられている時、オネシフォロはパウロを見つけるまで、町中を探し歩きました。その理由は単に、「私の兄弟が苦しんでいる。船が難破する恐れ に遭い、今はサタンからの攻撃に遭っている。彼を励ましにいかないと。」ということでした。

励 ましのミニストリーは、痛みや苦しみにある人達を探し出すということを含んでいます。今日教会では、力について色々耳にします。癒しを与える力、失われた 魂を勝ち取る力、罪に打ち勝つ力・・・しかし私が言いたいのは、励まされ、新しくされた人から、素晴らしい癒しの力が流れ出るということです。うつ、精神 的な苦痛、また悩みに満ちた魂は、様々な肉体的な病をもたらします。しかし、力づけられ、励まされた魂-受け入れられ、愛され、必要とされていると感じる ことが出来た魂-は最も必要とされている癒しの香油となります。

こ の励ましのミニストリーは、旧約聖書にも見ることが出来ます。ダビデがサウル王に追跡されていた時、彼は追っ手から逃れるために日夜走り回り、非常に疲れ また苦しんでいました。この間、ダビデは神様の選んだリーダーやその民から拒絶されたように感じました。けれど非常に重要な瞬間、彼の友であるヨナタンが 訪ねてきました。「サウルの子ヨナタンがダビデのもとに来て、神に頼るようにダビデを励まして、言った。『恐れることはない。父サウルの手があなたに及ぶ ことはない。イスラエルの王となるのはあなただ。わたしはあなたの次に立つ者となるだろう。』」(サムエル記上231617

この言葉はダビデにとって十分なもので、すぐさま彼の魂はもう一度立ち上がるまでに強められました。私たちはこの様な例を聖書のいたるところで見かけます。神様は、御使いやビジョンではなく、愛する者を励ますために、仲間の信者を遣わされるのです。

2009年11月12日木曜日

慰めと力

パウロが沈んでいた時、聖霊様はどの様に彼に慰めをもたらされたでしょうか。それはパウロ自身がこう答えています。「気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。」(第二コリント76) テトスはマケドニアに新しい力に満ちた心を持ってやって来たので、パウロの心も引き上げられました。この二人の兄弟が交わりをもつ中、喜びがパウロの体、 心、魂に押し流れ、彼にこう書かせたのです。「わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。」(74) パウロは「今まで通り問題はたくさんあるけれど、主は戦いに必要なものを与えて下さった。神様はテトスを通して、私を再び元気付けて下さった。」と宣言しているのです。

私 がミニストリーに携わってきた年月の中で、神様にある兄弟姉妹がその忍耐の底をつき、弱りきり、すっかり途方に暮れてしまった状況に陥るのを目撃してきま した。愛する兄弟姉妹が苦しみにある中、私は苦悩に満ちてこう主に尋ねました。「お父様、あなたの僕である彼らは、どうやってこの苦しみの穴から抜け出す ことが出来るのでしょう。彼らを引き上げる力はどこからくるのですか。彼らを助けるために、私に何が出来るでしょうか。」

そ の答えはパウロの証しの中にあると信じます。パウロはあまりに疲れきり、自分自身を見失っていました。彼のミニストリーの中でも最も苦しい時にあり、人生 でここまで弱りきったことはないという程でした。しかしほんの数時間で、彼はその暗闇から完全に抜け出し、喜びと満足感に溢れるまでになったのです。使徒 パウロは、再び愛されていることと、必要とされていることを感じました。

何 がこれを可能にしたのでしょうか。まずコリントで何が起こったか見てみましょう。テトスが教会のリーダーに会うためにそこを訪ねた時、テトス自身、心が強 められるのを体験しました。なぜなら教会で覚醒が起こっていたのです。それは彼らがパウロの教えに心を留め、神様が彼らを大いに祝福されていたからです。

テトスは嬉しいニュースを持って、マケドニアに戻ってきました。「パウロ、コリントの教会がよろしくと言っていたよ。彼らは罪を離れ、偽預言者の問題を解決していた。彼らはもうあなたの苦しみを軽蔑せず、そればかりか、むしろあなたの証し故に喜んでいたんだ。」

愛する兄弟によってもたらされたこの吉報は、直ちにパウロを暗闇から引き上げました。「気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。」(第二コリント76) ここに挙げられた例が分かりますか。神様は人々を用いて、他の人々を力づけられるのです。神様はパウロを力づけるために天使を遣わされませんでした。彼が 受け取った慰めは、テトスの元気に満ちた魂によってもたらされたのです。テトス自身の心が元気付けられたことにより、パウロの心も元気付けられたのです。

2009年11月11日水曜日

不信仰の及ぼす多大な危険

「いっ たいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。このようにして、彼らが安息にあずかるこ とができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離 れてしまう者がないように注意しなさい。」(ヘブル書318-19,12

ヘブル書は新約聖書時代の教会に、こう警告しています。「イスラエルの例に心を留めなさい。そうでないと、あなた方も同じ間違いを犯し、邪悪な不信仰に陥ってしまうでしょう。そしてあなたの人生は長く続く荒野の旅へと変わってしまいます。」

荒 野へと送られた不信仰な世代の人々に何が起こったか、考えてみて下さい。神様は彼らのリーダーに、士師に、そしてレビ人を始めとする人々に、主の御手が彼 らに厳しく下るであろうと鋭く語られました。それ以降、民は苦悩と魂の貧困を知ることになるのです。神様の栄光を仰ぎ見るのではなく、自分たちの問題に目 を向け、欲望に身を焦がすようになるのです。

こ れは、すべての不信仰の人に起こることです。彼らは自分の幸せのためにすべてを注ぎ尽くします。ビジョンも、神様の臨在に対する敏感さも、祈りの生活もあ りません。隣人や、失われた世界、ついには友達のことも気にしなくなります。その代わりに、一切の関心は自分自身の問題や悩み、また病に注がれます。一つ の危機から次の危機へと、自分の痛みと苦しみの中に引きこもってしまいます。そして彼らの人生は、混乱、紛争、ねたみ、分裂で埋まっていきます。

信仰なしでは、神様を喜ばせることは不可能です。神様が葦の海を分けて、イスラエルの民を安全に通された後、彼らは喜び踊りました。しかしそのたった三日後、この同じ民が神様に向かって不平を言い、ぶつぶつと愚痴をこぼし、神様の臨在を疑いだしたのです。

38年間に亘り、モーセはこの不信仰な世代が一人ずつ死に絶えていくのを見ました。荒野にて命を落としていった人達の人生を振り返りながら、モーセは神様が警告されたことが実現したのを見ました。「主の御手が彼らに向けられ、彼らは死に絶えたのである。」(申命記2章参照)神様はその間、イスラエルのために立てていた永遠の目的を停止されていたのです。

同 様に今日も、死ぬまでただ甘んじて存在するだけのクリスチャンがいます。彼らはリスクを背負いたがらず、神様を信じたり、成長・成熟したりすることを望ん でいません。神様の御言葉を信じようとせず、不信仰の故にかたくなになってしまったのです。彼らはただ死ぬために生きているだけなのです。

2009年11月10日火曜日

神様はあなたに心を定めています

ヘブル書121に 記されている「証人の群れ」は、あなたと私に何を語ろうとしているのでしょうか。聖書は、キリストの体にある困難に打ち勝った信仰の仲間たちが、私たちに 何を伝えたいと記しているでしょうか。それは簡単に言うならば、こういうことです。「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。」(第 一ペテロ312

この天国にいる証人の群れたちは、私たちに込み入った神学や教理について話そうとしているとは思いません。そうではなく、次のような純粋な真実というものを語ってくれると信じます。

· ヘブル書の作者は、私たちの信仰の創始者であり完成者であるイエス様を見上げるように勧めています。私たちは十字架の勝利を説き、罪人からの非難に耐え、絶えず付きまとう罪を置き去り、私たちに与えられたレースを忍耐持って走り抜かねばなりません。(ヘブル書1212参照)

· ダ ビデ王は私たちに、神様の赦しを信頼しても良いこと、また神様は決して私たちから聖霊を奪われることがないことを、証ししてくれています。ダビデは人を殺 め、姦淫を犯し、嘘をついてしまいました。しかし彼は悔い改め、天の父は彼を野放しにされることはありませんでした。なぜなら、神様はダビデに心を定めて おられたからです。

· ペ テロは私たちに、人間が持てる最高の光に対して罪を犯したことを告白しています。この弟子はイエス様と共に歩みました。彼に触れ、直接召しを受けたので す。ペテロは残りの生涯を、罪悪感と自己非難の内に生きることも出来ました。しかし神様は彼に心を定めておられたのです。

· パウロは私たちに、苦難を恐れることはないと語ってくれています。イエス様はミニストリーをされておられる間、毎日苦しまれましたし、苦しみの内に死なれました。そしてキリストがパウロに福音を述べ伝えるよう召した時、どれ程苦しみが彼を待ち受けているかを示されました。

事実、パウロはミニストリーにあった期間ずっと苦しみに遭いました。しかしそれらの苦しみは、神様が彼に心を定めておられたことの証明となりました。「このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。」(第一テサロニケ33

また、ヨブの証しを見ることが出来ます。「人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか。朝ごとに訪れて確かめ、絶え間なく調べられる。」(ヨブ記717-18

神 様があなたに心を定められる時、あなたは幾度となく試練に遭うことでしょう。実際、あなたの試練が長く厳しくあればある程、神様が深くあなたに心を留めて おられ、その愛と守りをあなたに示そうとされているのです。これがパウロの、そしてイエス様の人生が証ししていることです。敵はあなたのところにやってき ますが、主はそれに対する守りを築いて下さいました。私たちはイエス様にあって、完全に安らぎを得ることが出来ます。

2009年11月9日月曜日

信仰における究極の試練

私たち一人ひとりの人生において、そして各教会の歩みにおいて、神様が私たちに信仰上で究極の試練を与えられる時が必ずきます。それは、イスラエルの民がヨルダン川のほとりにある荒野で直面したものと同じものです。さて、それはどんな試練だったでしょうか。

そ れは巨人や、立ちはばかる高い壁や、私たちを滅ぼそうとする政権や力などといった先立つすべての危険を予測しながら、神様の約束を信じて完全に委ねること です。その試練とは、私たちの生涯を通して、神様の御言葉に信頼と確信をおくことです。それは神様が、私たちを悩ませるどんな問題や敵よりも大きい方だと 信じきるということです。

私 たちの天のお父様は、試練の度に揺れ動くような信仰を求めておられるのではありません。むしろ、生涯を通しての信仰、不可能な時にさえ主を信じ委ねきる信 仰を求めていらっしゃいます。この様な信仰は、たとえどの様な状況にあっても、私たちの魂に平安と安らぎをもたらしてくれます。そしてこの平安があるの は、「私の神様は、何よりも大きい方。すべての、そしてどの様な苦難からも、私を救い出すことがお出来になる。」と、ただ一度だけ確固たる決断をしたから です。

私 たちの主は愛に満ちた方ですが、同時に私たちが不信仰のうちに留まることを許されません。もしかしたら、幾度も幾度も試練に遭われ、大きな決断を迫られて いる方がおられるかも知れません。神様は究極の試練を耐え抜く信仰を望んでおられます。いかなる状況においても、神様があなたを守られるという信頼と確信 が、決して揺り動かされることのないような信仰です。私たちの主は愛と忍耐に満ちておられますが、主の民が不信仰のうちに留まることを許されません。

信 仰について様々な神学がありますが、簡単に言うならば、それは魔法や呪文のようにはいかないということです。信仰とは「信じます、本当に信じます・・・」 とただ繰り返すだけで生まれるものではありません。そうではなく、神様に従う決心をすることです。従うことは信頼を反映します。

イ スラエルの民がエリコの壁に直面した時、人々は何も話さず、ただ町の周りを歩くように言われました。信仰深い彼らは、「信じられるよう助けて下さい、主 よ。信じたいのです。」などと心の中でささやいたりしませんでした。むしろ、神様が命じられたたった一つのことに集中していたのです。それは神様の御言葉 に従い、ただ前進するということです。

こ れこそ信仰です。神様の御言葉に疑問を持ったり、それを軽視したりするのではなく、ただ書かれているすべてのことに従うと心に決めるということなのです。 もし私たちの心に従う決意があるならば、神様は御言葉が混乱なしにはっきり分かるようにして下さいます。さらに、主が私たちに何かを求められる時、主は従 うために必要な力と強さを与えて下さいます。「弱い者も、私は勇士だと言え。」(ヨエル410)「最後に言う。主により頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」(エペソ人への手紙610

2009年11月6日金曜日

天国

イエス様は、弟子たちがいかなる場面においても耐え抜くことが出来るような平安が必要だとご存知でした。彼は弟子たちに言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(ヨハネ1427)これを聞いた弟子たちは、驚いたに違いありません。彼らにとっては、信じられないような約束―キリストの平安が彼らの平安となる―が与えられたからです。

十二人は、イエス様と過ごした三年間で、彼の内にある平安というものに驚いていました。彼らの先生は、恐れたことなど一度もなかったのです。いつも冷静で、周囲に乱されることなど決してありませんでした。

キ リストが、霊的に怒りを覚えられることはありました。時折、心を動かされ涙したこともありました。しかしこの地上で、イエス様は平安にある人生を送られま した。彼には父からの平安がありました。誘惑にある時も、あざけられ、拒絶される時も。嵐に襲われた時も、船で他の弟子たちが恐れに震える中、イエス様は 平安の中で眠っておられました。

弟 子たちは、イエス様が彼を殺そうと謀る暴徒の手によって、裁判官の前に引きずり出されるのを見ました。それでもイエス様は冷静にその場を去り、何事もな かったかのように平安に満ちていました。これらの出来事は、弟子たちの中で様々の論議を生んだことでしょう。「なぜ彼は嵐の中で眠っていられるのか。大衆 が彼を崖から突き落とそうとする時に、どうして平静でいられるのか。人々があざけり、侮辱し、つばきをかけても、決して反撃しようとなさらない。彼を取り 乱させるものは何もない。」

そしてイエス様は、この同じ平安を彼らに与えられると約束されたのです。弟子たちがこれを聞いた時、驚きにお互い顔を見合わせて言ったことでしょう、「もしかして、先生が持っておられるのと同じ平安が与えられるということか?すごいことだ!」

さらにイエス様は続けて言われました。「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハネ1427)イエス様が言われる平安とは、無感覚で関心のずれた社会のことではありません。また、お金や物質的なもので手に入れる、お金持ちや有名人が味わう一時的な平安でもありません。それは、キリストご自身の平安、人知を超えた平安です。

キ リストが弟子に彼の平安を約束された時、それは彼らに、また私たちにこう語られていたかのようです。「わたしは、あなた方がこれから直面することを理解出 来ていないことを知っています。わたしが今から背負う十字架とその苦しみも理解出来ていません。けれども、わたしはあなた方の心を平安へと導きたいので す。これからあなた方に起ころうとしていること、それは永遠に続くわたしの平安なしには出来ないことです。あなた方には、わたしの平安が絶対に必要なので す。

2009年11月5日木曜日

キリストの平安

イエス様は、弟子たちがいかなる場面においても耐え抜くことが出来るような平安が必要だとご存知でした。彼は弟子たちに言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(ヨハネ1427)これを聞いた弟子たちは、驚いたに違いありません。彼らにとっては、信じられないような約束―キリストの平安が彼らの平安となる―が与えられたからです。

十二人は、イエス様と過ごした三年間で、彼の内にある平安というものに驚いていました。彼らの先生は、恐れたことなど一度もなかったのです。いつも冷静で、周囲に乱されることなど決してありませんでした。

キ リストが、霊的に怒りを覚えられることはありました。時折、心を動かされ涙したこともありました。しかしこの地上で、イエス様は平安にある人生を送られま した。彼には父からの平安がありました。誘惑にある時も、あざけられ、拒絶される時も。嵐に襲われた時も、船で他の弟子たちが恐れに震える中、イエス様は 平安の中で眠っておられました。

弟 子たちは、イエス様が彼を殺そうと謀る暴徒の手によって、裁判官の前に引きずり出されるのを見ました。それでもイエス様は冷静にその場を去り、何事もな かったかのように平安に満ちていました。これらの出来事は、弟子たちの中で様々の論議を生んだことでしょう。「なぜ彼は嵐の中で眠っていられるのか。大衆 が彼を崖から突き落とそうとする時に、どうして平静でいられるのか。人々があざけり、侮辱し、つばきをかけても、決して反撃しようとなさらない。彼を取り 乱させるものは何もない。」

そしてイエス様は、この同じ平安を彼らに与えられると約束されたのです。弟子たちがこれを聞いた時、驚きにお互い顔を見合わせて言ったことでしょう、「もしかして、先生が持っておられるのと同じ平安が与えられるということか?すごいことだ!」

さらにイエス様は続けて言われました。「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハネ1427)イエス様が言われる平安とは、無感覚で関心のずれた社会のことではありません。また、お金や物質的なもので手に入れる、お金持ちや有名人が味わう一時的な平安でもありません。それは、キリストご自身の平安、人知を超えた平安です。

キ リストが弟子に彼の平安を約束された時、それは彼らに、また私たちにこう語られていたかのようです。「わたしは、あなた方がこれから直面することを理解出 来ていないことを知っています。わたしが今から背負う十字架とその苦しみも理解出来ていません。けれども、わたしはあなた方の心を平安へと導きたいので す。これからあなた方に起ころうとしていること、それは永遠に続くわたしの平安なしには出来ないことです。あなた方には、わたしの平安が絶対に必要なので す。

2009年11月4日水曜日

髪の毛に指を通してごらんなさい

キリストは、終わりの日が苦しく恐ろしいものであると語っています。「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。」(ルカ2126, 25

イエス様は、この様な惨事に備えるために、私たちに何を与えて下さったでしょう。来るべき恐れに対して、イエス様ご自身はどの様な姿勢で臨まれたでしょう。

イエス様は、私たちの天のお父様がすずめを見守って下さっている例え、また私たちの髪の毛の数さえご存知だという例えを示して下さいました。これらの例えは、その語られた話の前後関係を配慮すると、さらに意義深いものとなります。

こ れらの例えは、十二弟子がイスラエルの町や村に宣教のために遣わされる時に示されました。イエス様はその直前、彼らに悪霊を追い出し、すべての病いを癒す 力を授けられたのです。弟子たちにとって、それがどれ程素晴らしい瞬間だったか、想像してみて下さい。奇跡や不思議な業を行う力が与えられたのです。とこ ろが、次に続いたのが先生からの恐れに満ちた警告だったのです。

「あ なた方はお金を携えて行ってはいけません。また、あなた方には家もありません、屋根の下で枕する所さえ。さらに、あなた方は異端や悪魔と呼ばれるでしょ う。会堂で打たれ、裁判官の前に引きずられ、牢屋に投げ込まれるでしょう。嫌われ、あざけられ、裏切られ、迫害を受けるでしょう。投石を避けるために、町 から町へ逃れなければなりません。」

イエス様のこの話を聞いていた人達の様子が想像出来ますか。恐れにすくんでしまっていたことでしょう。察するに、「なんてミニストリーだ。これが私の将来というのか。こんな暗い前途なんて聞いたことがない。」と思ったことでしょう。

しかし同じ場面で、イエス様は愛する友に三度にもわたり、こう言っています、「恐れてはなりません。」(マタイ10262831)そしてすべての恐れに対する解決を与えて下さったのです。「天の父の目は、いつもすずめの上に注がれています。彼が愛しておられるあなた方の上には、どれ程の注意が注がれていると思いますか。」

イ エス様は、こう言っておられるのです。「疑いが溢れてしまう時、なす術もなく、誰もあなたのことなど気にかけていないと思ってしまうような時、これが平安 と確信を見つける方法です。窓から外の小さな鳥たちを見つめてごらんなさい。そして自分の髪に指を通してみてごらんなさい。そうすれば、わたしがあなたに 伝えたことを思い出し、天の父にとって、小さな生き物がどれほどの価値があるか思い出すでしょう。また髪の毛に触れることで、いかにあなたの方がそれらの 生き物より、さらに価値あるものか思い出すでしょう。父の目は、いつもあなたに注がれています。そしてあなたの一挙一動をすべてご存知の方は、あなたのす ぐ側におられます。」

このようにして、天の父は苦しみにある私たちを気にかけて下さっています。

2009年11月3日火曜日

どんな状況でも

パウロはローマで裁判にかけられるにあたり、ひどい状況下に置かれていました。(フィリピ人への手紙11314参照)常時兵士によって監禁され、彼の足は右と左にいる兵士にそれぞれつながれていたのです。彼らは粗野で、頑なで、言葉遣いもひどいものでした。また彼らにとっては、牢屋に入れられている者は全員罪を犯した犯罪者で、パウロもその内の一人と思われていました。

パ ウロが受けた侮辱の数々を想像してみて下さい。一人の時間は全くなく、自由な時間はなかったのです。友人からの面会はいつも、パウロの会話をあざ笑う兵士 達によって厳しく監視されていました。この様な仕打ちを受ければ、いかに神の人であったとしても、パウロの威厳が完全にはがされてしまったとしても、不思 議ではありません。

考 えてみて下さい。パウロは非常に活動的で、どこまでも続く道や、荒れ狂う海を旅しては、神様にある人々に出会い、交わりを持つことが大好きでした。そして 彼の一番の喜びは、その地方のいたる所で彼が開拓した教会を訪れることです。ところが今では鎖につながれ、世界でも最も冷酷で、神を冒涜する人達に縛り付 けられているのです。

パ ウロには二つの選択肢がありました。陰気で不機嫌な気分に陥り、「何故私が。」という身勝手な質問を繰り返すことも出来ました。絶望のどん底に閉じこも り、「私はここで完全に縛られ、ミニストリーも出来ずにいる、他の人は魂の収穫を楽しんでいるのに。どうして。」と、絶望的なうつ状態に自分を追い込むこ とも出来ました。

し かしパウロは代わりに、「どうやったら、現状でキリストの栄光を表すことが出来るだろう。どうやったら、この試練を通して何か素晴らしい良きことが起こさ れるだろう。」と考えることを選びました。この神様の僕は、「私には、現状を変えることは出来ない。ここで死んでしまうことだって、十分あり得る。でも、 私の行く道は神様によって整えられていることを知っている。だから、私はキリストを掲げ、鎖につながれながらでも世界に対して証しとなろう。」と決心した のです。「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」(フィリピ人への手紙120

パ ウロのこの姿勢は、心配や不幸などの暗い穴から、私たちが抜け出す唯一の方法を示しています。苦しみから解放されることを不安の中で待ち、私たちの将来を 無駄に過ごすことは可能です。もしそれが私たちのねらいとなるなら、私たちは試練にあっても自由であるという喜びと奇跡というものを完全に見逃してしまい ます。

パウロのこの言葉を考えてみて下さい、「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知って欲しい。」(フィリピ人への手紙112)パウロは言っています、「私のことを気の毒に思ったり、私が将来のことを思って落胆していると思ったりしないで下さい。また、私の役目は終わったなどと思わないで下さい。確かに私は鎖につながれ苦しんでいますが、このすべてにおいて福音は述べ伝えられているのです。

2009年11月2日月曜日

命の言葉をしっかり保つ

パウロはこう記しています、「命の言葉をしっかりと保ち、わたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」(フィリピ人への手紙216)パウロはキリストの御前に立ち、救いの奥義が解き明かされる時のことを想像して書いているのです。

聖 書は、その日には私たちの目が開かれ、主から非難を受けることなく、主の栄光を仰ぎ見るだろうと語っています。主が宇宙の神秘を解き明かし、いかにそれが 主の力によって成されたことかを現される時、私たちの心は燃やされるでしょう。突然、それまで地上での試練を通る中で、私たちに何が与えられていたのか を、理解することが出来るようになります。それは、天からの力と一切のもの、天使の守り、そして聖霊の臨在です。

私 たちがこれらの事実の素晴らしさに酔いしれる頃、主は私たちにこう語られます、「いつでもずっと、わたしの勇士たちがあなたの周りを取り囲んでいたのだ よ、あなたのために遣わされた、力強い大軍が。あなたは決してサタンの危険に陥ることはなかった。将来を恐れる必要など、何もなかったのだよ。」

そ してキリストが、私たちを父の御元へ連れて行って下さいます。それは何て、とてつもない瞬間でしょうか。私たちが天の父の荘厳さに圧倒される時、ようやく 私たちは神様の愛と慈しみを完全に理解し、真実が突然その最強の力をもって私たちに臨むのでしょう。「昔あり、今もあり、とこしえにある、それが父。本当 の偉大な『わたしはある』の神」なのだ、と。

こ こに、何故パウロが言葉を「しっかり保った」かが分かります。その素晴らしい日、彼は神様の御前に立つ時に、「ああ、どうして私はこんなに何も見えていな かったのだろう。何故私は神様の目的というものを、完全に信じきることが出来なかったのだろう。私の心配や疑問は、すべて無駄だったのだ。」と思いたくな かったからです。

パ ウロは私たちにこう勧めています、「私はその日に喜びたい、私の目が完全に開かれる時に。私は神様が示して下さることの全てを楽しみたい。神様の約束を信 じ、疑いを持って労苦しなかったから。苦しみの中でも命の言葉をしっかり保ち、良き戦いを全うし、私の主が約束を守られる方だと分かっていたから。」

そしてパウロはこう結んでいます、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けることです。」(フィリピ人への手紙313)要するに、パウロはまず過去を置き去ってしまわずには、将来を神様の御手に委ねることは不可能だと考えていたのです。