2008年10月31日金曜日

恵みにおける成長

パウロはエペソの人々に、こう警告しました。「もはや未熟な者でなくなりなさい。」(エペソ人への手紙4:14)あなたは、「この箇所は、私には関係ない。私の土台は、聖書にしっかり基づいている。一時的で、新しい聖書の教えや、人々をキリストから引き離してしまう、ちっぽけなトリックに、私は騙されたりしない。私は神様の御言葉に、しっかり根ざしている」と思われるかも知れません。

しかし、次のパウロの言葉を聞いて下さい。「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風にように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることがないようにしなさい。」(エペソ人への手紙4:14)あなたは間違った教理に、心を騒がせることはないかも知れません。パウロはそれでもあなたが、他のものに心を乱されるものがあると語っています。彼は「あなたに敵対する人々が企てる、悪しき計画によって心を乱されていますか」とあなたに聞いています。

パウロの言葉は、自分自身を吟味する様、促しています。自分はキリストにある兄弟又は姉妹であると言いながら、私達に対する悪い噂を流す人たちに対して、どんな態度を取っているでしょうか。

パウロが「もはや未熟な者でなくなりなさい」と命じる時、彼は実際に、「あなたの敵達―噂や中傷、嘘や偽り、ずるさや悪賢さ、詐欺や裏細工を用いる者達―彼らは皆、反抗的な子ども達なのです。ひねくれて、甘やかされた子ども達。そして彼らは神様の恵みが、彼らの内に働くのを許していません。ですから、彼らの意地悪で、大人気のない策略に陥ることが無い様にしなさい。彼らはあなたが嫌がらせに対して、子どもの様な反応を示すのを待っているのです。しかし、あなたは子どもっぽい応対をするべきではないのです」と言っているのです。

その次の節で、パウロは私たちに成長するよう促しています。「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エペソ人への手紙4:16)パウロは、「あなたは嫌がらせや、他人から傷つけられることや、自分にまつわる悪評や、嘘やでまかせをコントロールるすことは出来ません。しかし、あなたはこれらを成長の糧とすることが出来ます。これらをキリストに似る者とされる機会としなさい。優しく、砕かれた霊を持って対応しなさい。あなたに対して意地悪で、あなたを利用する人を許しなさい」と言っています。

2008年10月30日木曜日

地獄を揺り動かす祈り

ダニエル書が書かれた時、イスラエルはバビロンにて捕囚とされていました。そして長年のミニストリーを経て、6章でダニエルは80歳になっていました。

ダニエルは常に祈りにある人でした。そして年老いた今も、ゆったりした生活を送ろうという気はありませんでした。ダニエルが落胆したり、燃え尽きたりしたとは、聖書のどこにも記されていません。その反対で、ダニエルは始動しかけたところでした。聖書は、80歳になっても、彼の祈りが地獄を揺り動かし、悪魔を怒らせたと記しています。

ダレイオス王はダニエルを王国において、最も高い位に昇進させました。彼は3人いた大臣の一人で、他の2人と共に、王子と120地方からの総督を統べ治めていました。ダレイオス王は、他の2人よりもダニエルを気に入っており、彼に政務と、裁判官や知識人達を教える担当の長としました。(ダニエル書6:3)

もちろんダニエルは、非常に忙しい預言者でした。多忙なスケジュールに、長時間の会議の数々と、彼に圧し掛かっていた圧力は想像するに、た易いものでしょう。しかしダニエルから祈りを取り上げるものは、何もありませんでした。どんなに忙しくても、彼は決して祈ることを止めなかったのです。祈りは、彼にとって最も大切な任務であり、他のいかなることよりも優先されるべきものであり続けました。一日に3度、彼は大臣としての責任や要求や義務から抜け出し、主との時間を持ちました。彼はただ、周りのすべてから撤退し、祈ったのです。そして神様は、彼に答えられました。ダニエルは彼の知識、導き、お告げ、預言のすべてを、ひざまずいて祈る時に与えられたのです。(ダニエル書6:10参照)

地獄を揺り動かす祈りとは一体どんな祈りだろう、とあなたは思われるかも知れません。それは国や教会が堕落してしまっているのを目にする、従順で信仰に満ちた主の僕から来ます。この人はひざまずき、主に向かって叫びます、「主よ、私はこの環境に馴染んでしまいたくありません。この堕落した時代にあって、あなたが力を握っていることを証しする、生きた例として下さい。他の人が祈っているかどうかは、関係ありません。私はあなたに向かってお祈りします。」と。

忙し過ぎてお祈り出来ないのですか。「祈りによって受け取ります」と言っているのですか。「神様は私の心を御存知だ。私がどれだけ忙しいかも知っておられる。日中を通して、頭の中でお祈りしている」と自分に言い聞かせておられるかも知れません。

神様は、私達と二人きりで、ゆとりをもった時を持ちたいと願っておられます。そうならば、祈りはただリクエストを伝えるだけの時間ではなく、愛と献身の行いとなります。

2008年10月29日水曜日

キリストにある力を主張する

イエス様が地上での最後の数時間を、弟子達と共に過ごしている時、イエス様は彼らに言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」(ヨハネによる福音書16:23)そしてこう命じられました、「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(16:24)

何と素晴らしい御言葉でしょうか。この場面において、キリストは弟子達に、御自身が彼らを放れ去ること、そしてしばらくの間、彼らを見ることが出来ないことを、伝えられました。しかし同時に、イエス様は彼らに、天におけるすべての祝福へのアクセスを保障されたのです。彼らはただ、イエス様の御名によって願えば良いということです。

弟子達は、扉を叩き、探し、神様のものを求めることを、イエス様から個人的に教わりました。彼らはキリストの内にある、御父の恵みについて―その恵み、権威、力のすべてについて―を直接教わったのです。そして彼らは、イエス様が人々にこう語るのを聞きました。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」(ヨハネによる福音書14:12~14)

弟子達に対するキリストの言葉は、私をチャレンジします。「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。」(ヨハネによる福音書16:24)この箇所を読むと、主が私にささやかれる声が聞こえてきます。「ディビッド、あなたはわたしが与えた力を主張していない。あなたはただ、わたしの名によって願えば良いだけなのに」と。

すべての肉においての罪よりも、神様の心を悲しませるもの、それは、私達がいかに神様の約束を信じていないかです。また神様が、私達の祈りに答えられないのでは、という疑いを深めていることです。そして人々が、キリストの内にある力を、だんだん主張しなくなっていることです。

あなたがどれ程、キリストに似る者とされる様願ったとしても、神様の宝庫には、それをはるかに超える、霊的な知識の源が備えられています。大きな願いを持ちましょう。知恵を、導きを、啓示を求めましょう。しかしこれらは、疑いではなく信仰によって、求めなければいけません。

2008年10月28日火曜日

あなたのキリストの偉大さ

ヨハネによる福音書14章は、2つの素晴らしい約束を記しています。一つ目に、イエス様はこう宣言されています。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」(ヨハネによる福音書14:12~14)最後の節で、イエス様は単純かつ明確に、こう言われています、「わたしの名によって願うなら、それを叶えてあげよう」と。

その2節後、イエス様はこう約束されています。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハネによる福音書14:16~18)ここでイエス様は、「わたしはあなたがたに真理の霊を授ける。そしてこの霊の力が、あなたがたの内に留まるでしょう」と言われています。

この2つの素晴らしい約束は、イエス様がなされたものです。しかし、これら2つの間に挟まれた節を見てみて下さい。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(ヨハネによる福音書14:15)何故この言葉が、この場所に記されているのでしょう。キリストは私達にこう、語っておられるのです、「従順さの問題が、これらの約束に関係しています」と。要するに、この2つの約束は、神様の御言葉を守り、それに従うことに関わっているということです。私達がキリストにある力を主張するにあたって、一切障害となるものがない様、御言葉が与えられているのです。

私は、イエス様の御名によって、何も願わなかったり、小さいことしか願わなかったりすることは、イエス様に対しての侮辱にあたると確信しています。毎年、多くのクリスチャン達が妥協してしまっています。彼らは最終的に、「救いさえあれば良い」というところに行き着いています。いつか御国にたどり着くこと以外は、何の期待も持っていないのです。

あなたに尋ねます。「あなたはキリストに対する期待の、最終段階にありますか。キリストの恵みと力によって救われること以外に、何の期待も抱いていないのですか。あなたのキリストは、この日を生きるのに必要な力を与えるだけでお終いですか。キリストは、サタンからの攻撃が大半の人生において、時々平安と喜びの場所となっているだけでお終いですか。」

これらの箇所は、私にこう教えてくれています、「私のイエス様の大きさは、私の願いの大きさに比例しているのだ」と。しかし残念ながら、多くのクリスチャンは不信仰によって、キリストを力無いものにしてしまっています。愛する皆さん、私は私のキリストを制限してしまいたくありません。そうではなく、地獄中の悪魔達に、私の神様がいかに大きいかを、私の願いの大きさによって示してやりたいのです。私はキリストに、さらに多くを期待しています。私の人生において、かつて無いほど、大きなキリストとなって欲しいのです。

2008年10月27日月曜日

御手に記されたあなたの名前

私達には祈りによって、素晴らしい権威が与えられています。では実際、一体どの様にして、この権威を用いるべきなのでしょうか。それは、キリストの御名を通してです。私達がイエス様の内に信仰を持った時、イエス様は私達に、御自身の御名を与えてくださいました。イエス様のいけにえによって、「私はキリストのものです。私は彼の内にいます。彼と一つとされています」と言う事が出来る様になりました。すると素晴らしいことに、イエス様が私達の名前を手にしてくださったのです。大祭司として、イエス様は私達の名前を、その御手に記されました。ですから私達の名前は、イエス様の御名の下で、天に登録されているのです。

「キリストの御名によって」という言葉が、単に重要な方程式ではないということが、分かっていただけるでしょう。そうではなく、文字通りそれが私達の立場を示しているのです。そしてその立場は、天のお父様によって承認されています。イエス様はこう言われています。「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」(ヨハネによる福音書16:26~27)

ここに、何故イエス様が私達に、彼の御名によって祈る様、命じられたかが記されています。「あなたがわたしの名によって願うなら、その願いは、わたしが父にお願いするのと同じ力と影響が与えられる。」言い換えるならば、私達の祈りが、御父の御座の前でイエス様の口から発せられたものと見なされる、ということです。同様に、私達が病む者の上に手を置いて祈るのならば、神様はそれを、イエス様が癒しをもたらすために、その人に手を置いているのだと見なされるということです。

これはまた、何故私達が恵みの御座に、大胆に近づくべきかを示しています。それは、受け取るためです。私達は確信を持って、「天のお父様、私は出て行き実を結ぶよう、キリストの内に選ばれた者として、御前に立っています。今、私の喜びが満ち溢れるよう、大胆に願いを申し上げます」と祈るべきなのです。

私は多くのクリスチャン達が「イエス様の御名によってお祈りしたのに、聞かれなかった」と言うのを耳にします。この人達は、「イエス様の御名による力を宣言しようとしたのに、うまくいかなかった」と語っています。私達の祈りが聞かれない理由は、たくさんあります。私達が罪を犯すことで、キリストとの交わりが汚されてしまいます。それは、神様からの祝福をせき止めてしまう、障害となります。そして私達がそれらの罪を取り除くまで、神様は私達の祈りに答えられません。

または、神様に対する私達の生温さや、中途半端な態度が障害となっているかも知れません。疑いによって、キリストの力が私達の内に流れ込むのを止めているかも知れません。ヤコブはこう警告しています。「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。」(ヤコブの手紙1:6~7)

ヤコブは明確に語っています、「揺れ動くものは、神様から何も受け取ることが出来ない」と。ここでヤコブが使っている、「揺れ動く」という言葉は、“決断していない”という意味があります。事実、この様な人達が神様にお願いをする時、彼らは神様を試しているのです。心の中で彼らは、「主よ、もし答えてくださるなら、あなたに従います。この祈りに答えてくださるなら、あなたにすべてを捧げます。でももし答えてくださらないなら、自分のやり方で生きていきます」と。

しかし神様は、下心のある取り引きをなされません。神様は私達の心を御存知で、御子に対しての決心がついているか否か、お見通しなのです。神様は、キリストにすべてを委ねた者のために、キリストの内にある力を取っておかれます。

2008年10月24日金曜日

主はすべてを求めておられます

「なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて、必ず恵みを与えられる。あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け』と。あなたたちは祭りを祝う夜のように歌い、笛に合わせて進む者のように心楽しむ。」(イザヤ書18~19、 21、29より抜粋)イザヤは「もしあなたが、ただ主を待ち望むなら―再び主を呼び求め、主に信頼するようになるなら―主は私が言ったことすべて、またそれ以上のことを成してくださいます」と言っているのです。

神様がただ一言発せられるだけで、敵は私達の前に打ちのめされます。「アッシリアは主の声のゆえにおののく。」(イザヤ書30:31)愛する皆さん、神様に解決出来ない問題はありません。私達のために勝利出来ない戦いはありません。神様はそれを、口から出る御言葉だけで成されるのです。イザヤはこう言っています、「主の息が焼き尽くす硫黄の流れのように、そこに臨む。」(イザヤ書30:33) 

しかし、すべてのことにおいて、神様に信頼することは、簡単なことではありません。最近のことですが、私はニューヨーク市にある私の教会の建物について、主の御心を求めました。私は主にこう言いました、「天のお父様、このことについて、あなたに一切をお委ねします。私はあなたの御心を求めましたから、平安の内に待ち望みます」と。神様はこの様に返答されました。「ディビッド、あなたが自分の所有地や、財産など、物質的なものに関して、わたしに信頼を置いてくれていることは素晴らしいことだ。しかし、あなたはまだ、自分の健康について、わたしを信頼していない。」

私は自分の年齢を、よくわきまえているつもりです。そして自分がいなくなった後、家族がどうなるのか、非常に心配しています。主からの御言葉は、稲妻の様に私に突き刺さりました。私は物質上の心配はすべて主の御手に委ねているのに、永遠についての心配は委ねられていなかったのです。それに気付き、私は「主よ、あなたは私がすべてを委ねることを、求めていらっしゃるのですね」と祈りました。

そうです、聖徒なる皆さん、神様はすべてを求めておられるのです―あなたの健康も、家族も、将来も。神様はあなたに、すべての問題について神様に委ねて欲しいと願っておられます。そしてあなたに、平安と、確信と、憩いの中で生活して欲しいと願っておられるのです。ですから、隠れた場所に行き、主と二人っきりの時間を持って下さい。すべてを携えて、御前に行くのです。神様は、「あなたはわたしが背後から、『こっちに進みなさい、この道を歩みなさい』と語る言葉を聞く」と約束してくださっています。

信仰を証明するものは、安らぎです。信頼し切った信仰は、心に平安をもたらします。そして真の信仰は、すべてを主の御手に委ねます。

2008年10月23日木曜日

霊的な強さと信頼

私達がすべての必要を神様の御手に委ね、神様の御力に信頼を置く時、聖霊は私達に力を与えてくださいます。

ルツはその良い例です。彼女は夫に先立たれてから、義理の母であるナオミと一緒に生活していました。ナオミはルツの将来と生活を心配していました。ですから、彼女はルツに裕福であるボアズの元に行って身を横たえ、家系を絶やさない責任を果たすようお願いしなさい、と助言しました。

その夜、もみ殻を吹き分ける仕事が終わった後、ボアズは「山と積まれた麦束の端に身を横たえ」(ルツ記3:7)、毛布を被りました。翌朝目が覚めた時、彼は自分の足元に女性が寝ているのを見て驚きました。(ルツがそこにいたことは、ふしだらなことではありませんでした。この様なことは、当時慣習的に、よく行われていたことでした。)

ルツは彼に言いました、「どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」(ルツ記3:9)基本的に彼女が言いたかったのは、「同族の者としての責任を果たしてくれますか。私を養ってくれますか。」ということです。実際、彼女は「私と結婚してくれますか」とお願いしたのです。

これは決してずる賢い策略ではありません。ルツとナオミは、すべて神様の掟に従って行ったのです。キリストがルツの血統から来たことで、これが正しかったのだと分かります。ルツが帰宅した時、ナオミは彼女にこう尋ねました、「娘よ、どうでしたか。」(3:16)言い換えると、彼女は「婚約したルツと呼ぶべきなの?それともまだ“やもめルツ”なの?」と聞いていたのです。

ルツはナオミに、一部始終を伝えました。ナオミの知恵に満ちた助言を聞いて下さい。「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう。」(ルツ記3:18)ナオミはこのことについて祈り、神様の導きを求めていたので、神様は彼女に助言を与えていました。神様は彼女に、家を絶やさぬ責任に関する律法のことを知らせました。(この概念はキリストの典型、また予兆となりました。)ですからナオミは、彼女とルツが、自分達の責任は果たしたという確信を持つことが出来たのです。次はじっと待ち、神様が約束を成就してくださるのを信じる番です。彼女は、「ルツ、すべては主の御手にあります。落ち着いて、平静にしていましょう」と言いました。

平安と平和が、ナオミの家を覆いました。取り乱し、爪を噛み、「神様は本当に働かれるのかしら。いつ起こるのかしら」と心配する者は、誰もいませんでした。この二人の信心深い女性は、落ち着いて、神様に賛美を捧げることが出来ました。

お祈りしていますか?信じていますか?主の救いをじっと待つ準備が出来ていますか?主はすべてを統べ治めていらっしゃいます。

2008年10月22日水曜日

祈りの民となること

エレミヤ書5章において、神様は「エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。」と言われました。(エレミヤ書5:1)主が言わんとされていること、それは「もしわたしを求める者が一人でもいるなら、わたしは憐れみを持とう」ということです。

バビロンでの奴隷生活にあった時、神様はダニエルをその様な人として見つけられました。そして今日、歴史上でかつてなかった程に、主はその様に、神様を敬う人達を探しておられるのです。主は生垣を建て直し、隔たりに立つ、従順な僕達を探しておられるのです。

ダニエルの様に、その様な人は、神様の御言葉を手にしている時に見つけ出されます。聖霊がダニエルに降った時、彼はエレミヤ書を読んでいました。その瞬間に御霊が、イスラエルに神様の救いの時が訪れたのだと、明らかにされたのです。この啓示が与えられると、ダニエルは祈るように導かれました。「わたしは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した。わたしは主なる神に祈り、罪を告白した。」(ダニエル書9:3~4)

ダニエルは、主の民が元通りに回復される準備が出来ていないと知っていました。しかし彼は、仲間の罪を非難したでしょうか。いいえ。ダニエルは、自分を道徳的に堕落していた周囲の人々と同じ様に見なしました。「わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。主よ、恥を被るのはわたしたちです。あなたに対して罪を犯したのですから。」(ダニエル書9:5、8)

神様は御自身の民を祝福されることを、強く望んでおられます。しかし、もし私達の心が、この世の霊によって汚染されているなら、私達は神様の祝福を受け取る準備が出来ていません。ダニエルは、次の様な厳しい言葉を述べました。「モーセの律法に記されているこの恐ろしい災難は、紛れもなくわたしたちを襲いました。それでもなお、わたしたちは罪を離れて主なる神の怒りをなだめることをせず、またあなたのまことに目覚めることもできませんでした。主はその悪を見張っておられ、それをわたしたちの上に下されました。」(ダニエル書9:13~14)

神様との歩みを見直し、私達が妥協している部分を聖霊に見せていただくようにしましょう。堕落した国家のために祈るだけではなく、「主よ、私の心をご覧ください。私の内にはびこる、この世の霊をさらし出してください」と神様に叫び求めましょう。そうすることで、私達もダニエルの様に、家族や国家の救いのために祈ることが出来る様になります。

2008年10月21日火曜日

神様の新しく素晴らしい御業

「しかし、わが名のために、わたしがイスラエルを連れ出したときに見ていた諸国民の前で、わが名を汚すことがないようにした。」(エゼキエル書20:14))

神様は、何か新しく、素晴らしいことを成さろうとしていらっしゃいます。この新しいこととは、リバイバルや覚醒よりも、さらに素晴らしいことです。それは、御名がこれ以上汚されることが耐えられなくなった時に、神様が御自身で起こされる御業のことです。やがて神様は、御言葉がひどく踏みにじられ、また教会が憎悪によってひどく汚染されているのをご覧になり、失われた世界を前に、御名を守るために立ち上がられる時がやってきます。

“わが名のために”と言って、神様は2つの偉大なことを成されます。まず一つ目は、国々と主の教会を、素晴らしい購いの裁きによって清められる、ということです。神様の宮が、同性愛者や詐欺師によって侵害されることに、終止符を打たれます。そしてミニストリーを清めて聖別し、御自身の心を持った羊飼い達をおこされます。

二つ目に神様は、憐れみという介在によって、御自身の御名に栄光をもたらされます。裁きの御座が整えられる時、神様は超自然的な力をもって、残された者達を御元へと立ち帰らされます。イスラエルが裁きを受けた時に神様が成されたのと同じことを、再び未来にも行ってくださいます。

エゼキエル書36:21~38を読んでみて下さい。要約すると、次の様な預言が与えられた、ということになります。「わたしは異邦人によって汚されたわが名を憐れむ。それはあなたがたのためではなく、わが名のために行うのである。異邦人たちは、わたしこそが神であると知るだろう。わたしがあなたがたの上に聖水を振り掛けるので、あなたがたは一切の汚れから、清められる。わたしはあなたがたに、新しい心と霊を与える。あなたがたがわたしの道を歩む様にする。わたしがあなたがたを、一切の汚れから守る。あなたがたのためではなく、わたし自身の御名のために、これを行う。」

「『しかし、わたしは手を引き戻し、わが名のために、わたしがイスラエルを連れ出したときに見ていた諸国民の前でわたしの名を汚すことがないようにした。お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく、わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる』と主なる神は言われる。」(エゼキエル書20:22、44)

2008年10月20日月曜日

霊的な強さの秘密

「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と。」(イザヤ書30:15)

ここに、神様の霊的な強さの秘密があります。「安らかに信頼していることにこそ力がある」ということです。ここで使われている「安らか」にという言葉は、ヘブル語で“静養”という意味です。そしてこの「静養」とは、“落ち着いていること、穏やかであること、不安がないこと、閑静であること、下からの支えがある所で横になること”という意味があります。

今日のクリスチャンの中で、この様な安らかな信頼を持っている人は、あまりいません。多くの人は、たくさんの活動に参加し、富や財産や快楽を得ようと、必死に走り回っています。ミニストリーにおいても、神様の僕達は不安を覚え、カンファレンスや、セミナーや、ベストセラー本に答えを探そうと、躍起になっています。誰もが導きや答え、また魂を静める何かを欲しがっています。しかし彼らは、主以外の所に、それを探し求めているのです。彼らは、神様がすでにこのことについて、イザヤを通して語られたのだと、気づいていないのです。もし彼らが、主こそすべての源であると、主に立ち帰らないならば、彼らの探求は悲しみと混乱に終わってしまいます。

イザヤは、神様の義が私達の内で、何を成し遂げるべきなのかを、語っています。「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である。」(イザヤ書32:17)もし私達が、本当に義の内に歩むなら、私達の人生は平安な霊と、心の安らぎと、神様との平和という実を生むことでしょう。

イザヤが周囲を見回すと、神様の民が、人に信頼を置き、馬や戦車により頼み、エジプトへ助けを求めて逃れていくのを見ました。多くの大使が行き来し、リーダーたちは、緊急会議を開いて策略を練っていました。誰もがパニックに陥り、「どうしたら良いのだろう」と嘆いていました。

彼らに対してイザヤは、こう言いました。「こんな道を たどる必要はないのです。堕落した道から、立ち帰りなさい。他人に信頼を置き、反抗した態度を悔い改めるのです。主に立ち帰りなさい。そうすれば、主はあなたを平和で覆ってくださるでしょう。今あなたが直面しているすべての状況のただ中にあって、主はあなたに平安と安らぎを与えてくださいます。」

2008年10月17日金曜日

41日目

もし、あなたが41日目、荒野で誘惑を受けられた直後のイエス様に遭遇したら、と想像してみて下さい。その御顔は輝いているでしょう。素晴らしい勝利を得た後ですから、喜びに満ち、御父を誉め讃えていることでしょう。

あなたは、活気と自信に満ちているイエス様を目にします。地獄の力に立ち向かう準備が整われたイエス様は、大胆に、闇に覆われた大都市に出て行きます。福音を述べ伝え、神様の御言葉を確信していらっしゃいます。病人を癒され、御父が共にいてくださると御存知です。

一方、あなたが自分の人生に目を向けると、正反対の状況を目にします。未だに乾いた荒野での体験が続いています。サタンからの激しい攻撃に耐え、あなたの魂は元気を失っています。「イエス様は、私が通っている様な試練は経験されなかった。イエス様はこんなことでつまずかれたりしないだろう」と思われるかも知れません。

あなたが牧師を見ると、とても強い信仰を持った人の様に見えるかも知れません。彼の言うことは、神様の臨在を確信している様に聞こえ、あなたは「彼は私が抱えている様な問題など、経験したことはないだろう」と思うでしょう。もしあなたが真実を見ることが出来たなら、と思います。神様が彼をミニストリーに導き出された後、彼が荒野で厳しい試練を経験したことを、あなたは知らないでしょう。彼が自分自身を失いそうになり、落胆にくれていたことを、あなたは知らないでしょう。そして彼の素晴らしい説教が、彼自身の試練から生まれたものだということを、あなたは知らないでしょう。

パウロは、自分の義を他人の義と比較しないよう、警告しています。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。」(第二コリント人への手紙10:12)

私達は他人の心を読むことが出来ません。41日目に、イエス様が長く厳しい試練を終えられたばかりだということを、いったい誰が知り得たでしょうか。人々が目にした栄光が、彼らの経験したことがないような困難から生まれたものだということを、いったい誰が知り得たでしょうか。

私達は、イエス様だけを見つめるべきです。そして、彼の義と聖さのみに、より頼むべきなのです。主は私達全員に、同じ権利を与えてくださっています。

神様は、あなたが試練にある時も、あなたを愛しておられます。神様御自身の御霊が、あなたを荒野へと導き出されたのです。しかし、御子はすでにそこに行き、あなたが経験していることのすべてを知っておられるのです。あなたが主に完全なる信頼を置く様、神様が成されている御業の 完成を見ましょう。あなたはこの試練から、自信だけでなく、神様のもつ憐れみと、他人を助けるための力を持って、抜け出すでしょう。

2008年10月16日木曜日

泣いてしまいなさい

あなたがひどく心を痛める時は、隠れた場所に行って、嘆きのすべてを泣きはらしてしまいなさい。

イエス様は涙を流されました。ペテロも苦い涙を流しました。ペテロは、神様の御子を否定してしまったという痛みを抱えていました。しかしその苦い涙は、彼の内に麗しい奇跡となって働いたのです。彼はサタンの支配を揺さぶるため、戻って来ました。

イエス様は、涙を流す者から、決して目をそらされません。こう書いてある通りです。「打ち砕かれ悔い改める心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩篇51:19)ただの一度でさえ、主は「しっかりしなさい!ちゃんと立って、必要な薬を服用しなさい。歯を食いしばり、涙を我慢しなさい」と言われませんでした。それどころか、イエス様は私達の涙の一粒一粒を、永遠の容器に入れて保存しておられるのです。

今あなたは痛みを覚えておられますか。ひどく傷ついておられますか。だったら、泣いてしまいなさい。涙が流れ落ちなくなるまで、泣き続けるのです。しかし、痛みのためにだけ泣くのです。不信仰や自分に対する同情心から泣いてはいけません。

人生は進んでいきます。神様の助けによって、どこまで我慢することが出来るか、自分自身に驚くことがあるでしょう。幸せとは、痛みや傷を受けずに生きることではありません。真の幸せとは、悲しみや痛みがあるにも関わらず、一日ずつ、その日を生きる方法を学ぶことです。それは、過去にどんなことがあったとしても、主にあって喜ぶことを学ぶことです。

あなたは拒絶感を抱いているかも知れません。見捨てられたように感じているかも知れません。信仰の弱さを覚えているかも知れません。打ちのめされ、カウントをとられるのを待っている様に感じているかも知れません。時に、悲しみ、涙、痛み、空虚感に襲われるかも知れませんが、神様はそれでも御座にいらっしゃいます。神様は、神様なのです。

あなたは自分自身を救うことが出来ません。自分の手で、痛みや苦しみを止めることは出来ません。しかし、私達の主があなたに訪れ、その愛に溢れた御手であなたを引き上げ、再び天の御国へと導いてくださいます。主は死の恐怖から、あなたを救い出してくださいます。神様は、永遠に続くあなたへの愛を示してくださいます。

だから目を上げて下さい。主にあって、元気を出して下さい。霧があなたを囲み、窮地から逃れる道が見えない時には、イエス様の御腕に身を委ね、ただ主に信頼するのです。イエス様は、あなたの信仰、信頼感を求めていらっしゃいます。主はあなたがこう叫ぶのを望んでおられるのです。「イエス様は私を愛しておられる!私と共におられる!主は決して私を見放されることはない。今、すべてを良きに働いてくださっている。落胆することなどない!私は決してサタンの餌食になったりしない!打ち負かされることもない!神様が私と共におられる。私は主を愛しているし、主は私を愛してくださっている!」

結局は信仰が要となります。そして信仰は、次の絶対的な事実に、安らぎを得ます。「どのような武器があなたに対して作られても、何一つ役に立つことはない。」(イザヤ書54:17)

2008年10月15日水曜日

量り与えられる神様の栄光

「また、彼らに言われた。『(中略)あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。』」(マタイによる福音書4:24~25)

イエス様はこれらの御言葉が、霊のない人の耳には奇妙に聞こえるかも知れないと御存知だったので、「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言ってこのお話を始められました。(マルコによる福音書4:23)イエス様は「もしあなたの心が、神様の御霊に対して開かれているなら、わたしがあなたに伝えようとしていることを、あなたは理解するだろう」とおっしゃったのです。

イエス様がこの箇所で伝えられたかったのは、一体何だったのでしょうか。イエス様は、私たちの人生における、神様の栄光を語っておられたのです。すなわちそれは、キリストの臨在のことです。要するに、主はその栄光に満ちたご臨在を、教会や個人に対して、異なる分量を分け与えられるということです。ある人達は、神様の栄光を一切受け取りません。しかしある人達は、彼らの教会又は人生において、永遠に増し続ける、神様の栄光を受け取ります。

神様は終わりの日に、神様の民の上に御霊を注ぐと約束されました。実際聖書はすべて、終末のときに勝利と栄光に満ちた教会に向けて書かれています。イエス様御自身も、地獄の門は彼の教会に打ち勝つことが出来ないと語られました。私たちは、弱々しく足を引きずり、打ちのめされ、絶望し、すすり泣き、落胆した状態で、御国に入る訳ではありません。そうではなく、私たちの主は、もっと素晴らしい力を、主の教会に与えてくださいます。この力は、しるしと不思議によって表わされるだけではありません。それは神様の民によって表わされます。神様の御霊によって触れられた彼らの心が、素晴らしい変化を遂げることによって表わされるのです。

どの様にして、さらに素晴らしく、永遠に増し続けるキリストの栄光を、手に入れることが出来るのでしょうか。主は明確に語ってくださっています。「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。」(マルコによる福音書4:24)イエス様はこう言っておられます。「あなたがわたしに委ねている心の分量に応じて、わたしはあなたに与えよう。あなたのわたしに対する態度に応じて、わたしもあなたに応じよう。あなたがわたしを量る分量に応じて、わたしもあなたに量り与えよう。」

もしあなたが、神様の素晴らしい御業を当然のものと見なし、神様に怠惰とものぐさを量り与えているのなら、あなたにも無気力でうたた寝をするような霊が与えられるでしょう。「怠惰は人を深い眠りに落とす。怠けていれば飢える。」(箴言19:15)結果として、あなたの魂は飢え渇き、満たされることがないでしょう。

神様の私達に対する愛、憐れみ、恵みは、限りがありません。ここでの問題は、どうやって神様の愛、憐れみ、恵みを手に入れるかではありません。そうではなく、神様の栄光の恵みを、いかに私達の人生で体験するかということです。

イエス様は、私達が神様に分け与える心の分量に応じて、神様の栄光を私達に分け与えられると、はっきり語って折られます。私達に求められていること、それは礼拝において、忠実さにおいて、従順さにおいて、さらに神様に近づくことです。

2008年10月14日火曜日

傷つくとき

どの様にかは別として、私たちは皆、傷ついています。地上に生きる人は誰でも、その人に課せられた、痛みの重荷を背負っています。

あなたが深く傷つく時、誰もあなたの内なる恐れと、心の奥底でのもがきを鎮めることは出来ません。どんなに親しい友人も、あなたが経験している試練や、あなたが受けた傷を理解することは出来ません。

傷ついた心に対する特効薬は、あるのでしょうか。深く、秘めた痛みに対する癒しは、存在するのでしょうか。砕かれた心が元通りにされ、以前よりさらに強められることは、可能でしょうか。はい、断言して言います。それは可能です。もしそうでないなら、神様の御言葉がただの作り話であり、神様が嘘つきということになってしまいます。そんなことは、決してあり得ません。

神様はあなたに、痛みのない道を約束されませんでした。神様はあなたに、「逃げ道」を約束してくださいました。あなたの痛みを担うと、また、弱さに負けそうになりよろめく時に、再び歩みだす力を与えると、約束してくださったのです。

私たちの愛に満ちた神様は、こうおっしゃいます。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(第一コリント人への手紙10:13)

天のお父様は、あなたを揺るぎのない目で見守ってくださっています。あなたの一挙手一投足は、記録されています。涙の一滴一滴は、瓶に詰められています。神様は、あなたの痛みのすべてに共感してくださっています。神様はそのすべての痛みを感じておられるのです。あなたが決して涙に溺れることのないように、あなたの痛みが、あなたの思いを破壊させることのないようにしてくださいます。神様は、必要な時に必ず、あなたの涙を拭き、悲しみの代わりに喜びを与えるために来てくださると、約束してくださっています。

あなたには、主にあって心に喜びを抱く力が与えられています。神様の御目は、あなたに注がれています。そして神様はあなたに、立ち上がり、疑いを生む恐れを振り払うよう、命じておられます。

2008年10月13日月曜日

あなたに必要な恵み

恵みはよく、本来なら私達が受ける価値のない、神様の愛顧と祝福であると言われます。ですが私は、恵みがこの定義をはるかに超えたものであると信じています。私の考えでは、恵みとは私達が苦しみにある時、その苦悩を乗り越えるために必要なもの―力、権力、優しさ、憐れみ、愛―正にキリスト御自身だということです。

私が過去を振り返る時、大きな試練、苦しみ、誘惑、苦悩に満ちた年月の中で、神様の憐れみは、私にとって十分であったと証し出来ます。私の妻が幾度もガンと闘病し、さらに娘たちも病に倒れた時、神様に疑問を抱くことがどういうことかを経験しました。今日、妻も娘たちも、健康で強められていることを、神様に感謝します。私はまた、サタンの使いによって、攻撃を受けることがどのようなことか、経験しました。ひどく誘惑を受け、そそのかされ、四面から敵にかき立てられました。デマによって中傷を受け、根も葉もないことに対して罪に咎められ、友人たちから拒絶されました。その様な闇の日々、私はただひざまずいて、主に叫びました。

神様の恵みは、常に私を導き出してくださいました。そしてそれは、今日この日に必要なすべてを満たして下さっています。そしていつか栄光の日に、御父は私のために最初からずっと立てていてくださった、素晴らしい御計画を、私に表わしてくださいます。神様は、すべての試練を通して、いかに私が忍耐を養ったか、他の人々に対する憐れみの心を養ったか、私の弱さの内に神様の強さが完全にされたか、神様が真実なるお方であることを理解するようになったか、もっとイエス様の様になりたいと望むようになったか、示してくださいます。

それでも私たちは「何故ですか」と問いたくなるかも知れません。しかしそれらは、神秘とされているのです。イエス様が私を迎に来てくださるその日まで、私はそれらを神秘として受け入れる覚悟が出来ています。私は、自分の試練や苦悩に終わりがないと知っています。50年以上に亘るミニストリーを通して経験してきましたし、それはこれからも続いていくことでしょう。

しかし、そのすべてを通して、私は益々強められていく、キリストの力を受け続けています。事実、私の経験した素晴らしい神様の栄光は、最も苦しい試練にある時に与えられてきました。同様に、皆さんの一番苦しい時にも、イエス様がその力を最大にあなたの内に解き放ってくださいます。

私たちが何故、痛み、苦しみ、絶望を経験するのか、完全に理解することはないかも知れません。私たちの癒しの祈りが、なぜ聞かれなかったのか、理解出来ないかも知れません。しかし私たちは、その理由を知る必要がありません。私たちの神様は、すでに答えてくださっています。「あなたには、わたしの恵みがある。我が愛する子よ、それこそあなたに必要なもののすべてである」と。

2008年10月10日金曜日

あなたの反抗と悪魔の逃亡

サタンはこの様に言って、イエス様を誘惑しました。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」(マタイによる福音書4:9)この言葉は、非常に滑稽で、ばかげていて、誘惑とは捉えがたいものです。しかしこれは、魅力的で、説得力のあるオファーでした。サタンはこう言って、イエス様を試みました。「もしお前が、わたしの足元にひれ伏しさえすれば、ほんの小さな礼拝の態度を示すなら、攻撃することを止めると約束しよう。これらの領域において、わたしの力をすべて投げ捨てよう。誰かにとり付いたり、誰かを奴隷にしたりすることもしない。お前は、人類のために神がお前を呪うのを許すほど、人類を愛している。だったら、何をためらっているのか。今ここで自分自身を捧げるなら、この先ずっと、世界を解放することが出来るのだ。」

なぜ悪魔は、このために彼の力をすべて捨てても良いと言ったのでしょうか。それは、自分自身を救うためです。サタンは自分の運命が、カルバリーにて完全に封印されると知っていたのです。ですから、もしイエス様が十字架にかかられるのを阻止することが出来るなら、その宿命から免れるかもしれないと考えたのです。

あなたは、「これが私と、一体何の関係があるのか」と思われるかも知れません。それはサタンが今なお、義なる人を同じ様なオファーをもって、試みているからです。サタンは脅しと言いがかりをもって、私達のところにやって来ます。そして、「わたしを礼拝しなくとも良い。もうすでに、お前の肉に近づくことが出来るからだ。お前の弱みは、すべて知り尽くしている。だから思いのまま、キリストにある自由を語るが良い。お前が最大の賛美を捧げる時、お前の心を悪で打ちのめしてやろう。お前の内に罪を激しく送り込み、お前は一生自由になることがないと、諦める様になる。お前は無力なのだ」と語りかけます。

この様なサタンの言いがかりに対して、どうやって応えたら良いでしょうか。「神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコブの手紙4:7)どれ程サタンが、あなたに試練を投げかけてくるかは、問題ではありません。過去の罪のことを、恐れる心配などありません。もしキリストの血が、その罪を覆っているなら、サタンはどうやっても、あなたを御父から離すことが出来ないのです。

2008年10月9日木曜日

疑いが生じるとき

「(イエスは)40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』」(マタイによる福音書4:2~3)

イエス様が肉体的に弱さを覚えていた時、悪魔は最初の誘惑を持ち出しました。

空腹を覚えることは、罪ではありません。だとすれば、ここでの問題は一体何でしょう。サタンはイエス様にこう、挑戦したのです。「もしお前が本当に神様なら、神の力を持っているはずだ。今、お前は困難な状況にある。神がお前に与えた力をもって、自分自身を救ったらどうだ。ちゃんとその力を用いることが出来るか試すため、神はお前にその力を与えたのではなかったのか。」

ここに、心から神様に従おうとしている人達が直面する、最も狡猾な誘惑の一つが記されています。イエス様の例の様に、あなたは神様に対して情熱を持っています。神様に完全に委ねようと、心に決めてきました。すると主は、あなたを荒野での経験へと導かます。しばらくすると、疑問が生じます。あなたは徐々に忍耐力を失い、あなたの人生における、神様の永遠の目的を疑い始めます。そしてあなたが、祈りによって勝利を得ようと努める一方で、サタンの誘惑は、その激しさを増すばかりのように感じられます。

敵はあなたが、御父から独立して行動することを望んでいます。悪魔は、「お前の苦しみは、神様から来るものではない。この苦しみに耐える必要はないのだ。お前は、御霊によって、その内に神の力を秘めている。言葉を語り、自分自身を解放すれば良いのだ。その空腹を満たすのだ」と言います。

サタンの最初の計画は、力不足を生み出すことでした。彼は、もしイエス様がパンを求められた時に、神様がその叫びに応えられないことを、願っていたのです。もし天の力が働かないなら、キリストが御自身の神性を疑い、地上での永遠の目的から離れられるかも知れない、と考えたのです。次にサタンはイエス様が、御父の言われたことだけを行うように遣わされたのだと知っていました。ですからサタンは、イエス様が御自身の福利のために、ここで御父に背く様、説得しようと試みたのです。そうすることで、もしイエス様が苦しみから逃れるために、ここで御力を用いられるなら、後に十字架を避けるためにも、同じ事をするだろうと考えたのです。

では、どうやってイエス様は、悪魔の誘惑に応えられたのでしょうか。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイによる福音書4:4)キリストが言わんとされたこと、それは「わたしが地上に来たのは、自分の必要を満たしたり、身体的な快適さを求めたりするためではありません。わたしは自分を救うためではなく、人類に施すために来たのです」ということです。

苦しみの極致にあってでさえ、イエス様は御自身の永遠の目的を、見失われませんでした。もし主が荒野での経験を通して、委ねることと憐れみの心を学ばれたのなら、私達も同様にすべきです。

2008年10月8日水曜日

荒野の旅

ドイツ人神学者である、ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)は、クリスチャンが流氷の海を横切ろうとする人の様だ、と表現しました。クリスチャンはその海を横切る間、神様が最後まで見守ってくださるという信仰による以外、決して休むことが出来ません。一所に長く留まることは出来ません。さもなければ、沈んでしまうからです。一歩踏み出せば、すぐさま次の一歩を探さなければなりません。足元には底知れない深い海底が、目の前には未知の世界が広がっています。しかし、彼の行く手には、必ず主がいらっしゃいます。今は陸地を見ることは出来ませんが、心の内に約束として、その先に必ず陸地があると信じています。ですから旅人であるクリスチャンは、その視線を目的地に定め続けることが出来ます。

私は人生を、イスラエルの子孫が経験した様な、荒野での旅と考えます。ヨシャファト王の戦いや、ユダの子孫の戦いは、私達の戦いでもあるのです。(歴代誌下20章参照)もちろん荒野ですから、蛇や、乾いた水の穴や、涙の谷や、敵の軍隊や、熱い砂や、干ばつや、乗り越えられない山があります。しかし、主の子ども達が立ち止まって、主の救いを見るなら、神様はその荒野で食卓を備えてくださいます。天からマナを降らし、神様の力のみによって敵軍を蹴散らし、岩から水を湧き上がらせ、蛇の噛み跡から毒を抜き出し、雲と炎の柱によって導き、乳と蜜を与え、力強い御手によって彼らを約束の地へと導かれます。そして神様は、こう後の世代へと語り継ぐ様、警告されました。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる」と。(ゼカリヤ書4:6)

誤ったところに助けを求めることを、止めましょう。隠れた場所で、イエス様と交わりを持ちましょう。彼に、あなたのすべての悩みを告げるのです。彼の他には、どこにも行く所がないと、伝えるのです。彼だけが、あなたを守ることがお出来になると伝えるのです。問題を自分の手で、何とかしようとする誘惑を受けるでしょう。自分の力で解決したくなるでしょう。神様が働かれているのか、疑いたくなるでしょう。しかし、失うものは何もありません。ペテロがこう、集約しています。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハネによる福音書6:68)

「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」(イザヤ書45:22)

「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。」(ミカ書7:7)

2008年10月7日火曜日

苦悩による癒し

「わたしは迷い出て、ついに卑しめられました。今からは、あなたの仰せを守らせてください。」(詩篇119:67)

私は癒しを信じます。苦悩があることも信じています。そして、“苦悩による癒し”を信じています。私が堕落してしまわないようにしてくれる苦悩―私を御言葉へとさらに深く導いてくれる苦悩―は癒しです。最も憐れみに満ちた、神様の霊的また肉体的な癒しの力は、時に苦悩となることがあります。

痛みや苦悩は悪魔からくるものだと捉えることは、ダビデが悪魔によって、神様の御言葉を求める様、導かれたと捉えることになります。私は多くの痛みに苦しんできました。神様に解放を祈ってきましたし、神様は完全に癒すことが出来ると信じています。しかし、私はそれを信じ続けながらも、現状を神様に感謝し、それを、いかに私がまったく神様に依存しているかを思い出させる機会としています。私はダビデと共に、こう言うことが出来ます。「卑しめられたのは、わたしのために良いことでした。」(詩篇119:71)

痛みと苦悩を、悪魔からのものだと言って、忌み嫌うべきではありません。その様な重荷は、信仰と識見を備えた人を養ってきました。

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。」(第一ペテロ5:7)

パウロは、彼に委ねられた、教会への思い煩いについて語りました。(第二コリント人への手紙11:28参照)新しく開拓された教会はすべて、彼の上に新たな“思い煩い”となって委ねられたのです。成長、発展、拡張は、必ず新たな思い煩いを伴います。神様が用いられる人は、懐の大きい人でなければなりません。その人は、多くの思い煩いと責任の下で、しり込みしてはいけないのです。神様によって導かれる、新たな信仰の一歩一歩は、多くの新たな思い煩いと問題を伴ってきました。神様は、私達にどれ程の思い煩いを委ねることが出来るか、完全に把握しておられます。神様は、私達の健康や強さを砕かれることを目的としてはおられません。ただ、収穫は非常に多いのに、喜んで進み出る働き手が少ないのです。思い煩いは、それらを拒む人達から取り去られ、それらを恐れない人達に、贈り物として与えられます。あなたに与えられている思い煩いを、忘れ去ってしまいなさい。それらをすべて、神様に委ねることは出来ませんか。

新たな祝福はすべて、一連の思い煩いを伴ってきます。祝福と思い煩いを、引き離すことは出来ません。あなたは思い煩いと共に生きることを学ぶまで、祝福と共に生きることを学ぶことは出来ないのです。

2008年10月6日月曜日

確固たる神様の愛

今日は「確固たる」という言葉について、お話したいと思います。この言葉は、努力や強度が衰えないこと、頑固であること、妥協しないこと、議論によって変わったり、説得されたりすることが出来ないこと、などを意味します。確固たること、それは定められた針路に固執することです。

これは神様の愛を示すのに、何と素晴らしい表現でしょうか。私達の主の愛は、確固たるものです。神様が、愛のうちに罪人も聖徒も追い求められるのを、妨げたり、縮小したり出来るものは何もありません。多くの詩篇の著者であるダビデは、こう記しています。「(あなたは)前からも後ろからもわたしを囲まれます。どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。」(詩篇139:5、7~8)

ダビデは私達が経験する、人生の山と谷のことを語っているのです。彼は、「時に私は祝福に満ち、喜びで心が弾むのを感じます。しかしある時は、自分の罪深さと価値のなさを感じ、地獄に住んでいるかの様に感じます。けれど、私がどこにいても、どれだけ祝福を感じていようと、状況が悪くあっても、主よ、あなたはそこにいらっしゃいます。私はあなたの確固たる愛から逃れることは出来ません。その愛を追い払うことも出来ません。あなたは私の自己評価の低さについて、決して私の主張を受け入れられません。私が不従順である時、あなたの真理に対し罪を犯し、あなたの恵みを当然の様に受ける時でさえ、あなたは決して、私を愛されることを止められません。私に対するあなたの愛は、正に確固たるものであります」と言っているのです。

パウロの証しを見てみる必要があります。パウロの人生について読む時、私達は神様の教会を打ち砕くのに躍起になっていた人を見ます。パウロは、クリスチャンに対する憎悪で、狂人の様になっていました。彼は、イエス様に従う者には誰でも、虐殺の脅しを吹きかけていました。彼は、信者の家に押し入り、牢屋に引きずり出すことが出来るよう、信者を狩り立てる許可を大祭司に求めました。

改心してからパウロは、彼が憎悪に満ちていた年月でさえ―偏見に満ち、キリストの弟子達を盲目的に狩り立てていた時でさえ―神様は彼を愛していてくださったと証ししています。彼はこう記しています、「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ人への手紙5:8)根本的に彼が伝えたいこと、それは「私は気付いていなかったけれど、神様は私を追い求めて下さっていました。神様は、私を馬から打ち倒されたその日まで、ずっと愛のうちに私を求め続けておられたのです。これこそが、確固たる神様の愛です」ということです。

年月を通しパウロは、人生の山にあっても、谷にあっても、神様が彼を最後まで熱烈に愛してくださるという確信を、徐々に深めていきました。彼はこう記しています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ人への手紙8:38~39)彼は、「今や私は神様のものであるので、何ものも、私を神様の愛から引き離すことは出来ません。悪霊も、悪魔も、権威も、人も、天使も、どんなものも、神様の私への愛を止めることは出来ないのです」と宣言しています。

2008年10月3日金曜日

試練

「神は彼を試み、その心にある事を知り尽くすために、彼を捨てておかれた。」(歴代誌下32:31)

私達は、人生の大きな試練に立ち向かう心備えが出来ていないと、神様に示すことに必死になっています。しかし、神様は人を試されます。もしかしたら、あなたが直面している大きな試練や、抱えこんでいる重荷は、神様からの試練なのだと考えられませんか。

「神はアブラハムを試された。神が呼びかけ、『あなたの息子、(中略)イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』」(創世記22:1~2)神様は国家全体を試され、その心がどこにあるかを探られました。「主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。」(申命記8:2)

歴代誌下32章31節に、素晴らしいことが記されています。神様は、偉大なる王を試すため、彼を捨てておかれたのです。「神は彼を試み、その心にある事を知り尽くすために、彼を捨てておかれた。」

主の僕が神様の御業を心から追い求める時、一見、完全に見捨てられたかの様な状態に置かれることが、しばしばあります。その僕は忍耐力の限界を試され、地獄の力にたった一人で向かい合わなければならないかの様に感じます。神様が祝福を注がれた人は皆、この様な方法で試されてきたのです。

あなたは今、慣れない環境に置かれていますか。見捨てられ、孤独であるかの様に感じていますか。予測出来ない敵との戦いに、負けそうになっていますか。これらは試練にあることのサインです。

いつも勝利することが望ましいのですが、万が一、あなたが試練に負けてしまうことがあっても、次のことを覚えていて下さい。神様は勝敗に関わらず、試練の後のあなたの態度と、あなたの心の内に何があるのかに関心をもっておられるのです。

イエス様は、私達を決して見捨てられたり、見放されたりしないと、約束してくださっています。しかし聖書は、御父が私達を試されるために、その臨在をとどめられることがあると、記しています。キリストでさえ、十字架の上で孤独な時を経験されました。この様な状況にある時にこそ、私達の救い主は、私達の弱さに心を動かされ、「わたしはあなたが信仰に躓いてしまわない様、祈っています」と囁きかけてくださるのです。

イエス様は、私達が自分の十字架を背負い、彼に従わなければならないのだと、おっしゃっています。(マタイによる福音書16:24参照)この十字架とは、何のことでしょう。それは、誘惑に陥りやすく、弱さを持った肉体のことです。その肉体と共に立ち上がり、信仰によって進むのです。そうすれば、神様の力が、あなたの内で完成させられます。あなたの十字架と罪が、重過ぎると感じていますか。そうであるなら、どうかあなたの十字架を背負い、歩み続けて下さい。神様はそれを御存知で、その重荷を取り去られるために、あなたの側におられます。

2008年10月2日木曜日

キリストはすでに勝利されました

ここ数ヶ月、私は悪習慣に未だ囚われている信者の方からの、残念なお手紙をたくさん読ませていただいています。葛藤しているクリスチャンの多くは、「賭け事が止められないでいます・・・アルコール依存に悩まされています・・・浮気をしていて、その関係を打ち切ることが出来ません・・・ポルノの奴隷となっています」等と書き綴っています。どの手紙にも、同じことが書かれています。「私はイエス様を愛しているし、神様に私を解放して下さいとお願いしています。祈り、涙を流し、信仰に基づいた助言を求めもしました。しかし、どうしても解放されないのです。どうしたら良いでしょうか。」

どうやってこれらの信者の方々に返答すれば良いか知恵を与えて下さる様、私は長い時間をかけて、主にお祈りしています。私は「主よ、あなたは御自分の子ども達の人生を御存知でいらっしゃいます。彼らの多くは献身的で、御霊に満ちた聖徒達ですが、あなたの勝利をまだ得ていません。自由を知らないでいます。何が起こっているのでしょうか」とお祈りします。

ある時私は、民に対する神様の約束を記した、聖書の箇所を学んでいました。その時、私達が倒れない様に、完全なものとして捧げられる様に、信仰によって義とされる様に、信仰によって聖められる様に、信仰によって守られる様に、主が誓ってくださってことを、思い出させていただきました。私達の古い人は信仰によって十字架につけられ、信仰によって神様の御国へと移行せられるのだと、神様が約束してくださっています。

これらの約束のすべてに、共通の点が一つあります。それは“信仰によって”という部分です。事実、神様の御言葉によると、これらのすべては、信仰による事柄とされています。ですから、これらの葛藤にあるクリスチャンが抱える問題の唯一明確な結論は、「その束縛の根底にあるのは、不信仰である」ということです。すべてはただ、信仰の欠乏の問題だということです。

あなたは自分の意志の力によって勝利を得るのに、苦戦していますか。古い人の性質によって戦おうとしていませんか。パウロはこの様に記しています、「働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものとみなされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマ人への手紙4:4~5)あなたの勝利は、涙を流すことや、努力によってではなく、キリストがあなたのためにすでに勝利を取られたという信仰によって来るべきです。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル人への手紙11:6)事実、パウロは神様の約束に、ただ一つの条件があると言っています。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」(コロサイ人への手紙1:23)

キリストは、完全に忠実な息子となるため、すべてを御父の御手に委ねました。そして私達も同じ様にするべきです。キリストがそうであった様に、私達も完全に御父に頼らなければなりません。

2008年10月1日水曜日

神様はどこに住まわれるのでしょうか

イエス様が天に昇られてから、使徒ヨハネは、栄光に満ちた素晴らしい啓示を受けました。彼は、「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と子羊とが都の神殿だからである。(中略)神の栄光が都を照らしており、子羊が都の明かりだからである」と言っています。(黙示録21:22~23)言い換えてみれば、天における唯一の神殿は、イエス様御自身だと言うことです。

神様の神殿が栄光に満ち、神様の右の座におられているなら、地上において主は、一体どこに宿られているのでしょう。神様御自身がこう、問われています。「わたしのために、どんな家を建ててくれるのか。わたしの憩いの場はどこか」と。私達は、どんな建物も神様を抱えきることが出来ないと知っています。神様は、バチカンにある聖ペテロ大聖堂にはおられません。ニューヨーク市にある聖ペテロ大聖堂にもおられません。またヨーロッパにある、どんな素晴らしい大聖堂にもおられません。パウロはアテネの町でこう、宣言しました。「世界とその中の万物を造られた神は、天地の主ですから、手で造った神殿にはお住みになりません。」(使徒行伝17:24)簡単に言うならば、私達が神様の神殿を建物に探すなら、決してそれを見つけることは出来ないということです。

主はそのお住まいを、私達の内に見つけられました。主は、御自身が創造された人間の体の内に生き、また憩ってくださるのです。パウロは、いかに神様の神殿が人の体の内にあるかを語っています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(第一コリント人への手紙3:16)

イエス様を信じるなら、私達は神様の住まい、神殿となるのです。これは二階の広間にて、最も明確に現されました。その時聖霊が弟子達の上に下り、彼らを満たしました。そして聖められた彼らの体が、神様の住まわれる神殿になると、宣言されたのです。御霊は、彼らの罪深い肉の業を抑制し、打ち砕く助けをしてくださいました。そして勝利の人生を生きる力を与えてくださったのです。彼らの体は、人の手で造られたのではない、神様の宮となりました。

イエス様は「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」と言われました。(ヨハネによる福音書14:23)神様が一緒に住まわれるということです。

パウロはこう言いました、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(第一コリント人への手紙6:20)すなわち、あなたは神様のものなので、神様はあなたを御自身の住まいとされたいということです。ですから、あなたの心を真理に向け、それを受け入れることで、神様に栄光を捧げましょう。