2008年12月31日水曜日

巧妙な戦士

何か私達に敵対することが起きると、神様の憐れみが私達の内に流れ込みます。一本の木が、強い嵐に吹き付けられるとどうなるか、想像してみて下さい。猛風によって、根こそぎ飛んで行ってしまいそうになります。枝は折れ、葉は散ってしまいます。根は引きちぎられ、芽はもぎ取られます。そして嵐が去った後その木は、絶望的な姿になってしまいます。

しかし、近づいてよく見てみましょう。同じ嵐によって、周りの地面が掘り起こされて、根が張りやすくなりました。その木は、水と栄養を確保するための、新たな道を発見したのです。そして古く死んでいた枝は、捨て去られました。芽はもぎ取られてしまったかも知れませんが、すぐに新芽が元気に顔を出すでしょう。その木は嵐によって強くされ、目に見えない形で成長を遂げたのです。収穫の時になれば、その木は多くの実を結ぶでしょう。

あなたは今、嵐の中にいらっしゃるかも知れません。猛風が吹き付け、あなたを激しく揺さぶるので、「もう倒れてしまうかも知れない」と思っておられるかも知れません。愛する皆さん、慌てないで下さい。その様な嵐の中にあって、あなたは霊的な根をしっかり張ろうとしているのだと、気付いて下さい。あなたを砕き、罪に対する嘆き悲しみを増し、神様の義に対する飢えを強めようと、神様があなたを成長させておられるのです。

神様はあなたを、戦いを恐れていながらも、巧妙で勇敢な十字架の戦士として整えておられるのです。あなたは時に、自分に失望してしまうことがあるかも知れませんが、主はあなたに対して、決して失望されません。事実、神様は望まれるならば、あなたを困難の中から簡単に抜き出すことがお出来になります。しかし神様はそうなされません。なぜなら困難によって、あなたの内に、神様に対する飢え渇きが強められていると御存知だからです。

ローマ人への手紙5章3節は、こう語っています、「苦難は忍耐を生み出します。」ここで使われている「生み出す」という言葉は、“完成する”という意味があります。

第二コリント人への手紙4章17節に、「わたしたちの一時の軽い困難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」と記されています。ここで使われている「もたらす」という言葉は、ローマ人への手紙5章3節で使われているのと同じ言葉です。

2008年12月30日火曜日

霊的成長について、すべてのクリスチャンが知るべきこと

「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。」(第二テサロニケ人への手紙1:3)

パウロによる何と素晴らしい、テサロニケのクリスチャン達に対する賞賛でしょうか。ここでパウロが言っていることを、要約してみましょう。それは、「キリストにある信仰と、お互いに対する愛、その両方において、あなたがたがどれだけ成長したかを見ることは、本当に素晴らしい。どこにいっても、私はあなたがたの霊的成長を自慢しているのです。あなたがたのことを、ただ神様に感謝します」ということです。

この短い聖句の中で、パウロは私達に、愛と一致とにおいて成長しているキリストの体について、驚くべきイメージを与えてくれています。パウロが用いている「大いなる成長」という言葉は、ギリシア語で「他を超えて、さらに成長する」という意味があります。個人的にも集団的にも、テサロニケの信者の信仰と愛は、他の教会のそれを、はるかに超えていたのです。

もちろんテサロニケのクリスチャン達は、イエス様が再び来られるまで、ただ自分達の信仰にしがみついているだけではありませんでした。彼らは学び、動き、成長していたのです。そして彼らの人生が、その事実を証明しています。パウロによると、彼らの噂は、アジアの教会中に広まっていたということです。

察するに、彼らが聞いていたメッセージは、さらに深くキリストと歩みたいという思いを、彼らの内に起こさせていたのでしょう。それは彼らの肉の野望を溶かし、キリストらしくない習慣に気付かせました。そして彼らの内におられる聖霊が、民族や人種の壁を打ち壊してくださいました。彼らは、金持ちも貧しい人も、教育を受けた人もそうでない人も、どんな人でも受け入れる術を発見しました。そして愛の内に、お互いのことを思いやり合ったのです。

もしあなたが神様の御言葉によって養われるなら、人生において必ず継続して、霊的に成長していくはずです。そしてそれは自動的に起こるものなのです。

私の教会に集われる方が全員、テサロニケの教会についてパウロが語った様な「大いなる成長」をしているか、明言出来ません。しかし、それは多くの方について当てはまることだ、と言うことが出来ます。なぜなら、油注がれた真の神様の御言葉がメッセージとして語られるなら、それは必ず成長を促すからです。また使徒パウロは、真の御言葉の乳を望む者は、必ず成長すると言っています。

パウロは私達の霊の成長が、聖霊の働きであると説明しています。聖霊は常に働いておられ、私達を栄光から栄光へと変えておられる、とパウロは言います。御霊は絶えず私達の思いを新たにし、肉を正し、私達の内なる人に純粋さをもたらそうとしておられます。また私達の心の内で、怒り、苦い思い、恨み等、すべての悪しき思いを消し去るべく、働いておられます。そして御霊は、私達の内に親切、柔和、お互いを許す心を実らせてくださいます。聖霊は、私達をキリストの内に、成長させてくださるのです。私達が主の御名にふさわしい言動を行うよう、教えてくださっているのです。

さらにパウロは、こう私達に勧めています。「だれでも、自分をよく確かめなさい。」(第一コリント人への手紙11:28)ここで使われている“確かめる”という言葉は、ギリシア語で「綿密に検査する、試みる」という意味があります。パウロは「自分が神様の御言葉通り歩めているか、試してみなさい」と言っているのです。私達は常に「変わっているだろうか。もっと愛と柔和とに満ちることが出来ているだろうか。家族や友人を、尊敬をもって接することが出来ているだろうか。私の会話が、もっと正しいものとなっているだろうか」と自問する必要があるのです。

2008年12月29日月曜日

目に見えない成長

クリスチャンの中には、自分の霊的成長を語ることの出来る人達がいます。そしてあなた自身も、彼らの人生にはっきりとした変化を見ることが出来ます。その人達は、いかに聖霊が彼らの敵を打ち倒されたかを証しし、あなたも彼らの勝利を共に祝って喜びます。

しかしこの様なクリスチャンは、特例です。ほとんどのクリスチャンは、自分達の人生に霊的な成長を見ることが出来ません。彼らは祈り、聖書を読み、心から主を求めます。霊的な成長を妨げるものは、何もないのです。

しかし彼らは、自分達でその成長を見ることが出来ないのです。私がこのタイプのクリスチャンの一例です。私は、キリストの義の内に歩んでいるという自覚がありますが、成長していると感じたことがありません。事実、時折私はクリスチャンらしかぬ言動をしてしまっては、自分を責めてしまいます。その様な時、「私はクリスチャンになって何年も経つのに、どうして学ぶことが出来ないのだろう」と思ってしまいます。

おそらくテサロニケのクリスチャン達は、パウロが彼らを賞賛した時、非常に驚いたことと思います。(第二テサロニケ人への手紙1:3参照)彼らはきっと「私が大いに成長しているって?パウロは寝ぼけているに違いない」と思ったことでしょう。

しかしパウロは、霊の成長が隠され、秘めた所で行われるもとだと知っていました。聖書はそれを、観察することの出来ない、花や木の成長と同じ様なものだ、と言っています。「露のようにわたしはイスラエルに臨み、彼はゆりのように花咲き、レバノンの杉のように根を張る。その若枝は広がり、オリーブのように美しく、レバノンの杉のように香る。」(ホセア書14:6〜7)

神様は私達に、こう語っておられます。「ゆりを見てごらんなさい。その成長を目で見てみなさい。その日の終わりが来ても、肉眼では何の変化も見られないはずだ。しかし、わたしが露によって、毎朝そのゆりに水をやっている。だからそれは必ず成長するのだ」と。これと同じことが、霊の成長にも言えます。それは肉眼で、見ることは出来ません。

人々の中には、救われてから、過去の罪にまったく左右されない方がいます。その人達は、「イエス様を受け入れた瞬間から、主が誘惑を取り去ってくださいました。その時から完全に私は、その罪から解放されています」と、証しします。私は、多くの元薬物依存症の人達が、この様な経験をしているのを知っています。

しかし大半のクリスチャンにとって、これは彼らの証しとは異なります。イエス様を受け入れてから何年経っても、昔の悪習慣が戻ってきます。それは、彼ら自身も忌み嫌い、二度と欲しくも見たくもないと思っていることです。しかしどれ程苦しんでも、最後の思いは消え去りません。時が経つにつれ、彼らは失望してしまいます。彼らの魂は、「主よ、いつまで苦しめばなりませんか。いつになったら、この鎖は解き放たれますか」と叫びます。さらに悪魔がいつしかやってきて、「そのことから解放されることは不可能だ。こんな状況下にいて、お前が霊的に成長することなど出来ない」と語ります。

皆さん、勇気を出して下さい。良い知らせがあります。あなたはこれらの苦しみにあっても、その最中で成長しておられるのです。実際、あなたはその苦しみ故に、成長しておられるのかも知れません。

安心して下さい。もしあなたの内に、神様に対する畏れがあるなら、あなたは嵐の中から、より力強くなって、出て来ることが出来るでしょう。あなたは敵と戦う時に、神様の力と憐れみの全てを呼び求める訓練をしているのです。そして弱さを覚えていたとしても、その力と憐れみが、あなたを強めてくださいます。第一に、あなたは切羽詰まって祈ることを覚えます。第二に、あなたのプライドは、完全にはがされてしまいます。ですから実は嵐によって、あなたの人生のすべての面に、霊的な防御壁が立てられるのです。

2008年12月26日金曜日

神様の愛を知り、信じ、信頼し続けなさい

霊にあって陶酔し、困難にも試練にも遭わずにいるのなら、誰でも喜び続けることが出来ます。しかし神様は、どんな時でも、特に試みにある時にこそ、私達が神様の愛の内に留まる様、望んでおられるのです。

使徒ヨハネは、どの様に神様の愛に留まればよいのかを、とても明白に語ってくれています。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(第一ヨハネによる手紙4:16)一言で言えば、もし私達が神様の愛に留まるなら、私達は神様の内に留まることが出来るということです。

ここで使われている“留まる”という言葉は、「待ち望む状態にいる」という意味があります。言い換えれば、神様は私達に、神様の愛が日々新たにされるということを、待ち望んで欲しいということです。私達は毎日、神様が私達を愛し、そして愛し続けてくださるのだ、ということを知りながら生きる必要があります。

現実的には、私達のほとんどが、自分の感情が上下するのに合わせて、神様の愛に近づいたり遠ざかったりしてしまいます。何か良いことをした時だけ、神様の愛の内にいて良いのだと感じてしまいます。しかし私達が試練や困難にある時、また神様の御心に反したことをしてしまった時は、神様の愛を疑ってしまいます。しかしその様な時こそ、神様の愛に頼るべき時なのです。これらの聖句を通して、神様は私達にこう語られています。「あなたがどの様な試練に直面しようと、あなたに対するわたしの愛を、決して疑ってはなりません。もし進んでわたしの愛に信頼を置くなら、わたしがあなたに望む、その通りの生き方をしていることになるのです」と。

エレミヤ書31章は、素晴らしい神様の愛を記しています。イスラエルは背信の時代にありました。人々は肥え太り、富に溢れ、ありとあらゆる悪に手を染めていました。

すると突然、彼らの欲が苦みに変わりました。彼らは、五感を満足させることに対する喜びを失ってしまったのです。彼らは叫びました、「主よ、私達は道を失ってしまいました。方向転換をするために、あなたが必要です」と。神様は、彼らのこの悔い改めの叫びを聞かれ、愛に溢れた神様の心が、彼らの元へと飛んで行きました。神様は民を、杖と教えとによって懲らしめられました。そしてイスラエルは「あなたはわたしを懲らしめられました。どうかわたしを立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります。わたしは背きましたが、後悔し、思い知らされ、悔い改めました」と叫びました。(エレミヤ書31:18〜19より抜粋)

ここでの神様の御言葉に、耳を傾けて下さい。「彼を退けるたびに、わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられない。」(20節)「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。」(3節)

これこそ、神様の愛について、あなたが知るべきことです。神様はその民に、「わたしはあなたを懲らしめ、厳しい真実の言葉を語らねばならなかった。しかしそれでもあなたは、わたしが注いだ恵みと慈しみにも関わらず、わたしに対して罪を犯した。わたしの愛に背き、わたしを拒絶した。それでもなお、わたしの憐れみに満ちた心は、あなたに対して動き、苦しみにあるあなたを顧みる。そしてあなたに憐れみを注ぐ。わたしはあなたを赦し、完全に癒す」と言われるのです。

2008年12月25日木曜日

栄光のうちに歩む

困難の時を受け入れ難くさせている理由の一つは、神様の栄光に関する理解にあります。あなたは「その様なことは非常に崇高で、神学者に任せた方が良い題材だ」と思われるかも知れません。しかし神様の栄光は、すべての信者にとって、非常にリアルで実践的な価値を持っていると、私は確信しています。それを理解することによって、人生に打ち勝つ扉の鍵を開け放つことが出来ます。

神様の栄光は、主の存在と神性を現すものです。旧約聖書でモーセが神様の栄光を垣間見たことを、覚えておられるかも知れません。それまで、主は「わたしはある」という言葉の他、御自身について何も語られずにモーセを遣わされました。しかしモーセは、神様についてもっと知りたいと願いました。ですから彼は、「主よ、あなたの栄光を見させて下さい」と主に請うたのです。

神様はモーセを岩の隙間に隠すことで、この要求に応えました。そして聖書は、神様がモーセに御自身の栄光のすべてを現された、と記しています。(出エジプト記34:6〜7参照)神様は私達に、御自身の人類に対する偉大なその愛を通して、その栄光を知って欲しいと望んでおられます。そしてそれこそ、神様がモーセに現された方法です。

この箇所は、主がどの様な方であるか、私達が理解する上での要となる箇所だと思います。神様の栄光について考える時、私達はよく、神様の尊厳や威光、力や権力など、神様が民に対して現されているものを思い浮かべます。これらのすべては、神様の栄光を見た結果と言えるでしょう。しかし、それらは神様が私達に知っていて欲しいと望まれる、神様の栄光の姿ではないのです。主は、私達にその愛を示し、私達を赦し、憐れみを注ぎ、御自身と和解させることを、永遠に待ち望んでおられるのです。

神様の栄光の現れは、それを受ける者や、その理解を祈り求める者に対して、非常に強い影響をもたらします。その時までモーセは、主を「律法と怒りの神」としてしか見ていませんでした。彼は主の臨在にあって畏れに身を震わせ、イスラエルのために主に泣き叫び、請い求めました。これが彼にとっての、主との関係の土台となっていました。

しかし神様の栄光を垣間見た今、モーセの主に対する恐れは消え去りました。その代わり、主を礼拝する様に、心動かされたのです。「モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。」(出エジプト記34:8)彼は神様が、ただ彼を震え上がらせる恐ろしい雷や稲妻の様な方ではないと知ったのです。実際はその反対で、神様は愛であり、その神性は憐れみと優しさに満ちたものだったと気付いたのです。

ここで聖書が示している、素晴らしい真理を理解することが出来ますか。真の礼拝は、何の見返りも顧みない、神様の私達への愛によって揺り動かされた心から、湧き上がってくるものなのです。それは神様が御自身を、その良さを、憐れみを、赦しを、私達に与えてくださるのだ、という悟りに基づいています。ですからもし私達が神様を、霊と真とによって礼拝するのなら、私達の礼拝は、この素晴らしい真実に基づくものでなければなりません。

神様の栄光を受け取ったなら、私達の礼拝は絶対に変わります。何故でしょうか。それは神様の栄光を見ることで、私達の生き方が変わるからです。それは私達の態度や行動に影響をもたらし、私達を「栄光から栄光」へと造り変えて、さらに主に似る者としてくださいます。神様の愛と憐れみが現されるその度に、それは私達に、超自然的な変化をもたらすのです。

2008年12月24日水曜日

キリストを通して与えられる神の愛

ヨハネによると、神様の愛のすべてがイエス様の内に宿っているということです。ヨハネはこう記しています。「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から受けた。」(ヨハネによる福音書1:16)ではどの様にして、私達は御父の愛を受けたのでしょう。それは、キリストの内にいることによってです。

あなたは、キリストを通して神様の愛が与えられると知ることが、なぜそんなに大切なのだろう、と思われるかも知れません。それが私達の日常生活と、どう関わりがあるのだろうか、と。

どうやって神様の愛が、私達の日々の生活に影響をもたらすのでしょうか。その答えは、キリストの内に見つけなければなりません。なぜならイエス様はすでに、御父が御子を愛された様に、私達をも愛してくださる、と語ってくださいました。ですから、御父の愛がどの様に、イエス様の生活に影響をもたらしていたか、を見れば良いということです。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(第一ヨハネによる手紙3:16)ここにイエス様の内にある、神様の愛の実が見られます。イエス様は御自身を、他の者のためのいけにえとして献げられたのです。この聖句の後半部分は、私達の人生における神様の愛の目的を記しています。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」神様の愛は、私達も自分の体を生けるいけにえとして献げる様、導いておられるのです。

兄弟・姉妹のために、本当に命を捨てるということがどういうことか、考えたことがありますか。ヨハネは、異国の地において殉教者になることを、話しているのではありません。臓器提供者となることを、話している訳でもありません。また死刑囚の代わりに、刑を受けることを話している訳でもありません。キリストだけが、その様ないけにえを献げられるのです。そうではなく、兄弟・姉妹に命と希望を与えられるクリスチャンとは、死んでいる者だけです。それはこの世に、すなわち、プライドや野望等、自分に完全に死んだ僕ということです。

この“死んだ”クリスチャンは、聖霊がその人の魂の在庫確認をすることを許している人です。その人は自分の心に残っている、汚いもの、神様のものでないものを見ます。そして神様の御元に行き、「主よ、私を焼き尽くして下さい。すべて取り去って下さい」と、叫ぶのです。その人はキリストの血潮によって聖められなければ、他の兄弟・姉妹のために命を捨てることが出来ないと知っているのです。

2008年12月23日火曜日

神様の愛

最近になって私は、聖霊により揺り動かされ、この聖句へと導かれました。「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。」(ユダによる手紙20〜21)この箇所を読みながら、私は御霊がこう囁かれるのを聞きました。「ディビッド、あなたはわたしの完全なる喜びと愛を、まだ経験していない。神学的にはよく理解しているが、その快感とわたしの愛のうちに留まることの平安を体験していない。今まであなたが経験してきたものは、足首までのもの。しかし実際は、あなたの目の前に、自由に泳ぐことの出来る、わたしの愛の大海原が広がっているのだ」と。

聖書は、神様の愛についての真実で満ちています。しかし時折私は、神様がなぜ自分の様な者を愛されるだろうか、と思ってしまいます。決して神様の愛を疑っている訳ではありません。それは逆に私自身の問題で、神様の私に対する愛を完全に知り尽くし、信じ尽くしていないのです。

私達が神様を信じる時、神様の愛の一部が明らかにされます。もしクリスチャンに、神様の愛について何を知っているか尋ねるなら、その多くは「私のために御子を遣わし、死んでくださったことで、神様の愛が分かります」と答えるでしょう。ヨハネによる福音書の3章16節を引用するでしょう。「神は、その独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

この真実を噛み締める瞬間とは、本当に素晴らしいものです。あなたは突然、「神様は、私が迷子で他人としてさまよっていた時から、私を愛していてくださったのだ。そして私のために、御自身の独り子をいけにえとされたことで、私への愛を示してくださったのだ」とことを悟ります。

しかし、一握りのクリスチャンだけが、神様の愛に留まることを学びます。主に対する愛について、少しは知っていますが、神様の私達への愛を追求することをあまりしません。事実、もしクリスチャン達に「神様の愛が書かれている、聖書の箇所を教えて下さい」と尋ねても、おそらく数カ所しか思い浮かべることが出来ないでしょう。しかし、神様の愛を知ることこそ、人生に打ち勝つ秘訣なのです。多くの人は、神様の愛を知らないために、霊的に冷めきり怠惰になってしまいます。彼らは、サタンに対する最大の武器が、聖霊の解き明かしにより、神様の愛を完全に知ることだと知らないのです。

イエス様は地上での最後の祈りの中で、こう言われました。「父よ、あなたは天地創造の前からわたしを愛してくださいました。」(ヨハネによる福音書17:24)これは何と素晴らしいことでしょう。キリストは創造の前より、父によってひたすらに愛されていたのです。
そしてイエス様は、次の偉大な祈りを捧げました。「父よ、あなたが私を愛しておられたように、彼らをも愛しておられます。」(21、23節)またこの様にも祈られました。「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるように。」(26節)キリストは「父よ、あなたがわたしを愛されたように、わたしの体の内に集める者達を、あなたが愛してくださると知っています」と言っておられるのです。

ここに秘められたメッセージは、御父は永遠の昔よりイエス様を愛しておられ、私達をも同じ様に愛されたということです。事実、御父の永遠の思いの中に、考えとして人間のことが浮かんでいた頃から、主はすでに私達の詳細を知り、救いの計画を立てておられたのです。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エペソ人への手紙1:4)

神様はどれ程長い間、あなたを愛してこられたのでしょうか。神様が存在されてからずっとです。なぜなら、神は愛だからです。愛することこそ、神様の性質なのです。神様は、あなたを罪人として愛されました。神様は、あなたが胎にいる時から愛されました。神様は、世界が生まれる前からあなたを愛されました。あなたに対する神様の愛は、始まりがありません。そしてそれには終わりもないのです。

神様はいつ、あなたを愛することを止められるでしょうか。それは神様が、御子を愛されるのを止められる時です。そしてそんなことは、絶対にあり得ません。キリストはこう語っておられます。「イエスは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネによる福音書13:1)

2008年12月22日月曜日

神様の愛に留まりなさい

数年前、神様は私の心の内に、ロングアイランドで、少年の家を始めなさいという思いを植えられました。この働きに関して私は、強い主の導きを感じました。しかし、そのたった18ヶ月後に、州が少年の家運営に関する厳しい制令を下し、私達はその家を閉鎖するしかありませんでした。

その短い運営期間中、私達は4人の少年をお世話しました。少年の家が閉鎖されてから、彼らとは音信不通になっていました。私はよく、この少年の家事業のことを思い出しては、それが最大の失敗であったと思っていました。30年以上もの間、なぜ神様が私にその事業を進めることを許されたのか、分からないでいました。

しかし最近になって、私はクリフォードという名前の男性から、一通の手紙を受け取りました。その手紙の中で、彼は次の様なことを語ってくれました。

「ディビッド兄弟、私はロングアイランドの少年の家に送られた、4人の少年の一人です。そこでの寮母・父さん達は、とても親切で優しい方々でした。私達に聖書を教え、教会へ連れて行って下さいました。ある日、彼らは私達を、リバイバル集会が行われている教会へ連れ行って下さいました。その時の私は、非常に苦々しい思いで一杯でした。しかしその教会で、聖霊様が私の心に触れ始められたのです。私はメッセンジャーが『イエス様はあなたを愛しています』と言うのを耳にしました。長年の痛み、迷い、絶望感が露にされました。私はひざまずき、祈りました。それは35年前のことです。今、神様は私を説教者して召され、フルタイムの奉仕者となるよう、導いてくださっています。この感謝の気持ちは、この間ずっと、私の中で温められていました。私の面倒を見て下さって、本当にありがとうございました。神様の愛とは何か、知ることが出来ました。」

この手紙は、私達がキリストのために行うことは全て、決して無駄になることはないのだと証明してくれます。あの少年の家は、失敗ではなかったのです。なぜなら一人の失われた、さまようユダヤ人の少年が、神様の愛の意味を見つけることが出来たからです。

2008年12月19日金曜日

サタンの巧みな業

「アッシリアの王は、ラブ・シャケを大軍と共にヒゼキヤ王のいるエルサレムに遣わした。」(列王記下18:17)アッシリアは、今日の「繁栄への手引き」を象徴しています。悪魔はあなたの城壁の周りを、力強い者、美しい者、またすべてにおいて成功を収めているように見える者を率いて、練り歩きます。その者たちを目にする時、あなたは囚人であるかのように意気消沈してしまします。

罪にある者からの最初の罠とは、信者の完全なる主への信頼を疑うことです。王の遣いであったラブ・シャケという名前は、「酔いつぶれた遣い」という意味があります。彼は主を信じる人々を嘲りました。(列王記下18:19〜20参照)彼の言い分は、「神はお前たちをこの混乱から救い出さない。お前たちはただ、滅びるだけだ。大変な危機にあっても、お前達の信仰など、何の役にも立ちやしない」ということでした。

サタンは、さらにこれに一ひねり加えました。サタンはあなたに、神様がこれらすべての困難の背後にいるのだと囁きます。アッシリアの使者は、こう叫びました。「わたしは今、主とかかわりなくこの所を滅ぼしに来たのだろうか。主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ」と。(列王記下18:25)サタンは、神様があなたに仕返しをし、あなたに怒りを覚えていらっしゃると信じ込ませたいのです。これこそ、サタンの狡猾な偽りです。サタンは神様があなたを見捨て、困難と悲しみの中に突き落とされたのだと、あなたに信じ込ませようとしているのです。すべての問題は、あなたの過去の罪に対する神様からの懲らしめなのだと、信じ込ませたいのです。それを信じてはなりません。それはあなたを滅ぼそうとする、サタンの企みです。

私達の主は、救い主であり、守り主です。イザヤはこう語っています、救い主が来られるのは、「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ばれる」と。(イザヤ書61:3)

愛する聖徒の皆さん、あなたは滅びに向かってなどいません。あなたの心が本当に主に向けられているからこそ、あなたは攻撃を受け、敵の偽りに惑わされているだけなのです。サタンは神様へのあなたの信仰を、打ち砕こうとしているのです。

2008年12月18日木曜日

戦いへの招き

「また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍してくる敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てなければ、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカによる福音書14:31〜33)

エノクはこう、預言しました。「見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。」(ユダの手紙14)聖書は、私達が主のための王や祭司であり、サタンとの戦いへ行く何十万もの人々を率いるのだと記しています。サタンが私達に敵対するのは、私達をひたすらに憎んでいるからです。(黙示録12:17参照)

これから来ることについて、私達は準備を整えねばなりません。霊の戦いが起こり、神様の民に対して、悪の洪水が押し寄せることを覚悟しなければなりません。もし私達が、キリストを知る決意を固めるなら、キリストにあって、私達は絶対に打ち負かされることがないのだと、知る必要があります。聖書はこの様に記しています。「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」(第一ヨハネの手紙4:4)神様は私達が、敵のどの様な力にも必ず勝利すると、保証してくださっています。すべての天の大軍が、私達のために戦ってくださっているからです。

神様がさらに聖霊を私達に与え、全地と地獄の群れに対して、私達一人ひとりがこう叫ぶことの出来るように祈ります。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。しかし、これらのすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって、輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものの、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ人への手紙8:35、37〜39)

これこそ、イエス様を飢え求める者の上げる、ときの声なのです。

神様にあるすべての男女は、キリストに対しての生けるいけにえとなろうと決心した時から、地獄の悪しき企みの標的となります。信仰による聖い歩みをしようと心に決めている者に対して、地獄の群れが放たれます。

あなたが、サタンの偽りに満ちた計画を危ぶませるものとなったため、サタンはあなたを攻撃し、その道に障害物を置くでしょう。あなたは不戦敗し、諦め、いい加減で、実を結ばずにさまよう者となる道を選択することが出来ます。

でも私は、悪魔の計画に反旗を翻し、信仰によって立ち上がり、戦うことを選びます。サタンは完全に主に信頼をおく者を、押さえつけておくことが出来ないのです。

2008年12月17日水曜日

完成させること

「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することは出来なかった』と言うだろう。」(ルカによる福音書14:28〜30)

キリストは、彼に従う者の多くが、完成するに必要なものを持っていないことを知っていました。彼らが背を向け、レースを完走することがないと知っていました。キリストを知り、成熟した弟子となり、もっとキリストに似る者とされようという、完全なる志をもって始めながら、途中で離れて行ってしまうことほど、信者にとって悲劇的なことはありません。その様な人は、最初に費用を計算しなかったので、土台を築きながらも完成出来なかった人です。

実際にレースを完走した人達と会うことは、何と素晴らしいことでしょうか。これらの信者は、キリストの知恵と知識に満ちています。彼らは日々、瞬間毎に、変えられています。パウロは彼らに、励ましの言葉を述べています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(第二コリント人への手紙3:18)彼らが望むのは天国ではなく、栄光に満ちたキリストの御姿なのです。

このディボーションを読まれておられる方の中には、信仰の歩みにおいて一時休止していたり、後戻りしたりしておられる方がおられるかも知れません。それは小さなステップの様に見えるかも知れませんが、神様の愛から大きく離れる原因になってしまいます。もしこれがあなたに当てはまることでしたら、聖霊があなたを引き戻そうとされておられることに、気づいてください。悔い改め、自分に死に、完全に委ねることへと。そしてこの瞬間、時というものが重要な役割を果たします。もしキリストを知りたいと思われるなら、今、そうして下さい。そして、完成させて下さい。

2008年12月16日火曜日

愛と憎しみ

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(ルカによる福音書14:26)

ギリシア語で「憎む」とは、“比較的に言って、少しの愛を注ぐ”という意味があります。イエス様は、この世のものいかなるものが、主への愛とは比較出来なくなるほど、私達にイエス様だけを絶対的に強く愛するよう、呼びかけておられるのです。

考えてみて下さい。主の麗しい臨在に入り、何も求めなくてよいことが、どういうことか、私達に想像出来るでしょうか。ただ感謝の意から主に手を差し伸べ、主から完全に愛されるということが、想像出来るでしょうか。

私達は祈りにおいて、自己中心的かつ自分勝手になってしまいました。「これを下さい、来て下さい、祝福して下さい、用いて下さい、守って下さい」等々と。これらの祈りはすべて、聖書に基づくものかも知れませんが、それでもその焦点は、私達に当てられています。主に対する働きでさえ、自分勝手なものになっています。主への働きが祝福され、自分の信仰が本物であると証明される様、望んでいるからです。主は、私達がどれほど主のために働くかより、主にあってどの様な者にされていくかに興味を抱かれています。

これを読んでいる方の中で、ミニストリーの扉が閉ざされ、心を痛めておられる方がいらっしゃるかも知れません。自分は物置にしまわれてしまった、と感じておられるかも知れません。またある方は、必要を覚えている宣教地で働くことで、さらに神様の役に立てると思っておられるかも知れません。しかし、隠れた場所で祈ることで神様に愛を示すこと程、神様の役に立つことはないと、私は思います。私達が主を求める時、また神様を知るために御言葉を探り続ける時、私達は一番役に立っているのです。どんな働きをするよりも、ただ神様と二人っきりで交わることが、神様を祝福し喜ばせます。神様が私達に働きを委ねようとされる時は、それが近くであっても遠くであっても、神様との交わりから自然に生まれます。神様にとって、私達が世界を勝ち得るよりも、私達自身の心が完全に神様に向けられていることの方が、もっと大切なのです。

魂を得る働きを見下している訳ではなく、すべての霊的に祝福された宣教は、神様との交わりから生まれると、言いたいのです。常に祈りにあって主と共にいる証し者は、知恵と、絶好の機会と、神様の御心を行うための力が与えられています。

2008年12月15日月曜日

主の食卓

ある古いゴスペルソングが、私にとって、非常に奥深い意味を持っています。その歌詞は「イエス様は食卓を備えられている。それは神様の聖徒らが食する所。選ばれた神の人々が来て楽しむ。」

何て素晴らしい考えでしょう。主は従う者達に、天国で食卓を備えてくださっているのです。イエス様は、弟子達にこう言われました。「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、私の国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(ルカによる福音書22:29〜30)主への飢えを覚えるとは、信仰によって、私達もこの食事の座に着くということです。

使徒パウロが「過越祭を祝い続けようではありませんか」(第一コリント人への手紙 5:8)と命じるのは、私達のために、天国においてキリストと共に、王の食事の席が備えられているということを、私達が明確に理解するためです。パウロはこう言っています、「必ず出席しなさい。あなたの席が空席になっているとは、言わせてはなりません」と。

しかし残念なのは、イエス・キリストの教会が、この「祭りを祝い続ける」ということの意味を理解していないということです。私達は、キリストによって引き上げられた後、御国で彼と共に座することの名誉と素晴らしさを、理解することが出来ません。私達は、食卓に着くことで、精一杯になっています。正餐よりも、仕えることで霊的な喜びを得るよう、私達は勘違いを犯してしまっています。私達は、もっともっと主のために働く一方で、もっともっと、主御自身を知らなくなっています。主のために、私達の心も体も酷使しながら、ほとんど祭りをお祝いしません。

天国において主が、その僕や、牧師や、羊飼い達から、他のことよりもただ一つ求められることとは、主の食卓に共に座することです。この食卓は、霊的な交わりを持つためのもので、毎日備えられています。「祭りをお祝いする」とは、食べ物と、力と、知恵と、交わりを求めて、主の元に継続的にやって来るということです。

十字架の後、すべての霊的な偉人達には、一つの共通点がありました。彼らは主の食卓の座を畏れたのです。彼らはキリストの偉大さに、我を失っていました。彼らは皆、亡くなる時に、自分達がいかに、まだキリストとその生涯のことをよく知らないでいるかを嘆きました。

私達が今日描いている、キリストのビジョンは、あまりに小さく制限されています。この堕落した時代の、複雑で増加するばかりの問題に打ち勝つためには、偉大さを語る福音が必要です。神様は、ただこの世の問題を解決されるだけではありません。神様の偉大さの内にあって、それらの問題は一飲みにされてしまいます。キリストの偉大さをはっきり持つ人は、どんな問題も、悪魔も、この世の力も、恐れる必要がありません。その人は、いかにキリストが、そのどれよりも偉大であるかを知っているからです。もし私達がこの様に、キリストの偉大さについての理解を抱くなら、すなわち、それがいかに制限なく、豊かで、莫大であるかを知るならば、私達はもう二度と、人生の問題に心を失うことがないでしょう。

パウロは、私達の良き見本です。彼はキリストの啓示を、ただただ深めようと決意していました。事実、彼がキリストについて知っていたことはすべて、啓示から来ました。それらは彼が、主の食卓に座する時に与えられ、聖霊によって明らかにされたのです。思い出して下さい、彼がエルサレムにいる弟子達を訪ねていったのは、改心した3年後のことでした。そして彼は、弟子達とたった15日間一緒にいただけで、すぐに宣教の旅に出て行きました。後にパウロはこう語っています、「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。」(エペソ人への手紙3:3)聖霊は、神様の深く隠された秘密を御存知です。パウロは恵みの賜物によって、「キリストの計り知れない富」(エペソ人への手紙3:8)について理解し、その福音を語り告げることが出来る様、常に祈り求めていました。

真実の言葉を見つけるために、様々な矛盾する声をかき分けるだけでは満足出来なくなった信者を、主は探しておられます。深く、個人的な交わりから来る主の啓示を、私達が求めるよう、主は願っておられます。

2008年12月12日金曜日

信仰の戦場から

パウロがエルサレムに行くと決めたのは、そこでリバイバルが起きていたからではありません。彼は失望した宣教師が、神様からの啓示を求めてやって来る状況とは違います。彼はエルサレムに行く理由を、こう明言しています。「わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、話すためでした。」(ガラテヤ人への手紙2:1〜2より抜粋 )パウロは、神様が御自分の民に示したいと願っていた奥義を証しするために、エルサレムに向かったのです。

この信仰の人は、個人的に栄光に輝くキリストの啓示を体験しました。彼が宣べ伝えていた教義は、独り部屋に閉じこもって、本や解説書を読むことで学んだものではありません。彼は独り神学的な真実を瞑想することにふけり「いつか私の研究の成果が、未来の世代の人々に読まれるのだ」と夢見る哲学者ではありませんでした。

どうやって、またどこからパウロが彼の手紙を執筆していたか、お伝えしましょう。彼は暗い、湿った監獄から手紙を書いていたのです。背中に鞭打たれ、血を流した後にこれらの手紙を書いたのです。また船が難破し、海から這い上がって来た後に、これらの手紙を書いたのです。

パウロは、彼が人々に教えていたことはすべて、信仰の戦場から来たのだという自覚がありました。そして直面していた苦しみのすべては、福音のためなのだと考え、それらを喜んだのです。彼はこう言いました。「これでようやく、難破した経験のある船員に対して、また希望もなく監獄されている収容者に対して、死の危機に瀕したことのある人に対して、権威をもって宣教出来る。聞く耳のある者が主の真実を聞くことの出来るよう、神様の御霊が、私を経験豊富なベテラン兵士としてくださったのです」と。

神様はあなたをサタンの手に引き渡されたのではありません。それどころか、神様は御霊を通して、あなたの内で目に見えない働きをするために、あなたが試練を経験することを、許されているのです。キリストの栄光が、あなたの内で永遠に形成されているのです。

誰か他の人や、他のものによって、自分の真の霊性を磨くことは出来ません。神様の栄光を経験するには、あなたが今いるその場所で、それが良くても悪くても、その環境のままで、栄光を経験する必要があるのです。

パウロの霊の強さに関する一番の秘密とは、彼がいかにどんな状況をも不満をもらすことなく受け入れたか、ということです。彼はこう記しています。「わたしは自分のおかれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」(フィリピ人への手紙4:11)

ここで使われている「満足する」とは、ギリシア語で“攻撃をかわす”という意味があります。パウロは「私は自分をひどい環境から救い出そうとは思いません。神様に、『私を救い出してください』ともお願いしません。反対に、私はどんな境遇をも受け入れます。経験から言って、それらはすべて、主が永遠のものを私の内で実らせておられるからだと知っているからです」と言っているのです。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。」(第一コリント人への手紙10:13)パウロがここで使っている「耐える」という言葉は、私達の境遇が変わることのないことを示唆しています。ここでのポイントは、与えられた環境下で、いかに私達が耐えるか、ということです。それは何故でしょうか。神様がもし環境を変えられれば、私達が最終的に滅びてしまうと御存知だからです。神様は私達を愛しておられるからこそ、私達が苦しむのを許されるのです。

困難にある時の私達の役目とは、苦しみの中にあっても、満足を覚えるに必要な力と資源のすべてを、神様が備えて下さっていると信頼することです。誤解しないで下さい。困難にあって満足することは、困難を楽しむこととは異なります。それはただ、困難から自分自身を救い出そうとすることを、止めることを意味します。私達は、神様が許される環境に満足し、それを耐えねばなりません。それは私達の主が必ず、御子にあって私達の憩いをもたらしてくださると信じているからです。

2008年12月11日木曜日

この時代の忍耐

「忍耐する」とは、“困難の中でも続行する、諦めずに耐え忍ぶ”という意味があります。簡単に言うならば、続行する、忍耐するということです。しかし今の時代、この言葉はあまり意味を持ちません。今日のクリスチャンの多くは、配偶者に、家族に、また神様に、諦めを抱いています。

ペテロはこのことについて、こう述べています。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みなのだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」(第一ペテロ2:19)さらに彼はこう続けています。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続く様にと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(第一ペテロ2:20〜25)

使徒パウロは私達に、こう命じています。「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。」(第二テモテへの手紙2:3)また主御自身が、次の約束を与えてくださっています。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイによる福音書24:13)

あなたにお尋ねします。あなたが直面している困難とは、一体何ですか。結婚生活が波乱状態にありますか。仕事の危機に瀕しておられますか。親戚や、大家さんや、友人との間に問題を抱えていたり、彼らに裏切られたりしましたか。

私達は希望を抱くべきです。パウロは苦しみましたが、決して諦めず、彼の深い信仰、揺るぎない平安、成熟さ、理解も決して止まることがありませんでした。彼はこう語っています。「もし私が霊的な人となるなら、もし私が本当に主を喜ばせたいなら、環境に逆らうことは出来ません。私は決して諦めず、耐え忍びます。この世の何ものも、神様の御霊が試練に立ち向かうために、私に与えてくださっているものを、与えることは出来ません。神様は私を、霊的な者へと育ててくださっているのです。」

パウロの人生は、キリストの霊による息吹が吹き入れられていました。そして真の霊的な人は、皆そうあるべきなのです。聖霊は神様の天の息吹を、すべての僕の内なる人に注ぎます。その人は落胆しません。自分のおかれた環境に対して、不平不満をもらしたりしません。人生における大変な試練にあったとしても、その人は微笑むことが出来ます。それはその人が、神様が内に働いて、永遠の栄光を示して下さることを知っているからです。

2008年12月10日水曜日

あなたに与えられたキリストの啓示

もしあなたが牧師、宣教師、または教師であるなら、考えてみて下さい。あなたは一体何を教えているのでしょう。それは人から教わったことですか。ある素晴らしい先生が受けた啓示を、そのまま伝えておられますか。それとも、自分自身でイエス・キリストについての啓示を経験されましたか。もし経験されたことがあるなら、それは成長し続けていますか。御国があなたに開かれていますか。

パウロは言いました。「我らは神の中に生き、動き、存在する。」(使徒行伝17:28)本当に神様にある人は、この小さいながらも莫大な円の内に生きます。その一挙手一投足、その存在のすべては、キリストの思いの内に包まれています。何年か前、私は聖霊がキリストのみを語る様、導いておられるのを感じました。私の内に、ただキリストだけを述べ伝えたい、という強い思いがありました。しかし私の心は定まっておらず、この円だけでは小さ過ぎると思ってしまいました。結果として、私がいただいた啓示は消え去っていきました。

キリストを述べ伝えるために、私達は聖霊から、常にキリストの啓示を受ける必要があります。そうでなければ、私達の伝えることは、活気のないものとなってしまうでしょう。もし聖霊が神様の御心を知り、隠された神様の奥義を探すなら、そして私達の内に聖霊が豊かな水の流れとして満ちてくださるなら、私達はその流れで満たされる準備をする必要があります。決して終わることのない、キリストの啓示で満たされ続けなければなりません。この様な啓示は、主に従おうという態度を示し、聖霊が主の御心を明らかにしてくださることを信じている主の僕すべてに備えられています。

パウロは、キリストが彼に示されているだけではなく、彼の内に示されていると言いました。(ガラテヤ人への手紙1:16参照)説教者の生活やミニストリーで力を持たない御言葉なら、たとえそれが説教として分かち合われたとしても、神様の目にそれは、無駄なものとして写ります。浅はかなクリスチャン達には、キリストを論争として取り扱うことが良いことの様に写るかもしれません。しかし、真の神の人には、そうではありません。私達は、永遠に深まり続けるキリストの啓示を伝えなければなりません。そしてただ伝えるだけではなく、その啓示が自分の人生にもたらした変化をも伝える必要があるのです。

パウロも個人的な悩みを打ち明けました。「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」(第一コリント人への手紙9:27)パウロはキリストにおける救いを疑っていた訳ではありません。ここで使われている「失格者」という言葉は、ギリシア語で“認められていないもの”又は“価値のないもの”という意味があります。パウロは、キリストの裁きの座に着く時、よく知りもしないキリストについて教えたり、自分が行動に移さなかった福音を宣教したりしたことについて裁かれることを、非常に恐れていました。パウロがよく用いている「キリストを生きる」もしくは「我が内に生きるキリスト」とは、このことを表しています。

私達は次の質問に個人的、また正直に答えるまで、自分自身を神の僕と呼ぶことは出来ません。「私は心からキリストだけを求めているだろうか。キリストだけが、我がすべてであり、唯一の生きる目的だろうか。」

あなたはこの質問に「はい」と答えられますか。もし心から「はい」と答えることが出来るなら、パウロが語っている、自分の人生の汚点を指摘することが出来ます。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピ人への手紙3:8)キリストの啓示の素晴らしさ故、すべてのものを損失と見なしていますか。あなたが本当にキリストだけを求めるなら、あなたのミニストリーは単なる職業ではなくなり、祈りとなります。催促されてキリストを求めるのではなく、キリストと交わることを望む心から、頻繁に自ら隠れた場所に行くようになるでしょう。主を礼拝し、急がされることなく主との交わりの時を持ち、主を愛し、手を上げて主を賛美し、主を求め、主の知恵に対して感謝を捧げることでしょう。

2008年12月9日火曜日

依り頼む心

詩編の著者は、こう記しています。「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。」(詩編22:4〜5)

「依り頼む」というヘブル語の語源は“絶壁から自分自身を放り投げる”ということを示唆します。それはまるで、子どもが垂木に登ってはみたものの、降りられなくなった光景のようです。その子は父親が「飛び降りなさい」と言う声を聞き、言われるままに、父の腕の中に飛び込みます。あなたは今、この様な状況におられますか。絶壁に立ち、ぐらつき、イエス様の御腕に飛び込むしか選択はない、という状態ですか。ただ諦めてしまうことは、依り頼むことと違います。それは単なる運命論でしかありません。依り頼むことと、受け身で観念することとは、大きく異なります。依り頼むとは、能動的に信じることです。

私達がイエス様を強く求めれば求める程、私達はしっかりとイエス様に依り頼むことが出来ます。人生において、イエス様が全体的な構図を捉えておられず、自分が主権を握っていた方が良いと思えてしまい、イエス様に依り頼むことが出来ないことがあるかも知れません。しかしイエス様に近づき、もっと彼を知ることで、その考えは変わるでしょう。命綱の端っこにしがみつき、どうしても助けが必要な時だけイエス様に近づくのではなく、常にイエス様と共に歩むことで、待ち受ける試練を警告してくださる御声が聞こえるようになります。

依り頼む心は、常に「私の歩みのすべては、主によって定められています。主こそ私の愛する父であり、私が苦しみや試練を通るのを許されます。しかしそれは、決して私が耐えられないものではありません。神様がいつも逃げ道を備えてくださるからです。主は私に、永遠の御計画と使命を持っていてくださいます。私の髪の毛の数を御存知で、私を母の胎にて形作ってくださいました。神様は私が座るのも、立つのも、横になるのも御存知です。私を目に入れても痛くない者として見てくださるからです。主こそ神であられます。私の神であるだけではなく、私に訪れる、すべてのことやものの神様でもあられます」と言います。

また完全な心とは、砕かれた心です。

詩編の著者であるダビデは、こう語っています。「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。」(詩編34:18)

砕かれた心とは、単に嘆き悲しんだり、押しつぶされたり、謙遜したりする心ではありません。真に砕かれた心は、神様が人間に与えてくださっている、最も素晴らしい力を解き放つことが出来ます。それは死人を甦らせることよりも、病人を癒すことよりも、さらに素晴らしい力です。私達が神様の御前で本当に心砕かれるなら、廃虚を建て直し、神様に特別な栄光と誉れをもたらすことの出来る力が与えられます。

砕かれることは、壊されたり、登ったりと、壁と関わりがあります。ダビデはエルサレムの壁を登ることと、神様の民が砕かれることとを関連づけました。「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。御旨のままにシオンを恵み、エルサレムの城壁を築いてください。そのときには、正しいいけにえも焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれるでしょう。」(詩編51:17〜19より抜粋)

ネヘミヤは心砕かれた者で、彼の物語は、エルサレムの壊れた城壁に関することでした。(ネヘミヤ書2:12〜15参照)夜の闇の中、ネヘミヤは砕かれた城壁を見ました。ここで使われている「砕かれた」という言葉は、ヘブル語の「シャバー」です。そしてそれは、詩編51章17節にある「砕かれた心」で使われている言葉と同じものです。ヘブル語での意味を踏まえて言うなら、ネヘミヤの心は2つの方法で砕かれていました。一つ目は廃虚を嘆く心、そして二つ目は再建の希望によって、心がはち切れそうになっていたことです。

真の砕かれた心とは、こういうことです。それはまず、教会や家庭の崩壊を見て嘆き、主の苦悩を感じること。この様な心は、主の御名が非難されることに、痛みを覚えます。そしてまたこの様な心は、ダビデ同様、自分自身を見つめ、恥と失敗を見つけ出します。しかし砕かれた心に関する二つ目の重要点は、希望です。真に砕かれた心を持つ人は、神様からの「わたしは癒し、再建し、回復する。廃虚を片付け、基礎を建て始めなさい」という御声を耳にしているのです。

2008年12月8日月曜日

神様と共に歩む

「エノクは神と共に歩んだ。」(創世記5:24)原文のヘブル語で「歩む」とは、エノクが上ったり下ったり、出たり入ったり、進んだり下がったり、神様と手を取り合い、語り合い、神様に近づき続けていた様を表しています。エノクは365年、もしくは1年365日ですから、年を年分生きたと言えるでしょう。彼の内に、私達は新しいタイプの信者を見ます。成人してからの365年間の毎日、彼は主と手を取り合って歩みました。主こそ彼の人生そのものでした。だからこそ、彼は人生の最後で、死を見ることがなかったのです。(ヘブル人への手紙11:5参照)

神様が取られたエノクと同じ様に、神様と親しく共に歩む者は、サタンの手から取られます。サタンの闇の王国から取り去られ、キリストの光の王国へと導き入れられるのです。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」(コロサイ人への手紙1:13)

エノクは堕落した社会にあって、神様を喜ばせる歩みをすることを学びました。彼はまったく普通の人で、私達が直面しているのと同じ問題や重荷を背負い、初代教会時代に見られた一部の信者の様に、荒れ野にある洞穴で隠れた生活を送ったりしませんでした。彼には妻子があり、責任と義務がありました。エノクは一人隠れて、聖い人生を送っていた訳ではありませんでした。

「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記5:24)ヘブル人への手紙の中で、私達はこれがエノクの移動、すなわち彼が死を体験しなかったことを表しているのだと知ることが出来ます。しかしここに、さらに深い真理があります。創世記5章で使われている「いなくなった」という言葉は、「この世の者ではない」という意味をも持つのです。エノクは霊的また本質的に、この堕落した世界の者ではありませんでした。日毎彼は主と共に歩み、少しずつこの世のものから離れていきました。パウロの如く、エノクは日々この地上での生活に死に、霊によって天国の領域へと引き上げられていたのです。

しかし地上での歩みを続けていた間、エノクはすべての責任を果たしました。家族を養い、働き、仕えました。しかし彼は、この世のものに捕らえられていませんでした。日常生活の何ものをも、彼を神様との歩みから引き離すことは出来なかったのです。

ヘブル人への手紙11章5節は、こう明確に記しています。「(エノクが)移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。」エノクのしたことの一体何が、神様をそこまで喜ばせたのでしょうか。それは彼の神様との歩みが、神様の愛される信仰を生み出したからです。次の二つの箇所は切り離すことが出来ません。「移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル人への手紙11:5〜6)私達はこの聖句をよく耳にしますが、その前の節と共に読まれることは、ほとんどありません。しかし聖書全体を通して、神様と親しく歩んだ者は皆、深い信仰を持った人達でした。もし教会が、日毎神様と共に歩み、神様と絶え間なく交わりを持つなら、結果として神様を喜ばせる信仰に溢れた人達を生み出すでしょう。

エノクの周りで、人類は堕落していくばかりでした。しかし人々が切望、頑なさ、好色に溢れて野獣と化しいく中で、エノクは共に歩む方にだんだん似る者となっていきました。

「信仰によってエノクは移された。」これは私達の理解を超えてしまう様な、驚くべき真理です。エノクの信仰のすべては、たった一つの望みに焦点が置かれていました。それは主と共にいるということです。そしてその信仰に対する応えとして、神様はエノクを移されたのです。エノクは、もはや覆いの後ろに隠れていることができませんでした彼はただ、主を仰ぎ見たかったのです。

私達の兄弟であるエノクには、聖書も賛美歌集も、信仰の仲間も先生も、内に宿る聖霊も、至聖所へのアクセスをもたらす裂け目もありませんでした。ただ彼は神様を知っていたのです。

「神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブル人への手紙11:6)どうやって私達は、エノクが神様を報われる方であると信じていたと知ることが出来るでしょうか。彼が神様を喜ばせる信仰を持っていたことによってです。神様は報いと報酬を与えられる方、すなわち信仰の深さに応えられる方です。では、熱心に求める達に、主はどのように報われるでしょうか。

信仰により神様を信じ、神様と共に歩む者に与えられる、3つの重要な報酬があります。

1.一つ目は、神様が私達の人生を統べ治めてくださること。主をないがしろにする人は、悪魔が働いて占領するに従い、人生のコントロールを失います。その人がただイエス様と恋に落ち、彼と歩むなら、神様はすぐに、サタンがいかに彼の人生の主権を握ることが出来ないかを示し、キリストが彼の人生を統べ治められるようにしてくださいます。

2.二つ目の報酬は「真の光」を持つ信仰から来ます。私達が主と共に歩む時、私達は光、導き、分別、啓示の報酬を受けます。それらは神様が与えてくださる、神様をさらに知るためのものです。

3. 信仰の歩みから来る三つ目の報酬は、すべての敵からの擁護です。「どのような武器があなたに対して作られても、何一つ役に立つことはない。」(イザヤ書54:17)原文のヘブル語では、この箇所は「どんな計画も、どんな破壊の道具も、悪魔のどんな大砲も、あなたを押したり、打ち負かしたりすることはなく、必ずなくなってしまう」と訳されます。

2008年12月5日金曜日

戦利品に託された神様の御計画

ダビデと彼の軍が不在であった時、アマレク人がツィクラグという村を奇襲しました。略奪者達は村を焼き払い、女性と子どもを全員捕虜として連れ去りました。ダビデが戻った時、「兵士は皆、息子、娘のことで悩み、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したので、ダビデは苦しんだ。だが、ダビデはその神、主によって力を奮い起こした。」(サムエル記上30:6)

これこそ霊的戦いです。これはただ、ダビデ一人に向けられた攻撃ではありません。これは神様の永遠の計画に対しての、徹底した急襲でした。

霊的戦いの焦点とは、いかに敵が常にキリストの種を摘み取ろうとしているかにあります。そしてこの事実は、十字架から2,000年経った今でも変わりありません。悪魔は今も神様の種を滅ぼし、キリストの種である私達に攻撃を仕掛けることで、その目的を果たそうとします。ダビデは、彼の兵士達のぼやきを聞いて、恐れました。しかし彼は、自分と神様との関係が正しいことを確信していました。そして聖書は、彼がいかに神様によって励まされたかを記しています。すぐにこの信仰の人は、アマレク人の追跡に転じました。そしてすぐさま彼らに追いつき、奪い取られたすべての人々と財産を奪い返しました。(サムエル記上30:19〜20参照)ダビデはツィクラグから取り去られたものだけではなく、アマレク人が奪い取ったすべての戦利品を取り戻しました。

ダビデはこれらの戦利品をどうしたでしょうか。彼は神様のご計画を続行するために、それらを用いました。さらに、彼はユダの長老たち、また以前彼とその僕をかくまってくれていた町に対して、戦利品を贈り物として送り届けました。(サムエル記上30:26と31参照)これは、霊の戦いを通して神様が抱いているご計画のもう一つの例です。私達は戦利品を、自分達のためだけに勝ち取るのではなく、キリストの体のために勝ち取るのです。私達が得た資源は、他の人々に祝福をもたらすために与えられているのです。

サマリアが飢饉にあった時、アラム軍が町を占領しました。アラム軍は町の外に陣営を張り、サマリア人が飢え死にするのを待っていました。城壁の内側の状態は非常に悪化し、ロバの頭が銀80枚で売られるようになりました。あまりの飢えから、女性達は自分達の子どもを、食料として煮てしまおうとしていた程です。異常な事態だったしか言えません。(列王記下6章参照)

その頃、城壁の外で生活していた、4人の重い皮膚病を患っていた人達がこう相談しました。「どうしてわたしたちは死ぬまでここに座っていられようか。町に入ろうと言ってみたところで、町は飢饉に見舞われていて、わたしたちはそこで死ぬだけだし、ここに座っていても死ぬだけだ。そうならアラムの陣営に投降しよう。もし彼らが生かしてくれるなら、わたしたちは生き延びることができる。もしわたしたちを殺すなら、死ぬまでのことだ。」(列王記下7:3〜4)こうして彼らはアラムの陣営に向かいました。

彼らが陣営に到着した時、すべては静まり返っていました。誰一人として見かけることが出来なかったので、彼らは天幕の一つひとつを探りましたが、誰も見つけることが出来ませんでした。聖書はこう説明しています。「主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたため、彼らは、『見よ、イスラエルの王が我々を攻めるためにヘト人の諸王やエジプトの諸王を買収したのだ』と言い合い、夕暮れに立って逃げ去った。彼らは天幕も馬もろばも捨て、陣営をそのままにして、命を惜しんで逃げ去った。」(7:6〜7)

重い皮膚病を患っている者達がこのことに気付いた時、彼らは天幕を渡り歩き、食べたり飲んだりした後、町に帰ってこう言いました、「私達と共に来てみて下さい。信じられないでしょうが、アラム軍は陣営を逃げ去りました」と。(7:10参照)主は事態を完全にひっくり返されました。主は戦利品を用いて、神の民を再建し力を与え、地上での御計画を続行されたのです。

話の筋が掴めましたか。あなたに襲いかかっている、現在の戦いの理由が見え始めてきましたか。主に信頼をおく者は、敵のどんな力にも輝かしい勝利を収めると約束されています。神様はあなたにこう知らせたいのです。「あなたは必ず勝利を収めます。しかしただ打ち勝つだけではなく、わたしの王国のために、あなたの内にさらに素晴らしい計画を立てているのです。あなたはこの戦いから、どうしたら良いか分からない程の戦利品を持って歩み出るでしょう」と。

2008年12月4日木曜日

霊の戦いにおける戦利品

「彼らは主の神殿を修理するために戦利品の一部を聖別した。」(歴代誌上26:27)この聖句は、非常に意味深く、人生を転換させる様な、驚くべき真実を示しています。それは戦いにおいてしか、勝ち得ることの出来ない戦利品について語っているのです。そしてその戦利品を勝ち取ってから、彼らは神様の宮を建て上げるためにそれらを聖別しました。

この聖句に隠された、力強い真理を完全に理解するなら、なぜ主が私達の人生に厳しい霊的戦いを許されるのかが理解出来ます。多くのクリスチャン達は、神様を受け入れたなら困難はもう訪れることがなく、残りの人生はなだらかな船路が続くと思っています。これ程真実からかけ離れたものはありません。神様は戦いを許されるばかりか、私達の人生において、それらの戦いに素晴らしい意図をもっておられます。

戦いにおける戦利品とは、何でしょうか。戦利品とは、略奪したもの、勝者によって戦いで勝ち得たものを意味します。聖書では創世記の14章で、他国の王達が連合してソドムとゴモラを侵略した時に、初めて戦利品についての記載があります。これらの侵略者達は、ソドムとゴモラの地の住民を捕虜とし、その所有物を略奪しました。「ソドムとゴモラの財産や食糧はすべて奪い去られ、ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。」(創世記14:11〜12)

甥のロトが捕虜とされたと聞いたアブラムは、318人の僕を集めて、敵の王達を追跡しました。聖書は、彼が侵略者に襲いかかり、「すべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女達やそのほかの人々も取り返した」と記しています。(14:15〜16)

この場面で、勝利に満ちたアブラムを思い描いてみて下さい。彼は喜びに満ちた人々と、山と積まれた様々な物を乗せた台車の列を先導していました。途中彼はサレムの王であるメルキゼデクに出会います。聖書は、彼がこの王に戦利品の什一を献げる様に導かれた、と記しています。(14:20参照)「この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。」(ヘブル人への手紙7:4)

ここに、神様が私達に理解を促す原理があります。私達の主は、私達が勝利を収めるか否かより、もっと大きなことに関心を寄せておられるということです。主は私達に、戦利品や、様々な物、霊的な富を与えたいと願っていらっしゃいます。私達は、様々な資源で山積みの台車を持って、戦いから歩み出るべきなのです。これこそ、次の箇所でパウロが語っていることです。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ローマ人への手紙8:37)
ダビデは、戦いで勝ち得た戦利品に対して、敬虔な態度を示しました。彼が人生の終盤で立てた制令に、それを見ることが出来ます。ダビデは彼の息子、ソロモンをイスラエルの王として任命しました。そして国のリーダー達を呼び集め、神殿の維持に関して、神聖なる命令を立てようとしました。この聖なる働きに際して使われた資源は何だったでしょうか。「彼らは主の神殿を修理するために戦利品の一部を聖別した。」(歴代誌上26:27)

この前後の状況を説明しましょう。すべての戦いに勝利する度に、ダビデは戦利品を勝ち取り、金、銀、真ちゅう、材木、金銭など、数えきれない程のものを蓄えました。ダビデにはたった一つの意図がありました。それはこれらの戦利品を、神殿建築に用いるということでした。

聖書が神殿維持について語る時、原文のヘブル語では「家を直す、建てられたものを強化する」という意味があります。これらの資源は、神殿の最初の荘厳さを維持する為に、用いられるべきものだったのです。

今日、神様の宮はどこにあるのでしょう。それは神様の人々、すなわちあなたと、私と、世界中にある主の教会からなります。パウロによると、私達の体は聖霊の宮とされています。そして古代イスラエル同様、私達の主は、今も戦利品を用いて御自身の神殿を維持されているのです。ですから、私達の霊的戦いは、単なる生存の糧以上のものがあるのです。戦いの一つひとつを通して、神様は豊かな富と資源を、私達に備えてくださいます。神様は私達の戦いによって、豊かに資源の貯蓄をなさいます。そしてこれらの戦利品は、イエス・キリストの教会を建て上げ、また維持するために聖別されているのです。 

考えてみてください。ソロモンが神殿を建築した後何年も、貯蓄してあった戦利品によってその維持がなされました。神様の宮は活気に満ちていたのは、神様の民が、ただすべての困難に勝利するだけではなく、多くの戦利品をもってその戦いから歩み出たからです。この「戦いによる供給」という原理は、聖書のいたるところで見ることが出来ます。

2008年12月3日水曜日

複製の出来ない霊性

ここニューヨーク市では、ロレックスの腕時計が15ドルで購入出来ます。ニューヨーク市民なら誰でも知っている様に、これらの腕時計は本物のロレックスではありません。それらはコピー商品、すなわち非常に安価な偽物なのです。

今日、すべてのものに対して、コピー商品が出回っている様に見受けられます。しかしたった一つ、絶対に複製出来ないものがあります。それは真の霊性です。真の霊によるものは、何一つ複製することが出来ないのです。主は御自身の作品を御存知で、人の手によって複製された神の業の偽物を、決して受け入れられません。何故でしょうか。それは真の霊性を、人の手によって複製することは不可能だからです。それは聖霊の御業によってのみ、可能なことなのです。聖霊は神の民の内で、絶え間なく新たな働きを続けています。そしてその働きを、人間の手で複製することは絶対に不可能なのです。

ここに、今日の宗教の大きな誤りがあります。ただ聖書の知識や原則を人々に授けさえすれば、その人達は霊的になると思ってしまっています。しかし真実は、誰も、どんな団体も、人々の内に霊性を生み出す力を持っていないのです。ただ聖霊だけに、その力が与えられています。

私達の内に働かれている、神様の霊の御業のほとんどは、目で見ることが出来ません。ですから真に霊的な人達は、目に見える証拠を探したりしません。パウロはこう語っています。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(第二コリント人への手紙4:18)

この前後の箇所でパウロは、苦しみと困難について語っています。彼は、「聖霊以外は誰も、私達に何が起こっているのか、完全に知り得ません。そして厳しい試練の最中にある時にこそ、真の霊性が問われるのです」と言っています。

神様の霊の導きに委ねている人達、すなわち困難にあっても、それは主がその人の内で何かを生み出そうとしているのだと確信している人達は、試練のるつぼから揺るぎない信仰をもって出てきます。そして彼らは、すべてがうまくいっていた時よりも、困難にある時の方が、聖霊によって多くを学んだと、証しするのです。

私の長年に亘る主との歩みの中で、人生がうまくいっている時には、霊的な成長を見ることがあまりありませんでした。むしろ、その様な霊的成長は、聖霊が許された困難、苦痛、試練を乗り越えた時に見られました。

彼自身の信仰生活の中で、パウロはこう言いました。「聖霊ははっきりと、苦難が私を待ち受けていると告げられました。」(使徒業伝20:22〜23参照)事実、パウロの人生は、常に困難で満ちていました。困難は絶えることなく、彼の上に降り掛かったのです。

「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(第二コリント人への手紙4:17)パウロによると、困難や苦難は私達の内に永遠の価値を生み出してくれます。彼は「地上での困難は、おそらく命がある限り続くでしょう。しかしそれも永遠と比べれば、ほんの一瞬の様なものです。そして今、困難を耐える私達の内に、神様が永遠に続く神様の栄光を明らかにしてくださっているのです」と語っています。

2008年12月2日火曜日

キリストを勝ち得る

「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められたからです。」(フィリピ人への手紙3:8)

パウロは完全に、主に魅了されていました。ではなぜ、キリストを“得る”必要があったのでしょう。キリストは、使徒だけにではなく、彼の人生において、既にはっきりと御自身を表されました。しかしそれでも、パウロはキリストの心と愛を勝ち取らねばならない、と強く感じたのです。

パウロの存在すべて、すなわち彼のミニストリー、人生、そして人生におけるすべての目的は、彼の主である神様を喜ばせることだけに焦点が当てられていました。その他のものはすべて、例え良いものであっても、塵あくたにしか過ぎませんでした。

この箇所で「イエス様の心を勝ち取るとは、どういうことだろう」と思われるかも知れません。神様の愛は、すでに私達に注がれているのではないのでしょうか。事実、神様の情け深い愛は、人類すべてに注がれています。しかし、ほんの一握りのクリスチャンしか経験したことのない、もう一つの愛があるのです。それは妻と夫との間に見られる様な、キリストとの親密で深い愛です。

この愛は、雅歌に表現されています。雅歌はキリストの愛を示すものとされ、ある箇所では、主が花嫁を次の様に語っています。

「あなたはわたしの心をときめかす。あなたのひと目も、首飾りのひとつの玉も、それだけでわたしの心をときめかす・・・花嫁よ、あなたの愛は美しく、ぶどう酒よりもあなたの愛は快い。」(雅歌4:9〜10)

キリストの花嫁は、主を喜ばせたいと願い、他の何ものからも離れ、従順に生きている、聖い人々のことです。そしてキリストの心は、彼らに対してときめきます。ここで使われている「ときめく」という言葉は、“心を失う”または“心を奪われる”という意味があります。キング・ジェームス訳の聖書では、キリストの心はたった一目でときめいた、と記されています。この「一目」とはキリストだけに注がれた、誠意のことだと思います。

2008年12月1日月曜日

金よりも尊い

エステル妃のお話は、聖書の中でも、最も厳しい霊的戦いを記したものの一つです。悪魔はハマンを用いて、地上での神様のご計画を阻止しようと企みました。この裕福で影響力を持った男は、ペルシアの王を説得し、インドからエチオピアをまたぐその王国内のユダヤ人を、一人残らず抹消する様、命令を下したのです。

ハマンが最初に見たユダヤ人は、義なる人であったエステルの叔父、モルデカイでした。ハマンはモルデカイのために、特別な絞首台を用意していましたが、その計画はエステルによって阻止されました。それは彼女が、神の民に祈りを要請し、ハマンの命令を撤回させるために、自分自身の命を投げ出したからです。神様は、ハマンが企んでいた悪しき計画を明るみに出されたので、ハマンは自分が立てた絞首台に吊るされました。王はただ死の命令を撤回しただけでなく、今日で言えば何十億ドルもするハマンの家を、エステルに譲り渡しました。

しかしこのお話での戦利品は、ハマンの家だけではありませんでした。聖書は「それはユダヤ人にとって輝かしく、祝うべきこと、喜ばしく、誉れあることであった」と記しています。(エステル記8:16)これらは、敵との戦いにおいて勝ち取った、真の戦利品です。

私達の試練は、霊的な富を与えてくれるだけではなく、私達に強さや純粋さを与え、継続的に維持してくれます。私達が主に信頼を置くなら、主は私達の試練が、金よりも価値のある信仰を生み出す様にしてくださいます。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、賞賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」(第一ペテロの手紙1:7)

「そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ人への手紙2:15)

イエス様はカルバリによって悪魔に打ち勝ち、そのすべての支配と権威を奪い取られました。キリストが勝利の内に墓から復活された時、主は数え切れない捕虜を、サタンの手から解放しました。そして主の血潮によって購われた行列は、今も行進を続けているのです。

驚くべきことに、カルバリでのキリストの勝利は、死に打ち勝つことよりもさらに素晴らしいものを与えて下さいました。それはこの人生においての戦利品、すなわち、恵み、憐れみ、平和、赦し、力、信仰、等勝利にある人生を歩むために必要なものすべてです。主は御自身の宮を維持するため、必要のすべてを備えてくださっています。「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」(ヘブル人への手紙3:6)
聖霊はここで、驚くべき真実を解き明かしてくださっています。それは、イエス様が御霊の内に、私達のすべての必要を与えてくださっている、ということです。しかし主の宮の維持するために、その宝庫を訪れるのは、私達の役目であり、主の宮を維持するために必要なものはすべて、直接私達の戦利品からくるべきなのです。

維持のために必要なものは、キリストがすべて与えてくださっています。主は私達を神様の住まいに導き入れてくださいました。主がその家の礎となり、その家全体を完全に清められたのです。最後に、主は私達に至聖所へのアクセスを与えてくださいました。すなわち信仰によって、私達は完全に整えられ、宮として完成させられるのです。イエス様は、未完成の家を建てられたのではありません。主の宮は完成しているのです。

この宮は、きちんと維持されていなければなりません。常に修理が行き届いていなければなりません。もちろん、必要なものはすべて、キリスト御自身の御霊の内に与えられています。キリストこそ、すべての戦利品の出納官なのです。これらの戦利品は、私達がその必要を感じ、神様と恊働する時に解放されます。

神様との恊働は、私達が試練のただ中にいる時に始まります。試練の真っただ中で、私達が勝ち得るのは、キリストらしさです。敵との戦いから、教訓、信仰、練達を戦利品として勝ち取ります。戦いには価値があります。ですから、これらの戦いから良きものが生まれると、確信出来るのです。