2011年1月12日水曜日

私達の牧者はそれでも迷えるものを愛している

私達の牧者は試みや苦しみ、痛みによって迷い出た全ての羊を愛しておられます。私たちを私達の牧者は決して捨てません。神は私達と共に歩んでおられ、いつも見張っておられます。

もしかして、誘惑にめげているかも知れません。その苦闘が何であっても、あなたは主から離れまいと決めていて、罪の触手に委ねることを拒んでいます。その代わり、あなたは神の言葉を心に覚えます。

しかし、あなたはダビデのように疲れているかも知れません。あなたには全く助けがないと感じているかも知れません。私達の敵は失望、恐れ、偽りで圧倒しようとします。

あなたの試みは益々不可解で理不尽なものとなっているかも知れません。しかし、あなたがどんな状況であっても知らなければならないのは聖霊様があな たにJehovah Rohi、「主は我が牧者」であることを啓示したいのです。あなたにはあなたの心に愛を焼き付けたい牧者がおられることを。

イエス様は約束しています。「わたしはあなたを孤児にはしない。」そして私達の天の父-Jehovah Rohi-「主は我が牧者」は御自身を詩篇23篇で啓示しています。神は私たちに「あなたの名をわたしは知っている。あなたの状況も知っている。来て、わ が恵みと愛にあって休みなさい。全てを理解する必要はありません。ただ、我が愛を受け入れ、慈しみの手で休みなさい。わたしは万軍の主、威厳と聖さの神で ある。あなたはこれらのことについて悟ってほしい。しかし、特に今あなたが知るべきはJehovah Rohiを悟って欲しい。あなたに知って欲しいのはわたしがあなたの親切な、よき牧者であることです。あなたの試みを私の慈しみの中で通ることを確信して 欲しい。」と言っておられます。

2011年1月11日火曜日

主は我が牧者であって

わたし達は詩篇23篇に馴染んでいます。この詩はクリスチャンでない人の間でもよく知られています。この詩篇はダビデ王によって書かれ、かの有名な詩篇はこの句で始まっています。「主は我が牧者であって、わたしに乏しき事がない。」

ダビデは乏しいことないとしています。言い換えれば、「わたしには不足なことはない。」と言っています。続く言葉から考えれば、ダビデは「主はわたしを導き、養う。故に私は足りないものがない。」と言っています。

この短い文の中に、ダビデはもう一つ主のご性質について述べています。文にはJe-HO-va-RO’-eeと始まっています。それは「主は我が牧者」という意味です。

Jehovah Rohiはただ親切、消極的な牧者を意味していません。そして、ただの雇われ人でもありません。ただの雇われ人は最小限のこと、食べさせ目的地に行かせる だけです。しかし、神は牧場と水飲み場にわたし達を連れて行き「必要なのは与えただろう。これでいいだろう。」とは言いません。そうではありません。神は 私達の忍耐、涙を知っています。神は耐え抜く気力が失っていくのも知っています。彼はあなたがどこで諦めるかを知っています。そして、神はわたし達を何時 救い、癒すべきかを知っています。神はいつも私達を危機から救い、休ませます。神は、休息と癒しの時を与えて下さいます。

Jehovah Rohi-主は我が牧者という神の名は私達が神の安息に導かれるとしています。そして神は私達に「shekinah」-であることが出来るのです。主なる 神は出エジプト書29:45でこう仰っています。「わたしはイスラエルの人々のうちに住んで、彼らの神となるであろう。」ここで「住む」はヘブル語の単語 で「shekinah」が使われています。その意味は「横で繋がっている」または「側面に落ち着く」です。この単語がここで使われているのは一過性ではな く永続-離れない臨在-することを強調したいがためです。ですから、神の「shekinah」なる栄光は見えない墨で書かれたのではありませんので心から 消えません。返って神が私達の魂に判印したものは永久のものです。それは私達の近くにあるものです。

それは栄光に満ちたものです。私達の牧者は私達の痛みは欝とした状況でも来て、私達の側に掛けて下さいます。神はまた私達の傷を塞ぎ、病んで痛んでる処を強めて下さいます。

これが「shekinah」なる神の栄光です。主の永久(とわ)の栄光です。それを私達の試練の時にしばしば体験します。私達の偉大なる牧者は語り ます。「わたしはあなたを修復し、あなたと例え死と影の谷であっても共にいる。我が臨在はサタンの計略のなかでもあなたと共にいる。もしあなたがわたしよ り逃げて行ったとしても、あなたを追って行く。そして、あなたを捕らえたら、私はあなたを両手で抱き上げ、神の安息に入るべくあなたを運ぶ。そしてわたし はあなたの傷を塞ぎ、あなたの全ての病は癒されえる。」

2011年1月10日月曜日

神が望まれるのはあなたの信仰が全てです。

神様はあなたの家を、車を、家具を、定期預金などあなたの持ち物が欲しいわけではありません。神が望まれるのはあなたの信仰-神の御言葉への強い信 頼です。信心深いと思われる人達にしばしば欠けるものです。ある人はあなたより信心深いように見えるかもしれません。しかし、その人は自分を義人ぽく見せ るために必死に努力しているかも知れません。神は他の人ならず、あなたに向け「ここに義人が居る」と仰います。何故でしょうか。あなたは義となるためには 自分が無力なのを認めているからです。そしてあなたは神の義を主が与えて下さる事を信頼しています。

パウロは私達が神の目に、アブラハムと同じ理由で義とせられていると言っています。「だから、彼は義と認められたのである。しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、」(ローマ4:22―23)

あなたは「わたしは神がイエス様を蘇らせたことを信じている。」と言うかもしれない。しかし、要はあなたが冷め切った夫婦関係を修復できると信じて いますか。あなたは霊的に死んだ親戚を復活させるのを信じますか。あなたは悪癖のどん底から引き上げる事を信じますか。あなたは忌まわしい自分の過去を消 し、失った時を回復できると信じますか。

全てに望みがない時-助けも希望も何もなく不可能に見える時、神がジェホバジャイラ(神に備えある)と信じますか。あなたは神自身があなたにした約束を守られると信じますか。-もし、神の言葉が行われないなら、天は落ち、宇宙は崩壊します。

2011年1月7日金曜日

主はわたし達の義

「主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。 その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。」(エレミア23:5-6)

神様は預言者エレミアに「Jehovah Tsidkenu」(Je-Ho-va Sid-KAY”-noo)という啓示を私達が現在直面している危機と似たようなときに彼らに与えました。ではわたし達にこの聖書箇所はどんな意味を持つ のでしょうか。『主はわれわれの正義』とは何であってイエスの役割をその中でどのように理解したらいいのでしょうか。

使徒パウロは聖書の幾つかの箇所で神様の義の定義を示しています。

• 「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた. 」(ローマ4:3)
• 「アブラハムには、その信仰が義と認められた」(ローマ4:9)
• 「このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。」(ガラテア3:6)

これらの聖句はアブラハムがどのように真の義とせられたかを示すものです。「彼は信じた。」

使徒パウロは義に対して「主による定義」をも示しています。「彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強めら れ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。だから、彼は義と認められたのである。」(ローマ4:20-22)

儀についてこれより明らかには出来ないでしょう。義とは、神が必ず御自身の言葉を守ることを納得して、神の約束を信じることなのです。

2011年1月6日木曜日

私たちには希望があります

キリストの義がある人は、希望がない人々のように生きてはいけません。私達は神への畏れと愛両方に祝福されています。神の御旨は暗闇にあっても私達 が喜びと嬉しさを得ることです。私達の周りが災難に会うとしても、私達は、裁きが来たからではなく、裁きに関わらず喜びの歌を歌います。

イザヤ書5:11は英文では「Therefore」と始まっている。それは「前に述べた理由によって」の意味です。その前に神は何を言ったでしょう か。「51:10 海をかわかし、大いなる淵の水をかわかし、また海の深き所を、あがなわれた者の過ぎる道とされたのは、あなたではなかったか。」言い換えれば「私は主、時 の古、奇跡を行うもの。我が手は汝を救う」と意味します。

そして神は51:11で前に述べた事実によって何を言いたかったのでしょうか。

• 主にあがなわれた者は、歌うたいつつ、シオンに帰ってきて、――その意味は信頼と信仰と神に対する自負心を持った

• 「そのこうべに、とこしえの喜びをいただき」神の民が体験する喜びは礼拝・日曜の朝/一週間/一ヶ月に限られるものではありません。それは苦しい時を堪える、最後まで残るものです。

• 「彼らは喜びと楽しみとを得」神は時の中で仰います。「わたしの民は喜びをえて、それを保ち、彼らのものとなる。」

• 悲しみと嘆きとは逃げ去る。-この意味はすべの苦しみが去ることを意味しません。これは主にあるわたし達の信頼が全ての苦しみと悲しみを超えうることを意味します。悲しみと苦しみとかは決してわたし達の喜びと楽しみを取り去ることは出来ません。

2011年1月5日水曜日

父を知る

子供たちは危機の時、親の資質を知ります。子が痛み、苦しみ、必要がある時、親の深い愛と犠牲を認識します。私が子供を育てる時、私は好きなことに ついて言いませんでした。「私が親で、私は我慢強く、優しく、あなたを愛している。何時でも、何が起きても、あなたを許します。」と言う必要はありません でした。そんな事を宣言するのは馬鹿げています。何故なら、私の子供は彼らが問題に当たった時、私が彼等をどれだけ愛したかを知っているからです。今や彼 らは結婚して子供が居ますが、私の息子や娘は新たに私を知る体験をしています。彼らは、彼らの人生が新しい場面にめぐり合い、その時の私の行動と対応を通 じて私を学んでいます。

天の父を知るにも同じことが言えます。アダムの時からキリストの十字架まで主はその民に、御自身の資質を絶え間なく啓示してきました。神はただ「この名がわたしを表す。ではそれを学びなさい。故に私を知るだろう。」の詔を与えるだけではありませんでした。

ヘブル語の主の名は主の名に関わる不思議な栄光と備えを表しています。そして、神はその名が宣言するご性質をその民にじかに行い、その誠実を啓示します。彼は御自身の子の必要を見ておられ、悪魔の姦計を見抜き、民の為に御自身か介入します。

皆さん、天なる父を時間を掛けて、心から知って下さい。聖霊があなたの必要な時に与え給う天なる父に多面的備えを気付かせて下さるように求めて下さい。そして聖霊に「わたしはいる」神を知る知識を求める資質を願って下さい‐神だけが必要なものの全てです。

2011年1月4日火曜日

最も大きな試み

「モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。」(出エジプト14:21)

イスラエル人の前には彼等を安全に導く道がありました。この決定的瞬間に神はその民が壁を見て、彼らが反対側に安全に着くまで、神がその壁を保って おれれると言う信仰を持って欲しいと思いました。言い換えれば、神はその民が信仰を持って告白して欲しいと思っておられました。「神は忠実な方なので、こ の奇跡を始めから終りまで見ておられます。」

私達が振り返ってみたら、何故そんなに恐れたかと思います。エジプト人が来るのを見ても恐れるべきではありません。神は彼らと私達の間に神の暗闇の 壁を置き、夜に彼等を恐れないですむようにしました。何時でも、神は敵が暗闇で何も見えない時、私達に輝く光を与えて下さいます。私達が激しい風に恐れ戦 慄く時、神は私達に逃れる道、その風を使って作って下さいます。

神は私達によい事だけをしたいと思っておられることが解ります。神が私達のために栄光と力を用いてくだることは十分知っています。私達は最早恐れの中ですむ必要がありません。水の壁が崩れても関係ありません。生きるも死ぬも、私達は主の者だからです。

神はその時点で、このような信仰を要求したのには理由があります。彼らには荒野での旅が待っていたからです。欠乏と危険と苦しみを堪えなければなら なかったからです。ですから、神は「我が民はわたしがよい事だけをすることを知らしめる。危険が差し迫る時、死を恐れないで欲しい。わたしは全てにおいて 忠実であるから彼らは死を恐れない民になるべきである。」

勝利した後、踊る者が、また敵を破った時に神を賛美する者が真の礼拝者ではありません。イスラエルは敵を破り、勝利して踊りました。それが彼らのし たものです。神が紅海を分け、向こう岸に着きました。彼らは歌い、踊り、神を賛美し、褒め称えました。しかし、その三日後、マラにおいて同じ人達は神に呟 きました。彼らは礼拝者ではなく、軽薄な興奮に浸っているだけでした。

真の礼拝者は嵐の中で神を信頼することを学んだ者のことです。この人の礼拝は単に言葉だけではなく、歩みをも含めるものです。その人の世界は、神に対する信頼が揺らがないので、世界はいつも平安です。また、未来も恐れません。そして死を恐れないからです。

わたしの妻グエンと私は孫娘12歳ティファニーに揺るぎない信仰を見ました。彼女の臨終の近い時、私達はベット際で彼女の人智を超えた平安を見まし た。彼女は私に言いました。「おじいちゃん、天の家に帰ります。イエス様は私にそこに居て欲しいって。ここにはもう居たくないよ。」彼女は終りとか死への 恐れが全くありませんでした。

それはが神がその民に持って欲しい平安です。パウロのように、またティファニーのように自信を持って言うのです。「生きるも死ぬも主のもの。」この信頼が真の礼拝者とするのです。

私はこの文を読む全ての人が嵐の中でこの言葉を言える事を祈ります。「そうです。経済が崩壊しているかも知れません。私は暗い嵐の夜を迎えるかも知れません。しかし、神は私に真であった。何が起きても、私はその愛に安住できる。」

2011年1月3日月曜日

三つの事をしなさい

試みの中でイスラエルの民に神が仰せられました。「恐れるな。立って主の救いを見よ。」そして、「私はあなたの為に戦う。あなたは黙して、平安でい よう。全てを我が手に委ねよ。私は見えざる次元で働き、統べ治めている。だから、慌てるな。私が悪魔と戦う。戦いは最早あなたのではない。」(出エジプト 14:13-14参照)

暗闇が、彼らがいる場所を覆います。イスラエルの暗い嵐の夜の始まりです。しかし、それは神の御手の業の始でもあります。神は民と民の仇の間に守護天使を送りました。私は神を愛し、恐れる者らの周りに守る天使を今でも送って下さっていると信じています。

主は神の雲を動かし、導きとしました。その雲は突如民の前から民の後ろ側に置かれエジプト人の前に憚る真っ暗な壁となりました。反対側は雲は夜もすがらイスラエルに神の光を与えました。(出エジプト14:20)

パラオの軍隊は暗闇にいましたが、彼らは声を上げる事は出来ました。夜通し、偽り、脅し続けました。この夜通しの虚言はイスラエル人を悩ましました。しかし、どれだけ仇が彼らを脅したとしても、天使が守って、神はその民に危機を通り抜けさせると約束します。

聖徒の皆さん、もしあなたが血で贖われた神の子であるなら、神はあなたと悪魔の間に戦闘する天使を置いてくださいます。イスラエルに言ったように神 はあなたに言います。「おそれるな。立ってわたしの救いを信じなさい。」サタンは悪しき計略で向かってくるかも知れませんが、嵐が吹き荒れる暗い夜のどん な時でもあなたの敵はあなたを破壊決してできません。

「モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。」(出エジプト14:21)

ここで使われている風とは、ヘブライ語で「強い吐く息」という意味があります。このことは神が息を吹き、水が壁を作ったと意味しています。イスラエ ル人の幕屋はその風が吹いた時、きっと揺れたでしょう。何故神は一語とで状況を静められる時、夜もすがらイスラエルが嵐の夜を堪えさせたのでしょうか。

嵐はイスラエルを恐れさせました。神は何故それを許したのでしょうか。何故、神は夜通し嵐が続くことを許しましたのでしょうか。何故、神はモーセが水を打ち、波を分けさせるようにはしなかったのでしょうか。神がこの恐ろしい夜をお許しになった理由は何だったのでしょうか。

それは、主は礼拝者を備えるためだったのです。神は最大の危機を抜ける道を、嵐を用いて創っておられました。その時、イスラエルはそれを見出しませ んでした。ある人は自分の幕屋に隠れたでしょう。しかし、外にいた人達は栄光に満ちた光景に証人となることができました。彼らは波が壁となり、海に乾いた 地が現れることを見たでしょう。「見よ、神が私達の為に風を用いて道を造られる。主を賛美せよ。」