2008年6月17日火曜日

必ずある救い

神様は私たちにこう約束されました。「あなたが苦難を覚える時、しつこくてひっきりなしに襲う悪に直面する時、わたしは必ずそこにいて、あなたの避けどころとなろう。」(詩編46:1)

この“必ずそこにいて”という言い回しは、“いつでもある、常に利用出来る、制限なくアクセス出来る”という意味があります。すなわち、永遠の神様の臨在は常に私たちの内にある、ということです。そして神様が私たちの内に臨在されるなら、神様は私たちと常に対話し続けたいと望んでいらっしゃいます。私たちがどこにいても、職場でも、家族といても、友達といても、未信者といても、神様は私たちと会話することを望んでいらっしゃいます。

私は今日、サタンが神の民の多くを突き刺している、「主は民に話しかけるのを止められた。」という偽りを拒みます。敵が私たちに信じて欲しいこと、それは、神様がサタンに力と影響力を与え、私たちにはそれに勝る権力を授けて下さらなかったということです。断じてそうではありません!聖書はこう言っています。「敵が洪水のようにやってくるとき、主の霊は彼に向かって軍旗を立てられる。」(イザヤ書59:19)悪魔が私たちに何をしようかなど、関係ありません。神の民に与えられた神様の力は、サタンの攻撃より、常に勝っているのです。

このイザヤ書の聖句は、実はイスラエル軍の先頭を行く旗手のことを指しています。主はいつもその力強い軍旗を持って、神の民を戦闘へと導きました。同じ様に、今日でも神様は、主の軍旗の下に進む栄光に満ちた天の万軍を、私たちの代わりに戦いに遣わそうといつでもご準備しておられます。

あなたは、「ではどうやって神様は私たちの苦難の時に助けを送って下さるのか。」と思っているかも知れません。神様の助けは、私たちの内に住まわれ、お父様の御心を私たちの人生において成就させようと働かれている、聖霊という神様からの贈り物としてやって来ます。パウロは何度も何度も、私たちの体が聖霊の宮であるということを教えています。私たちは、地上においての神様の住処なのです。

もちろん、私たちは賛美や証しの中で、この事実をよく繰り返します。しかし私たちの多くは、まだこの事実を本気で受け止めていません。実際、私たちはこの事実に込められた力を理解し切れていないのです。もし私たちが本当にそれを理解し、そこに信頼をおくならば、私たちはもう二度と恐れたりうろたえたりすることがないでしょう。

私もまだ完全にこの教えを摑み切れてはいません。長年に亘りミニストリーに携わっていても、未だに神様の御声を聞くためには、感情を高めなくてはいけないと思ってしまうことがあります。そうではなく、主はこう言っておられるのです。「私が来るのを何時間も待つ必要などないのですよ。わたしはあなたの内にいます。昼も夜も、あなたのためにいます。」

ダビデの証し聞いてみて下さい。「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。」(詩編16:7~8)ダビデは「神様はいつも私の前にいてくださる。だから常に神様のことを心に留めようと決心したのです。神様は昼も夜も、変わらず私を導いて下さる。私は決して混乱する必要がないのです。」と宣言しているのです。