2008年6月16日月曜日

主の憐れみは決して欠けることがない

神様はえこひいきをされることがない、と聖書は語っています。そして神様はえこひいきをされず、その約束はいつの時代であっても決して変わることがないので、私たちは歴史上で神様が民に示されたのと同じ憐れみを、私たちにも見せて下さいとお願いすることが出来るのです。マナセ王は、歴史上でも最も悪いとされた王でしたが、彼は悔い改め、完全に整えられました。(列王記21:1~18参照)

主の憐れみは決して欠けることがなく、過去に示された憐れみの例の数々は、私たちがそれぞれ主に願い出る上で、力強い確信を与えてくれるはずです。ですから、主にある聖徒の皆さん、あなたが主の憐れみに逆らって罪を犯し過ぎたと感じる時、主の憐れみから逸脱してしまったと思う時、神様が自分を見捨てられたと思うような時、勇気を失う時、失敗やキリストらしかぬ言動によって落ち込む時、過去に犯した罪のせいで、神様から放置されたり愛を止めておかれたりしているのではと思うような時、もしあなたが完全に悔い改めた心を持っているなら、この真実を受け止めて下さい。神様は決して変わることがありません。

神様が御自身の言葉を守られる様、主張するのです。神様がこの数年間であなたにして下さったことすべてを書き出してみて下さい。そして御言葉と照らし合わし、“憐れみの先例”として神の民が体験した例を見つけ出してみて下さい。これらのリストを神様の御前に差し出し、神様が御自分の言われたことを思い出してもらう様、訴えて下さい。「神様、あなたは御自身の言葉を否定されることが出来ません。あなたは昨日も、今日も、そしてとこしえまでも変わらないお方です。」

この行為を軽視しないようにして下さい。私たちはよく、自分たちの要望を神様の御前に激しく、熱心に迫ります。しかし祈りの時になると元気を無くします。神様の御座に準備もなしに近づくからです。神様の御前に行く時、私たちは確固たる姿勢で臨むべきです。真の大胆さは、感情から来るものではありません。それは私たちが完全なる確信を持つときに現れます。そして事前に事例を立証させるのです。それは神様に訴え出るためだけではなく、自分たちの信仰を強めるためでもあります。

今日私たちには、旧約聖書の聖徒らが夢にさえ見ることが出来なかったものが、与えられています。それは神様の御子が裁き主なる父の右に座しておられるということです。私たちは御子を知っています。それは養子縁組によって彼が血と契約にある兄弟であるからです。そして裁き主の前に立つ時、私たちは御子との血縁を主張し、神様御自身が言われたことを守られる様、主張することが出来ます。「お父様、私にはあなたの御言葉以外、何も訴え出るものはありません。あなたは、私がキリストによって完全にされると、つまづくことから守られると、またイエス様が私の執り成し手となられると、約束されました。あなたは私の嘆願に耳を傾け、すべての必要を満たして下さると約束されました。ああ主よ、どうか私を憐れんで、今恵みの御手をもって触れて下さい、私があなたを必要とするこの時に。アーメン。」

私たちがこの様な大胆さを持って神様の御座に近づき、御言葉に訴えかける時、神様はとても喜んで下さると、私は固く信じています。それはまるで神様が、「ようやく分かったようだね。あなたはわたしの喜びです。」と言っておられるかの様です。