2008年6月12日木曜日

神様は人々を用いられる

神様は人を用いて他の人を回復させます。神様はその様なミニストリーを非常に愛しておられ、預言者マラキを通して、これが終わりの日に最も必要とされている働きなのだと語られました。マラキは、当時の神の民が、いかにお互いを励まし合っていたかを説明しました。「主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。」(マラキ書3:16)

これは正確にはいつ頃起きたのでしょうか。マラキの言葉は、不信心がはびこっていた時代、むさぼる者が地の実りを滅ぼしてしまった時代に語られました。神の民は疲れきり、神様の道を歩むことに価値はあるのかと疑い始めました。彼らは「神に仕え、神の御言葉に従い、神のくびきを負うことには報いがあると教えられてきた。しかし私たちの周りにいるおごり高ぶった者や妥協している者たちを見ると、彼らの方が幸せに見える。彼らは成功を追い求め、ぞんざいに生き、人生を満喫している。」と思っていました。

その様な時、聖霊がイスラエルにおいて働き始められ、間もなく神様の畏れが、神様を飢え乾いて求めていた人達のもとに訪れたのです。突然、若い人も年老いた人も、イスラエルにいるすべての人々が一対一の宣教者となりました。御霊の促しにより、人々は互いに心を開き合い、お互いを励まし、助け合い、周囲の人々を慰めるようになったのです。

私はこのミニストリーを表すマラキの言葉が、現代に与えられた鏡像のような物だと確信しています。彼は私たちに、終わりの日、神の民がゴシップや不平を言うのをやめ、代わりにお互いを励まし合うようになる時、聖霊が豊かに注がれる様を映し出してくれたのです。それは電話や手紙やメール、また面と向かって始められています。そして神様は、それを見て非常に喜んでおられ、それらすべてを書き留めておられるそうです。優しさに満ちた言葉、すべての通話、すべての手紙、心沈んだ人を慰めようとする、それらのすべての努力は、“記憶の書”に記されます。そして聖書は、その書に行動が記された者たちは、神様にとって愛しいものだと語っています。「わたしが備えているその日に、彼らはわたしにとって宝となると、万軍の主は言われる。」(マラキ書3:17)

霊的に沈んでいる人に、テトスのようになりなさい。傷ついた人達を探し出し、癒しを与えたオネシモのような霊が与えられる様に祈りなさい。あなたには、痛みを覚えている信者、神様があなたに特別に示された慰めを必要としている人に励ましを与えるため、天のすべての力が与えられているのです。そう、あなたを必要としている人達がいるのです。そして主はあなたの過去の慰めを持って、彼らを励ますよう意図しておられるのです。今日、誰かに電話をし、「兄弟(姉妹)、あなたを励まし、あなたのために祈りたいのです。あなたにお分かちしたい言葉があります。」と伝えて下さい。