2008年6月13日金曜日

キリストの日が近づいている

パウロは「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。」(第二テサロニケへの手紙2:1-2)

あざける者たちは、「ほら、初代教会の誰かがキリストがすぐに来るというニュースを持って、信者たちを動揺させた。そしてパウロは『いや、心配しなくても良い。このことによって心配したり悩んだりしないように』と言ったではないか。」と指摘します。

しかし、それはギリシア語の原文が語っていることではありません。原形は「(動揺してはなりません)主の日が既に来てしまったかのように」です。すなわち、テサロニケの人々が動揺していたのは、キリストが既に来てしまって、彼らはそれを見逃したと思ってしまっていたからです。パウロは次の節で、彼らを安心させるためにこう語っています。「だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法な者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。」(2:3)パウロが「心配しなくても良い、まず二つの事が起こらなければいけないのだから」と言ったのは、彼らの不安を案じていたからです。

では、パウロの再臨に対する基本的な神学とは、一体どの様なものだったでしょうか。それは二箇所で見ることが出来ます。「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。」(ローマ人への手紙13:11-12)「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」(フィリピ人への手紙4:5)パウロはこう叫んでいます、「目を覚ましなさい!すでに深夜を回っています。主が来られる時が近づいています。だから起きなさい。怠惰になっていてはいけません。イエス様は、彼を待つ人達の元に来られるのです。」

疑い深い人達は、「でもパウロが言った言葉はどうなのか。彼はキリストが戻るまでに、まず二つのことが起こらなければならないと言っていた。一つ目は大きな背信が起こるということ。そして二つ目は反キリストが来て、自分こそが神だと宣言すること。反キリストが神殿に座り、人々に彼を礼拝するよう強制するのを見てからでないと、キリストは来ないはずだ。」

まず、世界中の人々の心を捕らえている背信に気付かないとは、故意に目をふさいでいるとしか思えません。国々で不信仰が広がり、いたる所で信者が信仰からこぼれ落ちてしまっています。パウロが語っている背信は、確実に始まっています。

ある人は「パウロは、反キリストが権力に就くまでキリストは来ないと言った」と言うかも知れません。聖書がこう語っているのを考えてみて下さい。「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者ではなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。」(第一ヨハネ2:22)ヨハネによると、御父と御子を否定するものは誰でも反キリストなのです。さらに彼はその様な者が増えているのが、私たちが終わりの日に生きているという証拠である、と言っています。もはや、キリストの再臨を留めているものは、何もないのです!