2008年6月3日火曜日

神様の関心の中心

世界中のすべてが揺れ動いている中、神様の関心はどこにおかれているのでしょうか。中近東での出来事でしょうか。いいえ、聖書は神様の視線が、神様の子ども達の上に注がれていることを教えてくれます。「見よ、主は御目を注がれる、主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。」(詩編33:18)

私たちの主は、この地上で起こっているすべてのこと、すべての生き物の動きの一つひとつをご存知です。それでも主のまなざしは、まず彼の子ども達に注がれているのです。主は霊の体のメンバーである一人ひとりの痛みや必要を見つめていらっしゃいます。簡単に言うならば、私たちを苦しめるものが、神様の関心の中心ということです。

それを証明するために、イエス様はこうおっしゃっています。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)世界中で大きな争いが起こっていても、神様の関心の中心は暴君たちに置かれていません。神様の関心の中心は、その子どもたちが置かれている一つひとつの状況です。

キリストは、すぐその後の箇所でこう言っています。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」(マタイ10:29)キリストの時代では、雀は貧しい人達の食肉として、二羽約一円で売られていました。しかしイエス様は、「こんな小さな生き物でさえ、あなたがたの父が知らずに地に落ちることはない。」と言われたのです。

この箇所でイエス様が使われた「落ちる」という言葉には、鳥の死よりもさらに大きな意味が含まれています。アラム語での意味は「地面に降りて止まる」となります。すなわち、この「落ちる」という言葉は、一羽の小さな鳥による小さな動きの一つひとつを表します。

キリストは私たちに、こう語っておられます。「あなたがたの父の御目は、雀が死ぬ時だけではなく、それが地面に降り立った時でさえ、その雀の上に注がれています。雀が徐々に飛び方を学ぶにつれ、それは巣から降り立ち、地面の上でちゅんちゅん飛び跳ねます。神様はその小さな努力の一つひとつを見ておられるのです。雀の生涯に起こることすべてに関心を持っておられるのです。」

そしてイエス様はこう続けられます。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(10:31)実に彼は、「髪の毛までも一本残らず数えられている」とおっしゃっています(10:30)すなわち、星を創られそれを数えられた方は、ローマ王国の動きのすべてを見守られた方は、銀河系をその軌道の内にとどめられる方は、あなたの上にその御目を注がれているのです。そしてイエス様は尋ねられます、「あなたは彼にとって、さらに価値のあるものではないですか」と。