2008年6月4日水曜日

平安と聖霊

イエス様は、一体誰に彼の平和を授けているでしょうか。あなたは「私はキリストの平和の内に生きる価値はない。私の人生は苦難で満ちていて、私の信仰は弱すぎる。」と思っているかも知れません。

イエス様が彼の平和を与えた最初の人達のことを考えてみると良いでしょう。彼らは平和を受ける価値があった訳でも、平和を受ける権利があった訳でもありませんでした。

ペテロのことを考えてみて下さい。イエス様は彼の平和を、その後すぐに彼をののしった福音の僕に授けようとされました。ペテロは熱狂的にキリストを愛していましたが、同時にそのキリストを知らないと言ったのです。

またヤコブとその兄弟のヨハネはどうでしょう。彼らは競争心が激しく、いつも評価を受けることを求めていました。彼らはイエス様が天に昇られ栄光の御座に着く時、その右と左に座らせて欲しいと願い出ました。

その他の弟子達も、決して彼らより正しかった訳ではありません。彼らは自分達より上に立とうとしたヤコブとヨハネに向かって怒りを煮え立たせました。そしてトーマスは疑いに負けてしまった神の人でした。弟子達の信仰のなさに、イエス様はただ驚きとストレスを感じられました。事実、キリストが最大の苦しみにあった時、彼らは全員キリストを裏切って逃げ出してしまいました。復活の後「イエス様が甦られた」といううわさが広がっていたにも関わらず、弟子達はなかなかそれを信じようとしませんでした。

しかしこれだけではありません。多くの人達は混乱していました。彼らは主の道を理解せず、イエス様が語られたたとえ話によって、困惑していたのです。イエス様が十字架にかかられた後、彼らは団結力を失い、四方八方へと散らばってしまいました。

何という光景だったでしょう。彼らは恐れ、疑い、不一致、悲しみ、混乱、ライバル意識、プライドに満ちていたのです。しかしイエス様が「わたしの平和を授ける」と言われたのは、同じこの悩める僕たちに対してだったのです。

弟子達は、彼らが正しい人だったり、良い人だったりしたから選ばれたのではありません。それは非常に明らかです。また、彼らが優秀だったり、特別な才能を持っていたりしたから選ばれたわけでもありません。彼らは漁師や、日雇い労働者で、地位の低く、意気地のない人達でした。ただキリストは、そんな彼らの心に何かを見出したので、彼らを弟子へと召し出したのです。彼らを見つめられた時、キリストは、彼らがそれぞれ聖霊に服従する者達だということをご存知だったのです。

この時点で弟子達が持っていたもの、それはキリストの平和が与えられるという約束だけでした。その約束の成就は、五旬祭まで待たねばなりませんでした。その時になって初めて聖霊が降り、彼らの内に住まわれたのです。この平安は、御霊が私たちにキリストを明らかにする時やって来ます。あなたがイエス様を求めれば求めるほど、御霊はあなたに彼を示されます。そしてそれに伴って、キリストの真の平安があなたに与えられるでしょう。