2009年8月19日水曜日

高ぶりと御霊の声

先ず高ぶりと謙遜を分けましょう。
 
謙った人は自分の事をかえりみない、ただ「私はなんでもない」と言う人ではありません。返って、その人は主に全てを、全ての状況で委ねる人のことです。彼は主が導き、希望を与え力付ける事と主の導き無しでは死んだ 者である事を知っています。
 
高 ぶったひとは、反対に、ある面では神を愛することもできますが、彼は自分で考え行動します。高ぶりの根は、神から離れ一人立ちすることであり、高ぶった人 は自分の論理、技術と能力に基づいて判断をします。彼は「神は私によき心与えたから、神はそれを使う事を期待している。神に全ての些細な事まで訊くのは愚 かである」と言うでしょう。
 
こんな人は教える事ができません。何故なら彼は「全てを知っている」からです。彼は地位が高かったり、知識があると見たら聞くかもも知りませんが、彼が自分よりしたと思う人にはそうしません。
 
神 から高ぶる人は一語とも受けられないでしょう。彼は正しい、義なる判断をする事もできませんし、神の御心を語る事も不可能でしょう。何故なら、聖霊が彼に 真実を証しできないからです。「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。」(箴言14:12)
 
高ぶりは自己完結です。謙遜はより頼みです。謙ったクリスチャンは主からの助け無しでは何の行動も、判断もしません。聖書は義人の歩みは主によって導かれるといっています。しかし主は自己完結の魂を導く事ができません。神は全てを治めたいのです。神に委ねて下さい。
 
「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。」(ヤコブ4:5)