2008年7月1日火曜日

御国へのたった一つの道

泣き落とすことで天国には入れません。勉強によっても、行いによっても、意志の力によっても入ることは出来ません。御座への唯一の道は、生けるいけにえとなることです。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ人への手紙12:1)

パウロは自分の経験から語っているのです。彼は拒絶され、試みに遭い、迫害を受け、打たれ、投獄され、難船し、投石されました。またパウロは教会に対する心配を、一身に背負っていました。それでも彼は、「私はどんな状況にあっても、満足することが出来ます。」と証言したのです。

彼は私たちにこう語っています。「私がどうやって御国への道に関する知識を得たか知りたいですか?どうやってどんな境遇に遭っても満足することを、またキリストにある真の憩いを見つけたかを知りたいですか?これがその方法、天国に自分の場所を確保する秘訣です。自分の体を主に、生けるいけにえとして献げること。自分の思いを献げ尽くすことによってのみ、満足することが出来るのです。」

ここで使われている“生ける”という言葉は、ギリシア語の語源では「一生の」という意味があります。パウロは、献身することの契約、一生に一度のいけにえのことを語っているのです。しかし誤解しないで下さい。このいけにえは、罪をなだめるためのいけにえとは異なります。十字架の上でのキリストのいけにえだけが、唯一なだめに値するいけにえなのです。「実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」(ヘブル人への手紙9:26) 

パウロは異なる種類のいけにえについて語っているのです。間違えないで下さい。神様は旧約聖書に記されている、人間の手によるいけにえをお喜びにはなりません。ヘブル人への手紙にこう書かれています。「あなたは、焼き尽くす献げ物や、罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。」(10:6)なぜこれらのいけにえは、主に喜ばれるものでなかったのでしょう。簡単に言うなら、それらは別段、心を要求するものではなかったからです。

パウロが語るいけにえとは、心を必要とするからこそ、神様が大いに喜ばれるものなのです。そのいけにえとは何でしょう。それは、自分の思いに死に、自分の力に頼ることを止め、野望を捨てることです。

パウロが「あなたの体を献げなさい」と強く勧めるのは、「主に近づきなさい」と言っていることなのです。しかしそれは一体何を意味しているのでしょう。それは、私たちのすべてを献げるために、神様に近づくということを意味しています。自分の力や能力で近づくのではなく、復活させていただいた子どもとして、キリストの義の内に清められた者として、キリストとの関係により、御父に受け入れられた者として、神様に近づくのです。自分の主権を譲り渡す瞬間、そのいけにえは献げられます。あなたが自分の力で神様を喜ばせようとするのを諦める時、それは起こります。この信仰による行いこそ、パウロが“なすべき礼拝”と呼んでいるものです。それは、私たちの思いを完全に神様に委ね、神様が私たちに必要なすべての祝福を備えて下さると信じきることです。