2008年7月11日金曜日

暗闇に打ち勝つ

闇に打ち勝ち、闇を追い払うことが出来るのは、ただ一つ。それは光です。イザヤはこう宣言しました。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ書9:1)同様に、ヨハネもこう述べています。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネによる福音書1:5)

光は理解を表します。私たちが「光が射した」と言う時、「やっと理解出来た」と言っているのと同じことです。聖書が語っていることが、分かりますか。主は、勝ち誇る悪を見るためではなく、新たな啓示を得るために、私たちの目を開こうとされているのです。神様は、地獄のすべての力に勝る力を持つ聖霊を、私たちに遣わして下さいました。「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」(第一ヨハネの手紙4:4)

黙示録には、地獄が偉大な力を持つイナゴやサソリを送り出す様が記されています。また竜、獣、角を持った生き物、そして反キリストのことも記されています。しかし、私たちはこの様な生き物が何を意味するのか、理解出来ません。それは、理解する必要がないからです。私たちは、反キリストのことや、獣の印のことなど、心配する必要がないのです。

私たちの内には、全能なる神様の霊と、キリスト御自身が生きておられます。パウロは、聖霊の力が私たちの内に働いていると宣言しています。要するに、聖霊は今この瞬間、私たちの内に生きておられるということです。

では困難に直面する時、一体どの様に聖霊は私たちの内に働いて下さるのでしょう。聖霊の力は、私たちが聖霊を“重荷を取り去って下さる方”として受け入れる時にのみ、働かれるのです。 私たちの心配や不安を取り去るという役目のためにこそ、聖霊は私たちに与えられているのです。ですから、もし私たちが心配を聖霊に明け渡さないなら、なぜ聖霊を受け入れたと言えるでしょうか。

聖霊は栄光の中に留まられず、この場所で、私たちの最中におられます。そして聖霊は、私たちの苦悩を含めた人生のすべてにおいて、不安を取り去ろうと待っておられるのです。ですから、もし私たちが絶望、疑い、不安、恐れを持ち続けるなら、私たちは聖霊を慰め主、助け主、指導者、力の源として受け入れていないということです。

すべての重荷を聖霊に明け渡したクリスチャンこそ、世に対する証し者となります。テサロニケの人々の様に、信仰者は困難に囲まれても、主の喜びを楽しむことが出来ます。その人は神様の霊がその人を慰め、困難から導き出して下さると信じています。その人は暗闇にあっても喜びを表すことが出来るので、その人はさまよう世に対して、力強い証しをすることが出来ます。その人の人生は、世に対して、「この人は光を見た」と証しします。