2008年7月17日木曜日

絶望を越えて

私たちの人生において、人の目に全く絶望的な状況が訪れる時があります。どんなカウンセラーも、医者も、薬も、何も役に立ちません。全くもって不可能な状況におかれてしまうのです。奇跡でも起きない限り、最悪の終末を迎えることになります。

その様な時、残された最後の希望は、誰かがイエス様へと導いてくれることです。それが父であろうが、母であろうが、自分の子どもであろうが、関係ありません。誰であったとしても、その人はイエス様と連絡を取る責任があります。「私は主からの御声を聞くまで、何としても去りません。主は私に『その問題は片付いた。行きなさい』と言われるまでは。」

ヨハネによる福音書で、正にこのような状況にある家族の話が記されています。「カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。」(4:46)この家族は特別な階級にあった人達、ともすれば王家の人達であったかもしれません。しかし、両親が死にそうになっている息子の看病をしている時、死の霊がその家族に襲ったのです。家には叔父、叔母、祖父母、他の子どもたちなど、他に家族もいたかもしれません。聖書は、僕も含めて家族全員が信仰者であったと記しています。「彼(父親)もその家族もこぞって信じた。」(4:53)

困難にあったこの家族の内の誰かがイエス様のことを知っていて、その奇跡の力について聞いたことがあったのでしょう。そしてどうやってか、キリストが約40キロ離れたカナの地にいるということが、その家族の耳に入ったのです。聖書には、父親自身が主に会いにやって来た、と書かれています。「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行った。」(4:47)

この高貴な人は、強い意志を持ち、イエス様のもとへたどり着いたのです。聖書は彼が「イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。」と記しています。(4:47)何という素晴らしい執り成しの姿勢でしょう。この人はすべてを放り出して、ただ主の御声を受け取るためにやって来たのです。

キリストはこう答えました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」(4:48)イエス様は、この言葉によって何を言わんとされたのでしょうか。イエス様はこの男性に、奇跡的な救いが最も緊急の必要ではない、と伝えたかったのです。そうではなく、一番の問題は、この男性の信仰だったのです。考えてみてください。キリストはこの男性の家に行き、彼の死にかかっている息子の上に手を置き、癒すことが出来ました。しかしそれではこの家族にとって、イエス様はただ奇跡を行って下さった方だけで終わってしまいます。

キリストは彼とその家族に、さらに大きなものを望んでおられました。彼らがキリストを生ける神であると信じるようになって欲しかったのです。イエス様がその男性に言われたこと、それは「あなたがこの必要のために求めているのは、実は神御自身なのだということを信じますか。わたしがキリスト、すなわち世界の救世主であると信じますか。」ということなのです。それに対して男性は、「主よ、子どもが死なないうちに、おいでください」と答えました。(4:49)その時点で、イエス様はこの男性の内に信仰を見出されました。それはまるでイエス様が、「彼はわたしが肉となった神であると信じた」と言われたかのようです。なぜなら次の節にこう記されているからです。「イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』」(4:50)