2008年7月14日月曜日

神様の喜び

神様は民を愛しておられるだけではなく、私たち一人ひとりに喜びを見出して下さいます。神様は私たちに、大きな喜びを感じて下さいます。事実、神様は私たちを守り、救いだすことで幸せになるのです。

私はこの様な親の愛を、孫からの電話に出る時の私の妻、グエンに見ます。孫と電話で話す時のグエンの顔は、クリスマスツリーの様にパッと輝きます。そんな時の彼女を、電話から引き離すことは不可能です。たとえ「大統領が玄関にいらっしゃった」と言ったとしても、おそらく彼女は私を追い払って、会話を続けるでしょう。

どうやって、天の父が私に喜びを感じて下さるよりも、私の方が自分の子どもたちに喜びを感じていると、神様を責めることが出来るでしょうか。時に私の子どもたちは、私の教えと正反対のことをして私を落胆させました。しかし、たった一度でさえ、私は子どもたちを愛することを止めたり、子どもたちに喜びを感じなくなったりすることはありませんでした。ですから、もし完璧ではない父親である私が、この様な永続的な愛を持つことが出来るなら、いかに天のお父様は、彼の子どもである私たちに、さらに大きな愛を持って下さるでしょう。

ヨシュアとカレブは、イスラエルの民の最中に立ち、こう叫びました。「もし、主が私たちに喜びを見出してくださるなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。」(民数記14:8)何と単純でありながら、力強い宣言でしょうか。彼らは、「私たちの主は、私たちを愛し、喜びを見出して下さる。そして神様は、私たちのために、すべての巨人を打ち倒される。だから、私たちは障害物に目を向けてはなりません。私たちは、ただ主の愛に目を向けるべきなのです。」と言い切ったのです。

聖書のあらゆる所で、神様がいかに私たちに喜びを見出して下さるかが記されています。「(主は)完全な道を歩む人を喜ばれる。」(箴言11:20)「主は・・・正しい人の祈りを喜び迎えられる。」(箴言15:8)「敵は力があり、私を憎む者は勝ち誇っているが、(中略)主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる。」 (詩編18:17~19)

神様が私たちを愛しておられ、私たちに喜びを見出して下さると信じることは、絶対に必要なことです。そうすることで、たとえどんな状況におかれようと、それは私たちを愛される主の御心なのだと、最終的に納得し、受け入れることが出来ようになるでしょう。また荒れ野での学びから抜け出し、イエス様の愛に満ちた御腕の中に入ることが出来ます。そして主は私たちの悲しみを、喜びへと変えて下さいます。