2008年7月28日月曜日

神様の友

神様が、御自身とアブラハムとの関係をどの様に表されたか、見てみましょう。「わたしの愛する友アブラハム」(イザヤ書41:8)同様に新約聖書にも、こう記されています「アブラハムは神を信じた。(中略)彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブの手紙2:23)

神様の友と呼ばれるとは、何という賞賛でしょうか。多くのクリスチャンは、「慈しみ深き友なるイエスは」という賛美歌を歌ったことがあることでしょう。これらの御言葉は、私たちに偉大なる真実を力強く物語っています。全宇宙の創造主が、人を友と呼ばれるとは、人知を超えた考えです。しかしそれはアブラハムとの関係で証明されました。それは彼が、神様と非常に親しい仲にあったことを表しています。

イザヤが用いた友という言葉はヘブル語で、愛情と親密さを表します。ヤコブが用いた友という言葉はギリシャ語で、親愛なる、身近な仲間という意味があります。どちらも、深く対等な親友関係を意味します。

私たちがキリストに近づく毎に、彼の臨在の中に住み続けたいという願いが深まります。さらに、イエス様が、私たちの唯一真の土台であるということが明確化されます。

聖書はアブラハムが「神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を切望していた」と記しています。(ヘブル人への手紙11:10)アブラハムは、彼の人生の中で永遠に続くものは何もないと知っていました。聖書はこの世が彼にとって、「奇妙な地」であったと記しています。そこは土台を築くべきではない所です。アブラハムが切望していた天の都は、実在する場所ではありません。むしろそれは、天の父と共に住まうことを表わしています。「天の都」という言葉はヘブル語で“Pater”と言います。そしてその語源は「父」という言葉から来ています。ですから、アブラハムが切望していた天の都は、文字通り「父といる場所」ということになります。

一方で、アブラハムは神秘的な存在だった訳ではありません。彼は霊的なかすみに生き、清い空気を食物としていた修道僧ではありませんでした。彼はこの世の出来事に深く関わり、地上での人生を送りました。彼は幾千もの家畜を持ち、小さな軍を形成出来るほどの奴隷を持っていました。これだけの奴隷を扱い、牛や羊やヤギ等の家畜の売買をしていたアブラハムは、忙しい人だったに違いありません。

しかしどうやってか、この多くの仕事と責任の最中で、アブラハムは神様との親密な時間を見つけ出しました。