2008年10月27日月曜日

御手に記されたあなたの名前

私達には祈りによって、素晴らしい権威が与えられています。では実際、一体どの様にして、この権威を用いるべきなのでしょうか。それは、キリストの御名を通してです。私達がイエス様の内に信仰を持った時、イエス様は私達に、御自身の御名を与えてくださいました。イエス様のいけにえによって、「私はキリストのものです。私は彼の内にいます。彼と一つとされています」と言う事が出来る様になりました。すると素晴らしいことに、イエス様が私達の名前を手にしてくださったのです。大祭司として、イエス様は私達の名前を、その御手に記されました。ですから私達の名前は、イエス様の御名の下で、天に登録されているのです。

「キリストの御名によって」という言葉が、単に重要な方程式ではないということが、分かっていただけるでしょう。そうではなく、文字通りそれが私達の立場を示しているのです。そしてその立場は、天のお父様によって承認されています。イエス様はこう言われています。「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」(ヨハネによる福音書16:26~27)

ここに、何故イエス様が私達に、彼の御名によって祈る様、命じられたかが記されています。「あなたがわたしの名によって願うなら、その願いは、わたしが父にお願いするのと同じ力と影響が与えられる。」言い換えるならば、私達の祈りが、御父の御座の前でイエス様の口から発せられたものと見なされる、ということです。同様に、私達が病む者の上に手を置いて祈るのならば、神様はそれを、イエス様が癒しをもたらすために、その人に手を置いているのだと見なされるということです。

これはまた、何故私達が恵みの御座に、大胆に近づくべきかを示しています。それは、受け取るためです。私達は確信を持って、「天のお父様、私は出て行き実を結ぶよう、キリストの内に選ばれた者として、御前に立っています。今、私の喜びが満ち溢れるよう、大胆に願いを申し上げます」と祈るべきなのです。

私は多くのクリスチャン達が「イエス様の御名によってお祈りしたのに、聞かれなかった」と言うのを耳にします。この人達は、「イエス様の御名による力を宣言しようとしたのに、うまくいかなかった」と語っています。私達の祈りが聞かれない理由は、たくさんあります。私達が罪を犯すことで、キリストとの交わりが汚されてしまいます。それは、神様からの祝福をせき止めてしまう、障害となります。そして私達がそれらの罪を取り除くまで、神様は私達の祈りに答えられません。

または、神様に対する私達の生温さや、中途半端な態度が障害となっているかも知れません。疑いによって、キリストの力が私達の内に流れ込むのを止めているかも知れません。ヤコブはこう警告しています。「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。」(ヤコブの手紙1:6~7)

ヤコブは明確に語っています、「揺れ動くものは、神様から何も受け取ることが出来ない」と。ここでヤコブが使っている、「揺れ動く」という言葉は、“決断していない”という意味があります。事実、この様な人達が神様にお願いをする時、彼らは神様を試しているのです。心の中で彼らは、「主よ、もし答えてくださるなら、あなたに従います。この祈りに答えてくださるなら、あなたにすべてを捧げます。でももし答えてくださらないなら、自分のやり方で生きていきます」と。

しかし神様は、下心のある取り引きをなされません。神様は私達の心を御存知で、御子に対しての決心がついているか否か、お見通しなのです。神様は、キリストにすべてを委ねた者のために、キリストの内にある力を取っておかれます。