2008年10月6日月曜日

確固たる神様の愛

今日は「確固たる」という言葉について、お話したいと思います。この言葉は、努力や強度が衰えないこと、頑固であること、妥協しないこと、議論によって変わったり、説得されたりすることが出来ないこと、などを意味します。確固たること、それは定められた針路に固執することです。

これは神様の愛を示すのに、何と素晴らしい表現でしょうか。私達の主の愛は、確固たるものです。神様が、愛のうちに罪人も聖徒も追い求められるのを、妨げたり、縮小したり出来るものは何もありません。多くの詩篇の著者であるダビデは、こう記しています。「(あなたは)前からも後ろからもわたしを囲まれます。どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。」(詩篇139:5、7~8)

ダビデは私達が経験する、人生の山と谷のことを語っているのです。彼は、「時に私は祝福に満ち、喜びで心が弾むのを感じます。しかしある時は、自分の罪深さと価値のなさを感じ、地獄に住んでいるかの様に感じます。けれど、私がどこにいても、どれだけ祝福を感じていようと、状況が悪くあっても、主よ、あなたはそこにいらっしゃいます。私はあなたの確固たる愛から逃れることは出来ません。その愛を追い払うことも出来ません。あなたは私の自己評価の低さについて、決して私の主張を受け入れられません。私が不従順である時、あなたの真理に対し罪を犯し、あなたの恵みを当然の様に受ける時でさえ、あなたは決して、私を愛されることを止められません。私に対するあなたの愛は、正に確固たるものであります」と言っているのです。

パウロの証しを見てみる必要があります。パウロの人生について読む時、私達は神様の教会を打ち砕くのに躍起になっていた人を見ます。パウロは、クリスチャンに対する憎悪で、狂人の様になっていました。彼は、イエス様に従う者には誰でも、虐殺の脅しを吹きかけていました。彼は、信者の家に押し入り、牢屋に引きずり出すことが出来るよう、信者を狩り立てる許可を大祭司に求めました。

改心してからパウロは、彼が憎悪に満ちていた年月でさえ―偏見に満ち、キリストの弟子達を盲目的に狩り立てていた時でさえ―神様は彼を愛していてくださったと証ししています。彼はこう記しています、「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ人への手紙5:8)根本的に彼が伝えたいこと、それは「私は気付いていなかったけれど、神様は私を追い求めて下さっていました。神様は、私を馬から打ち倒されたその日まで、ずっと愛のうちに私を求め続けておられたのです。これこそが、確固たる神様の愛です」ということです。

年月を通しパウロは、人生の山にあっても、谷にあっても、神様が彼を最後まで熱烈に愛してくださるという確信を、徐々に深めていきました。彼はこう記しています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ人への手紙8:38~39)彼は、「今や私は神様のものであるので、何ものも、私を神様の愛から引き離すことは出来ません。悪霊も、悪魔も、権威も、人も、天使も、どんなものも、神様の私への愛を止めることは出来ないのです」と宣言しています。