2010年7月20日火曜日

異なるタイプの僕達

旧約聖書に記されている信仰に満ちた人の偉業を読む時、私の心は燃やされます。この神の僕達は、神様の御名に対して重荷を持ち、今日のクリスチャン の多くが驚きを覚える様な、力ある業の数々を成し遂げました。

旧約時代に生きたこの聖徒らは、神様の御言葉なしに進むことを岩の様に固く拒絶しました。そして彼らは神様の宮の堕落に対し、幾日にも亘って涙を流 し嘆きました。彼らは食べることも、飲むことも、体を洗うことも拒否しました。頭から髪の毛の束を、またヒゲを引き抜きました。予言者エレミアは、365 日もの間、神様の来るべき裁きを警告し続け、エルサレムの街角で身を横たえました。

この聖徒達は、一体どこからその霊的な権力とスタミナを得ていたのでしょうか。彼らは全く異なる種類の人達、今日の教会で見られる僕達とは全く異な るタイプの僕達だったのです。私は自分を彼らと、又彼らの歩み方と比較することは出来ません。私は完全に彼らの様な者には、なれていません。実際、彼らの 様な人は、誰一人として知りません。

このことは、私の心を乱します。聖書はこれらの旧約時代の僕達が行った偉業は、私達の教訓として記されている、と語っています。「これらのことは前 例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」(第一コリント人への手紙 10:11)彼らの話は前例として、いかに神様の心を動かすか、またいかに堕落した人々を悔い改めに導くかを示すために記されているのです。

では、この聖徒達は特別な人種だったのでしょうか。彼らは、はっきり心に決めた宿命を抱き、私達の時代では見られない超自然的な力を受けた、スー パーマンの様な人達だったのでしょうか。全くそうではありません。聖書は、彼らがいかに私や皆さんと全く同じ様に、肉による熱情に悩まされていたかを記し ています。(ヤコブによる手紙5:17参照)事実、彼らの前例は、私達が従うべき模範となってくれています。彼らには、神様の働きを促す様な性質がありま した。だからこそ神様は、彼らを用いて御業を成そうとされたのです。そして神様は今日私達にも、彼らと同じ性質を求める様、促しておられます。

エズラは国家全体を目覚めさせた、信仰に満ちた神の人でした。聖書は、神様がエズラの上に御手を置かれたと語っています。エズラはこう証ししていま す。「わたしは、わが神なる主の御手の加護によって勇気を得た。」(エズラ記7:28)言い換えるならば、神様は御手を伸ばされ、エズラを抱き、彼を異な る者へと変えられたということです。

神様は何故、エズラに対してこうなされたのでしょうか。当時のイスラエルには、何百人という書記官がいました。彼らは全員、神様の御言葉を学び、人 々にそれを説明するという、同じ召しを受けていました。何がエズラを、他の書記官とは異なる者にしていたのでしょうか。何が主に、この僕の上に御手を置く 様、そしてエルサレム再建の為に、彼を5万人の頂点に立たせる様、導かれたのでしょうか。

聖書はその答えを記しています。「エズラは主の律法を研究して実行し、イスラエルに掟と法を教えることに専念した。」(エズラ記7:10)答えは簡 単です。エズラは自分で決断したのです。彼は何事よりも、ただ神様の御言葉を求め、それに従おうと決心しました。そしてその決断からそれることがありませ んでした。彼は自分自身にこう言い聞かせたのです、「私は御言葉の弟子となる。読むものすべてを実行に移すのだ」と。

神様がエズラの上に御手を置かれる前から、彼は御言葉を求めることに熱心でした。彼は御言葉が自分を探り、洗い出し、すべての肉と霊の汚れから清め るままに委ねました。エズラは飢え渇いて御言葉を求め、そこに喜びを見いだしました。彼は御言葉が、神様の選ばれたどんな召しにも答えられる様、彼の心を 整えられるままに委ねました。だからこそ、神様は彼の上に御手を置かれ、彼に油を注がれたのです。