2010年9月8日水曜日

栄光のうちに歩む

困難の時を受け入れ難くさせている理由の一つは、神様の栄光に関する理解にあります。あなたは「その様なことは非常に崇高で、神学 者に任せた方が良い題材だ」と思われるかも知れません。しかし神様の栄光は、すべての信者にとって、非常にリアルで実践的な価値を持っていると、私は確信 しています。それを理解することによって、人生に打ち勝つ扉の鍵を開け放つことが出来ます。

神様の栄光は、主の存在と神性を現すものです。旧約聖書でモーセが神様の栄光を垣間見たことを、覚えておられるかも知れません。それまで、主は「わ たしはある」という言葉の他、御自身について何も語られずにモーセを遣わされました。しかしモーセは、神様についてもっと知りたいと願いました。ですから 彼は、「主よ、あなたの栄光を見させて下さい」と主に請うたのです。

神様はモーセを岩の隙間に隠すことで、この要求に応えました。そして聖書は、神様がモーセに御自身の栄光のすべてを現された、と記しています。(出 エジプト記34:6〜7参照)神様は私達に、御自身の人類に対する偉大なその愛を通して、その栄光を知って欲しいと望んでおられます。そしてそれこそ、神 様がモーセに現された方法です。

この箇所は、主がどの様な方であるか、私達が理解する上での要となる箇所だと思います。神様の栄光について考える時、私達はよく、神様の尊厳や威 光、力や権力など、神様が民に対して現されているものを思い浮かべます。これらのすべては、神様の栄光を見た結果と言えるでしょう。しかし、それらは神様 が私達に知っていて欲しいと望まれる、神様の栄光の姿ではないのです。主は、私達にその愛を示し、私達を赦し、憐れみを注ぎ、御自身と和解させることを、 永遠に待ち望んでおられるのです。

神様の栄光の現れは、それを受ける者や、その理解を祈り求める者に対して、非常に強い影響をもたらします。その時までモーセは、主を「律法と怒りの 神」としてしか見ていませんでした。彼は主の臨在にあって畏れに身を震わせ、イスラエルのために主に泣き叫び、請い求めました。これが彼にとっての、主と の関係の土台となっていました。

しかし神様の栄光を垣間見た今、モーセの主に対する恐れは消え去りました。その代わり、主を礼拝する様に、心動かされたのです。「モーセは急いで地 にひざまずき、ひれ伏した。」(出エジプト記34:8)彼は神様が、ただ彼を震え上がらせる恐ろしい雷や稲妻の様な方ではないと知ったのです。実際はその 反対で、神様は愛であり、その神性は憐れみと優しさに満ちたものだったと気付いたのです。

ここで聖書が示している、素晴らしい真理を理解することが出来ますか。真の礼拝は、何の見返りも顧みない、神様の私達への愛によって揺り動かされた 心から、湧き上がってくるものなのです。それは神様が御自身を、その良さを、憐れみを、赦しを、私達に与えてくださるのだ、という悟りに基づいています。 ですからもし私達が神様を、霊と真とによって礼拝するのなら、私達の礼拝は、この素晴らしい真実に基づくものでなければなりません。

神様の栄光を受け取ったなら、私達の礼拝は絶対に変わります。何故でしょうか。それは神様の栄光を見ることで、私達の生き方が変わるからです。それ は私達の態度や行動に影響をもたらし、私達を「栄光から栄光」へと造り変えて、さらに主に似る者としてくださいます。神様の愛と憐れみが現されるその度 に、それは私達に、超自然的な変化をもたらすのです。