2010年8月23日月曜日

依り頼む心

詩編の著者は、こう記しています。「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。」(詩編22:4〜5)

「依り頼む」というヘブル語の語源は“絶壁から自分自身を放り投げる”ということを示唆します。それはまるで、子どもが垂木に登ってはみたものの、 降りられなくなった光景のようです。その子は父親が「飛び降りなさい」と言う声を聞き、言われるままに、父の腕の中に飛び込みます。あなたは今、この様な 状況におられますか。絶壁に立ち、ぐらつき、イエス様の御腕に飛び込むしか選択はない、という状態ですか。ただ諦めてしまうことは、依り頼むことと違いま す。それは単なる運命論でしかありません。依り頼むことと、受け身で観念することとは、大きく異なります。依り頼むとは、能動的に信じることです。

私達がイエス様を強く求めれば求める程、私達はしっかりとイエス様に依り頼むことが出来ます。人生において、イエス様が全体的な構図を捉えておられ ず、自分が主権を握っていた方が良いと思えてしまい、イエス様に依り頼むことが出来ないことがあるかも知れません。しかしイエス様に近づき、もっと彼を知 ることで、その考えは変わるでしょう。命綱の端っこにしがみつき、どうしても助けが必要な時だけイエス様に近づくのではなく、常にイエス様と共に歩むこと で、待ち受ける試練を警告してくださる御声が聞こえるようになります。

依り頼む心は、常に「私の歩みのすべては、主によって定められています。主こそ私の愛する父であり、私が苦しみや試練を通るのを許されます。しかし それは、決して私が耐えられないものではありません。神様がいつも逃げ道を備えてくださるからです。主は私に、永遠の御計画と使命を持っていてくださいま す。私の髪の毛の数を御存知で、私を母の胎にて形作ってくださいました。神様は私が座るのも、立つのも、横になるのも御存知です。私を目に入れても痛くな い者として見てくださるからです。主こそ神であられます。私の神であるだけではなく、私に訪れる、すべてのことやものの神様でもあられます」と言います。

また完全な心とは、砕かれた心です。

詩編の著者であるダビデは、こう語っています。「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。」(詩編34:18)

砕かれた心とは、単に嘆き悲しんだり、押しつぶされたり、謙遜したりする心ではありません。真に砕かれた心は、神様が人間に与えてくださっている、 最も素晴らしい力を解き放つことが出来ます。それは死人を甦らせることよりも、病人を癒すことよりも、さらに素晴らしい力です。私達が神様の御前で本当に 心砕かれるなら、廃虚を建て直し、神様に特別な栄光と誉れをもたらすことの出来る力が与えられます。

砕かれることは、壊されたり、登ったりと、壁と関わりがあります。ダビデはエルサレムの壁を登ることと、神様の民が砕かれることとを関連づけまし た。「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。御旨のままにシオンを恵み、エルサレムの城壁を築いてください。そのときには、正しいいけにえも焼き 尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれるでしょう。」(詩編51:17〜19より抜粋)

ネヘミヤは心砕かれた者で、彼の物語は、エルサレムの壊れた城壁に関することでした。(ネヘミヤ書2:12〜15参照)夜の闇の中、ネヘミヤは砕か れた城壁を見ました。ここで使われている「砕かれた」という言葉は、ヘブル語の「シャバー」です。そしてそれは、詩編51章17節にある「砕かれた心」で 使われている言葉と同じものです。ヘブル語での意味を踏まえて言うなら、ネヘミヤの心は2つの方法で砕かれていました。一つ目は廃虚を嘆く心、そして二つ 目は再建の希望によって、心がはち切れそうになっていたことです。

真の砕かれた心とは、こういうことです。それはまず、教会や家庭の崩壊を見て嘆き、主の苦悩を感じること。この様な心は、主の御名が非難されること に、痛みを覚えます。そしてまたこの様な心は、ダビデ同様、自分自身を見つめ、恥と失敗を見つけ出します。しかし砕かれた心に関する二つ目の重要点は、希 望です。真に砕かれた心を持つ人は、神様からの「わたしは癒し、再建し、回復する。廃虚を片付け、基礎を建て始めなさい」という御声を耳にしているので す。