2008年9月18日木曜日

導き入れるために導き出された主

十字架以前は、人々が神様に近づくアクセスはありませんでした。ただ大祭司のみが、至聖所に入ることを許されていました。しかし今では、イエス様の十字架が、父の臨在への道を、私達に開いて下さいました。ただ恵みによって、神様は私達と御自身の臨在を妨げていた壁を、取り除かれました。今は神様も、放蕩息子や、様々の罪に溺れていた人間を抱きしめるため、私達の元に来ることが出来るようになりました。

イスラエルの救いの奇跡を、思い出して下さい。神様の民が、乾いた地面を渡ったのに対し、その背後で敵は、波に飲み込まれてしまいました。それは素晴らしい瞬間で、彼らは歌と、踊りと、感謝をもって、神様を大いに誉め讃えました。「私達は解放されたのだ!神様が、苦しみから救って下さった」と。

イスラエルのお話は、束縛や罪悪感から解放された、私達のことも表しています。サタンは十字架で敗北し、私達はすぐさま、その悪の手から解放されました。しかし神様の解放には、それ以上の目的があったのです。神様は、イスラエルの民が、葦の海の勝利の向こう岸で陣営を張ることを、計画されていませんでした。神様の偉大な計画は、彼らをエジプトから導き出し、神様の恵みが満ちる、カナンの地へと、導き入れることでした。簡単に言うならば、神様の心の中、神様の愛の中へと、導き入れるために導き出した、ということです。神様は、完全に御自身の恵みと憐れみに寄り頼む民を、求めていらっしゃいました。そして今日も、神様はその民に同じ願いを抱いておられます。

イスラエルの最初のテストは、そのわずか数日後にやって来ました。結局彼らは、完全に不満に満ち、不平を言うに至るのです。何故でしょうか。それは、彼らが神様の救いを経験していながら、彼らに対する神様の愛を、学び取らなかったからです。

ここに、このお話の教訓があります。神様があなたを救われることに、どれ程の喜びを覚えられるか、神様があなたと交わる時、どれ程の喜びが神様の心に湧き上がるか、いかに十字架によって、すべての壁が砕かれたか、いかにあなたの過去のすべての罪が、すでに裁かれ取り去られたか―これらすべてのことを、あなたが知るまでは、喜びと平安に入ることも、どうやって神様に仕えればよいのかも、知ることが出来ません。神様は、「わたしの臨在にある、完全なる満たしの中へと、進み入りなさい」と言っておられるのです。

多くの人々は、十字架のもたらす恵みを喜んでいます。彼らはエジプトの地から抜け出し、葦の海の向こう側、勝利に続く試みの岸に立っているのです。彼らは自由を喜び、敵を海へと沈めて下さったことに対して、神様に感謝を捧げ続けています。しかし彼らの多くは、神様がご準備されておられる、最高の恵みを見逃してしまっています。彼らは、何故神様が彼らを導き出されたか、すなわち、神様のみもとへと導き入れるために導き出されたのだ、ということに、気付いていないのです。