2008年9月16日火曜日

創造の前から召されている

使徒パウロは、神様についてこう語っています。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられました。」(第二テモテへの手紙1:9)

キリストにある人は誰でも、主から召命を受けています。そして私達は皆、同じ任務を与えられています。それは神様の御声を聞き、御言葉を宣べ伝え、人を恐れず、どのような試みにあっても、主により頼む、ということです。

事実神様は、預言者エレミヤを召命した時に、彼と同じ約束を結ばれました。(エレミヤ書1:1~10参照)エレミヤと同じ様に私達も、世に対して何を語ろうか、事前にスピーチを準備する必要はありません。神様は、必要なその時に、私達の口に御言葉を与えられると、約束して下さいました。しかしそれは、私達が神様に信頼する時に、初めて起こるのです。

パウロは、多くの人が宣教者、教師、使徒に任命されており、彼らはそのために苦しみを受けると語っています。彼は自分自身も、その内の一人として数えています。「この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのような苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。」(第二テモテへの手紙1:11~12)彼は、「神様は私に、聖なる仕事を与えて下さいました。そしてその召しの故に、私は苦しまねばなりません」と言っているのです。

聖書は、パウロが他の聖職者が過去に経験をしたことの無い程の試練を受けたと、記しています。サタンは何度も、彼を殺そうとしました。宗教家と呼ばれる人達も、彼を拒絶し、笑いものとしました。時には彼の支持者たちでさえ、打ちのめされ、裏切られたままの状態で、彼を見捨ててしまいました。

しかしパウロは、人の前で決してうろたえたりしませんでした。彼は世にあって、決して気落ちしたり、辱めを受けたりすることがありませんでした。そしてパウロは、決して燃え尽きたりしませんでした。どんな時でも、必要な時に、彼は神様から来る油注がれた御言葉を語りました。

実際パウロは、決して揺らぐことがなかったのです。彼は決して、神様に対する信頼を失いませんでした。それどころか、彼は「わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです」と証ししました。(第二テモテへの手紙1:12)彼は、「私は自分の命を完全に、主に委ね切っています。生きようとも、死のうとも、私は神様のものです」と言っています。そして彼は、若いテモテにも同じ様に生きる様、駆り立てました。「キリスト・イエスによって与えられている信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい」と。(1:13)