2008年9月17日水曜日

神様の臨在に入る大胆さ

「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル人への手紙10:19~20、 22)

キリストがカルバリの上で成された御業には、二つの面があります。一つは人間のために、そしてもう一方は神様のためにです。一つは罪人の益となり、もう一方は、神様の益となります。

私達は皆、人間側の利益についてよく知っています。キリストの十字架は、私達に罪の赦しをもたらして下さいました。私達には、すべての束縛や罪の支配にも打ち勝つことの出来る力が、与えられています。私達には、恵みと憐れみが与えられています。そしてもちろん、永遠の命の約束が与えられています。十字架は、罪と地獄の恐れから、逃げる方法を与えて下さいました。

私は、人間にこの十字架の利益を与えて下さったこと、そしてそれがもたらす素晴らしい解放を与えて下さったことについて、神様に感謝します。世界中の教会で、このことが週ごとに宣べ伝えられていることを、嬉しく思います。

しかし、十字架の利益には、私達があまり知らない、もう一つの側面があります。そしてこれは、天の父に益をもたらすものです。十字架によって可能とされた、御父の喜びについて、私達はほんの少ししか理解していません。それは放蕩息子を家に迎え入れる時に、いつでも起こる父の喜びです。

十字架を見る時、もし私達が罪の赦しだけに焦点を当てるとするならば、もしそれだけがすべての説教の目的ならば、神様が十字架に関して意図された重要な真理を、私達は見逃してしまいます。そこには、さらに深い奥義があり、それは父の喜びに関係しています。この真実は神の民に、解放よりもさらに大きなものを与えてくれます。それは自由、憩い、平和、喜びをもたらします。

私の考えでは、ほとんどのクリスチャンが赦しを請うため、必要を満たしていただくため、また祈りに答えていただくため、大胆に神様の前に進み出なさいと、教えられたことがあると思います。しかし彼らには、信仰において大胆さが足りません。それは、主と歩むことと同じくらい、重要なことです。

主は十字架によって、私達が神様に直接近づける機会が与えられたことに、大きな喜びを感じておられます。実際、歴史上で最も素晴らしい瞬間は、神殿の垂れ幕が、真っ二つに裂かれた時です。神様の聖所から人間を引き離していた垂れ幕が、真っ二つに裂かれたその日、ある素晴らしいことが起きました。その時から、人間が主の臨在に入ることが出来るようになっただけではなく。神様も人間のところに来られるようになったのです。