2008年8月21日木曜日

シミもしわもない

キリストの教会は、世から承認されたり、受け入れられたりすることがありませんでした。そして将来的にも、同じことが言えるでしょう。もしあなたがイエス様のために生きるなら、すすんで他の人から離れようとする必要はありません。彼らの方が、あなたから離れていくでしょうから。あなたがただ、イエス様のために生きようとするだけで、突然、非難を受け、拒絶され、悪魔と呼ばれることに気付くでしょう。あなたは「人々に憎まれ、また人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる」のです。(ルカによる福音書6:22)

しかしイエス様は、こう続けられます。そしてこれこそが、真の満たしへの道なのです。「自分のために命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイによる福音書16:25)言い換えると、こういうことです、「人生に意義を見つける唯一の方法は、わたしのために一切を失うことです。そうすれば、真の喜び、平安、満足感を得ることが出来るでしょう。」キリストは、私たちにこう言われます。「わたしの教会には、シミもしわもありません。だから、あなたがわたしのところに来る時、すべての罪を投げ捨てる心構えが必要なのです。わたしにすべてを明け渡し、完全に自分に、また自分勝手な野望や自我に、死ななければなりません。信仰によって、あなたはわたしと共に葬られます。しかしわたしがあなたを、新しい命へと甦らせます。」

シミもしわもないということが、何を意味するか、考えてみて下さい。皆さんもご存知の通り、シミは汚れのことです。しかししわとは、どういうことでしょう。“新しいしわ”という言葉を聞いたことがありますか。それは、「既存の考えに、新しいアイデアを付け足す」という意味です。この理解を当てはめるならば、しわとは、福音を改良しようとする人達のことを示しています。それは、完全にキリストに委ねることなしに、簡単に天国へ入る方法を手に入れようとすることです。

この種の福音が、今日の多くの教会で語られています。説教は、人々の必要を満たすことだけを目的として説かれています。イエス様の御言葉を読む時、私はこの種の福音が、うまくいかないことに気付かされます。それは、真の福音の働きを成し遂げることが出来ないからです。

誤解しないで下さい。私は神様の民に、慰めや勇気を語ることに反対している訳ではありません。主の羊飼いとして、私は正にそのために召されているのです。しかし、もし私が人々の必要を満たすことだけのために説教し、私たちのすべてを投げ出す様勧められたキリストの教えをないがしろにするならば、私たちの真の必要は、決して満たされることがありません。イエス様の御言葉は明確です。私たちの必要は、自分に死に、キリストの十字架を背負うことによって、満たされるのです。